弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

司法

2012年3月21日

概論アメリカの法曹倫理

著者   ロナルド・D・ロタンダ 、 出版   彩流社

 沖縄の当山尚幸弁護士(元九弁連理事長)が翻訳した本です。すごいですね、340頁もの本を訳して出版したとは。大いに感嘆しながら、そして内容としても難しい論点をやさしく解説してあることに驚倒しながら読みすすめていきました。
いま、私は弁護士会の中で弁護士倫理にかかわる手続に関与していますが、そこで取り上げられているケースには、かなり微妙なところが少なくないことがあって、本書はその意味でも役に立ちました。
依頼者は、いつでも弁護士を解任できるし、弁護士はたとえ解任理由が釈然としなくても手を引かなければならない。
そうなんですよね。解任されたとき、良かったと思うこともあれば、なぜなのか納得できない思いが残ることもあります。
弁護士は、より短い時間で効率的に仕事を処理すべきである。より効率よく仕事をする弁護士は、たいていより高い時間給を請求する。これは許されるが、時間の架空計上をすることは許されない。
報酬の妥当性を判断するときに重要なことは、依頼者を欺いていないか、信頼関係を悪用していないか、あるいは報酬の内訳その他の関連事項の説明が誠実でなかったかどうか、などである。
 完全成功報酬契約は、弁護士の利益のみのためにあるのではなく、それを望む依頼者の利益のためにあるべきものである。
 ホットポテト法則というのがあることを知りました。要するに利害相反の事件は受けられないということです。私の法律事務所も、いまでは弁護士が6人もいますので、「敵」側の関係者が相談に来ることを見逃してしまうことがあります(事前チェックを励行しているのでが・・・)。そのときには、潔く双方から手を引けという法則です。せっかくの事件を受任できなくなって「損」した気分になることもありますが、あとで疑われるよりはましだと自分に言いきかせています。
弁護士は依頼者に対し、生活費を貸しつけたり、保証人になったりして、訴訟を「援助」してはならない。ただ、弁護士が裁判費用や訴訟費用を立て替え、その返還を訴訟の成功にかからしめることを禁じてはいない。
 もしも依頼者が偽証しようとするときには、弁護士は拱手傍観してはならない。弁護士は、その偽証を明示する必要がある。
 依頼者が偽証の供述をしていることが分かったときは、弁護士は詐欺的行為を防止する合理的手段を講じなければならない。まず弁護士は依頼者に証言の訂正を忠告すべきである。それが奏功しないときには、裁判官に偽証を知らしめるなどの他の措置を講ずる必要がある。
 依頼者が偽証したことを知ったとき、弁護士は辞任することがありうる。しかし辞任の事実を公表すること自体が依頼者の秘密を害するときには、どうするか。依頼者は弁護士に辞任を公表しないで忍び足で静かに去ってほしいと願う。しかし、弁護士はそれでは足りない。ここらあたりになると、大変微妙なところだと思います。
弁護人の守秘義務など、日本とアメリカは法制度としての違いは大きいのですが、共通しているところも多々あると思いながら読みすすめていきました。当山弁護士の「あとがき」によると、3年がかりの翻訳とのこと。まことにお疲れさまでした。大変勉強になりました。
(2012年2月刊。2800円+税)

2012年3月17日

私の五つの仕事術

著者   谷原 誠 、 出版   中経出版

 「同業の弁護士から『どうしてそんなに仕事ができるの』と言われる私の5つの仕事術」というのが、この本の正しいタイトルです。まだ43歳という若い弁護士ですが、既に25冊もの著書があるそうです。たいしたものです。
自分の決めた目標をやり抜くには、何かを犠牲にしなければいけない。覚悟を決め、捨てるべきものは捨てなければいけない。
 私の場合には、本を読むためにテレビは見ないことに決めました。また、二次会もつきあわないことにしています。これで、自分の時間がかなりつくれます。たくさんの新聞を読んで、日本と世界で起きていることの意味を知りたいので、スポーツ・芸能欄は素通りしてまったく読みません。
 たくさんの仕事を素早くするには、自分の手元にある仕事は、すぐに相手に返してしまうことである。
 自分の器を広げれば、相手が期待する以上の仕事をすることだ。上司に仕事を頼まれたときには付加価値をつけて、上司の期待を上回らなければいけない。これを続けていくと、まわりから評価され、自分の成長にもつながっていく。
仕事でイライラしないためには、相手に期待しすぎないこと。感情をコントロールする方法を身につけると、コミュニケージョンでイライラすることがなくなり、気分よく仕事に専念することができ、高いパフォーマンスを維持できる。
 弁護士の仕事は同情することではなく、クライアント(依頼者)の利益を守ること。だから第三者の視点を常にもち続けることが大切である。クライアントの話を聞くとき、どっぷりと入りこまない。できるだけ依頼者と同じレベルの感情になって感情に支配されてしまわないように努める。
できるだけ先手を打つ必要がある。期限が過ぎて提出された99%の出来の報告書より、期限前に提出された90%の出来の報告書のほうが評価される。
 仕事を効率的に、確実に進める最大のポイントは、目の前の仕事にとにかく着手することだ。
私も、ちょっとした細かい仕事を片付けて、モチベーションが高まったところで、重量級の本格的な仕事に取りかかるといった工夫をしています。そして、机の上は、いつもすっきりした状態にしておきます。今、何をやるべきか、いつも明確にしておくべきです。こうやって、私もたくさんの本を書いてきました。
私の日頃の考えと共通するところが多かったので、うんうん、そうだよねとうなずきながら読みすすめていきました。
(2012年2月刊。1400円+税)

2012年3月14日

弁護士探偵物語

著者   法坂 一広 、 出版   宝島社

 ミステリー大賞受賞作品です。賞金はなんと1200万円。すごーい。私が、1200万円はすごいすごいと言ってまわっていると、なんだモノカキって、お金欲しさでやっていたんですか・・・と皮肉を言ってのけた後輩の弁護士がいました。いえ、別に、あの、この、1200万円という大金が欲しくて言っているんじゃなくて、いや、やっぱり1200万円って欲しいです、とか、しどろもどろで、弁解にならない弁明をしてしまいました。
 福岡の若手弁護士が自分と同じような福岡の若手弁護士を主人公に仕立て上げて展開するミステリー小説です。次々に殺人事件が起き、それを弁護士が決して見事とは言えない手法で解き明かしていきます。年齢相応の良識というべきか、大人の常識を十二分に身につけ過ぎた私にはとても書けない文体で物語は進行していきます。はて、これはアメリカの探偵物語で読んだ気がするよな、と思わせるセリフと表現が満載です。
 足の指先の感覚なんて、懲戒弁護士が分不相応なメルセデスを買って頭金を払ったあとの口座残高のように、きれいさっぱり消え去ってしまった。
 この表現は、まるで日本人離れしていますよね。日本人は欧米の人と違って、超高級車のメルセデスベンツをベンツとは呼びますが、一般にメルセデスと呼ぶことはありません。ところが、欧米ではメルセデスと呼ぶのだそうです。それにしても、きれいさっぱり消え去る例証として、ベンツを買ったあとの口座残高というのは、分かったようで分からない話です。
以下のような表現には弁護士として大いに共感を覚えました。
 裁判官や検事は、事件を数多く処理できれば許され、内容は問わない。その一方で、裁判員裁判制度が導入されて分かりやすい裁判をしなければならないなど言われ、弁護士は法廷で書面を読みあげるだけでは許されなくなりつつあるらしい。どうにも不公平だ。
ところが、次のような警察官のセリフもあります。うむむ、そう言われても、立場が違うんですが・・・。
 弁護士なんて、偉そうに特権階級にあぐらをかいているだけやろうが。お前らがあぐらをかいとる、その下の秩序を命がけで守っとるのは誰や。人権だか何だか知らんが、俺たち警察が命がけで守っとる秩序を、お前らは、金や自己満足のために壊しとるだけや。
 ミステリー大賞をもらうと、この本にある解説によるれば、受賞したあと選考委員や編集者のアドバイスによって徹底した書き直しがあるそうです。うむむ、これはすごい。大変そうです。
 まあ、それはともかくとして、394作のなかで見事に大賞を仕留めた「おそるべき強運とデビューのあとの変貌」に、私も大いに期待しています。
(2012年1月刊。1400円+税)

2012年2月12日

日曜日の歴史学

著者  山本 博文  、 出版  東京堂出版 

 江戸時代について、たくさんの本を書いてきた著者の本を読むたびに目が開かれる思いです。伊能忠敬の目的が日本全国の地図づくりにあったのではなく、もっと大きな、地球の大きさを計算することだったというのを初めて知りました。しかも、歩いて算出した地球の外周(4万キロ近く)は、139キロの誤差しかなかったというのです。恐るべき精度ですね。腰を抜かしそうになりました。
家康も秀吉から豊臣の姓と羽柴の名字を与えられた。後に成立した江戸幕府は家康のこのような屈辱的な歴史を消そうとした。
 家康は秀吉に対して尺取虫のように平身低頭していたのが現実である。
家康が羽柴武蔵大納言と署名していたことがあるなんて、今の私たちからすると信じられませんよね。
嘆願すると住民は「恐れながら」と幕府を立てながら申し出た。しかし、それは武士が威張っていて、百姓が卑屈になっていたというものではなく、あくまで嘆願書の形式にすぎなかった。実際には、支配階級の武士といえども、被支配層の理解と支持なくして、自らの支配が成り立たないことを十分に承知していた。
  有名な桜田門外の辺について、彦根藩は、君主が傷つけられたというだけで、藩主の井伊直弼の首を取られたことを認めなかった。藩の面子があったからだ。そのため、この事件は殺人事件ではなく、幕府高官を集団で傷つけたという障害事件として処理された。ええーっ、ウソでしょ、と叫びたくなりました。ここまでホンネとたてまえを使いわけるのですね。まあ、これって、今でもありますね。
足軽というのは、最下層の武士かと思っていました。ところが、最近の研究では、足軽は百姓の出身者によって占められ、世襲されていない。つまり、足軽は士格ではあっても、武士とは言いがたい身分だった。
 私よりひとまわり若い著者ですが、さすがは東大史料編纂所教授だけあって、いつも史料を駆使した内容で、面白いうえに説得力があります。
(2011年11月刊。1500円+税)

2012年1月31日

修復的司法とは何か

著者   ハワード・ゼア 、 出版   新泉社

 わずか1000円ほどの万引や無銭飲食によって懲役2年という判決をもらうことがたびたびあります。そうすると、司法の役割って何なのだろうかと考えさせられてしまいます。そんなとき、いい本にめぐりあいました。
修復的司法理論では、真に確証するものは、被害者の損害とニーズを認めることである、同時に、加害者が責任を引き受け、悪を健全化し、行為を引き起こした原因に向きあうように促す努力も積極的に行われなければならないと主張する。修復的司法は、被害者と加害者の双方を肯定する可能性をもっており、彼らの人生ストーリーを変容させる手助けをする。
 多くの被害者は激しい怒りの感情を体験する。怒りの鉾先は、犯罪を起こした人間、それを防いでくれなかった人たち、そして、それを許し、あるいはそれを引き起こしさえした神に向けられる。
 被害者は自己の感情を表現し、その感情の正当性を認めてもらう機会が必要になる。怒りや恐れや痛みの感情である。
 被害者の観点から見て、もっとも深刻なのは被害者は放置され、彼らのニーズが満たされないとき、その体験を背後に追いやることは難しいと悟る。
加害者は、自尊心と人格的自立心の欠如からトラブルに巻き込まれた。そして、刑務所での体験は、ますます自尊心と自立心を奪い取り、合法的な方法では自尊心と自立心を手に入れられない状態に置かれてしまう。刑務所の中で、対人関係の歪んだ理念を身につける。他人を支配することが目標となる。他人に配慮し、面倒をみることは弱さであるとみなされ、弱いものは他人の餌食になることを意味する。刑務所の中ではごまかしは普通のことであるということを学ぶ。受刑者はだますことを覚えてしまう。
 貧しく、社会の底辺に生き、人生は刑務所のようなものだと信じている人間にとって、刑務所の脅威は犯罪の抑止にはならない。こうした状況の人にとって、拘禁刑の判決は、監禁の形態をAからBへただ交換するにすぎない。
人々は自立心のように根本的なものを剥奪されると、再びそれを主張しようと模索しはじめる。自立の欲求を満たし、社会による「犠牲者」だという意識に対処する一つの方法は、自らが支配する被害者を別に見つけることである。刑務所で起こる同性間のレイプは、まさにそのような現象である。
 多くの犯罪は、歪んだ形での自分の力や価値の主張であり、不器用な自己顕示や自己表現なのである。
中・上流階級の家庭で育った人のほとんどは、自分の運命を司る主人は基本的に自分であると信じて育つ。自分は運命を決定づけるような真の選択権や能力を何かしら持っていると信じている。だが、貧しい人の多くは、このことを信じていない。
 死刑に関する研究において、死刑が犯罪を抑制する効果があるという証拠は見つかっていない。刑罰を司法の焦点とすべきではない。
 司法を応報と規定するのではなく、修復と規定したい。事態を健全化するために何ができるかを考えるべきである。
司法のあり方と役割について、根本的なところでじっくり考えさせられる良書です。
(2003年6月刊。2800円+税)

 日曜日、庭の手入れに精を出しました。夕方6時まで明るく、ずいぶん陽が長くなってきました。チューリップが地上から芽を出しています。梅の花も小さなつぼみをつけています。黄水仙そしてピンクのアネモネが、それぞれ一つずつ咲いています。告げ花のようです。
 春のきざしを浴びながら、ジェーマンアイリスの植えかえをしました。

2012年1月20日

勾留120日

著者   大坪 弘道 、 出版   文芸春秋

 大阪地検特捜部で証拠改ざん事件が起きて、特捜部長が逮捕されました。この本は、その元特捜部長が書いたものです。無実を訴え、最高検察庁および古巣の検察庁を激しく糾弾しています。
 検察官による証拠改ざんが前代未聞と言えるものなのかどうか、実は疑問があります。警察と検察による証拠隠しは弁護士にとって日常茶飯事、いつものことという感覚です。被告人に有利な重要証拠を検察官が手にしていても隠して出してこないというのは、これまで無数といってよいほどありました。今回の証拠改ざんは、このような証拠隠しの延長線上にあるものではなかったでしょうか。
 それはともかくとして、取り調べる側が取り調べを受け側に転落したことの苦しさ、悔しさが本書を貫いています。同時に、逮捕・勾留された身の辛さを初めて実感したことも正直に書かれています。
 大阪拘置所で過ごした120日間、著者は3畳の独房で自らの胸に去来する事柄を日々ノートに書きつづったのでした。ちなみに、著者の逮捕罪名は、犯人隠避(いんぴ)容疑です。
取り調べのはじめに有無を言わせない形で相手の弱点をせめて萎縮させ、一気に有利な立場に立ち、その動揺に乗じて自白をとる。これは取り調べのテクニックの一つ。ただし、弱い相手にだけ通用する取り調べ方法である。
 今回の逮捕はマスコミの風圧に検察が扇動されたようなものであり、結果的にマスコミに殺された。著者はこのように自分の気持ちを吐露しています。
 ホワイトカラーは、勾留生活に入るとき下着を脱いで裸にされたうえで屈辱的な手続を受けるが、これによって、それまでの地位から転落した現実に直面させられ、絶望感と苦痛の心理状態に陥る。
拘束される立場に置かれることによって、初めて拘束させることの厳しさと辛さをこの身をもって思い知った。自分がかつてここに送り込んだ多くの人たちも、今の自分同様の苦しみの中にあったことを思った。
 知らず知らずの間に多くの罪を重ねてきたという罪悪感を心の中で感じるようになった。司法というものは恐い。これが偽らざる気持ちであった。
 あれほど、熱い気持ちを抱き続けてきた検察という組織は、これまでの著者の努力といささかの貢献を一顧だにせず、内部調査と称して完全な被疑者扱いをし、無理筋の容疑で逮捕するに至った。
 そして、これまで親しい関係にあった検察官たちは、ひとたび組織が「大坪を切り捨てて、逮捕する」と決定すると、忠実に「一捜査官」になり切った。
 27年前、若い血をたぎらせ、検察は国民の最期の拠り所であると憧れて任官した検察の組織が、かくも冷酷非情で脆弱な組織であったことを思い知らされた。
「私が知っているすべての秘密をバラして、検察をがたがたにしてやる」と著者は大声で怒鳴った。
 この本には、その「すべての秘密」が何かは明らかにされていません。例の裏金のことなのでしょうか、それとも他にも検察がガタガタになるような秘密があるのでしょうか。
 司法というものは、まことに恐ろしい権力である。人を極限に追い詰める権力である。人の生身を切りきざむ物理的な権力である。
 いつしか自分自身が権力の魔力に取りつかれていたのかもしれない。
 若いころは、おののきの気持ちをもって恐る恐るその権力を行使していたのが、いつのまにかその権力行使に慣れ、習熟するなかで権力の側からしか相手を見なくなっていたのかもしれない。
 まことに権力というのは恐ろしいものだと実感させる本でした。現在、無罪を主張して公判中です。判決はどうなるのでしょうか・・・?
(2011年12月刊。1400円+税)

2012年1月12日

民法改正

著者   内田 貴 、 出版   ちくま新書

 40年近く弁護士をやっていて、法律が変わると、ついていないと悲鳴をあげてしまいます。脳が新しいものを受けつけないのです。商法は今では完全に投げています。まるで分かりません。有限会社がなくなってしまって、私の時代は過ぎたという気がします。
 最後の頼みの綱である民法までも変わってしまったら、もう弁護士廃業するしかありません。トホホ・・・。
 日本民法は明治31年(1898年)7月に施行されています。公布(1896年)から、すでに115年が経過しています。現在、拘束力を持っている法律で民法より古いものは5つしかない。ええーっ、5つもあるのですか・・・。何でしょう?
 爆発物取締罰則、決闘罪に関する件などです。なーるほどですね。
 法律の学習は外国語の習得と似ている。日本語で書いてあるから読めば分かるだろうなどと思ってはいけない。日常語などと思ってはいけない。日常語とは違う言葉であり、日常とは違う文法があるのだ。
 なるほど、なるほど、そうなんですね。英語ができるからといって、アメリカですぐ弁護士になれるわけではないのですよね。
 日本民法の成り立ちを改めて勉強しました。
 日本民法は、内容的には、フランスとドイツの影響を半々程度に受けた法典である。イギリスやベルギーの影響を受けた規定もある。したがって、フランスとドイツをともに母法とする法典と言える。
 日本民法は条文の数が極端に少ないという特色がある。フランスは2486条、ドイツは
2385条なのに、日本は半分以下の1044条しかない。これは、細かな条文を全部落として、原則だけ、それも非常にシンプルに書くという方針が採用されたことによる。
 日本の民法をつくるとき、法典の名宛人から、一般国民は完全に抜け落ちた。西洋式の民法はできても、その条文だけでは裁判ができない。あるいは行動の具体的な指針を民法から導くことができないことになった。
 初期の段階から、条文に書いてあることと解釈論が乖離していた。条文はフランスからきているが、解釈論は異なる条文を前提としたドイツからきているということが珍しくなかった。解釈といいながら条文の解釈などしていないというのが日本の解釈論の難しさの原因だということが分かりました。
 いま、国際的に、消滅時効期間の短縮化が大きな流れになっている。ドイツでは時効
30年から3年に短縮した。フランスも30年を5年にした。
 日本でも20年を除斥期間ではなく、時効と解する動きが出ている。
 約款は19世紀の末にできた日本民法典の知らない現象である。
 ええーっ、なんということでしょうか・・・?読んでもいない約款条件が、なぜ契約内容になっている当事者を拘束するのか、というのは難問である。
 ふむふむ、そう言えば、そうでしょうね・・・。
 民法改正の必要性を実に分かりやすく解説した本として、感心しながら読みすすめました。まだまだ、いろいろ難所はたくさんあるようですが・・・。
(2011年11月刊。760円+税)

2011年12月28日

人が人を裁くということ

著者   小坂井 敏晶 、 出版   岩波新書

 司法制度について大変考えさせられる鋭い問題提起にみちた本です。
 日本の制度では職業裁判官の優位が目立つ。海外では、裁判官に権力制限に注意が払われるのに対して、日本では逆に市民への厳罰への暴走が危惧されている。日本の裁判員裁判の合議体構成は、ナチス・ドイツ支配下のヴィシーかいらい政権が厳罰化を目的に導入したフランス参審制と酷似している。フランス近代史上、市民の影響力をもっとも抑えた制度と日本の裁判員制度は同じ構成になっている。英米法における裁判は、真実を究明する場というよりも、紛争を具体的に解決する役割を担う。検察は共同体を代表して犯罪を告発する。英米と異なり、フランスの陪審員は、国民の縮図・サンプルとして裁判に参加するのではない。このように英国法と大陸法とでは、司法哲学が異なっている。
犯罪を裁く主体は誰か、正義を判断する権利は誰にあるのか。これが裁判の根本問題だ。職業裁判官なら誤判がありうる。官僚が間違えても、それは技術的な問題にすぎない。しかし、重罪裁判では、陪審員・参審員を媒介に人民自身が裁きを下す。したがって、人民の決定に対する異議申立は、国民主権の原則からして許されない。これがフランスの考え方。
 英米法では検察官上訴が許されない。有罪判決が出たときは、それに不服な被告人が控訴して再び裁判を受ける権利がある。しかし、無罪のときは、それで確定する。どんなに不条理な判決であろうとも、陪審員が下した無罪判決を裁判官が無効にして審理差し戻しを命じたり、検察が異議を申立して控訴したりは出来ない。
 英米の裁判では、無罪か有罪なの評決結果を陪審員が提示するとき、結論に至った理由は示されない。というのも、歴史的事実として、英米市民のほとんどは文盲だったから。
 判決理由の欠如と、無罪に対する上訴禁止という二つの条件により、英米法では制度上、どんな不可解で不正な無罪判決でも出す能力が陪審員に与えられている。
フランスでは、公判内容の要約が1881年に禁止されて以来、現在に至っている。検察と弁護側の双方の最終弁論が終わると、裁判長は議論終了を宣告する。そのとき、意見を述べることも、議論内容を要約することも許されない。
 また、公判前に準備される供述資料など一切の書類は裁判長だけに閲覧が許される。他の裁判官2人は、市民9人と同じく、白紙の状態で公判にのぞみ、その場で討議された内容だけをもとに判断しなければならない。
 英米では、数百年にわたって、市民だけで重罪裁判の事実認定を行ってきた。全員一致に至るまで議論を続けず、多数決で判決を決めると有罪率が高くなる危険がある。
 全員一致の決定内容は、議論を尽くして最終的に至った解答だ。
 陪審員を減らすと、社会の少数派意見が判決に反映される可能性が近くなる。人間は真空状態で判断しない。どの状況も一定の方向にバイアスがかかった空間であり、中立な状態は存在しない。
 フランスの重罪裁判を務める参審員は、公判前に刑務所を見学させられる。専門家が長年かかって練り上げた取り調べ技術の威力はすさまじい。取り調べ技術を練り上げるのはプロの心理学者だ。
 暴力団員や政治犯が取り調べに落ちにくいのは、彼らを支える組織が外部に存在するからだ。普通の人間では、ひとたまりもない。密室に隔離された状態で脅しを受け、それでも沈黙を守れるほど、人間は強くない。審査官は黙秘権を放棄させる訓練を受ける。
 弁護士が取り調べに立ち会っても、実際にはあまり役に立たない。
 捜査官にとっては、被疑者が犯人に間違いないのである。無実の人間を犯人にしたてあげるという意識はない。だからこそ、問題が深刻なのだ。犯罪を憎み、会社の無念を晴らそうという取調官の気持ちを見落とすと問題の核心を見失う。取調官の真摯な態度を読みとらないと、冤罪を生む仕組みの本当の深刻さと恐ろしさはつかめない。
 被害者は犯人が憎い。はじめは目撃記憶に自信がなくても、警察から示唆されると、しだいに記憶が再構成される。犯人だと判明したと聞いたり、公判前に検察によって何度も証言の練習をさせられると、さらに確信度が高まっていく。
 犯罪捜査から判決に至るまでの一連の過程は一人の個人に任されるのではない。多くの人々が関わって機能する、組織の力学が防ぎ出す集団行為だ。
 人間は組織の論理で動く。問題すべきは、個人の資質ではなく、犯罪捜査というバイアスのかかった磁場の構造である。
 犯罪のない社会は、論理的にありえない、どんなに市民が努力しても、どのような政策や法体系を採用しても、どれだけ警察力を強化していても犯罪はなくならない。
 悪の存在しない社会とは、すべての構成員が同じ価値観に染まって、同じ行動をとる全体主義社会だ。つまり、犯罪のない社会とは、理想郷どころか、人間精神が完全に圧殺される世界にほかならない。
 私よりずいぶん若い学者ですが、さすがは自由の国、フランスで勉強したと思える発想に圧倒される思いで読み通しました。日本の司法界にかかわる人は必読の文献だと思います。
(2011年2月刊。720円+税)

2011年12月27日

弁護士から裁判官へ

大野正男著、2000年6月、岩波書店発行


 司法制度改革から10年が経過し、司法の依って立つ社会基盤の大きな変化もあり、司法制度改革にいろいろ綻びが出ている。しかし、司法制度改革における人的基盤の整備の一環として提唱された弁護士任官制度は、順調に実績を挙げているようである。私も、外から裁判所を眺めるだけで飽き足らなくなり、中から裁判所を見てみようかという気まぐれを起こし、来年の非常勤裁判官に応募した。


 このような身の回りの変化にあって、昨年、弁護士出身の元最高裁判事であった滝井繁男氏の「最高裁判所は変わったか」を読んだことに引き続き、今年は、同じく弁護士出身の元最高裁判事であった著者の書物を読んでみた。最高裁判事を退官して在官中の公私の出来事を振り返ったエッセイ集である点は一緒であるが、滝井氏の著作が2009年の出版であることと比較して、一時代前のものである。10年間の最高裁の変化はいかなるものであったろうか。


 著者は、最高裁に①憲法裁判所としての役割、②事実審の最終審としての役割があることを指摘し、上告事件の激増により、②の負担が過重となり、①の役割が十分ではないことを憂いている。小法廷が「先例の趣旨に徴して明らかである」の論法により憲法判断を回避していると言われる例の問題のことである。この辺りの問題意識は、滝井氏と同一である。そうすると、平成10年の民事訴訟法改正による上告制限の導入は、あまり効果をあげていないということになるのであろうか。以下私見であるが、もし、②の負担を軽減するため、例えば、小法廷を5つ設置するとなれば、大法廷は25人の大人数となり、到底、実のある憲法議論は尽くしがたいであろうなと考えると、制度改革による①の憲法裁判所の復権は決して容易なことではないのであろう。そうすると、最高裁の利用者による上告の自粛が求められてくるが、「まだ最高裁がある」(映画「真昼の暗黒」の言葉)という当事者の最後の希望を摘み取ってしまうこともできまい。こうしていろいろ考えてみると、著者や滝井氏の嘆きは、最高裁の永遠のテーマになりそうな気配である。


 ところで、著者は、マルキドサドの悪徳の栄え事件、砂川事件、全逓東京中郵事件など著名な憲法訴訟に携わった一流の弁護士でありながら(だからこそ上述の憂いが生まれてくるのであろう)、その物言いは柔らかであり、書きっぷりには気取りがない。この著書にも、軽妙で楽しげな語りがある。


 例えば、「最高裁が、原判決を指示し、棄却する場合でも、次のような種類の表現がある。」として、
最も積極的に支持する表現としては、「正当として是認できる」と表現し、
次に単に「是認できる」であり、
理由をやや異にする場合は「この趣旨をいうものとして是認できる」であり、
かなり原判決の理由に疑問を持つ場合には、順に
「この趣旨をいうものとして是認できなくはない」
「違法とは言えない」
であり、最後に最低の合格ラインとしては
「違法とまでは言えない」と表現するのだそうである。


 これは、判決書の言葉遣いとその意味を紹介したものであり、本来おかしむようなものではなが、著者の手にかかると何ともいえぬユーモアが感じられる。この著者の文章に接して弁護士で、にやっとせぬ者はいないであろう。


 さて、著者のような最高裁判事ほどの立場ではないとしても、私も簡易裁判所で民事調停に立ち会うとなれば、事件や法律の見方・考え方が変わり、解決することの苦労を身に染みて感じるのであろう。著者が最高裁判事の苦労を楽しんでいたように(本人がそう述べている)、私も簡裁判事の苦労を楽しむことができようか。

2011年12月15日

小説・医療裁判

著者   小林 洋二 、 出版   法学書院

 医療事故を扱った本ですから、すらすら読めて、分かりやすいとまではいきません。それでも、医療裁判がどうやって始まり、そこではどんなことが問題になるのか、裁判はどのように進行していき、そして終了するのかが、そこそこ分かりやすく、一緒に体験しているかのように語られています。その点は、初めて本を書いたとは思えないほどの著者の筆力に感嘆しました。
 新人弁護士が医療過誤と思われる件の相談を受けるシーンから始まります。当然のことながら、経験の乏しい弁護士は自信がなく先輩に応援を求めます。
 そこで登場するのが、医療問題研究会です。私も、実際、この研究会を利用させてもらっています。医師も参加している研究会のメンバーからの疑問・感想そしてコメントがとても実務に役立ちます。
 事件を受任してすすめるときには、この研究会の発行している「事件処理マニュアル」を活用しています。医師に責任があるかどうかは、その当時の医療水準との対比で決められます。相対的評価です。その点について、詳細な文献・調査が欠かせません。医療水準が日進月歩で変化しているのとあわせて、判例もどんどん進歩しています。
 さて、いよいよ裁判を起こすことになります。このときは、調査・交渉してきた弁護士2人に、もう一人加えて、3人で弁護団を組む。医療過誤事件を適切に処理するには、一定の経験と作業量が必要になるし、三人寄れば文殊の知恵ということわざに従う。
 医療過誤訴訟は早ければよいというものではない。迅速に負かされるのは、多くの場合、患者側である。
 医療過誤訴訟は、対等な立場の者の争いではない。相手は専門家であり、自分の立場を、その専門性で正当化しようとする。
 医療過誤訴訟で患者側が勝訴するのは30%台であったころより年々低下して、今では20%ほどにまで下がっている。
 この原因に「医療崩壊」キャンペーンが無関係だとは思えない。
日本の医師数は人口千人あたり2.1人。OECD諸国は3.1人。日本の国民医療費のGDPは8.1%、OECD平均の8.9%を大きく下回っている。それだけ医療にお金をかけていない。
 証拠調べのあったあと、裁判所は和解案を呈示しました。そして、和解は成立せずに判決に至ります。実に詳しく、裁判の実相が描かれています。これから医療過誤訴訟を扱ってみたいという若手弁護士にとっては格好の手引き書になると思います。続編が期待されます。シリーズでいきませんか・・・。
(2011年9月刊。1800円+税)

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