少年付添人日誌弁護士会月報「付添人日誌」より転載したものです。
付添人日誌(14・2月号)
1 約9年ぶりの付添人
私はイソ弁時代には数件の付添人活動の経験があったものの、平成4年4月に独立してからはその相談すら皆無であった。それは、たまたま私の依頼ルートの中に、そんな少年を抱えた関係者がいなかったためか、それとも相談や依頼をする経済的余裕がない関係者ばかりだったためなのか、果たしてその理由は判らない。
正直なところ、少年事件はバリ大変だ、という思いがある。まず、限られた短期間のうちにしなければならないことが余りに多い。保護者との打合せ、鑑別所での少年らとの面会(車通勤していない私にはとても不便)、勤務先等の発掘や打ち合わせ(これは保護者の熱意と協力が不可欠)、調査官や審判官との面談、被害者との示談、各意見書の作成・・・。とくに観護措置期間満了が年末や年明け早々(私は2年連続そうなった)となると、前から予定していた他の仕事を変更してもらったり、準備書面作成は自宅で毎晩深夜までやったり、という具合に、とんでもないシワ寄せが発生する(毎日必ず我が子と5分でも遊んでやる、という我が子の「子どもの人権」を守るのが私には何よりも大事なこと)。扶助金額が私選よりはるかに低いことは大した問題ではない。ボランティアと割り切らないとやっていけないから。でもとにかく時間のやり繰りがてんてこ舞いとなる。顧問先からは「忙しそうですね」とチクリとやられる。
それでも後記の通り、付添人活動をやって、少しでも少年や保護者の明るい笑顔や「お世話になりました。有難うございました」との一言の挨拶でもあれば、とても救われる。他方で(とくに扶助でやったために、保護者負担が0円である場合)、この保護者は付添人がただで働くのが当たり前とでも思っているんじゃなかろうか?なんて思えることもあって、何のために頑張ったんだろう、と失望することもある。以上述べた感想は決して私1人だけのものじゃないのでは?当番付添人の登録をし(その意義を否定できるはずもない)、連絡が来て出動し(「あちゃー、当たってしまった」と自分を慰め)、受任について保護者に説明し (心の底では「別の弁護士に私選で頼むつもりだ」などという都合のよい言葉が出てくるのを期待しつつ)、という過程の中で、これからもっとこの当番付添人制度の改善を図っていかなければ、真の意味での拡がり、制度の充実をもたらさないのではないか、とつらつら考えているところである。
ある弁護士からは「一所懸命やればやるほど他のことをやる時間がなくなる。自分は登録をやめたよ」なんて悪魔のささやきがある中で、自分を奮い立たせながら当番の日を迎えているのが実情である。
2 Aくんの場合
平成12年12月11日(月)の当番のときに、遂に少年事件が来た。丁度その時私の事務所に弁護修習に来ていた54期の山田暁子修習生(平成13年10月に大阪で弁護士登録)は、最初の来所の時から「少年事件にぜひ力を入れたい!」と燃えていたほどで、そうなると尻ごみする訳にもいかない。少年は既に勾留に代わる観護措置を受けていて、鑑別所にて翌日面会した。バイクの2人乗りで、後部座席の少年が通行人の老女からバックをひったくった、という被疑事実であり、しかも少し前に同種事犯で保護観察となったばかりであった。少年は隻腕ながら左腕と両足でバイクを上手に乗り回せる人物であった。
少年は母子家庭で複雑な家庭事情もありながら、その母親は、長男である少年が5才のときにバスの事故でそのような障害を負わせてしまったことを心に刻み、保険会社外交員をしながら女手1つで少年とその弟達を一所懸命育ててきた。少年もそんな母親のことを尊敬し、愛情を持った家庭であることがよく判った。母親は、直ちに知人を通じて少年の勤務先探しを開始した。
でもそんな少年が、何で、同種事犯の保護観察処分の直後にまた同じことをしたの?実はそこからが私と、少年及びその母親とのバトルの始まりだった。最初はあれだけ熱心だった母親から電話がピタリと止んだ。やっと連絡がとれると、母親は「警察から余罪が17~8件あると聞いた。勤務先を見つけてもダメだと思います。もういいです」と言う(どうせ扶助によるタダだから?)。それを精一杯励まし、「お母さん、何か壁にぶつかったら、すぐにあきらめるというのではダメですよ。○○君はそんなお母さんを見ているんですよ」などと説教をし、やっと一緒に鑑別所に面会に行ってくれた。
私は少年事件を熱心にされている若手の先生方からレジメをもらうなど恥も外聞もなく教えを乞いながら、「そうか意見書って何通も書くんだ」「書証には伝聞法則の通用がないからどんどん出していいんだ」「調査官や審判官への面談のタイミングか!」等々お勉強しつつ(修習生の視線を気にしつつ)、非行の真の原因探索や審判に向けての準備をしていった。
この年の12月中旬以降というのは、たてこんだ仕事も相次ぎ、事務所の忘年会は中止にしてしまうわ、年賀状(喪中の欠礼状)のリスト指示も年末ギリギリにしてしまうわ、で、わずか2人の事務局には大変なしわ寄せをかけてしまった。
母親は少年のことを愛し、不自由な生活をさせたくない一心で精一杯仕事にも家庭での対話にも努力をしてきたし、少年もそんな母親を愛し一所懸命その期待に応えようとしてきたが、2人とも社会の壁に少しでもはねかえされれば、急に自暴自棄に近い状態となり現実に眼をそむけてしまう弱さがあることを、皮肉屋の私は率直に指摘した。あわせて、「お母さん、もう40才なんだから(私もそうだけど)体力はガクンと落ちるし、そろそろ肩の力を抜いたら?今度は息子に、『もうあたしゃしんどくなってきたから、代わりに逆におんぶしておくれ』と言ったら?」「さすが母子やね。2人とも心優しくて頑張り屋だけど、すぐヘナヘナとなりがちな所がそっくりやね」等と、一般面会室で母子を前に辛らつなことをとうとうと述べた。母親はポロポロ涙を流し、少年は差し入れの缶コーヒーの栓を開けもせずずーっとそれをもてあそんでうつむいていた。
その後弁護士面会室で少年と2人切りで面会した私は少年は「つらいです・・・」と述べた後、前回の少年審判で審判官から保護観察の処分決定を言渡された際、「五体不満足」の本を渡されたことを述べた。
「ああ!これか!!」私は(私なりに)今回の非行の原因に思い当たった。少年も母親も、少年の右腕欠損が長年の(お互いに言い出せない)母子の本当のコミュニケーションを阻害する要因であったのに、言いかえればお互いが(気をつかって)胸の内にしまいながら人生を生きてきた(母子とも、健常者と同じく生きたいと願っていた)ことなのに、審判官は「身体障害者でも、こんなに頑張っている人がいるよ。君も頑張らにゃ」などと、少年には長年にわたってわかりすぎるほどわかっていた当然のことを、「高い所」からとどめのように突きつけていたのだ。
ここの所は、実際に非行を犯した少年の目線に自分の目線を置かないと、よくわからないことかもしれない。障害者であることが十分に判っている少年に、「障害者でも頑張っているやつがいるぞ」と言って、その通り目がさめる少年ばかりだと考えるのは、健常者、その中でも一部の「大人」の狭量ではないか?障害者であることが十分判っていて、長年それを克服しようと、壁を乗り越えようと頑張ってきたのに、なかなか世間が認めてくれない(残念ながらそれが現実)のに、そんな10代の少年に「説教」をたれても、実感として残るはずがない。
「理想」は十分に判っていて、頑張っているのになかなか思う通りに行かなくて挫折を繰り返す「少年」に同じ「理想」を強いても、益々挫折感を増させるだけ(シラケさせるだけ)で、逆効果なのではなかったか?この少年に必要なのは、むしろ、現実として、理想の壁にぶつかったときに、壁に決して目をそむけず、どんな乗り越え方を見出す工夫をするのかの心構えを持たせることではないのか?少年を右腕のない障害者として扱わず、バイクを運転できる(しかも乗ったままひったくりさえできる)「仲間」としてみてくれる「悪ぼうず」共の言葉の方を重視してしまうことすら、蓋し当然だったかもしれない。
そこまで考えてしまうと、私の口は、20数年前の高校野球部の監督時代そのままに、左脳の自制などぶっ飛んで右脳の命ずるままに言の葉が重ねられていく。右脳の命ずるままだったのでよく覚えていないが、多分昔のTVドラマ「青春とはなんだ」「これが青春だ」の世界と同じようなやり取りだったと思う(勿論、久留米弁バージョン)。
年末年始の合い間を見つけて、せっせと最終意見書を(その勢いで)書きあげたが、正直言って、同種事犯をその保護観察中に再び犯してしまったとの事実のみにこり固まっているはずの調査官や審判官に、この間の少年の大きな変化を理解させるに足りる時間はとても足りなかったと思う。
審判の日、事前に少年に言っていたのは「お前はもう一皮むけたと感じた。裁判官の眼をしっかり見て、眼をそらすな。前(保護観察のとき)と同じ裁判官だ。どっちがお前の人生を真剣に考えたか、目で戦え。俺は横でしっかりその勝負を見届けてやる。お前の人生なんだから、気合で裁判官なんてエリートに絶対負けるな」ということ。
結論。結果は少年院送致ではあったが、言渡しの間中、少年は審判官を見すえ、たじろぎもせず、他方、審判官はあちこち視線をそらしながら、既にできあがっていた審判書をただ読み上げるだけであった。
結論はしょーがないとは思ったが、言渡し後の少年の顔はキラキラと輝いていた。審判後、私は少年に「よーし、よくやった。君は裁判官に立派に勝っていた」と言った。少年は「試合」には残念ながら負けたが、「勝負」には勝っていた。
年末、仕事納めも終わった後の鑑別所に行くと、私の携帯に少年の彼女から電話が入った。「○○が少年院に行っている間に私はきっと成長しておくから、○○ にも少年院にいる間に成長してくださいと伝えてほしい」と言う。面会した少年は、何かがスッキリ落ちたような表情で、全く同じことを言った。「お母さんと彼女に、少年院に行っている間に人間的に成長して戻ってくる、と伝えてください」と。外は雪がちらついていたが私はちょっぴり暖かさを感じた。
数ヵ月後、突然事務所のドアが開き、そこには少年とその母親の姿があった。今まで見たこともない晴れやかな顔で2人はそこに立っていた。2人が丁重にお礼を述べた後、私は「こうやって挨拶に来てくれるなんて、とても嬉しいぜ。(今まで刑事々件も含めてほとんどそんなことはなかった)。2人とも『挨拶』がちゃんとできるんだから偉い!もう大丈夫!」と答えた。そうか、これが八郎先生の言う「これだから少年事件はやめられない!」の境地なのか・・・・。
3 雑感
その後も、数件の少年事件が当番付添人としてやってきた。八郎先生らに教えを乞い、観護措置(鑑別所送り)を回避できた例もあった。やっぱり少年に付添人は絶対に必要である。まだまだその必要がない少年を安易に鑑別所に入れたり、少年院に送ったりしている事案が多いと(久しぶりの付添人活動の中で)実感した。少年自身だけでなく親にも問題があると思えるのに、その親はその非行の原因をよく考えていないことも多く、かかる親の意識改革を(少年の非行時という絶好の機会に)はかっていく能力があるのは付添人である弁護士だけではないだろうか?ちょっとの努力でこれほどこの親子が単なるボタンのかけ違いだけだった!と、共通の認識を持てるように改善されていけば、それこそ付添人としての醍醐味であろう。
でも、付添人に扶助協会から費用が支出されるだけで、少年の保護者らの負担が全くない、という現状はぜひ改善されるべきと考えている。全件付添人を実現する、という目標は共感できるし、そのために保護者らの経済的負担の壁を取り払うというのは一方法ではある。しかし他方扶助協会の財政難もさることながら、保護者の負担が0というのは逆に、少年の最も大事な保護者の「気持ち」を阻害する要因となっていはしないか、私の最近の経験からしても、実感しているところのものである。
前記の通り少年の非行の原因の少なくとも一部は家庭にあるはずである。しかし、保護者は、かかる問題行動を起こした我が子のことを、(自己には原因はなく)親だから仕方なく「やってやる」位の気持ちで付添人と対応しているかのように見受けられることが何度かあった。保護者は、自己にも社会に迷惑をかけてしまったことを本当に自覚しているのであれば、負担0円で付添人を働かせることはいかがなものか?
家裁との子どもの権利委員会の協議のことを判った上であえて打開案を述べる。家裁との協議内容の提案でもある。
1.法律扶助協会に対し、少年の保護者がしょく罪寄付をした事実を裏付ける書証については、家裁も審判時においてこれを十分考慮する旨の合意を取りつける、
2.少年とその保護者が連絡にて、今後少年の勤務先を見つけ働いていく中で、月々少しづつでも法律扶助協会にしょく罪寄付をしていく旨の誓約書を家裁に提出した場合には、家裁も審判時においてこれを十分考慮する旨の合意を取りつける、といったことはどうだろうか?
子どもは世の中の宝である。子どものうちにいくらでも、これからの長い人生を力強く生きていける力を我々弁護士が手助けできる余地があるはずである。非行の原因はその中心は家庭や学校にある。付添人制度をより改善していけば、我々弁護士の得られる報酬よりもっと職業人としての充実感を共感できる会員が増えるはずである。
弁護士 二又和徳