弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
司法
2010年5月18日
裁判百年史ものがたり
著者 夏樹 静子、 出版 文芸春秋
日本という国を知るうえで、裁判の現実を知ることは必須だとつくづく思わせる本です。
福岡在の高名な推理小説作家が、裁判史上著名な事件を改めて読みやすく紹介してくれました。なるほど、そういうことがあったのかと、ついつい膝を叩き、ぐいぐい文中の世界に引きずり込まれました。さすが推理小説を得意とする筆力です。
大津事件では、時の権力が裁判官たちに直接、露骨に圧力をかけます。日本の国を救うため、法を曲げろと迫ったのです。そして、それを逆に大審院長が担当裁判官たちに権力におもねるな、法を守れと直談判したというのです。
ともに、裁判の独立という考えが確立していなかったように思いました。といっても、現代日本の裁判官のなかには、時の権力が露骨に圧力をかけなくても、それこそアウンの呼吸で権力に迎合する判決を書いているんじゃないか、と思える判決が少なくありません。長らく住民訴訟をやってきて、残念ながら一度も勝利判決を手にしたことのない私には、そう思えてなりません。
大津事件で命拾いしたロシア皇帝(事件当時は皇太子)は、27年後、ロシア革命のさなか、レーニンのソビエト政府によって、ひそかに家族全員とともに銃殺されたのでした。50歳の時です。
明治天皇を暗殺しようと考えたひとがいたことは確かのようです。そして、そのための爆裂弾もつくりました。しかし、それだけのことなのです。ところが、社会主義思想をもっていた人々を一網打尽にして、多くの人をあっというまに死刑執行したのが大逆事件です。
裁判は証人尋問もないまま、公判開始から19日で結審し、死刑を宣告します。そして、判決の6日後には幸徳秋水以下、11人の死刑が執行されたのでした。恐るべき暗黒裁判です。というか、これでは裁判ではありません。政府という権力者による私刑(リンチ)であり、法服を着た私刑官でしかありません。ひどいものです。
戦前の日本に陪審裁判があっていたことは、私ももちろん知っていました。しかし、なんと陪審裁判の日本第一号が、大分地裁で始まったということは知りませんでした。昭和3年10月23日のことでした。当番弁護士制度を日本でいち早く始めたのが大分県弁護士会ですから、偶然のことでしょうが、大分にはそんな地盤があるのかなと思ってしまいました。
戦前の日本実施された陪審裁判は昭和3年から17年までの15年間で、484件。うち無罪になったのは81件。16.7%だった。
『真昼の暗黒』という映画があります。今井正監督の作品です。八海事件をテーマとしている映画です。一審の裁判長をつとめて死刑判決を書いた藤崎峻という裁判官が『八海事件―裁判官の弁明』という本を出したのだそうです。そこでは、判決で認定した時間を10分ほどずらして、それを「絶対動かないところ」と書いていたところ、なんと第二の本では「何時何分かははっきりしていない」と再訂正したというのです。自分の書いた判決文を著作で二度も訂正するなんて、酷いものです。信じられません。
ところが、その後、広島高裁で担当した河相格治裁判長は、犯行時間についてなんと秒刻みの認定をしたのです。こ、これにはさすがの私も驚きましたね。実は、まったくの間違いなのです。それを秒単位で、まことしやかに認定する高裁の裁判官がいるというのですから、世の中、いよいよもって信じられません。裁判官も間違うことがあると、軽くは見過ごせないでしょう。
こんな人は裁判官として明らかに不適格だと思います。思い込みが激しすぎる人が裁判官に少なくないのは現実ですが、そんな人は速やかに排除したいものです。そのためのシステムも一応はあるのですが、残念ながら十分に活用されているとは言えません。
裁判所がそんなシステムの存在を国民に知られないように努力し続けているからでもあります。
ともあれ、面白い本でした。
(2010年3月刊。1900円+税)
今年初めてのホタルを見てきました。毎年、五月の連休があけるとまもなくホタル探偵団からホタル発見の知らせが地元紙に掲載されます。
16日(日)の夜、8時過ぎに歩いて近くの小川に行くと、フワフワっと明滅するホタルの群れに出会いました。草むらにいるホタルに手を差し伸べると、黙って手のひらに移ってきて、じっとしています。懐中電灯で照らすと、体長1センチほどのホタルでした。ふっと息をふきかけて小川に戻してやりましたが、間もなく別のホタルが衣服に着地してしまいました。
とても細い三日月の上に、近世でしょうか、すごく明るい星が輝いています。翌朝の新聞を読んで、やはり宵の明星(金星)だと知りました。風のない五月の夜はホタルの出る季節です。ホタルは、何回見てもいいものです。
2010年5月14日
弁護士・布施辰治
著者:大石 進、出版社:西田書店
布施辰治弁護士の孫であり、日本評論社の社長・会長であった著者が等身大の布施辰治の姿を明らかにした力作です。
布施辰治は2004年12月、大韓民国から建国勲章を授与され、孫である著者が代わって受けとった。なぜか?
布施辰治は明治13年(1880年)に現在の石巻市で生まれた。布施は一般に「社会派」の弁護士と理解されている。しかし、はじめから「社会派」弁護士だったはずはない。 1920年の「自己革命の告白」以前の布施は、熟達の刑事弁護士として花形的存在だったし、「告白」以後も、布施の意識は、生涯を通じて刑事弁護士だった。
すべての人間は、逮捕された瞬間に社会的弱者になるというのが布施の認識だった。
「人生まれて刑事被告となるなかれ」というのは布施の警句である。
刑事弁護人というのは、ボランティアとしては成り立っても、職業としては成り立たない。それを布施辰治は可能ならしめた。他の弁護士の3倍、いや5倍もの仕事をした。そして、その3分の1、5分の1のエネルギーを自分の良心に反しない限りでの民事事件にあてた。つまり、布施辰治はエネルギーの3分の1は、5分の1は食べるために、残りは世のため、人のために使った。
被告人は判決が心配で、よほど親切な弁護をされても不満を感じる。そういう被告をも満足させるのが本当の弁論だ。弁論が情理を尽くして被告の立場を理解したものであれば、被告は有罪で服役しても、その弁論に心を支えられ、自暴自棄にならずにすむ。
これは、布施が刑事弁護人として歩み始めたころに訓育を受けた刑務所長の言葉である。
うむむ、なるほど、そうなんです・・・。
布施辰治は政府からにらまれ、逮捕・起訴されて2度も下獄しています。
1回目は、1933年に3ヶ月の実刑。新聞紙法違反、郵便法違反。なんと、獄中の依頼人へ手紙を渡したことが郵便法に違反するというのです。信じられません。
2度目は1939年です。3.15事件の弁護にあたった日本労農弁護士団が一網打尽にされてしまいました。
治安維持法というのは、弁護人が被告人を弁護しただけで犯罪になり、実刑を科されるというのですから、つくづく恐ろしい法律です。
布施辰治は、1926年に朴烈・金子文子大逆事件の法廷に立って弁論した。同年、朝鮮に渡り、各地で演説会を開き、また、たたかう朝鮮の人々と交流した。
治安維持法では、日本人には一人も死刑判決が出ていないが、朝鮮人の処刑者は50人をこえている。この法律の重罰化は、もっぱら植民地対策だった。
布施辰治は、虎狼の職とされる判事・検事・警官にも、同じ人間としての惻隠の情、あるいは良心というものがあって、それを呼び起こすことができると信じていた。判事や検事の人間性を信じ得ぬものが、どうして被告人の人間性を信じ得ようか。
そのような性善説なしでは、弁護士の職は、あまりにもむなしい。判事・検事説得の可能性を信じること、この思いが彼の活動を、長い力のこもった弁論を支えたのだ。
うむむ、なるほど、なるほど、よく分かります。見習いたい、身につけたい指摘です。
(2010年3月刊。2300円+税)
2010年5月13日
犬として育てられた少年
著者:ブルース・D・ペリー、出版社:紀伊國屋書店
アメリカの子どもの40%は18歳までにトラウマになりうる経験を一度はする。
2004年、アメリカ政府の児童保護機関に児童虐待あるいはネグレクトが300万件報告された。そのうち90万件近くが事実だと確認されている。17歳未満の子どもの8人に1人が過去1年内に大人からなんらかの深刻な虐待を受けていて、27%の女性、 16%の男性が子ども時代に大人から性的虐待を受けている。
アメリカでは、1000万人の子どもが家庭内暴力のある環境にいて、毎年15歳未満の子どもの4%が親を亡くしている。毎年80万人の子どもが里親のもとで暮らしている。虐待を受けた子どもの3分の1は、それが原因で明らかな精神的な問題を抱えている。
人間は学ばなければ人間的にはなれない。すべての人間が人間的な心を持っているわけではない。
彼女は、とても幼い時期に性的虐待を受けたせいで、脳のシナプスが非常に不幸な形につながりを作ってしまった。彼女のごく幼いときに関わった男性たちと、加害者の少年が、男性とはどういうものかという概念と、異性への対処法を決めてしまった。幼いころ周囲にいた人々によって、人間の世界観は形づくられてしまう。
男が自宅に入ってきて母親を強姦殺人し、そばにいた3歳の女の子まで殺そうとしたが、奇跡的に子どもは助かった。その子はいったいどうなるのか・・・。
ノドを切り裂かれた3歳の子どもは、泣きながら手足をしばられ冷たくなっている血まみれの母親の死体を元気づけようとし、自分も慰めを得ようとしていた。どれほど心細く混乱し、恐ろしかったことだろう。だから、医師の質問を無視したり、隠れたり、特定のものを怖がったりするという症状は、トラウマを寄せつけないために彼女の脳が築き上げた防衛手段なのである。このような子どもを治療するには、この防衛手段を理解することがとても重要だ。
呼び鈴、そう呼び鈴からすべてが始まった。呼び鈴の音が殺人者の到着を告げたのだ。日常的にありふれたものが、彼女を終わることのない恐怖に陥れる記憶を呼び起こす合図に変わってしまった・・・。
脳は、おびただしい量の情報を処理するため、世の中がどういうものかを予期するため、パターンに頼らざるを得ないのだ。
脳は、いつも、現在はいってくるパターンを、過去に貯蔵されたひな型やつながりと比較している。この比較のプロセスは、最初、脳の最下部のもっとも単純な部分、危険に反応する神経系の始まりの部分で行われる。情報が処理の最初の段階から上がっていくとき、脳は、このデータをもう一度見直し、より複合的に検討と統合を行う。けれど、最初に脳が知りたいのは、今入ってきているこのデータには危険の可能性があるのか、ということだけだ。その経験が安全だと分かっているなじみのあるものだったら、脳のストレスシステムは活性化しない。しかし、入ってきた情報がとりあえずなじみがなく、初めてあるいはよく知らない体験だったとき、脳はすぐにストレス反応を始める。このストレスシステムがどこまで活性化するかは、その状況がどれだけ危険に見えるかによる。重要なことは、何もない状態では受け入れるのではなく、疑うのが基本だということだ。少なくとも、新しい、未知のパターンの活性に直面したときには、さらに警戒する。この時点での脳の目的は、より多くの情報を得て、状況を検討し、どれだけ危険かを判断することだけ。人間が出会う、もっとも危険な動物は常に人間なので、声や表情や身ぶりなど言葉以外の部分に悪意が感じられないかをじっと観察する。
落ち着いた状態なら、人は脳の皮質部分だけで楽々と生きていける。脳の最高の能力をつかって、抽象的なことを考えたり、計画を立てたり、将来の夢を考えたり、読書したりできる。しかし、何かに注意をひかれ、思考を破られたとき、人間は警戒し、現実的になり、脳の活動の中心を大脳皮質より下の領域に移し、危険を察知するために知覚を鋭敏にしようとする。刺激に反応しつづけ、やがて恐怖を感じるようになると、脳の下部のもっとすばやい反応をする領域に頼らざるを得なくなる。たとえば、完全なパニック状態になっているときに起こる反応は反射的なものであり、事実上、意識ではコントロールできない。恐怖は、文字どおり、人間の頭を鈍らせる。これは、短いあいだ、すばやく反応し、その場を生きのびるための性質だ。
幼い脳には適応力があり、愛情や言葉をすばやく学ぶことができるが、不幸なことに、そのせいでネガティブな経験の影響も受けやすい。3歳児までの、脳の重要な社会的回路が発達する時期にネグレクトされていたので、誰かを喜ばせたり、ほめられたりすることの喜びが本当には理解できない。教師や友だちを怒らせて、拒否されても、それが辛いという気持ちにならなかった。正常な発達をしておらず、人間関係を喜びに感じることができないので、他人の思いどおりにしなければならないという必要性を感じなかったし、人々を喜ばせてもうれしくなかったし、他人が傷つこうと傷つくまいと気にならなかった。
社会病質者が他人に共感できないのは、他者の感情を感じとれないのと同時に、他者への同情心がない。つまり、他人の気持ちがまったく分からないというだけでなく、他人を傷つけても気にしない、あるいは、積極的に傷つけたいと思うのだ。
虐待やネグレクトでトラウマを受けた子どもに対して何かを強制したり、威圧したりするのは逆効果で、さらにトラウマを与えるだけ。
いやはや、とんでもないケースが世の中にはあるものですよね。子どもたちの心の闇が、大きくなって手のつけられないほど肥大化して社会に対して復讐する。そんなことにならないよう、温かい目で子どもたちをしっかり受けとめ、抱きしめてやりたいものだと、つくづく思いました。とても勉強になる本なのですが、こんな残酷な現実があるなんて信じられない、信じたくないという気になったのも事実です。でも、とりわけ弁護士にとって必読の本だと思います。
(2010年2月刊。1800円+税)
2010年5月11日
リクルート事件、江副浩正の真実
著者:江副浩正、出版社:中央公論新社
今は昔の事件となってしまいました。リクルート事件です。
1988年、51歳の著者は30年ほどつとめた社長をやめてリクルート会長に就任。このとき、グループ売上1兆円、経常利益1000億円。そして、リクルート事件が「始まった」のは1988年6月18日の朝日新聞。川崎市助役の川崎テクノピアビル建設疑惑から。この助役は、結局、起訴されなかった。
著者は、映像の力は強い。新聞を読むよりテレビをみる方が辛かったと言います。
私は日ごろ、テレビを全然みませんが、それはテレビ映像の生々しさが嫌だからでもあります。事故や事件の生々しい映像は私の心にグサリと突き刺さってしまい、映像のインパクトが強烈すぎて、何ごとも考えられなくなるのです。
著者を病院で取り調べたのは今の検事総長(樋渡利秋検事)でした。
当時のリクルートグループは500億円の利益をあげていた。その1%の5億円なら、寄付は非課税になる。その枠内で政治家のパーティー券を購入していた。
つまり、現体制を維持することにリクルートは利益があると考えていたわけです。そのこと自体についての反省は、この本にはまったくありません。残念です。
この本には、検察官の取り調べ状況が「再現」されています。
「特捜の捜査がどんなものか見せてやる。捜査を長引かせているのは、おまえだ」
「バカヤロー!検察官に対して何たる態度だ。検察官をバカにするのもいいかげんにしろ!おまえの態度は、あまりにも自分本位で、傲慢だ!」
「実に不愉快だ。これまで、キミに好意をもっていたが、憎しみと変わった。憎しみが倍加した。なぜ素直に罪を認め、調書に署名しないんだ!」
「実に不愉快だ。罪名拒否の調書は裁判で不利になるぞ!今日は、もう調べをやめる。帰れ!」
拘置所の接見室における弁護士との面会について、本当は秘密は保持されていないのではないのかと著者は指摘しています。
極小カメラ分野で、日本は世界一の先端技術の国である。取調室内の天井ボードの穴に極小電子カメラを組み込んだビスのようなものを貼って、そこから髪の毛ほどの細い高速デジタル回線か、マイクロウェーブで映像を本庁へ送信する。マイクは小型の1センチ四方、2~3ミリの厚みで、接見室のテーブルや椅子の下に設置し、無線で音声を送る。本庁では、隠しカメラやマイクで取調室の様子をモニターしている。
以上は想像だという断りがついてます。本当だとしたら、恐ろしいことですね・・・。
検事が机を持ち上げる。積み上げられた書類がドーンと音を立てて落ちる。
「立てーっ!横をむけーっ!前へ歩け!左向け左!」
壁のコーナーぎりぎりのところに立たされ、すぐそばで検事が怒鳴る。
「壁にもっと寄れ!もっと前だ」
鼻と口が壁にふれるかどうかのところまで追い詰められる。目をつぶると、近寄ってきて、耳元で
「目をつぶるな!バカヤロー!!オレを馬鹿にするな!オレをバカにするな!俺を馬鹿にすることは、国民を馬鹿にすることだ。このバカ!」
鼓膜が破れるのではないかと思うような大声で怒鳴られた。鼻が触れるほど壁が近いので、目を開けているのは非常につらい。検事は次のようなことも言った。
「そのような態度だと、弁護士の接見を禁止する。弁護士の逮捕も考える」
「おまえは嘘をついていた」
検事は、たたみかけるように、怒鳴った。
「立て、窓際に移れ!」
「オレに向かって土下座しろ」
新聞が書くことは世論。新聞が書いているのに立件しないと捜査の権威が失墜してしまう。
特捜の人員は、たかだか30数名、新聞、テレビ、新聞やテレビなどの記者は、我々の数十倍いる。こっちは手が足りない。
特捜は、疑惑があると報道されたなかから、あげられそうな立派なものを選ぶ。
それにしても、検事の自白強要はいつもながらのやり方なのに驚いてしまいます。
(2009年10月刊。1500円+税)
2010年4月10日
負けない議論術
著者 大橋 弘昌、 出版 ダイヤモンド社
アメリカ(ニューヨーク州)の弁護士が、アメリカで鍛えた議論術を紹介しています。
アメリカと日本はまるで違うかと思うと、そうでもなく、意外なことに似たところ、共通するところが多いようです。
相手を説得したいときは、自分と相手の共通点を探してみる。出身地、学校、職業、家族構成、趣味など、何かひとつくらいは共通点があるはず。相手にその共通点を示し、同類の人だと思われるように議論を進める。そうすると、相手は賛同しやすくなる。
自分の誇らしい話をしたいときには、自分の失敗談や弱点をまじえて話すのが良い。
大きな目的を達成するためには、小さなことには目をつぶることも必要。すべてが自分の思い通りに動くとは考えないことである。
陪審員のいる法廷では、法律理論をふりかざしたからといって裁判に勝てるわけではない。むしろ優れた弁護士は、クライアントを有利に導く証拠をストーリー仕立てにして、陪審員の心の中に植え付けていく。陪審員の心に染みいる話を聞かせるのだ。
人間の判断は感情によって大きく左右される。合理的かつ論理的に判断しなくてはいけないときでも、実は感情にしたがって判断している。感情に訴えることは、議論に負けないための大きな力となる。
アメリカには、ルール・オブ・スリーという言葉がある。物事を説明するときに三つの要素で構成すると説得力が増し、受け手に覚えられやすくなり、スムーズに受け入れられる。
私は、いつも「2つあります」といって、指を2本たてて、「一つは……」、「もう一つは……」と話すようにしています。そして、これをたいてい2回は繰り返します。このとき、相手の顔つき、表情を見て、本当に分かってもらえたか、測りながら話をすすめるのです。
日本の弁護士にとっても、大変役に立つことが、たくさん書かれている本でした。
(2009年11月刊。1429円+税)
2010年3月27日
世事見聞録 その3
江戸時代も今と同じで、不倫・不貞が流行していたようです。日本人って、この点も変わらないのですね。
「下賤の娘たるもの慎みの体更になく、不義をなすこと珍しからず。親を憚る心なく、外見外聞を厭ふにもあらず、或は親の元を遁れ逃げ去り、親の勧むる縁組を拒み、馴れ合ひ夫婦などのこと多く、或は父母へは不通になりて夫を持つ事、常の風俗となり、また人の妻妾なるもの、密通のこと尋常の事になりて、互ひに犯し合ひ奪ひ合ひ、また欲情に拘り、男を欺くあり、女を欺くあり、また夫婦馴れ合ひなどありて、金銀をゆすり取るもあり、また密通するのみならず、男の意地など言ひて、無体に人の妻を貰ひ懸け、貪りとるあり、また実夫の身上を奪ひて、密夫の方へ送りたる上に逃げ行くあり、人の身上を狂はせ、或は夫婦仲よくして子のある中をも、誑(たぶら)かして連れ出し、よんどころなく離縁に及ばせ、親は懸るべき娘を奪はれ、夫は家を守るべき妻を失ひ、父母を失ひて誑かさるゝもの多し」
「享保の頃に至っては余多ある事なりし故、大岡越前守工夫にて、密通の男へ過怠金一枚出させしといふ。金一枚は小判七両二分になる。尤もその頃の金一枚は今の三十両余にも当るなり。この過怠始まりて却つて密通のこと多くなりしゆゑ、間もなく止みしといふ」
「当世はさほど重き事に思はず、只密通数多き事ゆゑ、明白にして詮なきといふ懦弱なる了簡にて取扱ふ故、実夫密夫ども猥りに嘲弄し、そのうち止まる処、実夫は空気(うつけ)ものになりて恥辱を十分に被り、密夫は怜悧なる奴となりて仕廻ふ故、密夫たるもの身の過ちを知らず」
日本の女性が昔から強かったことは、次の記述からも、よく分かります。
「猥りに女の道乱れ、子孫にして或は親を侮り偽り、或は夫をないがしろにし、我儘気随の振廻ひ、常の風俗となれり。今軽き裏店(うらだな)のもの、その日稼ぎの者どもの体を見るに、親は辛き渡世を送るに、娘は髪化粧よき衣類を著て、遊芸または男狂ひをなし、また夫は未明より草履草鞋にて棒手(ぼて)振りなどの稼業に出るに、妻は夫の留守を幸ひに、近所合壁の女房同志寄り集まり、己が夫を不甲斐性ものに申しなし、互ひに身の蕩楽なる事を咄し合ひ、また紋かるた、・めくりなどいふ小博打をいたし、或は若き男を相手に酒を給べ、或は芝居見物そのほか遊山物参り等に同道いたし、雑司ヶ谷・堀之内・目黒・亀井戸・王子・深川・隅田川・梅若などへ参り、またこの道筋、近来料理茶屋・水茶屋の類沢山に出来たる故、右等の所へ立ち入り、又は二階などへ上り金銭を費して緩々休息し、また晩に及んで夫の帰りし時、終日の労をも厭ひ遣らず、却つて水を汲ませ、煮焚きを致させ、夫を誑かして使ふを手柄とし、女房は主人の如く、夫は下人の如くなり。邂逅(たまさか)密夫などのなきは、その貞実を恩にきせて夫に嵩り、これまた兎にも角にも気随我儘をなすなり。
今大小名の閨門を始め、女の気随我儘も奢り頂上し、下々卑賤の末々に行くに随ひ、右の如く夫婦女子の道乱れしなり。この風俗また国々在々に押し移り、父母を粗略にして女房を大切に取扱ひ、親類を疎遠にして縁者なるを懇切にする事になれり。これ世の信義を失ひ、淫犯の増長せしなり」
江戸時代の百姓がみな貧困にあえいでいたかというと、必ずしもそうではなかったのです。
「富める百姓は身分を忘れて、都会に住める貴人も同じやうに奢りを構へ、家居も古今雲泥の相違にて、門構・玄関・長押・書院・床・違棚など結構を尽し、書院そのほか物数寄(ものずき)を尽し、或は公儀へ冥加と号して金銀を上げて奇特ものとなり、苗字帯刀などを御免を蒙りて権威に募り、或は領主地頭へ用立金などして、その功に依つてこれまた苗字帯刀・扶持切米など免(ゆる)されて近辺に威を振ひ、小前(こまへ)百姓を誣げ遣ひ、或は小身なる地頭を侮り疎みて、宮門跡方そのほか有職の家へ取り入り、金銀賄賂を遣ひて用達または家来分などとなり、愚昧の民を恐れしめ、様々我儘をなし、また村役人その外すべて有余なる族は、耕作を召仕ひの下男女に任せ置き、己れは美服を著し、或は婚礼・婿取り・諸祝儀・仏事など、すべて武家の礼式に倣ひて大造なる招請饗応などなし、又は常に浪人などを囲ひ置きて、身分に非ざる武芸を習ひ、或は師匠を撰みて詩文章を志し、唐様を書き、和漢の書画風を学び、又は茶陽師・歌俳諧師・音曲の芸者などを抱へ置きて遊芸を学び、我が遊興の相手とし、或は繁花の地より美女を連れ来たりて妾となし、日々酒宴を催し、又は秘かに繁花の地へ遊びに出て、田舎には妻妾を置きながら、都会の地にも囲ひ女などを致し、或は遊里に泊り、妓女に戯れ子を拵へ、或は公事出入りを好み、己が身に不足なく隙あるに任せ、人の腰押しを致し、わづかなる事をも大なる出入りに及ばせ、人の身上にも拘るべき事をも厭ひなく、又は己が心に叶はざる時は、変死そのほか非義非道の事をも、訴訟の取次を致さず、無体に押し噤みて内済など致させ、或は大体の訴訟の事を始め、領主地頭の用向きなどに出て、その用事を次にし、世に自分の遊び事をなし、繁花に心を奪はれ、公事出入りの落著を長引く手間取りを却つて歓び、永遊びをいたし大金を費すなり」
この本を読むと、江戸時代って現代日本と同じように大変な時代だと思わざるを得ません。しかし、解説者(滝川政次郎)は誤解しないようにと、現代の私たちにクギを刺しています。
「江戸時代は嫌らしい、下らない時代であったという先入主を持っている現代人が、本書を読んで、江戸時代はこのように腐敗堕落、淫靡の極にあった時代であったという誤った認識を深めることを懼(おそ)れる。江戸時代の社会は、本書に述べられているほど悪いことばかりの社会であったわけでもない。
世事見聞録は、右に述べたような、貴重な江戸時代史の史料であり、且つ興味深き読み物の一つである」
あなたも、ぜひこの本を読んでみてください。江戸時代の日本人、ひいては日本人とはどんな人々であるのか、大いに目が開かれると思います。
(2005年4月刊。3500円+税)
2010年3月26日
世事見聞録 その2
江戸時代でも借金取立は苛酷なものがありました。武士はこの点でも泣かされていたのです。
「借り手は右体の不始末にて返すべき手段なきに、様々利口弁舌虚偽計略を尽し、借りる時は神仏の如く敬ひ、返す時は仇敵の如く悪(にく)むなり。借りたるものは貰ひたるものの如く心得、返すべき心底更になく、もし返す時は奪ひとらるゝ如く、呉れて遣はす如く心得るなり。また貸し手は猶更心底悪しく、いさゝか心切にて人の難儀を見継ぐにあらで、利足を奪はん為の強欲にて、少しも誣げとるべき目当てあるものへは、困窮ものまた不実ものをも恐れず、相手の見嫌ひなく、高利を貪り、もし元利の返済方違ふ時は、強催促、途中催促など、悪口雑言に及び、又は頭支配などへ訴へ出で、種々の事を申し懸けて恥を与へ、或は奉行所へ願ひ出で難儀を懸け、真に双方不実同志の所業、敵同志の掛引きに似たり。」
「体家士の困窮を付け込みて、金銭を貸す業体のもの余多ありて、座頭或は高利貸・日成(ひなし)貸などと唱ふる者も入り込むなり。然るに今日を凌ぎ兼ぬるに任せて、幸ひに右の高利なる金銭を借り、後の難儀ども見かへりなく急場を凌ぐなり。さてその利倍に責められて、終に勤め向きも出来兼ぬる仕合せになり、或いは虚病を構へて引籠り、又は返済滞りの筋にて留守居役・目付役などへ届け出られ、表向きの沙汰になりて押し込められ、また品により永の暇にもなり、或いは門前払ひなどになり、またその身に堪へ兼ねて出奔などいたす族もあり」
「依つて右体借金の筋を奉行所へ訴へるなどいへば、何より以て恐れて、たとひ今日の食料を欠きても利足などを入れ詫言いたし、甚しきにいたりては老父母及び妻子の衣類を剥ぎても済ます事なり。その償ひ出来兼ぬる時は大体身分に過失を得るなり。その行跡を見込んで、貸付業のもの諸家中へ入り込むなり。借金の筋にて侍の身分に拘るなどは、余りとやいたましき事どもなり」
「金貸しの流行するは、世に非道の起る基、貧人を拵(こしら)ふる基なり。また月なし銭・日なし銭・損料貸し・烏金(からすがね)などの貸し方あり。これは身薄なる貧人に貸して、殊のほか高利なる者なり。烏金といふは、朝烏の鳴く頃貸し出して、夕晩烏の塒に帰る頃取り返すをいふ。わづか一日の融通に1ヶ月に当る高利を取るなり。損料貸しといふは、衣類・夜具・蒲団・蚊帳など、一日何程といふ損料を極めて貸すなり。貧人はこれを借りて、それを又質に入れ、日々の損料と利の二重に費すなり。当世悪人は右体世に逢ひて金貸しとなり、わづかの金銭を忽ち大金に育て上げ、遣り上げ、善人は時世に後れて金銭を借り、利に利を奪はれて、忽ち貧人となり行くなり」
「当世、貸借の筋にて、世の中の混雑大方ならず。公事訴訟も十に八九はこの筋の事なり。くれぐれも貸借は貧福の偏る媒(なかだち)にて、悪人は貸し手となりて身を労せず、結構に過ぎ行く者多く出来て、人情鬼の如くにして、恩がましく毒を与へて利を貪り、善人は借り主となりて餓鬼道に堕ちたる如く、折角金銭を借りて一時を凌がんとすれば、忽ち炎々となりて、高利を取られ身を焦がすなり。右体鬼の如く行勢をなしても、もし滞りたる時は、或は家蔵を取り立て、又は家財・雑具・衣類・鍋・釜など押し取りにいたし、また妻娘などを売らせても取る。なほ届かざる時は、公辺へ訴ふるなり。借りては奉行所の詮議に逢ひ、身上のありたけを責め取られ、手鎖または牢獄の苦患に及び、親類または証人等までも困難に陥るなり。これまた吟味役人は、鬼の如くになりて、取り立てるなり」
「今の座頭は、先づ官金と唱へて、貧人に金銭を貸し附け、高利を貪り、或は利足一割二割を取る。また礼金と号して、これまた一割二割を取る。右の礼金・利息とも、貸し附ける時、本金の内にて引き取るなり。また証文は無利足にて、預り金の積りなどにて、もし返済滞りたる時は、右の預かり金の威にて取り立てるなり。その上僅か三ヶ月四か月の期月にて貸し附け、その期月に返済出来兼ぬる時は、また証文を書き替へ、新しき貸金に直し、その度毎に最初の如く礼金を取り、利足・月踊りなどいうて、一箇月を二三箇月となし、また月なし・日なしなどの極めにて、強欲非道に貪るなり。よって借りたる者は、利金・礼金・月踊りに引き落され、一箇年の内には本金の倍増しにも費えるなり。右体強欲非道を行つて、官職に有り付く事を今の風俗となり、当時の座頭の仲間に入り、初め半折懸(はんおりか)けとなるに、金拾両といふ」
「貸金の滞りたる時、先づ武士ならば、玄関の真中へ上り、声高に口上を述べ、居催促・強催促など云ひて、外聞・外見を構はず、また町家ならば、いかにも近所合壁へ聞ゆるやうに、悪口を並べ罵るなり。さればとて、全体借りたる筋が不義理になりたる上なれば、何程の事にも言葉返しも出来ず、もし云ひ返す時は猶更募り立つ故、何も尤もと会釈するの外なく、たとひ騒ぎたりとも、縛りもならぬもの故、それを見込みて強気に構へ、もしまた少しにても手を付くれば、大騒に申立、身体を傷つけしなど申し懸け、又は身の官職など唱へて、難渋を申し懸くるなり。尤も盲人にも限らず、当世流行の高利貸、日成貸の類はみな右似寄りたる流儀にて、やゝともすれば、人々の持て余すやうに仕懸くるものなり。そのうち目明きは少しは人情にて持ち合ひし所もあるゆゑ、左様にはなく、勘弁の品もあるなり。盲人はいはゆる無面目に仕懸くるなり。借り手は右の外聞外見を厭ひて、或は今日の食糧を欠きても調進いたし、或は老人小児などの衣類を脱ぎとりても返済する事になれり」
(続)
2010年3月25日
世事見聞録(その1)
著者 武陽 隠士、 出版 青蛙房
武陽隠士(ぶよういんし)が文化13年(1816年)に江戸時代の社会風俗の実情を、大いなる怒りをこめて書き上げた大著です。ときの将軍は徳川11代家斉です。寛政の改革を断行した松平定信は、4年前に老中を辞して風流三昧の日々を過ごしていました。
この本は、青蛙房(せいあぼう)が昭和41年(1966年)に新装版として出版しました。この本は3500円もしますが、江戸時代を知るためには必読の本だと私は確信しています。20年ほども前にこの本を読んで、大いなる衝撃を受けました。日本人が昔から裁判を好んでいなかったなんて嘘っぱち、大きな嘘だと言うことを確信しただけでも意味がありました。
江戸時代に裁判が多かったことを著者は次のように嘆いています。
「当世、公事訴訟の数の多き事、元禄享保の頃より競ぶる時は、十倍ともなりしか。往昔板倉伊賀守は、茶臼を挽きながら、公事を聴きしといふ。閑暇(のどか)なる事なり。そのころは奉行所に出ることを止めしと見ゆ。そのころより見競ぶる時は、元禄享保のころは定めて十倍程にもあらん。それより今はその十倍などにもなりなん。これ世の中に曲がり犯したるもの繁多なるゆゑに、下々上を凌ぐ悪知恵増長して、聴所へ出る事を心安く覚えたるが故なり……
さてまた公事出入りの訳も、百年ほど以前とは趣意違ひて、昔は義理の筋違ひたるを強く争ひしが、今の人は道理に構はず、損益利欲の事のみ争ふなり。然るに今の人は前にいふごとく、邪悪の智恵深きゆゑに、己が欲情を二重にも三重にも隠して工み謀りし事ども多く、善悪正邪正急に見分け難く、吟味逸々(いちいち)に手間取るなり。享保の頃は、奉行職大岡越前守は聡明の人にていまにその名高く、これが公事を取り捌く趣向を聞くに、そのころは世の中の人いまだ欲情薄く、近来欲情の沙汰の始まりし程の時ゆゑ、義理の筋が重(おも)になりたる事にて、裁判も致し安く、たとひ利欲謀計の事とても、その工み浅はかにて、善悪の筋分ち安く、また人々欲情の意地も薄き故、大なる声を発して叱れば、黒白忽ちに顕はれしと見ゆ」
武士と町人の間の裁判もありました。このとき、もちろん武士のほうが強かっただろうと思うのは現代人の思い込み違いで、実は町人が裁判に勝っていたというのです。
「義理を表にし、利勘を憎む武士は大いに損多く、また利勘を表にし、恥辱を厭はざる下人には、大いに徳多き世の中なり。依つて武士を相手取りて公事訴訟に及ぶことは、昔はなきことなり。今も国々にては絶えて無き事といふ。もし武士が町人百姓を非道にせし事あれば、上から僉議(せんぎ)すれば格別の事、下から訴へる事はならずといふ。尤もの事なり。御当地は武士を相手取りて訴訟すること容易に出来る故、少しのことも大騒に申立て出づる事なり」
「双方五分づつの失なる時は、先づ武士が負け、町人が勝つなり。勿論武士は十の内九ツまで利屈宜しくとも、後の一ツに利欲の筋あれば、その一ツにして負くる事なり。依つて少しばかりの利欲拘りたる事にて、従来の大恩を請けし武士を、町人が取つて落す事あり。武士は兼ねて恩をあたへ置きしとても、その恩を余りて過失の供入りにもならずして、負けて仕廻ふなり」
「江戸・京・大坂そのほか繁花の地の町人遊人等は、居ながら公事出入りを致し、いさゝかの事をも奉行所へ持ち出して埒を明くるなり。殊に手代など遣ふ程の身上なるものは、己れは病気と称して手代を出し、又は公事師(くじし)などいへるものを雇ひて名代(みょうだい)を出し、公事の懸引を打ち任せ置き、己れ病気と奉行所を偽りながら、その日一日家内に慎み居るにもあらず、私用または遊興の事に他出いたし、公儀を恐るゝ気色少しもなし。また公事師などといへるものは、奉行所の懸引き功者にて、この事を申し立つればこれに響き、彼れを押す時はこれに落著するなど、上を謀り相手を犯し、吟味役人に怖ぢ恐るゝ真似方の気にて、さも実明に見せ、その容体よくよく役人の気に入り、進退押し引きその図に当り、方便虚偽をはかるなれど、通して遺し置く程の事になりて、終には白きを黒きといひ紛らして勝をとる事にするなり。また関東の国々、別けて江戸近辺の百姓、公事に出ることを心安く覚え、また常に江戸に馴れ居て奉行所をも恐れず、役人をも見透し、殊になにかの序に兎角江戸へ出たがる曲ありて、やゝともすれば出入りを拵(こしら)へ、即時に江戸へ持ち出し、また道理の前後も落著の詰りもよくよく弁へて、心強く構へたるものなれども、遠国の百姓は中々左様のことにあらず」
江戸時代に裁判を起こすときには、今のように印紙をはる必要もなく、タダでした。支配者の権限行使を促すということだったからです。
(続)
2010年3月 2日
こんな日弁連に誰がした?
著者 小林 正啓、 出版 平凡社新書
たいへん刺激的なタイトルです。私の身近な弁護士から、なぜ書評に取り上げないのかと尋ねられたのですが、そのときには私はこの本の存在を知りませんでしたし、もちろん読んでもいませんでした。慌てて東京出張の折に浜松町の大型書店で探し求め、その晩に一気に読みました。大変よく調べてあります。でも、本を読むだけではなかなか真相は分からないものだと実感させる内容でもありました。私は、この本で問題となった日弁連総会の全部に出席して、現場の雰囲気を体験しています。それをふまえて、この本の言う陰謀論って、ええーっ、何のこと……という疑問を禁じざるを得ません。
この本は、翌日、日弁連会館の地下の書店では正面の一等地に平積みしてありました。タイトルに惹かれて買う人が多いことでしょう。売れないモノカキの私としては、羨ましい限りです。
司法改革について、ひとつの参考文献になるものだとは思いますが、後付けだけではよくわからないので、この本にも紹介されている大川真郎弁護士の書いた『司法改革』(朝日新聞社)とか、日弁連執行部の内情をリアルに紹介する『がんばれ弁護士会』『モノカキ日弁連副会長の日刊メルマガ』(いずれも花伝社)も、ぜひ読んでください。
弁護士人口増員に必死で抵抗する日弁連の態度は、「既得権擁護」「思い上がり」という世論の集中砲火にさらされていた。
これは、まったくそのとおりです。決して財界だけが非難、攻撃していたのではなく、ほとんど全部のマスコミ、そして消費者団体も同調していました。このことから来る重圧はかなりのものがあります。日弁連執行部は、マスコミの論説委員や司法記者と緊密に懇談の場を持って、日弁連の主張を理解してもらうよう努力したのですが、あまりに溝は深く、容易に克服できるようなものではありませんでした。増員反対論者は、実情をよく話せば国民はきっと増員に反対する理由を理解してくれるとよく言いますが、私の実感では、それほど容易なものとは思えません。
老いてますます盛んな団塊世代の弁護士が会務を牛耳っている。
これは大半あたっていると団塊世代である私も認めます。しかし、実際には、司法改革をリードしてきたのは、団塊世代より一世代上の世代であることは客観的な事実であることを忘れてはいけません。それは中坊公平元会長をはじめとして、法曹三者をふくめた各界の指導者は残念ながら、みな団塊世代といったら失礼にあたる年長者の方々です。1962年生まれの著者からすると、団塊世代もその上の世代も同じように見えるのかなあと思ったことでした。
そして、「このままでは戦争になる、日本は再びアジアを侵略すると言う黴臭い議論」を唱えている弁護士のなかに、団塊世代もいることは事実ですが、日弁連総会で前面に立ってアジるのは、団塊世代というよりさらにその上の世代です。そして、これは「族」支配の構造とは無縁ではありませんが、直結しているわけでもありません。
「族」弁護士がいることは事実です。しかし、それは必要不可欠の専門家集団です。たとえば、倒産企業の再建や整理手続について、専門弁護士集団がいないと実務的に大変なことになって、日本経済が混乱することは必至ではないでしょうか。同じことは消費者や公害・環境問題、憲法そして司法問題についても言えるのです。
人権派弁護士は、弁護士人口を少数のまま抑え、経済的な余裕を確保することを人権活動の基盤と認識していた。これを弁護士の「経済的自立論」という。しかし、この理屈は根本的な弱点をかかえていた。日本では、弁護士が少ないために人権救済がいきわたっていない、という批判に耐えられないのだ。日弁連主流派は、経済的自立論を1994年頃までは主張するが、世論の支持をまったく受けられなかったため、以後、この理屈を封印する。
私も「経済自立論」には与しません。しかし、この考えには、今でも人権派弁護士かどうかを問わず、弁護士界の内部に根強い支持があることは間違いありません。
司法試験に合格するまでは合格者を増やせと声高に主張していたのに、合格したとたん、食えなくなるから増員には反対するという者が増える。これはいかがなものかという批判がかねてよりありました。
日弁連主流派という明確な潮流があるのか、私には判然としません。ただ、日弁連の歴代執行部を支持する勢力は、私をはじめとして相当数いて、強力であることは間違いありません。
近年、弁護士が経済的に困窮していることなどから、裁判所に政策形成を促す訴訟は減っていると思われる。
ええーっ、これって、どうなんですか……。とても弁護士が書いた文章だとは思えません。だいいち、日本の弁護士がすべて経済的に困窮していると言う事実は果たしてあるでしょうか。若手の弁護士、老齢の弁護士のなかに経済的に困窮している人がいることは間違いないと思います。しかし、弁護士が全員、「経済的に困窮してきている」などという事実は、私の周囲を見ましても認められませんし、弁護士白書にもそのような指摘はありません。政策形成を促す訴訟という意味では、私が長年やっている住民訴訟もその一つですが、少なくなっているとしたら、それは「経済的困窮」以外の要因にもとづくところが大きいと思います。
著者は1994年12月21日の日弁連臨時総会について、陰謀があったとし、日弁連の歴史上最大の失敗として記録されるべき大失態だと言います。しかし、私もこのときの総会に出席していましたが、陰謀があったなどと今も思っていませんし、「歴史上最大の失敗」「大失態」とも考えません。
あくまで司法試験合格者増に抵抗する日弁連の態度は、「ギルド社会の既得権擁護の思い上がり」として激しい批判にさらされることになった。その結果、日弁連は国民からまったく指示されなくなり、発言力を失って、当事者のイスから引きずりおろされることになる。
この「国民からまったく支持されなくなり、発言力を失って、当事者のイスから引きずりおろされ」たというのは、いささか言いすぎだと私は思います。ただ、それに近い状況が生まれていたことは事実です。この当時、マスコミ論調は極めて厳しいものがありました。
ところで、この本は、一方でこのように書きながら、「法曹人口の大幅増員が経済界の総意、あるいは、相対多数であったかについては疑問である」ともしています。これは、あとになって冷静に考えれば、という類の批判の典型ではないでしょうか。たとえば、小泉元首相が実現した郵政民営化について、あれは国民の総意でも経済界の総意でもなかったことは、今になってすれば明らかだと私は考えます。しかし、あのとき、それを押しとどめる勢力もいるにはいましたが、圧倒的に孤立させられ、奔流の中に押し流されてしまったのではないでしょうか。
著者が、「日弁連が法曹人口増に徹底抗戦せず、早期に一定の増員に応じていれば」としているのは、実は、私もまったく同感です。少しずつ増やしていき、地方における弁護士過疎も具体的に解消していっていれば、いきなり毎年3000人増ということにはならなかったと考えます。しかし、日弁連内には強固な増員反対論があり、それが足を引っ張っていて、徐々に増員するのを難しくしてきた経緯があります。
執行部、とりわけ日弁連会長のリーダーシップは大きいものがあります。それは認めます。それでも、日弁連が強制加入団体であって、右から左まで、自民党議員から共産党議員まで構成員とする団体である以上、そしてそのことが発言権の裏付けである以上、執行部が独走したり、内部の不団結をもたらすような方針は提起できないのです。そうすると、必然的に一歩足を踏み出すべきときに、時間が遅れたうえに半歩しか踏み出せないということが起きてしまいます。私も、日弁連執行部にいたとき、そのもどかしさを十分に体験しました。
たとえば、日弁連が強制加入性であることを批判し、任意加入性にせよという攻撃は最近こそ弱まりましたが、強烈なものがありました。結局、弁護士も行政の指導下に置き、その力を減殺してしまおうと言う動きは強力だったのです。日弁連がいろいろな政策提言をするのを嫌う政界・経済界の意向を反映した動きです。なんでも規制緩和という動きが大手をふるっていて、それとのたたかいに日夜苦労していたのです。
法曹一元に熱狂した多くの弁護士は、法科大学院構想を支持し、司法試験合格者の大幅増加を容認することになった。
著者はこのように書いていますが、この点についても違和感があります。「法曹一元化に熱狂した多くの弁護士」という書き方には、どれだけの根拠があるのでしょうか。私は法曹一元化になったらいいと今も昔も考えていますが、だからといって熱狂していないし、それを実現するために法科大学院を支持したという気持ちはほとんどありません。合格者を増やすのなら、確かに何年間かみちり勉強してもらった方が良いと考えたのでした。
著者は議論の現場におらず、あとから本を読んだだけで批判のための批判をしている気がしてなりません。著者自身は法科大学院について、当時どのように考え、また、今どのように考えているのでしょうか……。
著者は、「日弁連の惨敗」とか、「日弁連には、権力闘争の当事者となる能力がまったくない」と決めつけていますが、自身が弁護士であるのに残念だなとしか言いようのない表現です。
いろんな人のいる日弁連が、しっかりした議論をふまえて、一定の方向性を出すならば、それが全員一致でないとしても、世論にそれなりのインパクトを与えることができる力を日弁連は依然として持っていると思います。また、それを期待する国民は少なくありません。その点についての積極的意義が語られていないのは、残念無念としか言いようがありません。
(2010年2月刊。760円+税)
2010年2月19日
回想の松川弁護
著者 大塚 一男、 出版 日本評論社
松川事件が起きたのは、1949年8月17日のこと。私は生まれたばかりで、まだ1歳にもなっていませんでした。今では完全な冤罪事件であり、被告人とされた人々が無実であることは明らかなのですが、警察は事件直後から共産党の犯行だと大々的に宣伝したのでした。これによって、当時の国鉄や東芝の組合運動、当時は今と違って労働運動に力があったのです、は大打撃を受けてしまいました。
そのデマ宣伝をした新井裕・福島警察隊長(今で言う県警本部長)は、その後、左遷されるどころか、ついには警察庁長官にまで上り詰めた。もう一人。被告人からデタラメな「自白」調書をとった辻辰三郎検事も、検事総長にまでなった。
これって実に恐ろしいことですよね。これでは警察も検察も反省するはずはありませんね。シロをクロと言いくるめた人間が、それが明るみになっても出世していくという組織では、自浄作用を期待するのが無理でしょう。問題は、それが60年も前のことであって、今では考えられもしないことだと言いきれるかどうかです。私は言いきれないように見えます。最近のマンションへのビラ配布をした人を捕まえて23日間も勾留したというのも恐ろしいことではありませんか。
松川事件について、警察庁(当時の国警本部)は、盗聴器を警察署内の弁護人接見室にすえつけたが、弁護人らに警戒されてはっきり聞き取れず効果がなかった、と反省する報告書を部外秘で作成した。
ええーっ、と思いました。今でも、警察の面会室において、否認事件のときには立ち聞きされているんじゃないかと心配することがあります。留置所は弁護人にとって夜でも面会できるし、被疑者も煙草を吸わせてもらえるなど便宜の良い半面、こんな怖さがあるんですよね。
最近でも、全国刑事裁判官会同をやっているのか知りませんが、かつてはよく開かれていて、法曹会出版として公刊もされていました。
1954年に松川裁判で第二審・有罪判決を出した鈴木禎次郎裁判長が丸一日、裁判官合同で報告したということです。この鈴木裁判長は、有罪判決を言い渡すとき、「本日の判決は確信をもって言い渡す」との前口上を述べたことでも有名です。ところが、被告団が猛烈に抗議すると、たちまち、「真実は神様にしか分かりません」と逃げたのでした。実のところ、主任裁判官は無罪の心証を持っていて、もう一人の裁判官と鈴木裁判長も、有罪とする被告人の数が異なっていたというのです。ここまで評議内容が外部に漏れるのもどうかと思いますが、それはともかく、当時のマスコミは鈴木裁判長をあらん限りにほめたたえたそうです。マスコミもひどいとしか言いようがありません。権力迎合のマスコミほど、情けないものはないですよね……。
被告・弁護団が不当な有罪判決に対して即日上告したのに対して、当時のマスコミが「望みなきもの」と非難し、松川裁判を批判していた広津和郎氏などを揶揄していたというのも許せません。マスコミの事大主義的な態度は、今もときどき露見しますよね。
無実の人々が14年間も戦い続けて、やっと無罪判決を勝ち取った事件を弁護人として担当した著者が振り返っていますが、今日なお大いに学ぶべきものがあると思いました。
(2009年10月刊。2500円+税)