福岡県弁護士会コラム(会内広報誌「月報」より)
2025年4月号 月報
法律相談センターだより ―天神法律相談センター設立40周年記念セミナー―
月報記事
法律相談センター運営委員会 委員 後潟 伸吾(69期)
1 天神法律相談センター設立40周年記念セミナー
皆さんは、福岡県弁護士会の法律相談センターのうち、一番初めに設立されたのはどの法律相談センターであるかご存知でしょうか。
福岡県弁護士会は、1985年に、天神法律相談センター(旧:天神弁護士センター)を最初の法律相談センターとして設立しました。そこから、現在までの間に、様々な地域に法律相談センターを設立し、現在では、福岡県内(福岡地区、北九州地区、筑後地区、筑豊地区)に合計16か所の法律相談センターがあります。
上記のとおり、福岡県内で最初に設立された天神法律相談センターは、1985年設立のため、今年で、40周年を迎えました。そこで、福岡県弁護士会として、天神法律相談センター設立40周年の記念として、市民の皆様にもっと天神法律相談センターを含む法律相談センターに興味・関心をもっていただくために、2月15日にアクロス福岡1階の円形ホールにて、天神法律相談センター設立40周年記念セミナーを開催しました。
セミナーでは、人生100年時代と言われる現在において、生活の不安をなくし、安心に暮らすためにはどのような備えをし、何を知っておけばよいかという観点から、当会会員の弓幸子弁護士と福岡市城南区公民館長の中村直寿さんをお招きして、弓弁護士から遺言・相続の基礎知識を説明いただき、中村さんからは福岡市街区の高齢者世代の実情等についてお話しいただき、その後に、当会会員の塗木麻美弁護士をコーディネーターとした、弓弁護士及び中村さんを交えたトークセッションが行われました。トークセッション後にはミニ法律相談会も実施しました。

德永会長
2 当日の様子
本セミナーでは、最初に福岡県弁護士会の会長德永響弁護士に開会のご挨拶をいただきました。
その後に、弓弁護士から、市民の皆様としても関心の高い、遺言・相続に関する基礎的な知識として、遺言の種類や遺言を作成する場合の注意点等について説明いただきました。
弓弁護士による説明の後は、福岡市城南区公民館長の中村さんに社会における公民館の役割及び公民館の活用方法について説明いただきました。中村さんによれば、公民館は地域のコミュニティの拠点としての役割を有しており、用事がない場合でもふらっと立ち寄ることができるような場所にすることが重要であるとのご説明がありました。その理由としては、地域の高齢者等は漠然とした不安を抱えており、その不安の原因や相談先についても悩んでいる方も多くいるところ、公民館にふらっと来て不安の内容を話してもらえれば、公民館側としても、民生委員を紹介したり、法律的な悩みについては弁護士会の法律相談センターを紹介する等の漠然とした不安に対する解決の道筋を提案することができるからのようです。
その後は、塗木弁護士をコーディネーターとして、弓弁護士、中村さんも交えたトークセッションが行われました。トークセッションの中では、弓弁護士から、遺言があってよかった例や、資産も特段なく家族も仲がよいため一見すると遺言が不要と思われるような場合においても遺言を作成したほうがよい例について、弓弁護士のご経験も踏まえ分かりやすく説明いただきました。また、中村さんからは、遺言については悩んでいる市民の方も多いが、弁護士に相談することなく、団地にある郵便局の局長等へ相談し、郵便局の局長としても遺言の専門家ではないことから困ることもあるという地域の実情について共有いただいたりしました。
トークセッションについては、弓弁護士や中村さんの実体験を踏まえたお話が中心であり、セミナーに参加されていた市民の方も熱心に聞いておられました。

弓弁護士

中村さん

パネルディスカッション
3 おわりに
今回、天神法律相談センター設立40周年を記念して、市民の皆様の関心の高い遺言・相続や市民の皆様の身近にある公民館の役割についてのセミナーを実施しました。セミナーに参加いただいた方からのアンケートも好評であり、セミナーに参加いただいた方にとって今後の参考になる有意義なセミナーになったかと思います。
最後になりますが、今回のイベントを担当した法律相談センター運営委員会の先生方、激励に来ていただいた先生方、弁護士会の職員の皆様等のご協力のおかげで無事今回のイベントも実行できたと思います。この場を借りてお礼申し上げます。
第35回全国付添人経験交流集会
月報記事
子どもの権利委員会 委員 荒巻 秀城(72期)
第1 はじめに
令和7年2月21、22日、さいたま市の大宮ソニックシティにおいて、日弁連の第35回全国付添人経験交流集会が開催されました。子どもの権利委員会委員として参加させていただきましたので、ご報告します。
1日目は全体会、第1~第3分科会、2日目は第4~第6分科会が行われました。福岡県弁護士会子どもの権利委員会は、「触法・ぐ犯少年の支援における児童相談所と付添人弁護士の連携の可能性を考える」とのテーマで第4分科会を担当しました。
第2 全体会
1 全体会では、まず、立正大学社会福祉学部の村尾泰弘教授から、「高葛藤父母と子どもへの接し方」と題して講演がありました。
子の略奪や暴力の危険性のある高葛藤事例の場合、基本は当事者・子どもへのリスペクトが重要であり、良いところを引き出す努力が必要であるとのことでした。
現在、問題になっている人物、例えば暴力的な父親こそが有効な解決法を知っているという考え方の下、父親自身も虐待的・体罰的家族で育ったことが多いことから、トラウマの再演としてのDVが家族の中に起こり、母親も夫のDVによるトラウマを抱え、子どももトラウマを抱える。DVはトラウマ化された家族という構造として生み出されるとの指摘がありました。
父親と子どもの面会交流が子どもにとって良いものになると、父親にとっても良い体験となり、これを積み重ねることによって、父親のトラウマも癒される。さらに、子どものトラウマも癒され、支援者が子どもの成長を上手く母親に伝えることによって母親も成長する。良い面会交流体験によって親子は成長することから、適切な面会交流支援はトラウマケアの側面を有しているという内容でした。
暴力的な父親の責任を考えがちですが、適切な面会交流の重要性を感じました。
2 その後、「全面的な国選付添人制度に向けた取組」、「改正少年法下での実務の状況」について報告がありました。
第3 当会子どもの権利委員会担当の分科会
1 2日目の第4分科会は、武寛兼先生の司会で開催されました。
まず、吉松翔先生から、分科会の趣旨が説明され、開会挨拶がありました。
2 講演(1)
次に、九州大学法学研究院の武内謙治教授から、「触法・ぐ犯少年の支援における弁護士付添人活動の可能性」というテーマで講演がありました。
(1)非行の性質、(2)非行からの離脱、(3)有効性が期待できる支援、(4)現在の制度とのギャップ、(5)弁護士による支援の可能性という内容でした。
(1)非行が、複雑な社会現象、多層的な問題の一つとして現れるものであり、虐待、資質、環境、家庭、学修、貧困などと重複し、複合的で層をなす問題のうち幾つかは世代間で連鎖している可能性を指摘されました。
(2)非行からの離脱が、「状態」ではなく「過程」であること、直線状ではなく、螺旋状、往復運動状であること、単一の出来事ではなく長期にわたって実現されるプロセスであることという動的性格を有する旨の説明がありました。
また、長期的なプロセスに伴走できる支援の必要性があることのほか、リスク要因を除去しなくても離脱が可能であり、リスク要因と離脱要因は異なることの説明がありました。
(3)有効性が期待できそうな支援の形態として、多層的な問題を解きほぐす支援、長期的に伴走できる支援、リスク要因を抑えるかかわり、離脱要因を促進するかかわりを指摘されました。
(4)国家介入による支援は、バトン・リレー型の関与であり、「情報の正確な伝達」「意識や目的の統一」という観点から弱点があること、時間的限界があることを指摘されました。
(5)支援をマネジメントできる機関・人の不存在、時間的制約を超える「在野」が求められること、資源への「ハブ」としての機能という観点から、弁護士による支援活動の必要性・可能性がある。
しかし、法的地位・権限が不明確であるという課題がある点も指摘されました。
3 講演(2)
さらに、駒沢女子大学の田中教仁准教授から、「家庭裁判所調査官の社会調査との連携を考える。」というテーマで講演がありました。田中准教授は元家庭裁判所調査官です。講演は、26年間にも及ぶ調査官としての豊富なご経験を踏まえたものでした。
(1)社会調査の対象、方針、方法、(2)少年調査票、(3)少年の特徴を踏まえた上で、低年齢の少年の調査、(4)児童相談所との連携、(5)付添人との連携、(6)審判後に調査官が少年にかかわれることについて話がありました。
児童相談所や付添人との連携という点については、カンファレンスが重要であると改めて思いました。また、付添人として積極的に調査官に働きかけていくことが重要であると感じました。
加えて、田中准教授は、少年調査票の旧様式と現行様式(令和3年10月~)との違いとして、家庭や生活史という点をたどって非行の原因を探求していく調査から、出生前の家庭の状況、出生後の少年及び家庭の状況という「事実」を中心に分析していく調査へ変更されたことを指摘されました。この点は、大変参考になりました。
4 事例報告
児童自立支援施設に入所していた少年の母が死亡したため、楠田瑛介先生が未成年後見人となったが、その後、少年が看護師に暴行を加え傷害を与えたため、楠田瑛介先生が付添人として、一宮里枝子先生が児童相談所の立場で担当された少年に関する事例報告でした。少年は審判で第三種医療少年院送致となりました。
児童相談所が少年に長く関わった事例であり、児童相談所や付添人(未成年後見人)の対応等、大変参考になりました。
帰住先調整など難題の多い事例において、児童相談所、付添人(未成年後見人)のほか、児童自立支援施設、少年院、保護観察所等関係機関が定期的にケース会議を開くなど連携し、信頼関係を構築して少年に長期にわたり関わる過程で、少年が更生していく様子が報告されました。
少年院退院後、関係者、関係機関が集って児童自立支援施設で中学校の卒業式を行い、少年が大変喜んだこと、児童相談所、付添人(未成年後見人)をはじめ多くの人が少年に継続して関わることにより少年が大人として生活できるようになったことを聞いて、少年と向き合い、長期にわたり継続的に少年を支援していくことが重要であると思いました。
5 パネルディスカッション
惠﨑優成先生の進行の下、武内教授、田中准教授、楠田先生、一宮先生をパネリストとして行われました。
事例報告の事案を踏まえた感想・ご意見、触法事件の児童相談所における手続の流れ、児童相談所の対応、低年齢の少年の非行に関して、少年に伴走できる人がいることの重要性、子どもの最善の利益とは何か、児童相談所と家庭裁判所の役割の相違、カンファレンスの重要性、調査官が児童相談所に何を求めるか等について、多角的視点から議論がなされました。
6 質疑応答
小坂昌司先生から、よりそい弁護士の体験談の報告、当会のよりそい弁護士制度の説明がありました。また、愛知県弁護士会からは、保護観察所へ同行した場合にも、よりそい弁護士制度が適用される旨の報告がありました。
さらに、少年の帰住先を見つけるポイント、少年を納得させるポイント、福祉と司法との連携、処遇がみえている中での付添人の活動等について質疑応答がありました。
7 最後に、池田耕一郎先生から、児童相談所、付添人が様々な視点を共有し、関係機関と関係性を構築していくことが重要である旨の閉会挨拶がありました。
第4 最後に
初めて全国付添人経験交流集会に参加させていただきました。今回の全国付添人経験交流集会は、当会子どもの権利委員会が分科会を担当することもあり、講演を聞いたうえ、児童相談所が長く関わった事例について児童相談所と付添人の連携という視点からご報告を伺うことができ、各地の状況も知ることができた点で、非常に充実した内容となりました。少年のパートナーとして今後のことを一緒に考えていく点が重要であると改めて感じました。
私も、今回の講演、事例報告、少年に対する向き合い方等を今後の付添人活動に活かしていきたいと思います。
インクルーシブ教育勉強会のご報告
月報記事
子どもの権利委員会 鶴崎 陽三(69期)
1 はじめに
こんにちは。子どもの権利委員会の69期鶴崎と申します。令和7年2月13日、福岡県立大学助教の二見妙子先生と医療的ケアが必要なお子様を育てられた橋村りかさんを講師にお招きして、インクルーシブ教育勉強会を開催いたしました。字数がもったいないので「インクルーシブ教育って何?」という方には令和6年8月号の記事を参考資料としてご紹介し、早速お二人の話の内容を私が講師になりきってお届けします。
2 二見先生講演
(1) 二見先生からは「インクルーシブ教育について考える―1970年代の大阪府豊中市における原学級保障運動」という表題で講演いただいた。
日本は2014年に障害者の権利に関する条約に批准したものの、文科省が掲げる実際の日本の教育では「インクルーシブ教育システム」という言葉で特別支援教育が推し進められており、特別支援学校(学級)在籍者数の増加は2022年に国連障害者権利委員会から批判を受けた。
そのような中にあって、大阪府豊中市は、1970年代から障害を持つ子どもが障害のない子どもとともに通うことができる学校を地域に作ってきた。詳しいことは先生の著書「インクルーシブ教育の源流~1970年代の豊中市における原学級保障運動」に書いてあるので是非参照されたい。
国際的にも、70年代くらいから障害を持つ人たちが声を上げはじめ、それに関わる人たちも一緒になって分離された教育が批判されてきた。
日本でそのような声が最も大きかったのが関西、とくに大阪である。
(2) 分離して育ててもそれぞれ大事にしているからそれでいいのではないか、すなわち「分離すれども平等」であると考える人たちもインクルーシブ教育という言葉を使う。しかし、二見先生は「分離すれども平等」は差別であり条約の趣旨に反する、という立場からインクルーシブ教育を考えている。
海外での障害学研究や、日本の堀正嗣氏による障害学研究などをご紹介いただく中で、障害は社会にあるという社会モデルの考え方を説明するわかりやすい分析枠組として「SEAWALL:障壁モデル」という図を紹介された。そこでは、「構造の障壁」(階層的権力関係・構造、構造的不平等・貧困など)が一番下にあり、その上に「環境の障壁」(差別的言語、制度化された政策・組織・規則など)、一番上に「態度の障壁」(認知的偏見、感情的偏見など)がある。
(3) さて、本日の話の中心は豊中市における運動である。
1971年、障害児の教育をすべての教職員の課題にしようということで、市の教職員組合の中に障害児教育委員会が作られ、普通学級の教員も委員となった。一般的には障害児学級担当者だけが障害児教育について話し合うことが多いところ、普通学級の教員が一緒になって組織を作ったことがその後の豊中市の障害児教育を変える上で大きかった。
1972年~1973年にかけて、豊中市の障害児教育を歴史的に転換させる「ひろがり学級」設置の運動が起こった。ひろがり学級は、すべての子どもたちの就学保障のため設置された拠点型の重度障害児学級である。
教職員組合主導で就学猶予免除児家庭訪問を展開し、学校に行くことを猶予免除された子どもたちの実態を知った教師は障害児の置かれている現実を知ろうとしなかったことを深く反省し、親の思いを聞きながら就学猶予免除児童を学校に通わせるための教職員の運動が展開した。
それに対する行政の回答は「すべての就学猶予免除児童を受け入れるだけの条件を整えることができない」というものであったが、教組執行部及び障害児教育委員会は「条件が整わないなら整わない中で、すべての子どもたちを校区の学校で受け入れる」と組織的に決定した。
(4) このような動きの中で、ひろがり学級設置認可の直後に、設置予定校の職員会議で受け入れ拒否が決定された。しかし、教組による「就学先を決定するのは親と本人であり、学校がこれを拒否するのは間違っている」との指導により、市内における受け入れ拒否はなくなった。
併せて、豊中市では保育所(幼稚園)への障害児の優先入所(園)運動が展開した。
「うちの子どもは、地域の幼稚園や保育所に行ってはいけないのか」という親の声を受け、市に障害児保育基本方針を策定させ障害児の優先入所を制度化するとともに、障害児の個別支援と集団保育の質を高め、保育士の労働条件を緩和するために「一対一加配」を行政に約束させた。但し、加配保育士を雇用できないという財政上の問題を理由とした受け入れ不可という矛盾も生んだ。
(5) 1974年からは「校区の学校へ子どもを帰す」運動が展開された。
障害児教育委員会は、「ひろがり学級」設置を評価しつつも障害児のみが拠点化された学校に通うことを批判し、校区外の学校へ通う子どもたちを「校区の学校へ帰す」運動へと発展し、原学級保障運動が開始された。
これに対し、市教委が「転校先には条件が整っていない」として転校を認めないこともあった。市教委には、せっかく作った「ひろがり学級」が解体すれば市としての障害児教育がやりにくくなることへの苦悩もあったと思われる。
転校を認められなかった親子の中には、許可が降りないまま校区の学校への通学を実力行使するケースも生じ、教組はこれを支えるため市教委と交渉し、市教委は制度の規則を越える「全日交流」で黙認し、学校現場は制度の規則を越え在籍のない子どもたちを受け入れた。
この取り組みについては市議会から市教委が繰り返し追及・批判されたが、市教委がその声を学校現場に降ろすことはなかった。
(6) 養護学校設置運動から原学級保障運動への方向転換はそれまでの教組の教育論、教育実践を根底から覆す重みをもつものであったが、「もしこの運動が正しいとしたら私たちはまたあやまちをおかすことになるのではないか」という思いの中での苦渋の決断だった。
豊中市の運動の中には、「障害児学級を設置して原学級保障運動」か、あるいは「普通学級保障」かという議論もある。
原学級保障は、「分ける」制度の障害児学級を活用して「分けない」教育を推進するという矛盾を孕んだ制度であるが、「矛盾を排除せず矛盾と共に進む」という、本運動の優れた特徴ともいえる。
(7) 1979年の養護学校義務化に先立つ1978年、豊中市教育委員会は「豊中市障害児教育基本方針」を策定した。
そこには、(1)就学猶予免除制度に抗し、すべての障害児の教育権の明記、(2)分離教育制度に抗し、校区就学保障の明記、(3)就学指導体制を取らず、保護者の希望の優先、(4)校区間移籍を認めた、(5)各学校は、障害児が健常児と共に学ぶための教育目標を設定することを明示という形で原学級保障運動のエキスが反映された。
豊中市は、「共に生きる教育」の運動と実践に対する国家の分離教育制度の強制を一定程度回避することに成功したのである。
3 橋村さん講演
(1) 橋村さんの子・ももかさんは重度の仮死状態で生まれ、一命は取り留めたが医師からは重度の障害が残ると告げられた。
そのとき橋村さんは、命が助かった喜びよりも暗闇に突き落とされたように感じた。自分がこの子を一生背負って生きていかなければならないのだと。
その後、治療や訓練のため通った病院や訓練施設で会う子どもたちに、ももかさんがスーッと手を伸ばすことがあった。脳性麻痺の子は身体を動かそうと思えば思うほど硬直したような状態になるのに、近くを通る子どもたちに不思議と自然に手を伸ばすももかさんを見て、この子に必要なのは一緒に生きていく子どもなのではないかと思うようになった。
(2) それでも我が子は養護学校しか行くところがないと思っていた。地元の学校に行ってももかさんを道徳の教材にされるのは願い下げだという思いもあった。 そんな中、地元の小学校の先生がももかさんのことを知り小学校に遊びにきませんかと誘ってきた。
養護学校に行くと決めていた橋村さんは、不信感すら抱きながらも行ってみることにした。
小学校で子どもたちになんて言われるのかドキドキした。―「なんで車椅子に乗ってるの?」「なんで動かないの?」「なんで喋らないの?」―
しかし、ももかさんに子どもたちが話しかけた言葉は「名前はなんていうの?」だった。
「ももかだよ」と答えると「ももちゃん一緒に遊ぼう!」と言って車椅子のももかさんを取り囲んで走り去った。
橋村さんはそれまでももかさんの車椅子を誰にも、看護師にすら触らせたことがなかった。この子の面倒は私がみるんだと手元に引き寄せて生きてきた。
しかし、橋村さんは不思議と手を放してしまい、走り去る子どもたちの後ろ姿を呆然と眺めた。
先生としばらく話をしてももかさんのいる体育館に戻ったとき、ももかさんはスヤスヤ眠っていた。
音に敏感で、車のエンジン音で泣き叫び、スーパーなどでは大きな音でずっと泣いてしまう。それなのに、声が反響してうるさい体育館で、橋村さんの心配をよそにももかさんは眠っていた。
先生から、ずっと子どもたちに手を伸ばして周りでワイワイしているのを笑って見ていてスーッと眠りましたという説明を聞き、橋村さんはなんとも言えない気持ちでただももかさんの顔を見ていた。
家に帰るとき、一人の女の子が2人のところに寄ってきて、橋村さんではなくももかさんに「来年登校班一緒だけんね」と言った。
その一言で橋村さんは頭の中をぐるっと180度回転させて、もうこの子が行ける学校はここだ、ここしかない、この学校に絶対行かせよう、地域の学校に入学させようと心に決めた。
(3) クラスの在籍自体は特別支援学級だったが蓋を開けてみるとほとんどを通常クラスで過ごした。
ももかさんの親離れは小学校1年生、入学した翌日だと言う。その日、ももかさんを学校で見送った橋村さんは、なんだか寂しい思いを抱きつつ、給食のときは呼び出されるに違いないと思っていた。ももかさんは橋村さんからしか食事を受け付けず、プロが食べさせようとしてもダメなほどだからだ。
しかし、学校から呼び出しはなかった。
ちゃんと給食を食べたことを聞いて驚く橋村さんに先生は言った。「ももちゃん教室にまでお母さんに入ってきてもらうのは恥ずかしかったんじゃないかな。だって学校にはお母さんはいないでしょ?」
子どもたちと一緒に給食も食べることができた。もう私、できること何もないじゃん。
なんでも自分たちでやりたがる子どもたち。掃除当番も給食当番も、周りの子どもたちはももかさんにもできる役割をいろいろ考えて、決してさぼらせない。そんな子どもたちだった。
(4) 小学校1年生の秋、ももかさんは原因不明の多臓器不全に陥り生死の境をさまよった。
子どもたちはどうしたらももかさんが寂しくないかと考え、みんなが学校の中でしゃべっている様子を録音して担任の先生を通じて毎日届けてくれた。
子どもたちが歌った「君といれば楽しかった 君といれば温かかった 忘れないで、忘れないよ だって僕らはいつまでも友達」という歌を聞いて、意識がないももかさんの目からポロっと涙がこぼれた。
あれ、おかしいな?その頃はもう腎臓もほとんど動いておらずおしっこも出ないような状態だ。
不思議に思いながら再度テープを聴かせると、やはり同じ歌詞のところで涙を流した。
聞こえている。帰りたい。学校に、友達のところに戻りたい。ももかさんからそう聞こえた気がした。
(5) 数日後、ももかさんは意識を取り戻した。
医師は奇跡だと言ったが、橋村さんは奇跡ではないと思った。ももかさんをこの世に呼び戻してくれたのはクラスの子どもたちの力だと。
ももかさんが小学校に入学してから橋村さんは周りの人たちに謝ってばかりいた。謝れば受け入れてもらえる、最悪受け入れてもらえなくても、仕方ない、いさせてやるか、そう思ってもらえる。
しかしそれが周りの人たちを裏切ることだと気づいた。クラスでただ一緒にいるだけで子どもたちは共に生きていた。それが自分には見えてなかった。
障害を持つ子どもが出会う最初の差別者、最初の差別の大きな壁は親だと橋村さんは言う。自分自身がそうであったように。
(6) 小学校、中学校と地元の学校で過ごした後、ももかさんは特別支援学校の高等部に入学した。
普通高校の選択肢もあるよと問いかける橋村さんに、ももかさんは筆談で返した。
私はやりたいことをすべて中学校で仲間たちと一緒にやってきた。今度は支援学校に行ってそこでやりたいことをする。それは、支援学校の先生に、自分たちにも豊かな思いがあって伝えたいことがたくさんあるんだということを伝えること、そのために私は支援学校に行く。
そう言って特別支援学校の高等部に行ったももかさんの人生は、17歳で突然終わりを迎えた。葬儀には同級生や先生方の列が途切れることなく続いた。支援学校の高等部の先生方から言われた言葉。―「これがももかさんが地域の中で大きくなってこられた証なんですね。」―
(7) どんな障害があっても、どこに住んでいても、どの時代でも、子どもは仲間とともに学校に通い、ともに生き、学び合う権利がある。
共に生きることは心地いいことばかりではない。お互いなじり合ったり憎み合ったりすることもあるだろう。でもそれがすべて大切なことだ。
子どもたちが最初に出会う社会は学校だ。インクルーシブな社会は、インクルーシブな教室からしか始まらない。
ももかさんが伝えたかった思いは、命を懸けて届けたかったことは、共に生きる社会を作るには共に生きていくしかないんだということ。
4 おわりに
インクルーシブ教育を作り上げてきた地域における教職員や保護者たちの国や行政の方針をものともしない姿勢、重度の障害を持つ子どもを実際に育てられた保護者の苦悩や葛藤、そしてその考えを覆した子どもたちとの関わり、すべてに圧倒されました。
インクルーシブな教室を、そしてインクルーシブな社会を作らなければ。
さあ、12月は長崎で人権大会です。
市民とともに考える憲法講座第15弾「武器としての国際人権」のご報告
月報記事
憲法委員会 副委員長 栃木 史郎(65期)
2月7日18時から、福岡県弁護士会館大ホールにおいて、市民とともに考える憲法講座第15弾「武器としての国際人権」というタイトルで、日本の人権状況向上を目指して国連人権機関への働きかけを続けてきた藤田早苗氏の講演がありました。藤田氏はエセックス大学人権センターフェローであり、「武器としての国際人権-日本の貧困、報道、差別」(2022年集英社新書)など多数の著書を出版されています。なお、講演会はZoomなしの会場のみであり、当日は雪も降る極寒のなかでも、100名を超える人が参加しました。
講演会では、人権とは何か、人権の普遍性、国際人権基準を遵守することの重要性、人権擁護のための個人通報制度や国内人権機関など、人権に関する様々な話をいろいろ聞くことができました。
●人権とは何か
人権について考えるうえでは、そもそも「人権とは何か」というのを考えることが重要です。小学校の授業で習う「人にやさしくしましょう」「思いやりを持ちましょう」というのとはまったく違うものです。生まれてきた人間すべてに対して、その人が能力・可能性を発揮できるよう、政府に助けを要求する権利が人権なのです。人権について正確な知識がなければ、人権侵害の被害を受けたとしても、その被害の存在すら認識できないことがあります。

●人権の普遍性
人権は西洋のものであると考える人もいますが、決してそういうものではありません。日本でも、たとえば、かつて「島原の乱」(1637年)が起きました。島原の乱は、キリシタンによる一揆という側面が強調されていますが、実際には、重税によって生活することができなくなった人たちが、自らの人権を守るために戦った、権力に対する闘争です。人権は、洋の東西を問わず、人間らしく生きるために必要なものなのです。
●国際人権基準を順守することの重要性
人権条約の締結国の実施状況を定期的に審査し勧告を与える機関として、国連欧州本部に設置された人権諸機関があります。2024年10月29日、同本部が設置する女性差別撤廃委員会は、日本に対し、女性が婚姻後も旧姓を保持できるよう夫婦の姓に関する法律を改正すべきことなどを勧告しましたが、日本政府は、その勧告を「一方的な声明で抗議せざるを得ない」と反論し、国連の「勧告は法的拘束力がないので従う義務はない」との姿勢を貫いています。しかし、勧告は国際人権基準にもとづいた判断であり、その内容には拘束力があります。建設的な批判をしてくれる「クリティカルフレンド」からの勧告を無視することはできないはずです。
●個人通報制度と国内人権機関
人権を擁護するための制度として、個人通報制度と国内人権機関というものがあります。
個人通報制度は、人権侵害を受けた個人が、国内の終審判決に不服が残るとき、人権条約機関に直接訴え、救済を求められる制度ですが、条約の「選択議定書」を批准する必要があり、残念ながら日本ではこの制度を使うことはできません。国内人権機関は、政府から独立した機関であり、人権教育や被害救済などを行います。世界では118の国内人権機関が設立されていて、韓国でも市民団体が極寒のなかハンストで訴えることによって設立がされましたが、日本ではまだ設立されていません。
個人通報制度のための選択議定書の批准も、国内人権機関の設立も、実現のためには「選挙でそれらを公約に入れなければ票を失う」と国会議員に思わせるようにしていく必要があります。
●尊厳ある生活の基盤となる人権
人権意識の問題は、私たちの生活にも影響します。昨今、日本ではインバウンドが急増していますが、それには、日本が「安い国」になってしまっているという背景があります
イギリスでは労働者が労働への賃金や報酬を守るために賃上げを要求するストライキが頻発し、所得とともに物価が上昇していきました。しかし、日本ではストライキは「迷惑なもの」「わがままなもの」と考え、賃上げを求めるストライキが発生せず、その結果、所得も物価も上昇せず、相対的に「安い国」なっていったのです。人権は、決して「迷惑なもの」「わがままなもの」なんかではなく、尊厳ある生活の基盤となるものと考えるべきです。
●公的な怒り
講演会の最後に、藤田氏は、「公的な怒りを表明する大切さ」を強調していました。不条理なことに対する「正当な怒り」がないところに社会変革はないのです。メディアに声を届けること、集会やパレードでアピールすることなど、私たちでも出来ることを、具体的なテクニックとともに教えてもらいました。
講演会のあと、藤田氏を交えて有志で懇親会をしました。このとき、藤田氏のこれまでの各地での講演会の様子、そして講演会に参加した弁護士側の感想など聞いて、参考になりました。『武器としての国際人権』という考えは弁護士にこそ必要な考えです。今後、会員向けの勉強会が企画されるはずです。会員の皆様にも藤田氏の話を聞いて、ぜひ今後の活動に生かしてほしいと考えています。
2025年3月号 月報
あさかぜ基金だより
月報記事
あさかぜ基金法律事務所 社員弁護士 石井 智裕(72期)
事務所の移転から1年がたちました
令和6年2月5日に事務所が移転してから、1年たちました。執務室・会議室ともに以前よりも狭くなりましたが、支障はありません。
以前は南天神でしたので、赤坂に事務所のある弁護士と共同受任したときは、移動するのが大変でしたが、今は移動するのが楽になりました。
パソコンが新しくなりました
令和元年にリースをしたパソコンのリース期間が満了したため、令和6年12月にパソコンが新しくなりました。
いままでのパソコンはハードディスクを使用していたため、起動するのに時間がかかり、Windows Updateがある日にはフリーズが起こっていて、非常に使いにくかったです。今回新しくリースしたパソコンはSSDにかわったので、起動するのが速く、Windows Updateがあってもフリーズせずに使えるようになりました。
また、本体の大きさもコンパクトになり、モニターの下にパソコンの本体を置くことができるようになり、机を広々と使えるようになりました。
パソコンが新しくなったことに伴い、Microsoft officeも新しくなりました。ExcelではXLOOKUP関数やIFS関数など、いままで使えなかった新しい関数が使えるようになり、わくわくしています。業務で使える場面はないか模索をしています。
本棚がいっぱいになりつつあります
約2年前から、あさかぜ基金法律事務所では、事務所で図書を購入できるようになりました。当時は、本棚に僅かしか書籍がありませんでしたが、今は本棚がいっぱいになりつつあります。版の古い書籍も新しい版になり、高くてなかなか手が出なかったコンメンタールなども買いそろえることができ、これまで以上に業務の質を向上させたいと考えています。
長崎でじっくり勉強
1月10日に、あさかぜ研修として、長崎の山下・川添総合法律事務所を訪問しました。
山下俊夫弁護士からは、九弁連における司法過疎対策の歴史的経緯をじっくり話していただきました。「私の田舎では山でイノシシは見たことがあるけど、生の弁護士を見るのは初めてです」と言われたという話から、法律相談センターを離島に設置し、公設事務所を各地に新設して、九州のゼロワン地域の解消につとめてきた経過を聴いて改めて勉強になりました。
今後の課題として、壱岐・対馬のような定着困難地域があること、一度定着した地域であっても再びゼロワン地域になってしまう心配があることも教えていただきました。
池内愛弁護士からは、事務所を開設するときの物件や内装、備品調達、事務員の採用について体験にもとづき具体的な話を聴くことができました。また、業務をするうえで、事務員との連携することが大切なこと、そしてその難しさについても、教えていただきました。
中田昌夫弁護士からは、あさかぜ研修の工夫についてお話をいただきました。弁護士から話を聴くだけではなく、オフィス用品メーカーを訪問して、オフィスの省コスト化のための工夫について、研修を実施したそうです。
依頼者に対してまめに連絡をすることを心がけているそうです。まめに連絡することは自分の身を守ることにもつながるとのことで大変参考になりました。
司法過疎地赴任に向けて
私は令和2年1月にあさかぜに入所し、司法過疎・偏在地域への赴任に向けて、あさかぜで養成を受けてきました。まだ赴任先は決まっていませんが、司法過疎地に赴任するにあたっては諸先輩の体験も生かしながら、日々の業務に精進していきたいと考えています。皆様どうぞあさかぜへの応援をよろしくお願いします。