弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
司法
2008年6月13日
実践・法律相談
著者:菅原郁夫・下山晴彦、出版社:東京大学出版会
相談者中心主義とは、リーガル・カウンセリングの基本的な視点である。相談者が自分で解決方法を発見してもらうほうが好ましいという考え方でもある。法律相談とは、相談者がかかえる問題事案を理解し、その事実に法規をあてはめて権利義務に関する判断をするとともに、問題解決のための法的手続を教示し、必要に応じて代理人として受任するものである。
そこでは、相談者である市民が主体的に問題を解決する過程において相談を受け、その問題解決の援助を行う。そして、関連する事実に法規をあてはめて権利義務に関する判断を示すことが中心作業となる。カウンセリングとは、援助を求めている人々(相談者)に対する、コミュニケーションを通して援助する人間の営みである。
私は、これからの弁護士に求められる分野の一つが、このカウンセリングではないかと考えています。私自身、それほど自信があるわけでもありませんが、依頼者(とりわけ多重債務をかかえている人)と話しているとき、これってカウンセラーの仕事だよな、と思うことがしばしばあります。
弁護士の側が、相談者の話を「聞く」(聴く+訊く)技法を学ぶことは、ますます必要となる。すなわち、相談面接の技法の観点からいえば、話を聞かなければならないのは、相談者ではなく、弁護士の方なのである。
相談者のニーズを弁護士が把握できないと、会話のくり返しが生じたり、堂々めぐりが起きたりする。また、ニーズを把握しておかないと、必要とされる論点と、その解決策を提示できないまま、法律相談を終了させてしまうことにもなりかねない。相談者のニーズが、法律相談の背後に隠された法律問題以外の問題であることも多い。また、相談者がニーズを複数かかえていることは普通である。そして、相談者が自分のニーズを自覚していないこともある。
うむむ、なるほど、なーるほど、そういうことって、現実によくあります。
弁護士に「聴く」姿勢がみられないときには、次の3点の兆候がある。
? 弁護士の話が長すぎる。
? 相談者が自由に話していない。
? 弁護士が話を中断する。会話をさえぎっている。
つまり、弁護士にとっては、聴くことと焦点をしぼるために尋ねることという、相反する2つをいかに按配して実践していくかは、重要なポイントである。
相談を受けて分からないときには、分からないので追って調査して答えます、と勇気をもって言うこと。これも専門家としての誠実な態度である。
そうなんです。ところが、意外に、これって難しいんです。ついつい、相手は素人だと思って適当にごまかしてやり過ごそうという発想になりがちなのです。
新人弁護士にとって読むべき、必要な本だと思いました。もちろん、ベテラン弁護士も読んだら、初心にかえって弁護士は何をするべきかを、もう一度考えるうえでの素材となると思います。
(2007年7月刊。2600円+税)
2008年6月 4日
日本国憲法の論点
著者:伊藤 真、出版社:トランスビュー
著者の講演をつい先日ききました。いやあ、さすがですね。さすがに司法試験界のカリスマ講師と讃えられるだけのことはあります。実に歯切れがよく、明快なのです。なるほど、なるほどと、本当は分かっていなくても、ついつい分かった気になってしまいます。
憲法の根本的な意義・役割とは何か。それは、権力に歯止めをかけるということ。これは憲法学のもっとも基本的な常識。しかし、そのことが学校で教えられていない。教科書にも出てこない。
法律は国民をしばり、憲法は権力をしばるもの。だから、日本国民に憲法を守る義務はない。そして、ときに憲法は民主主義を制限することもある。
憲法は国家の基本法であるからこそ、「気分刷新」といった目的のための、たんなる手段として使うべきではない。憲法には、人権保障と国家権力への歯止め、という憲法本来の目的がある。景気回復や財政改革のために憲法が存在するのではない。
国民がつくった憲法によって、国民の多数意見の暴走に歯止めをかける。つまり、憲法とは、ときどきの多数意見によって奪ってはいけない価値を明文化したもの。
多数意見に歯止めをかけるということは、近代憲法は「民主主義」に歯止めをかける存在でもあるということ。したがって、日頃、強い者の側にいる人間にとっては、弱者を守る憲法の必要性を感じない。
著者の講演を聞いて、もっとも感銘を受け、印象に残ったのがこの部分でした。そうなんです。憲法は強い者にとってはなくてもいい、むしろ、どうでもいいものなんです。しかし、弱い者にとっては拠りどころとなるものなのです。
憲法99条は、憲法を尊重し擁護する義務を負う者を明記しているが、そこに国民は含まれていない。憲法を守らないといけないのは、国の象徴である天皇、それから公務員、つまり国家権力を行使できる強い立場にいる人間なのである。
100年前に制定された明治憲法ですら、国民の権利を守る道具であることを明確に自覚して制定されている。いやあ、そうなんですよね。
理想を掲げることも憲法の重要な役割である。ふむふむ、そうなんですね。
法と現実とのあいだには必ずズレがある。それを現実にあわないというので法を変えることを繰り返すのでは、法が何のために存在するのか分からなくなる。現実と規範の適度の緊張関係のなかで、現実を少しでも理想に近づける努力をすること、それが憲法に対する誠実な対応である。
日本は、ポツダム宣言を受諾した時点で、現行憲法が示す価値観を自ら選びとったことになる。それは、決して「押しつけられた」というものではない。
草案をマッカーサー司令部がつくったからといって「押しつけ」というのは、あたらない。それは、日本の法律のほとんどは官僚が案をつくり、国会で審議して成立させている。このとき、官僚が「押しつけ」たなどという人は誰もいない。審議と議決こそが、法の制定における核心なのである。また、ある意味で、憲法とは、常に「押しつけられるもの」である。少なくとも、近代憲法は、国民から権力者に向かって「押しつけられるもの」なのである。国家権力に歯止めをかけることが目的なのだから、権力側の人間が「押しつけ憲法」と感じるのも、ごくあたりまえのことなのである。
「高校生からわかる」というキャッチフレーズの本ですが、なるほどそうでしょう。とても分かりやすい憲法読本です。
(2005年7月刊。1800円+税)
2008年5月29日
続・獄窓記
著者:山本譲司、出版社:ポプラ社
国会議員から囚人になった433日間の日々を綴った『獄窓記』から4年。
これは本のオビに書かれているフレーズです。なるほど、そうでした。『獄窓記』は、私も読みましたが、胸うつ体験記でした。この本は、その続編として、前の『獄窓記』を書くに至る経緯と、その反響の大きさをかなり大胆に、あからさまに描いています。ただ、PFI刑務所を手放しで礼賛しているような記述は、本当にそうだろうかと私にはひっかかるものがありました。刑務所の民営化は、企業にとって(ゼネコンも動いています)単なるもうかる投資先が増えたということになってしまわないだろうか、と心配します。
知的障害者は、決して苦しみや悲しみに無頓着なわけではない。他人からの冷笑・憐憫・無視あるいは健常者でない自分の存在、そのすべてを鋭敏に感じとっている。ところが、自らの思いを外に伝えることがきわめて苦手な人たちだ。結局、彼らは、悲哀や憤怒の気持ちを表現することもなく、何ごともじっと耐え忍んで生きている。きっと心の中では、もだえ苦しんでいるに違いない。
いやあ、そういうことなんですか・・・。ここらあたりが実体験のない私には理解しづらいところです。
そんな一人が、刑務所の一大イベントである観桜会のとき、いきなり『花』を高唱した。「泣きなさーい、笑いなーさーい」と歌いだした。そして、彼は、ボク、死ぬまでここで暮らしてもいい。外は怖いから、というのです。世の中に対して、恐怖心を抱いているわけです。はい、なんとなく、それって分かりますよね。
日本のセーフティーネットは、非常に脆(もろ)い。毎日、たくさんの人たちが、福祉とつながることもなく、ネットからこぼれ落ちてしまっている。社会の中で居場所を失った人たちが、やっと司法という網に引っかかり、獄中で保護されている。これが日本社会の現実だ。いま、刑務所の一部が福祉施設の代替施設と化してしまっている。
いえいえ、先日、拘置所でも同じだと聞きました。高齢のため、介護や福祉の対象となるべき人々が拘置所にまで押し寄せてきているので、職員は福祉・介護の勉強をしているというのです。強いもの、お金をもったものがまかり通る社会は、弱い者を拘置所・拘禁施設に追いやっているわけです。
全受刑者のうち、その帰りを配偶者が待っていてくれる者は、1割でしかない。服役前に離縁したケースが3割、服役あるいは出所後の離婚も多い。ふむふむ、きっとそうだろうと、私も思います。
著者は、早稲田大学を出て、26歳で東京都議会議員に当選。以後の4回の選挙はすべてトップ当選。蹉跌を味わうことのない人生だった。それが2001年6月、刑務所に入り、2002年8月に仮出所となった。
服役中は、毎日、夜の訪れが楽しみだった。夢の中で妻子と会うことに、大きな期待と愉楽を覚えていた。実際、夢の中に妻や息子がひんぱんに現れた。ところが、出所したあとは違った。毎晩のように悪夢にうなされた。刑務所に連れ戻される夢など。そして、寝汗をかいた頭に浮かんでくるのは、かつての支援者たちの顔。その誰もが軽蔑にみちた眼で見ている・・・。
なるほど、そういうことなんでしょうね。ここらあたりは体験者でないと分かりにくいところですね。
国会議員のとき、霞ヶ関の官僚組織からは、日々、大量の情報が寄せられていた。ところが、今ふり返ってみると、国会は、かえって本質が見えにくい場所となっていた。たとえると、高速道路を走りながら、車外の光景を眺めていたようなもの。多くの見識を得たつもりになっていても、実は何も分かっていなかった。ところが、刑務所での生活は、「生」への実感があった。
服役した直後、先輩の受刑者は著者にこうさとした。
刑務所の中で生活していくうえでの、もっとも大事な心構えを教えてあげよう。それは、自分が人間であることを忘れること。それに、この世の中に『人権』という言葉があることを忘れることだ。
うへーっ、そ、そうなんですか・・・。
日本の警察の留置場は代用監獄と呼ばれている。今や、ダイヨーカンゴクとも呼ばれ、日本の司法の後進性を世界にアピールしている不明な存在だ。トルコやハンガリーでも同じような仕組みがあったが、人権侵害の恐れが高いということで、10年前に廃止された。うむむ、日本では、残念ながら、警察の留置場に最大23日間も入れられるというシステムは当分、変わりそうもありません。
日本は、対「テロ」戦争の狂奔するアメリカなんかよりヨーロッパに学ぶべきところが多々ありますね。
現在、3万人の新しい受刑者がいるなかで、その4人に1人は知的障害者と認定されるIQ70以下の人である。
ええーっ、そうなんですか。それは知りませんでした。これでは、福祉の充実が必要なわけです。
ところが、これらの知的障害者の多くは、ちょっと見では分からない。
うーん、これは困りましたね。
そして、刑務所から出た人の再犯率は5割をこえている。矯正教育というのは、口でいうほど簡単なものではない。やはり、社会がもっとあたたかく「前科者」を受け入れ、仕事と家庭を保障しなければいけないということです。目には目を、人を殺した奴は死刑にしろ、などという応報刑思想では社会の安全はたもてません。
(2008年2月刊。1600円+税)
2008年5月22日
よみがえれ少年院の少女たち
著者:中森孜郎、名執雅子、出版社:かもがわ出版
この本を読むと素直な気持ちになって、すごく感動しました。少年院で、こんな素晴らしい人間教育が何十年にもわたって営々となされていることを知り、その地道な粘り強い努力に対して心から敬意を表したいと思います。人事院総裁章を受けたということですが、このような地道な取り組みは、もっと世の中に知られていいと思いました。知らなかったのは恐らく私だけではないと思いますので、ここで声を大にして紹介したいと思います。
仙台市にある青葉女子学園では、24年間にわたって表現教育が続いている。朝日新聞の天声人語でも取り上げた(2007年1月6日)。
女子少年院は、全国に9ヶ所ある。その一つである青葉女子学園では、毎年春になると、創作オペレッタの準備に取りかかる。これは、すべて手作りの音楽劇である。まず、教官が漢字1字のテーマを与える。2006年は「今」だった。これをもとに、20人の少女たちが手分けして脚本や歌をつくる。すごいですね、自分たちでイメージをふくらませていって、すべて手づくりです。
少年院に収容された少年は、その多くが幼いころから家庭内や親子の間に葛藤があるなかで育ち、学校では学習につまづき、いじめや不登校の問題にさらされ、非行に至る。ようやく見つけた不良仲間との居場所も決して安定できる場所ではなく、人に対する信頼も、自分に対するプラスの評価もないまま、絶望的な気持ちで少年院に強制的に収容されてくる。とくに少女の場合は、性的な被害体験など、女子特有の傷つき方をしていて、心身ともに疲弊して入院してくることも多い。ちなみに、少年院に送られる割合は家庭裁判所の扱う少年保護事件のうち3%程度。
少年院に来た少女たちに共通する3つの問題点は、第1に嫌なことでも我慢してやりとげることが苦手なこと(自己統制力の未熟さ)、第2にルールを守って生活したり、集団の中で自分の役割を責任もって果たすという姿勢に乏しい(規範意識の欠如)、第3に親や周囲から愛情を受けてきた実感に乏しく、人一倍受け入れてほしい、認めてほしいという気持ちが強い(愛情欲求不満の高さ)。
このような少女たちが大人へ示す反応・行動は、何を訊いても「分からない」「別に」などの「拒否」、どんなことにもへ理屈や難くせをつけて受け入れない「反発」、受け入れてもらうための作り笑顔や必死の「迎合」、ときには自分に好意的に接してくれる大人を試すための「裏切り」。
うむむ、なるほど、なーるほど、これってなかなか扱いが難しいですよね。
問題は、そこで、どうするか、です。青葉女子学園では、創作オペレッタに取り組んでいます。このオペレッタは、題材自体を少女たちが創作するという特徴があります。そして、それに少年院の全員が何らかの形で関わるのです。テーマは、漢字一文字で指導者が設定します。
翼、道、時、光、樹、河、風、旅、響、星、窓、緑、灯、橋、鏡、手、空、輝、今、声。これが今までのテーマです。うーん、な、なーるほど。
脚本は、全部、手書き。あえてパソコンはつかわない。これは、自分たちでつくった作品であることを実感させるため。歌も少女たちが作詞・作曲する。これまでに20回で277曲の歌がつくられた。
ひゃあ、すごい、すごーい、ですね。
上演時間は40〜50分間。配役も背景(舞台)づくりも、みな少女たちがする。
このほか、青葉女子学園では身体をほぐす体操、和太鼓、詩の朗読などにも取り組んでいます。「春を呼ぶ太鼓と朗読の会」を毎年3月、家族にも来てもらって開いています。
青葉女子学園を退院した少女が出院したあと5年内に再び犯罪・非行をして収容された率は4.5%だそうです。すごいことです。大変な苦労が学園の内外にあると思いますが、ぜひ今後とも続けてほしいと思います。
この本を、少年付添事件を担当する弁護士すべてに読んでほしいと思いました。
(2008年3月刊。2200円+税)
2008年5月15日
冤罪弁護士
著者:今村 核、出版社:旬報社
弁護士歴16年の中堅弁護士が自分の手がけた冤罪事件を語っています。無実の人に対して裁判所が無罪を宣告するのがいかに大変なことか、いえ、裁判官の目を開かせて勇気をもって無罪判決を出させることがどんなに大変なことなのか、よーく伝わってくる本です。裁判官不信になってしまいそうな本でもあります。でも、先の名古屋高裁判決を出した勇気ある裁判官、そして私も知っている良心的な裁判官は何人もいます。となると、弁護士としては、いかに裁判官のもっている(眠れる)良心を呼び覚まし、事実と向きあわせ、力をふりしぼって無罪判決を書く気にさせる主張と立証、そして弁論の工夫が求められているということになります。
第1のケースは仮眠者狙いの事件です。まったく無関係の地下鉄乗客が犯人として捕まりました。凶器注目効果という現象がある。これは、目撃者が犯人にナイフやピストルなどの凶器を示されると、その方に注意が行き、人の識別が困難となる。また、あるところで見た人物のイメージをまったく違う出来事と融合させてしまうことを無意識的転移という。
写真面割台帳のつくり方には工夫がいる。英米では、写真面割ではなくラインアップが行われる。ラインアップの構成については、目撃者があらかじめ言語化していた特徴点(たとえば、やせて、背が高く、金髪の男)をすべて備えた人物だけでラインアップを構成しなければならない。写真面割台帳は、その点に配慮がなければ、公正とはいえない。
やってもいない者が罪を認めて自白するはずがない。しかも、犯行状況を詳しく自白しているのだから犯人に決まっている。
これは市民の常識ですよね。でもでも、虚偽自白は昔から数多くあります。なぜ犯人でもない人が虚偽の自白をするのか?
心理学者は、死刑になるかもしれないというのは、あくまで将来の可能性にすぎず、現在の取り調べの苦しみと比べて、はるかに遠く感じられる。もし罪を犯していれば、死刑というのは生々しい現実感をもって迫ってくるが、無実の者には現実感がもてないものだと解説する。
うむむ、な、なるほど、ですね・・・。しかし、自白は、自分に不利な嘘などつくはずがないという思い込みや、直観に訴える力などのため、過度に信頼されがちで、誤判の原因となる。
痴漢冤罪が最近いくつも起きています。そのなかの一つは映画『それでもボクはやっていない』(周防正行監督)になりました。
その一つに、被害にあった女性が「勃起した陰茎をお尻に押しつけられたことが暖かさで分かった」と供述したケースがありました。このときには、男性が陰茎に薬を注射して強制勃起させて実験し、「暖かさ」が分からないことを立証したといいます。このケースでは、そのため、幸い一審も二審も無罪となりました。それはそうですよね。その「暖かさ」なんて、肉体的なものではなく、単なる心情のレベルに過ぎませんよ。
ところが、いくつかの無罪判決が出たあと、迷惑防止条例の法定刑は6月以下の懲役、60万円以下の罰金に引き上げられた。強制わいせつ罪による起訴も増え、検察官の求刑は重くなった。2000年夏以降、裁判所の無罪判決はなく、しかも判決が増えた。
うひゃあ、もし、それが冤罪事件だったら、大変なことですよね。
著者はいくつも無罪判決を獲得したようですが。私自身はこれまで35年間の弁護士生活のなかで2件しか経験がありません。そのうち1件は、公選法違反(戸別訪問罪)で、戸別訪問を禁止する公選法事態が違憲だから無罪とするというもので、明快な判断でした。残念なことに2審では逆転有罪となり、最高裁でも負けて有罪(罰金刑)が確定しました。
もう1件は被害者の法廷での供述がくるくる変遷するので信用性がないということで無罪となりました。恐喝罪でしたが、一審で確定しました。
裁判員裁判が始まったとき、市民をどれだけ説得できるか、弁護士の力量が一段と問われることになります。
サボテンが一斉に純白の花を咲かせてくれました。数えてみると、11本もあります。細長いトランペット形をしていて、いつも南の空に向かって斜めに突き出して咲きます。サボテンの花が咲くと、身体中のあちこちに子サボテンをかかえるようになり、やがて親サボテンは枯れていきます。花を咲かせたらすぐ終わりではありませんが、やがて世代交代をしていくことを意味しています。今のサボテンたちは、少なくとも3代目です。
縁側に、もらった鉢植えの朝顔を置いています。背が高くならないようにした朝顔です。毎朝、目のさめるような赤い花を次々に咲かせてくれます。夏の近さを感じます。
(2008年1月刊。1600円+税)
2008年4月22日
冤罪司法の砦、ある医師の挑戦
著者:石田文之祐、出版社:現代人文社
贈収賄事件で有罪となった医師が司法制度を激しく弾劾した本です。
日本の裁判は、とても裁判といえるものではない。少なくとも、欧米諸国がとっくの昔に到達した近代司法に遠く及ばない。これが著者の結論です。
事件は、国立大学の医局を主宰する教授に対して著者の営む民間病院への医師派遣を要請し、その見返りに月10万円を医局に寄付したことが教授個人への贈収賄とされたというものです。教授は公務員であり、お金が動いたことには争いがありません。
民間病院の理事長である著者は、あくまでも医局への寄付だったという認識(主張)です。最高裁は、法令上は根拠のない、医局に属する医師を派遣する行為は職務密接関連行為と認定して贈賄性ありとし、有罪にしました。これは、ロッキード事件で首相の行為を職務密接関連行為と認定したのと同じ論法です。
これについて、医局医師の派遣行為にまで拡大することは、処罰範囲をいたずらに拡大するもので、罪刑法定主義に反する。土屋公献元日弁連会長はこのように批判しています。
司法の世界は、まさに惨状であり、信じられない怠惰・蒙昧・不正義の世界だ。
被告人が法廷でしゃべったことを裁判官は信用できない、虚偽だという。しかし、取調中の供述調書には、被告人の署名があるとはいえ、それはあくまでも検察官の作文であり、文責は検察官にある。もちろん、供述調書作成の共同作業者としての責任が被告人にもある。しかし、妥協や迎合も当然考えられてよい。しかも、長い勾留という異常な抑圧状態のもとで、まったく虚偽だと意識しつつも、署名捺印せざるをえないときもある。つまり、供述調書には、被疑者の供述がそのまま記述されてはいない。ところが、裁判官は、取調中の検察官作成の供述調書は信用できても、法廷での被告人本人の発言は信用できないという。なぜか?
勾留42日間の中でとられた検察官調書を全面的に評価し、5年間、1人の被告人が誠実に、できる限り正確に、と心がけて公判で話したことを信用できないという裁判官とは、一体どんな人種だろう。彼らも日本人なのか?
外国に比べてはるかに長い勾留は、日本の司法が人質司法と呼ばれる所以の一つだ。これは、適性手続に対する検察と裁判所の無知と無理解、法令無視か歪曲の結果であり、専門職としての責任感と使命感の欠如、すなわち堕落が原因だ。
判決文を読めば分かるとおり、被告人が公判廷で述べることに裁判官は聞く耳をもたない。もっぱら供述調書に依存する。法令を守る頭脳と精神がない。
著者は、取り調べを受けているとき、検察官に対して黙秘権はあるのかと質した。それに対する検察官の答えは、黙秘権はあるが、捜査に協力しないということになって、取り調べが長引くだけだ。というものだった。
このような黙秘権を否定する検察官の発言を弁護人は無視した。裁判官も重大な憲法違反だと認識しなかった。この点、法曹三者は、みな一蓮托生のなれないだ。日本の司法は生きていない。
検察と裁判所は、市民の厄介者でしかない。有罪と冤罪とのふり分けができないのであれば、厄介者以外の何者だというのか。市民の名誉を汚し、ウソを並べ立てて正義を台なしにし、市民の人生を破壊し、場合によっては汚名を着せて生命さえ奪っている。彼らを早く撲滅しなければならない。彼らこそ、人の世の悪の極みである。
ここまで言われると、35年間、司法の世界で生きてきた私は身の縮む思いがします。なるほど、大いに反省すべきなのですが・・・。
1日15分だけ認められる接見のとき、弁護人は、できるだけ本当のことをしゃべってくださいと言うのみだった。被疑者はできるだけ真実を言いたいが、検察官の思いこみと期待は、逆である。供述調書の作成作業は、まさに検察官と被疑者との闘いでもある。
裁判官の有罪主義は、眼に見えないもっとも難儀な心の問題である。検察官に不利益な決定をすることは、一般的にいって、裁判官にかなりの勇気を必要とする。
日本は、検察にとって、天国とも楽園とも言われる所以である。
うむむ、法曹三者に対する厳しい指弾のオンパレードです。これで裁判員裁判になったら、どうなるのだろうかと、ちょっと論点はずれますが、つい心配になりました。
(2007年12月刊。1600円+税)
2008年4月 4日
新司法試験合格者から学ぶ勉強法
著者:19年度合格者16人、出版社:法学書院
新司法試験は、全4日(休憩日を入れると5日)の長丁場である。肉体的・精神的な疲労はかなりのもの。そこで、まずは長丁場の試験に耐えうるだけの体力、精神力が必要となる。
新司法試験は苛酷な試験である。すべての試験が終わったとき、精魂尽き果てて、しばらくは席から立ち上がることもできなかった。この本試験に向けて、知力だけでなく、気力・体力が充実するよう、しっかり自己管理をしなければいけない。
新司法試験は、4日間のうちに22.5時間もの長時間の着席を強いられる。
新司法試験は、大変苛酷な試験である。毎日、長時間、問題を解かなくてはいけない。本当にきつい。新司法試験は、精神力も点数にかなり影響する試験である。試験前からストレスをためすぎたり、試験中に緊張しすぎたりして力を発揮できないということは避けなくてはいけない。ストレス解消法は重要だ。直前期は、異常なストレス状態になるし、試験当日のストレスと緊張具合は尋常ではない。
うむむ、これはやはり大変な試験ですよね。
新司法試験は、基本判例の事案をしっかりおさえたうえで、どのような事実に着目してその結果を導いたか、ということを勉強することが今まで以上に強く求められている。答案のスタイルとしては、このような基本判例があるが、その事案と比べて本件事案とは、ここが違う。もしくは同じである。また、このような特殊性もある。したがって、基本判例と違う結論、もしくは同じ結論になるという形で書けるのがベストである。なーるほど、ですね。
新司法試験は、正しい方向で、一定量の努力を積み重ねた人が、高い確率で受かる試験だ。旧試験のときは、択一の点数がもちこされないこと、論文の総合点が低いことから、最後は、運の要素が強く、いわゆる合格順番待ちと言われる人が相当数存在した。新司法試験が択一の点数がもちこされ、論文の総合点も素点で800点と幅が大きく増えたので、旧司法試験に比べて、結果が順当な実力を反映する試験になった。
法科大学院の授業では、法的な思考過程が訓練された。大量の判例を読むことは、問題点を素早く的確に理解することに役立った。期末試験は、論文試験の格好の訓練の場だった。
私が35年前に受けた司法試験のときと同じく、我妻栄の教科書を基本書としてあげた受験生がいるのを知って、驚きました。さすがに『ダットサン』ではありませんでしたが・・・。私は『ダットサン』を6回読んで合格しました。また団藤の『刑法綱要』を一日で読み切れるようになったとき、合格しました。これと同じようなことを書いている合格者がいました。試験問題は変わっても、受験勉強のすすめ方のポイントは昔も今も変わらないという気がしてなりません。それは一言でいうと集中力です。集中して問題文に没頭し、基本的な定義をふまえたうえで、論点をおさえた文章を展開するということです。
新司法試験合格者の質を心配する人は多いのですが、やる気さえあれば(他人とまじわるのが不得手だと困りますが)、弁護士として役に立つ存在になれると私は体験を通じて確信しています。
(2008年2月刊。1200円+税)
2008年3月12日
公認会計士VS特捜検察
著者:細野祐二、出版社:日経BP社
粉飾決算したとして無罪を主張しながら一審も二審も有罪となった公認会計士が、いまの司法制度を厳しく弾劾した本です。検察と裁判所だけでなく、弁護士までもが鋭く指弾されています。経理処理のあり方については分からないことだらけですが、著者の憤慨ぶりはよく伝わってくる本です。
日本の司法は激しい制度疲労を起こしている。制度疲労は、検察官だけでなく、裁判所にも、そして弁護士にもある。
報道記者は、なぜ真実を報道しないのか。司法記者クラブの存在、そして、99.9%の起訴有罪率のなかで、報道機関自身が本来の健全な批判精神を忘れ、逮捕すなわち有罪という予定調和に安住しているのではないか?
検察官は取調の冒頭でこう言った。
あなたには黙秘権がある。しかし、行使するな。黙秘権を行使することは、あなたのためにならない。今日の(任意の)取り調べについては、弁護士にも話してはならない。ところで、テープレコーダーなどを持ち込んでいないだろうな?
否認すると・・・。
いい加減にしろ。すべて分かっているのだ。いつまで、ふざけた態度をとっているのだ。検事の声は怒りに震えている。立ったまま大声を出し、足を踏み鳴らしながら、机の上から身を乗り出すようにして、まくし立てる。自分の大声で興奮し、その興奮で、また怒りが加速される。
著者は高血圧のため常に水分を補給しなければ血液の循環障害が出るので、医師からはこまめに水分を補給するよう注意されているのに、飲むことが許されない。ところが、取り調べにあたった検察官は、大きな湯飲み茶碗でお茶を飲みながら取り調べをした。
検察官は、こう言った。
検察官面前調書は、被疑者の言うことをそのまま書くものではない。被疑者と検察官の合作なのだ。したがって、調書には検察官も署名する。
特捜検察は時流に乗った事件の立案を求める。公認会計士の責任がマスコミをにぎわしているので、本件は立件された・・・。
著者の勾留期間中の取り調べは、21日間、合計95.5時間にわたって行われた。190日後に、やっと保釈された。逮捕の翌日から最初の日曜日までの6日間は、徹底した脅迫で痛めつける。その後は、罵声や恫喝による脅迫は止む。その後の10日間は、シナリオにあわせた論詰に変わる。最後は、昼に自白調書への署名を説得し、夜になると強要するというパターンだ。
21日間の勾留期間中の取り調べで、何度も、「もうダメだ。署名するしかない」と観念した。それを踏みとどまったのは、弁護士の励ましがあったから。
判決は、検察官の論告をそのまま認め、求刑どおりの懲役2年、執行猶予4年だった。即日、控訴した。
弁護人は、アリバイ証明のための証拠請求をしてくれなかった。
どうせ、請求しても、検察官が開示するかどうか分からない。裁判官が証拠開示命令を出してくれるかどうかも疑問だ。弁護人は、こう言った。
でも、やってみないと分からないではないか。著者は、こう批判します。もっともです。でも、私も、ときどき同じようなことを言うことがあります。
日本の弁護士は、どうせ有罪に決まっているという日本の司法の予定調和のなかで、多かれ少なかれ検察官となれあい、裁判官に対する執行猶予おねだり型の弁護活動しか行わない。容疑を全面否認して検察官と全面対立する被告人の弁護においても、弁護人は裁判所の心証を良くするなどと非論理的な理屈を言い立てて、やはり無罪判決おねだり型の弁護活動を行ってしまう。これでは、検察官も裁判官も、弁護士なんか怖くない。だから弁護士は、検察官からも裁判所からも軽んじられる。なぜ法の正義と被告人の人権を全面に打ち立てた弁護活動をしないのか?
検察官は、証人尋問の前にリハーサル(証人テストという)をやる。そして、証言が終わると、検察官の部屋で反省をする。これは、前もって証言のあと検察官の部屋に来るよう証人はクギを刺されることによる。検事の手直しを受けたうえ、丸暗記させられた。 40回ものリハーサルをやらせられた。
要するに、この事件は、著者が捜査段階で公認会計士としての守秘義務を理由に供述調書への署名を拒否したことから、捜査当局が不当な私憤を抱き、その私憤の上に強制捜査を行ったところ、たまたま机の引き出しから100万円の現金が発見されたことから、証拠にもとづかないで逮捕したことによる免罪事件だ、と主張しています。
著者の怒りが迫力をもって伝わってくる本です。裁判員裁判を批判する人が少なくありませんが、私は今の職業裁判官による裁判に任せていいとは思えませんので、裁判員裁判を地道にすすめていき、少しでもより良いものに改善していったほうが良いと考えています。
(2007年11月刊。1800円+税)
2008年2月29日
私はなぜ逮捕され、そこで何を見たか
著者:島村英紀、出版社:講談社文庫
64歳で逮捕された教授(地震学者)の書いた本です。2006年2月から7月まで、なんと171日間も札幌拘置所暮らしを余儀なくされました。その拘置所での日常生活が、ことこまかく紹介されています。
札幌拘置所には暖房器具はない。建て替え前は、暖房もなかった。今は廊下に暖房がある。そうなんですね。だから警察の留置場(代用監獄)のほうがいいという被疑者もいるのです。悪いことをした人間にエアコンなんてぜいたくだという「素朴な」国民感情がある限り、冷暖房は難しいでしょうが、本当にそれでいいのでしょうか・・・?
拘置所の廊下を歩くときには、真ん中を、まっすぐ前を向いて歩くことが要求される。決して拘置所に収容されている人と目を合わせてはいけない。
昼食は午前11時すぎに配られる。昼食後は昼寝してもいい。平日だと12時半から1時間。土日と休日は、12時半から2時間。これ以外の時間は横になってはいけない。
就床は曜日にかかわらず18時。フトンを敷いて横になってもいい時間だ。就寝は、曜日にかかわらず21時。これは、寝なければいけない時間。これ以降、起きていてはいけない。
食事は歯ごたえのあるものは、ほとんどなく、柔らかいものがほとんど。長期収容者に歯の悪い人が多いせいだろう。比較的に低脂肪で、魚タンパク、練り製品が多い。野菜は煮たものが多い。ワカメ、昆布、ヒジキなど海草類は多い。
塩分は多すぎで、デザートや果物が意外に多い。麦が1割ほど混じった米飯は、想像していたより悪くはない。よくかむと甘い。巨大なコッペパンも出る。焼き魚は、焦げていることが少なく、うまい。
本は合計して98冊を借りて読んだ。
著者は詐欺罪で起訴されました。ところが、被害者とされた北欧(ノルウェー)の大学の代表者が法廷で詐欺にはあっていないと証言したにもかかわらず、有罪(懲役3年、執行猶予4年)となりました。研究費を私的流用したという点を検察官は立証できなかったのに・・・。
ところが、著者は控訴しなかったのです。控訴してもムダだと判断したわけです。
その理由の一つに、札幌高裁には、有罪を乱発するので有名な裁判官がいて、その裁判官が担当する可能性が高いということがあげられています。なるほど、たしかに、そういうことも、現実には考慮されていることです。控訴したあげく執行猶予どころではなく、実刑になっては大変ですからね。だけど、司法って、そんなにあてにならないものであっていいのでしょうか・・・。
そして、真実追究とか名誉回復とか悔しいという気持ちより、残された人生を本来やりたいことにつかったほうがよほどいいと判断したというのです。
なるほど、それも一つの決断だと弁護士生活35年の私も思いました。私の体験でも、司法は、それほど、あてになる存在ではありません。勇気のない裁判官(もっとも、本人はあまりそのような自覚はありません)が、それほど多いのです。
(2007年10月刊。533円+税)
2008年2月22日
山と花
著者:福山孔市良、出版社:清風堂書店
「弁護士の散歩道」シリーズの第4巻です。たいしたものですね。海外そして国内の旅行記を中心として書き続けている大阪の弁護士による旅行エッセイです。
実は私も、海外旅行に行くようになって、いくつもの旅行記を自費出版しています。一番初めは今から22年前のアメリカのクレジット会社の視察旅行です。「カード社会の光と影」というタイトルで出版しました。次はヨーロッパの環境調査です。ドイツのシュヴルツ・バルト(黒い森)も調査に行きました。フランスのボーヌで初めてキールを飲み、その美味しさに感激したことを今もはっきり覚えています。ブルゴーニュのワイン街道を走りましたので、「ワイン片手にヨーロッパかけ巡り」(1987年)を刊行しました。
旅行記といえば、このほかにもフィリピン・レイテ島に行って「レイテ島だより」(1990年)を出し、1990年夏にフランス(エクサンプロヴァンス)に40日間、家族をほっぽらかしで独身気取り語学研修に出かけ「南フランス紀行」を刊行しました。これらは本というか冊子というものでしたが、それでは旅行記として固苦しいという印象を与えることを反省し、その次からは写真集のようなものにしました。スイス(ルツェルン)に1週間ほど滞在した旅日記を「スイスでバカンスを」(1999年)にまとめ、中国のシルクロードに10泊したのを「北京・西安そしてシルクロード」(2004年)、そして、ボルドー(サンテミリオン)に出かけた10日ほどの旅を「サンテミリオンの風に吹かれて」(2005年)として刊行しました。いずれも写真を主体としたもので、読みやすい冊子にしたと自負しています。
以上、ついつい長々と自慢話をしてしまって申し訳ありません。著者の旅日記は私の旅行範囲をはるかに超えています。ヨーロッパは山歩きです。「花を求めて一万里」という印象すら受けます。写真の腕前もなかなか見事なものです。私も、花は好きなのですが、写真をとる技術がもうひとつ未熟というだけでなく、花の名前がよく識別できません。
著者は、ドイツの山、イタリアの山、そしてギリシャやアイルランドにまで足をのばします。いえいえ、中国にも奥地まで歩いていくのですから、たいしたものです。
私も中国の黄山にまで行ったことがありますが、中国は、本当に底知れぬ大きな国だと実感したことです。
そして、日本国内の旅行記もちょっぴりつけ足されています。私も、自慢じゃありませんが、日本全国47都道府県、すべて行くことができました。でもでも、まだ島にはいくつも行っていないところがあります。
私よりちょうど10歳年長の著者に対して、これからも健康に留意されて元気に山歩きにがんばられますよう、エールを送らせていただきます。
(2008年2月刊。1429円+税)