弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
司法
2012年4月 6日
3.11と憲法
著者 森 秀樹・白藤 博行ほか 、 出版 日本評論社
3.11を契機に、改憲派は、「このような緊急事態・非常事態に対応できない日本国憲法は改正しなければならない」と主張しはじめています。こんな火事場泥棒のような主張がサンケイ新聞の社説(3月22日)にあらわれていて驚くばかりです。
3.11のあと、福島県民の気持ちは複雑に揺れ動いている。
放射能の危険については、もう聞きたくないという人々がいる。いつまでも放射能の危険性を口にする人は、神経質な人、うとましい人となっている。それも、政府が大丈夫だと言っているからだ。子どもの疎開についても、もうそんなことは言ってくれるなと耳をふさいでしまう人もいる。ここらあたりは本当に悩ましい現実ですよね。
大災害の発生を奇貨として非常事態規定の欠如をあげつらい、憲法改正を声高に主張する国会議員がいる。彼らは国民の権利を制限することを狙っている。
「自衛隊は軍隊ではない」という建前(政府解釈)は、結果的に「国民を守る」という面をより前に押し出している。自衛隊では国民に銃を向ける治安出動訓練はほとんどなくなり、災害への日常的態勢が強化されている。
ところが、「軍」の本質は国家を守ることにあり、個々の国民を守ることではない。自衛隊は、「軍」となるのか、「軍隊ではない」という方向にすすむのか、今、大きな岐路に立たされているように私も思います。
原発をめぐる裁判について、原発差止を認容する判決を書いたことのある元裁判官の次のような指摘は貴重です。
裁判所が判断するのは、その原発において過酷事態が発生する具体的危険があるか否かであって、原発の存置いかんという政策の相当性について判断するわけではない。差止判決は、十分な安全対策をとらないで原発を運転することを禁止しているのであって、およそその原発を運転することを禁止しているのではない。まるで、裁判官が一国の重要な政策を決するかのような言い方をして裁判官に不必要な精神的負担を与えるべきではない。なーるほど、そうなんですか。でも、ある程度は言わざるをえませんよね、どうしても・・・。
憲法学の学者を中心とした論稿で、大変勉強になりました。
(2012年3月刊。1800円+税)
2012年3月28日
検事失格
著者 市川 寛 、 出版 毎日新聞社
勇気ある告白本です。
弁護士だけでなく、司法関係者は全員必読の文献ではないかと思いながら読みすすめて行きました。検察庁の体質そして検察官の思考方法がよく描かれていると思います。
今の検察トップは私の同期生なのですが、検察トップの皆さんにもぜひ読んでもらいたいものです。
初めに著者が検察官を志望したころのことが書かれています。初心って大切なことですよね。
ダイバージョンに大変な魅力を感じ、これを実践できるのは検察官だけだと思って検事を志望した。ダイバージョンとは、迂回という意味。検事や裁判官が判断に迷ったとき、犯罪者が世間からできるだけ烙印を押されないような手続を選ぶことで、その社会復帰を助け、再犯を防ごうという一連の制度をいう。
学生のころ、検事は不偏不党で公正であるというイメージをもち、そんな検事になりたいと思った。どうでしょうか、現実の検察は必ずしも公正とは言いがたい気がします。
司法修習生のときから、「できるだけ有罪にする」訓練を積まされているから、刑事裁判官が無罪判決を出すのには度胸がいることの下地がつくられているのではないかと思う。
検察庁は建前と本意が違いすぎる。たとえば、検察教官は、「実務に教唆なし」と言い切る。すべて共同正犯として起訴してしまう。教唆犯という起訴状を見たことがない。
被疑者を取り調べるときは、被疑者が有罪だと確信して取り調べるようにと指導される。そこには、無罪の推定は働かない。
検察庁では、被疑者を呼び捨てにする。
やくざと外国人に人権はない。これが検察庁のモットーだというのです。恐ろしいです。
千枚通しを目の前に突きつけて、徹底的に罵倒してやる。ええーっ、今どきこんなことをしているのですね。
無罪判決が出ると検事に傷がつく。誰もが責任をとりたくないから、上は下に無理難題を命じるし、下は、その無理難題を拒むことができない。このとき、検事の心理の根底にあるのは保身だ。責められたくない。責任をかぶせられたくない。
自白調書のとり方の奥の手。被疑者が座るなり、お前は聞いていろとだけ言って、すぐに○○の点を認める内容を立会事務官に口授して調書を取らせる。被疑者に言わせる必要なんかない。事務官が調書をとり終わったら、被疑者に見せて「署名しろ」と言うんだ。もちろん、被疑者は署名しないだろう。そのときは、こう言うんだ。これは、お前の調書じゃない。俺の調書だ!とな。オレの調書だから、お前に文句を言う資格はない。さっさと署名しろ。
控訴審議の大半は主任リンチでしかない。問題判決を受けた主任がただでさえ気を落としているのに、後知恵で質問している検事たちの気が知れない。主任がじわじわと追いつめられ、押し黙ることがほとんどだった控訴審議を見ていると、控訴審議はいじめの場だとしか思えなくなる。こんな審議を毎日のようにやっていたら、前向きなやる気よりも、問題判決を受けたら、ひどい目に遭う。問題判決はごめんだという後ろ向きの気持ちが大きくなっていく。こうして、検事は、ただ問題判決を避けるためだけに、法廷でわけの分からない立証活動をしたり、判決を引き延ばすような悪あがきをするようになる。これは知りませんでした。
年末に問題判決が出ると正月休みに、年度末に出ると検事の移動時期に控訴審議をやらなければならない。だから、検察庁は年末と年度末に問題判決が出ることは徹底的に避けようとする。
公判検事は、何も用がなくても毎日の法廷が終わったら必ず裁判官室に行って挨拶するように。このように指示される。これを法廷外活動と呼ぶ。
私も司法修習生のとき、検事が何の用もないのに裁判官室に頻繁に出入りするのを見て、すごい違和感がありました。
検察が不起訴にすると、警察の担当者が検事の部屋に文字どおり怒鳴り込んでくる。「検事さん、今日は勉強させてもらいに来ました。どういうわけで、あの事件を不起訴にしたんですか!」と、ヤクザ顔負けの太い声ですごまれたことがある。
偽証しているのは、検察が請求した証人が圧倒的多数だ、というのが実情である。
「事件がかわいい」という意味は、事件に身も心も捧げてのめり込み、疑問点を全部洗い出す捜査をして証拠を集める気概があること。
「狂犬の血」が騒いだ。心底から頭にきて、「ふざけんな、この野郎、ぶっ殺すぞ、おまえ」、と無実の組合長を怒鳴りつけた。組合長が屈服したのは理詰めの質問によるものではなく、その前の暴言だとしか言いようがない。このときから、組合長は検事の言いなりになった。
2日間は取り調べをせず、「自白調書」をパソコンでつくった。組合長の発言をつなぎあわせて「作文」していた。組合長は、何の文句も言わずに、すべての「自白調書」に署名した。一度も冷静沈着な精神状態で組合長の取り調べにのぞんだことはなかった。
怒りは日一日どころか、刻一刻と増すばかりだった。
こんな暴言を吐くに至った、当時の佐賀地検の態勢の問題点も紹介されています。こちらも本当にひどい嘆かわしい状況です。
この本の救いは、実名と顔写真を出していて、自分の間違いを告白していること、亡くなった組合長の霊前でお詫びをし、その遺族から一応の許しを得ていることです。
それにしても、検察庁というところは想像以上にすさんだ職場ですね。恐ろしいです。
(2012年3月刊。1600円+税)
2012年3月21日
概論アメリカの法曹倫理
著者 ロナルド・D・ロタンダ 、 出版 彩流社
沖縄の当山尚幸弁護士(元九弁連理事長)が翻訳した本です。すごいですね、340頁もの本を訳して出版したとは。大いに感嘆しながら、そして内容としても難しい論点をやさしく解説してあることに驚倒しながら読みすすめていきました。
いま、私は弁護士会の中で弁護士倫理にかかわる手続に関与していますが、そこで取り上げられているケースには、かなり微妙なところが少なくないことがあって、本書はその意味でも役に立ちました。
依頼者は、いつでも弁護士を解任できるし、弁護士はたとえ解任理由が釈然としなくても手を引かなければならない。
そうなんですよね。解任されたとき、良かったと思うこともあれば、なぜなのか納得できない思いが残ることもあります。
弁護士は、より短い時間で効率的に仕事を処理すべきである。より効率よく仕事をする弁護士は、たいていより高い時間給を請求する。これは許されるが、時間の架空計上をすることは許されない。
報酬の妥当性を判断するときに重要なことは、依頼者を欺いていないか、信頼関係を悪用していないか、あるいは報酬の内訳その他の関連事項の説明が誠実でなかったかどうか、などである。
完全成功報酬契約は、弁護士の利益のみのためにあるのではなく、それを望む依頼者の利益のためにあるべきものである。
ホットポテト法則というのがあることを知りました。要するに利害相反の事件は受けられないということです。私の法律事務所も、いまでは弁護士が6人もいますので、「敵」側の関係者が相談に来ることを見逃してしまうことがあります(事前チェックを励行しているのでが・・・)。そのときには、潔く双方から手を引けという法則です。せっかくの事件を受任できなくなって「損」した気分になることもありますが、あとで疑われるよりはましだと自分に言いきかせています。
弁護士は依頼者に対し、生活費を貸しつけたり、保証人になったりして、訴訟を「援助」してはならない。ただ、弁護士が裁判費用や訴訟費用を立て替え、その返還を訴訟の成功にかからしめることを禁じてはいない。
もしも依頼者が偽証しようとするときには、弁護士は拱手傍観してはならない。弁護士は、その偽証を明示する必要がある。
依頼者が偽証の供述をしていることが分かったときは、弁護士は詐欺的行為を防止する合理的手段を講じなければならない。まず弁護士は依頼者に証言の訂正を忠告すべきである。それが奏功しないときには、裁判官に偽証を知らしめるなどの他の措置を講ずる必要がある。
依頼者が偽証したことを知ったとき、弁護士は辞任することがありうる。しかし辞任の事実を公表すること自体が依頼者の秘密を害するときには、どうするか。依頼者は弁護士に辞任を公表しないで忍び足で静かに去ってほしいと願う。しかし、弁護士はそれでは足りない。ここらあたりになると、大変微妙なところだと思います。
弁護人の守秘義務など、日本とアメリカは法制度としての違いは大きいのですが、共通しているところも多々あると思いながら読みすすめていきました。当山弁護士の「あとがき」によると、3年がかりの翻訳とのこと。まことにお疲れさまでした。大変勉強になりました。
(2012年2月刊。2800円+税)
2012年3月17日
私の五つの仕事術
著者 谷原 誠 、 出版 中経出版
「同業の弁護士から『どうしてそんなに仕事ができるの』と言われる私の5つの仕事術」というのが、この本の正しいタイトルです。まだ43歳という若い弁護士ですが、既に25冊もの著書があるそうです。たいしたものです。
自分の決めた目標をやり抜くには、何かを犠牲にしなければいけない。覚悟を決め、捨てるべきものは捨てなければいけない。
私の場合には、本を読むためにテレビは見ないことに決めました。また、二次会もつきあわないことにしています。これで、自分の時間がかなりつくれます。たくさんの新聞を読んで、日本と世界で起きていることの意味を知りたいので、スポーツ・芸能欄は素通りしてまったく読みません。
たくさんの仕事を素早くするには、自分の手元にある仕事は、すぐに相手に返してしまうことである。
自分の器を広げれば、相手が期待する以上の仕事をすることだ。上司に仕事を頼まれたときには付加価値をつけて、上司の期待を上回らなければいけない。これを続けていくと、まわりから評価され、自分の成長にもつながっていく。
仕事でイライラしないためには、相手に期待しすぎないこと。感情をコントロールする方法を身につけると、コミュニケージョンでイライラすることがなくなり、気分よく仕事に専念することができ、高いパフォーマンスを維持できる。
弁護士の仕事は同情することではなく、クライアント(依頼者)の利益を守ること。だから第三者の視点を常にもち続けることが大切である。クライアントの話を聞くとき、どっぷりと入りこまない。できるだけ依頼者と同じレベルの感情になって感情に支配されてしまわないように努める。
できるだけ先手を打つ必要がある。期限が過ぎて提出された99%の出来の報告書より、期限前に提出された90%の出来の報告書のほうが評価される。
仕事を効率的に、確実に進める最大のポイントは、目の前の仕事にとにかく着手することだ。
私も、ちょっとした細かい仕事を片付けて、モチベーションが高まったところで、重量級の本格的な仕事に取りかかるといった工夫をしています。そして、机の上は、いつもすっきりした状態にしておきます。今、何をやるべきか、いつも明確にしておくべきです。こうやって、私もたくさんの本を書いてきました。
私の日頃の考えと共通するところが多かったので、うんうん、そうだよねとうなずきながら読みすすめていきました。
(2012年2月刊。1400円+税)
2012年3月14日
弁護士探偵物語
著者 法坂 一広 、 出版 宝島社
ミステリー大賞受賞作品です。賞金はなんと1200万円。すごーい。私が、1200万円はすごいすごいと言ってまわっていると、なんだモノカキって、お金欲しさでやっていたんですか・・・と皮肉を言ってのけた後輩の弁護士がいました。いえ、別に、あの、この、1200万円という大金が欲しくて言っているんじゃなくて、いや、やっぱり1200万円って欲しいです、とか、しどろもどろで、弁解にならない弁明をしてしまいました。
福岡の若手弁護士が自分と同じような福岡の若手弁護士を主人公に仕立て上げて展開するミステリー小説です。次々に殺人事件が起き、それを弁護士が決して見事とは言えない手法で解き明かしていきます。年齢相応の良識というべきか、大人の常識を十二分に身につけ過ぎた私にはとても書けない文体で物語は進行していきます。はて、これはアメリカの探偵物語で読んだ気がするよな、と思わせるセリフと表現が満載です。
足の指先の感覚なんて、懲戒弁護士が分不相応なメルセデスを買って頭金を払ったあとの口座残高のように、きれいさっぱり消え去ってしまった。
この表現は、まるで日本人離れしていますよね。日本人は欧米の人と違って、超高級車のメルセデスベンツをベンツとは呼びますが、一般にメルセデスと呼ぶことはありません。ところが、欧米ではメルセデスと呼ぶのだそうです。それにしても、きれいさっぱり消え去る例証として、ベンツを買ったあとの口座残高というのは、分かったようで分からない話です。
以下のような表現には弁護士として大いに共感を覚えました。
裁判官や検事は、事件を数多く処理できれば許され、内容は問わない。その一方で、裁判員裁判制度が導入されて分かりやすい裁判をしなければならないなど言われ、弁護士は法廷で書面を読みあげるだけでは許されなくなりつつあるらしい。どうにも不公平だ。
ところが、次のような警察官のセリフもあります。うむむ、そう言われても、立場が違うんですが・・・。
弁護士なんて、偉そうに特権階級にあぐらをかいているだけやろうが。お前らがあぐらをかいとる、その下の秩序を命がけで守っとるのは誰や。人権だか何だか知らんが、俺たち警察が命がけで守っとる秩序を、お前らは、金や自己満足のために壊しとるだけや。
ミステリー大賞をもらうと、この本にある解説によるれば、受賞したあと選考委員や編集者のアドバイスによって徹底した書き直しがあるそうです。うむむ、これはすごい。大変そうです。
まあ、それはともかくとして、394作のなかで見事に大賞を仕留めた「おそるべき強運とデビューのあとの変貌」に、私も大いに期待しています。
(2012年1月刊。1400円+税)
2012年2月12日
日曜日の歴史学
著者 山本 博文 、 出版 東京堂出版
江戸時代について、たくさんの本を書いてきた著者の本を読むたびに目が開かれる思いです。伊能忠敬の目的が日本全国の地図づくりにあったのではなく、もっと大きな、地球の大きさを計算することだったというのを初めて知りました。しかも、歩いて算出した地球の外周(4万キロ近く)は、139キロの誤差しかなかったというのです。恐るべき精度ですね。腰を抜かしそうになりました。
家康も秀吉から豊臣の姓と羽柴の名字を与えられた。後に成立した江戸幕府は家康のこのような屈辱的な歴史を消そうとした。
家康は秀吉に対して尺取虫のように平身低頭していたのが現実である。
家康が羽柴武蔵大納言と署名していたことがあるなんて、今の私たちからすると信じられませんよね。
嘆願すると住民は「恐れながら」と幕府を立てながら申し出た。しかし、それは武士が威張っていて、百姓が卑屈になっていたというものではなく、あくまで嘆願書の形式にすぎなかった。実際には、支配階級の武士といえども、被支配層の理解と支持なくして、自らの支配が成り立たないことを十分に承知していた。
有名な桜田門外の辺について、彦根藩は、君主が傷つけられたというだけで、藩主の井伊直弼の首を取られたことを認めなかった。藩の面子があったからだ。そのため、この事件は殺人事件ではなく、幕府高官を集団で傷つけたという障害事件として処理された。ええーっ、ウソでしょ、と叫びたくなりました。ここまでホンネとたてまえを使いわけるのですね。まあ、これって、今でもありますね。
足軽というのは、最下層の武士かと思っていました。ところが、最近の研究では、足軽は百姓の出身者によって占められ、世襲されていない。つまり、足軽は士格ではあっても、武士とは言いがたい身分だった。
私よりひとまわり若い著者ですが、さすがは東大史料編纂所教授だけあって、いつも史料を駆使した内容で、面白いうえに説得力があります。
(2011年11月刊。1500円+税)
2012年1月31日
修復的司法とは何か
著者 ハワード・ゼア 、 出版 新泉社
わずか1000円ほどの万引や無銭飲食によって懲役2年という判決をもらうことがたびたびあります。そうすると、司法の役割って何なのだろうかと考えさせられてしまいます。そんなとき、いい本にめぐりあいました。
修復的司法理論では、真に確証するものは、被害者の損害とニーズを認めることである、同時に、加害者が責任を引き受け、悪を健全化し、行為を引き起こした原因に向きあうように促す努力も積極的に行われなければならないと主張する。修復的司法は、被害者と加害者の双方を肯定する可能性をもっており、彼らの人生ストーリーを変容させる手助けをする。
多くの被害者は激しい怒りの感情を体験する。怒りの鉾先は、犯罪を起こした人間、それを防いでくれなかった人たち、そして、それを許し、あるいはそれを引き起こしさえした神に向けられる。
被害者は自己の感情を表現し、その感情の正当性を認めてもらう機会が必要になる。怒りや恐れや痛みの感情である。
被害者の観点から見て、もっとも深刻なのは被害者は放置され、彼らのニーズが満たされないとき、その体験を背後に追いやることは難しいと悟る。
加害者は、自尊心と人格的自立心の欠如からトラブルに巻き込まれた。そして、刑務所での体験は、ますます自尊心と自立心を奪い取り、合法的な方法では自尊心と自立心を手に入れられない状態に置かれてしまう。刑務所の中で、対人関係の歪んだ理念を身につける。他人を支配することが目標となる。他人に配慮し、面倒をみることは弱さであるとみなされ、弱いものは他人の餌食になることを意味する。刑務所の中ではごまかしは普通のことであるということを学ぶ。受刑者はだますことを覚えてしまう。
貧しく、社会の底辺に生き、人生は刑務所のようなものだと信じている人間にとって、刑務所の脅威は犯罪の抑止にはならない。こうした状況の人にとって、拘禁刑の判決は、監禁の形態をAからBへただ交換するにすぎない。
人々は自立心のように根本的なものを剥奪されると、再びそれを主張しようと模索しはじめる。自立の欲求を満たし、社会による「犠牲者」だという意識に対処する一つの方法は、自らが支配する被害者を別に見つけることである。刑務所で起こる同性間のレイプは、まさにそのような現象である。
多くの犯罪は、歪んだ形での自分の力や価値の主張であり、不器用な自己顕示や自己表現なのである。
中・上流階級の家庭で育った人のほとんどは、自分の運命を司る主人は基本的に自分であると信じて育つ。自分は運命を決定づけるような真の選択権や能力を何かしら持っていると信じている。だが、貧しい人の多くは、このことを信じていない。
死刑に関する研究において、死刑が犯罪を抑制する効果があるという証拠は見つかっていない。刑罰を司法の焦点とすべきではない。
司法を応報と規定するのではなく、修復と規定したい。事態を健全化するために何ができるかを考えるべきである。
司法のあり方と役割について、根本的なところでじっくり考えさせられる良書です。
(2003年6月刊。2800円+税)
日曜日、庭の手入れに精を出しました。夕方6時まで明るく、ずいぶん陽が長くなってきました。チューリップが地上から芽を出しています。梅の花も小さなつぼみをつけています。黄水仙そしてピンクのアネモネが、それぞれ一つずつ咲いています。告げ花のようです。
春のきざしを浴びながら、ジェーマンアイリスの植えかえをしました。
2012年1月20日
勾留120日
著者 大坪 弘道 、 出版 文芸春秋
大阪地検特捜部で証拠改ざん事件が起きて、特捜部長が逮捕されました。この本は、その元特捜部長が書いたものです。無実を訴え、最高検察庁および古巣の検察庁を激しく糾弾しています。
検察官による証拠改ざんが前代未聞と言えるものなのかどうか、実は疑問があります。警察と検察による証拠隠しは弁護士にとって日常茶飯事、いつものことという感覚です。被告人に有利な重要証拠を検察官が手にしていても隠して出してこないというのは、これまで無数といってよいほどありました。今回の証拠改ざんは、このような証拠隠しの延長線上にあるものではなかったでしょうか。
それはともかくとして、取り調べる側が取り調べを受け側に転落したことの苦しさ、悔しさが本書を貫いています。同時に、逮捕・勾留された身の辛さを初めて実感したことも正直に書かれています。
大阪拘置所で過ごした120日間、著者は3畳の独房で自らの胸に去来する事柄を日々ノートに書きつづったのでした。ちなみに、著者の逮捕罪名は、犯人隠避(いんぴ)容疑です。
取り調べのはじめに有無を言わせない形で相手の弱点をせめて萎縮させ、一気に有利な立場に立ち、その動揺に乗じて自白をとる。これは取り調べのテクニックの一つ。ただし、弱い相手にだけ通用する取り調べ方法である。
今回の逮捕はマスコミの風圧に検察が扇動されたようなものであり、結果的にマスコミに殺された。著者はこのように自分の気持ちを吐露しています。
ホワイトカラーは、勾留生活に入るとき下着を脱いで裸にされたうえで屈辱的な手続を受けるが、これによって、それまでの地位から転落した現実に直面させられ、絶望感と苦痛の心理状態に陥る。
拘束される立場に置かれることによって、初めて拘束させることの厳しさと辛さをこの身をもって思い知った。自分がかつてここに送り込んだ多くの人たちも、今の自分同様の苦しみの中にあったことを思った。
知らず知らずの間に多くの罪を重ねてきたという罪悪感を心の中で感じるようになった。司法というものは恐い。これが偽らざる気持ちであった。
あれほど、熱い気持ちを抱き続けてきた検察という組織は、これまでの著者の努力といささかの貢献を一顧だにせず、内部調査と称して完全な被疑者扱いをし、無理筋の容疑で逮捕するに至った。
そして、これまで親しい関係にあった検察官たちは、ひとたび組織が「大坪を切り捨てて、逮捕する」と決定すると、忠実に「一捜査官」になり切った。
27年前、若い血をたぎらせ、検察は国民の最期の拠り所であると憧れて任官した検察の組織が、かくも冷酷非情で脆弱な組織であったことを思い知らされた。
「私が知っているすべての秘密をバラして、検察をがたがたにしてやる」と著者は大声で怒鳴った。
この本には、その「すべての秘密」が何かは明らかにされていません。例の裏金のことなのでしょうか、それとも他にも検察がガタガタになるような秘密があるのでしょうか。
司法というものは、まことに恐ろしい権力である。人を極限に追い詰める権力である。人の生身を切りきざむ物理的な権力である。
いつしか自分自身が権力の魔力に取りつかれていたのかもしれない。
若いころは、おののきの気持ちをもって恐る恐るその権力を行使していたのが、いつのまにかその権力行使に慣れ、習熟するなかで権力の側からしか相手を見なくなっていたのかもしれない。
まことに権力というのは恐ろしいものだと実感させる本でした。現在、無罪を主張して公判中です。判決はどうなるのでしょうか・・・?
(2011年12月刊。1400円+税)
2012年1月12日
民法改正
著者 内田 貴 、 出版 ちくま新書
40年近く弁護士をやっていて、法律が変わると、ついていないと悲鳴をあげてしまいます。脳が新しいものを受けつけないのです。商法は今では完全に投げています。まるで分かりません。有限会社がなくなってしまって、私の時代は過ぎたという気がします。
最後の頼みの綱である民法までも変わってしまったら、もう弁護士廃業するしかありません。トホホ・・・。
日本民法は明治31年(1898年)7月に施行されています。公布(1896年)から、すでに115年が経過しています。現在、拘束力を持っている法律で民法より古いものは5つしかない。ええーっ、5つもあるのですか・・・。何でしょう?
爆発物取締罰則、決闘罪に関する件などです。なーるほどですね。
法律の学習は外国語の習得と似ている。日本語で書いてあるから読めば分かるだろうなどと思ってはいけない。日常語などと思ってはいけない。日常語とは違う言葉であり、日常とは違う文法があるのだ。
なるほど、なるほど、そうなんですね。英語ができるからといって、アメリカですぐ弁護士になれるわけではないのですよね。
日本民法の成り立ちを改めて勉強しました。
日本民法は、内容的には、フランスとドイツの影響を半々程度に受けた法典である。イギリスやベルギーの影響を受けた規定もある。したがって、フランスとドイツをともに母法とする法典と言える。
日本民法は条文の数が極端に少ないという特色がある。フランスは2486条、ドイツは
2385条なのに、日本は半分以下の1044条しかない。これは、細かな条文を全部落として、原則だけ、それも非常にシンプルに書くという方針が採用されたことによる。
日本の民法をつくるとき、法典の名宛人から、一般国民は完全に抜け落ちた。西洋式の民法はできても、その条文だけでは裁判ができない。あるいは行動の具体的な指針を民法から導くことができないことになった。
初期の段階から、条文に書いてあることと解釈論が乖離していた。条文はフランスからきているが、解釈論は異なる条文を前提としたドイツからきているということが珍しくなかった。解釈といいながら条文の解釈などしていないというのが日本の解釈論の難しさの原因だということが分かりました。
いま、国際的に、消滅時効期間の短縮化が大きな流れになっている。ドイツでは時効
30年から3年に短縮した。フランスも30年を5年にした。
日本でも20年を除斥期間ではなく、時効と解する動きが出ている。
約款は19世紀の末にできた日本民法典の知らない現象である。
ええーっ、なんということでしょうか・・・?読んでもいない約款条件が、なぜ契約内容になっている当事者を拘束するのか、というのは難問である。
ふむふむ、そう言えば、そうでしょうね・・・。
民法改正の必要性を実に分かりやすく解説した本として、感心しながら読みすすめました。まだまだ、いろいろ難所はたくさんあるようですが・・・。
(2011年11月刊。760円+税)
2011年12月28日
人が人を裁くということ
著者 小坂井 敏晶 、 出版 岩波新書
司法制度について大変考えさせられる鋭い問題提起にみちた本です。
日本の制度では職業裁判官の優位が目立つ。海外では、裁判官に権力制限に注意が払われるのに対して、日本では逆に市民への厳罰への暴走が危惧されている。日本の裁判員裁判の合議体構成は、ナチス・ドイツ支配下のヴィシーかいらい政権が厳罰化を目的に導入したフランス参審制と酷似している。フランス近代史上、市民の影響力をもっとも抑えた制度と日本の裁判員制度は同じ構成になっている。英米法における裁判は、真実を究明する場というよりも、紛争を具体的に解決する役割を担う。検察は共同体を代表して犯罪を告発する。英米と異なり、フランスの陪審員は、国民の縮図・サンプルとして裁判に参加するのではない。このように英国法と大陸法とでは、司法哲学が異なっている。
犯罪を裁く主体は誰か、正義を判断する権利は誰にあるのか。これが裁判の根本問題だ。職業裁判官なら誤判がありうる。官僚が間違えても、それは技術的な問題にすぎない。しかし、重罪裁判では、陪審員・参審員を媒介に人民自身が裁きを下す。したがって、人民の決定に対する異議申立は、国民主権の原則からして許されない。これがフランスの考え方。
英米法では検察官上訴が許されない。有罪判決が出たときは、それに不服な被告人が控訴して再び裁判を受ける権利がある。しかし、無罪のときは、それで確定する。どんなに不条理な判決であろうとも、陪審員が下した無罪判決を裁判官が無効にして審理差し戻しを命じたり、検察が異議を申立して控訴したりは出来ない。
英米の裁判では、無罪か有罪なの評決結果を陪審員が提示するとき、結論に至った理由は示されない。というのも、歴史的事実として、英米市民のほとんどは文盲だったから。
判決理由の欠如と、無罪に対する上訴禁止という二つの条件により、英米法では制度上、どんな不可解で不正な無罪判決でも出す能力が陪審員に与えられている。
フランスでは、公判内容の要約が1881年に禁止されて以来、現在に至っている。検察と弁護側の双方の最終弁論が終わると、裁判長は議論終了を宣告する。そのとき、意見を述べることも、議論内容を要約することも許されない。
また、公判前に準備される供述資料など一切の書類は裁判長だけに閲覧が許される。他の裁判官2人は、市民9人と同じく、白紙の状態で公判にのぞみ、その場で討議された内容だけをもとに判断しなければならない。
英米では、数百年にわたって、市民だけで重罪裁判の事実認定を行ってきた。全員一致に至るまで議論を続けず、多数決で判決を決めると有罪率が高くなる危険がある。
全員一致の決定内容は、議論を尽くして最終的に至った解答だ。
陪審員を減らすと、社会の少数派意見が判決に反映される可能性が近くなる。人間は真空状態で判断しない。どの状況も一定の方向にバイアスがかかった空間であり、中立な状態は存在しない。
フランスの重罪裁判を務める参審員は、公判前に刑務所を見学させられる。専門家が長年かかって練り上げた取り調べ技術の威力はすさまじい。取り調べ技術を練り上げるのはプロの心理学者だ。
暴力団員や政治犯が取り調べに落ちにくいのは、彼らを支える組織が外部に存在するからだ。普通の人間では、ひとたまりもない。密室に隔離された状態で脅しを受け、それでも沈黙を守れるほど、人間は強くない。審査官は黙秘権を放棄させる訓練を受ける。
弁護士が取り調べに立ち会っても、実際にはあまり役に立たない。
捜査官にとっては、被疑者が犯人に間違いないのである。無実の人間を犯人にしたてあげるという意識はない。だからこそ、問題が深刻なのだ。犯罪を憎み、会社の無念を晴らそうという取調官の気持ちを見落とすと問題の核心を見失う。取調官の真摯な態度を読みとらないと、冤罪を生む仕組みの本当の深刻さと恐ろしさはつかめない。
被害者は犯人が憎い。はじめは目撃記憶に自信がなくても、警察から示唆されると、しだいに記憶が再構成される。犯人だと判明したと聞いたり、公判前に検察によって何度も証言の練習をさせられると、さらに確信度が高まっていく。
犯罪捜査から判決に至るまでの一連の過程は一人の個人に任されるのではない。多くの人々が関わって機能する、組織の力学が防ぎ出す集団行為だ。
人間は組織の論理で動く。問題すべきは、個人の資質ではなく、犯罪捜査というバイアスのかかった磁場の構造である。
犯罪のない社会は、論理的にありえない、どんなに市民が努力しても、どのような政策や法体系を採用しても、どれだけ警察力を強化していても犯罪はなくならない。
悪の存在しない社会とは、すべての構成員が同じ価値観に染まって、同じ行動をとる全体主義社会だ。つまり、犯罪のない社会とは、理想郷どころか、人間精神が完全に圧殺される世界にほかならない。
私よりずいぶん若い学者ですが、さすがは自由の国、フランスで勉強したと思える発想に圧倒される思いで読み通しました。日本の司法界にかかわる人は必読の文献だと思います。
(2011年2月刊。720円+税)