弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2023年9月24日
サハラてくてく記
アフリカ
(霧山昴)
著者 永瀬 忠志 、 出版 山と渓谷社
アフリカのサハラ砂漠を日本人青年がリヤカーをひっぱりながら1人で横断した体験記です。信じられません。
古い本です。1994年10月に出版されていて、アフリカをリヤカーで横断(縦断か)する旅を出発したのは1989年6月のこと。そして、最終目的地のフランスのパリに着いたのは翌年の6月でした。このとき著者は33歳。高校での教員生活4年を経て、貯金300万円をはたいて旅に出たのです。
サハラ砂漠をリヤカーで旅をすると、どうなるか...。砂嵐に見舞われる、何もかもが砂だらけ。リヤカーの中から、耳の穴、髪の毛まで砂だらけ、目を細くして砂が入らないようにする。ターバンを頭に巻いて歩く。
顔中がヒゲ面の青年が砂漠でリヤカーをひっぱっている写真が本の表紙になっています。柔らかいフワフワの砂地がある。リヤカーがぐっと重くなる。力いっぱい引っぱる、汗ダクダクだ。腕は汗をかいて塩で白くなる。シャツも塩分で白くなる。リヤカーの車輪が砂にはまり込んで、どうにも動かない。板を敷くことにする。2枚の板を1列に置き、片方の車輪を乗せて前へ引く。2枚目の板まで引くと、後ろの板を前へ持ってきて置く。また、前へ引く。また、後ろの板を前へ置く。もう片方の車輪は砂にめり込んだままだ。
1回で1m80cmだけ前進する。10回くり返して18メートルの前進。100回くり返して180メートルの前進。200メートル進むのに40分から50分かかる。夕方5時半まで歩く。そこでテントを張る。ハードな1日だった。
朝食のあと、また歩き出す。周囲の地平線を見渡し、ふと我に返る。周囲は砂漠のみ。誰もいない。一人ぼっちだ。朝、起きたときの気温は13度。日によっては5度まで下がって、冷え込む。
何を求めてサハラ砂漠に来たのだろう...。目の前にあるサハラは、ただ砂と太陽の地獄のような姿しか見せてくれない。
歩いている時間だけで6から8リットルの水を飲んでいる。朝食と夕食で使う水も入れると、1日に10リットルの水を使っている。
こうやって、砂漠のなかを1週間も歩いたのです。とてもとても信じられません。たまに砂漠を車で走る旅行者から水や冷えたビールをもらったこともあったようですが、このたくましさ、精神力には、圧倒されすぎて声も出ません。
ケニアを出発して西の方へ行って北上しています。リヤカーを引きながら1日に40キロも歩いたというのです。これまたそのタフさに息を呑みます。タフとはいうものの、何回も下痢をして1時間おきに便所にかけ込んだこともあります。そして、途中でマラリヤにもかかりました。また、リヤカーもパンクして、その修理をしたり、タイヤを交換したり、大変です。
靴は5足を、それこそ履きつぶしました。傑作なのは、この5足を途中で捨てないで、5足全部を写真にとっています。また、ボロボロになったシャツ5枚を並べた写真もあります。見事にボロボロのシャツです。
33歳の日本人青年ですが、パリに着いたときの写真では、まるでライオン丸のように濃いヒゲの中に顔があるという感じです。
このヒゲがなければもっと若く見られて、危い目に遭ったのでしょうね。ともかく、1年後、無事に日本に戻れたというので、ホッとする旅行記でした。
(1994年10月刊。1700円)
2023年9月23日
江戸の実用書
日本史(江戸)
(霧山昴)
著者 近衛 典子 ・ 福田 安典 ・ 宮本 裕規子 、 出版 ペリカン社
江戸時代は寺子屋が繁盛していたことで知られるように識字率はとても高かった。なので、人々はたくさんの本を読んでいた(買う人より借りて読む人のほうが多かった)。
江戸時代を代表する百科辞典は『和漢三才図会(さんさいずえ)』(寺島吉安、1712年)。中国の『三才図会』にならって漢文の解説文で図解されていて、105巻もある。
江戸時代の国語辞書は『節用集』といい、室町時代に成立したものが、増補されていった。日常語を「いろは」に分け、さらに部門別に言葉を配列し、用字や語義、由来を説明している。
驚くべきことに、江戸時代はパロディ本がブームだったのです。「仁勢物語」(伊勢物語)、「尤之双紙(もっとものそうし)」(枕草子)、「偽紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)」(源氏物語)が有名...。
江戸時代はガーデニング(園芸)が大人気でした。なかでも朝顔は、3回もピークを迎えるほど人気を博しました。その朝顔は、変化(へんげ)朝顔を主としています。花や葉や蔓(つる)が変化したものです。今や、まったく見かけません。私も毎年、朝顔のタネを店で買ってきて、植えています(夏の日の毎朝の楽しみです)。でも、昔ながらの鮮やかな赤い朝顔が一番です。
浮世絵にも、変化朝顔が描かれています。たとえば、1本の苗から赤色と青色の花が咲いているというものです。
江戸時代の男子が身につけるべき教養として、読み書き学問は当然として、謡(うたい)、漢詩、和歌、連歌、俳諧、茶の湯、生け花、囲碁将棋があった。茶の湯や生け花は、江戸時代には、しかるべき家柄の男性に求められた必須の教養だった。
江戸時代の女性が使用する文字と男性の使用する文字は異なっていた。女性は大部分が「かな」で、一部に漢字が混ざった「和文体」を用いる。男性は主に漢字による「準漢文体」を使用した。なので、往来物には女性を対象とした女子用往来物がある。
世の中には、いかに知らないことが多いものか...。呆れるほどです。
(2023年7月刊。3300円)
2023年9月22日
隠れ家と広場
ヨーロッパ
(霧山昴)
著者 水島 治郎 、 出版 みすず書房
オランダはナチス・ドイツの占領下で強制収容所へ10万7000人のユダヤ人が移送されたが、そのうち生還した人は1割にもみたず5000人ほどでしかなかった。オランダ国内での死亡者を加えると、ユダヤ人犠牲者は10万4000人にのぼる。
オランダでは、ユダヤ人住民の7割強がホロコーストの犠牲になった。ベルギー40%、フランス25%に比べて、とびぬけて高い率だ。なぜなのか、オランダは寛容な国ではなかったのか・・・。この疑問を解明しようと実態に迫る本です。
アムステルダムは、17世紀にはカトリック教徒たちにとって「隠れ家の町」だった。そして、20世紀、アンネたちユダヤ人にとっても「隠れ家の町」だった。
アムステルダムに本格的にユダヤ人が初めて流入したのは、ポルトガル系ユダヤ人たちだった。哲学者スピノザの父親もそうで、貿易商だった。
18世紀末、アムステルダムのユダヤ人は2万人をこえ、市の総人口の1割を占めた。ポルトガル商人の流れを引くセファルディムに対し、東方からやってきたユダヤ人(アシュケナージム)には貧困層が多かった。アムステルダムでユダヤ人は、貿易業、商業のほか出版業でも活躍した。
非ユダヤ人のオランダ人画家レンブラントは、ユダヤ人も好んで描いている。
アンネ・フランク一家が「隠れ家」に潜む前、アンネたちは、メルウェーデ広場を駆けめぐって遊んでいた。1939年6月12日、アンネの10歳の誕生日に、父オットーが撮った写真には着飾った9人の少女が肩を組んで一列になって笑顔でうつっている。アンネは、仲良しのハンネ、サンネと三人並んでいる。近所の人からは忌々(いまいま)しい「少女ギャング」ともみられていたという。よほど活発、恐いもの知らずの元気な女の子たちだったのでしょう。
ところが、1940年5月のドイツ占領で平和な日は突然に終わった。アムステルダムに7万人のユダヤ人が住んでいたが、自殺者が激増した。脱出していくユダヤ人たちも多かったが、アンネ一家は潜伏することにした。
オランダでは、ほとんどのユダヤ人がユダヤ人登録に応じた。これはベルギーやフランスで登録拒否者が多かったのに比べて特異。この住民台帳をもとに、ナチス・ドイツと当局はオランダのユダヤ人を死への強制移送が可能だった。
この本では、ユダヤ人の子どもたちの一部がひそかに逃亡ルートに乗って安全な場所に匿われたことを明らかにしています。それでも助かったのは1割ほどで、9割の子どもたちは殺害されたようです。
映画にもなった「シンドラーのリスト」は私も知っていましたが、別に「カルマイヤーのリスト」なるものがあるそうです。初めて知りました。ドイツ人法務官としてオランダのユダヤ人認定を審査する責任者だったカルマイヤーがユダヤ人認定を取り消す判定を下し、その結果、2659人の「ユダヤ人」が救われたとのことです。シンドラーが救ったユダヤ人は1200人ですから、その2倍以上というわけです。
どんな方法だったかというと、洗礼証明書によって、祖父母や父母が実はキリスト教徒であり、ユダヤ人の家庭で養子として育てられていただけだと判定したのです。この証明書は精巧にできた偽造文書もあったようですが、周囲の反ナチ的な人々とともに「客観的」な証拠によってユダヤ人でないと判定していったのでした。ただ、カルマイヤーには陰の部分もあるようです。
アンネ・フランクは1929年6月12日生まれ、オードリー・ヘプバーンは同年5月4日生まれ。二人はひと月しか離れていない。「アンネの日記」が映画化されるとき、オードリーにアンネ役の打診があった。オードリーは悩んだ末に断った。「アンネのことは私の姉妹に起きたようなもの。私は自分の姉妹の人生を演じるなんて出来ない。あまりに身近すぎる」
オードリー・ヘプバーンはユニセフの親善大使として活動するなかで、「アンネの日記」の一部を朗読した。オードリー・ヘプバーンがアンネ・フランクとほとんど同じころに生まれていたというのは初めて知りました。いろいろ発見と驚きのある本でした。
(2023年6月刊。3600円+税)
2023年9月21日
化け込み婦人記者奮闘記
日本史(戦前)
(霧山昴)
著者 平山 亜佐子 、 出版 左右社
記者が身分を隠して特定の職場や地域などに潜入し、その実態を暴露する記事を書くというのは昔からあることなんですね。アメリカでは白人が顔を黒く塗りたくって黒人にすまし、黒人言葉で生活すると、いかに差別されるかといいう暴露本があります。日本でも、自動車製造工場の季節工として働いた体験記も読みごたえがありました。
この本は婦人記者(今なら女性記者といいますが、当時の呼び方です)が、いろんな職業に化けて周囲の反応を記事にしたのが売れていたことを次々に紹介してくれます。
婦人記者という新たな職業が登場したのは明治20年代ころ。これは、女性読者の増加にともない、女性向け記事が必要になったことによる。
1907(明治40)年10月、「大阪時事新報」で、婦人記者が雑貨を扱う行商人に化け、上流階級の家庭に潜入し、その反応を連載しはじめ、大いなる反響を呼んだ。この記者は、25歳の下山京子。読者ののぞき趣味を満足させるシリーズだった。
訪問した先には弁護士の家庭もある。室内は乱雑で、自由になるお金が少ないのに、売り子に憎まれ口をたたく。すでに男性記者によるスラム(貧民街)への潜入ルポもあったが、婦人記者の化け込みは、対象の人々の境遇に同情しつつもエンタメ要素が強い。
このころの日本では、女性(記者)が下層民や娼婦の間に入ることは果敢ではなく、むしろ「堕落」だととらえられた。
「新聞縦覧所」や「銘酒屋」なるものが、当時の風俗店だというのを初めて知りました。
よそゆき顔の訪問記と違い、化け込みには本音がある、真がある。なーるほど、ですね。
「職業婦人」というコトバは大正期にあらわれた。女工は職業婦人とは呼ばれない。事務員や看護師、車掌や女給は職業婦人。車掌はバス・ガール、百貨店の店員はデパート・ガールと呼ばれ、若い女性のあこがれの職業だった。
新聞記者の社会的地位は低かった。初期には、巷(ちまた)の話題を拾う探訪と、政論も書く内勤の記者の二つに分かれていた。探訪は、「羽織ゴロ」とも呼ばれ、「ユスリ」を業とするような存在として忌み嫌われていた。実際に、ユスリ・タカリをしていたようです。
大学出にとって、新聞記者は希望してなる職業ではなく、「でもしか」職業だった。なので、婦人記者となると、さらに低く見られていた。低い男性記者の給料の半額ほどの給料でしかなかった。そこでは、今でいうパワハラやセクハラが日常茶飯事だった。
次の化け込み記者は「ヤトナ」になった。ヤトナとは、雇女、雇仲居とも書く、派遣労働者だった。
北村兼子という、大学生のときに大阪朝日新聞の記者になった、特別に優秀な記者が紹介されています。英語もドイツ語も、1929(昭和4)年6月にベルリンで演説できるほどです。三味線もひけ、護身術も身につけていたのですから、すごいものです。あまりに目立って活躍したため、心なき男性たちからひどく攻撃されてもいます。嫉妬心からでもあったことでしょう。1931(昭和6)年7月、27歳で病死したのが残念でした。
1930年代の末ごろ、化け込み記事は姿を消した。このころ日中戦争が始まったからでしょう。女性記者によるなりすまし体験記が、世間に実態・真実を知らせるというのは、昔も今もいい企画だと私は思います。
(2023年6月刊。2200円)
2023年9月20日
旧満州に消えた父の姿を追って
中国
(霧山昴)
著者 諸住 昌弘 、 出版 梓書院
著者の父親・諸住(もろずみ)茂夫は、明治44(1910)年10月に小樽市で生まれ、日大専門工科を卒業して間(はざま)組に入社した。24歳のとき満州に渡り、土木工事を従事したが、そのなかで水豊発電所の建設に土木技師として関わった。水豊発電所は鴨緑江上流に今もある巨大なダムで、間組が朝鮮側、西松組が満州側を担当してつくり上げた。
ところが、父、茂夫は1945年5月、34歳で臨時招集された。日本軍の敗色は濃く、精強を誇っていた満州の関東軍は南方そして日本本土へ転出して「張り子の虎」状態になっているなか、兵員のみ充足するという召集だった。茂夫は派手な見送りもなく、ひっそりと軍隊に入営した。軍人としての基本訓練もないまま、ソ連との国境地帯に配備された。
茂夫の所属する124師団は1万5千の兵員を擁していたが、関東軍の1945年1月の作戦計画では「玉砕」することになっていた。8月9日にソ連軍が突如として侵攻してくると、最新のT―34型戦車によって日本軍の陣地は次々に撃破され、8月13日、茂夫は戦死した(ことになっている)。
しかし、茂夫の妻、すなわち著者の母親は、「死んだという証拠はないから生きている」と言い続けた。それを受けて、間組は、茂夫を未帰還者として扱い、17年ものあいだ休職扱いで給料を支払った。この給料によって著者たち一家は戦後を生きのびることができた。間組って偉いですね...。このような扱いは異例なのでしょうか、知りたいところです。
著者は1943年5月に安東市(今の丹東市)で生まれています。なので3歳のときに日本へ引き揚げころの記憶はありません。しかし、記録をもとに、丹東市を訪問し、旧宅付近を探索し、また、日本への引き揚げの行程をたどったのでした。
日本に帰国したとき、母親29歳、5歳と3歳の兄弟、そして1歳の娘という3人の幼な子を連れていたのです。いやはや大変な苦労をされたと思いますが、母は「忘れてしまった」と、子どもである著者に詳しいことはまったく話さなかったとのこと。それだけ思い出したくない、辛い体験だったわけでしょう。
それでも、著者は父親と同じ師団にいて生き残った人から詳しい話を聞き取ったりして、当時の状況を詳しく再現しています。その意味で大変貴重な記録になっています。著者より贈呈を受けました。ありがとうございます。
(2019年10月刊。1300円+税)