弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
ヨーロッパ
2013年4月28日
バルザックと19世紀パリの食卓
著者 アンカ・シュルシュタイン 、 出版 白水社
フランス大革命はレストランを流行させたのですね。
「食卓」の重要性を意識していたバルサックは、偉大なる食通ではなかった。エキセントリックな「食べる人」だった。バルサックは、ほとんど食事をとらずに長時間にわたって執筆に没頭した。そして原稿を書き終えると、そのお祝いに、はかり知れぬほどのワインやカキ、肉料理やヴォライユの料理に身をゆだねた。
バルサックは、8歳から6年間を寄宿舎で過ごした。幼い生徒にとって、食事は喜びではなく、屈辱だった。バルサックは親からプレゼントをもらえず、孤独を感じていた。寄宿舎で過ごした数年間、バルサック少年は食事のかわりに読書に情熱を傾けていた。
バルサックは17歳で代訴人(弁護士)事務所の見習いとなった。この事務所で、バルサックは家庭内の悲喜こもごもに出会い、それが、あとで小説のネタとなった。
バルサックにとって不幸なことに、使う金額以上に稼げたことが一度もなかった。この大作家は最期まで、借金のために牢屋に入れられるのではないかと心配しながら生活していた。
バルサックは書くのが早かった。債務者たちにせつかれ、豊かな想像力に駆り立てられ、仕事に取りかかるやいなや扉を閉ざす。日に18時間も働き、2ヶ月には名作の原稿が完成していた。
創作に打ち込んでいるあいだは水しか飲まず、果物で栄養をとっていた。バルサックは、かなり濃いコーヒーを大量に飲んでいた。眠気を追い払い、自身を興奮状態に保ち想像力を増すためだった。
バルサックは借金のためではなく、国民衛兵として使えるという義務を何度も繰り返し怠ったため、牢獄生活を余儀なくされた。
フランス大革命の前、上流階級の人々は1日に3回の食事をしていた。朝6時から8時のあいだに何か詰め込み、午後2時にディネをとり、夜9時以降に夜食をとっていた。
これに対して、農民や職人は一日2回の食事ですませていた。夜食は、夜会や感激に行く特権階級に限られたものだった。
当時の人々は膨大な量の酒を飲み、水を飲むのはまれであった。
夕食会は3時間をこえてはならなかった。さっさと片づけることがとても重要だった。
フランスでシャンパンへの趣向が高まったのは非常に遅い。イギリスよりも、はるかに後のこと。ポンパードール夫人はシャンパンを高くし評価した女性の一人であり、彼女がワインを流行らせた。
夕食のとき、料理を次から次に給仕するのを、バルサックは好まなかった。というのも、この方式だと食べることが大好きな人々にとって、ものすごく食べることを強いるし、最初の料理で食欲が収まってしまう小食の人たちには、もっとよいものをなおざりにさせてしまう欠点があった。
フランス大革命のころの食習慣を知ることができました。バルサックの奔放な生き方には圧倒されます。
(2013年2月刊。2200円+税)
2013年4月25日
アフガン侵攻 1979-89
著者 ロドリク・ブレースウェート 、 出版 白水社
ソ連のアフガニスタン侵攻の始まりから撤退までを詳細に明らかにした本です。ベトナム侵略戦争におけるアメリカのみじめな敗退と同じことをソ連もやったわけです。
アフガニスタンには、機能する統一国家を築くための土台となる国家的組織体という観念はなきに等しい。地方から中央まで、あらゆるレベルの政治と忠誠は、各集団間の対立と取引によって規定される。それは末端の一族同士でも同じである。
アフガニスタンは、世界でもっとも古くから人々が暮らしてきた地域の一つである。アレクサンドロス大王が支配し、ペルシア帝国の支配を受けたあと、13世紀にチンギス・ハン、
14世紀にティムールによって完全に征服された。この二人の子孫であるバーブルが16世紀にムガール帝国を築きあげた。
アフガニスタンの国民はパシュトン人、タジク人、ウズベク人、ハザラ人、その他の弱小民族集団に分かれ、さらにいくつもの部族に細分化する。そして、アフガニスタン人の大部分はスンニー派のイスラム教徒である。
アフガニスタンで史上初の政治運動を生み出したのは大学だった。1965年に創設された共産主義政党であるアフガニスタン人民民主党の創設メンバーである、ヌール・ムハンマド・タラキ、バフラク・カルマル、ハフィズラ・アミンの3人もそうである。そして、ラバニ、ヘクマティアル、サヤフ、マスードは、全員がカブール大学で学んでいる。
1978年4月、ダウド大統領はアフガニスタンの共産主義勢力に打倒され、無残な最期を遂げた。4月のクーデターは悲劇の始まりだった。
ソ連にとって、アフガニスタンの共産主義勢力は、はじめから悪夢だった。1968年、人民民主党(PDPA)の党員はわずか1500人だったが、ソ連は彼らを無視できなかった。PDPAは理論を一掃し、権力の奪取と行使に専心した。さらに悪いことに、PDPAは、はじめから分裂状態にあり、パルチャム派とハルク派に分かれ、ときに血の闘争をくり広げていた。パルチャム派のリーダーはカルマル。パシュトン人で、陸軍の将軍の息子だ。ハルク派は、地方やパシュトン人部族から支援を集めた。リーダーは、タラキとアミン。
狂信に支配されていたアフガニスタンの共産主義者たちは、いかに保守的で、誇り高い独立国であっても、銃を突きつけて無理やり言うことを聞かせれば近代化させることが出来ると確信していた。カンボジアのポルポト政権とよく似ている。しかし、カンボジアとは異なり、アフガニスタンの国民は、政府のそのような扱いを耐え忍ぶつもりはなかった。アフガニスタンの共産主義政権は、イスラム教の力と国民への影響力を過小評価するという致命的なミスを犯した。
1979年3月、アフガニスタン政府からの軍事介入要請は、考えれば考えるほど、ソ連指導部にとっては望ましくないように思えた。しかし、完全に排除しようとする者はいなかった。そこで、最終的には結論として、軍需品といくつかの小部隊を送ることにした。
1979年、アフガニスタン全土で、情勢が悪化し、共産主義政権に対する武力抵抗が拡大を続けるなか、主流派であるハルク派の内部抗争が激化していた。
ソ連のKGBは、パルチャム派に巨額の資金を提供し、自分達の意見を反映させようとした。しかし、パルチャム派は、PDPAの党員1万5000人のうち、わずか1500人でしかなかった。それ以外は全てハルク派だった。ハルク派は陸軍の共産主義将校の大多数が所属する派閥であり、アミンは特別の努力を払って、この将校たちとの関係を築き上げていた。
タラキ殺害で重要な役割を演じたのは大統領警護隊だった。アミンの指示によるタラキ殺害は、ソ連の意見決定プロセスにおいて決定的な転換点となった。とくにブレジネフは、そのニュースに衝撃を受けた。タラキを守ると約束していたからである。
ソ連のカブール駐在の主席軍事顧問は、アミンを高く評価していた。アミンは、強固な意志をもち、非常に勤勉で、その組織化の手腕は並外れており、ソ連の友人を自称しているが、狡猾なウソつきで、血も涙もない弾圧者である。それでも、ソ連が手を組むとしたら、アミンしかないという結論だった。
軍事介入に懐疑的なソ連の幹部たちは、わきに押しやられるか、無視された。アフガニスタンの首都に駐在するソ連幹部の大半は、この国で過ごしたことがほとんどないものばかりになっていた。アミンの支配下にあったのは国土のわずか20%にすぎず、しかも、その割合は徐々に縮小しつつあった。
アフガニスタン人は、国内に外国人が駐留することを許容したことがない。ソ連軍部隊は否応なしに軍事活動に引きすりこまれるだろう。
ソ連軍参謀長は、このようにブレジネフに進言したが、聞きいれられなかった。
ソ連は、武力介入によって生じる不利をすべて予見していた。激しい内戦に巻き込まれ、多くの血が流され、巨額の費用がかかり、国際的に孤立することは分かっていた。
1979年12月、アフガニスタンへの介入は最終決定が下されたとき、すでに介入は避けがたい状況になっていた。それは重大な政策ミスであったが、決して不合理な決断ではなかった。
ソ連の軍事専門家は、アフガニスタンの安定化を図るためには、30~35個師団が必要だとみた。ソ連軍がカブールを制圧したとき、カルマル本人は、KGBの保護下にあった。
カブール在住の多くのソ連民間人は、何が起きているかまったく知らなかった。アミン殺害作戦のなかで、民間人の犠牲者は一人も出さなかった。ソ連軍は航空兵力を使わなかったから。
このころ、アメリカは、テヘランでアメリカ大使館員が人質にとられるという事件が起こった、ばかりだった。カーター大統領は、ソ連のアフガニスタン侵攻を公然と非難した。
ソ連の武力介入の目的はPDPA内の残虐な抗争に終止符を打ち、共産政権による、恐ろしい逆効果を招いた極端な政策を根本的に変えさせることにあった。つまり、アフガニスタンを征服あるいは占領することが目的ではなかった。アフガニスタン政府が責任を引継げる状態になったらすぐにでも撤退するつもりだった。しかし、これは非現実的な願望にすぎなかった。アフガニスタンの問題は、政治的な手段で解決できないことを、ソ連は十分理解していた。ソ連は、その武力で体制を維持できないと思っていた。それでもソ連は、安定した政府、法と秩序などをアフガニスタン国民が最終的には歓迎してくれるだろうと期待していた。
だが、やがてソ連は、アフガン人の大多数が己の道を行くことを望んでいて、神を認めぬ外国人や国内の異教徒どもに何か言われて気が変わることはないのだと悟った。ソ連は、この根本的な戦略問題に対処せず、また対処できなかった。
ソ連が目の当たりにした残虐な内戦は、侵攻のはるか以前に始まり、撤退後も7年間続き、1996年、タリバンの勝利でやっと終結した。
ソ連軍は、いつかは国に帰る。そのことは、ソ連側もアフガニスタン側も分かっていた。
ソ連政府の内外で失望が広がるにつれ、この残虐で犠牲の大きい、無意味な戦争を続けようという指導部の意思は後退していった。
ソ連軍とソ連国家が受けた屈辱は大きく、将軍たちは愕然とした。それが、ソ連崩壊と新ロシア誕生の政治的動きのなかで重要な役割を演じた。
ソ連軍のアフガニスタン侵攻を検証した画期的な本です。アフガニスタン政府の要請によってソ連軍は進駐したのだ、なんていう嘘が見事に暴露されています。また、ソ連軍とソ連の人々の受けた打撃の大きさもよく記述されていて、大変興味深く読み通しました。
(2012年1月刊。4,000円+税)
2013年4月18日
メドベージェフvsプーチン
著者 木村 汎 、 出版 藤原書店
現代ロシアの政治がどう動いているのかを知りたくて読みました。450頁もある大作ですが、とてもスッキリ明快な語り口なので、よく理解できました。
タンデムのハンドルを握っているのはプーチンであり、メドベージェフは子ども席に座らされている。この実情がよく分かります。
プーチンが2012年5月に大統領に返り咲くまでに、ロシア政治の基本やその行方を左右する最高指導者をめぐる人事は、一人の人間によって決定された。与党の「統一ロシア」は次期大統領の候補者選びにまったく関与しなかった。同党は討論も票決も一切行うことなく、まるで盲印を捺すかのようにプーチンの決定を承認した。
ロシアでは、法や制度などフォーマルな取極めが物事を決めているのではない。その代わりに、特定の人間がもっとも重要な決定を行う。別の言葉で言えば、地位(椅子)そのものよりも、そのポスト(椅子)に一体誰が座っているか、このことがロシアではより一層重要な意味をもつ。すなわち、一握りの少数指導者が強力な権力を握る。彼らは、非公式の場(密室)で、彼ら相互間の力関係にしたがい、いわば臨機応変のやり方で決定をくだす。彼ら指導者、とりわけ最高権力指導者がおこった決定は絶対で、「垂直権力」の原則にしたがい、下部へと伝達される。ロシアでは、法律よりも個人による統治がおこなわれている。
メドベージェフは、歴代指導者のなかにあって、けっしてナンバー1と呼べる指導者ではなかった。実質上はナンバー2でしかなかった。しかし、メドベージェフは、プーチン首相のたんなる操り人形に終始することをいさぎよしとしなかった。
メドベージェフはプーチンより13歳も若い、大統領になったとき42歳、辞職時に46歳だった。メドベージェフとは、熊を意味する。身長は162センチしかない。プーチンは168センチである。
メドベージェフはユダヤ系とみられるが、そのことについて一切口をつぐんでいる。メドベージェフは、両親ともに教授という知識人の家庭に生まれた。プーチンは下層労働者階級の出身者。メドベージェフとプーチンは、ともにレニングラード国立大学法学部を卒業している。プーチンは正真正銘のシロビキ。KGBなど、治安関係の出身者。メドベージェフは、母校で民法を高ずる大学助手だった。
プーチン首相は2010年10月、若返り効果を狙って顔面の整形手術を受けた。しかし、これは逆効果だった。ロシア人が嫌うアジア人(中国人)のように釣りあがった孤眼になったから。メドベージェフはインターネットが大好き。プーチンは、ケータイさえもっていないテレビ党。
プーチンがメドベージェフを選んだのは、自分と対蹠的なタイプの人間だから。
メドベージェフは権力基盤、その他の点で脆弱な人物である。だからこそ、プーチンによって便利な中継ぎとして選抜された。メドベージェフの弱みこそ、彼の力になっている。
プーチン自身がエリツィン前大統領の政策の多くを変更し、また反古にした人物である。だから、メドベージェフが大統領になって同じことをする危険を心配した。
プーチンは、ロシア首相と「統一ロシア」党首という二つの重要ポストを兼任することによってメドベージェフ大統領の行動様式を監視し、操作できる立場にたった。
メドベージェフには側近や部下がいない。メドベージェフは、周囲にいる優秀な同僚や仲間を内閣はもちろん大統領府内にすら登用しえなかった。その人事を主導したのがボスのプーチンだったから。プーチンの作成した人事案を丸呑みする以外の選択肢は与えられなかった。
メドベージェフは4年間の大統領在任中、最後まで、マスメディアを掌握できなかった、プーチンがマスメディアを独占的に支配していた。テレビで報道されるときのプーチンとメドベージェフの座る位置は、プーチン大統領のときと同じだった。テレビ対話は、大統領との対話から首相との対話に名前を変えただけで、プーチンが4年間そのまま続けた。
ロシア、グルジア「5日間戦争」はメドベージェフがプーチンと変わらぬ対外強硬論者であることを証明した。「リベラル」というイメージを完全に打ち砕いた。
ロシア・グルジア戦争は、CIS諸国にロシアに対する恐怖感をもたらし、異質感を増大させた。ロシアに逆らうと、深刻なマイナスをこうむる。しかし、だからといってロシアの言いなりになれば、別のマイナスを覚悟せねばならない。
ロシアのグルジア軍事侵攻によって驚かされた欧米諸企業は、ロシア市場へ投下していた資本を一斉に引き揚げた。そのことによってロシア経済がこうむったダメージは、予想外に大きかった。
ロシアはエネルギー資源大国である。石油、天然ガス、金、ダイヤモンド、鉄鉱石などの埋蔵量で世界第一位。
ロシアは世界規模の経済危機に無関係どころか、そのもっとも深刻な犠牲者だった。なぜか。それはロシア経済がもっぱらエネルギー資源の輸出の大きく依存する事実上の「モノカルチャー経済」であることによる。ロシア経済の国際競争力は、上昇しないどころか復退した。航空機事故が多発し、ロシアはコンゴよりも「世界でもっとも危険な国」となっている。
年金生活者は、民主主義的指権利の保障よりも、社会の安定や秩序を望む。プーチン支持層の中核をなしている。
プーチン主義は、政治や経済の運営を下からの国民のイニシアティブに委ねることなく、「権力の垂直支配」の名のもとに国家による上からの指導でおこなう。とりわけ、ロシアが豊富に所有するエネルギー資源を、軍需産業同様、重要な国の基幹産業とみなして、政府の厳格な監督、管理下におく。そして、その余剰利益(レント)を側近間で分配する。
現ロシアでは汚職は歴然として存在している。いや、それどころか、ソビエト時代に比べてさらに増大する勢いである。
プーチンは、KGB勤務によってつちかったフレキシブルな思考法のおかげで、数々の難局や危機を乗りこえてきた。
大変わかりやすく、ロシアの現状を鋭く分析した本でした。
(2012年12月刊。6500円+税)
2013年4月 6日
深い疵(きず)
著者 ネレ・ノイハウス 、 出版 創元推理文庫
本の扉にあらすじが紹介されています。推理小説ですから、ネタバレは許されませんが、以下は扉にあるものですから許されるでしょう。
ドイツ、2007年春、ホロコーストを生き残り、アメリカで大統領顧問をつとめた著名なユダヤ人の老人が射殺された。凶器は第二次大戦記の拳銃で、現場に「16145」という数字が残されていた。しかし、司法解剖の結果、遺体の入れずみから、被害者がナチスの武装親衛隊員だったという驚愕の事実が判明する。そして、第二、第三の殺人が発生、被害者らの隠された過去を探り、犯行に及んだのは何者なのか。
刑事オリヴァーとピアは幾多の難局に直面しつつも、凄然な連続殺人の真相を追い続ける。ドイツ本国で累計200万部を突破した警察小説シリーズ・開幕!
ドイツには今もネオ・ナチがうごめいているようです。でも、日本だって同じようなものですよね。安倍首相なんて、戦前の日本への回帰を臆面もなく言いたてていますので、ドイツを批判する資格もありません。
それにしても、ナチス親衛隊員が戦後、ユダヤ人になりすましていたなんて、信じられません。そして、残虐な殺人劇が続いていくのです。
警察内部の人間模様も描かれていますが、やはり本筋はナチス・ドイツの残党が今なおドイツ国内でうごめいていることにあります。
読ませるドイツの推理小説でした。
(2012年7月刊。1200円+税)
2013年4月 4日
ワルシャワ・ゲットー日記
著者 ハイム・A・カプラン 、 出版 風行社
ナチス・ドイツ軍が1939年9月、ポーランドに侵攻し、ワルシャワにゲットーをつくって大勢のユダヤ人を狭い地域に押し込めました。そのなかに生きていた教師がつけていた3年間(1942年8月)の日記が紹介された本です。
著者は、強制収容所で亡くなっていますが、この日記は奇跡的に他人の手に渡って保存されたのでした。その後、ゲットー蜂起があり、またワルシャワ蜂起もあるわけですが狭いゲットーに押し込められ、ナチスから残虐な仕打ちを受けている日々の様子が刻明に紹介されています。
全能の神よ、あなたは、ポーランド、ユダヤ民族の末裔を死滅させようとされているのですか?
この問いに神は、どう答えたのでしょうか。私には、とうてい理解できません。
純朴な老婆が毎日私に尋ねる。「どうして世界は黙しているのか。もうイスラエルに神はいないのか」
ユダヤ人の逮捕が止むことなく続く。いつ自分の番が来るのか、誰にも分からない。そのため、誰の心の中も恐怖でいっぱいだ。
逮捕されるのは、とりわけ知識人であるが、必ずしも有名人とは限らない。むしろ、誰であれ歓迎される。監獄の檻は、罪もなく捕まえられた若い弁護士や医師であふれている。
ナチズムは、二つの顔をもっている。彼らは、誰かから利益を引き出すことが必要なときには、従順さを装い、偽善的に振る舞う。しかし、その一方で、人間性を踏みにじる強靱な残忍さを持ち、もっとも基本的な人間的感情に対して無情に徹することができる。
従服者どもがポーランドのユダヤ人の本性と強靱さを見誤ったのは幸運だった。彼らのこの間違いが、我々を今日まで生き延びさせてきた。我々は論理的に考えれば、すでに死に絶え、自然の法則によれば完全に絶滅しているはずだった。
我々の間から自殺者がほとんどでないというのは、とりわけ注目に値する。誰が何と言おうと、恐ろしい惨禍の中で生き続けようとする、この生への意志は、何かは分からないが、ある隠された力の発露であろう。これは、驚くべき無情の力であり、我々ユダヤ民族のなかでも、もっともよく組織された共同体だけに恵みを与えられたものである。
我々は裸のまま取り残された。しかし、この秘密の力がある限り、我々は希望を捨てない。この強靱な力は、ポーランドのユダヤ人に固有のものであり、生きることを命じる永遠の伝統に根ざしている。
50万人もの大集団が狭い地域に押し込められ、詰め込まれた。
かつての平和な時代には、ポテトは貧乏人の食べ物だった。今はどうか。地下室にポテトを貯め込んでいる者は、誰もがうらやむ幸福者なのである。ゲットーには、この食べ物のほかになにもない。
ゲットーの境界を越えて密輸は日に日に増加する。これは、ユダヤ人とアーリア人の双方にとって、何千人もの人々の職業になった。そして、両者は協力関係を結び、アーリア人地区からユダヤ人のゲットーへと食料を密輸する。ナチスでさえも、これに関与することがある。総統の兵士は、主人の言葉には従わず、金銭を懐に収めて、見て見ぬふりをする。
密輸は、壁にできたあらゆる穴や裂け目を使って行われる。あるいは境界線上の建物の地下にトンネルを掘って・・・。アーリア人専用の市街電車に乗務する車掌は、密輸品がいっぱい詰めこまれた袋を車両の中に隠しもって稼ぐ。
ユダヤ人の子弟は、ナチの目を盗みながら学んでいる。奥まった部屋にテーブルを置き、子どもたちはその周りに座って学んでいる。
我々は生き延びられるだろうか。あらゆる者の心を占めているのは、このことである。そして、信仰深き者の答えは、決まって「神のみぞ知る」である。このような時代には、信じることに優る救済の道はない。
奇妙なことに、病弱な者は健康を回復し、頑健な者は病気に倒れ、死んでいく。とりわけ天が味方するのは女性である。連れ合いがなくなった後も彼女らは生き延びる。
この日記は、私の命であり、友人、盟友である。この日記がなければ、私は死んだも同然だ。私は、その中にもっとも心の奥底にある思いと感情を注ぎ込み、日記は私に慰めを与えてくれる。この日記を書き続けることで、精神的安らぎが得られる。
ゲットーの中には、遊興の施設があり、毎晩、入りきれないほどの賑わいである。
豪華なカフェに入り込んだ者は、驚きのあまり息を呑むことだろう。ぜいたくな衣服に身を包み、音楽を楽しみ、パイやコーヒーを味わう大勢の者がいる。奥の部屋ではオーケストラが音楽を奏で、さらに奥まった部屋では、トランプの遊技場がある。ゲットーには少なからぬ劇場があり、連日満員の盛況である。陳腐な寄席演芸が演じられている。
ゲットーでは、餓死は日常茶飯事である。生と死を分かつのは、髪の毛一本ほどの違いでしかない。
ユダヤ人教師の思索の深さを如実に示している本です。同時にゲットー生活の様々な状況も伝えてくれます。オーケストラとか満員の劇場とか、ゲットーのなかにそんなものがあったなど、驚かされますね。
(2007年6月刊。2300円+税)
2013年3月 1日
ワルシャワ蜂起
著者 梅本 浩志・松本 照男 、 出版 社会評論社
1944年8月、ポーランドの首都ワルシャワでナチス・ドイツ軍に対して決起したポーランド蜂起軍の63日間の死闘を紹介した本です。
本の巻頭に当時の写真もたくさんあって、激戦をしのぶことができます。
有名なショパンもポーランド国民なのですね。1931年にロシアのツァーリ・ニコライ皇帝に対してワルシャワが蜂起したのに同感の思いで「革命」を作曲しています。ショパンは同じく「軍隊」とか「英雄」も作曲しているそうです。
1944年のワルシャワ蜂起において、地元レジスタンスが放送したのはショパンの「革命」だったのも当然のこと、
ヒトラーは次のように言った。ひどいものです。信じられません。
「ポーランド人は、とくに下級な労働者として生まれついている。ポーランドの生活水準は低く保つことが必要で、引き上げさせてはならない。ポーランド人は怠け者で、働かせるには強制を必要とする」
「ポーランド知識階級の代表者たちは、ことごとく絶滅しなければならない」
「ポーランドは植民地として扱う。ポーランド人は大ドイツ国の奴隷とする」
モスクワ放送はワルシャワ市民に蜂起を呼びかけていた。ソ連軍は1日15キロの猛スピードでワルシャワに迫っていた。ポーランド国内軍の指導者たちはモスクワ放送を信じていなかったが、一般のパルチザン兵士や市民は、蜂起して1週間以内にはソ連軍が助けてくれるものと信じ込んでしまっていた。
強力な火力をもつ敵(ナチス・ドイツ軍)との戦いで勝敗を決するのは、十分な士気だけでは足りない。武器・弾薬が必要。しかし、それが極度に不足していた。蜂起したとき国内軍(AK)が保有していた武器・弾薬は、3500人の兵士が3日も戦えば払底するほどのものだった。あとは、火焔ビンを頼りに戦わざるをえなかった。
7月21日、ヒトラー暗殺未遂事件(ワルキューレ)を知ったAK総司令官・参謀長・参謀次長の3人はトップ会議を開き、原則としてワルシャワ市内で武装蜂起することを決定した。
ワルシャワ蜂起は、地下水道の戦いでもあった。地下水道を利用しての本格的都市ゲリラ戦である。ワルシャワ市の下水道管理担当職員が先導した。だから、犠牲者が128人にものぼった。
ワルシャワ市内では蜂起前から、亡命政権の行政活動が展開していた。少年・少女による郵便配達が始まり、スープ配給所や映画館も活動した。短波放送も始まった。
実は、このワルシャワ蜂起軍に日本もいくらか関わっている。ポーランド人孤児救済の一環で日本にやってきたポーランド人孤児たちがいた。1回目は1920年7月20日、375人。2回目は1922年8月に390人。彼らが22年後、ワルシャワ蜂起の中核的存在になった。イエジを隊長とするイエジキ部隊(孤児部隊)である。最大1万5000人、ワルシャワ地区だけで3000人を正規戦闘員として登録していた。そして、このイエジキ部隊を日本大使館が守っていたというのです。ドイツと同盟関係にあった日本がポーランド・レジスタンスを守っていたなんて、信じられません。
ワルシャワ蜂起に参加した人たちの個人的な思いで話も収録されていて、その状況が生々しく、よく伝わってくる本でもありました。
(1991年8月刊。4000円+税)
自宅に戻ったら、仏検の協会から大型封筒が届いていました。娘が近寄ってきて、「フェリシタション」(おめでとう)と言ってくれました。そうなんです。先日うけた仏検(準一級)の合格証書が送られてきたのでした。口頭試問は基準点21点に対して得点33点でした。美容整形に賛成か反対かというテーマでしたので、3分間スピーチは初めてちゃんとやれました。準一級の合格は、これで、4回目です。
毎朝、NHKラジオ講座を聞き、CDで書き取りをしています。いまはフランス映画の監督や女優さんなどのインタビューですから、とても楽しいですよ。有名なトリュフォー監督の声も聞けました。
フランス語をずっと続けているおかげで、世の中が少し広がったと実感しています。これからもボケ防止で続けるつもりです。
2013年2月20日
ヒトラーの国民国家
著者 ゲッツ・アリー 、 出版 岩波書店
経済的側面からみた、ヒトラーとドイツ国民の「共犯関係」の歴史、というサブタイトルがついています。
この本を読むと、ヒトラー・ドイツが多くの国民の支持を集めていた理由がよく分かります。ユダヤ人の財産を奪って国家の収入とし、それを一般国民に還元していたのです。そして、対外侵略戦争によって獲得した資産もドイツ兵士が故郷の自宅へ送り、多くのドイツ国民がそれを受けとり、楽しみにしていたというのです。
1933年にナチスが政権を掌握したとき、ヨーゼフ・ゲッペルスは35歳、ラインハルト・ハイドリヒは28歳、アルベルト・シュペーアは27歳、アードルフ・アイヒマンは26歳、ヨーゼフ・メンゲレは21歳、ハインリヒ・ヒムラーとハンス・フランクは同い年の32歳だった。ヘルマン・ゲーリンクが40歳だ。
戦争の最中、ゲッペルスは、指導的面々の平均年齢はナチ党の中堅層で34歳、国家中枢で44歳。ドイツは、今日まさに、若い人々によって指導されていると言えると断言した。
多くの若いドイツ人にとって、国民社会主義・ナチズムとは、独裁、言論封殺・抑圧を意味したのではなく、解放と冒険を意味していた。若い人々は、ナチズムを青年運動の延長とみなし、肉体的・精神的な反エイジング(老化対抗)を進めるものとみていた。
1935年、ナチス党のなかで指導的な役割をしていた20代、30代は、石橋を叩いても渡らないような慎重な人間を軽蔑しながら、自らを近代的・反個人主義的な行動型人間とみなしていた。「偉大な明日は我々のもの」と信じていた。
ヒトラーは、以前から侵犯を「たいした問題ではない」としていた。たちまち、あらゆる犯罪を受け入れさせてしまう原則、すなわち、「勝ってしまえば誰もそれを問題にしない」という原則を、ヒトラーは腹心の部下から次第に国民へと拡大浸透させていった。
ナチ指導部は、国民のあいだでの自動車の普及にはじめて手をつけた。そして、それまでなじみのなかった「休暇」概念を導入して休日を倍に増やし、さらに大衆観光旅行熱の発展の先鞭をつけた。
ユダヤ人などを除く、人種的に一体と定義された大集団に数えられたドイツ人の95%の人々にとって、国内をみる限り差別は減少していった。
ナチス・ドイツの宣伝において、戦争は攻撃を続ける「世界ユダヤ人」に対する「アーリア人の抵抗」として一貫して示された。「世界ユダヤ人」とは、まず第一にユダヤ人、第二にユダヤ人の縁戚者たる金権政治家、第三にユダヤ・ボルシエヴイキという、三重の姿形をとって世界支配を追求している。
1933年、失業者600万人という状況に直面したヒトラーがドイツ国民に約束したのは、一にも二にも「職」であり、とにかく働ける場の確保ということであった。
ドイツの税収は1933年から1935年に25%、金額にして20億マルク増加した。それと並行して失業対策支出が18億マルクも減少した。このとき、軍備景気でもうけた会社を対象とする税率が20%から40%に引き上げられた。
ナチス・ドイツ国家の崩壊瀬戸際の国家財政状態を、ユダヤ人の財産没収、強制移送、大量虐殺が支えた。ユダヤ人財産の正式な国有化は1938年からであった。
ドイツの国庫は、お金を必要としていた。政府はいかなる犠牲を払ってでも、国家の破産を国民に見透かされないように躍起になった。少しでも立ち止まったら、たちまち問題は顕わになったに違いない。
ドイツの大銀行の幹部たちは、強盗の主犯として働いていたわけではない。しかし、もっとも効果的な没収手続を保障する契約者、不可欠のオルガナイザーとして機能し、さらには隠匿犯にもなった。
ドイツ軍将兵は、ヨーロッパ占領地から、何百万という小包を故郷に送った。荷受人は女性である。北アフリカ産の靴、フランス産のビロードと絹製品、ギリシア産のリキュール、コーヒー、タバコ、ロシア産の蜂蜜とベーコン、ノルウェー産の大量のにしん、ルーマニア・ハンガリーそしてイタリアからの豊かな贈り物がドイツ国内に送られてきた。ドイツの食生活の高水準で維持するため、ユダヤ人の大量殺戮が促進していった。国家の収入となった家財道具とは、絶滅収容所へ強制移送されたユダヤ人のものだった。
ナチ政権は、最初はいかがわしく、やがて犯罪的になっていく手口の財政政策を展開することによって内政への支持を獲得した。1935年、ヒトラーは国家予算を公にするのを禁止した。
恐るべき真実だと思いました。しかし、この真実から目をそらすわけにはいきません。
(2012年6月刊。8000円+税)
2013年2月18日
カエサル(下)
著者 エイドリアン・ゴールズワーシー 、 出版 白水社
下巻では、いよいよ『ガリア戦記』のクライマックスであるウェルキンゲトリクスとの戦いに入ります。そして、ガリアを平定したあと、カエサルはローマに勝利者として凱旋したかと思うと、敵対する有力者ばかりだったのでした。そんななかで、「ブルータス、おまえもか」というシーンに至るわけです。でも、この本では、そんなセリフではなかったといいます。
お正月休み、朝早く起きて昼過ぎまで一心不乱に読みふけり、380頁もの大作を4時間かけて読了しました。
カエサルはイギリス(ブリテン島)に2度も渡っています。当時のローマ人にとって、ブリテン島は、後のジパングと同じように魅きつけられる島だったようです。
ブリテン島は天然資源が豊富、しかも素晴らしい真珠の産地だ。さらに魅力的だったのは、ブリテン島は海の向こう、人間が住む地上を取り囲んでいると信じられていた広大な海洋の端にあったから。
まだ、地球が丸くなく、平板な土地からなっていると考えられていたわけですね。
結局、カエサルはブリテン島を征服することはできませんでした。ローマ軍団がブリテン島を征服したのは、それから100年後のこと。しかし、ブリテン島への遠征によってカエサルは、ローマの人々から非常に好意的な注目を浴び、興奮を引き起こした。
ガリアに戻ったカエサルを待っていたのは、大規模な反乱。アルウェニ族の若き貴族、ウェルキンゲトリクスがその中心にいた。ウェルキンゲトリクスはローマ軍との大規模な会戦を避け、ローマ軍を尾行し、小規模な部隊を奇襲していった。ローマ軍の補給路を断とうとした。
ウェルキンゲトリクスの焦土作戦はローマ軍を痛めつけた。カエサルの『ガリア戦記』は、ガリア人の勇気を、ローマ軍の規模のとれた勇敢さよりは劣るものとしたが、決して否定はしなかった。
ウェルキンゲトリクスの軍勢は、これを打ち破れば、全軍を降伏に追いつめるような、単一の本拠地も統一された軍勢すらも有していなかった。ウェルキンゲトリクスは、そのカリスマ性にもかかわらず、依然として数多くの荒い独立した諸部族を率いていた。
カエサルとその軍隊に、正面から挑むのではなく、嫌がらせを続けること、これより多くの族長と部隊を説得してウェルキンゲトリクスの大義に賛同させなければならなかった。
ウェルキンゲトリクスは状況判断を誤り、カエサルは退却しつつあるとみて、結局、アレシアに立てこもることにした。そして、カエサルは途方もなく巨大な包囲施設の建設作業に着手した。この包囲陣の外から救援部隊が入りこもうとしたが、いずれもローマ軍に敗退させられた。
ついにウェルキンゲトリクスは族長たちを招集した。降伏を提案し、自分をローマ軍に引き渡すようにと言った。カエサルは降伏の申し入れを受けて、武装解除と指導者の引き渡しを要求した。
ウェルキンゲトリクスはもっとも美しい鎧を身につけ、最上の軍馬に乗って町を後にした。壇上で公職者の椅子に腰掛けているカエサルに近づくと、アルウェルニ族の長は馬に乗ったまま対戦相手の周囲を一巡りし、馬から下りて武器を地面に置き、跪いて連行されるのを待った。
ウェルキンゲトリクスはローマまで捕虜として連行され、儀式的に絞殺された。それ以外の数多くの捕虜は奴隷として売られ、その収益は軍内部で配分された。
このようにしてガリアはカエサルに栄光と富をもたらした。しかし、ローマに戻ったときに、カエサルは謀反人だった。ローマの有力な元老院議員たちの中核をなす人々はカエサルを嫌っていた。ローマの元老院議員は誰もが、栄光や影響力の点で、他人が自分を上回るのを見たいとは思っていなかった。
ルビコン川が属州とイタリアとの国境線を画していた。このルビコン川というのは小さな川で、今では当時どこを流れていたのか分からなくなっている。
カエサルは、ついにルビコン川を渡った。
「賽は投げられた」
ひとりの男(カエサル)が自分の威厳を守ろうと決意し、多のものたち(元老院議員たち)は、それを破壊しようと決意した。カエサル指揮下の10個軍団は、全員がガリアでの軍事行動で鍛えられた古強者であった。そして、カエサル軍の忠誠心の高さは、内戦を通じて誠に驚くべきものだった。
たちまちカエサルはイタリア全土を軍事的に支配した。逃げたポンペイウス軍を追って打ち負かし、カエサルはエジプトに上陸した。そこで、プトレマイオス朝エジプトの女王クレオパトラと出会った。
やがてカエサルはローマに勝利者として帰還し、10年間の独裁官として君臨することになった。象牙で作られたカエサルの立像は神々の像の間に置かれた。多くの元老院議員たちがカエサルの例外的な権力に我慢しようと考えたのは新たな内戦の危機と脅威とが続いていた限りで、それが取り除かれるや否や、彼らは正常な状態への回帰と自分たちの階層の優越性を熱心に求めるようになった。
結局のところ、カエサルの立場は軍事力によって獲得された。カエサルは同胞市民に、とりわけ貴族層のエリートに自分の支配を受け入れるほうが、それに歯向かうよりもましだと納得させなければならなかった。
カエサルは65歳になった。カエサルは事実上の君主であった。しかし、その権力は表面的には元老院と国民によって与えられていた。カエサルは、その死後は神とされたが、生前の神格化されることはなかった。
最終的には、60名の元老院議員がカエサル暗殺の陰謀に加担した。そして、この陰謀は、カエサルの長年にわたる支援者たちの多くが参加していた。しかし、中心的な指導者となった2人は、どちらもかつてのポンペイウス派だった。カエサルのもっとも親密な協力者たちでさえ、ほとんどが、共和制がいまや事実上ひとりの人物によって支配されているという事実を嫌悪していた。
ブルートゥスが最終的に行動に踏み切ったのは自由な共和制があまりにも大きな権力を有する一人の人物を内包することは不適切だと考えたからだ。
暗殺者たちは、カエサルを排除することによって自由を回復することができると信じていた。おそらく全員が、自分たちは共和制全体にとって有益なことを行っていると考えていた。カエサルの死によって、国家の通常の諸制度は再び適切に機能し始めるはずであり、ローマは元老院と自由な選挙によって選ばれた公職者によって指導されるはずだった。暗殺の現場でカエサルを助けようとした元老議員はわずか二人だけ。カエサルは、ブルートゥスを見ると、戦うのをやめて最後に一言、「おまえもか、わが子よ」と言った。シェークスピアの「おまえもか、ブルータス」というのではない。
カエサル暗殺から3年内に暗殺者たち全員が打ち負かされ落命した。そして元老院議員階層と騎士階層は、粛清されてしまった。そしてオクタヴィアヌスが弱冠32歳にしてローマ世界の並ぶものない支配者、皇帝となった。
カエサルは暴力的で危険な時代に生きていた。紀元前1世紀のローマの世界はおよそ安定しているとは言えなかった。暴力は日常的ではなかったが、常にその危険性はあり、板子一枚下は地獄だった。
カエサルのことをしっかり学べる本でした。
(2012年9月刊。4400円+税)
2013年2月 8日
カエサル(上)
著者 エイドリアン・ゴールズワーシー 、 出版 白水社
本のオビの言葉に驚きます。
勝負師カエサル。
ええーっ、カエサルって、勝負師だったのか・・・?
陰謀と暴力に彩られた激しい政治抗争の時代、元老院議員がみな、おのれの野心のために競っていたなか、なぜカエサルだけがいつも失策を犯しながら勝ち残れたのか。現実主義カエサルの人生を彼自身の言葉に基づいて、気鋭のローマ史家が検証する。
こんなふうに書かれたら、大いに興味をそそられますよね。読まずにはいられません。いったい、カエサルって、どんな人物だったのでしょう。といっても、上下巻2冊、1冊400頁近い大作です。どんどん飛ばし読みしていきました。
カエサルは、最終的にローマ共和政の最高権力を掌握し、称号までは得なかったものの、あらゆる実質的な意味で王として君臨した。
のちにカエサルの養子であるオクタヴィアヌスがローマ帝国の初代皇帝となった。その後、血縁関係も縁組関係もないのに、以後の皇帝たちはみなカエサルと名乗った。
カエサルは貴族層の一家族の出身、しかもかなり目立たない家族の出身だったのに、事実上、最高かつ合法的な権力を象徴する称号となった。カイザーもツアーも、いずれもカエサルに由来する名称である。
カエサルは、8年間にわたるガリア戦役で、少なく見積もっても10万人を殺害し、それ以上の人々を奴隷とした。ときにカエサルは冷酷きわまりなく、大虐殺や処刑を命じたし、大量の捕虜の手を切り落としたうえで、解放したこともある。
カエサルが打ち負かした敵に対して慈悲を示したのは、敵がローマの支配を受け入れ、新しい属州で平和裏に税を支払う住民になることを望んだから。カエサルの態度は、冷徹なまでに現実的だった。
カエサルは道徳的な男ではなかった。多くの点で道徳心を欠いている。そして、慢性的な浮気性で、妻や数多くの愛人に対して不誠実だった。
カエサルは若いころから、自分自身が他人よりも優れていることを絶対的に確信していた。
カエサルは共和政下のローマに生まれた。何世代にもわたってローマ人男性の大部分が軍務を果たした。それ以降、フランス革命期の政府が大規模な徴兵制を導入するまで、同程度の国家がこれほどの割合の人員を一定の期間をこえて動員したことはなかった。
紀元前2世紀の中頃までは、人々が動員に抵抗することはあまりなかったようで、ほとんどの男性が喜んで兵役義務を引き受けた。
軍団兵にはきわめて厳しい規律が課せられたにもかかわらず、軍団勤務はとても魅力的だった。というのも、戦利品や名誉を得る見込みがあったからである。
軍は財産額に応じて区分された等級ごとに兵士を採用した。個々の兵士は、もっとも富裕な者は騎兵として、大多数は重装歩兵として、貧しい者や新兵は軽装歩兵として、従軍に必要な装備を自分で用意するように求められた。
土地がもっとも一般的な財産の形態だったので、軍国の中核を構成したのは農民だった。農民兵にとっては、手早く勝ちを収めたら、自分の畑の収穫に間に合うように帰還するのが理想的だった。
マリウスの志願兵の募集は、有産等級の代表から構成された市民軍から、圧倒的多数がきわめて貧しい人々から採用された職業軍へ移行するという重大な変化をもたらした。
貴族層にとって子どもの教育の場はもっぱら家庭だった。ローマでは子どもを無料の小学校に通わせるのは、中産階級の傾向であった。
カエサルの弁論は聴衆を大いに引き付けた。そして、その弁論を出版した。
紀元前1世紀のローマにおいて、貴族の妻たちはかなりの自由を謳歌していた。その多くが夫とは別に、結婚時の持参金をふくむ相当の財産を有していた。
娘は、少なくとも子どもの頃は、その兄弟たちと同じような教育を受けていた。ラテン語とギリシャ語を学び、文学と芸術について深い審美眼を養った。
ローマ最古の成文法典である十二表法には離婚についての規定はなかったが、長い伝統によって離婚は認められていた。共和制後期には、夫も妻も一方的に相方と離婚できた。夫が妻に「自分の物をもっていけ」と言うだけでよかった。
カエサルは有権者の支持を得るために惜しみなくお金をつかった。相当な私財を費やして道路や建造物をつくった。有名なアッピア街道もその一つ。また、大規模な剣闘士士会も開催した。
カエサルの競技会には320組の剣闘士たちが登場し、全員が銀で精巧に飾られた鎧をつけていた。ローマの人々は無料で開催された見世物や競技に舞中になった。
カエサルはヒスパニア属州総督に就任した。これは金もうけの機会だった。
カエサルは41歳のときにローマを出発し、担当する属州へと向かった。帰国したのは9年後のこと。カエサルが軍を率いて戦闘にのぞんだのは全部で50回にもなった。そして、『ガリア戦記』全7巻を書き記した。
ローマ軍のもっとも重要な強みは、その規律と命令系統にあり、彼らが集団として効率的に動くことを可能にした。各部隊を補助するために、ローマの軍隊は、アウクシリア(補助軍)と総称された他国の兵士たちに頼った。その多くは、現地で採用された同盟者だった。
ガリアは、いかなる意味でも国家ではなかった。ガリア人の軍勢はまとまりに欠け、長期間の戦役で戦場を維持するための兵站能力を有していることは稀であって、指揮官たちが兵を操るのは困難だった。
ヘルウェティイ族は36万8000人が移動した。その4分の1が戦闘可能な年齢の男性で、残りは女、子どもと老人だった。
カエサルは、ローマ軍国の兵士に対して、「お前たち」とか「兵士諸君」ではなく、常に「戦友諸君」と呼びかけた。彼も彼らも、全員が良きローマ人であり、敵と戦うことで、共和制に奉仕し、それに伴って栄光と戦利品を獲得したが、それを全員が共有するよう、カエサルは持ち前の気前の良さで配慮した。
以下、下巻に続きます。下巻が楽しみです。いよいよ、『ガリア戦記』のクライマックスが登場します。
(2012年9月刊。4400円+税)
2013年2月 3日
フランス組曲
著者 イレーヌ・ネミロフスキー 、 出版 白水社
アウシュヴィッツで殺されたフランス人の女流作家の原稿が戦後60年たって出版され、アメリカで100万部ものベストセラーになった小説です。
著者はカトリックに改宗したユダヤ人でした。父親はロシアで裕福な銀行家であり、その一人娘として何の不自由もなく暮らしていました。しかし、ユダヤ人の両親はロシア革命によってフランスに亡命します。そして、イレーヌは、同じくユダヤ人銀行員の息子ミシェルとパリで知りあい結婚し、2人の娘をもうけるのでした。
イレーヌは、『ダウィッド・ゴンデル』を書いて有名になり、その本は映画化されています。日本でも、1931年に翻訳・紹介されたそうです。
イレーヌは、母から十分な愛情を注いでもらえませんでした。イレーヌの作品にもそれがあらわれているとのことです。
それは富裕階級の一見華やかな暮らしの裏側にひそむ空虚、その精神的負担の摘出であり、親子とりわけ母と娘のあいだの憎しみと葛藤の描写である。そこには、少女時代の不幸の清算という側面も感じられるとはいえ、作品は個人的な感情に溺れるものではなく、人間の心理と行動に対する透徹した視線によって際立っている。卓越した人物造形に加え、同時代のヨーロッパ社会の抱える矛盾や歪みを大胆にとらえる強靱な批評的精神も認められる。印象的な場面の積み重ねによってスピーディーに物語を展開していく手腕も発揮されている。
イレーヌたちは、パリを逃れて、ブルゴーニュ地方の小さな村にひっそり暮らしていた。そこへ、フランス人憲兵がやってきた。1942年7月13日のこと。当時12歳と5歳の娘たちへ、「何日か旅行に出かけるけれど、いい子にしていてね」と声をかけてイレーヌは家をあとにした。
さらに、同年10月9日、夫のミッシェルも憲兵たちに連れ去られた。その別れ際、父は長女に小型のトランクを託した。
「決して手放してはいけないよ。この中にはお母さんのノートが入っているのだから」
二人ともアウシュビッツ収容所で絶命したことを娘たちが知ったのは、終戦後しばらくしてからのこと。
子どもにとってはかなり重いトランクを懸命に運び続けた。そして、読む勇気もなく長年月がたっていった。娘は、母のプライベートな日記のようなものだと考えていた。
ところが、これは、イレーヌが不吉な予感にとらわれながらも、それを振り払うようにして書き続けた最後の長編小説だった。ついに2004年、1冊の本として出版された。
舞台は1940年初夏のパリ。ドイツ軍がパリへやって来る。太微とはパリを出そうとしている。そして、ドイツ軍はパリから地方都市へとやってきた。
ドイツ軍占領下の田舎町の人々の生活がつづられています。
正月休みに一人、事務所にこもって読みました。重たい本でした。近く映画になるということです。才能ある人を無惨に殺し、子どもたちから親を奪った戦争を私も憎みます。
強制収容所で非業の死を遂げた24歳のユダヤ人女子学生、エレーヌ・ベールの日記を前に紹介したと思います(岩波書店)。こちらも、60年たって2008年に一冊の本になったのでした。
さらに、同じようにベトナム戦争でアメリカ軍によって戦死したベトナム人の女医「トゥイーの日記」(経済界)があります。これは泣けて泣けて仕方のない本でした。いずれも忘れることのできない本です。
(2012年12月刊。3600円+税)