弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
人間
2016年2月29日
からだの不思議
(霧山昴)
著者 奈良 信雄 、 出版 中経文庫
人間のからだって、宇宙の仕組みと同じほど不思議だと思います。
新生児の骨は350以上ある。成長していくにつれ、骨は長く強固になり、くっついて一つの骨となるため、全体の骨の数は減る。
背骨は、横からみると直線ではなく、ゆるやかなS字カーブを描いている。このカーブのおかげで、人間は重たい頭を支え、重量を分散させながら上手にバランスをとって、まっすぐに立つことができる。
血液は骨のなかでつくられている。骨髄で血液の生成に関わる造血幹細胞がつくられている。骨が血液をつくっているなんて、不思議ですよね・・・。
成人では、1年で20%の骨が新しく入れ替わっている。つまり、5年で全身の骨が新しくなっている。これって年齢(とし)をとっても同じなんでしょうか。
顔の表情をつくるのは、表情筋。表情筋は、自分の意思で動かせる髄意筋だが、すべてが顔面神経の制御下にある。表情筋は筋肉なので、使えば使うだけ発達する。
表情の乏しい人がいますよね。子どものころ、大人からたくさん笑わされることがなかったんですよね。気の毒な幼年時代を過ごしたのだろうと、いつも私は同情しています。5人兄弟の末っ子である私は、姉や兄たちにたくさん面倒をみてもらって可愛がられたことを(記憶としては、まったくありませんが・・・)、いま、心から感謝しています。
左利きの人は、9人に1人。
鼻は、両方の孔(あな)を交互につかい、片方を休ませながら、効率よく呼吸している。
うひゃあ、知りませんでした・・・。
太っている人は舌が肥え、首がかたくなっているため気道を圧迫しやすく、大きないびきが出やすい。
胃の容量は、空腹時には50ミリリットル以下だが、食後には1.5リットル、詰め込むと2リットルにもなる。胃には栄養を吸収する機能はない。貯蔵し、消化し、殺菌するだけ。
胃に「別腹」があるというのは、脳内にオレキシンというホルモン物質が出ると、胃や腸の働きが活発になり、胃を満たしていた食べ物が腸に押し出されて、胃の中に少し隙間ができるということ。なーるほど、そういうことだったんですね・・・。
母親と胎児は血管がつながっているのではないので、血液型が異なっていても問題はない。胎盤が大きな役割を果たしているのです。
肝臓は、全体の80%を切除しても、数日中に再生が始まり、数ヶ月から1年で元の大きさに回復する。アルコールの過剰摂取は肝臓を弱めるようです。私がビールを飲むのをやめて久しいのは、もう酔っ払って時間をムダにしないためです。
身体のなかで「薬」をつくり出すとか、体内で発電するとか、身体の不思議はたくさんありますよね・・・。
(2014年2月刊。650円+税)
2016年2月11日
ゆびさきの宇宙
(霧山昴)
著者 生井 久美子 、 出版 岩波現代文庫
盲ろうの東大教授・福島智氏の生きざまを紹介している本です。
目が見えず、耳も聞こえない。3歳で目に異常が見つかり、4歳で右眼を摘出。9歳で左の視力も失う。14歳のとき右耳が聞こえなくなり、18歳ですべての音が奪われた。
無音漆黒の世界にたった一人。そこから救い出したのが、母の考案した「指点字」と「指点字通訳」の実践だった。恐るべしは母の愛、ですね。
盲ろう者は、黙殺され、抹殺されてきた。
盲ろうは、感覚器における全身性障害。コミュニケーションや移動に全介助が必要になる。盲ろう者は、内部の戦場体験をしている。それは、たった今も・・・。
自殺を考えたことはない。あわてなくても、いずれ、みんな死ぬのだから・・・。
盲学校の先生はこう言った。「おまえたちは、どういう位置にいるかを勉強しておいたほうがいい。社会に出ると、『見えない人間』とひとくくりにされて生きていかなければならないのだ」
盲ろうになった当初は、だれかと話していないと不安だった。沈黙は拷問だ。指を重ねて話していた。
「うるさすぎて、眠れない」。指点字は、触覚言語だ。指先など皮膚からの情報でコミュニケーションをするが、それが全身からだと、うるさすぎる。つまり、抱きしめられると、うるさすぎるということ。
いま、大学が通訳・介助するシステムが出来ている。3人の優秀な通訳介助者がいる。強いと思われていた福島氏も、適応障害になった。それで、自分も人間だと思った。どこか過信していたのかもしれない。
障害者の問題は、社会の本当の豊かさの実態を示すショーウィンドウである。
私には、目が見えず音の聞こえない世界というのは想像すら出来ません。恐ろしくてたまりません。しかし、障害者も一人の人格をもった人たちです。その人たちをふくめて生きていける寛容さが、どうやら日本社会は少しばかり弱くなっている気がします。少数者をいじめて楽しもうというヘイトスピーチなんて、その悪しき典型ですよね。許せません・・・。
(2015年2月刊。100円+税)
2015年11月24日
薬石としての本たち
(霧山昴)
著者 南木 佳士 、 出版 文芸春秋
この著者の書いたものは、心の奥底に何かしら触れあうものがあるので、どうにも私の得意とする飛ばし読みができません。わずか190頁足らずの本なのですが、読み終えるのに1時間どころか、半日もかけてしまいました。なんといっても、医師の体験を通して人間の生死と絶えずかかわっていること、そして著者自身がパニック障害そしてうつ病にかかってきたことからくる文章の重みが、頁をめくる私の手を遅くしているのでしょう・・・。
私は床屋には月に1度、行くのを楽しみにしています。格好の昼寝タイムなのです。瞬間的にぐっすり眠ることができる心地よさが何とも言えません。ところが、著者は、一人で床屋に行けなくなってから20年以上になるというのです。
著者は60歳のとき、還暦記念出版として短編小説とエッセイを集めた本を出した。文学界新人等を受賞してから作家登録して30年、全部で30冊の本を出した。
小説やエッセイを仕立てる気力がないときには、他者の話を聞いて編集者とともに一冊の本に仕立て上げる行為は、かろうじて作家であることを確認する一所懸命の力仕事だった。
漢字をひらがなにするのを「ひらく」という。ひらきすぎると、わざとらしくなる。しかし、漢字が適度にひらかれた文章は風通しがよくなる。
人間ドッグの受診者は、自費で安心を買いに来ている人たちだから、可能なかぎり安心を売ってあげる。ただし、安心の安売りはしない。
私は、40代前半から、人間ドッグに入るようにしてきました。これは、「安心を買いたい」からなのですが、平日に公然と休んで本を読む時間を確保するためでもあります。歳をとるに従い、あちこち不具合が発見されるようになりましたが、あまり気にしすぎないように努めています。まあ、それでも気にはなるのですが、、、。
作家は書いたものを何度も推敲し、一応の完成稿をしばらく寝かせたのち、読者になりきって読んで不満な部分をさらに加筆、修正し、納得のいったところで編集者に送り、その意見に耳を傾け、主として書きすぎた部分を削ってから世に問う。それが作家のあるべき姿だ。
これって、モノカキ思考の私にとって、よく分かる言葉です。10年ほど前に映画にもなった著者の「阿弥陀堂だより」っていい本でした。そして、すばらしい映画でしたね・・・。
(2015年9月刊。1500円+税)
2015年11月22日
職業としての小説家
(霧山昴)
著者 村上春樹 、 出版 スイッチ・パブリッシング
私と同じ団塊世代の著者による作家論です。モノカキを自称し、今も小説に挑戦中の私にとって、大いに共感するところが多々ありました。
小説家の多くは、円満な人格と公正な視野を持ち合わせているとは言いがたい人々である。
むむむ、法律家の一人として、いつも常識的には・・・と法律相談に来た人に説示している私には、小説家になる資格がないということになるのでしょうか・・・。
作家というのは基本的にエゴイスティックな人種であり、プライドやライバル意識の強い人が多い。
小説家には数多くの欠陥があるけれど、誰かが自分の縄張りに入ってくることには寛容だ。というのも、小説なんて、書こうと思えば誰にだって書けるものだから・・・。
しかし、リングに上がるのは簡単でも、そこに長く留まり続けるのは簡単ではない。小説を長く書き続けること、小説を書いて生活をしていくこと、小説家として生き残っていくこと、これは至難の業であり、普通の人間にはまずできない。
小説家であり続けることがいかに厳しい営みであるか、小説家はそれを身にしみて承知している。
小説家とは、不必要なことをあえて必要とする人種である。
小説を書くということは、基本的に鈍臭い作業であり、やたら手間がかかって、どこまでも辛気くさい仕事である。
著者は、29歳のとき、自宅近くの新宮球場に野球を見に行った。バットがボールにあたる小気味の良い音を聞いたとき、ふと、そうだ、僕にも小説が書けるかもしれないと思った。これで、著者の人生が一変した。
言語のもつ可能性を思いつく限りの方法で試してみることは、すべての作家に与えられた固有の権利なのである。そんな冒険心がなければ、新しいものは何も生まれてこない。
著者は、ものを書くことを苦痛だと感じたことは一度もない。小説が書けなくて苦労したという経験もない。小説というのは、基本的にすらすらと湧き出るように書くものだ。35年間にわたって小説を書き続けてきて、スランプの時期は一度も経験していない。小説を書きたいという気持ちが湧いてこないときには書かない。そんなときには、翻訳の仕事をしている。
小説家になるには、とりあえず本をたくさん読むこと。そして、自分が目にする事物や事象を、とにかく仔細に観察すること。
1日に400字詰原稿用紙に10枚書く。もっと書きたいと思っても10枚でやめておく。今日は乗らないと思っても、なんとか頑張って10枚は書く。
長い仕事をするときには規則性が大切だ。朝早く起きて、毎日、5時間から6時間、意識を集中して執筆する。毎日外に出て1時間は体を動かす運動をする。来る日も来る日も、判で押したみたいに同じことを繰り返す。
一人きりで座って、意識を集中して物語を立ち上げていくためには、並大抵ではない体力が必要となる。
忠実に誠実に語源化するために必要とされるのは寡黙な集中力であり、くじけることない持続力であり、堅固に制度化された意識なのである。
村上春樹は、原発に反対の立場を表明していますが、表だっての行動はあまりしていませんね。
身体が大切だし、そのためには規則ただしい生活、そして身体を動かす運動する必要があることを強調しています。この点は、私もまったく同感で、それなりに実践しています。
それにしても、35年間の作家生活で、スランプを一度も経験していないって、すごいことですよね・・・。それほど、たくさんの引き出しを脳内に貯えているのですね。さすがプロの作家です。
私はプロの作家にはなりたくないし、なれそうもありませんが、目下、小説に挑戦中なので、心身ともに充実した日々を送っています。
(2015年9月刊。1800円+税)
2015年10月26日
作家という病
(霧山昴)
著者 校條 剛 、 出版 講談社現代新書
21人もの作家の業(ごう)を編集者の立場で赤裸々に暴いた本です。作家という存在のすさまじさの一端を知ることができました。モノカキを自称し、毎日毎日、こうやって書いている私ですが、とても「作家」にはなれそうもないと思ってしまいました。
ちなみに著者の名前は「めんじょう」と読みます。同じ団塊世代ですが、私よりも少し年下になります。
作家であるということは、ある恍惚感をともなう。
作家であり続けるために、自然と、自らに常人の感覚から外れた習慣や義務を課することになる。この作家という職業がもたらした特殊な習慣や傾向、それを「作家という病」と名づける。
渡辺淳一は「鈍感力」と言った。それは、無神経で単なる鈍感というものではない。苦しいこと、辛いこと、失敗することにあっても、そのまま崩れず、明るく進んでいく力のこと。すごいですね。見習いたい、身につけたい力です。
「いい人」と評価されるだけの作家だったら、恐らく読者に面白い小説を提供することは出来ない。作家には、必ず奇妙な癖と呼べるような資質を内に秘めているものだ。
作家は、他人の目をきにする必要のない普段の生活では想像の世界に常時入り浸っている。
モノを書く、とくに小説を書くということは、とてつもなく心身の集中を要求される。
井上ひさしは、単に謙虚で優しい人柄ではなかった。この作家の心の底には確固たる自信と完璧性への激しい要求が横たわっていた。仕事に取り組むときには、世間の常識や気兼ねを一蹴りしてしまう激しさが水面下から姿を現す。
井上ひさしには、常識より優先すべき信条がある。完全な作品を提供しなければならないという掟である。その固い決意は誰にも動かすことができない。
妥協というこの二文字は、井上ひさしがもっとも嫌だった言葉だ。井上ひさしは締め切りに遅れても昂然たる態度をとる。コトバは「すいません」だが・・・。
いやはや、なんという非情かつ、非常識な世界なのでしょうか・・・。心やさしき私などは、ついつい恐れをなして尻込みするばかりです。と言ながら、私は目下、小説を書きつづっています。
乞う、ご期待です。
(2015年7月刊。880円+税)
2015年10月21日
オープンダイアローグとは何か
(霧山昴)
著者 斎 藤 環 出版 医学書院
統合失調症について、フィンランドですすめられている画期的な治療法を紹介した本です。それが、あまりにもシンプルな内容なので、本当に治療法として有用なのか、いささか心配になりますが、まずは紹介してみます。
このオープンダイアローグを導入した西ラップランド地方における統合失調症の入院治療期間は平均して19日間も短縮された。この治療によって、服薬を必要とした患者は35%。2年間の予後調査で82%は症状の再発がない。再発率は24%にすぎない。いわば、これは魔法のような治療なのである。
オープンダイアローグは、急性期精神病における開かれた対話によるアプローチとも呼ばれる。主たる治療対象は、発症初期の精神病。
最初に相談を受けた人が責任をもって治療チームを招集し、依頼から24時間内に初回ミーティングを行う。治療チームの源流は、家族療法である。
ミーティングには、対話を先導したり、結論を導いたりする「議長」「司会者」はいない。そして、専門家が指示し、患者は従うだけという上下関係はない。本人を抜きにして、いかなる決定もなされない。ミーティングは、1時間半程度で終える。
オープンダイアローグでは、はじめから診断がなされることはない。あいまい。
このあいまいな状況に耐えながら、病気による恐怖や不安を支えていく。不確実性への不安を支えるのが、繰り返されるミーティングと継続的な対話である。
オープンダイアローグでは、参加者全員が尊重される。平等で自由な「空気」をつくり出し、何かを決定するのではなく、対話の継続それ自体が目的であるような対話がなされる。
ミーティングでは、全員がひとつの部屋で車座になって座り、その場で自由に意見交換する。
同じチームが一定期間がかかわりを持ち続けることが、とても大切なこと。
オープンダイアローグにおいては、聴くことは質問することよりも重要。意見がくい違ったときに大切なことは、正しいか間違いか、白黒をはっきりさせることではなく、すべての声が受け入れられ、傾聴とやりとりが促されること。
精神病的な反応があったら、それは患者が自分の経験したことをなんとかして意味づけようとする試みとして理解すべき。
ミーティングにおける治療チームの重要な仕事は、患者との関係者が対話の主導権を握れるようにもっていくべきこと。
ミーティングのプロセスをゆっくりと進めることが、ことのほか重要。
ダイアローグ(対話)は、モノローグと異なり、他者を受動的な存在とみない。
治療チームは、早口で話したり、結論を急いだりすることがないよう用心する。
精神病患者の幻覚には、トラウマ体験が隠喩的な形で取り込まれている。
人は、自分の言葉がきちんと聞いてもらえていることが分れば、自身も他者の経験や意見に耳を傾けて、関心を持つようになる。
とても分かりやすい本でした。でも、本当に治療法として大丈夫なのか、いささか心配になったのも正直なところです。
(2015年8月刊。1800円+税)
2015年10月19日
鏡映反転
(霧山昴)
著者 高野 陽太郎 出版 岩波書店
鏡に映ると左右が反対に見える。なぜか、、、。上下は反対にならないのに、なぜ左右だけが反対に見えるのか?
あまりにもあたりまえの現象なので今さら、なぜと問われても、、、。
実は、これって昔から難問であり続け、今も正解の定説がない。ええーっ、そ、そうなの、、、。
鏡映反転は、じつは、「左右が反対に見える」という単純な現象ではなく、かなり複雑な現象なのである。
鏡映反転というのは、物理の問題ではなく、認知の問題である。すなわち、鏡のなかでは、物理的には左右が反転しないにもかかわらず、人間が左右反転を認知するのはなぜかという問題である。
この難問を説明すべく、昔からいろんな仮説が提唱されてきたが今なお、定説というものはない。うひゃあ、そうなんですか、、、。
著者は、その説明のために「多重プロセス理論」を提唱する。これは、鏡映反転は、ひとつの現象ではなく、複数の現象の集まりだとする。視直反転、表象反転、光学反転の三つから成る。
文字の鏡映反転はすべての人が認知するのに対して、自分自身の鏡映反転は2~3割の人が認知しない。つまり、この二つの反転は、別の原理で生じている、別の現象なのである。
多重プロセス理論によれば、人体の鏡映反転を生み出しているのは、視点変換と光学変換である。したがって視点変換をする人は、鏡映反転を認知し、視点変換をしない人は、鏡映反転を否認する。
鏡映反転は、見かけとは裏腹に、非常に複雑な現象である。
うむむ、なんと、そういうことなんですか、、、。鏡の前に立って、左右あべこべに見えてるのに解けない謎があるなんて、考えたこともありませんでした。
その謎を解明しようとする本ですが、やや私にとっては高度すぎる内容ではありました。
(2015年7月刊。2700円+税)
2015年10月18日
常識外の一手
(霧山昴)
著者 谷川 浩司 出版 新潮新書
定跡(じょうせき)。定跡を指しているだけでは、プロ棋士の世界で勝ち抜くことは出来ない。また、最新の棋譜を追いかけて研究しているだけでも勝てない。
なぜか、、、?
本筋しか指せない人は一流にはなれない。つまり、定跡、常識に沿っているだけでは、プロの中で頭角をあらわすことはできない。本筋をわきまえたうえで、さらに「常識外の一手」を指せるかどうか、ここが重要だ。
どれだけの選択肢があるか、、、。オセロは10の60乗。チェスは10の120乗。将棋は10の220乗。そして囲碁はなんと10の360乗。
正しく先を読むためには、直観こそが重要。日々、研究にいそしんでいるのも、実戦で正しくこの直観が働くようにするため。多くの可能性があっても、その9割以上は直観で捨てて、残りの1割をより掘り下げて検討している。
直観を養うために必要なのは、知識、経験、個性、そして流れ。
初心者と達人は紙一重。深い修練の先にこそ「常識外の一手」がある。
コンピュータと対局するときには、事前に長い時間をかけて、コンピュータの指し手を研究しなくては勝利を望むことはできない。
若いころは、一直線の手順は詰めても、手広く読むことができない。逆に年齢が上がると先まで読む力は落ちるが、経験によって大局観が鍛えられて、深く読めない代わりに広く手を読むことができる。若いころは「狭く深く」、年齢を重ねるほど「浅く広く」考えるようになる。
勝負にかかわる環境や条件をすべて味方につけて、自分の力を最大限に発揮できるのが本物の勝負師といえる。
プロ棋士であれば、自分の感情をうまくコントロールできるのは当然として、勝負事では相手を威圧するような迫力も大切である。
気合十分の棋士は全身から闘志があふれ出るように感じられる。
プロ棋士のすごさを知ることのできる新書でした。
(2015年6月刊。700円+税)
2015年10月13日
失われゆく、我々の内な細菌
(霧山昴)
著者 マーティン・J・ブレイザー 、 出版 みすず書房
1850年のアメリカでは、生まれた赤ちゃんの4人に1人が、1歳の誕生日を迎えることなく死亡した。今では、1000人のうち1歳になる前に亡くなる赤ちゃんは、わずか6人のみ。
1990年には、アメリカ人の12%が肥満だった。2010年には、30%をこえた。
2008年の世界人口のうち、15億人の成人が過剰体重。うち2億人の男性と3億人の女性が肥満。このわずか20年ほどの間に世界的な体脂肪の蓄積が起きた。
近年の喘息発祥の増加も異常だ。2009年には、12人のうち1人、2500万人のアメリカ人が喘息をもつ。これは人口の8%。そして、子どもの10%が花粉症に苦しんでいる。
ピロリ菌は、ある種の成人には病気を引き起こす。しかし、多くの子どもたちに利益をもたらすものでもある。ピロリ菌の根絶は、利益よりも、より大きな健康被害を人類にもたらすかもしれない。
ヒトの体は、30兆個の細胞よりなる。そして、ヒトは、100兆個もの細菌や真菌の住かでもある。
母親は赤ん坊の臭いを知っているし、赤ん坊は、母親の臭いを知っている。臭いは重要である。それは、たいてい微生物に由来する。
ある種の細菌は、ビタミンKを産生する。ビタミンKは血液の凝固に必須なビタミンであるが、ヒトはそれを産生できない。ヒトの細菌は、内在性の「バリウム」さえ産生する。
細菌叢のもっとも重要な役割は、免疫の提供。ヒトの体内細菌は、数百万個の独自の遺伝子をもっている。
抗生物質は効果がてきめんで、明らかな副作用はないと思われてきた。問題は、私たちの子どもの世代だ。子どもたちは、今の私たちが予想もできないような脆弱性を抱えることになる。抗生物質過剰使用のもっとも明らかな例が、上気道感染症として知られる疾患だ。
ところが、抗生物質の使用量は膨大であり、毎年、伸び続けている。抗生物質の過剰使用と耐性菌の出現によって、製薬会社の新薬開発が耐性菌の出現に追いつかないという危機が生まれた。抗生物質を使えば使うほど、耐性は出現しやすく、抗生物質の有効期限は短くなっていく。
アメリカで生産される抗生物質の大半は、巨大な飼育場で使用される。ブタやニワトリ、七面鳥なのである。抗生物質は太らせるために使われている。食肉生産の最大化が目的だ。
2011年、アメリカの畜産農家は3000万ポンドの抗生物質を購入した。これは、史上最高だ。これを、日本人の私たちも知らないうちに食べているわけです。
糞便移植という治療法が何年も前から実践され、効果をあげてきた。
ある人から別の人へ、糞便を計画的に移植する、健康な人から、新鮮な糞便を手に入れ、食塩水で便の懸濁液をつくる。生じた不透明な茶色の液体から、管や経鼻的に十二指腸内視鏡を通して、胃に、あるいは逆方向を直腸から大腸内視鏡によって投与される。
すなわち、腸内・生態系が破壊された人に対して、失われた細菌を戻してやるのは、有効な医療でありうるということ。
人類は、細菌が人体内で機能する機構を解明しきれていないのだ。
生長促進を目的として家畜へ抗生物質を使用するのは直ちに禁止すべきだと思いました。
ヨーロッパでは既に禁止されていますが、アメリカではまだです。日本はどうかというと、この分野でも、アメリカにならって全面禁止にはなっていません。問題ですよね。
私がマックやケンタを食べないのは、そのせいでもあります。
(2015年7月刊。3200円+税)
2015年10月 4日
光とは何か
(霧山昴)
著者 江馬 一弘 出版 宝島社新書
光って、不思議な存在ですよね。そして、色も本当はない、なんて言われると、いったいこの世の中はどうなっているのかと自分の身のまわりを見まわしてしまいます。
色は、この世界に実在するものではない。光の波長の違いを脳が「色」というイメージで認識しているだけのもの。色を実際に「見ている」のは脳であり、色という感覚をつくり出しているのは心なのだ。光(可視光)には、色の感覚を引き起こす性質があるにすぎない。光そのものに色がついているのではなく、特定の波長の光を受け止めたということを、脳は「色」として把握している。
物質の中で電子が振動すると、光(を含めた電磁波)が生まれる。電子が振動すると、振動する電球が生まれて、それが波のように空間を伝わっていく。これが光(を含めた電磁波)である。
電子が振動すると、光が生まれて、周囲に広がる。光を受けると、電子が振動を始める。光は、波としての性質と、粒としての性質をあわせ持つ、不思議な存在なのである。
光は、自分ひとりでは何もできないし、何の現象も起こさない。
光がほかの物質と出会うことで、初めて何かが始まる。光の速さは無限ではない。1秒間に29万9792.458キロメートルの速さだ。そして、逆に、1メートルとは、光が2億9979万2458分の1秒間に進む距離だと定義されている。なんだか、分かったような、とても分からない話ですよね、、、。
光通信に使われているレーザー光は可視光ではなく、近赤外線だ。
近赤外線領域の光は、もっともガラスに吸収されにくいからである。なので、光通信とは、正確には赤外線通信なのだ。
この本の末尾に参考文献として『夜空の星はなぜ見える』が紹介されています。私もずいぶん前に読みましたが、とても素晴らしい本ですので、ぜひご一読ください。
夜空にたくさんの星が出ています。でも、星は無数なのですから、本当は、満天がすべて星だらけになっていないとおかしいはずです。でも、そうなっていません。どうして、、、?
また、ひとつひとつの星はあまりにも小さくて、人間の網膜に届くとは思えません。ところが、何万光年先の星を地上の私たちは見ている。なぜ、、、?
考えてみれば、この世の中、不思議なことだらけですね、、、。
憲法違反の安保法制法を無理矢理に成立させたアベ政権の支持率がまだ3割を下まわらないというのも、私にとっては理解しがたい、不思議な話でしかありません。
(2014年7月刊。900円+税)