弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

司法

2007年11月27日

解決のための面接技法

著者:ピーター・デイヤング、出版社:金剛出版
 ミラクル・クエスチョンという手法があることを初めて知りました。
 「これから変わった質問をします。今晩あなたが眠っているあいだに、あなたのかかえている問題が解決してしまったという奇跡がおきたとします。明日の朝、目が覚めたとき、どんな違いから奇跡の起きたことが分かるでしょうか?」
 これを、柔らかな声でゆっくりおだやかにたずねるのです。
 このミラクル・クエスチョンが有効なのは、第一に奇跡について尋ねることによって、クライアントは無限の可能性を考えてよいことになる。第二に、質問は将来に焦点を当てる。それは、かかえていた問題がもう問題ではなくなったときを生活の中に呼びおこす。これによって、現在と過去の問題から焦点をずらし、今より満足のいく生活に目を向けさせる働きをする。問題に浸りきった思考から、解決に焦点をあてる方向へ、劇的な転換を求められる。
 このミラクル・クエスチョンをするときは、それぞれのクライアントにあわせて行わなければならない。たとえば、深刻な不幸を経験したクライアントに対しては、小さなミラクルを描かせることが大切である。
 これに答えようとするクライアントのほとんどが気持ちが明るくなり、希望をもちはじめる。なーるほど、このような質問をして、発想の切り換えを促そうというのですね。大変参考になりました。
 親と子は、お互いに腹を立て、傷つけあい、失望はしていても、お互いを大事に思っている。相手に対する怒り、精神的苦痛、失望は、大事に思われ、尊敬され、評価され、愛されたいという願望の裏返しである。
 親と子の関係に希望を見出せるように、相互の思いやりと善意のしるしを育て、強調することが必要である。そのためには、不満の肯定的側面を強調すればいい。子どもにさんざん失望させられたのに、まだ子どもをあきらめていない証拠なのだ。
 そうなんですよね。口にした言葉を額面どおりに受けとったらいけないというのは、よくあることです。
 自殺すると言っているクライアントに接したときには、まず自殺が不合理であり、危険で他の人を傷つけると説得したくなるし、自殺への偏見をもった反応を示しがちだ。しかし、これではクライアントの考え方に反するので、彼をさらに孤独に追いやり、自殺の危険を高めることになる。
 絶望しているクライアントの視点に影響されない最善の方法は、必ず別の側面があると自分に言いきかせ、それを探しはじめることである。自殺について話すクライアントがまだあなたと一緒にいて、生きて呼吸をしていることを忘れないようにするといい。ともかく、クライアントは過去のトラウマや現在の痛みにもかかわらず、どうにか生きのびている。クライアントの長所を活性化し、感情と状況をコントロールできるという気持ちにさせる。
 たとえば、「今朝、どうやってベッドから出ましたか」と問いかける。小さな、しかも否定できない事実からスタートするのが大切である。
 この本をしっかり理解したというわけではありませんが、弁護士にとってもいろいろ役に立つことが書かれていると思いました。
(2007年4月刊。4600円+税)

2007年11月21日

弁護士道に向けて

著者:渡辺洋一郎、出版社:G.B.
 弁護士業は、いわゆるケンカの代行業のようなもの。ヤクザと違うのは、暴力で解決しようとするか、法で解決しようとするか、という解決手法だけ。
 だから、決してきれいな仕事ではない。また、勝ち負けを争うから、精神的にプレッシャーもかかる。少しでも早く何か正業に就かなければと思いながら、40年間、弁護士を続けてきた。
 うむむ、こうまで言われると、どうなのかなと、つい思ってしまいました。だけど、正業云々はともかくとして、あとは著者の言うとおりだと思います。
 依頼者の主張には簡単に迎合しないほうがいい。トラブルが起きそうなときには着手金をもらわず、様子をみる。依頼者とのギャップが具体化したときには、さっさとお金を返すか、自分の気持ちをおさえて、その人のサーバントになった覚悟で徹底的に誠意をもって終わらせ、次から二度とかかわらない。トラブルに巻きこまれるよりは、仕事しないでやせ我慢していたほうがいい。
 私も、これにはまったく同感です。だから、私は、いつでも返せる金額の着手金しかもらわないようにしています。
 準備書面をつくるときには、動かない事実を前提にして、それをしっかりおさえて書く。主張は、証拠からこうだと言い切る必要がある。評論家のような、第三者のような、他人事(ひとごと)みたいな表現では迫力がない。
 いやあ、なるほど、そうなんですよね。なにしろ裁判官を納得させようというのですから、迫力が必要です。
 反対尋問は準備なくして絶対に成果が出ない。尋問は淡々と行うのが原則。質問にこめた真意を裁判所に伝える。相手方の矛盾点をさらけ出す。証人にはできるだけイエス、ノーで答えさせる。あまり深追いしないこと。
 ふむふむ、そうなんです。でも、実に難しいのです、これが・・・。
 和解の場は、裁判官の心証をつかむ絶好の機会である。相手方が物わかりの悪い人のときには、それと同じくらい物わかりを悪くする。というのも、裁判官は、事件を早く解決させたいので、物わかりのいいほうを説得しようとする傾向があるから。
 和解の場で理屈ばかり言うのは得策ではない。
 依頼者の説得が実は一番難しい。そこで、依頼者への話しもよく考える。和解が現実化してくると、依頼者は自分が損する面ばかり考えがち。だから、依頼者の心理をよく読んで、和解できることに感謝の気持ちがある状況で行うことが大切。最後には、決めるのは本人であることを、淡々と損得両面を話す。積極的に説得しすぎない。
 顧問契約は、相互にいつでも解約できると明記しておく。ともに人間として育ちあっていく関係にあることが大切。
 弁護士会の活動を通じて思ったことは、自分の目の前で起きていることが、それを放置しておいたら、次の世代に申し訳ないような結果になりかねないことだと思ったら、自分ひとりの力は、石を一個投げるしかなくても、その石を必ず投げること。また、投げる責任があるということ。石を投げれば、そこに波紋が広がる。同じ考えの人が次々に石を投げれば、それは大きな力になる。
 私より先輩の弁護士が若手弁護士向けの研修会で語った講話をまとめたものですので、大変読みやすく分かりやすい。しかも大いに勉強になる内容になっています。
 ただ、著者が、当時の司法修習生500人のうちの1割、50人くらいしか法律を理解して合格したとは思えないとして言っていることには首をかしげました。まあ、そういわれたら、私なんかは残る9割のほうに入っているに違いないのですが・・・。
(2007年11月刊。2310円)

2007年10月26日

果断

著者:今野 敏、出版社:新潮社
 主人公はキャリア組の警察官。20代のとき若殿研修で署長になったが、46歳になって再び第一線の大森警察署長に就任した。その前は警察庁長官官房の総務課長だった。つまり、左遷されたわけだ。なぜか?
 警察署長が一日に決裁する書類は700〜800。800もの書類を決裁するというのは、一日8時間の勤務時間内にはとうてい処理できない。内容の確認などせずに押印することになる。それでいいと言われている。手続き上、署長印がないと物事が完結しないというだけのこと。
 現在の警察組織の実態では、警察署長は、指揮者ではなく管理者に過ぎない。だいたい副所長というのは署長をよく思っていないものだ。事実上、署内を統括しているのは自分であり、マスコミの対応もすべて自分がやっているという自負がある。
 特別捜査本部が大がかりな指揮本部ができると、その年の署の予算を食われてしまう。柔道、剣道、逮捕術などの術科の大会で好成績をおさめても、祝賀会もできない。旅行会もなし。忘年会もひどく質素なものとなるだろう。
 だから、署員は捜査本部や指揮本部を嫌う。公務員だけが公費で飲み食いをするのだ。
 主人公は警察庁時代にはマスコミ対策も担当していた。だから、彼らがどういう連中かよく知っている。結論から言うと、彼らはペンを手にした戦士なんかではない。商業主義に首までどっぷり浸かっている。新聞社もテレビ局も、上に行けば行くほど、他社を抜くことだけを考えている。つまりは新聞を売るためであり、視聴率を稼ぐためだ。
 言論の自由など、彼らにとってはお題目にすぎない。要するに、抜いた抜かれたを他社と競っているにすぎない。それは生き馬の目を抜く世界だと、本人たちは言っているが、何のことはない。彼らは単に楽しんでいるだけではないのか・・・。
 小料理店に拳銃を持った男が押し入り、店主と店員を人質にとって立てこもります。さあ、どうしますか?
 若い元気な人なら、すぐに突入して人質を解放すべきだと考えるかもしれません。
 SITは捜査一課特殊班のローマ字の略だ。刑事部内で、テロや立てこもり、ハイジャック犯などに対処するために組織され、日々訓練を受けている。
 SATは、ほぼ同じ目的で警備部内で組織されている。こちらはドイツの特殊部隊などと手本にした突入部隊であり、自動小銃やスナイパーライフルで武装している。
 この警察小説も推理小説ですから、ここで粗筋を紹介するわけにはいきません。なかなか面白い本だったというに留めておきます。
(2007年4月刊。1500円+税)

2007年10月 5日

かけ出し裁判官の事件簿

著者:八橋一樹、出版社:ビジネス社
 ヤフーブログに現役の若い裁判官が書いているのだそうですね。私は読んだことがありませんが・・・。
 この本は、その裁判官が一つの刑事裁判に関わった裁判官の物語を書いてみた、というものです。ですから、まったく架空の創作です。
 でも、身近にいる裁判官の日常をそれなりに知る者としては、ああ、そうそう、こんなんだよね、と思いながら、ほとんど違和感なく読みすすめることができました。フツーの市民の参加する裁判員裁判が始まろうとするいま、こんな読み物がもっと広く市民に読まれたらいいな、そう思って、この本を紹介します。
 裁判所のなか、3人の裁判官が合議(議論することをこう言います)する状況が詳細に描かれています。要するに、会議室で、「さあ、今から合議しましょう」と始まるのが合議ではなく、立ち話の片言隻句も合議のうち、なのです。
 事件は、恐喝そして強盗致傷事件が成立するかどうか、というものです。オヤジ狩りをした青年たち、コンビニ付近でたむろしている青年たちの行動が問題とされています。とったお金が分配され、それが共犯行為にあたるものなのか、ということも問題になっています。
 先日、司法研修所の教官だった人から聞いた話によると、証言を表面的にしか理解できない修習生が増えているということでした。分析力が身についていないというのです。悲しいことです。人間の言葉は、ただ文字面だけをもってそのとおりだと理解すると、とんでもない間違いを犯すことがあります。その点は訓練が必要なように思います。
 軽く、さっと読め、そして裁判官の世界を身近なものに思わせてくれる、いい本です。
(2007年8月刊。1300円+税)

2007年9月25日

子供たちは甦る!

著者:吉永みち子、出版社:集英社
 本のタイトルはいただけません。読めませんし、最近は、子供という漢字はつかわず、子どもと表記するのがフツーです。そして、やっぱり、よみがえるとしてほしいです。漢字だとイメージが違います。初めからケチをつけてしまいましたが、本それ自体はとても読みやすい内容で、素直にすーっと読めました。少年院や少女苑で働いている教官の皆さんの毎日のご苦労に心から敬意を表します。
 最近の少年の特徴は、基礎的な力が本当に落ちていること。人間が自立していきていけるためには、小学校4年生程度の基礎学力、基礎体力をクリアすることが必要だ。ところが、それを教育現場で身につけられないまま成長している子どもたちがいる。生育過程で発達を促す体験も、教えも、環境も与えられなかった結果、健全な成長ができないまま、幼年から少年になってしまった子のいるのが現実。
 幼年期から少年期を経て、大人として自立して生きて人格をきちんと形成するためには、それぞれの年代で体験して身につけておかなければならない発達の課題がある。それが、さまざまな要因で体験できなかったことから、非行行動に走るケースがある。
 必要なことはとことん教え込むという強い指導の姿勢が薄れたことで、初期段階でつまづくと、どんどん流れから取り残されてしまう。基礎的な力が培われないと、その先に積み上げることはむずかしい。
 とにかく、最初は体力づくりだ。まっすぐに走れない。視覚と距離がうまく処理できないからだ。バランスをとるのが苦手な子が多い。猫背の子も多い。
 厳しいトレーニングとして集団行動訓練をしているのを外部の人が見ると、軍隊的でよろしくないということになるかもしれないけど、中途半端にしないで徹底させることによって、できない部分、弱い部分が目に見えてくる。集団行動訓練は、何ができないかを教官が把握するためでもあるが、自分でも気づかなかったことを気づかせるためでもあり、自分では気づいていても、それをひた隠しにしてきたことに向きあわせるためにも必要なことである。
 歩くことから一歩すすんで、走る。ともかく全員に走らせる。教官も一緒に走る。できる子は走り、できない子はあきらめて走らないという状況はつくらない。
 読むこと。本の読み方を知らない子がいる。絵本を読んでもらったこともなければ、買ってもらったこともない。書かれた文字を読んだことのない子に本の読み方を教えこむ。絵本を声を出して一緒に読む。書かれた文字から、場面や人物の気持ちなどを創造させながら読む力を少しずつ向上させていく。言葉が乏しいと、対応の選択肢も貧しくなる。それまでは、むかつき、の一言だったのを変えていく。
 読む力をつけたら、書くこと。自分の感じていることを言葉に置き換えることによって、自分を客観的にふり変えることができる。
 少年院に送られてくる少年には、メタ認知能力が低い子が多い。メタ認知とは、認知を認知すること。つまり、自分の行動や考え方、感じ方、知識量、特性、欠点や長所などを、別次元から眺めて認識すること。それができる力をメタ認知能力という。
 院生には掛け算の九九ができない子が多い。九九がまったくできない子が1割、完全にはできない子が6割。分数になると、9割ができない。ということは、小学校2年程度ですでに落ちこぼれてしまったということ。九九ができないまま10代後半に達すると、実際の生活で自尊感情を傷つけられる場面が増えてくる。そのことが、いじめや非行へのリスクを高めることにつながっていく。計算する力が弱いほど、犯罪行為は自分の人生にとって大きな損失になるという損得勘定が働かない。
 パニックや衝動的になってしまうのは、視覚・聴覚などからの刺激が正しく弁別されず、いっせいに脳になだれ込むために処理ができなくなってしまうから。だから、なるべく静かな環境においてやれば、衝動的な行動を抑えることができる。
 自閉的な傾向の高い少年の固執性は、なぜ起きるかというと、時間がたつにつれて記憶が軽減されないことからくる。いらないものを忘れることができない。
 学校で、もう少し子どもに寄りそった指導をしてくれたらいいけれど、どうにもならんと放り投げてしまう。しかし、予防コストより処理コストのほうが、よほど高くつくのだ。
 聴くスキルを身につけさせる。聴こうとする姿勢を示す。相手が話しやすい雰囲気をつくる。聴いたことをちゃんと考える。子供たちに聴く姿勢が育たなかったのは、幼いころから親や教師に話を聞いてもらう経験が乏しかったことにもよる。
 子どもたちに、これまで食べてきたものを聴くと、ほとんどカップラーメンやファーストフードばかり。
 決してあきらめないこと。さっさとあきらめて子どもを少年院へ送りこんだのは大人たちだ。
 人間同士の認知のギャップをどう埋めていくか、それが教育だ。子どもは変わる。
 事件を起こした子どもは、もう自分には未来なんてないと思っている。どうにでもなれと開き直っているのは、自らの手で自らの将来を葬り去ってしまった不安の裏返しだ。一生けん命に立ち直ろうなどという気持ちより、不安や絶望を反発や怒りに転化させることで、辛うじて自分を保っている状態なのだろう。
 私は、ロールレタリングというのを初めて知りました。手紙を書くのですが、その相手は家族や友人や被害者などです。書いた手紙が相手に読まれることはありません。だから、相手が怒ったり、泣いたり傷つくこともありません。自分の視点と相手の視点と、それぞれ役割を変えながら相手にあてた手紙を書くのです。安心して自分の内面をぶちまけます。
 なーるほど、ですね。自分という存在を少し離れたところから見つめ直す、いい手法だと思いました。
(2007年7月刊。1500円+税)

2007年9月20日

左手の証明

著者:小澤 実、出版社:Nanaブックス
 周防正行監督の映画『それでもボクはやってない』は、とてもいい映画でした。残念なことに、『Shall wee danse?』ほどの観客動員はできませんでした。日本人の社会意識って、まだまだ遅れているところがありますよね。毎度毎夜のバカバカしいテレビ番組(私はテレビ自体を見ていませんが・・・)を見るヒマがあったら、こんな映画こそ見て、いったい日本国民の基本的人権はどうやったら守られるのか、心配してほしいと思います。ホント、です。
 私は大学1年生のとき、岩波新書『誤った裁判』を読んで愕然としたことを今もはっきり覚えています。ええーっ、日本の裁判官って、信用できないのか、そう思ったとき、背筋が冷たくなる気がしました。そのときには自分が弁護士になるなんて夢にも思っていませんでしたので、いったい、冤罪にまき込まれたとき、どうやったら自分の身を守れるのだろうかと、心底から心配しました。
 この本は、2006年3月8日に、東京高裁で逆転無罪となった満員電車内のチカン冤罪を扱っています。女子高校生がチカン被害にあったこと自体は事実のようです。しかし、真犯人は別にいて、被告人とされた人は間違われただけだということです。
 女子高校生のスカートのなかに男が左手をさしこみ、下着の中にまで手を入れて触ったという事件です。ところが、被告人とされた男性は左手に、でっかいスポーツ腕時計をはめていたのです。下着の中に左手を入れたら、すぐにひっかかるか、何か不都合が起きたでしょう。写真を見たら一見して、そう思えます。
 しかし、警察の捜査段階では、そのことが何も問題になっていません。弁護側は、一審でも、当然、そのことを大きな問題と指摘し、弁論しました。ところが、岡田雄一裁判官は懲役1年6ヶ月、執行猶予3年の有罪判決を下しました。
 女子高生の下着は長く使用していたため、腰のところのゴムが多少緩くなっていた。左手首に時計をはめた状態で女子高生の下着の中に左手を入れることは想定困難な行為であるとは考えられない。このように判断したのです。ところが、肝心の女子高生の下着は、証拠として提出されておらず、その形が客観的に明らかにされていないのです。岡田雄一裁判官は証拠にもとづかず、ひとり勝手に想像して、被告人を有罪としたわけです。思いこみというのは恐ろしいものです。プロにまかせていれば裁判は安心、というものでは決してありません。
 いずれにしても、有罪判決が出てしまいました。こんな不当判決でも高裁でひっくり返すのは大変です。そこで、弁護団は、控訴審の第一回公判のとき、被告人と3人の弁護人が法廷内で電車内の位置関係を再現するパフォーマンスを敢行しました。すごいですね。私も、今度やってみようと思います。
 そして、改めて電車内の再現実験をして、ビデオにとって証拠申請しました。検察官が不同意としたので、ビデオは上映できません。そこで、ビデオをとった責任者である弁護士が証言台に立ちました。その結果、裁判所は再現ビデオを証拠として採用したのです。うーん、すごーい。粘り勝ちですね。しかも、高裁は、改めて被害者の女子高生を職権で尋問しました。
 事件発生・逮捕が2003年10月22日。保釈が認められたのが3ヶ月たった(106日)の翌年2月4日。一審有罪判決は、さらに翌年の1月21日。そして、高裁での逆転無罪判決は、事件発生・逮捕から868日の3月8日のことでした。実に2年半近くもたっています。その間、奥さんの自殺未遂などもありました。本当に大変だったと思います。控訴審判決には、次のような指摘があります。
 警察官(戸塚警察署)が杜撰ともいえる犯行の再現実験などで、強引なまでに被告人の弁解を封じて、一顧だにしない態度をとったために、被害者は次第に被告人が犯人だと確信するようになってしまった。被告人と被害者との言い分を当初から冷静に吟味すれば、あるいは本件は起訴には至らなかった事案ではないかと考えられる。この種の事案を、たかが痴漢事件として扱うのではなく、当然のことながら慎重な上にも慎重を期した捜査を経たうえでの起訴が必要である。
 刑事被告人として逮捕・勾留・起訴されることの重さを、警察に、そして、裁判官にもっと考えてほしいと思わせる本でした。
 朝、澄み切った青空の下、わが家の庭に何十匹もの赤トンボが群れ飛んでいました。折から昇ってきた朝の太陽に照らされ、眩しいばかりに光り輝く赤トンボの乱舞に、生命の躍動を感じました。背の高い、黄色い小さな花をたくさんつけたヒマワリ畑と、ピンクの大輪の花の芙蓉の花のあいだを、たくさんの赤トンボが行ったり来たりしているのです。エサを取っている気配もありません。朝の運動なのでしょうか。いったい、どこから小川のほとりにあるわけでもないわが家に集まってきたのか、不思議でなりません。
 秋らしい日々となりました。近くの小学校では子どもたちが運動会の練習に励んでいました。子どものころのリレー競争をつい思い出してしまいました。自分では速いつもりでいたのに、追い抜かれて悔しい思いをしたこともついつい思い出してしまいました。
(2007年6月刊。1500円+税)

2007年8月17日

反転

著者:田中森一、出版社:幻冬舎
 ヤメ検の悪徳弁護士として名高い人物が自分の半生を語った、いま話題の本です。検察庁内部の実情とあわせて裏社会の動きがかなりナマナマしく描かれており、興味深い内容でした。
 大阪地検にいたころ、「割り屋」と呼ばれていた。割り屋とは、被疑者を自白に追いこむプロという業界隠語だ。自白を引き出すために、被疑者を逮捕したあと、はじめの10日間の勾留のあいだは、ほとんど相手の言い分や情状を訴える言葉を聞かない。貴様、オドレ、お前と常に呼び捨てにし、一方的に怒鳴りつける。机を激しく叩きながら、ときにフロア中に響きわたるほどの大声を発して責めたてる。被疑者を立たせたまま尋問することもしばしばだった。
 はじめの10日間は、弁護士が被疑者との接見を求めてきても、体よく断わった。大事な調べだから、今日は勘弁してください。今日は現場検証に連れていくから。そんな口実をつくっては、接見をさせない。そうして被疑者を孤独にさせ、こちらのペースにはめ込む。あえて、ガンガン取調べをし、自白に追い込む。
 被疑者にとって、自白は究極の決断といえる。その様は人によってそれぞれ異なる。検事は、そのタイミングを逃してはならない。脂汗を流しはじめる者、突然泣き崩れそうになる者、顔面が蒼白になっていく者、それぞれ落ち着きがなくなり、椅子からずり落ちる者など、さまざまだ。10人中、8、9人は顔からさっと血の気が引く。そのとき、これで落としたと察知して、たたみかける。
 人間の記憶は曖昧なものである。だから、取り調べを受けているうち、本当に自分がそう考えていたように思いこむケースも少なくない。それを利用することも多い。
 毎日、毎日、繰り返して検事から頭の中に刷りこまれる。すると、本当に自分自身に犯意があったかのように錯覚する。多くの被疑者には犯行の意図はなくても、心の奥底では相手を憎らしいという思いが潜んでいることがある。それが調書のなかで、全面的に引き出される。すると、殺すつもりだったという調書ができあがる。
 狭い取調室で、被疑者に同じことを毎日教えこむと、相手は教えこまれた事柄と自分自身の本来の記憶が錯綜しはじめる。しまいには、検事が教えてやったことを、被疑者がさも自分自身の体験や知識のように自慢げに話し出してしまう。
 そして、多くの被疑者は、いざ裁判になって記憶を取り戻して言う。それは、検事さんに教えてもらったものです。しかし、あとの祭り。裁判官は完璧な調書を前に、検事の言い分を信用し、いくら被疑者が本心を訴えても通用しない。
 捜査日誌を使い分けていた検事もいる。ひとつは調書にあわせ、創作した捜査日誌。もうひとつは事実をありのままに書いたもの。これは、検事自身が混乱しないよう、整理をつけておく工夫のひとつだ。
 著者は、いま弁護士ですから、割引いて受けとめるべきものなのかもしれませんが、私はかなりあたっている気がしました。
 1987年12月、著者は弁護士となった。検察庁からもらった退職金は800万円。それに対して弁護士開業の祝儀は総額6000万円。1000万円の祝儀が3人から届いた。その一人が食肉業者「ハンナン」の浅田満会長。
 弁護士をはじめて1年目で、顧問先企業が100社をこえた。1社あたり10万円として、顧問料だけで月に1000万円をこえる。
 そこで、節税のために、7億円のヘリコプターを買った。生まれ故郷の長崎の島に、川崎敬三と二人で、ヘリコプターで降りたった。島に5000万円で家もたてた。
 検事時代は、歳暮や中元はもちろん、ビール券や商品券も不自由しなかった。
 佐賀県知事は、病院の経営者を2号さんにして、その税金ごまかし事件を手がけた。
 高知地検では、宿毛市長選挙の公選法違反事件を手がけようとしたが、身内である竹村照雄・最高検総務部長が泣きを入れて妨害した。
 大阪地検のとき岸昌知事の黒い噂を事件にしようとした。すると、大坂地検の検事正が、こう言った。
 お前は、たかが5000万円で、大阪を共産党の天下に戻すつもりか。
 共産党に戻すかどうか、聞いとるんや。
 ええーっ、驚きました。警察だけでなく、検察庁でも、そんな政治判断で動いているのですね。いったい、どういう了簡でしょうか・・・。
 福岡の苅田町の裏口座の事件では、森喜朗へ5000万円が流れていた。森は安倍派の事務局長。だから、ある日突然、天の声が聞こえてきて捜査はしぼんでしまった。
 いやあ、ホント、ひどいものですね。
 これらは実名で書かれていますので、著者は責任もって書いているのでしょう。なんだかあまりにもドロドロしすぎていて、いやになってしまいます。政治検察というしかありません。
(2007年6月刊。1785円)

2007年7月25日

思い出すまま

著者:石川義夫、出版社:れんが書房新社
 著者は、30数年前、私が司法研修所にいたころの民事裁判の教官の一人です。私は直接教えられたことはありませんので、写真を見ても、ああ、こんな教官がいたような気がするな、という感じです。でも、その名前は有名でしたので、覚えがあります。高裁長官の職をけって退官したということですので、それなりに気骨のある裁判官だったようです。
 矢口洪一元最高裁長官を次のように痛烈に批判しています。ちなみに、初稿は矢口元長官が存命中に書かれたものだそうです。
 矢口洪一人事局長は、裁判所の諸悪の根源は、歴代事務総長が最高裁判事に栄進することにあると繰り返し断言した。事務総長に練達の裁判官をさしおいて最高裁判事となることは、裁判に専心している裁判官たちの間に不満を醸成し、事務総局と現場の裁判官との間に抜きがたい不信感を生んでいる。だから、事務総長には総局メンバー以外の者を充てるか、いったん事務総長となった者は、最高裁入りをあきらめるかにすべきである。矢口氏の言葉をきわめて説得力のある正しい考え方であると受けとった。
 ところが、矢口氏は、その舌の根も乾かぬうちに、事務次長、事務総長を経て、最高裁判事となり、ついには最高裁長官の席を冒すに至った。矢口氏の事務総長就任までの裁判所在職37年のうち、裁判実務経験は合計してもわずか6年あまりにすぎない。
 いやあ、そうなんですかー・・・。ひどい話ですよね、これって。
 矢口氏は、常に大げさな表現を口にするのが癖であったが、裁判実務オンリーの裁判官たちのことを、「度し難い愚か者ども」と嘲っていた。
 いやいや、これにはあきれてしまいました。「度し難い愚か者ども」の親玉にすわって、いい気分を味わっていたようです。
 矢口人事局長は青法協つぶしの先頭に立っていました。著者は、裁判所当局が良心的で勤勉な若手裁判官まで含めて青法協会員を目の敵にし、冷遇するのが気に入らず、夜間に矢口人事局長と電話で1時間以上、もっと平和的なやり方もあるのではないか、このようなやり方は将来の裁判所に禍根を残すのではないかと議論を重ねた。それ以来、著者と矢口元長官との緊密な信頼関係は急速に冷えていった。
 矢口人事局長は司法研修所の田宮上席教官に対して、「研修所教官の方で、疑わしい連中の試験の成績を悪くしておいてくれれば、問題は解決するじゃないか。何とか考えてくれ」と言った。要するに、青法協所属の修習生の任官を人事局の責任で拒否することにしたくないので、研修所教官の責任で拒否しようというのである。著者は、この件について、矢口氏の名誉を慮って、今日まで他言しなかったが、目的のためには手段を選ばない矢口氏の手法を思うと、こんなことがあった、ともっと早い時期に公にすべきであったかと後悔している。
 そうですよね。もっと早く言ってほしかったですね。でも、そうすると、任官拒否にあったI修習生が「成績不良」のため任官できなかったのはやむをえないという著者の主張も怪しくなると思うのですが・・・。
 私のころ、少なくともクラスの3分の1ほどが青法協の会員でした。声が大きく、元気のいい修習生が多くて、若くて世間知らずの私も大きな顔をしていました。当時も私はモノカキでしたから、前期修習のときには日刊クラス新聞(「アゴラ」と名づけていました)を発刊していました。独身だったし、暇だったのです。最高裁による青法協つぶしの禍根は今も残っていると私は思います。裁判所内では自由闊達な議論が十分にできていないように思います。もちろん学説・判例の議論はしているのでしょうが・・・。といっても、当の裁判官に言わせると、裁判所ほど自由にモノが言えるところはないと自信をもって断言します。いやあ、本当でしょうか、私には疑問があります。
 現在の最高裁の正面玄関は長官とそのほかの裁判官の出入時以外は常時閉鎖され、ガードマンが厳重に警備していて、一般人には近寄りがたい印象を与えているが、はなはだしい違和感を覚える。問題は建物の設計にあるのではなく、むしろ日常その管理にあたる官僚たちの思想にあるのではないか。最高裁がこの点に早く気がつき、明るく開放的で親しみやすい裁判所の姿が実現する日が来るように期待する。
 私も、この点はまったく同感です。まるで石の棺のように死んだ建物をイメージさせます。単に近寄りがたいというのではありません。近寄るのを峻拒するという感じです。国民の司法参加をモットーとする裁判員裁判を始めようとするとき、そんなことではダメでしょう。
 著者の主張に全面的に賛同するということはできませんが、共感を覚えるところも多々ある本でした。

2007年6月21日

刑務所改革

著者:菊田幸一、出版社:日本評論社
 日本の刑務所の現状と問題点について多角的に検討した本です。とても勉強になりました。
 最近、山口県で民営刑務所がオープンしました。PFI方式というそうです。法律が改正されないままに、このような刑務所民営化がすすむことに重大な疑問が投げかけられています。なるほど、そうですよね。その最大の問題は電子監視システムによって、職員と被収容者との対話によって処遇するという理念に反すること、人と人との信頼感を前提とするのではなく、警備的発想にもとづくシステムでいいのか、ということです。
 PFI方式と民営化とで異なるのは、PFI方式は、あくまで管理者は公共部門だということです。アメリカなどで、このPFI方式による刑務所が先行していますが、そこでは、企業の営利追求のあまり、民間職員が十分な装備も訓練も受けず、矯正に関してまったくの素人であり、ひたすら被収容者が満員であり続けることしか願っていないため、逃走事件までひき起こしているということです。それは職員全体の処遇を悪化させ、職員のやる気を失っていく心配があります。営利本位と矯正教育との両立は難しいのではないでしょうか。もっとも、フランスではうまくいっているという報告もあります。
 海外視察をした人が日本の刑務所を見ると、次のような感想を述べるそうです。
 日本の受刑者には表情がまったくない。つまり、暗い。能面のような顔をしている。外国の刑務所では、受刑者の表情が非常に豊かだ。訪問者に対して「こんにちわ」と挨拶もする。日本では考えられもしない。日本の収容者は、刑務所内ではまるでロボットだ。一列に並ばされ、軍隊式の行進を強制している。
 アメリカの多くの刑務所は、食事の場所こそ異なるが、受刑者の調理した同じものを職員も受刑者も食する。受刑者の大きな関心事である食事から人権尊重の姿勢を示そうということ。アメリカでは、受刑者が自分で調理しているという本も読みました。
 フランスでは収容者は私服を着ている。イギリスは制服だが、ジャケットをはおることができる。スイスは官給であっても、当局がいろんな服を買い集めて、支給している。
 日本では、刑務所内で作業しても、一人平均月4050円にしかならない。これは、就業に対する対価ではなく、恩恵として支給するものである。
 刑務所に入っているあいだ選挙権を奪うという現行法についての疑問も提起されています。自由を奪うだけでいいではないか、あくまで主権者の一人ではないか、ということです。アメリカやヨーロッパでは、受刑者にも選挙権が認められていて、不在者投票できるそうです。知りませんでした。
 刑務所内にいると、住民票がとれなくなることの不合理さの指摘もなるほど、と思いました。出所後、住民票がないことから生活保護が受けられず、ホームレスになるしかなくなるからです。このところ、無銭飲食事件を国選弁護人として担当することが何件もあります。前科者というレッテルを貼られると、社会内での更生はなかなか難しい現実があります。収容者はいずれ社会復帰するのだという視点から、刑務所内の処遇を考え直す必要があると、私はつくづく思います。だって、あなたの隣人になるかもしれないのです。社会全体がもっと温かく受け入れる姿勢を示さないと、報復と憎悪にみちみちたままかもしれないのですから・・・。

2007年6月 5日

陪審法廷

著者:楡 周平、出版社:講談社
 いよいよ日本の裁判員裁判が実施される日も近づいてきました。5月25日、東京で開かれた日弁連総会のとき、国民の8割が参加したくないと言っている裁判員裁判なんて廃止すべきだという意見を述べている弁護士がいました。私はそうは思いません。職業裁判官に今のまま刑事裁判をまかせていいとはとても思えないからです。
 最近まで筑後地方にいた裁判官は、法廷に弁護人なんかいないという判決を繰り返していました。まるで法廷に検察官が二人いるような、むなしさを何度も感じたものです。裁判員裁判が万能だとか、手放しで絶賛するつもりはありません。でも刑事司法が今のままであってよいはずはない、国民参加によって良い方向に大きく変わることが期待できる、こう考えています。
 ところで、この本はアメリカの陪審裁判について分かりやすく解説してくれる内容となっています。アメリカの陪審裁判と日本の裁判員裁判とは、もちろん大きく異なっていますが、国民が有罪か無罪かを決める評決に関わるという点では共通しています。
 陪審員候補として召還される。それが、この国で暮らす者の義務だというのは誰しも知っている。しかし、それをすべての人間が真剣かつ厳粛に受けとめているかというと、答えは否だ。陪審員候補として召還されるのは、ある意味で召集令状を受けとるのと似ている。ある日突然、一通の手紙が一方的に送付されて来て、当事者の事情など一切考慮することなく、出頭を命じられる。その違いは、召集令状には身体検査があって、一定の基準をみたしていなければ兵役から逃れられること。そして、すすんでその任につこうとする人の意向は100%反映される。
 ところが、陪審員の選定においては、積極的に裁判に関わろうとする人間は、むしろ排除される傾向がある。陪審員に選ばれるのは、事件をしょせんは他人事と考えている人物だ。そんな人間にとって、見ず知らずの人間の裁きの渦中に身を投じて、有罪か無罪かを論議して決める。まして一日20ドルの報酬で貴重な時間を費やすなんて面倒以外の何者でもない。だから、検察・弁護の双方からの質問に対して、わざと偏向した答えを返して、陪審員にえらばれないようにする輩が後を絶たない。
 うむむ、日本も同じようなことになりかねませんよね。心配です。
 アメリカでは、裁判は検察と弁護人によるゲーム、いやショーと言ってよい。
陪審員を選ぶにしても、質問しながら、その人がどちらに有利な見解をもっているか、あるいは自分の敵になりそうか、全神経を傾けて探っている。つまり、陪審員に選ばれたということは、決して中立であることを意味するものではない。その時点で、双方から自分の意に沿う結論を出すと見込まれた人間だということ。
 ふむふむ、なるほど。そのようにも言えるのですね。
 朝一番から始まった陪審員の選定は、思いのほか難航した。陪審員を選ぶのに、一時間の昼食時間をはさみ、午後だけでも4時間かかった。そうかも知れません。大変ですね。
 そもそも陪審員は、法の専門家でも何でもない、感情をもった人間である。
 無作為に抽出した人間のなかに、極端な人権論者、死刑廃止論者などが紛れこむことはありうる。そうなると、審議は紛糾する。そして、特定の思想をもった人間は弁が立つ。正体を隠し、きわめて中立的な立場をとる演技にたけている。
 裁判官のなかにも感情が先に立つ人も少なくないのが現実です。そんな裁判官とは議論が議論にならないのです。これが残念ながら日本の現実として存在します。
 陪審員に求められるのは、被告が有罪か無罪か。二つの選択肢の中から一つを選ぶだけでしかない。情状酌量を裁判長に求める権利もなければ、何かしらのアドバイスを与えることも、ましてや有罪か無罪に至った理由を述べることすらできない。まさに一刀両断の判断を下さなければならない。だけど、有罪としたら、その量刑はどうなるのか、どうしても考えてしまう。
 裁判員裁判では、この点が違います。裁判員は、有罪だとしたときの量刑まで決めることになります。この本には次のようなことがかかれています。
 なぜ法律知識のない一般市民を陪審員として法廷に呼び、有罪無罪の判断を求めるのか。そこに人間がもちあわせる「情」が加味されることが期待されているのではないか。もし、陪審員が判事の言葉に従って、人間としての感情を排して結論を出せというなら、なぜ、陪審員が法廷に提出する結論が有罪か無罪かだけでいいのか。評決に至った経緯や理由はなぜ問われないのか。
 事実と法にもとづいて、と言っている一方で、人間として、一市民として許せる罪なのか、そうでないのかを実は法廷は求めているのかもしれない。法の上では犯罪とされる行為でも、状況如何によっては、それも人間として仕方のない行為だったと認定されるときだってある。法という人間の感情を排した代物に、人間の感情を吹き込む。それが陪審という制度なんだ。
 うむむ、これはどうなんでしょうか。裁判員裁判で、実際にどうなるのかはともかくとして、文字面で、このような言い方を肯定していいのか、私には若干のためらいがあります。この本は推理小説仕立てですから、筋書きの紹介も結末も紹介することはできません。ご了承ください。
 庭のアマリリスが濃い赤色の花を咲かせています。朱色の百合の花の隣に肥後菖蒲が紫色の上品な花を咲かせています。ヒマワリが群生し、ヒマワリ畑になるのも間近です。昨年暮れにもらった鉢植えのシクラメンが3度目のピンクの花を咲かせてくれました。初めてのことです。水やりに工夫をしたのが良かったのでしょう。水をやるのは3日か4日に一度、やるときは思い切りやるのです。

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