弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

司法

2009年5月21日

国策捜査

著者 青木 理、 出版 金曜日

 特捜検察が捜査に乗り出して世を騒がせた事件を「国策捜査」と冷笑的に評することが珍しくなくなってきた。
 今も多くの人は特捜検察に「巨悪摘発」の期待を寄せ、新聞やテレビをはじめとする大手メディアも、その捜査に喝采を浴びせる。その結果、特捜検察による捜査は「絶対正義」かのような装いをまとい、冷静な分析・批判はかき消されがちだ。しかし、その捜査も内実を一皮めくってみれば、実のところ矛盾と不公平が渦を巻いている。
 近年の裁判は、検察捜査をただ追認するだけだ。検察の動きを冷静に分析し報道してチェック機能の一端を果たすべきメディアの惨状は語るまでもない。もともと捜査当局べったりの習性に染まった日本の大手メディアは、特捜検察が動き出すや否や、その尻馬に乗ってターゲットを一方的に糾弾し、ときに狂乱ともいえるような報道を繰り広げ、世論を煽る。
 宗像紀夫氏(元東京地検特捜部長)は、次のように書いている。
 「犯罪捜査は、もちろん人格的に優れた、そして十分な経験を積んだものが行うべき仕事だと思われるが、現実にはそうではない。経験も浅く、人を説得する十分な技術もない者が、ただ相手を怒鳴りつけて力で相手をねじ伏せるというケースも少なくない。参考人を調べるときも、逮捕できるんだと脅して捜査官側の意向にそう供述を求め、体験もしていない、記憶に反する内容の調書が作成されたという報告もしばしば聞かれる。嘆かわしいことだ」
 結局、供述調書というのは捜査側の作った作文である。それを読んでいる限りは非常につじつまが合う、すきのないものになっている。キレイに書いた作文は、素直に頭に入ってくる。
 検察は嘘をつかないが、被告人は嘘をつくと考えるのが、現在の刑事司法である。
 弁護人が取り調べ中に会えるのは、一日に何分間というようなわずかな時間でしかない。そのときに無味乾燥な事件の話しかできない。ところが、検事のほうは朝から晩まで連日、取り調べしてさまざま話をする。外界と遮断された人間は、近くにいる人間にだんだんと情が移っていくものだ。すると、検事の方が自分の良き理解者のように思えてくるようになる。これも取り調べのテクニックの一つなのである。
 日本の刑事司法の問題点を「国策捜査」の被害にあったと訴える有名人の人たちの体験談をもとにしていますので、その真偽はともかくとしても、訴える力があり、共感を呼びます。

 秋田に行ってきました。
 夕方、川反という一番の夜の街を歩きました。よさそうな郷土料理店がないかなと思いながらぐるっと回ったのです。夜が早かったせいもあるのでしょうか、あまり人通りもなく、客引きの男女が目立ちます。
 一件の小料理店の玄関の雰囲気が良かったので、ついふらふらと入りました。テーブルに座って料理を注文すると、なんだか前にきたことのある店のような気がします。メニューに書かれている店の名前に見覚えがあります。美味しい秋田料理をいくつも単品で注文しました。
 ハタハタのすしは絶品でした。そして、ガッコです。こりこりとした歯ごたえがあり、塩味もほどほどで下になじみます。そうです。やっぱりここは、20年以上も前に秋田の弁護士に連れられて入った有名な店でした。ホテルに帰ってガイドブックを見てみると、そこにもちゃんと載っていました。店の名前は「お多福」と言います。偶然の一致でした。 
(2008年5月刊。1500円+税)

2009年5月12日

民事訴訟・執行・破産の近現代史

著者 園尾 隆司、 出版 弘文堂

 本書は、法律実務家(現職の裁判官)による法律実務家(とりわけ弁護士)のための日本近現代民事法制史である。
 著者が冒頭にこのように喝破していますが、まさにそのとおりです。ほとんど類書はないと思いますし、何より体系的な法制史であり、また、いま活動している私たちの実務にも大いに役立つ内容となっています。私など、いやあ、そういうことだったのかと、何度もうなずいてしまったことでした。
 アメリカに留学した経験があり、最高裁の事務総局に在職中に何回となく民事関連の立法に関与した著者ならではの豊富な経験に裏打ちされていますので、とても実践的な内容です。この本に書かれていることの一部が判例タイムズで連載されていましたが、それはほんの一部でしかなく、全体を知るためには、この本は必読文献です。
 日本法制史で近現代を語るためには、明治から出発することはできません。江戸時代の法制度は明治時代にしっかりと生きており、それが今日なお尾を引いているのです。私も、江戸時代の法制史を少しだけですが勉強したことがありますので、その点は実感としてよく分かります。江戸時代の法制度というのは、信じられないことかもしれませんが、今の日本にも生きている部分があるのです。著者は次のように言っています。
 明治初期の裁判を理解するには、まず、江戸時代の裁判がどうであったかを知る必要がある。江戸時代の裁判についての正確な知識は、明治以降の裁判手続を理解する上で不可欠なのである。
 江戸時代の裁判制度そして裁判手続は完成度の高いものであったため、明治政府は明治初めには徳川幕府の法令をそのまま借用して国家統治を図っていた。明治政府が新しく法体系を整備をしたあとも、現在に至るまで、江戸時代の法制度と裁判手続は、さまざまな形で影響を及ぼしつづけている。
 江戸時代には、困難・重要事件は、幕府評定所の評議によって決定しており、評定所は将軍の直轄機関であるがために、最高位の意思決定をすることができた。裁判機関の最終判断は、他の行政機関の判断に優先した。
 ところが、明治政府においては、裁判機関の判断が他の行政機関の判断に優先することはなかった。そこで、明治政府は、江戸時代の判例を法源として認めながら、明治以降の判例には法源としての効力を認めなかった。
 静岡県にある徳川幕府による葵文庫を引き継いだ国書館には、2100冊の洋書がある。そのうち、もっとも多いのはフランス語の本、次いで、オランダ語の本、その次が英語の本である。
 ええーっ、なんでフランス語が断トツに多いんでしょうか。オー、ラ、ラーです。不思議ですし、フランス語を勉強している身としてはうれしい限りです。
 明治はじめまで、司法省の西欧情報はフランスに偏っていた。
江戸時代の民事訴訟は、刑事訴訟と区別されておらず、同一の手続で運営されていた。訴訟手続きでは刑事訴訟は優位であり、民事訴訟の過程で刑罰に触れる事実が出てくると、職権で刑事訴訟に移行する。
 明治政府(司法省)は、明治8年、勧解制度を創設した。訴訟になる前に勧解(和解、つまり話し合い)を推奨した。その結果、明治10年には申立件数が年間60万件を超えた。明治16年には、なんと100万件を超えてしまった。ところが、明治19年に勧解吏が創設されると、急激に減り、明治23年には年30万件台となった。いやあ、それにしても、当時の人口(3300万人くらいでしょうか?)を考えても信じられないほどの多さですね。
 資料篇を除いた本分だけでも310頁もあり、微に入り細をうがった内容であり、とても為になる法制史となっています。ただ、私にはいくつかの点でひっかかりましたので、次にそれを紹介します。
まず、村役人については、藩の指名によると断言されています。私も最近まで当然そうだろうと思っていましたが、村役人については、全国的にも公選制であったところが多いようです。
 江戸の庶民が訴訟好きだったかという点について、著者は「軽々に結論付けることはできない」として、消極に解しているように思われます。しかし、私は日本人は十七条憲法の昔から、案外、訴訟好きだったのではないかなと、35年以上の弁護士経験を通じても実感しています。著者の文献目録には登場していませんが、『世事見聞録』などを読むと、それがよく伝わってきます。少なくとも、昔から日本人は裁判が嫌いだったという俗説は成り立たないことを認めてほしかったと思いました。そして、この関係では、あとで佐賀の乱を起こして刑死させられた江藤新平が、国家賠償請求訴訟を認めたことから行政訴訟が増えたということも聞いていますので、その点についても触れてほしかったと思います。明治政府は裁判件数が急増したことへの対処策として、貼用印紙額を大幅に引き上げたといいます。裁判の原告になるには、多額の印紙をはらなくてはいけないことが今の日本で訴訟を抑制することになっていると思います。
分散(今の自己破産)の濫用があったかどうかについても、著者は「考えにくい」としています。しかし、井原西鶴の本に紹介されているような濫用事例は、やはりあったのではないかと私は現代における体験もふまえて、考えています。
 いずれにしても、大変な力作です。明日の実務にすぐに役立つ本ではありませんが、実務をすすめる上で、考えるヒントが満載の本だということは間違いありません。少々、値は張りますが、大いに一読の価値のある本です。
 日曜日に梅の実ちぎりをしました。紅梅の方にはまったく見が付いていませんでしたが、白梅はたくさん緑みどりした実がなっていました。一つ一つ手でもいでいったのですが、緑葉の陰に隠れるようにしていますので、取りこぼしがあったかもれません。たちまち小さなザル一杯になりました。あとで数えてみると、60個もありました。これで梅ジュースを作ります。たっぷりのハチミツにつけると、美味しいジュースになります。
 隣にスモークツリーが輝くばかりの赤い葉と花をつけています。フワフワとしていて、まるで煙というかもや(スモーク)が木にかかったようです。
 ヤマボウシが白い花をつけ、新緑の中に存在を誇示しています。
(2009年4月刊。6000円+税)

2009年4月22日

ロイヤー・メンタリング

著者 マラン・ダーショウィッツ、 出版 日本評論社

 ハーバード・ロースクールの現役の教授ですが、なんと28歳で終身的地位を持つ教授に就任したというのです。もちろん、これは同校始まって以来、最年少です。
 同時に、数々の著名人の弁護人としても活躍しています。誘拐されたあと自らもテロリストになったパトリシア・ハースト、ジャンク・ボンド王マイケル・ミルケン、キリスト教テレビ伝道者ジミー・バッカー、元ヘビー・ウェイト級ボクシング・チャンピオンのマイク・タイソン、元フットボール・スターのO・J・シンプソンなどです。
 弁護士活動の半分は、プロ・ボノ活動を実践しているそうですから、本当に大したものです。
 著者は、アンビュランス・チェイサー(救急車の追っかけ弁護士)は、決して悪いことはないとしています。私も、なるほど、そうなのかと、反省させられました。
 保険会社に有利な和解を成立させるために救急車を追いかけている保険会社の査定係と渡り合う一般の弁護士が嫌われる合理的な理由はない。むしろ、彼らは、一般市民が大企業と対等に戦うため、不公平な土俵を平にする役目を果たしている。
 そして、弁護士が広告を出して「訴訟を煽っている」と世間が非難するのもおかしいと批判します。
 訴訟が増えることは大企業にとってはよくないことかもしれないが、社会にとっては良いこと、とりわけ力のないものが力のあるものに対して訴訟するのは良いことだ。
 訴訟が多いことを非難するのは、金持ち、権力者、他人を搾取する者にとっては非難に値するものであっても、貧乏人や権力を持たないもの、被害者にとっては不利になる。
 このような非難は、訴訟が多くなることによって失うものが多い企業が組織したものである。
 ふむふむ、なるほど、なるほど、たしかにそう言えますよね。
 著者は、アメリカの裁判官に対しても大変きびしい見方をしています。アメリカでは、裁判官が今ある地位につけたのは、政党政治にうまく関わって来たからだ。
 ゴアとブッシュの選挙で、連邦最高裁の裁判官はゴアに勝たせたくないために、判例をねじまげた。
 古くは、ナチスによるユダヤ人虐殺の事実を告げられたユダヤ人のフランクフルター判事は、ルーズベルトにとても信用してもらえそうもない報告をして、自分の信用に傷がつくのを恐れて、真実を告げるのを拒んだ。うーん、そういうことがあったのですか……。
 アメリカの裁判官も、より高い地位に昇りたいと考えている。ほとんどの裁判官は、政党や政治家に忠誠をつくすことで裁判官になる。裁判官というのは、そもそも政治的な存在である。なーるほど、そうなんですね。
 弁護士についてのアドバイスも、とてもシビアです。
 誰にでも好かれるケーキのような弁護士になってはいけない。対峙主義の制度で働く弁護士であるにもかかわらず、もし誰からも好かれるというときには、その弁護士のしていることは、どこかが間違っている。
 弁護士は、仕事を愛しすぎてはいけないし、法律を愛してもいけない。法律は道具であり、仕組みであり、知識の集合体にすぎないからである。
 一流の法廷弁護士のほとんどが、一流のロースクールの卒業生ではない。事件は、準備段階で勝ち負けが決まる。一生懸命に働く以外にはないのだ。
 この本で、アメリカでは被告人に証言させないことが原則だという理由をはじめて理解できました。陪審員が、被告人の証言が信用できるかどうかばかりに気をとられて、他の証言の信用性の検討がおろそかになってしまうからだというわけです。これまた、なるほどと思いました。
 大変、実践的に勉強になる本でした。とりわけ若手弁護士の皆さんに一読することを強くお勧めします。
 
(2008年1月刊。1900円+税)

2009年4月15日

労働法はぼくらの味方!

著者 笹山 尚人、 出版 岩波ジュニア新書

 いやあ、実によくできたテキストです。若い人たち、パートで働き、派遣切りにあって泣いている人たちにぜひぜひ読んでほしいと思いました。ストーリーがあります。それ自体も無理なく読ませます。そして、労働法がすーっと入ってきて理解できます。若手というか中堅というべきか、弁護士による数多くの実体験に基づいた、労働基本権の解説がなされています。こんな分かりやすい本が書けるなんて、とても素晴らしいことです。
 ジュニア新書ということでひっかからず、大人も弁護士も読んでほしいと思います。弁護士にとっては、どうやったら難しい権利を何も知らない人に分かりやすく伝えるか、その見本がここにあります。
 ハンバーガーショップに高校2年生の真吾君がアルバイトを始めます。自給800円です。この店で正社員なのは店長だけで、あとは全員がアルバイト。ところが、身内の不幸があっても代わりの人が見つからないからアルバイトなのに休みがとれない。店のお金がなくなったら、アルバイトをふくめて全員の連帯責任として、給料から天引きで弁償させられる。店の売り上げ不振のため、賃金カットをする。
 ひどい話ですが、現実によくある話です。これって、みんな法律違反なのです。
 パートタイム労働者に労働条件を示すときには、第一に昇給の有無、第二に賞与の有無、第三に退職金の有無を明確に告知しなければいけない。
 うへーっ、そうだったんですか。ちっとも知りませんでした。ゴメンナサイ!
 そして、店長が労働法上の管理監督者にあたるかどうかも問題となります。例の、名ばかり店長という問題点です。
 そして、派遣と業務請負の違いも説明されています。要するに、仕事をしている現場での指揮を誰から受けるかによって違ってきます。今の世の中、あまりにも脱法行為が横行しすぎです。
 労働者の権利を守る上で決定的に大切なのは、労働組合です。残念なことに、日本の労働組合の力は悲しいほどありませんね。昔、総評という存在がありましたが、今の「連合」はほとんど力がありません。派遣切りの問題でも少し動いているという程度でしかないのがとても残念です。企業内組合の連合体から来る限界ということでしょうか。
 私は、若い人たちが労働者に入って、仲間と団体行動をともにして連帯感を深めつつ、少しずつ要求実現していくという日本になってほしいと心から願っています。
 
(2009年2月刊。780円+税)

2009年3月11日

アメリカ人が見た裁判員制度

著者 コリン・P・A・ジョーンズ、 出版 平凡社新書

 陪審制度と裁判員制度を一緒にするのは、陪審制度に対していささか「失礼」なことだ。陪審制度は、個人を公権力から守る最後の砦である。これに対して、裁判員制度は裁判官と国民が一緒になって悪い人のお仕置きをどうするか決めるための制度でしかない。
 ううむ、なるほど、そういう見方もあるのですか……。この本は日本の大学で教えているアメリカ人弁護士の書いた本です。
 日本の法律は、まず、お役所のためにある。アメリカ的考えによると、法律とは市民による市民のためのルールである。このルールにのっとって行動している限り、公権力の介入は受けないし、公権力が介入してきても、そのためのルールに従わなければならない。
 ところが、日本の法律は、まずは国民を公権力に屈服させるためにある。ふむふむ、なかなかに鋭い指摘です。
裁判官は事実を科学的に検証して究明するようなトレーニングは受けていない。重大なことは専門家に任せようという考えには、民主主義の終焉が内在している。
 陪審は、評決にあたって理由を示す必要はなく、評決の内容について責任を取らされることもない。この原則は、陪審にすごいパワーを与えている。それは、法律を無視するパワーだ。うーん、ズバリ、こう言われると、考えさせられます。
 裁判員制度についてのPRパンフレットには、裁判員があたかも裁判の「主役」であるかのように書かれている。しかし、実のところ与えられている権限や決定プロセスにおける影響力の度合からすると、裁判員は裁判官に服従する「脇役」になることしか期待されていない。
 裁判員裁判ははたして誰のためのものなのか? その答えは、裁判官のための制度である、ということになる。いま出来上がった裁判員裁判は、裁判官にとってかなり有利なものである。
 なぜなら、裁判員制度は、裁判に対する批判をなくすためにあるから。司法制度に対する批判回避が裁判員制度の一つの目論見である。裁判員制度は、司法が国民の威を最大限に借りながら、最小限の影響力しか国民に付与しない制度である。今までにあった司法制度への批判を排除しながら、今までどおりの裁判の「正しい」結果、つまり警察が逮捕して取り調べ、検察が確信を持って起訴した被告人が何らかの罰を受ける結果、を実現するための制度である。
 しかし、このように言ったからと言って、著者が裁判員制度に反対しているのではありません。むしろ、逆に、うまく機能してほしい、日本における国民の司法参加がシンボリックなものに終わらなければよいと考えているのです。
 法曹の中で、裁判員制度の行方について一番の決め手になるのは弁護士だろう。
 日本では、いったんお役所を敵に回せば、アメリカより怖い。それも、お役所が「悪い」からではなく、99%善意と良識のある人たちが「正しいこと」をやっているつもりだからこそ怖いのだ。
 うむむ、この本には日本の弁護士として耳の痛いことが満載です。でも、いよいよ5月から始まる裁判員制度について、単に「ぶっつぶせ」などと叫んでいるだけでなく、被告人との十分なコミュニケーションをとって、裁判員裁判の法廷で市民を強く惹きつける弁論をやりきらなければならない時代が到来したのです。すごく胸のワクワクしてくる時代に、いま、私たちは生きています。そう考えると、この世の中にも楽しいことがたくさんあることに気づかされます。
あさ、雨戸を開けると、ウグイスのさわやかな鳴き声がすぐ近くに聞こえます。軽やかな澄んだ声に春を感じます。黄水仙が庭のあちこちに鮮やかな黄色の花を咲かして眼が現れる思いです。
 隣家のハクモクレンが今を盛りにたくさんの純白の花を咲かせていて、あれ、これってどこかで似た光景を見たぞ、と思いました。そうです。ベルサイユ宮殿の鏡の間のシャンデリアをちょうどさかさまにしたような、あでやかさです。花にはいろんなものを連想させ、思い出させてくれる楽しみもあります。
(2008年11月刊。720円+税)

2009年3月10日

人を殺すとはどういうことか

著者 美達 大和、 出版 新潮社 

 大変重たいテーマを真正面から考えようとしている本です。いろいろ考えさせられました。
 著者は、2件の殺人を犯し(2人の男性を殺害した)、無期懲役刑に処せられ、長期LB級刑務所に収容されています。むしろ本人は死刑を望んでいたので、刑務所から出たいという希望は持っていないといいます。暴力団にも入った人間ではありますが、幼いころから大変賢くて、父親から将来を大いに嘱望されていたようです。この本に書かれている文章も理路整然としており、いかにも知的で、すごいなあという感想をもちました。
 長期刑務所というのは、残刑期が8年以上ある者が服役する刑務所のこと。罪が重く犯罪傾向がすすんでいるものはB級刑務所に収容されるが、そのなかでも長期の期間となるものを収容するものはLB級と呼ばれる。Lはロングのこと。LB級の刑務所は全国に5か所しかない。
 著者は、昭和34年生まれ。在日1世の父と日本人の母の間の一人っ子として、大事に育てられました。金融業を営んでいた父親は裕福であり、自宅には高級外車があり、小学校送迎用のキャデラックまで専属運転手がついていたそうです。そして、小学校時代からずっと成績優秀だったのです。ところが、高校を中退してから、営業関係の仕事をするようになり、21歳のときに金融業を始めました。
32歳で逮捕されるまで、著者は月に単行本を100~200冊、週刊誌を20誌、月刊誌を60~80誌も読んでいたそうです。いやあ、これには、さすがの私もまいりましたね。私も多読乱読ではちょっとひけをとらないと自負しているのですが、単行本は最高時で年に700冊、今は500冊程度ですし、週刊誌はゼロ、月刊誌となると10冊以下だと思います。やはり、上には上がいるものです。
 著者は、自分には男らしさが欠けていたことに法廷で初めて思い至ったのでした。
男らしさというのは、広い心で相手を思いやることや相手の立場や事情、権利を尊重し守るという寛大な精神と温かさが不可欠だった。
 受刑者が集まる場では、反省や悔いについて語るのは、自分をよく見せようとしているやつだ、おかしなやつだ、変人だ、というような空気がある。
 ううむ、なるほど、これではいかんな、いけないぞ、これって……、と思いました。そんな価値観を逆転してもらわないといけませんよね。
 人の生命を奪うということは、生命だけでなく、過去の記憶や未来の希望もすべて破壊しつくすということである。獄という字は、獣や犬がものを言うと書くが、実際に刑務所内に生活してみると、まさにそのとおりであった。正常な感覚を持っている人間は本当に少ない。
 前非を悔い、真っ当に生きようと模索している収容者は、ほんのわずかしかいない。残る大半は、自分の愚行にも人生にも一切の責任を見出すことなく、自分の生まれてきた幸運や運命に対して目を閉ざしたままである。終生、犯罪者として愧(は)じることもなく、社会に寄生していくことを受け入れている。
 受刑者には、もっと悔いたり反省したりしている人がいるだろうと思っていたが、実際に刑務所に入ってみると、そんな考えはまったく吹き飛ばされてしまった。
 受刑者は感情を失ったように無感動だったり、共感性がなかったりする人が大半である。大半の殺人犯は、ふだんはおとなしいが、倫理観については見事なほど欠落している。初めからない人、服役するうちに消えた人、悪い仲間に流され失った人、怒りの情動でそのときのみ喪失した人とさまざまだが、元来ないか、それに等しい状態である。
 LB級刑務所は、教育をまったく受け入れる余地のない受刑者がほとんどで、懲罰という意義も弱くなり、悪党ランドになっている。
 ここでは犯罪行為について雑多な情報が交換され、受刑者はいながらにして犯罪力の強化に努められる。正常な人がここでは異常とみなされ、良い子ぶりやがってと批判されるような大変なところである。
 うひゃあ、これはすごいですね。これが本当の実情だとしたら、刑務所の矯正教育なんて、まったく絵空事でしかありません。これって、昔から変わらないのでしょうか……。
 刑務所のなかの状況を改めて考えさせられる真面目な本でした。
 先日、仏検(準一級)に久しぶりに合格したことを報告しました。同じ封筒に口頭試問の結果(点数)が入っているのを見つけました。合格基準22点のところ、得点25点でした。やれやれ、です。いま『カルメン』を毎朝聴いています。カルメンとホセの恋物語をフランス語で聴いて、書いています。頭の中が若返ります。
(2009年2月刊。1400円+税)

2009年2月27日

弁護士ムッチーの事件簿

著者 宮田 睦奥雄、 出版 夢企画大地

 愛知県の春日井市に法律事務所を構えている弁護士による、取り扱った事件の顛末記です。大変面白く、また、大いに勉強にもなりました。
 春日井市には地方裁判所の支部はなく、簡易裁判所しかない。したがって、ほとんどの訴訟事件は名古屋まで出かけることになる。弁護士にとっては大変不便ではあるけれど、依頼者の身近にあり、敷居の低い事務所をめざして、あえてこの地に事務所を構えてもう25年になる。いやはや、これってたいしたものですよ。なかなか出来ることではありません。
 法律事務所「友の会」というのをつくった。会員になると、初回の法律相談は無料という特典が受け、会員数は500人をこえる。「友の会」は、コンサートや芝居、講演会、そしてハイキングや山登り、小旅行、ゴルフコンペなどもしている。そして、「友の会」会報を年に4回発行している。そこに宮田弁護士が「私の事件簿」を連載してきたもののなかから、今回の本ができあがった。すごいですね、大したものです。
 相続のとき、特別縁故者として相続財産をもらうため、本来の相続人に相続放棄をお願いしたという話も出てきます。すると、本来の相続人からこころよく「協力します」と言ってもらえたのでした。この話を私の所に来た相談者に紹介すると、目をまん丸くして「そんなことがあるのですか。信じられません」と目をむいて驚いていました。
 宣誓供述書という方式で重要証人の証言を残しておくという方法があることを思い出しました。公証人が供述書の作成者にその記載が真実であることを宣誓させたうえで、その供述書に根拠をあたえるもので、証拠保全の手段の一つです。私は、まだ使ったことがありません。
 読むと、ほんわか元気の出てくるあったかい本です。ムッチーこと宮田先生、これからも元気にがんばってください。

(2008年8月刊。2000円+税)

2009年2月24日

名もない顔もない司法

著者 ダニエル・H・フット、 出版 NTT出版

 はじめに出てくる椅子と靴の話が私にとって衝撃的でした。アメリカの最高裁法廷の写真をよく見ると、そこに並んでいる椅子は、その大きさと形が微妙に違っているのです。つまり、日本の最高裁の法廷(これは、私も2度、現物をこの目で見たことがあります)には同じ規格の椅子しかありません。もちろん高裁以下の地方裁判所でもこれは同じことです。ところが、アメリカでは裁判官が自分の好みで、好きなように高さも形も選べるのです。
 靴の話は、なんと、日本の最高裁判事は、専用車に乗るばかりで歩くことがまったくないので、10年間に買い求めた靴が一足だけだったという、とても信じられない話なのです。
 このように、日本の裁判所では、裁判官は名も顔もなく、誰が事件を担当しようと判決は均一であるという考えが根強い。
 日本の裁判所に対し、自民党がその政治的意向を直接伝えることは決してないが、最高裁の事務総局は自民党の政治的意向をよく理解している。事務総局は、配置転換や昇進の制度を用い、自民党の意向に従う裁判官に利益を与え、その意向に反する裁判官に不利益を与えることによって、自民党の無言の命令を実現する。その結果、この動機づけの枠組みが裁判官に対して政治的圧力をかけることになる。いや、まったく、そのとおりでしょう。最高裁はあれこれ弁明するでしょうが、事実その通りなのですから、動かし難い真実です。
 日本で弁護士が裁判官になりたがらない理由が、アメリカとの比較で明らかにされています。
日本の裁判官は目立たない態度を取ることが期待され、実際にも目立たない。アメリカでは裁判官は人の注目をあびる職業である。裁判官が目立ち、一般市民がそれを認めていることが、アメリカの裁判官に与えられている栄誉を日本よりも実体のあるものにしている。これに対して、アメリカでは大規模な法律事務所に属する弁護士は、巨大なマシンの歯車の一つにすぎない。弁護士は、上司やほかの弁護士から常に監視されている。そして、アメリカの弁護士はノルマを常に意識し、報酬請求時間についてのプレッシャーを常に受けている。アメリカの弁護士は、仕事の態度や服装に至るまで監視され、年単位で評価されている。
 ところが、アメリカの裁判官は、自分以外に上司のいない自由な立場にある。ふむふむ、なるほどですね。
同じように、日本の弁護士は大きな自由を持っている。これに対して、日本の裁判官は巨大な組織の一員である。裁判官は年次評定され、それが昇進、配転などで大きな意味を持っている。日本の裁判官の自由は、日本の弁護士と比べて制約されている。うむむ、そうなんですよね。
下級裁判官の再任審査に国民の意思を反映させる手続が出来たといっても、その透明性が実現されているとは言いにくい。
この点は、私も少しばかり関与していますので、まったく同感だと声を大にして叫びたいと思います。裁判所はいまだに法曹三者と一部の「有力市民」の声を聞けば十分という考えであり、ユーザーである市民の声を広く聞こうという姿勢がきわめて弱いのが実情です。
たとえば、どの裁判官が毎年ある再任審査の対象になったかという基本的な事実さえ裁判所は一般公開していません。裁判所の再任を希望したのに拒否されてしまったら、それはプライバシー保護の対象として明らかにすべきではないというのがその理由です。とんでもない言い分です。私は、裁判所や弁護士会のホームページにおいて、10年ごとの再任審査対象となった裁判官の氏名と所属裁判所、おもな判決の要旨が公開されるべきだと考えています。
 再任審査にあたっての議事録も簡単すぎて、誰が何と言ったのかもわかりません。なぜ、その裁判官が再任を拒否されたのかも分かりません。これでは、裁判に対する国民の信頼が高まるはずもありません。
アメリカでは毎年500万人のアメリカ人が陪審員選任のために呼び出されて裁判員にやってくる。そのうち100万人が実際に陪審員として選任される。これに対して、裁判員裁判では、日本人の最大3万人ほどが裁判員として関与するのみ。これでは少なすぎる。ううむ、そ、そうなんですけど……。
裁判員裁判について、こんなわずらわしい手続に読んでほしくない、人を裁きたくない、嫌だという人が少なくありません。でも、民主主義というのは面倒なことから逃げたらいけないということでしょ。昔は選挙権だって、フツーの市民にはなかったのです。バカな市民に選挙権なんか与えたら、とんでもない国会議員が生まれてメチャクチャな政治がおこなわれることになる、そう言って反対した人たちがいました。
国の主人公として、さばく立場に立つことは権利でもあり義務でもあるのです。どうぞみなさん、ぜひぜひ裁判員としての呼び出し状がきたら、なんとしても裁判所に来て下さいね。そして、市民感覚を裁判に活かしてください。論理に強い裁判官も、事実には弱いのです。裁判員裁判はぜひ成功させたいと思います。
(2007年1月刊。1800円+税)

2009年2月17日

裁判員制度と国民

著者 土屋 美明、 出版 花伝社

 G8(先進国首脳会議)の参加国のうち、国民参加の刑事裁判が行われていないのは日本だけ。世界195ヶ国のうち、80ヶ国で国民が刑事裁判に参加する手続をとっている。おとなりの韓国も陪審員に評決権のない「国民参与裁判」の試行をはじめ、中国でも人民陪審員制度を実施している。
 ところで、アメリカで陪審裁判は、刑事事件全体の5%程度でしかない。
 ドイツの刑事裁判は、捜査段階で警察官がつくった調書はそのままでは証拠にならず、公判での警察官らの証言と証拠物のみにもとづいて審理される。
 フランスの陪審法廷では、判決の言い渡しが夜10時というのは普通で、難しい事件は日付の変わった午前1時ころになることもある。重罪院の判決に対して不服があるときには、他の重罪院に対して控訴できる。そして、このときには参審員を3人増やして12人とし、裁判官3人をあわせて15人で審理する。いやあ、これって大変なことですよね。深夜に帰宅する人はちょっと怖いでしょうね。
 日本の司法に国民が参加することは、司法の姿を決定的に変える。裁判員制度は単に国民が難しい刑事裁判が引っ張り出されるだけの新しい制度というものではない。何世代にもわたる長い時間をかけて、参加が徐々に広がっていけば、日本の社会を根っこから変革していく可能性をもっている。
私も、この指摘にまったく同感です。国民が主人公なのです。それを実感する人が増えたら、この日本ももう少しまともな国になるような気がします。
 重大な刑事事件の裁判は、もともと気持ちの負担の重いものであり、それを国民があえて引き受けてこそ、この制度を行う意味がある。好んで出てくる人だけを集めていては、裁判員制度が広く国民の信頼を得られるようにはならない。簡単に逃げ道を作るようでは、制度そのものが基盤を失い、破綻しかねない。
 今の刑事裁判を批判するのなら、裁判員制度をテコとして批判を少しでも変えていくべきではないのか。そのとおりです。裁判員ぶっつぶせと叫んでいる人には、ぜひ考え直してほしいと思います。
 著者は、裁判員候補者と呼ばれた市民を、選ばれなかったときに、そのまま帰すのではなく、刑務所を案内したり、司法の実情について十分に知ってもらうチャンスとして生かすべきではないかという提案をしています。これまたまったく同感です。国民のなかに死刑賛成の声が高まっているとき、死刑執行はどのようになされているのか、その執行に関わっている人たちはどんな気持ちなのか、多くの市民に知ってもらうことには大きな意味があると思います。また、刑務所の処遇の実情(独居房の様子や労働状況など)も知ってもらったら、「懲役1年」の意味が実感できると思います。
 戦前の陪審制度だけでなく、裁判員制度も失敗するような事態になったら、日本の国民は、そもそも司法への参加になじまない国民性だという批判を裏付けることになるだろう。国民参加は、二度と主張できなくなるに違いない。
 著者のこの不幸な予測が当たらないことを私も願っています。著者は、共同通信社の論説委員をつとめ、裁判員裁判の制度設計に関わったジャーナリストですが、その冷静な論述はかえって溢れる熱意を感じさせるものがあります。私も、5月から始まる裁判員制度は必ず成功させたいと考えていますし、その弁護人をやってみたい気持ちでいっぱいです。弁論で、市民を説得してみたいと思います。
 いま、梅の花がいたるところに咲き誇っています。日曜日に、梅の木の徒長枝を切ってやりました。我が家の梅は少し形が悪いので、形を整えようと思ったのです。紅梅の枝を切って断面を見たら、枝自体が紅く驚きました。白梅のほうとは全然ちがいます。白梅の方は白いというより、普通の木の色なのです。
(2009年1月刊。2500円+税)

2009年2月13日

スーパー弁護士の仕事力

著者 荘司 雅彦 ほか、 出版 日本実業出版社

 弁護士の書いた「仕事術」の本が、ビジネスマンから高い評価を得ているそうです。うひゃあ、そうなんですか。私も『法律事務所を10倍活性化する法』という小冊子(新書版)を出しましたが、マスコミの評判は得られませんでした(ううっ、ついつい涙ポロポロ……)。
 スーパー弁護士のカバンの中に何が入っているか、写真で明らかにされています。なんとアイポッドが2つも入っていました。私も泊まりがけの出張のときにはアイポッドを持参しています。夜、ベッドに入ってシャンソンを聴くためです。
 弁護士は、あらゆる場面で質問力を必要とする。ほしい情報を得るには、いかに適切な質問をするかが大切なのだ。
 時間は現代人にとって、もっとも希少な財だ。だから1分1秒を徹底的に有効活用することが必要である。交渉において、明確な勝者と敗者を生むことがその目的ではない。交渉相手の立場や主張、大義名分を十分に理解し、交渉の結果に対して相手もそれなりの満足度が得られることが大切なのだ。そのためには、交渉の場でかっとならず、あくまでも冷静に組み立てていくことが秘訣である。
 交渉の場で興奮すると、契約書に調印するときに興奮のあまり手が震えてしまうことがあります。これって、ちょっとみっともないんです。気取られないようにしていますが……。
 優秀な交渉人(ネゴシエーター)は、意思を表明する勇気を持ち、裏表のない正々堂々とした態度でいられる人。臨機応変に対応でき、明朗さと包容力がある人を言う。
 自分はすばらしいが、相手もすばらしい。自己も他者も肯定し、受容する。相互にOKの精神をもつ。交渉相手は敵ではなく、知人あるいは友人となる相手であることを忘れない。うむむ、これって、口で言うのは簡単ですが、実行は難しいんですよね。
 クレーム対応の初めての場では、ひたすら謝罪し、いいわけなどしない。出されたお茶には手をつけず、背筋をピンと伸ばし、相手の目を見て謝る。
 口頭でプレゼンするときには、はじめの10分間で全体を見渡せるようにする。
 準備書面では、裁判官が読みやすく、論点をそらさない。その最大の目的は、争点整理にある。よけいなことには触れず、必要最低限のことを押さえ、一番大事なことを厚く書く。
 書面はクオリティを犠牲にして、まずは速度優先で書く。とにかく書き上げて、それから推敲する。そして、最後に一度、声に出して読んでみる。
 なるほど、なるほどと感心することの多い本でした。

(2009年1月刊。1200円+税)

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