弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

司法

2010年11月13日

波浮の港

 著者 秋廣 道郎、 花伝社 出版 
 
 楽しい本です。子どもの時代の楽しくも切ない思い出がたくさん詰まった本なのです。
 波浮(はぶ)の港と言えば、伊豆の大島のことです。著者は大島の名家に生まれ育ったのですが、5歳のときに父を亡くしました。そのときのエピソードが心を打ちます。
 通夜や葬式の日に、近所の人は、父を失った幼い私を哀れんで、「みっちゃん、可哀想ね」と来る人来る人いうので、それがたまらなく厭だった。それで、(近所の)史郎ちゃん、六ちゃん(いずれも著者の子分である)を連れて、お葬式の日に波浮の港へ泳ぎに行ってしまった。そして、ひどく怒られた記憶が残っている。しかし、誰かは定かではないが、「みっちゃんも辛いのよ」と庇ってくれた人がいた。その言葉の優しさが今も忘れられない。
 そうなんですね。5歳には5歳なりのプライドというものがあるのですよね・・・・。
大島の三原山に日航機の木星号が墜落したのは、著者が小学3年生のとき。早速、三原山の現場へかけのぼり、スチュワーデスと思われる女性の死体を見たというのです。この木星号の墜落事件についても松本清張が本を書いてますよね。よく覚えていませんが、アメリカ占領軍と日本の財閥をめぐって何か略謀の臭いのある事件だと描かれていたように思います・・・・。
 小学生の著者たちは、なかなかおませだったようで、美空ひばりを本気で好きになったり、美人の先生が男性教師とデートするのを子どもながら嫉妬し、木の上からおしっこかけて邪魔しようとしたりしています。
 著者の家は旧家で名望があったとはいえ、小学生のころから家業の牛乳屋の牛乳配達をしていました。そのおかげで小柄な身体つきですが、頑強な身体になったそうです。
著者は、小学校も中学校も一学年一クラスの中で育ちました。9年間も一緒だと、その性格はもちろん、その家庭の様子も手にとるように分かる。ごまかしや格好付けのできない世界だった。なるほど、だから、いじめられる側にまわると悲惨なんですよね・・・・。
教師には恵まれたようです。伊豆の大島は都内からすると一級の僻地なので、若い新任の教師も多かったのでした。
 小学二年生のときに髄膜炎にかかって長く自宅療養しているなかで、著者は孤独との戦いを余儀なくされ、いろいろ考えさせられたのでした。そのころ、大島の三原山は投身自殺の名所となっていました。漁船の遭難事故も多く、人の死と向きあう日常生活があったのです。著者自身も大島での子ども時代に九死に一生を得る体験を二度もしています。
当時の写真だけでなく、素敵なスケッチがあり、また、漫画チックな著者たちのポートレートもあって、終戦後間もない大島における子ども時代が彷彿としてきます。
 著者は先輩にあたりますが、私と弁護士になったのは同じ年で、一緒に横浜で実務修習を受けました。運動神経が抜群で、ボーリング試合での成績がいつもとても良いのに感嘆していました。これからも、どうぞ元気で頑張ってください。よろしくお願いします。
  
(2010年10月刊。1500円+税)

2010年11月 5日

カネミ油症

 著者 吉野高幸、 海鳥社 出版 
 
 カネミ油症は古くて新しい食品公害事件です。ふだんはテレビを見ない私ですが、宿泊先のホテルで日曜日の朝、たまたまテレビを見ていましたら、カネミ油症の特集番組があっていて、著者も登場していました。カネミ油症の被害者が今なお大量に存在して苦しんでいること、原因企業であるカネミ倉庫が治療費をこれまで負担してきていたのに、経営難から負担を打ち切ろうとしていることがテーマとなっていました。
この本は、カネミ油症の弁護団の事務局長として長く奮闘してきた著者が、カネミ油症事件とその裁判について振り返ってまとめたものです。ハードカバーで260頁もあります。読むのはしんどいな、でもせっかく買ったので読んでみようかなと渋々ながら重い気持ちで読みはじめました。ところが、なんとなんと、とても分かりやすい文章で、すらすらと読めるではありませんか。これには日頃、著者に接することも多い私ですが、すっかり見直しました。ええっ、こんな立派な分かりやすい総括文が書けるなんて・・・・(失礼!)、と改めて敬服したのでした。
 カネミ油症裁判で何が問題だったのか、どんな意義があるのか、実務的にもとても明快に紹介されています。とりわけ若手弁護士にはぜひ読んでほしいと思いました。
カネミ油症が初めて世間に報道されたのは、1968年10月のことです。私は大学2年生であり、東大闘争が始まっていました。初めは「正体不明の奇病が続出」という記事でした。翌1969年7月現在、届け出た患者は西日本一円で1万4320人といいますから、大変な人数です。それはカネミライスオイルを使ったからで、その原因は製造過程で金属腐食があってPCBが製品に混入したからだということが判明しました。
 PCBは「夢の工業薬品」と言われていましたが、PCBを食べた例は世界のどこにもなく、したがって治療法がありません。このことが被害者を絶望のどん底に突き落としました。
 1970年11月16日、被害者300人はカネミ倉庫と社長、そして国と北九州市を被告として損害賠償請求訴訟を提起しました。
 このとき、弁護団は訴訟救助の申立をしました。印紙代として必要な数百万円の支払いの猶予を求めたのです。また、弁護士費用についても、法律扶助協会(今の法テラス)に支給を求め、300万円が認められました。
 弁護団は訴訟費用を被害者に負担させないという方針をとっていました。だから、大カンパ活動を始めました。支援する会は200万円ものカンパを集めました。そして、1971年11月にPCBを製造したメーカーである鐘化を被告として追加しました。
 裁判では1973年夏に、原告本人尋問がありました。長崎県の五島にまで出かけ、裁判官が出張尋問したのです。朝9時に現地の旅館前に集合し、「平服でげた履きの裁判所関係者は三班に分かれて出発」し、「各家庭で本人尋問が始まった」と記事にあります。
 一人の裁判官が40時間にわたり、40人をこえる被害者や証人から各家庭で証言に耳を傾けた。すごいですね。裁判官が被害者である原告本人の自宅にまで出向いて、その訴えに耳を傾けたのです。
 原告弁護団は、損賠賠償を請求するのに個別に逸失利益を算定するのではなく、包括一律請求方式を採用した。請求額は死者2200万円、生存患者1650万円(いずれも弁護士費用こみ)を請求した。これは患者の苦しみに個人差はないという考えにもとづく。たしかに被害者の苦しみについて簡単には格差はつけられせんよね。
 裁判の最終弁論は、1976年6月に3日間おこなわれた。2日間が原告、残る1日が被告の弁論に充てられた。うひゃーっ、す、すごいですね。今どき、そんなもの聞きませんね。
 判決に向けて、弁護団は大変な努力を重ねたことが紹介されています。なんと、判決前の6ヶ月間、そのためにずっと大阪に弁護士(今は大分にいる河野善一郎弁護士)が滞在していたというのです。熱の入れ方が違います。いったい、その間の生活はどうしていたのでしょうか・・・・?
 弁護団は判決直後に大阪のカネカ本社で3日連続の交渉、東京の厚生省で交渉をすすめるほか、大阪で強制執行できる準備を着々とすすめていきました。
 1978年3月10日の判決は、残念ながらカネカとカネミ倉庫の責任は認めたものの、国と自治体の責任は認めませんでした。しかし、原告弁護団はカネカの高砂工場で、工場内に積まれていた岩塩1万トンあまりを差し押さえました。執行補助者が岩塩に「差押」とスプレーで書いている写真があります。大阪本社では社長の机や椅子も差し押さえました。ところが、カネカには現金や預金がまったくありませんでした。そこで、強制執行妨害(不正免脱)罪として、弁護団は大阪地検特捜部に告発したのです。これは起訴猶予となりましたが、これ以降は、カネカも現金か小切手を用意するようになりました。
 原告弁護団は、カネカの強制執行停止申立書を高裁受付で待ちかまえ、その不備を発見して受理させなかった。すごいですよね。受付で申立書を点検するなんて・・・・。そして、そもそも執行停止すべきでないと裁判所に申し入れたのです。裁判所は、結局、1人300万円を超える部分については執行を停止するとの決定を下しました。ということは、逆に言えば一人300万円までは執行できるということです。
判決後のカネカとの本社交渉では、執行停止が認められなかった20億円のほか6億円を上乗させることが出来ました。
ともかく、あきれるばかりのすごさです。交渉というのは、このようにすすめていくものなのですね。さらに、原告弁護団は、第一陣訴訟に加わっていない被害者について、仮払い仮処分を申立して、一人150万から250万までの支払いを認めさせたのでした。これによって、カネカによる被害者の分断工作を封じてしまったのです。
1984年3月、福岡高裁は国の責任を認める画期的な判決を下した。1985年2月に、小倉支部でも同様に国と自治体の責任を認める判決を出した。
ところが、1986年5月、福岡高裁(蓑田速夫裁判長)は国と自治体の責任を認めないという判決を下したのです。私は、こんな冷酷非道な判決を下す裁判官がいるなんて、信じられませんでした。たとえ裁判官が温厚な顔つきをしていても、決してそれに騙されてはいけないと思ったものです。
危険性は予測できなかったから、行政に落ち度はなかったとしたのです。まるで行政追随の非情な判決です。これでは裁判所なんかいりませんよ・・・・。
最高裁で口頭弁論したあと、和解交渉に入ります。カネカには責任がないことにしながら、カネカは21億円を支払う。これまで被害者が仮払金として受け取っていたものは返す必要がないというものです。この和解で一応私の決着はついたのですが、あとで、訴訟を取り下げたところから、さらに新しい問題が発生します。仮払金を受け取っていたのが根拠がなくなったので、返せといわれたのです・・・・。いやはや、いろいろあるものです。裁判がいかにミズモノであって予測しがたいか、そのなかでどんな知恵と工夫をしぼるべきか、しぼってきたか、手にとるように分かる本になっています。
ぜひぜひ手にとってお読みください。裁判闘争の実際を知りたいと思うあなたに強くおすすめできる本です。 
(2010年10月刊。2300円+税)

2010年10月21日

日弁連・人権行動宣言

 著者 日本弁護士連合会、 明石書店 出版 
 
 いまの日本で基本的人権がどれくらい守られ、また侵害されているのか、その全体状況がこの1冊を読めば、かなり分かります。本来、日本政府がやるべきことを、日弁連が代わって明らかにしているという意味で貴重な労作でもあります。
日弁連は、過去三度、『人権白書』を刊行している(1968年、1972年、1985年)。残念なことに、日本では、このような人権の全体状況をトータルに明らかにしたものは、政府発行のものをふくめて、他に見つけることができない。この本は、『白書』を補強し、現在の日本の人権状況を浮かび上がらせるものとなっている。
以下、いくつか恣意的にはなりますが、ピックアップして紹介します。
 生活保護世帯数は、1996年度から一貫して増加傾向にあり、2010年4月、135万世帯、187万人となった。この135万世帯というのは、1990年代前半には60万世帯だったから、その2倍となっている。
 貯蓄をまったく持っていない世帯は、1980年代に5%、1990年代に10%、2005年には24%と急増した。2009年の相対的貧困率は16%。
子どものいる一人親世帯の貧困率は54%。複数親の5倍になっている。一人親世帯の貧困率は、日本は59%であり、OECD加盟国30ヶ国のうちで一番高く、平均31%の2倍である。母子世帯は2000年に63万世帯。2005年には75万世帯となった。その平均所得は2007年に243万円で、一般世帯550万円の半分以下である。
 児童虐待は、2004年度は3万件を超し、前年度比で26%増。2007年度には4万件を超えた。1990年度の30倍である。
日本に暮らす外国人は、2008年末で235万人。日本の総人口の1.8%。そのうち韓国・朝鮮籍は59万人で、その人数は年々、減少している。
 難民認定を受けた人は、2008年に57万人で、ほとんどがミャンマー人。
この20年間に、死刑を廃止した国は、139カ国となり、死刑を認める58カ国の倍以上となった。死刑廃止・執行停止が国際的な潮流である。
 死刑を認める国は、日本のほか、アメリカ、中国、北朝鮮、イランなど。これって、アメリカが民主主義がないと非難している国ですよね。アメリカも、同じような国じゃないのかと、つい疑問に思ってしまったことでした。
 刑務所にいる無期懲役の受刑者は、1998年に45人だったのが、2006年には136人と、大幅に増加している。無期懲役刑の受刑者の仮釈放者は1998年には二桁だったのが、2007年にはわずか1人だけ。平均受刑者在所期間は、1998年に20年だったのが、2007年には31年へと大幅に延びている。受刑者の死亡も多くなった。
 この本は、2009年11月に和歌山で開かれた日弁連の人権擁護大会で公表された「人権のための行動宣言2009」の解説版です。大変コンパクトなものになっていますので、日本における人権状況を参照し、引用するときに便利な百科全書という気がします。日弁連の英知を結集したと言える内容ですので、ぜひとも大いに活用したいものです。全国の法律事務所だけでなく、国と地方自治体にぜひ一冊は備えてほしいと思いました。
 編集責任者である京都の村山晃弁護士が盛岡で開かれた人権擁護大会の会場外で自ら売り子となって汗を流していましたので、その熱意にほだされ、こうやって書評を書かせてもらいました。あなたも、ぜひ買って読んでみてくださいね。少しばかり高価な本ですが、その価値は十分ありますよ。
(2010年10月刊。3500円+税)

2010年10月 6日

上田誠吉さんの思い出

 著者 自由法曹団、 自由法曹団 出版 
 
 ミスター自由法曹団というべき存在だった上田誠吉弁護士は、最高裁判所の長官にふさわしい人格、識見、能力だったと衆目の一致するところでした。惜しくも昨年5月10日、82歳で亡くなられました。
 私の生まれた1948年に東大法学部を出て、司法修習生(2期)になりました。上田弁護士は戦後の著名な刑事事件の多くに関わっています。メーデー事件、松川事件、三鷹事件、千代田丸事件、白鳥事件・・・・。
 これらの事件は、戦後日本を揺るがす大事件であったと同時に、司法界においても大変重要な事件であり、貴重な判例を残しました。そして、上田弁護士は弁論要旨だけでなく、数々の著書をモノにし、世に問うています。私が大学一年生のときに読んで、身体中が雷に打たれた衝撃を覚えたことを鮮明に覚えているのが『誤った裁判』(岩波新書)です。国家権力というのは、自己の威信を守るためには無実の人を死刑にしてもかまわないと考えること、一般市民は丸裸にされたときには、きわめて弱い存在であると痛感させられました。それまでは、警察や検察というところは人権と弱者を守るために存在するとばかり思い込んでいたのです。ひどく認識が甘いと思わされました。
その後、上田弁護士は、自由法曹団の幹事長に就任します。41歳のときです。
 上田弁護士は『国家の暴力と人民の権利』(新日本出版社)を世に問いました。私が司法修習生のときでした。感激をもって必死に読み、大いに学ぶことができました。
 そして、私が弁護士になった年(1974年)10月、自由法曹団の団長に就任しました。まだ48歳の若さでした。しかし、既に風格がありました。それから10年間、団長の要職をつとめました。
団長在任中、石油ショックが起こり、石油業界のヤミ・カルテルが摘発されました。東京と山形・鶴岡の消費者がこぞって裁判に起ちあがりました。弁護士1年生の私も末席に加えていただきました。上田弁護士と同じ弁護団の一員となったのです。
この灯油裁判と呼ばれる消費者訴訟は最終的に敗訴しましたが、途中で消費者の権利を認める高裁判決を勝ちとるという画期的な成果もあげています。上田弁護士は、理論的にも、運動においても、中心の柱になっていました。
 上田弁護士の旺盛な著述活動は、その後も続きました。『裁判と民主主義』(大月書店)、『ある内務官僚の奇跡』(同)。後者は、上田弁護士の父親について書かれています。父親は、なんと特高課長つとめたキャリア組の内務官僚だったのでした。中国・上海総領事館の警察部長もつとめています。ですから、上田弁護士も、上海に暮らしていたことがありました。戦後、上田弁護士は、父親から左翼にだけはなるなといって、顔を叩かれたこともあります。ところが、その父親も亡くなる前には松川事件の弁護団の一人になったのでした。
 上田弁護士は、63歳のときに胃がんで胃を全摘しました。しかし、その後も著述活動だけでなく、アメリカに渡った訪米団の団長として、また、警察による盗聴事件を追及して、活躍しました。最後には、自らが住民の一人として無用な道路建設に反対する運動に加わり、裁判の原告になりました。
 この本は、上田弁護士の没後1年たち、「しのぶ会」の開催に合わせて、弁護士やかつての裁判の元原告たちが思い出を寄せたものです。大変読みやすく、上田弁護士の飾らぬ人柄、そして、その能力と見識の高さがにじみ出る冊子となっています。
 上田弁護士は東大法学部に入学するも、学徒出陣の時代ですから、川崎の高射機関に砲部隊に配属されてしまいます。戦後、大学に戻って学生運動に参加するのでした。
 大阪の宇賀神(うがじん)直弁護士が「上田誠吉さんと裁判闘争」と題して、少し長文の思い出を寄せていて、勉強になりました。
 裁判闘争の基本、土台というのは、裁判で問題となっている生活事実をつかむこと、これが大切である。裁判官もまた人間である。人間がものごとを決めるときに寄るべきものは事実の認識であって、そのうえに立って道理を考える。そこでは、事実と道理、対決と説得そして共感が大切なのである。一面では対決であり、他面では説得である。説得の武器は、対決の場面もふくめて、事実と道理である。そのために知恵と力を出す。裁判官の良心を取り戻し、それに灯をともし、その灯を強めていく。それが成功するなら、裁判官は事実を素直に見るようになる。そして、救済を決意する。ここには飛躍がある。裁判所が何を考えているかを読みとること、これが実は弁護士にとって一番苦しい任務なのである。
 上田弁護士をしのび、大いに学ぶべき存在であることを改めて思い知らせてくれるいい冊子です。若い弁護士に広く読まれることを期待します。

(2010年9月刊。価格は不明)

2010年10月 1日

裁かれる者

著者:沖田光男、出版社:かもがわ出版

 1999年9月初め、東京の中央線の快速電車に乗っていた男性が若い女性に対して携帯電話による通話を注意したところ、しばらくして、電車内で痴漢したとして改札口を出たところで逮捕されたのでした。「現行犯逮捕」というには、時間と場所が違っています。
 それでも、いったん逮捕されたら、簡単には釈放されません。結局、23日間、丸々警察の留置場に入れられたのでした。それでも、なんとか釈放され、不起訴が決まりました。
 事件のあと、1年半たって、国家賠償請求の裁判を起こしたのです。
 ところが、なんと、刑事事件としては不起訴になったのに、民事訴訟では、一審も二審も「痴漢行為をした」と認定されてしまったのです。うへーっ、と本人ならずとも驚いてしまいます。
 刑事記録は既に廃棄されていました。3年間の保存が義務づけられているのに、担当職員が一年と勘違いして廃棄してしまったのだというのです。なんということでしょう、本当なんでしょうか・・・。
 民事裁判では、男性の身長が164センチで、女性のほうは170センチ。しかも、7センチのハイヒールの靴をはいていた。ところが、女性の「腰」に男性の「股間」を接触させていたという。客観的には、ありえない。それでも、一審も二審も、女性の供述を信用した。そして、最高裁は、なんと法廷での弁論を行った。
 このとき、「被害者」の女性本人が涙ながらに意見陳述したのでした・・・。すごいことですね。
 結果は、高裁への差し戻しを命ずる判決でした。そして、高裁は、痴漢行為は認められないとしつつも、女性の虚偽申告も認められないというものでした。矛盾としか言いようのない判決です。
 この事件が世間の注目を集めた理由の一つは、周防正行監督の映画『それでもボクはやっていない』(2007年1月)にあった。私も、この映画は見ました。大変よく出来ていて、司法の現実、その問題がズバリ描かれていると思いました。
 裁判の限界を実感させる本ではあります。それにしても、本人(1942年生)と家族は、本当に大変な苦労をされたことだろうと推察します。お疲れさまでした。それでも、このような本を書いていただき、ありがとうございます。
(2010年4月刊。1000円+税)

2010年9月28日

国際弁護士

 著者 桝田 淳二、日本経済新聞出版社 出版 
 
 今から20年近く前(1992年)、48歳の日本人弁護士がアメリカに渡り、ニューヨークで事務所を構え、渉外弁護士としてスタートした。その苦難の道が描かれています。なかなかに読ませる内容の本です。
 いま(2010年7月)、日本にいる外国の弁護士(外国法事務弁護士)は347人である。これって意外に少ないですよね。
 著者は、1970年にコロンビア、ロースクールに留学し、2年数ヶ月間ニューヨークに残り、アメリカの法律事務所で研修した。
アメリカでは、弁護士依頼者特権が認められていて、弁護士と依頼者とのあいだの法的な相談に関するコミュニケーションは証拠開示の対象にならない。ところが、弁護士であっても専門家証人として接するときには、この特権は適用されないので、注意を要する。つまり、弁護士から意見書を法廷に出してもらったときには、弁護士依頼者特権は放棄したものとみなされる。そこで、自分たちが相談し、訴訟で代理人になってもらう弁護士には意見書を書いてもらってはいけない。
 ディスカバリーは、いかに大変か。また、イーディスカバリーについては専門業者を雇う必要がある。弁護士依頼者特権を生かすためには、何かあったときには、まず何をおいても弁護士との相談を始めることが必要である。弁護士に相談をするまでに検討された事項は、ディスカバリーによって、すべて相手方の弁護士にもっていかれて、検討される。
デポジションはビデオに撮られる。
アジア系少数民族が多くいるニューヨーク、カリフォルニアその他においては日本人をふくむアジア系少数民族へのアフリカ系アメリカ人の偏見は非常に強い。そこで、日系企業が陪審裁判にかけられたら、不利な判断がなされることを覚悟しておく必要がある。したがって、陪審裁判になる可能性があるときには、早期に和解で決着することがきわめて望ましい。結果として、クライアントにとって、何がビジネス的にベストの解決であるかを常に考えるべきなのである。
アメリカの裁判所の法廷における口頭弁論は、むしろ裁判官の質問に答えるためのもの。口頭弁論の時間は厳しく管理されていて、時間になると、自動的に赤いランプが点灯する。裁判官から厳しい質問が次々に出されるので、どんな質問にも即答できるように準備しなければならず、徹夜するなど、大変なことが多い。
 絶えずクラスアクションの種を探している弁護士と法律事務所がいる。プレインティプローヤーという。被害者側の原告の立場に立って大企業を訴える弁護士がアメリカでは非常に活発に活動している。アメリカには訴訟印紙の制度はないので、簡単に巨額を請求する訴訟を提起できる。プレインティプローヤーの法律事務所も非常に大型化し、何百人もの弁護士がいる法律事務所がある。非常に複雑で大型のクラスアクションを提起して、莫大な弁護士報酬を得ている。豊富な経験と高度の専門知識を有している。そのなかの老舗の弁護士たち4人が、違法なキックバックをもらって有罪となり実刑を課されたことも起きた。
 州の裁判所の裁判官は選挙で選ばれるため、一般に州民に有利な判断をする傾向がある。そのため、日本企業がアメリカの州裁判所でえられたときには、なるべく連邦裁判所で審理してもらえるよう移送申立する。
 アメリカは原告天国で、日本は被告天国である。日本では損害賠償を求めても、損害額の認定が困難で時間がかかり、認定額もアメリカに比べて30~40分の1程度でしかない。アメリカは訴訟期間が短いだけでなく、判決も日本より弾力的である。
良い弁護士は、依頼者の話をよく聞き、依頼者が本当に望むことを十分に理解し、それを実行してくれる弁護士。忙しくない弁護士は通常優秀でないから、仕事が多くなく、忙しくない。忙しい弁護士は優秀であるから、いつも忙しい。だから、むしろ忙しい弁護士を選任するべきなのである。そして、1時間あたりのレートの高い弁護士をつかうほうがずっと良い結果を生む。この点は、私もまったく同感です。私が不祥事を起こしたら、知りあいの忙しい弁護士に依頼します。それなりのペイを支払って・・・・。
すべてをアメリカ的に考え、アメリカ流にすすめていく弁護士は、日本企業には決してふさわしくない。なーるほど、ですね。
 著者はアメリカで月300時間も働いていたそうです。土・日もなく、早朝から夜中の2時、3時まで働いていたというのです。これでは健康を害してしまいますよね。こればかりはマネしたくありません。
著者は、日本の若手弁護士よ、もっと国際的にも活躍せよ、とゲキを飛ばしています。なるほど、そうなんでしょうね。大変勉強になりました。
 
(2010年8月刊。2400円+税)
 秋の名月をベランダに出て、じっくり天体望遠鏡で観察しました。大変な猛暑がいつまでも続いていましたが、このところ一気に涼しくなりました。ベランダに出て夜空にぽっかり浮かぶ月を眺めていると、本当に心が安らかな気分になります。どうしてこんなに丸いのかしらん。空中にこんな重たい物体が浮かんで落ちてこないのはなぜかな。月世界の縞模様は、どうやってこんなに見事なのかな。世の中に不思議なことはたくさんありますが、宇宙の神秘にはつくせないものを感じますよね。
 金星の衛星が横一列に並んで3個見えました。天文台の大型望遠鏡で夜空を眺めてみたくなります。

2010年9月14日

訴訟に勝つ実践的文章術

 著者 スティーブン・D・スターク、 日本評論社 出版 
 
 裁判所に提出し、裁判官に読んでもらう書面の書き方について、原則をじっくり教えてくれる本として、大変参考になりました。私も、さらにやさしく、分かりやすい言葉で準備書面を書くように努めたいと思います。
 裁判官は、テンポの速い世界で生活しているので、文書は急いで読むが、まったく読まないのかのどちらかなのである。文章を書きはじめる前に、何が言いたいかについて明快な考えがなければいけない。自分のすすむ方向をまっすぐに定めるためには骨子が役に立つ。
 そうなんです。私も、まずメモ的に骨子を書きなぐっておきます。それなしで筆まかせに書きすすめるということは、まずしません。メモは出来たら白紙に書きます。
 法律文書を書くときには、最初に結論を書くことが大切である。結論をあとで示すと、最後まで書面を読まないと何が言いたいのか分からないし、それが正しいのかどうかを確かめるために、何度も読み直さなければならなくなる。
 大切なことは、まず結論を書く。次に、第一印象は強烈な印象を残すことを忘れない。第三に、初めて読む人が簡単に読める、分かりやすい文章にすること。
第四に忙しい読書も理解力に乏しい読者も理解できること。
弁護士は、ふつう自分たちのことをプロの物書きとは考えていない。しかし、法律家は文筆の一種なのである。
そうなんです。私は、いつも、作家ではない、モノカキだと自称しています。
 文書の作成は孤独な作業である。だから、一日の一定の時間は一人になれるようにすることを確保し、それを日課とする。書くことは運動することに似ている。毎日の習慣にすることで、容易にできるようになる。
 この本の著者は口述で書面を作成すべきではないとしています。
口述で作成した文書には、似たような文章がくり返して出てくる。長い引用があったり、表現が大げさになりがちだ。書くという行為は、口述するというより、自分の中の声を聞くというもので、どちらかというと口述を受けるようなものだ。原稿を見返すときには、必ず印刷したうえで、読み手と同じ読み方をする。パソコンの画面で読むと、印刷したものを読むときより集中力が落ちて、見落としが多くなる。
事件の9割は感情で決まってしまう。自分が気に入った結論に説得力を持たせるため、理性をもって書いている。判例は、その事件に当てはまる理論そのものではなく、その理論を支持するものにすぎない。事実から議論が生まれることはあるが、議論から事実が生まれることはまず、ない。事実が大切なのである。裁判官は事実を知ることなく、判断することはできない。
そして、相手の主張や非難のすべてに一つひとつ答える必要はない。相手の悪口は言わない。相手をけなしたり、倫理的・道徳的な欠点に言及すればするほど、裁判官の目にうつる自分自身の品性をおとしめる危険がある。
注目してほしい文章に下線を引いて強調するのは良くない。そして、脚注は控え目にすべき。具体的で説得力のある見出しを工夫する。見出しは、法律文書の中で唯一、ユーモアをこめると、内容が正確である限り、若干の誇張が許される場所である。
陳述書は、弁護士の書く文書ではあるが、それに署名した人自身の言葉で書かれるべきである。
スピーチのときには、原稿を見ながら話してはいけない。また、結論を先に言ってもいけない。聴衆が話し手を知り、信頼するまでに一定の時間を要する。はじめのうちは自己紹介や個人的なエピソードをゆっくり話すなどして、聴衆が親しみ感じたころに、主題を切り出す。
スピーチの最重要部分は、法廷では講義をするように話すのではなく、一対一で会話するように話す。そして、話しながら動いてはいけない。自信をもって、落ち着いて、協力的な態度をとって話す。どんなに難しい質問をされても、しかめ面などせず、あたかもチャレンジを楽しんでいるかのように見せる。
話す準備ができても、2~3秒間は、沈黙する。聴衆に聞く準備をさせるためである。
280頁ほどの本で2800円というのは高過ぎるかなという気もしましたが、こうやって読んでみると、決して高いとは思えません。文章には多少の自信がある私ですが、大変勉強になり、考えさせられました。
(2010年6月刊。2800円+税)

2010年9月 7日

東中光雄という生き方

 著者 関西合同法律事務所、 清風堂書店 出版 
 
 特攻隊から共産党代議士へ、というサブタイトルのついた本です。東中(ひがしなか)光雄というと、弁護士というより代議士という印象が強いのですが、なんとゼロ戦ファイターであり、特攻隊の隊長だったというのです。そのころの凛々しい写真もありますので、間違いありません。軍国少年は海軍兵学校(海兵)に入り、海軍航空隊に入ってゼロ戦に乗り、教官にもなって、特攻隊に志願したというのです。そんな経歴の青年が、戦後は大学に戻って法学部から弁護士となり、人民の立場に立つ弁護士として頭角をあらわしていくうちに共産党の国会議員になり、30年間、代議士をつとめて引退したのでした。
 これだけでもすごい経歴ですよね。
 そして、奈良の薬師寺の名物管主として高名だった高田好胤(こういん。故人)師と小学生のころに同級生で、寺の修行のために勉強のできない高田師に勉強を教えていたというのです。なんだか不思議な取りあわせですね・・・・。
東中光雄は、当時、「一高、三高、陸士、海兵」と並び称された難関中の難関校に挑戦し、見事に合格した。 海兵を卒業したあと、筑波航空隊に小尉としてつとめ、1945年3月には中尉となった。千歳空港での飛行訓練のとき、乗っていたゼロ戦が故障した。東中中尉は、火災を起こさないよう燃料を使い切って着陸を決断した。数十分も上空を飛んだあと、片足しか出ない機体で、無事になんとか着陸した。
いやはや、なんとも度胸がすわっていますよね。たいしたものです。ほかにも、雲の上で、上下左右みな真っ白という状況におかれ、気がついたときには地面に向かって真っ逆さまという状態になっていたのを機体を立て直して事なきをえたという、心の震えるエピソードも紹介されています。
 特攻隊の募集があったのは1945年6月。20歳の東中中尉は「大熱望」と書いて上官に手渡した。内心は、仕方ない、やるしかないという気持ちだった。
 8月15日の玉音放送を聞いたときには、残念だという気持ちとほっとしたという気持ちが入りまじっていた。海軍兵学校67期(昭和14年卒業)から70期(昭和16年卒業)までの戦死率は60%をこえる。
 戦後、東中光雄は同志社大学に入学した。ところが、卒業の時点で、公職追放令にひっかかり、希望する教師や言論界への道が閉ざされた。そこで、やむなく弁護士を目指すことにした。体力勝負の滅茶苦茶な勉強をして一年たらずで司法試験に合格し、1949年4月に司法修習生(第3期)になった。この年は、7月に下山事件と三鷹事件、8月に松川事件といった謀略事件が相次いで発生した。
 1951年、東中光雄は弁護士となり大阪弁護士会に登録した。先輩の加藤充弁護士から、「絶対に敵の土俵にはいらない」「敵の土俵でケンカしない」ことを教えられた。1954年に独立して東中法律事務所を開設した。
 東中光雄の弁護スタイルの特徴であった、社会的正当性を法的正当性に高めるには、交流や実践を通じて若い弁護士たちに浸透していった。法律の条文形式上は困難に見える主張でも、社会的に正当であれば、とことん主張する。法的に勝ち目を見出すのが難しくても、現実的かつ妥当な解決に持ち込む、こうした観点で、弁護士たちの実践が交流され、点検された。
 そして東中法律事務所は事務所創立20周年を機会に名称を関西合同法律事務所に改めた。このあと、東中代議士の活躍ぶりが紹介されています。今の小選挙区制ではさすがに困難だと思いますが、中選挙区制のもとで、10期連続して当選したというのですから、それだけで感嘆してしまいます。日本共産党の議席が衆議院だけで38議席もあり、多くの弁護士議員が活躍していたのでした。東中代議士はロッキード事件、ダグラス・グラマン事件、リクルート事件、金丸信不正蓄財事件などなどで大活躍した。
 小沢一郎の政治献金事件なども、国会での追及が甘すぎると考えている私にとって、東中代議士のような存在は本当に必須不可欠なものだと痛感します。弁護士になってから、そして代議士としての活躍部分についても、もう少し読みものにしてもらえたら、さらに読みやすく、感動的な本になったのでは・・・。そんな注文はありますが、今なお86歳で、お元気の東中弁護士に大いに学びたいと思いました。
 読んで元気の出る本として、おすすめします。
(2009年2月刊。1600円+税)
 フランスの大都市には、貸自転車システムが整備されています。今回パリだけでなく、ディジョンでもリヨンでも待ちのあちこちに貸自転車が並んでいるのを見ましたし、実際、人々が自転車を走らせていました。
 都心部にこれ以上、車を侵入させたくない、また、渋滞で身動きとれないときに自転車は便利ですよね。
 観光客もクレジットカードがあれば利用できるようですが、その仕方も分かりませんから挑戦はしませんでした。
 なにしろ車は多いので、見知らぬ街での自転車の利用は、いささか危険を伴います。

2010年8月26日

日米密約・裁かれない米兵犯罪

 著者 布施 祐仁、 岩波書店 出版 
 
 この本を読むと、今の日本が本当に主権を有する独立国家と言えるのか、改めて疑問に思えてなりません。かつて大いに叫ばれていたアメリカ帝国主義からの独立というスローガンを思い出してしまいました。だって、アメリカ兵が日本人を勝手に傷つけても、日本の警察は手出しできず、アメリカ当局によってさっさと日本国外へ逃亡できるというのですからね。とんでもないことです。
 2004年8月に普天間基地のある宜野湾市で発生したアメリカ軍ヘリコプターの墜落事故のときにも、日本の警察は現場への立ち入り自体が禁止され、捜査を行うことも出来ませんでした。もちろん、この事故についての責任追及なんて、何も出来ませんでした。そして、日本政府はアメリカ政府に抗議ひとつしなかったのです。なんと情のない話でしょうか。読んで改めて腹が立ってなりませんでした。
 アメリカ兵が日本人の命を奪い、女性を強姦し、人権を踏みにじる事件を起こしても、いったん犯人が基地へ逃げ込んでしまうと、日本の警察は逮捕することができない。これは、アメリカ軍側にある、被疑者の身柄は起訴されるまでアメリカ軍の当局が拘束するという、日米地位協定が根拠となっている。
 アメリカ兵が車で日本人をはねても、それが「公務中」であれば、日本の警察がたとえ現行犯逮捕していても、アメリカ軍に犯人を引き渡さなければならないし、日本側は裁判にかけることも出来ない。「公務中」の犯罪については、アメリカ軍側に裁判権があると日本地位協定に定められているから。
 日本政府は密約の存在を完全否定する。しかし、1953年10月28日、密約が結ばれている。そして、在日米軍の国際法主席法務官は、日本が密約を忠実に実行してきたことを評価している。
 アメリカ兵の犯罪のうち、強姦、傷害致死、強盗詐欺、横領はすべて不起訴とされ、住居侵入、窃盗の大半も大半が不起訴となっていた。刑法犯のうちの起訴率は、わずか13.4%にすぎない(2007年)。日本政府の説明によると、日本がアメリカ兵の犯罪の多くを不起訴としているのは、裁判権の「放棄」ではなく、あくまでも自主的な「不行使」だというわけである。本来なら、捜査の結果、「公務中」とはっきりするまで、必要であれば犯人の身柄を日本側で確保するのが筋である。しかし、現実には、公務の執行中になされたか否か疑問であるときまで、身柄がアメリカ軍に引き渡されている。
そして、何より肝心なことは、日本政府はこの密約の存在を完全否定し、情報公開していないが、アメリカのほうは、とっくに公開ずみだということである。いやはや、なんということでしょうか・・・・。そこまで、日本はアメリカのしもべとして「忠実」なんですか・・・。あいた口がふさがりません。泣けてきます。
法務省刑事局は内部通達において、憲法で「国権の最高機関」と規定されている国会が立法した刑事特別法よりも、日米両当局間の内部的な運用準則にすぎない「合意事項」を優先するように命じている。
こんなひどい「密約」、それと一体のものである日本地位協定は当然に見直されるべきものです。そして、それは、本当に今なお日米安保条約が必要なのかを考えさせますし、軍事同盟ではかえって世界と日本の平和は守られないということに帰着するのだろうと思います。とてもタイムリーな本として一読をおすすめします。
 
(2010年4月刊。1500円+税)
 ボーヌを午後2時に観光タクシーで出発します。今日は、コート・ド・ニュイのコースです。まずはアロース・コルトン、次いで、ニュイ・サン・ジョルジュです。ブドウ畑はまだみずみずしい緑葉に覆われています。背丈は50センチほど、延々と緑のブドウ畑が広がっています。多少の起伏があるくらいで、なだらかな平地なので、はるか彼方まで見通すことができます。いよいよヴォーヌ・ロマネ村に入ります。その中心部に、かの有名なロマネ・コンティのブドウ畑があるのです。看板もなく、本当に狭い一区画ですので、案内されなければ見落としてしまうでしょう。小休止して写真をとります。ガイド女性が車のトランクから冷えた白ワインを取り出し、いっぱい飲んで喉をしめらせます。年間数千本しか作らないので、希少価値のある超高級ワインです(もちろん、飲んだことはありません)。
 クロ・ド・ヴィージョを過ぎて、ジヴリー・シャンベルタンに着きました。ここでカーブに入り、出てきて赤ワインを試飲します。飲み比べると、さすがに高いワインは舌触りも良く、味が豊かです。すっかりいい気持ちになりました。

2010年8月 4日

ニッポンの刑務所

 著者 外山 ひとみ 、講談社現代新書 出版 
 
日本全国に77の刑務所があり、6万2756人(2009年末)の受刑者が収容されている。未決をふくめると7万5250人、少年院や少年鑑別所などを入れると8万456人となる。
刑事施設の収容人員のピークは2006年で、このとき未決をふくめて8万1255人、既決だけだと7万1408人だった。2008年から既決の収容率は97.6%と100%を下回るようになった。
執行刑期8年以上の長期受刑者が2003年から増加している。1998年から2008年の10年間で、3113人から6529人へと2倍以上に増えた。
 女子施設については、まだ過剰収容は深刻で、2009年末でも平均収容率が既決で114%を超えている。女子受刑者は、1974年に811人だったのが、2009年末の既決収容者は4348人となっている。収容率は114%だ。
外国人の受刑者の比率は、中国人が39%、ブラジル人とベトナム人がそれぞれ10%、韓国人とイラン人もそれぞれ9%の順になっている。外国人の受刑者が増大した原因は、日本が不況になって、彼らの仕事がなくなったから。
 外国人受刑者は、塀の中から母国へ電話をかけて話すことが認められている。1000円のテレフォンカードでイランだと13分、中国だと23分間話すことが出来る。法務官が電話をかけ、相手を確認してから受刑者と替わる。別室で会話は傍受されている。
横浜刑務所の受刑者の平均年齢は49歳、平均入所数5.1回、最多は60代の26回目の服役。最高齢は87歳。罪名は窃盗32%、覚せい剤26%。この二つで6割を占める。
 高齢者が急速に増えている。60代以上の受刑者は、2001年に12.4%だったのが、2008年には24%となった。
 寮から工場へ移動するとき、受刑者が整列し、刑務官が自ら大号令をかけて引率する「行進」はなくなった。この進行については自主性を損なうものとして批判がありました。
 30%の再犯者によって60%の犯罪が行われている。65歳以上の高齢者では、2年以内に再犯を犯すのが4分の3、1年以内が半数。55歳以上では半数、20代前半では47%が2年以内に罪を犯している。
 したがって、30%の再犯者にストップをかければ、犯罪も大きく減ることになる。この再犯防止のためには、教育と出所の受け皿、つまり帰る場所と仕事があることが重要である。
 山口県美祢にある社会復帰促進センターでは、国の職員123人に対して、民間220人、非常勤をふくめて男女520人が働いている。ここに受刑者の定員は男女各500人に対して、実際には男性281人、女性310人が入所している。美祢センターは全国はじめての男女合同施設である。収容者には高学歴の人が多く、21%が大学の中退以上。
過剰収容で収容率130%になっても暴動が起きない。刑務官が丸腰でも襲われない。これは日本人のいいところだ。そうなんですね。阪神大震災のときに暴動がなくて、世界から注目されましたよね。
刑務官の待遇改善と増員なしには再犯は減らせないと私は思います。ギスギスした人間関係から犯罪は生まれるのです。日本の刑務所を取り巻く状況を概観することのできる本として一読をおすすめします。 
(2010年3月刊。800円+税)

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