弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

司法

2021年4月21日

「弁護士の平成」(会報第30号)


(霧山昴)
著者 会報編集室 、 出版 福岡県弁護士会

 「合格者3000人」を日弁連が受け入れた経緯、そして、福岡県弁護士会は法曹人口問題について、どのような考え、取り組んできたのか、作間功弁護士の論稿は力作です。増員反対論者からすると、間違っている、とんでもないという非難を浴びるのでしょうが、福岡県弁は、足を地に着けて議論してきたこと、福岡出身の日弁連副会長も福岡の議論を受けて奮闘してきたこともよく分かる内容になっています。

福岡は法曹人口増に積極的
 「法曹人口について、日弁連が理事会、関連委員会等で議論を進める中、当会も常議員会をはじめとして様々な形で議論を行ったが、その基本的スタンスは、法曹人口増について各地の弁護士会では反対論・慎重論が相当数あったのに対し、一貫して『相当数の増員やむなし』というものであった。もちろん、当会の弁護士の中にも弁護士人口増に反対する者は一定数いたが、少数にとどまった。
 『三者協議』において法務省から『基本構想』として示された合格者数を回数制限付きの現状の500人から700人にする案(甲案、乙案、丙案)に関しても、当会は、人数については異論がなかった。700人以上でも構わないという意見も有力に主張された。
 当会が合格者増に賛成した理由は次のとおりである。①現在の検事不足は極めて深刻であるところ、合格者の増加によって任官者の増加が期待できる、②弁護士、裁判官についても国民の基本的人権の擁護と社会正義を実現するという使命を果たすうえで必要な人口が確保されているとは言えない、③弁護士が国民に対して未だ十分に身近な存在となりえていない、④裁判官不足による訴訟遅延、など」(168頁)

「法曹人口は不足」が共通認識
 「当会が法曹人口増に積極的にあったのは、当会の意見をリードする有力な会員の多くが、当時、当会の行っていた活動によって法曹人口は不足しているという共通認識をもつようになり、そうした意見が中堅・若手会員の間にも広がっていたからである。
 具体的には、第1に、当会が設置した法律相談センターの存在である。第2に、1990(平成2)年、大分県弁護士会とともに全国に先駆けて創設した当番弁護士制度である。逮捕・勾留された被疑者に接見に行く弁護士を毎日割り振らなければならないのだから、一定数の弁護士のいることが不可欠であった。当時の県下の弁護士数は443人。現在の3分の1である。さらに当初は、被疑者から要請があれば赴く制度であったが、やがて要請があって初めて赴くのではなく、新聞記事に載った刑事事件については全て弁護士が接見に行く必要があるのではないかという観点から、会が派遣要請を担当弁護士に行うものとする制度として構築し、一層多くの担当弁護士の確保が必要となっていった。
 弁護士過疎地解消の必要性を多くの会員が感じるようになり、そのためには弁護士数の増員が何よりも必要であるとの見解が当会内で共通認識となっていったのである。
 他の弁護士会の相当数が、弁護士増をもたらす法曹人口増は弁護士に経済的な痛手をもたらすということを最大の理由として反対するなか、当会の意見は視点を弁護士ではなく国民におく点で、その正当性は明らかであったと言うべきであった」(68~69頁)

日弁連における福岡県の存在感
 「こうした当会の認識は、当会出身の日弁連会長や同理事を通して日弁連にも影響を及ぼし、日弁連執行部内での意見をリード・後押ししていった。
 1994(平成6)年7月の日弁連理事会では、当会の国武会長兼日弁連理事は、当面漸次1000人まで増加させるべきであるという意見書を提出した。
 同年12月の日弁連臨時総会。総会に出席していた国武会長ほか当会の会員は、会員から提案された『800人』関連決議案につき、日弁連執行部提案の『改革案大綱』を骨抜きにするものとして、敢然と反対した。
 1995(平成7)年7月の日弁連理事会では日弁連執行部は、前年の関連決議の取扱いに苦慮していた。日弁連理事会の大勢は増員反対であった。こうした中、当会の福田玄祥会長兼日弁連理事と永尾廣久副会長兼日弁連理事は、法曹三者につき相当数増員させるよう努力すべきである、現行2年間の統一修習を前提に、当面5年間は毎年800人程度、2000(平成12)年度から1000人程度の修習を可能とするよう修習地の拡大、施設の充実等の準備に着手すべきである、等の意見を述べた。
 同年11月の日弁連臨時総会で土屋執行部は前年12月の臨時総会の『800人関連決議』の方針を変更し、1000人決議を提案した。同年8月頃、日弁連に政府の方から800人に固執した場合の行く末(弁護士自治・強制加入制度の見直し、弁護士法72条問題、等の議論の本格化)についての情報が入り、日弁連執行部が方針転換をした結果と言われている。当会の意見と同一の数字となったのである。臨時総会では、前年度の800人関連決議を是とする立場からの意見も強く出される中、当会の田邉宜克会員は、『法曹人口の増加は、司法改革を実現していくうえで最も必要な条件の一つであり、増員反対論は司法改革の流れに反する。成算のない玉砕論であってはならない』との意見を述べた。採決の結果、1000人とする執行部案が可決された」(69~70頁)

弁護士増がもたらしたもの
 「弁護士増は多くの弁護士に所得減少をもたらした。弁護士の経済的苦境を伝えるニュースに接した高校生やその家族は、・・・、弁護士になったとしても高い収入が得られる保証はない、となれば、多くの者は法学部に進学して、弁護士になろうという気持ちにはならないであろう。法曹志望者が減少した原因のひとつに、司法試験合格者増があると考えることは、間違いないよう思える。しかし、この点はさまざまな要因が重なっており、単純ではないというのも事実である」(76頁)
 「データを見る限り、弁護士が代理人に就任した事件数やその割合は、確実に増加したといえる。その限りで、『法の支配』が従前より広がったとは言いうる。
 また、2012(平成24)年に弁護士ゼロワン地区がいったんは、解消された。この点でも、『法の支配』は広がったと言いうる。弁護士ゼロワン地区がほぼ解消されたことは、国民にとってメリットであった」
 「事件数について言えば、劇的に増えているというわけではない。どのように考えたらいいのか」「・・・『人的基盤』が従前より格段に整備されたにもかかわらず、また審議会意見書で示された民事事件・行政事件改革にもかかわらず、事件数が増えていない点は、突き詰めれば『法の支配』が行き渡っていないということであり、大きな課題が残っていると言わねばならない」(78頁)

3000人増は妥当でなかったが・・・
 「3000人目標が妥当であったのか、法曹人口増のスピードはいかに、という問いに対しては、この目標が撤回されている以上、妥当ではなかった、ということになろう。しかし、これは結果論である。誰も当時適正な数字などわからなかったし、わかるはずもなかった。日弁連・弁護士会が自戒するとすれば、司法制度改革審議会の発足の前の1900年代に、穏便な法曹人口増について、国会議員、政府、労働団体、マスコミ、等々、すなわち国民の理解を得られなかったこと、および、その大きな要因は、大局的見地を欠き、弁護士エゴとして激しい批判に曝された1994(平成6)年12月の臨時総会における関連決議の採択にあり、日弁連に対する国民の不信を払拭し、弁護士自治等に対し、執拗に見直しを主張する外部からの協力な圧力に抗するために、日弁連が3000人を選択せざるを得ない状況を自ら作ってしまったことである。
 当会が1994(平成6)年の時点で合格者数を1000人まで増加させるべきであるという意見をまとめあげたのは、先見の明があったというべきである。今からみるとそれでもおとなしい数字であるが、当時の全国の弁護士会の動きからみると、当時の全国の弁護士会の動きからみると、圧倒的に少数であったなかでのその認識と決断は高く評価されるべきであり、その後の推移からすると、正しい判断であったと言える。惜しむらくは1994(平成6)年12月の日弁連
臨時総会関連決議を阻止できなかったことである」(79~80頁)

佐藤幸治氏と3000人
 前田豊弁護士が3000人の仕掛け人が佐藤幸治であったことを明らかにしている。
 「佐藤幸治氏が行政改革会議委員と司法制度改革審議会会長を兼ねたことはあまり知られていない。佐藤幸治氏は、行政改革会議の企画・制度問題小委員会主査であり、行政改革会議の最終報告の『行政改革の理念と目標』及び『内閣機能の強化』の起草者である。佐藤幸治氏は、行政改革会議の最終報告と司法制度改革審議会の意見書の両方を起草している。
 行政改革会議の最終報告と司法制度改革審議会の意見書に共通するキーワードは、『この国のかたち』、『公共性の空間』、『統治主体・統治客体』、『人権又は基本的人権』、『日本国憲法』、『法の支配』、『規制緩和』、『国際社会』などである。これは行政改革会議の最終報告と、司法制度改革審議会の意見書が共通のコンセプトによって書かれたことを示している。この点からも、行政改革会議の最終報告にもとづいて、司法制度改革審議会の意見書が書かれたことは明らかである」(85頁)
 「佐藤幸治氏が、司法制度改革審議会の初めから法曹人口は最低限3000人の合格者を送り出せるぐらいの体制を早急に作る必要があるとして審議会に臨んだことは広く知られていることではない。
 佐藤幸治氏は、3000人と合意形成することは、あらかじめ審議会の樋渡利次事務局長と相談し、橋本元総理はじめ行政改革以来のごく少数の関係者には集中審議で3000人を目指したいと伝えていた。そして、真議会でとにかく3000人を目指そう、そうならないと、あとの改革がおぼつかないから、ある意味では辞表をふところに入れて集中審議にのぞんだという。
 佐藤幸治氏は、青山善充東大副学長や中坊公平氏とともに司法試験合格者3000人の合意を形成させていったと考えられる。審議会の委員には合格者3000人を主張する委員は一人もいなかった。佐藤幸治氏は、合格者3000人の合意を形成するため、どのような方策をとったのだろうか。
 1999(平成11)年11月、司法試験制度改革協議会で合格者3000人を主張していた青山善充東大副学長を審議会に招いて、レクチャーを受けた。
 中坊公平氏は、同年4月、小渕内閣の内閣特別顧問に就任した。中坊公平氏は、同年8月、司法制度改革審議会における集中審議第一日目で合格者3000人を主張した」(86頁)
 弁護士会(日弁連)は、この3000人の流れに乗らざるをえなかったわけですが、それは作間弁護士が指摘しているとおり、マスコミ等の大合唱があったこと、弁護士自治・強制加入制度への強烈な揺さぶりがかけられていたことによるものです。弁護士会が主体的な判断のもとで3000人を選択した(できた)わけではなかったと思い返すことが無意味なこととは思えません。

2021年4月20日

地下アイドルの法律相談


(霧山昴)
著者 深井 剛志 、 出版 日本加除出版

私はテレビを見ませんし、コンサートに行くこともありませんので、アイドルなる存在とはまったく無縁です。なので、地下アイドルって、何のこと...、という感じです。
AKBが登場したあと、アイドルの活動はテレビからライブに移行し、握手会や物販など、ファンと直接交流する場での活動が中心になっている。
現代におけるアイドルの役割は、多くのファンに活力を与えてくれる、心のオアシスのようなもの。
著者がこれまで相談・依頼を受けたケースを通じて、アイドルと所属事務所との契約は、事務所側に有利な内容になっていることが多く、十分に生活を送れる条件で働くことのできるアイドルはとても少ない。
この本は、契約における不均衡を少しでも是正し、アイドルにとって働きやすい環境をつくるため、法的に契約内容の問題点を指摘している。
契約書では、給料の決め方が具体的に詳しく書かれていないことからトラブルになることが多い。また、アイドルの禁止事項と、それに違反したときに賠償金の額が問題になることもある。さらには、契約終了後、アイドルの移籍や芸能活動を禁止する条項があったりする。なので、契約書にサインする前に、よくよくチェックする必要がある。
そうなんですよね。アイドルとして一人前になろうとするのなら、契約書のチェックをあなたまかせにしてはいけません。
アイドルが未成年のときには、親(親権者)の同意をもらっておく必要がある。アイドルは事務所との業務委託契約を結ぶ。これは、会社員が勤務先の会社と結ぶ労働契約とは別。つまり、アイドルは、いわゆる労働者ではない。しかし、働き方の実態からアイドルが労働契約を結んでいると解されるときには、最低限の給料をもらう権利がある。
たとえば、アイドルが仕事が断ることができない、報酬の決定権限が事務所にあり、著作物の権利も事務所にあって、アイドルは副業禁止というときには、アイドルは労働者にあたり、最低賃金法による給料が保障されるとした判例がある。
アダルトビデオへの出演を強要されたモデルが拒絶したところ、事務所がモデルに損害賠償請求した裁判で、その拒絶は正当であって、違法ではないので、違約金を支払う義務はないとした判決がある。
アイドル志願の若い人にはぜひ読んでほしい本です。福岡で著者のサイン入りの本を購入しました。マンガで状況描写されていますので、とても分かりやすい本になっています。
(2020年7月刊。税込1760円)

2021年4月16日

ステップファミリー


(霧山昴)
著者 野沢 慎司、菊地 真理 、 出版 角川新書

子どもの親権をめぐる争いは、弁護士にとって、よくある事件の一つです。実際には、どちらの親が毎日、子どもの面倒をみているのかがポイントだと実感しています。
寂しい思いに駆られるのは、親が双方とも子どもを相手に押しつけようとするケースです。結局、子どもは施設に入ることになります。恐らく親は、どちらも面会しないのでしょう...。そんなケースにあたると、本当に残念です。
親の育児放棄から施設に入れられて育った人の依頼を受けたことがありますが、子ども時代の様子は語りたがりませんでした。やはり寂しかったようです。施設によるのだとは思うのですが、卒業したあとの子どもたち同士の交流はないということでした。なので、子ども同士の連帯感が育っていないようでした(これは決して一般論を言っているのではありません。あくまで私が話を聞いた人の話です)。
親の離婚を経験する子どもたちは、50年ほど前に比べて、格段に増えた。2018年の1年間に、21万人にのぼる。この子の親が再婚すると、「ステップファミリー」ができる。現代日本においても、もはやステップファミリーは珍しい家族ではなくなっている。現代は、いつ、誰がステップファミリーの一員になっても不思議ではない時代だ。
ステップファミリーを、両親とその子どもから成る単純な核家族と「同じ」ものとみる視線が日本社会全体に蔓延(まんえん)している。本当に、それでよいのだろうか...。
慣れ親しんだ生活のルールから切り離され、新たなルール制定者である見知らぬ「父親」との生活が始まったとき、子どもがそれまでの母や祖母と同等の親として「父親」を認めることに抵抗を感じ、反発したとしても不思議なことではないのではないか...。
これに対して、「父親」は、「娘」の反抗的な態度に直面して、自分の理想やプライドが大きく傷ついたかもしれない...。
子どもにとって、「親」だと思っている人に入れ替わって、別の大人がいきなり「親」として振る舞いはじめたとしたら、子どもにとって適応困難であり、理不尽な苦しみをもたらすことになる。そのうえ、ずっと一緒に暮らしてきて便りにしてきた血縁の親が、この理不尽さを理解してくれず、そこから助けてくれないとしたら、子どもは追い詰められ、絶望的な心境に陥ってしまう。なーるほど、ですね。よく分かるシチュエーションです。
日本は、この半世紀のうちに、結婚が離婚に至るリスクの高い社会へ変貌し、今もそのリスクは高止まりしている。
離婚する夫婦の6割に子どもがいる。再婚は、もはや珍しくはない。
明治以前は、長続きする結婚が少なかった。明治より前は、結婚や離婚は、きわめてプライベートな問題であり、政府も宗教も関わっていなかった。江戸時代の日本は、離婚も再婚も珍しくない社会だった。明治から、離婚・再婚が社会的に抑圧されるようになった。
この本にも『須恵村の女たち』が紹介されています。このコーナーでも先に紹介した本ですが、この本を読んで、私の目が開かれました。江戸時代までの日本女性は「モノ言わぬ妻」なんてものではなかったのです。『女大学』は、実態の「行き過ぎ」(男にとって)を少しブレーキをかけようとしただけの本でしかありません。江戸時代に『女大学』のような現実があったなんていうのは、まったく事実に反しています。
「親権」というコトバ時代が時代遅れ。これは、父が家族の財産を管理・支配していた時代の名残(なごり)にすぎない。なるほど、もっともです。
子どもが親を失わない権利をもつという、発想の転換が必要だ。そのとおりです...。
実父と継父は、互いに競合するものではなく、それぞれ別の存在だ。なので、子どもはどちらかだけを「親」として決める必要はない。なにより子どもが安心感・信頼感をもって生活していくにはどうしたらよいか、これを優先させるべきだという著者の指摘には、まったく同感です。
離婚後の共同親権の実現を急げと著者は強調しています。そのとおりなのでしょうね。考えさせられることの多い、いい本でした。
(2021年1月刊。税込990円)

2021年4月14日

「弁護士の平成(会報30号)」


(霧山昴)
著者 会報編集室 、 出版 福岡県弁護士会

福岡県弁護士会の会報30号が発刊されました。A4サイズで470頁もある大作ですので、なかなか手にとって読んでみようという気にならないかもしれませんので、読みどころを少し紹介します。今回は、民事裁判の現状と克服の方向です。

民事裁判の現状...座談会
第3部の座談会で民事裁判の実情が紹介されています。裁判官が記録を読んでいないのではないか、また積極的に争点整理をしてくれないという不満の声があがっています。
「松本 裁判官が最初から決め打ちしているというケース、これはこういうもんなんだよという感じで、争点整理そのものに行き着かない。争点整理もいいのだけど、主張立証責任の所在で困るところがいっぱいあった。どちらがどのレベルで立証できるのかを深めてやれば、事件はもっと単純に解決できるのではないでしょうか。主張書面もさることながら、それに付随して出す陳述書がやたら攻撃的になっていって和解の機運を失う、裁判所もそれを見ていながら何もしないということがあります。
 神田 争点整理に行き着く前の段階で、そもそも裁判官が記録を読んでいないのではないかなと思うことがあります。そういう裁判官は争点整理を積極的にやってくれないという印象です。また、争点整理自体ではありませんが、弁論や弁論準備の期日に依頼者が同席するケースもあります。期日で、裁判官が記録を確認していなかったり、提出された書面を見ていないということが依頼者に分かってしまうと、その後に和解案が出されたとしても、依頼者が担当裁判官を信頼できず、和解案にも納得してもらえないことになります。和解案自体は妥当なのに、争点整理の前提自体がどうなのかなと思う事件がありました。
・・・・
 小倉 相手側代理人が、こちらの書面の枝葉末節に噛みついて、何が争点なのかぼやけてきて、裁判官もまとめきれなくなり、事件は漂流するケースがありました。積極的に争点整理しましょうと言う裁判官は、小倉支部ではそう多くない印象です。記録を読んでいないのではないかと強く疑われる裁判官も実際にいます。争点整理がされないまま、双方が   自由に主張を出し合って、判決を受け取った段階で初めて『えっ、ここが争点だったの』という判決もありました。私は初めて控訴状で『争点整理の仕方が間違っている』と控訴理由に書きました。高裁の裁判官から『違うのですか』と訊かれて『絶対違います』と返答しましたが、思い込みも含めて勝手に争点整理されると怖いです」(354頁)

裁判官が記録を読んでいないのではないかと当事者が不信感をもったら、まとまる話もまとまらなくなります。また、裁判官が積極的にリードしてくれなかったので、当事者間の感情的対立が高まって困ったという話も出ています。

「染谷 裁判所側の問題としては、個々の裁判官の資質かもしれませんが、明らかに記録を読み込んでいない様子で、何となく期日を重ねて当事者に主張させたあと、それぞれの主張を足して二で割ったような和解案をポンと出して、『あとは当事者でやってください』という対応があります。これは争点整理の仕方がまずかったというよりは、そもそも争点整理がされていないという問題である気もします。争点整理に取り組む認識のある代理人や裁判所に当たったときには、争点整理自体が問題だなと感じたことはありません。
 石本 相続関係の民事訴訟でしたが、相手方代理人の訴訟活動で困った点として、要件事実ではないいわゆる事情(親族間の長年にわたる恨みつらみ)を厖大に主張された結果、結論に影響しない対立点が増えてしまったことがありました。そして、裁判所の訴訟指導で困った点として、要件事実との関連性を確認することなく、『では、反論を』と放置されたことがありました。その結果、争点整理がどんどん漂流してしまうとともに、当事者間の感情的対立が高まって、和解の機運を逃してしまったことがありました」(353頁)

 7割の事件で、争点整理によって裁判官は心証をとっているのではないか、この後藤裕弁護士の問いかけに対しては肯定的な反応です。
 「後藤 『争点整理で7割決まる』というのが、全体の7割ぐらいの事件では裁判所の心証が争点整理の段階でほぼ決まっているという意味ではどうでしょうか。
  染谷 私も『争点整理で7割決まる』というのは、実感とそう離れていません。多くの裁判官もだいたい証人尋問前にはほとんど心証が固まっていて、よほどのことがないと尋問結果で心証が変わることはない、と色々なところで聴きます。もっと言えば、これは私の勝手な印象ですが、訴訟と答弁書の段階でかなり心証を取っているのではないかと感じます。
  裁判官としても最初に出てくる訴状と答弁書、それの裏付けとして出されている基本証書と呼ばれるもの、その内容を見れば大体この事件はどういう事件なのか概要をつかんで、この事件はこういう心理の仕方、これはどう頑張っても判決の事件だ、あるいはこれがどこかで和解はできるかもしれない、そこまでシビアにやらなくて良いかもしれないと、方向性を決めてやるのではないかという印象を持っています。もちろんその後の主張、立証によって心証が変わることもあるとは思うのですが、ファーストインプレッションという言葉があるように、第一印象、最初に持たれた事件の印象を後から大きく覆すのはかなり難しいと感じます。
   石本 私も同じ感覚です。人証で結論が決まるような事案だと、そもそも訴訟を回避して何とか交渉でまとめることも一定数あると思うので、証拠調べ前に7割方心証が固まるのは、おかしなことではないと思います。
   小倉 たまに争点整理しても結論が分からない、悩ましいという裁判官もいます」(361頁)

裁判利用者の18%しか満足していない
 民事裁判の現状については、次のように紹介されています(214頁)
   「本人尋問や証人尋問をしない裁判が薬3000件増え、検証と鑑定は10年間で約3分の1に激減している。
第2に、訴訟代理人から、『裁判所が証人調べをしない、強引な和解がある、判決の理由が乏しくなっている、高裁の1回結審が増えている』などの不満が出ている(東京弁護士会の1997(平成9)年の調査)。また、第1回期日について被告代理人の変更申請を認めず、原告とだけで裁判をするという例が増えている。
第3に、裁判利用者で今の訴訟制度に満足した人は、わずか18%しかいない』。
集中審理、陳述書の活用はいいとしても、陳述書に本来ありえないはずの事実上の証拠力が認められることがあるのが実情であり、これは弊害と言うほかない。
判決に事実認定の緻密さが欠けてきているという批判を裁判官経験者がしている。『紛争発生後に当事者等が作成する陳述書は、当事者側のストーリーが入りがちで、紛争発生前から存在する客観的証拠との照合が欠かせないが、紛争発生前から存在する証拠はしばしば断片的であるため、客観的であるにもかかわらず、無視されがちである』
また、急ぐあまり審理の適正・充実がおろそかにされていないか。高裁での1回結審の原則的運用には当事者双方から大きな不満の声があがっている。
『日本の裁判官は、事件を早く終わらせたいのか、事実発見、真相究明よりも、効率的且つ迅速な裁判遂行を優先させ、人証の採用に消極的で、人数を制限するだけでなく、主尋問、反対尋問の時間まで制限する。じっくり時間をかけて、重要証人の尋問を聞こうとする耳を持たず、その意欲もなければ、余裕も全くない』という指摘は悲しいかな、今なお日本の裁判官の現状ではないか」(214頁)

裁判官おまかせ主義の弁護士
 ところが、裁判所の側から弁護士の訴訟活動について手厳しい批判の声があることも紹介されています。「裁判所依存」、「裁判官おまかせ主義」の弁護士の存在です。
   「弁護士任官で裁判官になった田川和幸弁護士は法廷の裁判官席からみた弁護士の実情を次のように手厳しく批判した。
   『現実の法廷では、ほとんど証拠の収集をせず、本人尋問だけに頼る弁護士が少なくないので、閉口してしまう。ろくに訴訟準備もしない、適切な主張もしない、ちゃんとした尋問もしない』
   『弁護士が、いい加減に主張立証しただけで、その役割をすませたような顔をされているのをみると、腹立たしくなる。しかも、若い弁護士にこのような方が少なくない。未熟さ故というには、あまりに熱意が窺われず、無責任さばかり感じられて、依頼者が可哀想に思えてしまうこともある。同様な弁護士が増えていくと、裁判所に寄せる国民の期待を裏切ることになると、大上段に構えたくなるが、かかる弁護士が自由競争で淘汰されるのを待つしかないのであろうか。弁護士の倫理の高揚と弁護士会の研修に期待するところが大きい』
   『弁護士の訴訟における裁判所依存である。みずから適正な訴訟活動をしないで、真実を発見して判決したいと考えている裁判官の思いに乗っかって、報酬を稼ぐ弁護士。判事室では、この種の弁護士の話が満ち溢れている』
   『裁判所依存、さらにステレオ・タイプ化して言うと、「裁判官おまかせ主義」の弁護士の数が少なくないことに驚いた。そのような弁護士には、弁護士会が倫理性と研鑽を求める必要がある』
   これはなかなか耳の痛い批判であり、弁護士はこのようなことを言われないよう主体性をもて不断に研鑽に務める必要がある」(218頁)

現状を克服するには...
 現状をそのままにしておくわけにはいきません。心ある人はともかく声をあげ、気がついたところから実践していくしかありません。
   「ながく裁判官をつとめ、弁護士8年目の金馬健二弁護士は医療関係訴訟において弁護士のほうで積極的に働きかけ、裁判官を育てるつもりで審理を動かしていくことをすすめている。
    『裁判官が記録をきちっと読んで、身を乗り出して当事者の言い分に耳を傾け、洞察力をもって、事案を的確に把握し、できるだけ当事者に負担をかけないような合理的審理を図り、解明すべき点についての必要十分な資料の提出を当事者双方に平衡に配慮して促し、適時の和解勧告をして公正な解決を図り、鑑定が必要な場合でも鑑定人に丸投げせず、自らの判断の補助(本来の鑑定)とするように工夫を凝らし、また、直接的な証拠の中身に拘泥せず、自らの頭で洞察力を働かせて推理し、的確な推認による批判に耐えうる事実認定をする方向で、謙虚に審理を進めてくれれば、医療関係訴訟は迅速適正な解決に向かいます。しかし、そのような審理のできる裁判官は少ないことが分かってきました。そうであるなら、訴訟進行を裁判官に委ねることなく、当事者の方でイニシアチブをとって、裁判官を育てるつもりで、裁判官に積極的に働きかけ、私たちが求める方向に審理を動かしてゆくしかないとの思いを強くしています』」(218頁)

 ぜひ、会報30号の現物にチャレンジしてみてください。得られるものは、きっと大きいはずです。
 

2021年4月 7日

お気の毒な弁護士


(霧山昴)
著者 山浦 善樹 、 出版 弘文堂

いやあ大変勉強になりました。これから弁護士になろうと思っている若い人にぜひ読んでもらいたいものだと思います。
お金は、あると役には立つが、人生の目標はお金ではない。お金を目標として生きるのではなく、金銭は一つの道具にすぎない。だから弁護士にとっては、法律だけでなく、目の前にいる依頼者がもっている夢や希望、好きな人との約束が実現するよう応援し、また他人には理解されないかもしれない心の隙間を理解し、一緒になって新しい生き方を探るという姿勢をもち続けることが大切。それがマチ弁の仕事。
そうなんです。著者はマチ弁として、弁護士1人、事務員1人の法律事務所を営んできて、最高裁判所の判事になり、定年退官したあと、また元の事務所を再開してマチ弁に戻ったのでした。
事件の依頼を受けたら、現場には必ず行き、依頼者の自宅や店舗を訪問する。そして、依頼者から、事件以外の昔話やムダ話を聞く。依頼者は最良の証拠であり、現場や依頼者の記憶には、必ず痕跡が残っている。著者が事実を徹底して調べ尽くし、また、依頼者(相手方のときも)とじっくり何度も話し込んでいって解決した話は、まさしく感動的です。
都心の巨大法律事務所のパートナーになり、何人もの弁護士を雇った、多額の収入があったということを自慢するより、地域の人々から頼りにされた、依頼を得たと子や孫たちが誇りに思うような生き方を選ぶ。
著者の言葉に、マチ弁ならぬ田舎弁の私は強く共感します。
法律事務所の損益基準は1件決算とか1年決算ではない。「人生」そのものを期間損益の単位としている。
いやはや、まったく同感です。著者は20年前の事件の依頼者が再訪してくれる喜びを紹介していますが、私も同じです。
口コミの威力はすごい。生涯を一会計年度として考えるべき...。
恒産が必要か否か...。恒産がないと弁護士業はできないというのであれば、金持ちしか弁護士にはなれないし、やっていけないことになる。やっぱり、そうではありませんよね。
著者は、酒も飲まない、ゴルフもやめた。自宅は雨露をしのぐ程度のもの(木造2階建て、敷地28坪)。お昼はコンビニ弁当かサンドウィッチ、ネクタイは1000円程度の安物。住宅ローン、学費ローンもあった...。
それでも多くの依頼者に恵まれ、「マイ・クライアント」がいて、その仲間たちが「恒産」だ。
なにしろ最高裁判事になるとき、手持ち金があまりないので、裁判所に「支度金」を求めて、担当者が絶句した...というのです。恐れ入ります。
父親は日雇労働者(にこよん。日給240円)、母親は内職。そして、質屋通いの生活。ゴミ捨て場に行ってくず鉄を拾って換金してあんパンを手に入れて空腹をみたす生活。いやあ、これにはまいりましたね。私は、小売酒屋の息子として育ちましたので、こずかいこそもらえず、紙芝居を間近で見ることができない寂しさはありましたが、ゴミ捨て場でくず鉄拾いするほどの貧しさは体験していません。
そして、著者は中学を卒業したら、就職するつもりだったのです。信用金庫に入るつもりでそろばん2級をとっています。ところが、担任の教師が、高校には奨学金制度があるからと言って、親を説得して高校に進学できたのです。教師はありがたいものでよす。
高校では新聞班に入り、また、英字新聞を定期購読したとのこと。親が偉いですね。そして、対人関係がうまくやれないことを自覚し、それを克服すべく生徒会長に立候補。
私も高校では生徒会長をつとめました。休み時間にタスキがけで立候補の挨拶をして3学年の全クラスをまわったことを覚えています。そのころは、それが当然でした。
そして、ついに一橋大学の法学部に進学。大学ではベトナム反戦運動とアルバイトに明け暮れていたそうです。築地魚市場そして立川の米軍基地で社会の実相をじっくり体験。
私もベトナム反戦の集会とデモには何十回となく参加しました。あとは、セツルメント活動に没頭する日々です。いえ、もちろんアルバイトもしました。家庭教師、オカムラ家具の搬出入、そして、ぬいぐるみで格闘。
著者は宝生流の能もサークルで演じています。そんな余裕もあったのですね...。
そして、卒業論文を書いたとのこと。これには驚きました。私は卒論なんて書いていませんし、考えたこともありません。私はゼミにも所属していませんので、東大教授と新しく話したことは大学生のとき1度もありません。遠くから仰ぎ見るだけの壇上の人でした。
著者は三菱銀行に入社したものの、たちまち後悔して、すぐに退社。
このとき、奥様から、「いい加減にしなさい。ぐずぐず言うあんた、嫌いよ」と叱られ、「そんなとこ、もう辞めなさい。私が食わしてやるから」と言われたといいます。すごい奥様(高校の同級生)です。そして妻の「ひも」になって、猛勉強して、1年で合格したというのです。
その受験生活がすさまじい。6畳1間のアパート。妻は昼間は薬剤師の仕事に出かける。一日中、そのアパートで勉強。朝8時から夜中の2時まで。エアコンがないので、お尻はあせもで真っ赤っか。座るのも辛いほど。家を出るのは1週間に1日だけ近くの銭湯に行く。そして月に2回、本屋に「ジュリスト」を買いに行く。そして、真法会の答練を郵便で送る。それだけ...。いやはや、これは、すごい。すごすぎます。私も、『司法試験』(花伝社)に自分の受験生活を描きましたが、寮生活でしたので、もう少し、うるおいがありました(女っ気は、ほとんどありませんでしたが...)。著者は、そんな猛勉強の甲斐あって、上位1割に入っていたとのこと。私のほうは、辛うじて「2桁」でした。
論文試験のとき、細字と太字の2本の万年筆を使用できて、答案で差をつけたとのこと。ええっ、そ、そんなことが許されていたのですか...。知りませんでした(今では禁止)。
司法試験に合格したことを報告に、郷里のお世話になったお寺に行くと、そこの和尚から「それは、お気の毒に...」と言われたといいます。この本のタイトルですが、今なお私には、よく分からない禅問答です。
司法修習生のとき、教官に「勝つな負けるな、ほどほどに」と言われ、そのときは理解できなかったとあります。しかし、私も、今では、本気でそう考えています。一般民事事件では、勝ちすぎるのは、あまり良いことではないのが大半だと考えています。「ほどほど」にしないと相手方に恨みが残って、よくないのです。
著者は最高裁の判事として再婚禁止100日間の期間事件と夫婦同氏強制違憲訴訟に関与して、それこそマチ弁の感覚を生かしたとのこと。再婚事件は13対2、夫婦同氏事件では10対5と、15人の最高裁判事の意見が分かれた。
裁判官は法律にしたがって事件を審理しているようにみえるが、その根底にあるのは裁判官の人生観や価値観。
これもまた、まったく同感です。その人生観・価値観が薄っぺらになりすぎている裁判官があまりに多い、多すぎるのが現状で、その点が残念でなりません。
ただ、その点について、著者は、若い人たちに指導する側のマインド、指導力に問題があるのではないかと、耳の痛い指摘もしています。
450頁もの大部の本です。実は、読む前は、タイトルもピンと来ないし、どうなのかな...と思っていたのです。朝7時の電車に乗って、読みはじめると、たちまち惹きつけられ、午前中のフランス語教室のあと昼食をとりながら、また、コーヒーを飲みながら、ずっと読み続けて午後3時に読了しました。まったく面識はありませんが、同期(26期)で最高裁判事になった人なので読んでおこうかなという軽い気持ちでしたが、ずんずんと来る手応えがありました。
少し高価ですが、改めて若い人にぜひ読んでほしいと繰り返します。
(2021年3月刊。税込3850円)

2021年3月31日

日米安保と砂川判決の黒い霧


(霧山昴)
著者 吉田 敏浩 、 出版 彩流社

1959年(昭和34年)12月16日、砂川事件の最高裁判決はおぞましいほどの汚辱(おじょく)にまみれていて、先例とすべきものでないことが、今では明らかです。
というのは、当時の最高裁長官であった田中耕太郎(意識的に呼び捨てにしています。まさしく唾棄(だき)すべき男です。最高裁長官のあと、アメリカの全面的支持を得て、国際司法裁判所判事にまでなっています)が、アメリカ大使と密談して裁判の内情を何回も具体的に報告し、その指示を受け、激励されていたという驚くべき事実がアメリカ側の公文書によって明らかにされたからです。
砂川事件最高裁判決は、アメリカ政府による露骨な内政干渉があり、田中耕太郎は売国奴よろしく裁判情報を漏洩していた。まさしく違法・不正な行為があっていた。このことは、アメリカ国立公文書館にあった公文書が、秘密指定解除によって公開されたことで具体的に裏付けられている。
砂川事件というのは、1957年7月8日に起きたもの。アメリカ軍の立川基地の拡張に反対する運動に関与した7人の労働者・学生が起訴された。この砂川事件について、1959年3月30日、東京地裁(伊達秋雄裁判長)が、アメリカ軍の駐留は憲法違反なので、そのための刑特法は無効なので、被告人は無罪と判決した。予想外の判決に驚いたアメリカ政府はマッカーサー大使を通じて、藤山愛一郎外相に圧力をかけて、最高裁への跳躍上告をうながした。このことも、アメリカ政府側の公文書に記録されている。
さらに、マッカーサー大使は、田中耕太郎とも会って、密談を重ねた。その内容は具体的かつ詳細であり、単なる儀礼上の挨拶なんかではないし、抽象的なものでもない。
「本件は優先権が与えられている」
「判決は、おそらく12月だろう」
「争点は事実問題ではなく、法的問題に閉じ込める決心を固めている」
「口頭弁論は、1週につき2回、午前と午後に開廷して、3週間で終えると確信している」
「できれば、裁判官全員が一致して、適切で現実的な基盤に立って事件に取り組むこと」
田中耕太郎は、裁判の事実上の一方当事者であるアメリカ政府を代表するアメリカ大使に対して、判決の内容と判決事件をこっそり会って伝えていたのです。とても信じられませんが、これは証拠のある明らかな事実なのです。
もちろん、裁判所法は、裁判官に対して評議の秘密を守れと定めています。こんなことが判明したら、国会にある弾劾裁判所で、田中耕太郎は直ちに罷免されていたはずです。
こんなトンデモ判決で有罪にされた被告人はたまりませんよね。もちろん、真相がはっきりしたあとで、再審請求をしたのです。ところが、東京地裁(田辺三保子裁判長)は、再審請求を認めませんでした。なぜか...。田中耕太郎がアメリカ大使と面談した事実はさすがに否認できません。そこで、裁判所は最高裁長官とアメリカ大使の面談は、国際礼譲であって、田中耕太郎の言動は「裁判に関する一般論・抽象論にとどまり、評議の秘密の漏洩にはあたら」ないとした。これが東京地裁の判決です。
東京地裁判決の論理でいうと、裁判の見通しや時期、それに至る話はすべて「裁判に関する一般論・抽象論にとどまり、評議の秘密の漏洩にあたらない」というのです。
それが正しいのだったら、最高裁は、法の解釈指針として、「裁判に関する一般論・抽象論」は自由に語っていいことを裁判官と裁判員になった人々にきちんと伝えるべきです。
ところで、誰が考えたって、判決の見通しや評議の具体的状況を第三者に伝えたことが一般論かつ抽象論だとは思えません。要するに、再審請求は、理論の問題以前の、勇気の欠けた裁判官にあたってしまったのです。
アベ前首相は、この砂川事件の最高裁判決を口実として最大限利用して集団的自衛権を根拠づけようとしました。しかし、砂川事件では日本国内にあるアメリカ軍基地の存在こそ問題となりましたが、そこには集団的自衛権の話はまったくでてきません。アベ政権は、根拠なく「こじつけ」をしただけなのです。
いやあ、それにしても、東京地裁の一般論・抽象論を述べただけ」とか、「評議の秘密が漏洩したとはいえない」という判決には腰を抜かしてしまうほど驚きました。田中耕太郎もひどいけれど、こんな判決を恥ずかし気もなく、よくも書けたものです。読んでるこちらのほうが恥ずかしくなります。
田中耕太郎(故人です)は司法界から完全に抹殺すべきです。それをかばう裁判官もまた同類とみなすしかありません。残念ですが...。
(2020年10月刊。税込1650円)

2021年3月25日

大崎事件と私


(霧山昴)
著者 鴨志田 祐美 、 出版 LABO

大崎事件の最高裁決定には唖然としました。著者がFBに「この国の司法は死にました」と書いた気持ちは本当によく分かります。それは私の実感でもあります。
これはもう、死んでアヤ子さんにお詫びするしかない。
著者の当日の心境です。そして、本当にそれを実行に移そうとしたのです。ホテルの20階(フロントがある)でエレベーターを降りて、飛び降り場所を探そうとしたとき、知人(著者いわく「下の姉」)が待ちかまえていて、ロビーで抱きあい、声を上げて泣いたのでした。そして、ここで死んでいる場合ではない、と正気を取り戻したのです。それほどの衝撃を与えた愚かな小池裕決定(ほかに山口厚という高名な刑法学者もいます。その名に恥じるべきでしょう。そして民事法では「権威」の深山卓也もいます。恥ずかしい限りです。ほかには池上政幸と木澤克之。この5人が全員一致で出した史上最低のバカげた決定)でした。
日本の最高裁とは、何をするところなのか。今の最高裁は、「権力を守る最後の砦」になっている。まことに同感です。著者は、こんなバカげた最高裁の小池決定について、あとあと、「思えば、あの決定が日本の再審制度を変えるきっかけとなったんだよね」、笑いながらそう語ることのできる世の中にしたいと言っています。まったく同感です。
小池決定は、再審開始を認めた冨田敦史決定(鹿児島地裁)、根本渉決定(福岡高裁宮崎支部)について、「これらを取り消さなければ著しく正義に反するものと認められる」とした。まさしく、聞いて呆れます。開いた口がふさがらないとは、このことです。
小池裕ら5人の裁判官たちは、現場を見ることなく、関係者を尋問することもなく、ただただ書面のみをもって、事実認定をしたのです。
「犯人としてはアヤ子ら一家以外の者は想定し難い」、「共犯者や目撃供述は、相互に支えあい、客観的状況等からの推認にも支えられており、同人らの知的能力や供述の変遷を考慮しても、信用性は相応に強固なものといえる」とした。
「共犯者」とされた人たちは、いずれも知的障がいをもっていたことから、その「自白」の信用性が否定されていたのに、小池決定はそれを無視した。まさに「神の目」で見通したというわけ。いやはや、とんだ「刑法学者」(山口厚)たちです...。
高度救急医療センター長である澤野誠教授による、被害者の死因についての説明は説得力があります。すなわち、被害者は側溝に転落して頭髄にダメージを受け、道路に寝かされて低体温症になって腸に血液が供給されずに腸管壊死、腸壁大出血を起こしていた。それを単なる酔っ払いと勘違いした近所の人たちが軽トラックの荷台に被害者を載せて自宅まで搬送したので死に至った...。
なーるほど、医学的な素人としても、よくよく理解できる状況説明です。つまり、事故が起きたのであって、殺人事件ではなかったのです。
最高裁の小池判事たちは、事実認定なんて簡単なものという傲慢な態度をとらず、もう少し謙虚になって、自分たちの疑問点を提示して事実解明をさらにすすめるべく、せめて原審に差し戻すべきだったことは明らかです。うぬぼれが過ぎました。刑法学者と民事と刑事の実務家たちが、過去の業績を鼻にかけてした間違いの典型だと思います。哀れというしかありません。
ところで、大崎事件とは...。1979年(昭和54年)10月15日に、鹿児島の大崎町という農村で牛小屋の堆肥の中から遺体が発見されたことから、殺人事件ではないかとして捜査が始まったものです。
警察は「殺人・死体遺棄事件」と断定して捜査し、被害者の兄弟たちを逮捕したうえ、アヤ子さんを首謀者として逮捕した。「共犯者」たち3人は、「自白」したが、アヤ子さんは一貫して否認した。この大埼事件には自白以外の客観証拠はほとんどなかったが、アヤ子さんも懲役10年の有罪判決が下された。そして、アヤ子さんは控訴・上告してもダメで、10年後に満期出所した。
「共犯者」たちは、いずれも知的障がい者だった。供述弱者だったのです。
この本では、検察官が手持ち証拠を自らの不利になると思うと、「ない」ことにしてしまう現実を鋭く告発しています。検察官にとっての刑事裁判は勝つためのゲームでしかなく、真実(真相)究明は二の次なのです。自分に有利な証拠は出すけれど、不利と思ったら「ない」ことにしてしまうわけです。そこには「公益の代表者」だという自覚が、残念ながら欠如しています。
この本には、著者に関わる大勢の人々が、よくぞここまで憶えているものだと驚嘆するほど登場します。その意味で、この本はアヤ子さんの事件との関わりを中心としながらも、「祐美」(著者)の人生をたどった本でもあります。
「祐美」が、ライブコンサートを福岡でしていたのは、私もFBで知っていましたが、そもそも「祐美」はミュージシャンを夢見て音大受験を目ざす鎌倉の女の子だったんですね。それも、演劇部育ち...。そして、弟さんは知的障がい者。なので、大埼事件についての理解が深いのも、よく分かります。
著者は公務員試験予備校の熱血講師として8年も在籍していたのですから、子育てに区切りをつけたあと、司法試験に40歳で合格したのも、これまたよく分かります。そんな著者の涙と汗と、アルコールの結晶がこの本に結実しています。
私は、午後から読みはじめ、夕方までに一気に読了してしまいました。途中、いくつか仕事もしたのですが、気もそぞろで、この本に、それこそ全力集中したのでした。
700頁もの厚さの本ですが、何人もの人が一気読みしたというのは、よく分かります。そして、こんなに人との関わりが出てくるのも珍しいです。福岡では八尋光秀弁護士のほか、今は亡き幸田雅弘弁護士との交流も紹介されていて、著者の配慮のこまやかさには脱帽します。LABOの渡辺豊さんより贈呈を受けました。いつもありがとうございます。
(2021年3月刊。税込2970円)

2021年3月16日

「私たちは戦争を許さない」


(霧山昴)
著者 安保法制違憲訴訟全国ネットワーク 、 出版 左同

2014年7月1日、安倍内閣は集団的自衛権を容認する閣議決定を強行しました。それまで歴代の自民党内閣が違憲としていたのを、突然、「合憲」としたのです。そのため、内閣法制局長官をフランス大使だった人物にすげ替えるということまでしたのでした。
そして、次に安保法制法を強引に国会で成立させたのです。国会前の大集会には私も参加したことがありますが、大変な熱気でした。国民の声を無視して、強引に法律が成立してしまいました。
ところが、6年もたつと、集団的自衛権そして安保法制の危険性が薄らぎ、言葉としても世間から忘れ去られようとしています。
この本で、寺井一弘弁護士はナチス・ヒットラーの例を出して警鐘を乱打しています。
ヒットラーは、「人民は忘却することに大変すぐれている」と豪語したそうです。たしかに、アベ、そしてスガ首相のあまりにひどい政治が続くなかで、あきらめ感が強く、マスコミの健忘症あわせて、大事なことが次々に忘れ去られようとしています。でもでも、私たちは絶対に忘れない、あきらめてはいけないのです。
いま全国22の裁判所に、25の安保法制の違憲性を問う訴訟がかかっている。そして、これまで、東京地裁をふくむ7つの裁判所で原告敗訴の判決が出された。その共通した特徴は、実際に攻撃を受けて被害が生じるまでは危険性がないのだから我慢しろというもの。
実際に攻撃を受けたり、戦争が始まってからでは遅すぎるので、原告は声をあげているのに、裁判官たちはその訴えに真正面から向きあわず、あえて避けている。
司法が政権に忖度(そんたく)して、果たすべきチェック機能をまったく果たしていない。
「平和的生存権は具体的権利ではない」
「戦争の危険性はないのだから、人格権の侵害はない」
軍事予算がどんどん拡大していて、自衛隊は離島奪還演習をしている、イージス・アショアの代わりにアメリカ製の超高額の装置(イージス・システム護衛艦)を導入している。そんなときには、「敵」が今にも日本人に襲いかかってくるように喧伝(けんでん)しているのに、法廷では、ノホホンと「戦争なんて起こりっこない」と澄まし顔で国の代理人は平然と言い放つばかり...。
この二枚舌を私は許せません。
いま、スガ内閣は敵基地先制攻撃まで「自衛」のために認めようとしています。
「やられる」前に、こっちから「敵」を叩いておこうというのですから、まさしく日本が戦争を始めるというものです。こんな恐ろしい事態に、日本人がならされ、驚かなくなっていることに、私は恐怖を覚えます、
内閣法制局長官だった宮崎礼壹弁護士は、新安保法制は一見として明白な憲法違反だという論稿をのせていて、法廷でも証言しています。なのに、裁判所がこの証言をまったく無視してしまうなんて、それこそ絶対に許せません。
わずか90頁ほどの冊子ですが、日本の平和と安全のために考えられるべきテーマが掘り下げられています。ぜひ、手にとってご一読ください。
(2021年2月刊。任意カンパ)

2021年3月12日

私が原発を止めた理由


(霧山昴)
著者 樋口 英明 、 出版 旬報社

原発の運転が許されない理由が明快に説明されている本です。
その理由(根拠)は、とてもシンプルで、すっきりしています。原発事故のもたらす被害はきわめて甚大。なので、原発には高度の安全性が求められる。つまり地震大国日本にある原発には高度の耐震性が求められる。ところが、日本の原発の耐震性はきわめて低い。だから、原発の運転は許されない。このように三段論法そのもので、説明されています。そして図解もされています。
著者は福井地裁の裁判長として原発の運転を差止を命じた判決を書いたわけですが、退官後に判決文を論評するのは異例のことだと本人も認めています。それでも、原発の危険性があまりにも明らかなので、これだけはぜひ知ってほしいという切実な思いから、広く市民に訴えてきましたが、今回はそれを本にまとめたというわけです。私も福岡県弁護士会館での著者の講演を聞きましたが、この本と同じく口頭の話も明快でした。
福島原発事故によって、15万人をこえる人々が避難を余儀なくされ、震災関連死は2千人をこえている。しかし、実は、4千万人の人々が東日本に住めなくなり、日本壊滅寸前の状態になった。2号機は不幸中の幸いで欠陥機だったので大爆発しなかったし、4号機も仕切りがなぜかずれて水が入ってきたのでメルトダウンに至らなかった。偶然が重なって壊滅的事態にならなかっただけだった。
日本は、いつでもどこでも1000ガル以上の地震に襲われる可能性がある。M6クラスのありふれた地震によって、原発は危うくなる。
ところが、関西電力は、700ガルをこえる地震は大阪飯原発のところにはまず来ないので安心していいと言う。本当か...。この関西電力の主張は、地震予知ができると言っていることにほかならない。しかし、地震予知ができないことは科学的常識。つまり、理性と良識のレベルで関西電力の主張が成り立たないことは明らか。
原発訴訟を「複雑困難訴訟」とか「専門技術訴訟」と言う人がいるが、著者は法廷で、「この訴訟が専門技術訴訟と思ったことは一度もない」と宣言したとのこと。
多くの法律家は科学ではなく、科学者を信奉している。しかし、著者は、あくまで科学を信奉していると断言します。そのうえで良心的な弁護士でも、権威主義への誘惑は断ちがたいようだと批判しています。私も胸に手をあてて反省してみる必要があります。
学術論争や先例主義にとらわれると、当たり前の質問をする力がなくなり、正しい判断ができなくなる。
リアリティをもって考える必要があり、それは被災者の身になって考えるということ。
地震については、思わぬ震源から、思わぬ強い揺れがあるかもしれない。このような未知の自然現象については、確率論は使えない。
この指摘には、思わずハッとさせられました。なるほど、そうなんですよね...。
10年たらずのあいだに、全国20ヶ所ある原発のうち4ヶ所について、基準地震動をこえる地震が襲っている。ということは、基準地震動にまったく実績も信頼性もないことを意味している。
国と東電は、廃炉までに40年かかるとしているが、実はまったく根拠がない。こうやって、楽観的な見通しを述べることで、国民が原発事故の深刻さに目を向けないようにしている。
160頁ほどの本ですから、手軽に読めます。ぜひ、あなたも手にとって、ご一読ください。
地震列島ニッポンに原子力発電所なんてつくってはいけなかったのです。一刻も早く全部の原発を廃炉にしてしまいましょう。ドイツにできないことが、日本にできないはずはありません。
(2021年3月刊。1300円+税)

2021年3月 3日

日本を壊した霞が関の弱い人たち


(霧山昴)
著者 古賀 茂明 、 出版 集英社

中国で太子党がのさばっていて、国政の運営が私物化されていると私たち日本人の多くが批判(非難)してきました。でも、日本も同じだったんですね。
2世、3世の世襲議員が国会の議席の多くを占めて、国政を左右しているというだけではありません。国会議員でもなく、単に首相の長男というだけで、総務省のトップ官僚たちが膝を屈して接待を受けていた事実が明らかになりました。ところが、当の首相は、長男は「別人格」だといい、「結果として...」と他人事(ひとごと)のように語って、恥じるところがありません。これが一国の首相の姿かと思うと思わずヘドを吐きそうになります。そんな人をトップにいただいて、子どもたちに道徳教育をすすめているのですから、わが日本はおめでたすぎます。というか、将来が案じられます。
スガ首相は、アベ政治の継承を宣言し、反対する官僚する官僚は異動してもらうと高言しています。アベ首相のコロナ対策は失敗だらけだったことはあまりにも明らかですが、スガ首相も、それに輪をかけてひどい体たらくです。ワクチンだって、全国民がいつ接種できるのか、相変わらずまったくメドが立っていません。それなのにGO TOトラベルの予算3兆円は今もって確保してあるというのですから、開いた口がふさがりません。ひどすぎます。まずは医療機関にまわすべきでしょう。優先順位がまちがっています。ちなみにイスラエルは既に国民の4割がワクチン接種したようですが、政府が定価の5割増しでワクチンを製薬会社から買って確保したとのこと。それくらいのお金のつかい方が必要ではないでしょうか...。
日本のエリート官僚の1人だった著者は、官僚は賢くはないが、それほどの大バカでもない。ただし、間違いを認めることは大嫌いだ、としています。そうなんでしょうね。
アベノマスクをアベ首相に進言した官邸官僚は、灘一東大のエリート経産官僚だと言われていました。灘一東大ですから、大バカでないどころか、賢いはずですが、世間を見る目がないという意味では間抜けそのものでしたよね...。
著者は、議事録は改ざんされる心配があるので、会議のインターネット配信を提案しています。これだと改ざんされる心配はありません。なーるほど、ですね。いいアイデアです。
官僚だった著者は、官僚は極悪人でも聖人君子でもないと結論づけています。私もそうなんだろうな、と思います。公務員の多くは、そこそこ優秀で、まあまあ働く、真面目な人たちだというのです。私も異論ありません。
森友事件で自死してしまった赤木さんについての本を読むと、いかにも真面目な公務員だったことがよく分かります。そんな大勢の真面目に働く人々(公務員)の上に立つトップ官僚の多くが、今やアベ・スガ政治に毒され、堕落してしまったのでしょう。本当に残念です。
エリート官僚を輩出してきた東大法学部では、官僚を目ざす人が減ってしまったとのこと。優秀な学生は弁護士とか外資系コンサルタントを目ざすというのです。そして、官僚になっても、数年内にやめていく人が増えているとのこと。仕事のきつさと、面白みのなさが原因。そのうえ、国会で恥ずかしい答弁をさせられたら、もう、やってられませんよね...。
アベ内閣は、内閣人事局を創設した。各省の幹部人事を一元管理するところだ。それまでは、各省の事務次官が人事権を握っていた。アベ首相は、与えられた権限を最大限、なんのためらいもなく、自分のために行使し、それによって官僚に対する自らの優位性を誇示した。内閣人事局によって、非常にわかりやすい形で官僚に対する安倍支配の構図が示された。
今回のスガ首相の長男による総務省トップ官僚の接待事件は、まさしく日本の政治がいかにただれ切っているかを明らかにしたものです。ここに東京地検特捜部がメスを入れなかったら、特捜部も、やっぱり首相に忖度(そんたく)するだけの存在なのか...と、多くの心ある国民を幻滅させてしまうでしょう。嫌ですよね、どこかでこんな悪弊をきっぱり断ち切る必要があります。
(2020年10月刊。1600円+税)

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