弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

人間

2016年5月30日

ちっちゃな科学

(霧山昴)
著者  かこ さとし、福岡 伸一 、 出版 中公新書ラクレ 

 かこさとしは、セツルメント活動の大先輩です。私は大学生のころに3年ほど、かこさとしは大学を卒業して、会社に勤めながらセツルメント活動をしていました。
そして、かこさとしの絵本には、うちの子どもたちも大変お世話になりました。「からすのパンやさん」や「どろぼうがっこう」などは、読んでいる大人も面白い絵本でした。もちろん、100万部をこえるベストセラーである「だるまちゃん」シリーズの絵本もいいですよ・・・。
90歳になる、かこさとしが手がけた絵本は、なんとなんと600冊。すごいですね。すごすぎます。目を悪くして、絵を描くのはやめたそうですが、本のほうは、今も原稿を書いているとのこと。いやはや、たいしたものです。あやかりたいです。
セツルメントというのは、ボランティアで子どもに勉強を教えたり、医療相談や法律相談をする組織。
私が大学生のころには、全セツ連(全国学生セツルメント連合)という組織があり、年に1回、全国大会を開いて経験交流していましたが、全国から学生が1000人ほども集まり、活気あふれる交流会でした。夜行列車に乗って東京から名古屋に行ったことを今も覚えています。私は子ども会ではなく、青年部に所属していて、若者サークルに入って、楽しく べったり、ハイキングや早朝ボーリング大会などをしていました。ところが、そんなサークルもアカ攻撃がかかってきたりして、社会の厳しい現実に学生は直面して、目を見開かされていくのです。
かこさとしが繰り返し「大勢」を描くのは、自分が世界の中心にいるとはとても思えないから。この世界は多様であり、自分はどこか端っこにいる。でも、端っこでも、そこは世界の中なんだということを言いたいから・・・。
かこさとしの絵本には、余白、何も描いてない空白の部分がたくさんある。そこは、子どもたちが想像力を広げるための「延びしろ」としての余白である。
子どもたちが理科離れしているとしたら、それは大人が理科離れしているからだ。
子どもの本が売れなくなっている。なぜか・・・。日本の母親が子どもの本を買わなくなったからだ。ええっ、子どもの本まで売れてないのですか、知りませんでした。そう言えば、昔ほど、絵本が話題にならない(なっていない)気がしますね。
「花咲き山」とか「八郎」とか、日本には本当にいい絵本がたくさんありますよね。ぜひ、子どもたちに語り伝え、読み聞かせたいものです。
(2016年4月刊。800円+税)

2016年4月22日

性のタブーのない日本

(霧山昴)
著者  橋本 治 、 出版  集英社新書

戦国時代に日本にやってきた宣教師は、日本人が好奇心の強いことに驚くと同時に、女性が強いこと、性風俗が開放的なことにもショックを受けていました。ルイズプイスの報告書に書かれています。
古代に「性交」のことを「まぐわう」と書いた。これは目交(まぐわう)であり、視線が合うこと。昔は、家族は別として、男女が顔を合わせることはなかった。だから、他人である男女が顔を合わせてしまったら、もうそこに「性交の合意」が出来てしまう。視線が合うと性交渉になる。 
近代以前の日本には、「おっぱい文化」がない。西洋は、古代ギリシャの女神像以来、オッパイ文化である。しかし、日本の彫刻の中心は仏像であり、仏様は女性ではないので、オッパイがない。江戸時代の日本では、浮世絵春画にも、大の男がオッパイにむしゃぶりつく図柄はまずない。それをするのは、子ども、幼児だけ。
オッパイがボンと出てお尻がバンと張っていると、「鳩胸出っ尻」(でっちり)と言われて、バカにされた。あまり体に凹凸(おうとつ)のない「柳腰」が良いとされていた。浮世絵師は、オッパイを描いても、乳首に色をつけなかった。乳輪も乳首も、肌と同じ白のままにした。
平安時代の貴族の娘は、自分名義の土地建物をもっている。不動産の相続は父から娘へされるのが当然のこと。反対に貴族の息子は相続できない。「住む家がほしけりゃ、自分で女のところに転がり込め」というのが、当時の「通い婚」の実態なので、いつまでも親の家に住んでいられない息子たちは、必死になって女との縁を求めた。結婚が成立したら、男は女の家に転がり込み、しゅうとである女の父から様々な援助を受けて、やがては女の邸を自分のものとし、これを女が生んだ娘に相続させた。
摂関政治の時代に価値があるのは、男ではなく、女だった。この日本は、昔から女が力をもっている国である。平安時代の前に、女帝は何人もいる。桓武天皇は、初めての男の天皇を父とする天皇だった。藤原道長の栄華を支え、摂関家に全盛をもたらした女たちが、今では次代の摂関家を担うはずの男たちの足をひっぱりはじめた。道長に栄華をもたらした、彼の遺産でもある娘たちは、摂関家の息子たちには大きなストレスとなった。競争相手に姉が加わって、頼通と教通の兄弟間の争いが激化するのは、当然のことだった。
日本の女性は、昔から、決しておとなしくなんかない。源頼朝夫人の北条政子。足利義政夫人の日野富子、徳川家康の乳母の春日局。この三人を「日本三大悪女」という。
「戦うのよ、進軍よ」と号令をかけた女性の天皇が二人いる。女帝があたりまえの時代、女性は権力闘争にすすんで参加していた。
私と同じ世代の著者ですが、さすがに学識が深いのに感服します。今や、全国の法律事務所の業務量の相当割合を不倫・男女間のトラブルが占めていると思います。性のタブーは、昔も今も、日本にはあって、ないようなものなんですよね。


(2015年11月刊。780円+税)

2016年4月13日

「ほら、あれだよ、あれ」がなくなる本

(霧山昴)
著者  茂木健一郎、羽生善治 、 出版  徳間書店

物忘れしない脳の作り方というサブタイトルに惹かれて読んでみました。
脳を若々しく保つためには好奇心をもつこと。運動を定期的にしている人は、認知症になりにくい。運動したほうが、肉体だけでなく、脳も若々しくいられる。私は週1回、プールで1キロ泳いでいます。これだけでは足りないのでしょうか・・・・。
脳は、その人がチャレンジできるぎりぎりのものに挑戦しているときが楽しい。脳は楽をすると、どんどん衰えていく。
度忘れするのは、脳のなかの側頭連合野から前頭前野に記憶を引き出す回路が使われないから。前頭葉は、脳全体の司令塔。前頭葉が活性化すると脳全体も活性化し、回路を強めてくれる。
ドーパミンは、前頭葉のために神様がつくってくれた素晴らしい物質。子どもの脳が若々しいのは、ドーパミンがたくさん出ているから。初めてのことや、びっくりするようなことを経験したときに、ドーパミンは出る。子どもは初めてのことに毎日のように出会う。だから、子どもの脳は、毎日デビュー効果でいっぱいだ。
人間の脳は、何歳になっても、ドーパミンを出す能力がある。人間は不安になることに挑戦しないとドーパミンが出ない。つまり、挑戦してみようという気になるかどうかが、非常に大切。
私は、このところ初めて本格的に小説(フィクション)に挑戦してみました。もちろん、体験と歴史的事実はきちんと踏まえているのですが、それをつなぎあわせるところは、すべてフィクションにしてみたのです。4月には一冊の本に仕上がる予定です。今からワクワク楽しみにしています。売れたらいいな・・・。皆さん、ぜひ買って読んでくださいね。お願いします。ちなみに、著者名は、このコーナーと同じです。
初めてのことに挑戦してドーパミンを出すには、受け身ではなくて、自分から何かをやってそれからうまくいったときのほうがドーパミンは出る。
大人になっても、子どもの心を忘れてはいけない。脳のなかに安全基地がないと挑戦できない。
人間の脳には、自分で自分を治す力、自己治癒力がある。どうしたらマイナスのエネルギーをプラスに変えられるかというと、人との絆が非常に大切である。
個性というのは、出来ることとできないことが一つになって個性なのだ。
人間は、今のありのままの自分を受け入れるのが大事だ。ひとそれぞれの幸福がある。
脳の好奇心や人との絆の大切さがよく分かる本です。

(2015年3月刊。1000円+税)

2016年3月18日

生涯を賭けるテーマをいかに選ぶか

(霧山昴)
著者 最相 葉月 、 出版  ポプラ社

  著者の名前は、「さいしょうはづき」と読みます。その『絶対音感』という本を読んだときには内容に圧倒された覚えが鮮明にあります。東京工業大学で朝一限目の講義をしたものが本になっています。当代一流の人々が登場して、その苦労話を語り聞かせてくれるのですから、面白くないはずがありません。
テーマは大切。テーマに対する思いが一番大事だ。
  人間は、ものごとが発見された順序にそって説明されると、一番よく理解できる。
  ああ、そうなのか・・・。だから、ほとんどの本で、結論から書いてなくて結論に至るプロセスから説明されているのですね。これまでは、まどろっこしくて、たまりませんでしたが、少し考えを変えてみましょう・・・・。
  生物が進化するシステムが次のように説明されています。DNAは、A(アデニン)とT(チミン)とG(グアニン)とC(シトシン)という4つの塩基で構成されている。このA,C,G,Tの分子の中で、何もしなくてもプロトンという水素結合のところが二本になることが、ごくたまにある。これは1万分の1くらいの確率。そうすると、Cが三本の腕で手を結んでいたGのところにAが来るようなことが起きてしまう。これが進化の原因である。つまり、生物というのは賢くて、天然にある量子科学的ゆらぎを利用して進化している。なんとなく分ったような気がします。
  生物の外観が美しければ、進化したと考える。見て、異常で、醜悪なものは、進化ではなく、異常個体とみなす。
ショート・ショートで有名な星新一は、アイデア捻出の原則は一つしかないと断言した。それは、異質なもの同士を結びつけること。
  SF作家は、矛盾したものを衝突させて、いわば夫婦ゲンカをさせて、次数が上がった世界を導き出し、それを起点として物事を書こうとしている。
  新しい話(アイデア)はこの世にないものだから、明後日(あさって)の世界からとってくるしかない。
人と会話するときには、事前に準備することが必要。
ともかく、継続、そしてやる気を長持ちさせることだ。
  統合失調症に親和的な人は、かすかな兆候を読む能力が傑出している人が多い。人間にとって必要不可欠な機能の失調による病気が統合失調症である。
私にとって、かなり(というか、ほとんど)難しすぎる本でした。それでも、人間の身体の神秘の一端には触れた思いがしました。死を覚悟した人にとっては、何も怖いものがないということも聞いていて、よく分りました。
テーマ選びの大切さをしっかり認識しました。


(2016年1月刊。1500円+税)

2016年3月17日

哲学な日々

(霧山昴)
著者 野矢茂樹 、 出版  講談社

  著者は西日本新聞にエッセイを連載していたそうです。私は読んでいたかもしれませんが、記憶にありませんでした。東大に理系で入って、大学生として12年もいて、今では東大で哲学を教えているそうです。しかも、座禅まで教えているなんて・・・。東大駒場に、そんな場所があったなんて、信じられません。
  哲学は体育に似ている。実技なのだ。教師が問題を提示して学生が受けとめる。簡単に答えは見つからない。知識を伝えるというより、哲学を体験してほしいということ・・・。
不測の事態は必ず起きる。そんなとき、スピードと効率だけを考えて前のめりに行動していると視野が狭くなり、柔軟性を失う。だから哲学が必要となる。いったい、これは何なんだと自分のやっていることを問い直すのが哲学だ。
  座禅は、1分間に吐いて吸ってを3回以下の速さで、ゆっくりやる。吐く息とともに、今しょい込んでいる余計なものをすべて吐き出すような気持ちで静かに吐き出す。自分を空っぽにしていく。何も考えない。囚われない。こだわらない。呼吸だけに集中して、ただ空気が自分の体を通って巡っていく。そうすると、透明感と言えるような澄んだ感覚になる。
  うひゃあ、そ、そういうものなんですか、座禅って・・・。
  座禅中は、いっさいの価値判断を捨てなければいけない。
子どもを「ほめて育てる」という方針は根本的に間違っている。ほめられて育った子は、ほめられるためにがんばるようになる。そして、そこから抜け出せない。そうではなく、共に喜ぶこと。一緒に喜んで、子どもが感じている喜びを増幅する。そして、その子が自分の内側から感じる喜びを引き出してあげる。
  なるほど、この点はまったく同感です。
哲学というのは、他の学問分野と比べて、妄想力の比重が大きい。
考えるためには言葉がなければならない。言葉によってはじめて、思考が成立する。だが、言葉はまた、思考を停止させる力も持っている。思考を停止させる言葉に対抗するには、やはり言葉しかない。冷静で、明晰な言葉を、私たちは手放してはならない。
  さすがに哲学者の書いた本だけあって、普段なら考えないような点をいろいろ考えさせられました。

(2015年12月刊。1350円+税)

 わが家の近くの電柱にカササギが巣をつくっています。山に近いからだと思いますが、3個もあります。通勤途上にカササギが枝を口にくわえて運んでいるのを見かけます。それにしても巣づくりの初めは難しいと思います。うまく落ちないように枝を組み合わせていくのですよね。誰にも教えられずに本能だけで巣づくりをします。そして、少々の強風が吹いたくらいでは巣は壊れません。
 実は、わが家の庭にあるビックリグミの木にも高いところに巣をかけましたが、結局、使われませんでした。
 電柱の巣は九電が毎年撤去してしまうのです。カササギは、それにめげずに巣をつくって、子育てするのです。偉いですね・・・。

2016年3月14日

山人たちの賦

(霧山昴)
著者  甲斐崎 圭 、 出版  ヤマケイ文庫

 今から30年前、1986年に刊行された本の文庫版です。ですから、今ではもうマタギの文化なんて、東北でもなくなっているのではないでしょうか・・・。その意味では、貴重な記録になっていると思いながら、興味深く読みすすめました。著者は私と同じ団塊世代です。
 ヒグマを撃つのは、7~80メートルの至近距離。ヒグマが確実に襲いかかってくる体勢をとり、スワッという瞬間に引鉄(ひきがね)をひく。つまり、運が悪ければヒグマに逆襲され、命さえ落としかねない覚悟でヒグマに立ち向かう。ヒグマ撃ちは、一瞬が勝負。弾が急所を少しでも外れると、ひとたまりもなく襲われる。慎重に的を狙うという余裕はない。ヒグマに関しては、逃れる方法はない。ヒグマも人間が怖いので、ただひたすらにらめっこをする。すると、だいたい逃げていく。
 ヒグマ撃ちに師匠はいない。自分で体験して覚えるもの。猟師にとっての三種の神器は、犬、足、鉄砲。犬は猟師の手、足、七感となる。アイヌ犬は、ヒグマと対等に戦える猟犬だ。
 マタギの狩猟には、厳然とした役割分担がある。集団を統率するリーダーは「シカリ」と呼ぶ。鉄砲の撃ち手は「ブッパ」、獲物をおいあげる役は「勢子(せこ)」、そして全体をみて獲物を確実に仕留めるよう指図するのは「ムカイマッテ」という。マタギ言葉では熊を「イタチ」と呼ぶ。
 長野県の白馬岳のボッカが荷を担ぐときに必要なのは、力じゃなくてバランス。重量物は訓練すれば担げるようになる。自分の体重の2倍の重さなら背負う。ただ、水ものはバランスがとりにくくて、背負いにくい。
 ボッカは休憩するといっても、決して荷をおろしたり、腰をおろして休むことはない。立ちどまって、20秒か30秒のあいだ、呼吸をととのえるだけ。荷杖を尻にあてて、これにすがるようにして立ったまま休む。
ボッカにとって、胃ほど大切なものはない。胃をこわしたら、山は歩けない。
雪渓を歩くには、なにより足を濡らさないこと。足を冷やすと、歩きにくくなる。
これらの山人をたずねて文章にしたころは、著者は千葉県の公団住宅に住んでいた。コンクリート・ジャングルである。そして30年後の今は、三重県尾鷹市に根をおろしている。
 山人の生活は、うらやましくもあり、ちょっと真似できないものでもあります。
 しばし、山人の生活を偲んでみました。でも、私にはヒグマやマムシに遭遇するかもしれない、そんな山中の生活はとても無理です。そんな勇気はありません。
(2015年12月刊。880円+税)

しばらく孫が来ていました。まだ1歳になりませんので、つかまり立ちは出来ますが、歩けません。はいはいしながら母親を必死で後追いする様子はいじらしい限りです。
 手の届くところにあるものには何でも触ってみようとします。好奇心旺盛で、何か変わったものがあると、すぐに飛びつきます。離乳食なので、食事をつくるのは大変でした(もちろん、私は出来上がるのを見ているだけです)。話せませんが、一生けん命、声をかけました。こちらの言っていることは分かっているのです。右手を上げて「ハーイ」というポーズをしてくれるので、声かけは楽しいです。孫たちが帰っていくと、怒濤の日々から、夫婦二人きりの静かな毎日に戻ってしまいました。孫は、来てうれしい、帰ってうれしい存在です。

2016年2月29日

からだの不思議

(霧山昴)
著者  奈良 信雄 、 出版  中経文庫

人間のからだって、宇宙の仕組みと同じほど不思議だと思います。
新生児の骨は350以上ある。成長していくにつれ、骨は長く強固になり、くっついて一つの骨となるため、全体の骨の数は減る。
背骨は、横からみると直線ではなく、ゆるやかなS字カーブを描いている。このカーブのおかげで、人間は重たい頭を支え、重量を分散させながら上手にバランスをとって、まっすぐに立つことができる。
血液は骨のなかでつくられている。骨髄で血液の生成に関わる造血幹細胞がつくられている。骨が血液をつくっているなんて、不思議ですよね・・・。
成人では、1年で20%の骨が新しく入れ替わっている。つまり、5年で全身の骨が新しくなっている。これって年齢(とし)をとっても同じなんでしょうか。
顔の表情をつくるのは、表情筋。表情筋は、自分の意思で動かせる髄意筋だが、すべてが顔面神経の制御下にある。表情筋は筋肉なので、使えば使うだけ発達する。
表情の乏しい人がいますよね。子どものころ、大人からたくさん笑わされることがなかったんですよね。気の毒な幼年時代を過ごしたのだろうと、いつも私は同情しています。5人兄弟の末っ子である私は、姉や兄たちにたくさん面倒をみてもらって可愛がられたことを(記憶としては、まったくありませんが・・・)、いま、心から感謝しています。
左利きの人は、9人に1人。
鼻は、両方の孔(あな)を交互につかい、片方を休ませながら、効率よく呼吸している。
うひゃあ、知りませんでした・・・。
太っている人は舌が肥え、首がかたくなっているため気道を圧迫しやすく、大きないびきが出やすい。
胃の容量は、空腹時には50ミリリットル以下だが、食後には1.5リットル、詰め込むと2リットルにもなる。胃には栄養を吸収する機能はない。貯蔵し、消化し、殺菌するだけ。
胃に「別腹」があるというのは、脳内にオレキシンというホルモン物質が出ると、胃や腸の働きが活発になり、胃を満たしていた食べ物が腸に押し出されて、胃の中に少し隙間ができるということ。なーるほど、そういうことだったんですね・・・。
母親と胎児は血管がつながっているのではないので、血液型が異なっていても問題はない。胎盤が大きな役割を果たしているのです。
肝臓は、全体の80%を切除しても、数日中に再生が始まり、数ヶ月から1年で元の大きさに回復する。アルコールの過剰摂取は肝臓を弱めるようです。私がビールを飲むのをやめて久しいのは、もう酔っ払って時間をムダにしないためです。
身体のなかで「薬」をつくり出すとか、体内で発電するとか、身体の不思議はたくさんありますよね・・・。
  
(2014年2月刊。650円+税)

2016年2月11日

ゆびさきの宇宙

(霧山昴)
著者  生井 久美子 、 出版  岩波現代文庫

  盲ろうの東大教授・福島智氏の生きざまを紹介している本です。
目が見えず、耳も聞こえない。3歳で目に異常が見つかり、4歳で右眼を摘出。9歳で左の視力も失う。14歳のとき右耳が聞こえなくなり、18歳ですべての音が奪われた。
無音漆黒の世界にたった一人。そこから救い出したのが、母の考案した「指点字」と「指点字通訳」の実践だった。恐るべしは母の愛、ですね。
盲ろう者は、黙殺され、抹殺されてきた。
盲ろうは、感覚器における全身性障害。コミュニケーションや移動に全介助が必要になる。盲ろう者は、内部の戦場体験をしている。それは、たった今も・・・。
自殺を考えたことはない。あわてなくても、いずれ、みんな死ぬのだから・・・。
盲学校の先生はこう言った。「おまえたちは、どういう位置にいるかを勉強しておいたほうがいい。社会に出ると、『見えない人間』とひとくくりにされて生きていかなければならないのだ」
盲ろうになった当初は、だれかと話していないと不安だった。沈黙は拷問だ。指を重ねて話していた。
「うるさすぎて、眠れない」。指点字は、触覚言語だ。指先など皮膚からの情報でコミュニケーションをするが、それが全身からだと、うるさすぎる。つまり、抱きしめられると、うるさすぎるということ。
いま、大学が通訳・介助するシステムが出来ている。3人の優秀な通訳介助者がいる。強いと思われていた福島氏も、適応障害になった。それで、自分も人間だと思った。どこか過信していたのかもしれない。
障害者の問題は、社会の本当の豊かさの実態を示すショーウィンドウである。
私には、目が見えず音の聞こえない世界というのは想像すら出来ません。恐ろしくてたまりません。しかし、障害者も一人の人格をもった人たちです。その人たちをふくめて生きていける寛容さが、どうやら日本社会は少しばかり弱くなっている気がします。少数者をいじめて楽しもうというヘイトスピーチなんて、その悪しき典型ですよね。許せません・・・。
  
(2015年2月刊。100円+税)

2015年11月24日

薬石としての本たち

(霧山昴)
著者  南木 佳士 、 出版  文芸春秋

  この著者の書いたものは、心の奥底に何かしら触れあうものがあるので、どうにも私の得意とする飛ばし読みができません。わずか190頁足らずの本なのですが、読み終えるのに1時間どころか、半日もかけてしまいました。なんといっても、医師の体験を通して人間の生死と絶えずかかわっていること、そして著者自身がパニック障害そしてうつ病にかかってきたことからくる文章の重みが、頁をめくる私の手を遅くしているのでしょう・・・。
  私は床屋には月に1度、行くのを楽しみにしています。格好の昼寝タイムなのです。瞬間的にぐっすり眠ることができる心地よさが何とも言えません。ところが、著者は、一人で床屋に行けなくなってから20年以上になるというのです。
著者は60歳のとき、還暦記念出版として短編小説とエッセイを集めた本を出した。文学界新人等を受賞してから作家登録して30年、全部で30冊の本を出した。
  小説やエッセイを仕立てる気力がないときには、他者の話を聞いて編集者とともに一冊の本に仕立て上げる行為は、かろうじて作家であることを確認する一所懸命の力仕事だった。
漢字をひらがなにするのを「ひらく」という。ひらきすぎると、わざとらしくなる。しかし、漢字が適度にひらかれた文章は風通しがよくなる。
  人間ドッグの受診者は、自費で安心を買いに来ている人たちだから、可能なかぎり安心を売ってあげる。ただし、安心の安売りはしない。
  私は、40代前半から、人間ドッグに入るようにしてきました。これは、「安心を買いたい」からなのですが、平日に公然と休んで本を読む時間を確保するためでもあります。歳をとるに従い、あちこち不具合が発見されるようになりましたが、あまり気にしすぎないように努めています。まあ、それでも気にはなるのですが、、、。
  作家は書いたものを何度も推敲し、一応の完成稿をしばらく寝かせたのち、読者になりきって読んで不満な部分をさらに加筆、修正し、納得のいったところで編集者に送り、その意見に耳を傾け、主として書きすぎた部分を削ってから世に問う。それが作家のあるべき姿だ。
  これって、モノカキ思考の私にとって、よく分かる言葉です。10年ほど前に映画にもなった著者の「阿弥陀堂だより」っていい本でした。そして、すばらしい映画でしたね・・・。

(2015年9月刊。1500円+税)

2015年11月22日

職業としての小説家

(霧山昴)
著者  村上春樹 、 出版  スイッチ・パブリッシング

  私と同じ団塊世代の著者による作家論です。モノカキを自称し、今も小説に挑戦中の私にとって、大いに共感するところが多々ありました。
  小説家の多くは、円満な人格と公正な視野を持ち合わせているとは言いがたい人々である。
  むむむ、法律家の一人として、いつも常識的には・・・と法律相談に来た人に説示している私には、小説家になる資格がないということになるのでしょうか・・・。
作家というのは基本的にエゴイスティックな人種であり、プライドやライバル意識の強い人が多い。
小説家には数多くの欠陥があるけれど、誰かが自分の縄張りに入ってくることには寛容だ。というのも、小説なんて、書こうと思えば誰にだって書けるものだから・・・。
  しかし、リングに上がるのは簡単でも、そこに長く留まり続けるのは簡単ではない。小説を長く書き続けること、小説を書いて生活をしていくこと、小説家として生き残っていくこと、これは至難の業であり、普通の人間にはまずできない。
  小説家であり続けることがいかに厳しい営みであるか、小説家はそれを身にしみて承知している。
  小説家とは、不必要なことをあえて必要とする人種である。
  小説を書くということは、基本的に鈍臭い作業であり、やたら手間がかかって、どこまでも辛気くさい仕事である。
  著者は、29歳のとき、自宅近くの新宮球場に野球を見に行った。バットがボールにあたる小気味の良い音を聞いたとき、ふと、そうだ、僕にも小説が書けるかもしれないと思った。これで、著者の人生が一変した。
  言語のもつ可能性を思いつく限りの方法で試してみることは、すべての作家に与えられた固有の権利なのである。そんな冒険心がなければ、新しいものは何も生まれてこない。
  著者は、ものを書くことを苦痛だと感じたことは一度もない。小説が書けなくて苦労したという経験もない。小説というのは、基本的にすらすらと湧き出るように書くものだ。35年間にわたって小説を書き続けてきて、スランプの時期は一度も経験していない。小説を書きたいという気持ちが湧いてこないときには書かない。そんなときには、翻訳の仕事をしている。
  小説家になるには、とりあえず本をたくさん読むこと。そして、自分が目にする事物や事象を、とにかく仔細に観察すること。
  1日に400字詰原稿用紙に10枚書く。もっと書きたいと思っても10枚でやめておく。今日は乗らないと思っても、なんとか頑張って10枚は書く。
長い仕事をするときには規則性が大切だ。朝早く起きて、毎日、5時間から6時間、意識を集中して執筆する。毎日外に出て1時間は体を動かす運動をする。来る日も来る日も、判で押したみたいに同じことを繰り返す。
  一人きりで座って、意識を集中して物語を立ち上げていくためには、並大抵ではない体力が必要となる。
  忠実に誠実に語源化するために必要とされるのは寡黙な集中力であり、くじけることない持続力であり、堅固に制度化された意識なのである。
  村上春樹は、原発に反対の立場を表明していますが、表だっての行動はあまりしていませんね。
  身体が大切だし、そのためには規則ただしい生活、そして身体を動かす運動する必要があることを強調しています。この点は、私もまったく同感で、それなりに実践しています。
  それにしても、35年間の作家生活で、スランプを一度も経験していないって、すごいことですよね・・・。それほど、たくさんの引き出しを脳内に貯えているのですね。さすがプロの作家です。
私はプロの作家にはなりたくないし、なれそうもありませんが、目下、小説に挑戦中なので、心身ともに充実した日々を送っています。
(2015年9月刊。1800円+税)

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