弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

司法

2009年8月 1日

裁くのは僕たちだ

著者 水原 秀策、 出版 東京創元社

 裁判員裁判がいよいよ始まります。なんと、裁判員が買収攻勢にあうのです。法廷が終わって、自宅に帰るまでをずっと尾行されていました。フツーの市民ですから、何の警戒心もなく、スーパーに寄り道するくらいで自宅に直行しますから、すぐに素性は分かってしまいます。そこに、「あいつを無罪にしてくれたら500万円やる。今すぐに300万円、成果が出たら200万円」、こんな声がかかったとしたら、どうでしょう。アメでだめなら、ムチもあります。
 「被告には有罪だ。死刑にしろ。死刑に出来なくても、出来る限り重い刑にしろ。さもないと、ただではおかんぞ」
 こんなアメとムチが裁判員に襲いかかったとき、裁判員のみんながすぐに裁判所か警察に届け出をしてくれたらいいのですが、どうするでしょうか……?
 この本は、『このミステリーがすごい!』大賞を受賞した人が書いています。なるほど、こんな誘惑(アメ)と危険(ムチ)があるのか、と改めて自覚させられました。
 裁判員選任手続のとき、裁判長が「テレビや新聞を見てもいいけれど、それによってこの裁判について予断を持たないようにしてください」と訓示した。もちろん、そんなことは無理だ。有罪が確定的であるかのような報道に繰り返し接していたら、影響を受けないはずがない。それは裁判長だって同じこと。いかにも、「とりあえず訓示はしました」という、いいわけ用の言葉と態度だった。なーるほど、そうも言えるのですね……。
 この本の主人公は、学習塾のチェーン店の責任者をしていますので、個人塾の実態についても語られています。本筋ではありませんが、面白い指摘です。
 個人塾というシステムは、ほとんどの子どもにとって成績を伸ばすのには向いていない。伸びるのは最初の2か月のみであって、あとはぱったり止まってしまう。競争のない所に成長はない。これは人類普遍の法則である。そのくせ、個人塾は授業料が高い。
 個人塾に求められるのは、成績の向上ではなく、安心である。親にとって子どもは自分の大切なペットなのだから。
 なーるほど、そういうことなんですかね……。
 この本の最後のナゾ解き部分は、私にはとてもついていけないと思いました。あまりに著者の都合にあわせているような、無理を感じました。
 ただ、裁判員裁判が始まり、いろんな市民が参加して、2時間も3時間も真面目に討議するというのは大変なことだろうと推察します。その予行演習の一つに、この本はなるのかなと思いました。
 
(2009年5月刊。1500円+税)

2009年7月31日

雪冤

著者 大門 剛明、 出版 角川書店

 横溝正史ミステリ大賞の受賞作だということですが、なるほど、ぐいぐいと惹きつけられます。神戸からの帰りの新幹線で一心不乱に読みふけりました。
 ミステリー小説ですし、犯人捜しは、いくつものドンデン返しがあって、意外な結末を迎えるのです。したがって、粗筋を紹介するのもやめておきます。ともかく、日本の死刑制度を考えさせる一作であることは間違いありません。
 ただ、最後の謎ときの段階に至って、やや落としどころが乱暴ではなかったかと気になりました。最後まで読者を謎ときに惹きつけ、その期待を裏切らず、また意外性を持たせるというのは、とにかく至難の業だとつくづく思います。
 この本は、司法試験に苦労して合格した人が出てきたり、61歳で弁護士稼業をやめた人が出てきたり、かなり弁護士業界の内幕を知っていないと描けないような状況描写がいくつもあります。もし著者自体がその位置にいないのであれば、かなり弁護士に取材を重ねたことでしょうね。
舞台は京都です。鴨川にホームレスがいて、同志社大学やら龍谷大学の学生たちも登場してきます。殺人罪で死刑囚となった息子をもつ61歳の弁護士が、主人公のような存在で登場します。
 最近、凶悪犯罪を犯した死刑だ、すぐに死刑にしろという風潮が強まっていますが、私はそれはとても危険だと考えています。この本では、死刑執行ボタンを押す国民を抽選によって有権者から選んだらどうかという案が真面目に提案されています。死刑制度を存置するというのなら、他人にやらせずに、自分が死刑執行ボタンを押し、人間が死んでいく姿を見届けさせるべきだというのです。実際には無理なことでしょうが、それを嫌がるようだったら、死刑制度について簡単に賛成してほしくないというのは、私の率直な気持ちでもあります。
 ミステリ大賞の選書の評が最後にのっていますが、さすがに、なるほどと思う評です。
 最後のどんでん返しの連続が逆効果としか思えなかった(北村薫)。
 多少の無理筋を押してでも、最後の最後までどんでん返しを出そうとする本格ミステリ的結構に作者の心意気が感じられた(綾辻行人)。
 まことに、ミステリー小説を書くというのは難しい人生の作業だと思います。つくづくそう思いながら、私も及ばずながら似たような小説に挑戦中なのです。乞う、ご期待です。
 
(2009年5月刊。1500円+税)

2009年7月26日

「稼げる」弁護士になる方法

著者 鳥飼 重和、 出版 すばる舎リンゲージ

 タイトルからは、なんだかエゲツない稼ぎ方のノウハウでも書かれているのかと勘ぐってしまいますが、実際に読んでみると、きわめてまともなことが淡々と書かれています。
 これで、オビにあるように「今の年収を10倍にするのは容易」と言われると、私には、その気がありませんが、ええっ、そ、そうなの…と、腰が引けてしまいます。
 著者は、独立して3年目で年収が1億円の大台に乗り、6年目で年収から経費を差し引いた所得も1億円を超えたそうです。東京で、これだけのことを実現したというのは、やはり、すごいことだと田舎の弁護士として思います。日経新聞の弁護士ランキングに4年連続で登場し、今や所属弁護士が27人もいる東京の法律事務所の所長というのですから、たいしたものです。
 そんな著者は、なんと私と同世代、つまり団塊の世代でした。なんだか、私と雲泥の差がありそうです。ところが、そんな著者なのに弁護士になるのに時間がかかり、落ちこぼれだったといいます。司法試験に通算18連敗。合格したのは39歳のとき。これまた、すごい記録です。
 新しい分野を開拓していけば、仕事はたくさんある。現状を振りと考えるか、チャンスと考えるか、その違いは大きい。
 人の悩みを解決して、なおかつ自分も元気になれる。こんなにすばらしい仕事はなかなかない。いくらお金になる仕事であっても、社会の役にたち、しかも社会から評価されなければ意味がない。弁護士は、やりがいのある仕事だ。
 知恵と信用。この2つが弁護士の最大経営資源である。
 よい仕事をして、社会に貢献できれば、お金があとからついてくる、はじめからお金を追い求めるのは、本末転倒だ。
 タイトルにある「稼げる」ことは、あくまでも結果であって、理想や目的ではない。弁護士の仕事の理想は、社会の役に立つこと、困っているひとを助けること、つまり、社会正義の実現にある。この理想を追求していくと、自然にお金が付いてきて、稼げる弁護士になる。
 弁護士のつとめは依頼者と一緒に悩むことではなく、その悩みを解決すること。そのため常に冷静な目で問題に取り組む必要がある。
 1週間に1度、頭をリセットする時間を持つ方が良い。頭の中を真っ白にすると、新たな活力がみなぎってくる。遊ぶときは、仕事を忘れて、頭の中を真っ白にする。すると、ストレスが発散して、元気な自分が戻ってくる。
 なかなかいいことが書いてあります。これで年収が10倍になるとは思えませんが、前向きになるのは間違いないと、私も思います。その意味で、若手弁護士だけでなく、弁護士以外の人が読んでも面白く役に立つ本です。
 
(2009年4月刊。1500円+税)

2009年7月23日

手のひらのメモ

著者 夏樹 静子、 出版 文芸春秋

 この人の本は、いつ読んでも自然に無理なくすっと頭に入ってきます。うまいですね、筋の運びに不自然さがありません。日常のごくあたりまえの生活感覚にもとづいていますので、安心して筋を追うことができます。
 裁判員裁判に補充員として呼び出された主婦の「体験」が本になっています。もちろん、裁判員裁判は制度としては始まりましたが、実際の裁判は8月から9月にかけてスタートすることになります。
 福岡でも、9月から始まると聞いています。私も、ぜひ法廷で裁判員に向かって弁論してみたいと考えています。若い弁護士に負けないよう頑張るつもりです。でも、ちょっぴり心配ですので、若手と一緒にやるつもりです……。
 事件の罪名は保護責任者遺棄致死罪です。夫を亡くしたキャリアウーマンの女性が、ぜんそくの持病をもつ長男(6歳)を自宅において出かけて仕事をしていたところ、長男がぜんそく発作のために死亡していた。女性は仕事先からすぐに帰って医師に診てもらうべきであったのに放置していた、という事案です。
 弁護人は無罪を主張しています。当初、3日間の予定で始まったのに、予期せぬ目撃者が現れ、新しい証人として採用されたため、1日延びて4日間になります。そこで、延長出来ないという人の代わりに主人公が裁判員になるのです。
 法廷での証言のあと、評議が始まります。それは、毎日の裁判の終了時、休み時間にちょくちょくあり、そして、証人調べの終了後にまとまって議論します。
 主人公は、検察官と弁護人のそれぞれの主張を聞いて心が揺れ動きます。自分の体験を踏まえて考えようとするのですが、なかなか難しいのです。
 たとえば、弁護人は次のように主張しました。
「検事調書のなかで、被告人が『ご想像にお任せします』と答えていることを、検事はあたかも被告人が愛人との情交を認めた証拠のように述べた。しかし、検事の取り調べは、被疑者から望み通りの答えを引き出すまで、繰り返し執拗に問い続けるもの。被告人はついに根負けして、想像に任せると答えてしまった。ところが、検事の調書の中では、自分から答えたような形になってしまっている。このように、検事の調書とは、被疑者が自分で書くものではなく、検事が書いて読み聞かせるものであるということを、ぜひ覚えておいていただきたい」
 これは、本当にそのとおりなのですが、実際にはなかなか普通の市民に分かってもらえないところです。やっていない者がウソの自白なんてするはずがない。本当はやったから自白したのだろうという決めつけがなされます。
 裁判官は、評議にあたって次のように切り出しました。
「これからの評議では、まず検事の論告を検討の対象に据える。それに対して、弁護人の弁論をぶつけてみる。論告が証拠で裏付けられていれば、揺らぐことはないはずだ。論告が弁論によってぐらつくかどうか、意見を出し合って、一つ一つ論告を検証していきたい。
 論告が弁論によってもぐらつかなければ、被告は有罪。犯罪の重要な部分でぐらつけば無罪となる」
 ふむふむ、なるほど、そのとおりです。
「評議では乗り降り自由。一度、自分の意見を出しても、他の人の意見を聞いて、そちらのほうが正しいと判断したら、そちらに乗り換えてかまわない。いったん口に出した意見は変えられないということはない。自由に思ったことを言い合いたい。裁判官もあとで遠慮なく議論に参加していきたい」
 実際には、この本のようにうまく議論がかみあって進行するのか、心配なところもありますが、そこは、それこそ民主主義にとって大切な寛容の精神で臨みたいものです。
 なお、この本は福岡県弁護士会の船木誠一郎弁護士も監修しています。船木弁護士は、私の尊敬する刑事弁護の第一人者です。
 
(2009年5月刊。1524円+税)

2009年7月16日

隠された光

著者 堺 弘毅、 出版 治安維持法犠牲者国賠同盟福岡

 戦前の福岡で、治安維持法によって逮捕され、その日のうちに虐殺されるなど、犠牲となった人々の足跡を丹念にたどった労作です。2段組450頁もの大作であり、決して読みやすい本ではありませんが、そこで紹介される特高警察による弾圧は凄惨ですし、非道、あまりにもむごいと言うほかありません。
 特高が踏み込んだ家の2階から飛び降り、脊髄骨折したためまもなく死亡してしまった24歳の女性の話は泣けます。
 北海道出身の西田信春という共産党九州地方委員長は、小林多喜二と同じく、逮捕された1933年2月11日、その日の深夜までに殺されていたのです。久留米駅で逮捕されて福岡まで連行され、福岡警察署で拷問によって深夜までに殺されてしまいました。そして、九州大学法医学教室で解剖され、遺骨は福岡市内の無縁墓地に葬られたのです。この2月11日には九州では50人もの人々が裁判にかけられたのでした。
 西田信春については、一高、東大で一緒にボート部に所属し、寮の同室で生活もともにした大槻文平が次のように追悼しています。この人は、日経連会長でもありましたから、まさに財界の中枢にいた人です。
 彼(西田信春)は、決してでしゃばらない、はにかみ屋であったが、芯の強い、しかも誠実な努力家だった。日本社会の混迷期にあって、純でいちずな社会変革への熱情が彼を犠牲者として終わらせるに至ったのは、残念な限りである。
 いま、ペシャワール会の現地代表として活躍している中村哲氏のお父さん(中村勉氏)も紹介されています。
 中村勉氏は、給仕として働いていたところ、その英才を電力学会の鬼と呼ばれた松永安左衛門に認められて給費生として福岡工業学校に入学し、さらには早稲田大学に入学して再び若松に戻って、火野葦平と交流を深めていた。同時に左翼運動にも力を入れ、指導的立場にいた。しかし、昭和7年の2.24事件で逮捕され、懲役2年、猶予5年の判決を受けた。
 この紹介文を読んで、私は中村哲医師の不屈の心意気のルーツを思い知った気がしました。
 実は、この本には、私が生意気盛りの中学生のころ、半ば馬鹿にし、半ば畏敬の念を払っていた理科の教師も登場するのです。鍋田惣一という人です。その息子は、私の同級生でした。
 自分という存在を知るためには、歴史を振り返ることが大切だということを実感させられる本でした。
 青森に10年ぶりに行ってきました。私が大学1年生のときに出会ったサークル仲間がいるのです。今回は畑仕事仲間の人たちと一緒に陶芸家宅(ととろ工房)で会食しました。陶芸家の先生は食事までつくれるのです。最後は自らの手打ちソバでした。楽しく歓談することができました。
 サークル仲間の畑も見せてもらいました。黄色と橙色のアリストロメリアの花がたくさん咲いていました。私も花だけでなく、野菜にも再挑戦してみようという気が起きました。
 
(2009年4月刊。2300円+税)

2009年7月14日

長沼事件、平賀書簡、35年目の証言

著者 福島 重雄・水島 朝穂・大出 良知、 出版 日本評論社
 司法分野の本を読んで、久々に心の震えがしばらく止まらないほど感動しました。実にすばらしい本です。35年前の福島裁判長の日記が公開されていますが、実に素直に気負いの感じられる書きぶりであり、畏敬の念に打たれました。
 この本がなにより画期的なのは、長沼事件で、自衛隊は憲法9条2項が禁止する「戦力」にあたるから違憲だと判決した、福島裁判長の当時の日記が公開されていることです。
 「今までの裁判所は、なんだかんだと言いながら、自衛隊の憲法9条問題を避けてきた。だが、いつかはどこかで、誰かがやらなければならない問題である。……夕方、一人、役所の裏門を出る。孤独な闘いが裁判官の心を揺さぶる。平和と民主主義への闘いが」
 「今日は会議室を使って起案した。それにしても、この事件で感じたことは、いかに裁判官が憲法論をやるのを恐れるのか、憲法について判断するのを回避したがるか、ということ。それにしても陪席諸君は意気地がない。もっと勇気をもたなければ、これからの裁判所を背負ってはいけない。やや失望した」
 「正邪は歴史のみが、これを言うことを得る。俺は、ただ自らが正しいと信ずる道にしたがって進むのみである。人を気にするな」
 判決後の日記に福島裁判長はこう書いた。
 「人生を賭しての頑張りであった。人、男として生まれたからには、何か一つ世に残り、歴史に刻み込まれる仕事をしたいものである。法律家としての、裁判官としての私にとっては、まさにそれがこれであった。それを無事に終えられて、なにより幸せであった。
 歴史は流れる。国民は、人民は、平和を求める。歴史は流れる。希望の灯は次第に明るくなる」
 福島裁判長は、このとき42歳。実は、海軍兵学校を卒業している(78期)。306分隊に所属し、今ではハウステンボスになっている長崎県の針尾島に配属されていた。306分隊の同期が毎年集まる会合には欠かさず出席し、最後には海軍の旗を掲げて軍歌を歌う。そんな元軍人が、自衛隊は違憲だという判決を下したのです。すごいことです。
 福島裁判長は、24人もの証人を採用した。そのなかには、遠藤三郎という元陸軍中将がいた。陸軍士官学校長もつとめたが、反骨の軍人であり、戦後は日中友好と反戦運動に関わった。遠藤元中将は、参謀本部で作戦計画の立案に関与した経験から、日本は領土を守るという発想は初めからなく、常に戦場を外地に求めていたと証言した。
 源田実・元空幕長は、正直に、自衛隊の能力ではアメリカ軍の基地を守ることしかできないと述べた。アメリカ軍は日本を守る能力はあっても意思はなく、自衛隊は日本を守る意思はあっても能力はない、ということです。
 平賀書簡の実態が、いかにひどい裁判干渉であったか、唖然とさせられました。
 札幌地裁の平賀所長から、所長室に5回も6日も呼ばれて、「この事件は重要案件だから慎重に審理しろ」と繰り返し言われた。その上の手紙である。決定そして判決の内容を知っての「慎重に」ということは、国を負かすなというに等しい。
 所長室に入って福島裁判官がソファに座ると、その真横に平賀所長が座り、左肩を自分の肩でグッ、グッと押しながら、「ねえねえ、きみ、慎重にね」と言ったというのです。想像するだけでも気味悪い光景ですよね。
 この平賀書簡について、札幌地裁では緊急の裁判官会議が開かれます。なんと、土曜日の午後1時に始まり、夜中の午前0時までかかっています。40人もの裁判官が出席しての会議でした。結論は、平賀所長に対し口頭による厳重注意処分でした。
ところが、平賀書簡がマスコミに報道されると、自民党の側から猛烈な巻き返しが始まります。結局、国会の裁判官訴追委員会では、平賀所長については何ら非違は認められないとして、訴追しない決定がなされたのに対して、福島裁判長のほうは訴追猶予処分となったのです。いやはや、とんだ茶番劇ですね。白を黒と言いくるめるような決定だとしか言いようがありません。
 それにしても、最近の名古屋高裁判決でイラクへの自衛隊派遣が憲法違反であると明確に弾劾されたのは胸のすく快挙でしたが、それを契機として長沼事件の意義が再び脚光を浴びるなか、福島裁判長(今は富山県で弁護士)が元気に社会に向かって発信されていることを知って、私まで元気が湧いてきました。やはり、やるべきとき、言うべきときには、きちんと言動で示すべきなのですね。そして、今が、そのときだという気がしてなりません。
(2009年5月刊。2700円+税)

2009年7月11日

法律相談のための中国語ノート

著者 宇都宮 英人、 出版 林田印刷

 これはすごい。心底、そう思いました。著者は私と同世代、福岡市内で活躍しているベテラン弁護士です。京大空手部で主将をつとめていた猛者だなんてとても信じられない優男(やさおとこ)です。でも、今でも日の里団地で子どもたちを中心とした空手サークルを主宰しているのです。いつぞや、結婚式で空手の型を演じてくれましたが、さすがに見事に決まっていました。身体がぶれないのです。
 そんな著者は、これまた見かけによらない語学の天才なのです。以前、一緒に中国領事館を訪問したことがありますが、そのとき中国語を苦もなく話をしているのを、私など呆気にとられて眺めていました。
 その著者が、今度は中国人が日本で法律相談をするとき、どんなことを訊いてくるのか、それにどう回答したらいいのか、例文をあげて中国語表現を併記した本を作ったのです。まことに実践的な本です。たとえば次のような例文が紹介されています。
 Q,離婚したら在留資格はどうなりますか。日本にそのまま住み続けることができますか。
 A,離婚したら、配偶者という在留資格を失います。ですが、子の親権を取得して一緒に生活していたら、定住者の在留資格を取得できます。
 A,中国人の夫婦であっても、日本の裁判所に離婚訴訟を起こすことができます。ただし、裁判所は、離婚の成立や効果について、中国の法律によって判断を下します。
 著者は、弁護士活動の中の得意分野の一つとして、高齢者・障がい者問題も扱っていますので、その分野の問答もあります。
 たとえば、「合理的配慮をしないことも差別である」という文章は、実は、中国語表現では、「合理的な便利さの提供を拒絶する」となるといいます。これは視点の違いから来ているのではないかと著者は指摘しています。なるほど、と改めて感心してしまいました。
 私も、外国人と結婚した夫婦の破綻後の子どもの親権などをめぐる相談を受けることがあります。この本は、それが中国人だったらどのように言ったらよいのか、分かりやすい例文と中国語が併記されていますので、すぐに使える実践的な手引書です。
 福岡を拠点として、中国語の同時通訳者として活躍中の張愛氏が監修していますので、一段と安心して使える本になっています。ぜひ、みなさん手にとって見てください。なお、この本は、単行本としては著者の3冊目となります。
 
(2009年6月刊。1260円+税)

2009年7月 5日

司法改革の時代

著者 但木 敬一、 出版 中公新書ラクレ

 検事総長が語る検察40年。これがサブ・タイトルの本です。
 検事総長にまで上り詰めた著者ですから、きっと幼いころから神童と認められていたと思っていると、本人が書いたところでは、東大に合格できたのも、司法試験に1回落ちただけで受かったのも、周囲は驚き、不思議がったというのです。これって本当でしょうか。
 検察の現場も体験していますが、法務省の立法に関与することが多く、弁護士会とも折衝を重ねて、相互に信頼をかちえていたようです。人柄もあるのでしょうね。
 今も、アメリカからの外弁の完全自由化(たとえば、今は外弁と日本人弁護士との混合法人を認めろと要求されています)が課題となっていますが、ともかく、外国人弁護士が日本でも活動できるような幕開けを認めたのは、著者が法務省の司法法制調査部に在職中のことでした。
 アメリカの外圧はすさまじいので、外国弁護士が認められたのは仕方のないことだと思います。もちろん、なんでもアメリカの言いなりにはなりたくないのは、一日本人として、今も変わりませんが……。
 ハンセン病国賠訴訟で画期的な国敗訴の判決が熊本地裁で出たときには、法務大臣官房長として著者は控訴断念の方向で導いたようです。この決断は、きわめて政治的なものでしたが、これは私も正しかったと思います。
 この本の後半は、江戸時代から今日に至る日本人の法意識に触れる内容となっています。ただ、そのなかで、「島原の乱以降、反乱という名に値するような暴動や内戦は影を潜める。民衆の側は統治には関心をもつこともなく、むしろ生活を楽しみ、文化を発達させる」としているのは、残念ながら著者の勉強不足としか言いようがありません。
 私は、この書評コーナーで何回も紹介していますが、江戸時代の農民は大一揆を全国的に何回も起こしており、それは政権交代を迫るものでもあったのです。まさか一揆を「暴動や内戦」ではないとしているということもないでしょうから、著者は間違っていると言わざるを得ません。残念至極です。
 たとえば、西南戦争そして勝った官軍側に起きた竹橋事件(騒動)を知れば、日本の民衆に権力への異議申立をする伝統が脈々と生き続けていることは明らかです。むしろ、最近の日本で少なくなっているだけだと私は思います。それだって、いつ再燃しないとも限りません。私が大学に入ったころ(もう40年以上前のことですが…)、「最近の学生はおとなし過ぎて、つまらん」とよく言われていました。しかし、その翌年から、全国的に大学紛争(学園闘争)の嵐が吹き荒れたのです。その後、再び沈静化して今日に至っているわけですが…。
 このような弱点はある本ですが、全体として、さすが検事総長として権力機構のトップに立つだけのことはあると思わせる視野の広さを感じさせます。

 
(2009年5月刊。760円+税)

2009年7月 1日

強者の論理に負けないで

著者 辻 公雄、 出版 せせらぎ出版

 大阪の名物弁護士の著作です。私より先輩の弁護士ではありますが、まだそれほど高齢でもないのに、早くも「弁護士としての最終楽章もかなり終りに近づいている」として「人生の最後に感じたことを綴ってみた」とあります。いえ、いえ、それは早すぎます。もっともっと元気にご活躍ください。
 著者の辻弁護士は、私の知る限り3つの分野で大変有名です。
第一は、オンブズマン活動です。私自身も及ばずながら地元のオンブズマン活動に関わり、この30年来、一貫して住民訴訟に関わってきました(今も2件の住民訴訟を追行中です)。辻弁護士は、大阪でオンブズマン活動を先進的にすすめてきましたが、なんと、市長(どうやら太平光代助役の推薦のようです。太平助役とは、『だからあなたも生き抜いて』の著者として有名な、元ヤクザの妻だった弁護士です)から頼まれて、大阪市政の調査委員に就任し、引き続きコンプライアンス委員会の委員長になったというのです。すごいですね。
 公益通報が年に700件近く寄せられているそうです。内部から600件、外部から100件という割合です。それを丹念に聞き取り、市の行政に反映させているというのです。そういえば、私の敬愛する弁護士が、この4月から札幌市のオンブズマンになって、週3回も市役所に詰めて、市民などからの苦情を聴いているということです。これって大変なことですよね。残念なことに、福岡では、そんな活動が進められているという話は聞かれません。
 オンブズマンについて、改革派知事として有名だった橋本大二郎氏(高知県)は、敵だが、必要な敵だ、と述べた。浅野史郎氏(宮城県)は、うるさい敵、必要な敵、素敵な仲間と評した。ホント、そのとおりです。
 その二は、弁護士費用を裁判に敗訴したものに一律に負担させようという案をつぶした立役者だということです。日本の訴訟費用はアメリカなどに比べると、大変高くなっています。これは、明治の初めごろ、あまりに裁判が多いので、その抑圧策として貼用印紙制度が導入されたことの名残です。アメリカからの外圧によって、高額訴訟の方はかなり低額になりました。それでも、裁判に負けたら相手方の訴訟費用まで負担させられるということになったら、今よりさらに裁判を利用する人が減ってしまうでしょう。日弁連は全力で反対運動を展開し、結局、つぶしてしまいました。その運動の中心メンバーが辻弁護士でした。お疲れ様です。
 その三は、憲法訴訟、たとえばイラク派遣差止訴訟などでの活躍です。大阪では勝訴できませんでしたが、あの名古屋高裁のイラクへの自衛隊派遣は違憲だとする画期的な判決を得る原動力になりました。
 このように、いくつもの分野で素晴らしい活動をしてきた辻弁護士に対して、私は大いに敬意を表します。ただし、辻弁護士の司法改革への評価には、にわかに賛同しがたい異論があります。ちょっと、それはないでしょう、という感じです。
 司法改革、とくに人数問題を中心になって進めたのは、左翼の人の一部と、これに同調した企業派の弁護士だった。
 人数が増えても今までどおり正義感のある弁護士が増えていく考えたことに誤りがある。弁護士の社会正義没頭論は、一種の超人思想である。
 ここらあたりになると、私にはとても理解できず、賛同しがたいものです。まだまだ多くの国民にとって、弁護士は足りないと考えるべきではないかと私は今も本気で考えています。
 
(2009年3月刊。2000円+税)

2009年6月24日

裁判員制度と報道

著者 土屋 美明、 出版 花伝社

 ジャーナリストの立場で、一貫して裁判員制度に関わってきた著者が、自戒の念をこめて報道の在り方について整理し問題提起しています。次々と出版していく著者のバイタリティーには改めて感銘を受けました。
 国民が司法に参加する意味は主として三つある。第一に、国民の間に主権者としての意識が育っていくこと。第二に、自ら犯罪を裁くという体験を通じて国民に法的な意識が高まることが期待できること。第三に、これまでプロの法曹によって動かされてきた司法に国民の常識・感覚が生かされ、司法が国民に身近な存在に変わること。
 アメリカの新聞社では、経営権と編集権は区別され、経営者は編集に口出しできない慣行がある。しかし、日本では編集権は経営権に従属している。取締役会など、経営管理者の意向に従わなければならない構造ができている。それで、日本には自由なジャーナリストとしての職業観が育たず、また、現場記者の発言権が弱い状況を生み出している。
 日本には、EUから強く廃止を求められている記者クラブという制度があり、その結果、日本の新聞はどれをを読んでも変わり映えのしない記事が載っていて、画一性が強すぎる。記者クラブも最近は、かなり開放度がすすんだとは思いますが…。
 そして、メディア・スクラム(集団的過熱取材)という現象がある。大きな事件や事故が起きると、その当事者や関係者のもとへ多数のメディアが殺到し、それらの人々のプライバシーを不当に侵害し、社会生活を妨げ、あるいは多大な苦痛を与える状況を作り出してしまう。そうなんです。しかも、一過性の集中豪雨型の報道です。後追いの報道がサッパリありません。
 アメリカには、国民の中に、刑事裁判は常に正しいとは限らず、不公正なものでもあり得るという一種の皮膚感覚がある。アメリカの陪審制度は、国家権力は時に市民的自由を侵す危険性があるという裁判への不信感を背景にもっている。では、日本では、どうか?
 マスコミは、事件についての加害者報道に関し、前科・前歴は抑制的に扱う、事件や疑惑との極めて密接な関連性、読者の理解に不可欠で報道すべき特段の事情がある、必要最小限度の範囲という条件を課している。
 具体的には、情報の出所を示す。弁護側への取材につとめ、その言い分を報道し、できるだけ対等な報道を心がける。被疑者・弁護側の言い分を安易に批判・弾劾しない。しかし、弁護士のなかにも、情報提供に消極的な姿勢を見せる人がかなりいる。ただ、これには法律改正によって、開示証拠の目的外使用を処罰する規定が置かれたことも影響している。
 著者は、メディアも『真相解明幻想』から卒業することを提唱しています。
刑事事件の捜査・裁判は、刑事訴訟法のルールに従い、その限りで被疑者・被告人の犯行を立証する手続にすぎない。刑事裁判には、もともと限界がある。捜査当局による真相解明に期待しすぎると、かえって検察主導の司法を容認することになりかねない。かといって、裁判官の訴訟指揮による真相解明を期待するのも、被告人の起訴事実の有無を判断するという刑事訴訟法本来の趣旨から少し外れてしまう。真相解明は、刑事事件の法廷とは別の場で行うものと考えるべきではないか。
 著者の最後の指摘が私には強く印象に残りました。ともあれ、マスコミ報道の洪水のなかで、市民参加型の裁判員裁判がやがて実際にスタートします。私は、ぜひ成功させ、刑事手続きの画期的改善につなげていきたいと考えています。たとえば、被疑者段階の取り調べ過程を全部、録画するのです。これによって、弁護人は無用の争点にしばられることが少なくなると思います。司法改革が全面的改悪だというのは、いくらなんでも大げさすぎると私は考えています。

(2009年5月刊。2000円+税)

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