弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
司法
2024年10月 3日
憲法的刑事弁護
(霧山昴)
著者 木谷 明 ・ 趙 誠峰 ・ 吉田 京子 ・ 高山 巖 、 出版 日本評論社
弁護士高野隆の実践、をサブタイトルとする本です。日本を代表する刑事弁護の第一人者である高野隆弁護士の還暦記念論文集でもあります。
高野隆を一言で表すとすれば、物語力。依頼人が無実である物語をつくり上げ、裁判官と裁判員の前に送り出す。裁判は物語と物語の対決、事実認定者が証拠を見て描く物語を獲得できるかどうか。
高野隆は法廷のストーリーテラー。この本の末尾には高野隆の弁論集が紹介されている。しかし、高野隆の弁論は法廷にのみある。文字としての弁論は、いわば映画を見ずにシナリオを読んでいるようなもの。
まあ、それでも、弁論のキレの良さは伝わってきます。
高野隆は18頁もの弁論要旨を全文読み上げる。書いていないことも、その場でアドリブでしゃべる。
高野隆は被告人のために情熱的であり、雄弁である。高野隆は、被告人席に座っているこの人も、裁判官席に座るあなたと同じフツーの人間だと示すのか、弁護人としての最初の仕事だと信じている。
高野隆は国の権力、そして人を懲(こ)らしめたいという強い衝動をもつ者を信用していない。
高野隆は1982年に弁護士になり、1986年から翌1987年までアメリカに留学して、憲法、証拠法、刑事手続法を猛勉強した。高野隆や小川秀世らは1995年にミランダの会を立ち上げた。日本の被疑者取調べ手続を文明化し、黙秘権を確立することを目的とする会。
2008年、高野隆は、アメリカから講師を招いて法廷技術研修を開催した。
日本の裁判では、公判前整理手続で予定を決めてしまって、予定外の証人調べなどすることはほとんどない。しかし、アメリカの法廷は、もっとフレキシブルで、新しい証人の存在が分かったら尋問するし、もう1回あの証人を呼んで訊いてみようとなる。日本では考えられない。
日本の裁判では「嘘」や「正直さ」というのを極端に重要視している。
刑事裁判では「嘘」をついたかどうかがすごくクローズアップされることが多くて、日常生活ではありがちな「嘘」が、取り返しのつかない結果を生みかねない。これは本当に、そうなんですよね。弁護士生活50年の私も、「嘘」は致命傷になることがあると、いつも依頼人に言っています。
日本では、職業裁判官がずっと裁判をやってきたから、自分たちが万能の専門家だと思っている。供述・証言の専門家、心理の専門家、薬物犯罪の専門家、そして精神医学の専門家だと思い込んでいる。でも、彼らの「専門性」というのは、まったく専門性でもなんでもない。有罪の判決文を書くのに必要な証拠は何かという、小役人的な判断の積み重ねにすぎない。そこには法哲学や法政策的な思考も、本当の意味での体験も、職人の知恵もない。世の中に存在する本当の専門家の意見を聞くことは、小役人の生活にとって邪魔な夾雑(きょうざつ)物にすぎない。いやあ、たしかにそうなんですけどね...。
370頁もの本で、値段も張りますが大変勉強になりました。東京からの帰りの飛行機のなかで、乱気流にもめげず、必死に読み通しました。
(2017年7月刊。4200円+税)
2024年9月10日
袴田事件
(霧山昴)
著者 青柳 雄介 、 出版 文春新書
事件発生は1966年6月30日のこと。清水市にあった味噌製造会社の事務宅が放火され、焼け跡から一家4人の惨殺遺体が発見された。「犯人」として逮捕されたのは、従業員で元プロボクサーの袴田巌(30歳)。直接証拠は何もないまま死刑判決となり、1980年に死刑は確定した。それからすでに40年以上がたっている。死刑囚は確定したら数年のうちに処刑されることが多い。しかし、2014年3月27日、静岡地裁(村山浩昭裁判長)は再審の開始と同時に、死刑と拘置の執行停止を決めた。
「捜査機関が重要な証拠を捏造した疑いがあり、(袴田を)犯人と認めるには合理的な疑いが残る」
「拘置をこれ以上継続することは、耐え難いほど正義に反する状況にある」
袴田厳を取り調べしたときの状況が録音されていて、法廷で再現されました。それによると、長時間の取調べのなか、尿意を訴えても、便器を取調室に持ち込んでさせているのです。そして、取調官は袴田厳に対して、「お前、もうあきらめなさいよ。婆婆に未練をもつのはもうやめなさい。はっきり言ってね、あきらめなさい」と迫った。ひどいものです。
そして、「血染めのパジャマ」とされていますが、実際には、「肉眼で確認できないほどわずかなものだった」のです。そのうえ、袴田のズボンとされたものを袴田はいくら努力してもはくことができなかった。この現実に対して検察官は「袴田厳が太った」とか、強弁しています。 また、衣類に「鮮やかな赤み」が1年2ヶ月間も味噌につかっていたなんて信じられません。
まさしく警察によるデッチ上げ(冤罪事件)ということができる事件です。
袴田厳が福岡拘置所にいたのは19年間のうちに、十数人の死刑囚仲間が死刑へ消えていった。
現在、死刑囚として確定しているのは133人。うち70人が東京拘置にいる。
再審判決が迫っていますが、今度こそ、無罪判決を出してもらいたいものです。
(2024年8月刊。1100円+税)
2024年9月 3日
「挑戦と闘い」の軌跡、そして絆
(霧山昴)
著者 篠原義仁弁護士 、 出版 追悼集刊行委員会
篠原さんは私が50年前に弁護士になって入った事務所の先輩弁護士の一人です。もう一人、杉井厳一弁護士(故人)がいますが、私は、この二人には絶対に追いつき、追いこすことは不可能だと、たちまち悟りました。
篠原さんは、ともかく「口八丁、手八丁」の典型です。その手厳しい評言は、ときに言われた人の心を傷つけることもあったことでしょう。公害問題を扱う篠原さんは、自らが「口害」発生源でもあったのです。でもなぜか、その「口害」が私に向けられたことはありませんでした(ひょっとして、私が鈍感だったというだけのことかもしれません)。
篠原さんは、群馬県の安中(あんなか)公害を初め、川崎大気汚染公害をふくむ公害問題など、数多くの事件を扱い、公害弁護団をリードしていきました。そして、篠原さんは、自由法曹団で幹事長をつとめ、3.11のあとは団長に就任もしています。弁護士会のほうには役職についてはいません。ほかには「九条の会」でも岡田尚弁護士と一緒に活躍していますが、篠原団長のころ、自由法曹団は10年間で団員が500人も増え、2000人を超えました。
ところが、今では若手が入団せず、老年団員の死亡・脱退という自然減のなかで、絶対数が減少して、2000人を割り込んでいます(と思います)。
自由法曹団では70歳になった団員を古稀団員として表彰することになっていますが、ちょうど篠原さんは自分自身が対象となり、団長として自らを表彰するという事態になりました。
篠原さんは、弁護士になってからは「シャイで照れ屋を速射砲の毒舌で隠した」という佐伯剛弁護士の指摘はそのとおりだと私も思います。
そして篠原さんは、本人が古稀になったときの自己紹介で、小学生くらいまでは、言葉が出ないことを周囲が心配していたというのには、びっくり仰天してしまいました。人間って、変わるものなんですね...。
篠原さんは、2021年8月26日、まだコロナ禍の真最中に、77歳で亡くなりました。本当に残念です。そして、篠原さんが亡くなってもう3年もたつのかと思うと感無量です。
私が故郷に戻って10年目の記念パーティーを開いたときには、篠原さんはわざわざ川崎からやって来て祝辞を述べてもらいました。
本当にお世話になりました。ありがとうございました。いろんな人の思いがあふれている素晴らしい追悼集です。
(2024年2月刊。自費出版)
2024年8月 9日
三淵嘉子
(霧山昴)
著者 神野 潔 、 出版 日本能率協会マネジメントセンター
NHKの朝ドラ「虎に翼」は大好評のようですね。弁護士のFBにもこのドラムの意義がひんぱんに取りあげられています。世の中には、あまりにも理不尽なことが堂々とはびこっていますが寅子(とらちゃん、こと、ともこ)が「ハテ」と首をかしげて抗(あらが)う姿が共感を呼んでいるようです。
戦前、日本敗戦時まで日本の女性には参政権がありませんでした。なので、女性が弁護士になれなかったのも、ある意味、当然のことです。女性は一人前とは見られていなかったのですから...。
寅子たちが大学に入れたのも明治大学が受け入れたからです。そして、その次に司法科試験を女性も受験できるようになりました。
寅子(嘉子)が高等文官(高文)司法科試験を受験したのは1938(昭和13)年のこと。女性が受験できるようになったのは2年前の1936年でしたが、合格者はいませんでした。そして、この1938年に初めて3人の女性が司法科試験に合格したのです。
実は、私の亡父も法政大学の法文学部の学生として、5年前の1933(昭和8)年に司法科試験を受験しています。残念ながら合格できませんでした。この年、有名な民法の教授である川島武宜が合格しています。
父が受けた司法科試験って、どんなものだったのか気になって調べてみました。今はインターネットで国立国会図書館の蔵書にアクセスできて、コピーサービスも受けられます。本当に便利な世の中です。すると、「國家試験」という受験雑誌があることが判明しました。私の受験生のころの「受験新報」みたいなものです。試験問題も分かりましたし、試験スケジュールも判明しました。残念なのは試験会場が法務省の会議室らしいというくらいで、確定はできませんでした。
この年の合格者は240人ほどで、その前年は356人、翌年は331人で、なぜかこの年だけ少なかったのです。ただし、寅子のときも合格者242人と、ほぼ同数でした。
亡父の生前、司法科試験に合格したら、何になるつもりだったのか尋ねると、その答えは意外なことに検察官でした。
治安維持法があり、その目的遂行罪というとんでもない悪法・恣意的条文によって法廷で共産党員を弁護したら、それ自体が罪となり、弁護士が次に逮捕され、実刑になっていた時代でした。弁護士になっても、それこそ夢も希望もなかったのです。
寅子が弁護士になろうとした動機は、弱い女性を救うためではなく、困っている人間の力になるため。これには、まったく同感です。男も女も関係なく、困っている弱者の救済こそが法律家の任務です。
そして、寅子は女性だから家庭裁判所で働くという固定概念を打破しようとしたのです。これも、すごいことですよね、なんでも、ワンパターンで決めつけてはいけないのですよね。
(2024年3月刊。1550円+税)
2024年8月 4日
私の富嶽百景(Ⅲ)
(霧山昴)
著者 中野 直樹 、 出版 まちだ・さがみ総合法律事務所
神奈川県の弁護士である著者は無類の山歩き族。いったい、いつ弁護士の仕事をしているのかしらん、さては弁護士は片手間仕事でやってるな...、そう思いたくなります。
はてさて、今回は、主に富士山を各方面から撮った写真のオンパレードです。葛飾北斎の描く富士山も圧巻ですが、この本で紹介されている、富士山の写真も見る者を一気に気宇壮大にさせ、見ごたえがあります。
ともかく表紙の写真からすごいです。手前の湖には一羽の白鳥が悠々と泳いでいて、その向こうの富士山は早くも真っ白の雪化粧をしています。でも完全に真っ白ではありませんので、冬も間近になった晩秋なのでしょう。
「歩いて遊び、写して遊び、描いて遊ぶ」。表紙のサブタイトルにあります。歩いて、写真を撮るのは著者で、絵を描いているのは奥様(燿子様)のようです。
私は弁護士になる前、司法修習生のとき、青法協の現地見学会に参加して忍野(おしの)八海(はっかい)に行ったことがあります。自衛隊の広大な演習場に隣接した村です。もちろん、そこからも富士山が見えました。「逆さ富士」、つまり池(湖)に富士山がうつっているのです。
ダイヤモンド富士の見事な写真があります。正月1月5日の午前7時45分に、山頂の少しくぼんだあたりに太陽が顔を出して光り、輝くさまは、まさしくダイヤモンド富士の姿です。
山中湖では2月12日午後4時ころ、日没しようとするサンセット・ダイヤモンド富士の姿も撮っています。いずれ劣らぬ、幻惑的な美しさを感じます。
東京にも富士見町が各所にあります。江戸のころは、各所で富士山を拝んでいたのです。都庁舎の38階に東京都労働委員会の尋問室があるそうで、そこから夕焼けの丹沢山塊の向こうに富士山が見えます。知りませんでした。
著者は、この本を私に贈呈するときの手紙のなかで、私が蔵書をどのように「処分」しているかと問いかけていますので、回答します。最大の書庫は、かつて子ども部屋だったところです。びっしり本棚を並べて、アメリカ、ベトナム、中国、韓国そしてフランス、日本(戦前)というようにきちんと分類しています。これはモノカキである私にはとても役に立ちます。2階の書庫は、ピアノを置けるように基礎(土台)をしっかり造ってもらいました。ここには江戸時代と日本史関係を並べています。そして、法律事務所には法律関係です。
ときどき、あふれた本は自宅から事務所に持ってきて、引き取り手を求めます。誰も引き取ってくれない本は、不用本となって捨てます。私の読んだ本は、すべて私の蔵書印を押して、しかも赤エンピツで傍線を引っぱっていますので、「ブックオフ」のようなところには持ち込めません。それでも書庫には2~3万冊はきっとあることでしょう。
(2024年5月刊。非売品)
2024年7月 5日
四日目の裁判官
(霧山昴)
著者 加藤 新太郎 、 出版 岩波書店
この不思議なタイトルは、この本を読んで氷解しました。
裁判官になって良かったかと訊かれると、著者は、こう答える。
「裁判官はよい仕事で、3日やったら辞められない。でも、4日目には辞めたくなったりして...」
私は弁護士になったことを後悔したことは一度もありません。それどころか、天職と考えています。おかげで日本全国47都道府県、行ってないところがありません。そして、歴史に登場してくる遺跡もかなりのところに足を運ぶことが出来ました。本当にありがたいことです。
著者は裁判官40年、弁護士10年というキャリアです。「自由な精神空間を持つ仕事、それが裁判官」だとします。でも、私にはいささか違和感があります。その「自由」には、「権力からの自由」が含まれていると本当に言えるのでしょうか...。
沖縄の国と県の訴訟は、いつもいつも「国の勝ち」です。それこそ、まともな理由もなく、行政のやることに間違いはないという一刀両断。同じことは、安保法制違憲訴訟についても言えます。まともに証人調べをしない。せっかく学者証人を調べても、その証言を生かすことはない。残念ながら、そんな裁判官ばかりです。たまに良心を守っている(と思える)裁判官にあたると、ほっとしますが...。
青法協会員の裁判官を追放(「ブルーパージ」と呼ばれます)してから、気骨のある裁判官には滅多に出会えません。本当に悲しくなる現実です。
判決次第で、その後の経歴が左右されると裁判官が信じたら、委縮効果が及ぶ可能性がある。
著者は、これをまったくの誤解だと言いたいようです。でも、弁護士生活50年の私に言わせたら、決して誤解なんかではありません。厳然たる事実です。著者のような「主流」を歩いてきた裁判官には「見えない」のか、「自覚がない」だけのことだと私は思います。
私も、30億円というムダづかいをした地方自治体(市長)の責任を追及した住民訴訟で勝訴間違いなしとマスコミともども確信していたのに、敗訴判決をもらったことがあります。住民勝訴の判決を書いたときの反響の大きさに恐れをなして担当裁判官たちは住民を敗訴させたとしか思えませんでした。まあ、それが、至ってフツーの裁判官なんだと思います。
著者は、和解について、こう書いていますが、この点はまったく同感です。
裁判官が自ら案件を解決するという気迫を示せば、代理人・当事者もそれなりに意気を感じてくれる。そうなんです。裁判官が自分の心証を示して、これで解決したらどうかと言えば、かなりの確率で和解は成立するものです。ところが、自分の考えをはっきり言わないまま、「足して二で割る方式」の和解案を示す裁判官が、今も昔も少なくありません。
著者は司法研修所の教官そして事務局長をつとめていますが、その経歴を詳しくみると、高裁長官から最高裁判事という超エリートコースに乗っていたのではないようですね。この点は、裁判官の思考法を知る点でも、勉強になりました。すっかり誤解していました。
裁判官の思考法を知る点でも、勉強になりました。
(2024年4月刊。2300円+税)
2024年7月 4日
女性法律家
(霧山昴)
著者 三淵 嘉子 、 出版 有斐閣
1983(昭和58)年5月に刊行された本の復刻版です。もちろん、「虎に翼」(NHK朝ドラ)が好評なので、復刊されたのです。主人公のモデルとなった嘉子さんは紹介を割愛します。
時代を感じさせたのは1965(昭和40)年12月に東京は神田に発足した「婦人総合法律事務所」です。もちろん、今でも「婦人」という言葉は生きていますが、今や男女共同参画の時代ですから、「婦人」というより「女性」のほうが親しみもあって、使われやすいと私は思います。現に、福岡には「女性協同」事務所があります。
「婦人総合」は、女性弁護士6人で結成されました。女性だけの共同法律事務所は全国で初めてだったので新聞、ラジオ、テレビで紹介され、開所初日には数十人の相談者が押しかけてきたそうです。以来、17年間、6人の女性弁護士から成る事務所は存続したそうですが、その後は、どうなったのでしょうか...。
ここの相談料は開所当初は1時間2000円で、17年たった時点では7000円。土曜・日曜は休みの完全週休2日制。私も弁護士生活50年のうち、少なくとも初めの20年間は、土曜日も平日と同じように相談を受けて働いていました。20年以上前から、土曜日は完全に休みで、朝からフランス語の会話練習にあてています。そして午後は、映画をみたり本を読んだりして自由気ままに過ごします。大切にしている私の自由時間です。
女性弁護士は、どうしても家事事件を多く受任し、担当することになります。そして、この家事事件の当事者にはなかなか厄介な人物が少なくないのです。弁護士の側によほどの覚悟とストレス解消の技(わざ)を身につけておく必要があります。
私はいわゆる企業法務を扱ったことはありません。大会社であっても社長や法務担当者に個性の強い人(いわゆるアクの強い人)が少なくないと思うのですが、そんな人たちと少し距離を置いてつきあわないと、こちら(弁護側)の心身がもたないことになってしまうと思います。なにはともあれ、女性法曹が増えたのはいいことです。
この4月から日弁連の会長は女性ですが、ついに検事総長も女性がなるというニュースを先ほど聞きました。いったい、最高裁長官に女性がなるのは、いつのことでしょうか...。
なんだか、当分、実現しそうもありませんよね、残念ながら...。
(2024年6月刊。2300円+税)
2024年7月 2日
回想録
(霧山昴)
著者 山本 康幸 、 出版 弘文堂
内閣法制局長官から最高裁判事になった著者が自分の人生を振り返っています。
著者は団塊世代の生まれで、私より1学年だけ下になります。東大入試が中止になったので、京都大学に入ったという経歴です。息子は無事に東大法学部を卒業して、東京で大企業を扱うビジネスローヤーとして活躍中のようです。
著者の父親は銀行員だったので、転勤族とのこと。新しい学校に行くと、「おまえのしゃべるのはラジオの言葉だ、生意気だ」と、猛烈ないじめにあったそうです。神戸から敦賀に小学2年生のときに転校したときです。いじめのため待ち伏せされたりしたそうです。それで、通学路を毎日変えたり、相手の裏をかいて校舎にかけ込んだり...。あらゆる手練手管で必死に対抗。おかげで、不条理なものへの反発心、状況を読む力、作戦の構想力、忍耐力と交渉力を人並み以上に身につけた。
なーるほど、災いを転じて福としたのですね、立派です。
そして、こんな田舎での生活ではなくて、東京へ出て、もっと大きな世界で羽ばたこうと決意したのでした。
私も、いじめは受けていませんが、ぜひ東京に出てやろうと考えていました。東京に行ったら、大きく世界が広がるはずだと考えたのです。そして、それは、たしかにそうでした。
著者は幼年期に小児結核にかかったこともあって、外での運動ではなく、家にいて本を読む習慣が身についたとのこと。
私も小学生以来、ともかく本を読んできました。図書館には、よく行きました。
中学生のとき、印象深いのは、山岡壮八の『徳川家康』です。これは、本当に読みふけりました。高校生のときは、図書館で、古典文学体系、つまり古文の原書に体あたりしました。もちろん、注釈に頼っての読書です。それでも、原典にあたっていると、試験問題で断片が切り取られての設問でも、断然有利でした。中学3年生のとき、著者は名古屋市内で1クラス55人で、17クラスあったそうです。私は1クラス50人以上で13クラスあったと思います。1年生のときは増設されたプレハブ教室でした。
著者は名古屋の名門高校(県立旭丘高校)に入学して、中学生のときの丸暗記勉強法が通用しないことを自覚したとのこと。私は丸暗記勉強法というのは、やったことがありません。
高校では、数学、物理、化学が不得意だったそうです。私は、物理も化学も好きでしたが、数学が出来ませんでした。いちおう数Ⅲまでは勉強して分かったのですが、座標軸をつかったり、図形問題になると、思考できなくなるのです。「大学への数学」という雑誌も少しかじってみたのですが、私には数学的才能はないと自覚して、高校2年生の終わる春休みに理系志望を文系志望に変えました。そして長兄にならって東大文Ⅰ一本槍です。塾も予備校も行かず、Z会の通信添削だけでがんばりました。
著者は官僚の世界に入って、たちまち頭角をあらわします。私も官僚志向でしたが、官僚にならなくて本当に良かったと今では思っています。
この本には、著者の先輩の官僚が週に3時間しかとれなかったという話が紹介されています。私には絶対無理ですし、そんなことはしたくありません。私の同期の弁護士(五大事務所のパートナー弁護士になりました)も、同じような状況を経験したそうですが、これまた私は、ご免こうむります。
ただ、著者は、おかげで文章を書くのが早くなったし、仕事を片付けるコツを身につけたそうです。それは私と同じです。
いろいろ参考になることも多い本でした(子育てはマネできませんでしたが...)。
(2024年2月刊。3400円+税)
このコーナーで紹介した岩泉ヨーグルトを天神の「みちのくプラザ」で見つけて買ってきました。普通のヨーグルトと違って、まったく水っぽくありません。プリンほどではありませんが、ヨーグルトの固まりになっていて、食べると、コクがあって舌ざわりも滑らかです。
庭になっているブルーベリーと一緒に美味しくいただきました。腸内細菌を活性化させ、腸の調子が良くなった気がしました。
2024年6月12日
戦後憲法史と並走して
(霧山昴)
著者 樋口 陽一 、 出版 岩波書店
憲法学をかじった人ならだれでも知っている著者が自らの来し方を語った本です。なので、とても読みやすくなっていて、堅苦しさがありません。
東北大学を卒業し、東北大学で憲法学の教授をしていて、1980年に東京大学法学部に移りました。
東大での樋口ゼミは人気があったので、ゼミ生20人を選ぶのに「優」をとっていることのほか、「仏独2ヶ国語」をとっているのが条件だったとのこと。これにはまいりました。私は「優」もありませんでしたが、「仏独2ヶ国語」だなんて、とんでもない高いハードルです。それでもきっと、毎年、そのレベルの人がいたのでしょうね。さすが東大、恐るべしです。
ゼミは時間厳守。その心は、全員が学者になるわけじゃない。社会に出ていって必要なことは、自分の言いたい大事なことを、他人(ひと)の話を聞きながら頭に入れて、そして短い時間で人に伝えるということ。なので、時間が厳守すべきだ、ということです。なるほど、大事なことですね・・・。
私は本郷で民法を星野英一と平井宜雄の2人から教わりました。といっても25番か31番か、大教室で必死でノートを取ったというだけです。著者は民法の星野英一が、安倍・自民党の改憲策動に危機意識をもって、動こうとしていたというのです。驚きました。これは、同じく民法学の我妻栄が憲法問題研究会に加わり声を上げていたことにならったものと評しています。てっきり、官側の「御用学者」みたいに思っていた星野英一ですが、すっかり見直しました。
ちなみに、我妻栄は亡父が法政大学で講義を聴いていたと話していましたが、私自身もその「ダットサン」を6回読んで、民法をマスターしたつもりになりました。我妻栄は穂積重達とともに戦前の帝大セツルメントを最後まで支えた一人でもありました(私も戦後のセツラーの一人です)。
樋口憲法学の学問的特質は、主権と人権の間を橋渡ししたということで、これは革新的だったとのこと。主権を権力の実体とみるか、それとも正当性の所在とみるかの対立があった。国民主権の貫徹というかたちで主張されてきたところの実践的要求は、権力に対抗する人権という観念によっておこなうべきではないかというもの。
主権をもっぱら正当性の根拠に一元化した樋口説は、「国民主権の貫徹」という形で当時熱っぽく主張されていた実践的要求を引きとるべき受け皿として、ほかならぬ「人権」を選んだということ・・・。
なんやら、深遠な議論のようで、ちょっと私には正直なところついていけません。
井上ひさしと同級生だったというのも奇遇ですが、まだまだ元気でご活躍されることを心から祈念しています。
(2024年2月刊。2300円+税)
2024年5月31日
罪を犯した人々を支える
(霧山昴)
著者 藤原 正範 、 出版 岩波新書
著者は、家裁の調査官を28年間つとめ、大学で教員もしてきた「少年非行の専門家」。
そして、最近は、ひまを見つけて裁判所に出かけて法廷を傍聴しているのです。著者は、多くの人に刑事裁判の傍聴をすすめています。すすめている傍聴の対象は民事裁判ではありません。民事裁判だと、法廷での証人尋問はあまりありません。書類の交換の場と化している口頭弁論も、今ではインターネット上がほとんどですので、傍聴自体が出来ません。
刑事裁判だと、公開の法廷で進行しますし、ほとんどの事件では傍聴券が発行されることもなく、自由に傍聴できます。
数多くの裁判を傍聴した著者の感想の一つは、「今の裁判は、関係者が寄ってたかって被告人に恥をかかせ、人格を貶(おとし)めているようにしか見えない」というもの。弁護人として活動することのある私には、少し意外な感想です。
高齢男性に性欲が動機になる犯罪が少なくない。性犯罪を犯した少年より高齢者のほうが「要保護性」が高いように思われる。この指摘は、そうかもしれないと、私も思います。
刑事司法手続きの中に、人を大切にする気持ちを育(はぐく)む機能は内包されていない。したがって、更生とは、裁判の結果、送り込まれる刑事施設で自分を見つめ直し人間性を回復すること、というのはフィクションだ。この点は、私もまったく同じ考えです。
刑務所に入ったら、かなりの人が(決してすべてではありません)、悪いことを覚えてしまう危険があります。自覚して人間性を回復するようなことは、現実にはあまり期待できないと私は考えています。なので、実刑より執行猶予の判決のほうが、よほど本人の更生に役に立つことが多いというのが私の考えです。
「罪を犯す人」は、日本全国で1年間に600万人いる。ええっ、そんなにいるの...、と思ったら、なんと580万人は道路交通法違反です。一時停止違反とかスピード違反が含まれています。警察庁が起訴した人は年間8万人ほど。そして、裁判所で実刑判決を受けた人は1万6千人弱です。執行猶予の判決は3万人が受けています。
受刑者の罪名は窃盗と詐欺(万引と無銭飲食など)、そして覚せい剤取締法違反の三つで、男性の7割、女性の9割を占めている。
刑務所に収容される人の高齢化が進んでいる。男性で8%、女性で14%を占める。なので、刑務所では介護や認知症への対応に追われている実情にある。
国選弁護人の比率は地裁で85%、簡裁で92%を占める。私は被告人国選弁護士を30年前は月1件ほど受けていましたが、今では年に1.2件です。ただし、被疑者国選は2.3ヶ月に1件の割合で受任しています(今も)。
罰金が支払えないので、労役場(刑務所)に入る人が年間3千人近くいる。
弁護士が社会福祉士と連携して、「犯罪を犯した人」の社会での再出発を援助する制度が始まっています。まだ私は体験していませんが、社会福祉士の役割は司法の場でもますます大きくなっていると、最近つくづく実感しています。
(2024年4月刊。920円+税)