弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
人間
2015年1月 1日
意識をめぐる冒険
著者 クリストフ・コッホ 、 出版 岩波書店
脳から末端までつながった神経システムは、数百億個以上ものネットワークとしてつながった細胞群で構成されている。そうした細胞の中でも、もっとも重要なのが、神経細胞(ニューロン)だ。ニューロンには、さまざまな種類がある。おそらく100種ほど異なるタイプがあるだろう。そのニューロンのもっとも重要な特性は、つながった先のニューロンを興奮させるか(興奮ニューロン)、あるいは抑制させるか(抑制性ニューロン)という点だ。
脳のなかで起きている電気活動が、どうして人間が主観的にしか感じることが出来ない経験を生み出すのだろうか・・・。
腸の内壁を覆う1億個あまりのニューロンがある。腸内には、「第二の脳」とも呼ばれる腸管神経系が存在する。腸管神経系のニューロンは消化管内で、栄養分の摂取と廃棄物の処理とを粛々とこなしている。しかし、この仕事は人間の意識にはのぼらない。
痛みや吐き気の原因となる情報は、胃の迷走神経を介して大脳皮質へと伝えられ、大脳皮質のニューロンが痛みや吐き気というクオリアを引き起こしている。腸内にある第二の脳で生じた神経活動が、人間の意識を直接に生み出すことはない。
映画は、日常の雑多な心配事、不安、恐怖、疑念といった自意識から引き離してくれる。上映されている数時間のあいだ、観客は別世界の住人になれる。そんなことが、このうえない喜びをもたらす。
自意識と並ぶ、人間固有の特性が言語能力だ。人間は言語を獲得したことで、概念を表現したり、記号を操作したりして、他人とコミュニケーションを取ることが出来るようになった。
この文章を読んでいるあいだ、眼球はせわしなく動き続けている。しかし、その動きによって生じるはずの画像のブレが意識にのぼって来ることはない。この非常に早い眼球の動きは、「サッカード」と呼ばれている。人間の目は、1秒間に数回のサッカードを起こし動いている。
このように人間の目は、忙しく動き続けているにもかかわらず、意識にのぼってくる映像は、目の動きを反映せず、安定している。
日々展開していく人生は、まだ書かれていない一冊の書物だ。あなたの運命は、あなたが決めていく部分もあれば、あなた以外の他者の行動や、自然の動きなど、宇宙のすべてのものの影響を受ける。
私たちには、信じたいものを信じるという性向がある。
一番大切なことは、自分に嘘をつかないこと。そして、これが一番難しいことだ。
私たちの人間の意識、そして無意識について深く掘り下げた本です。
(2014年8月刊。2900円+税)
2014年12月28日
アルピニズムと死
著者 山野井 泰史 、 出版 ヤマケイ新書
ここまでして山登りするのかと、ついつい深い溜め息が出ました。
何度も死の危険に直面し、山の仲間が何人も死んでいます。そして、凍傷のため手足の指は満足にありません。さらには、山の中を走っていて熊に顔をかじられ、鼻をなくしたというのです。いやはや・・・。
山に出かけるのは、年間70回。40年の間に3000回近くも山へ登りに行って、なんとか生きて返ってきて今日がある、というわけです。それでも、著者が死ななかった理由。
それは、若いころから恐怖心が強く、常に注意深く、危険への感覚がマヒしてしまうことが一度もなかったことによる。
自分の能力がどの程度あり、どの程度しかないことを知っていたから。
自分の肉体と脳が、憧れの山に適応できるかを慎重に見きわめ、山に入っていった。
山登りがとても好きだから、鳥の声や風や落石や雪崩の音に耳を傾け、心臓の鼓動を感じ、パートナーの表情をうかがいつつ、いつ何時でも、山と全身からの声を受けとろうと懸命になる。雪煙が流れる稜線、荒い花崗岩の手触り、陽光輝く雪面、土や落ち葉の色、雪を踏みしめたときの足裏の感触・・・。山が与えてくれるすべてのものが、この世で一番好きだ。
ソロクライマー(単独登山家)はリスクが高い。実際にも、多くの悲しい現実がある。しかし、この世のもっとも美しく思える行為は、巨大な山にたった一人、高みに向けてひたすら登っているクライマーの姿なのである。
山中でトレイルランニングをして身体を鍛える。家でも腹筋運動のほか、酸素をたくさん取り込めるように、15分間は腹式呼吸の練習をする。
脂肪はもちろん、大きな筋肉をつけないように注意し、毎日、体重計に乗る。
体力に余裕があれば、登山中でも視野を保て、危険を見抜く能力を保つことができる。
トレーニングは、肉体だけでなく、想像するイメージトレーニングもする。下半身に乳酸をためないようにする。
私は、著者が今後も無事に、好きな山登りを続けてほしいと思いました。
(2014年11月刊。760円+税)
2014年12月 1日
わたしたちの体は寄生虫を欲している
著者 ロブ・ダン 、 出版 飛鳥新社
1850年のアメリカの平均的寿命は40歳。1900年に48歳となり、1930年に60歳に延びた。
いま、北米には60万人のクローン病患者がいる。クローン病は遺伝的傾向があり、タバコを吸う人に発症しやすい。クローン病にかかった人の家には、必ず冷蔵庫がある。
このクローン病の原因は、寄生虫が体内に存在しないことではないか・・・。免役システムが機能するには、寄生虫の存在が必要なのだ。寄生虫がいなければ、免疫システムは無重力状態に置かれた植物のようになる。
寄生虫は万能薬ではなく、誰にでも効果があるわけではない。
人間の腸には、1000種類以上の細菌が棲んでおり、人体の他の場所にはさらに1000種が生息している。それらのほとんどは、見つかった場所でしか生きられない。
パスツールは、細菌と人間は相互に依存して進化してきたのであり、腸内の細菌を殺せば、人も殺すことになると述べた。
シロアリは腸内の細菌が死ぬとまもなく死んでしまう。細菌がいないと、分解しにくい好む食べ物を消化できないからだ。
おとなの犬は牛乳を消化することができない。乳牛、ブタ、サル、ネズミなど、哺乳類の成体すべてに言える。哺乳類にとって、乳はあくまで赤ちゃんの飲み物なのだ。
人間の祖先たちも牛乳を消化できなかった。しかし、今日、西洋人の大半は、おとなになっても牛乳を消化することができる。マサイ族は、牛の群れを追って移動しながら暮らし、大量の牛乳を飲む。
サバンナザルは、「ヒョウ」「ワシ」「ヘビ」という三つの言葉をもっている。おそらく人間の祖先も同じだ。そして、その次は「走れ!」という動詞だった。
チンパンジーは、一般に高さ3メートル以上のところに巣を作る。それは、ヒョウがジャンプできる高さより上だ。
地上で暮らすようになってから、ゴリラは大きく強くなった。それは、捕食動物に対する防御手段だろう。
人間の出産は午前2時前後が多い。夜中に赤ちゃんを産むのは、その時間帯なら周囲に身内が集まって眠っていて、何かあれば、起きて出産途中の母子を守ってくれるからだ。
進化の途上において、体にいい食べ物を美味しいと感じた人は、生きのびる可能性が高かった。舌は、人間の祖先をおだてて、正しい選択をするように導いた。味蕾が脳に味を感じさせるのは、食べ物の取捨選択を誘発するため。
人間の祖先がまだアフリカにいたころ、体毛がなくなると同時に、皮膚のすぐ下の細胞でメラニンが生成されるようになり、肌が黒くなった。その後、祖先の一部は暑い気候の土地を離れていったが、メラニンは相変わらず日光を遮り続けた。日光が遮断されると、体はビタミンDを生成することができない。日照量の少ない地域に移住した祖先のうち、肌が黒い人ほどくる病にかかりやすかったので、白い肌の遺伝子が優勢となった。
そもそも体毛を失わなければ、人類の肌の色はこれほど変化に富んでいなかった。
人間と細菌、寄生虫の関係をよくよく考えさせてくれる本でした。
(2013年8月刊。1700円+税)
2014年11月30日
井上ひさしの劇ことば
著者 小田島 雄志 、 出版 新日本出版社
井上ひさしの本は、それなりに読んでいますが、残念ながら劇はみたことがありません。
遅筆堂と自称していた井上ひさしの劇の台本は、きわめて完成度が高いことに定評があります。
著者は、井上ひさしの劇の初日に必ず行って、終了後にコメントするのが常だったそうです。すごいものです。
井上ひさしの劇は、ことばがコントロールされず勝手に飛び出してくる。その多彩さに、自由でムダな部分が面白い。
井上ひさしのことばのもつ遠心力のエネルギーには、ものすごいものがある。
ことばは、真実を掘り出すツルハシ。
ことばは、ボディーブローのように効く。
ことばは、常識を覆す。
ことばは、肩すかしを食らわせることができる。
ことばは、同音異義語で駄洒落ることがある。
ことばは、「死」と「笑い」を同居させることがある。
ことばは、ドラマティック・アイロニーを生むことがある。
ことばは、人間世界を俯瞰することができる。
ことばは、造語することができる。
ことばは、願い、誓い、呪いを短く強く発することができる。
ことばは、あらゆるものを対比・総合することができる。
井上ひさしは、思い切って「ことばの自由化」をやった。自由にことばの枠を広げたところから始め、近代劇の論理にとらわれないで、ことばが自由に飛び出た。
誰が演じても観るものを泣かせる芝居。それがすばらしい劇曲の証拠だ。
井上ひさしの本や劇をもっと読みたかった、観てみたかったと思いました。
井上ひさしも偉いけれど、この著者もすごいと思ったことでした。
(2014年5月刊。760円+税)
2014年11月22日
調理場という戦場
著者 斉須 政雄 、 出版 幻冬舎文庫
私とほとんど同世代の著名なシェフの体験記です。
フランスに渡って、その料理界に12年間いて、日本に帰って東京の「コート・ドール」の料理長に就任し、1992年からは、オーナーシェフとして活躍しています。
フランス料理界での苦労話は身につまされます。ひたすら堪え忍んだのです。
ひとつひとつの行程を丁寧にクリアしていなければ、大切な料理をあたり前に作ることができない。大きなことだけをやろうとしても、ひとつずつの行動が伴わないといけない。裾野が広がっていない山は高くない。日常生活の積み重ねが、いかに大切か。
窮地に陥って、どうしようもないときほど、日常生活でやってきた下地があからさまに出てくる。それまでやってきたことを上手に生かして乗り切るか、パニックになって終わってしまうか。それは、日常生活でのちょっとした心がけの差だ。
イザというときに、あきらめることはないか。志を持っているか。
相手に不快感を与えることを怖がったり、職場でのつきあいがうまくいくことだけを願って、人との友好関係を壊せないような人は、結局、何にも踏み込めない、無能な人だ。
自分の習慣を変えず、流れるままに過ごしていたら、きっと10年後も人をうらやんでいるだけだろう。だったら、仕事以外のものは捨てよう。
言葉は、人と人とのかけ橋であり、自分とまわりが一緒に生きていくうえでの潤滑油でもあり、個人がやすらぐメロディーでもある。そして、言葉は、体をつくるものでもある。
こいつは牙をむくかもしれないなという部分を相手にきちんと認知させないと、こちらがグロッキーになるまで、相手方からやられてしまう。
いい人なだけではないということを体から発するためには、勤勉なだけではダメ。のべつまくなしに働く甘さだけでなく、必要なときに必要な力を出せることが大切なのだ。
乱雑な厨房からは、乱雑な料理しか生まれない。大声でわめきたてる厨房からは、端正な料理は生まれない。
掃除することは、料理人としての誇りを保つための最低条件である。
日常性をすり込ませることで、お客さんとのコミュニケーションをとることができる。超絶技巧の積み重ねだけでしか出来ないものを出していては、お客さんは疲れてしまう。
一緒に食べている人との楽しい会話を促すような料理こそすばらしい。
採用するときの基準は二つ。気立てと健康。入ったら、まず片付けものと掃除。次にお菓子。その後、魚を下ろさせる。次はオードブル。
いやはや、料理の世界も本当に奥が深いですね。
(2014年8月刊。600円+税)
2014年11月 9日
虹の岬の喫茶店
著者 森沢 明夫 、 出版 幻冬舎文庫
不思議なストーリー展開の本です。でも、それでいいのです。多少あいまいで、ええっ、どうしてそうなるのと不思議感があるくらいが、ちょうどいいのです。何事も論理的にきちんとしすぎると、ギスギスしてきます。心にゆとりをもたせるためには、いくらかのミステリーがあったほうが前向き思考になじむのです。
映画「ふしぎな岬の物語」も早速みました。この本を読んでいましたから、本にあって映画にないもの、映画にあって本にないものが分かりました。両者あいまって、映画を見終わったとき、ほんわかした気持ちになって帰路につきました。いい映画をみた後は、いつも、ありがとうございましたと心の中で叫んでしまいます。
この本、そして映画は、吉永小百合のために書かれ、つくられたようなものです。彼女も年齢(とし)をとりました。でも、本当に美しいです。反核・平和のために今も大きな声をあげているのも偉いものです。ギラギラしたところがなく、ちょっととぼけた味わいすら出しているところが、たまらなくいいのですよね。
吉永小百合の、私にとっての秘密は、週に何日もプールで泳いでいるというのに、顔にゴーグルの跡が見あたらないことです。私なんか、週に1回しか泳いでいませんが、目のまわりには、はっきりしたくぼみがあります。
ゴーグルの違いなのでしょうか・・・。誰か、その秘密を知っていたら、教えてください。
岬の先にある古ぼけた喫茶店が舞台です。実際に、房総半島に、こんな喫茶店があるそうです。誰か、ブログで紹介してくださいな。でも、常連以外の客はなさそうですから、きっと採算はとれないでしょうね。それでは長続きしないのではないかと心配になります。
毎朝、湧き水を汲みに行って、コーヒーを湧かします。そして、「おいしくな-れ、おいしくなーれ」と呪文をとなえるのです。
ブラックのコーヒーって、私はあまり好みではありませんが、本当においしそうです。そんな青息吐息の喫茶店に、食いつめた刃物職人が夜中に泥棒に入ります。女主人は、「泥棒さんも大変ね」と声をかけ、心を通わせるのです。
私も、弁護士として、同じような思いを何度もしました。食いつめたあげく、無人の倉庫に泥棒に入ったところ、たまたまやって来たパトカーにライトを浴びせられ、逃げようとしたけれど、何日も食べていなかった空腹のため、何歩も走れないで倒れてしまったというケースを担当しました。私と同世代の人たちが食うに困って「犯罪」には知る姿をみると、本当に身につまされます。
安倍首相の進めている弱者切り捨て政策は本当に許せません。たまには、ほんわり、じんわり感を味わいたい人には、強くおすすめの本であり、映画です。
(2014年6月刊。648円+税)
2014年10月27日
未来のだるまちゃんへ
著者 かこ さとし 、 出版 文芸春秋
88歳の絵本作家が自らの生い立ちを語った本です。
わが家でも、さんざんお世話になりました。「だるまちゃんとてんぐちゃん」、「カラスのパンやさん」、そしてなんといっても「どろぼうがっこう」です。私は、子どもたちに何回も何回も読み聞かせてやりました。子どもたちは、何回読んでも、飽きることなく、いつも喜んで聞いていました。知っているセリフが出てくると、私と一緒に言うのです。それが読み手の私にも快感でした。
独特の雰囲気の絵です。なんだか素人っぽく、やさしい絵です。1000万人の子どもが読んだ絵本だとオビに書かれていますが、長く読み継がれる価値のある絵本だと思います。
著者は、私が学生のときに打ち込んでいた川﨑セツルメントの大先輩にあたります。
著者は東大工学部を卒業し、昭和電工に入り、会社員として仕事しながら、川崎市古市場でセツルメント活動に関わりました。
私も、同じ、この古市場でセツルメント活動に3年あまり、勉強そっちのけで従事しました。といっても、私は子ども会ではなく、青年労働者の山彦サークルという名前の若者サークルに加わっていました。アカ攻撃が加えられたりするなかで、ハイキングやオールナイトスケート、そしてグラフ「わかもの」を読みあわせたりしていました。そのなかで、社会の現実への目が開かれていったのです。それまでは、自分一人で大きくなってきたかのような錯覚に陥っていました。今では、残念ながら学生セツルメントはほとんど絶滅していますが、私の学生のころは全国大会に1000人以上の学生セツラーが全国から参集し、大変な熱気でした。楽しい思い出です。
著者が川﨑・古市場でセツルメント活動に関わったのは、1950年(昭和25年)ころ、24歳のときです。そのころの古市場は、焼け野原のあとにたてられた木造のバラックみたいな平屋がずらりと並んでいた。私が古市場でセツルメント活動していたときには、労働者の多くの住む住宅街でした。高層ビルはまったくなく、個人住宅と木造二階建てアパートが混在していました。決してスラム街ではありません。
セツルメント診療所は今もありますが、私のころは木造二階建ての小さい診療所でした。私は古市場に下宿、レジデントしていましたから、診療所の職員のみなさんに大変可愛がってもらいました。
子どもというのは、ときには大人よりも鋭い観察者だ。
古市場では、何より子どもたちのエネルギーに圧倒された。
セツルメントで運動会をすると、町じゅうの子どもたちが500人くらいも押し寄せてきて、てんやわんやだった。
子どもたちは、遊びでも何でも、時間や場所さえ与えてやれば、自分でつくり出して楽しむ力を持っているし、紙芝居をつくって見せてやらないといい成長ができないというものでもない。自分で楽しみを探し出し、その楽しみが次のエネルギーとなって伸びていく。それが生きる力であり、子どもというのは、そういう生き物なんだ。
川﨑のガキどもが、起承転結がちゃんとあって、人間がきっちり描いていれば、見てやるよ、と教えてくれた。だから、絵本を描くときの時間配分は、お話の骨組みを作るのに8割、絵を描くのに2割としている。
大人は先回りして子どもの心を読みとったように思っているけれど、それはたいてい早合点だったり、見当違いで、かえって子どもに辛い思いをさせていることも多い。
大人が自分のためを思って、そうしてくれたのが分かるから、その気持ちを傷つけたら悪い、否定したら悪いと思って、子どものほうが我慢している。
家庭環境がいいに越したことはないけれど、どんな家庭に育とうと、やっぱり肝心なのは本人の力であり、人格であり、感性だ。
子どもというのは、本当に好きなことなら、何としてもやるのだ。どうしてもやりたいのなら、大人や先生の目をごまかしてでもやればいい。そのくらいの知恵は子どもにだってあるはず。そして、それくらいの意気込みがなかったら、自ら水準を高めて、何かを達成するというのは難しい。本当にやりたいことなら、誰になんと言われようと、やらずにはいられない。それに向かって自らの意思で自らの力を注ぐのが、子どもというものだ。
子どもについての考え方を、根本から改める必要があると思わせる大切な指摘です。
がこさとしの絵本を一つも読んだことがないという人が、このブログの読者のなかにおられたら、それは明らかに人生の不幸です。今すぐ本屋が図書館に行ってください。そして絵本ですから、ぜひ声を出して、できたら子どもに向かって読んでみてください。心がほんわかしてくること間違いありません。
先輩、いい本をありがとうございました。引き続き、絵本を楽しみにしています。
(2014年6月刊。1450円+税)
2014年10月20日
きみは赤ちゃん
著者 川上 未映子 、 出版 文芸春秋
芥川賞作家の女性が、妊娠、そして出産という人生の一大事について、自らの体験を赤裸々に語り明かした本です。
さすがは作家だという軽妙な語り口で話が進行していきます。どうやら、ブログに現在進行形で語られていたようです。ですから、臨場感があります。
じっさいの妊娠生活は、私の想像をはるかに超えた、苛酷かつ未知すぎるものだった。
赤ちゃん(胎児)が育たないのは、受精卵の状態によるものがほとんど。だから、母親があれこれ心配しても、育つものは育つし、育たないものは育たない。
つわりが終わったとき。吊しベーコンを思い浮かべる。瓶詰めのアンチョビ。そして排水口。これまでなら、ちょっと思い浮かべるだけでも即座に吐いていたのに、難なくクリアできた。
そして、それからの食欲は、これまでに体験したことのないほどの凄まじさだった。とにかく、すべてを食べ尽くしていった。驚いたのは、何を食べても、頭がおかしくなるくらいに美味しいこと。
出産費用は、普通分娩だと60万円ほど。出産時に、国から42万円が支給される。
ところが、無痛分娩だと、国からの42万円とは別に50万円が必要となる。検診ごとに1万円かかるので、合計すると20万円。それをあわせると、ざっと140万円かかる。これも、日本では、無痛分娩が一般的ではないからだ。
骨盤が変化していくのを自覚する。大陸が移動するかのような変化が、手にとるように分かる。みしみし鳴って、本当に分かる。
無痛分娩の麻酔は、背中の脊髄あたりに針を刺して、管にかえて出産が終わるまでそれを刺したまま過ごすことになる。
1ミリの子宮口が出産のときには、全開10センチになる。
麻酔薬を入れたとたん、いっさいの痛みが、瞬間に消え去った。
結局、著者は子宮口がいくら待っても開かず、帝王切開になったのでした。
そして、生まれたとき、赤ちゃんを見ての気持ちが次のように語られます。
私はきみに会えて本当にうれしい。自分が生まれてきたことに意味なんてないし、いらないけれど、でも私はきみに会うために生まれてきたんじゃないかと思うくらいに、きみに会えて本当にうれしい。この先、何がどうなるかなんて誰にも何にも分からないけれど、分からないことばっかりだけど、でも、たった今、私はそんなふうに思って、きみを胸に抱いて、そんなふうに思っている。
帝王切開だったのに、手術の翌日に歩行。2日目にシャワー、そして5日間で退院。
生む苦しみ、育てる楽しみをしっかり味わい尽くしたという実感がひしひしと伝わってくる貴重な本だと思いました。
(2014年9月刊。1300円+税)
2014年10月 4日
人生は楽しんだもの勝ちだ
著者 米沢 富美子 、 出版 日本経済新聞出版社
著者は数学と物理が大好きな少女だったようです。
なにしろ、5歳のとき、同じように数学の好きな母親から「三角形の内角の和は二直角」というのを教わって、たちまち理解したというのです。恐るべき天才少女です。信じられません。いくつ言葉を並べても、そのときに受けた衝撃を余すところなく記述することは出来ない。
「こんなに面白いものが世の中にあるのか」
ええーっ・・・、だって、まだ5歳の幼稚園児なんですよ。強烈なショックを受けました。
幾何の証明を理解する我が娘の姿に、母の体にも電気が走った。
「これで、跡取りができた」
母は、そう考えて、心が震えた。
この著者の三人の娘さんたちも、やはり理系女子(リケジョ)になったようです。すごい遺伝子ですよね・・・。
著者の父親は、昭和20年月、ニューギニアで戦死(享年30歳)。恐らく戦闘中に死んだのではなく、凍死、病死、飢え死にでしょう。戦争とはむごいものです。
著者が小学5年生のとき、知能テストでIQ175。大阪府で一番になった。すごい少女です、まったくもって・・・。
そして、中学では数学部に入ります。信じられません。そんな部があったなんて。24歳の数学教師が難問を一年生の著者に真剣勝負を挑むのです。
連立方程式、因数分解、確率、統計。そして、高校の微分・積分まで・・・。
いやはや、開いた口がふさがらないことは、このことです。
私は、高校3年生まで理系コースにいましたが、2年生のとき、数学の才能がないことを自覚・痛感して、文系に乗り替えました。化学と物理は好きだったし、得意だったのですが、数学の「美しさ」を体感することが結局できませんでした。
高校で著者は泳げないくせに水泳部に入ったというのです。これまた大胆不敵なことです。そして、全国一斉模擬試験では、数学でなんとトップ。これまた、すごいと、読んでいるほうまで、他人事(ひとごと)ながら、快感を覚えますね。
著者は京都大学理学部に入ると、湯川秀樹教授の講義を受けました。
著者は日本物理学会の会長も務めたり、大活躍をしましたが、個人的には病気で「5年生存率」ゼロと診断されたこともあるのです。45歳のとき、乳がんで左右の乳房を全摘。そして70歳で甲状腺ガン。5回ものガン手術を受けたのに、手術の翌日から病室で論文を書いていたというのです。ここまでくると、神業(かみわざ)ですよね。そして、75歳になる今日も、元気なのです。
第一に、自分の可能性に限界をもうけない。身のほど知らずということ。
第二に、行動に移す。無謀とか、無鉄砲。
第三に、めげない。脳天気だということ。
第四に、優先順位をつける。
第五に、集中力を養う。
有限の時間と能力のなかで欲張って生きるには不可欠の要素である。一番大切なポイントは、自分の手で獲得すると決めてしまうこと。そうすると、世の中で怖いものは何もなくなる。
人生は楽しんだもの勝ちだ。自分で、そうすることに決めれば結果は勝手に着いてくる。
読んでいると、なんだか人生ってすばらしいね、ワクワクすることがたくさんあるんだねって思えるようになります。読んで元気の湧いてくる本です。
(2014年6月刊。1600円+税)
2014年9月29日
猟師の肉は腐らない
著者 小泉 武夫 、 出版 新潮社
私は著者のファンです。新聞で連載されている美味しいものシリーズも愛読しています。
コピリンコ、コピリンコ。チュルチュル。味覚飛行物体・・・。
いつも、著者の手づくり料理を本当に美味しそうだなと思いながら、ツバを呑み込んでいるのです。ただ、ときどきゲテモノ喰いの話になると、私は後ずさりしてしまいます。私も蜂の子とか、バッタ、ザザ虫までは食べたことがあります。長野県人が好みますよね。でも、クモとかトカゲそしてサソリとか、そこらあたりまでいくと、挑戦する勇気はありません。
著者は、よほどお腹が丈夫なようです。うらやましい限りです。
この本は、お盆休みの前、わずか250頁の本なのに、3時間もかけて、じっくり味読しました。速読をもって任ずる私にしては、画期的な遅読です。途中、喫茶店を移動して最後まで没入して読みふけりました。それほど夢中になって読み尽くしたということなのです。
なにしろ、奥深い山の中で、ターザンと呼ばれるような生活をしている男やもめの一人暮らしを著者がたずね、しばし生活をともにしたのです。そして、その男やもめ、いまこそ山奥で猟師をしていますが、かつては世界を飛びまわっていたのです。子どものいない猟師なのですが、実は父親から伝授されたことが山での猟師生活で生きているとのこと。ということは、この猟師が亡くなったとき、それを受け継ぐ人はいないということです。残念です。
私は、とてもそんな勇気はありませんが、山奥でこんな生活をしている人を絶やしてはいけないと思いました。だって、たとえば、薬草栽培です。ぺんぺん草は血止めの効果があり、ヨモギには殺菌効果がある。蛇(ヤマカガシ)に著者が咬まれたとき、猟師は、手のひらでよく揉んで、傷口に塗りつけ、それで治した。同じように、もっともっとたくさんの薬草を集めて、栽培するというのです。大いに期待したいですよね。
山に棲む赤蛇は、全身がバネで出来ているような生きもので、筋肉質のとれた身体は紡錘型をしている。その肉は地鶏に似て、とても美味しい。
猪の肉は、ぶつ切りにして塩をまぶして、縄できつく縛って、囲炉裏の天井に吊しておく。煙で燻されて、3ヵ月くらい吊しておくと、いつまでも食べることができる。
トイレは臭い。お尻を拭くのは干した蕗(フキ)の葉。これには消毒作用があり、お尻のまわりがきれいになる気がする。
山での昼食にアルコールは厳禁。そんなことをしたら、命を落としてしまう。遠足ではないから、お酒は一滴もダメだ。うひゃあ、それは知りませんでした。もちろん、夜はたらふく飲むのですが・・・。
セミの付け焼きも食べます。バットで木をぶん殴る。すると、セミは、突然の木の振動を受けて体がしびれ、脳しんとうを起こしてショック状態で飛べず、地上に落下する。それを拾って、串刺しにして、薪(たきぎ)の炎の上にかざす。
口の中に入れると、サクリ、サクリとやや乾いた食感がして、ダ液とまじってネトネト、ネチャネチャという湿った下あたりに変わり、つぶれたセミから不思議な味の体液としょう油の塩っぽい味がしみ出してきた。イナゴの空煎りのような、カイコのさなぎのような淡いうま味とか、かすかな苦味と渋味もあって、かなりアクの強い味がする。
虫を食うのには、焼くのに限る。煮たり、蒸したりするよりも焼くのが一番だ。
地蜂を捕るときには、赤蛙の肉をつかう。地蜂をやっつけるときには、火薬をつかう。黒いのは、桐の木でつくった木炭。黄色は硫黄の粉。白は硝石。黒7、黄1、白2の割合で混ぜて、火をつける。すごい煙が出るので、それで地蜂を麻酔させる。 地蜂は、炊き込み飯と甘煮にして食べる。
赤蝮(まむし)を捕まえると、小さな心臓を指先でつかみ出して、口に入れて呑み込む。精力がつくという。そして、苦袋(胆のう)も呑み込む。こちらは異に効く。真っ赤な血も呑んでしまう。そして、赤蝮そのものはぶつ切りにして味噌汁にする。赤蝮の味噌汁は、まな板の上で皮をむいた赤蝮を三センチほどのぶつ切りにし、鍋に入れて水を張り、囲炉裏の自在鉤に吊して炊く。沸騰してしばらくして味噌を加えて溶かし、冬につくった高野豆腐を三枚、手でパチン、パチンと折って入れる。また、庭のヨモギをつんできて、さっと洗って、手でちぎって入れる。
地蜂の炊き込み飯は、秀逸な味がした。飯の甘く耽美な香りとしょう油の郷愁をそそる臭い。そして、地蜂のわずかな野生の匂いが混じる。地蜂は、かむと淡く優美な甘味と濃いうま味が重層してくる。
著者は、ヤマカガシに手を咬まれたあと、アシナガバチに顔に刺されてしまいます。
そのとき、猟師は、顔に歯糞を塗り込め、そして小便をかけるのです。どちらも、アンモニアが入っているので、毒を中和して散らしてくれるのでした・・・。
猟師の道と工夫に思わず脱帽、というのが帯に書かれたフレーズです。いやはや、本当に、こんな知恵と工夫が消滅してしまうのは、あまりにももったいないです。
著者と猟師に最大限の敬意を表します。本当に、いい本をありがとうございました。
(2014年7月刊。1400円+税)