弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

ヨーロッパ

2013年2月 8日

カエサル(上)

著者  エイドリアン・ゴールズワーシー 、 出版  白水社

本のオビの言葉に驚きます。
 勝負師カエサル。
 ええーっ、カエサルって、勝負師だったのか・・・?
 陰謀と暴力に彩られた激しい政治抗争の時代、元老院議員がみな、おのれの野心のために競っていたなか、なぜカエサルだけがいつも失策を犯しながら勝ち残れたのか。現実主義カエサルの人生を彼自身の言葉に基づいて、気鋭のローマ史家が検証する。
 こんなふうに書かれたら、大いに興味をそそられますよね。読まずにはいられません。いったい、カエサルって、どんな人物だったのでしょう。といっても、上下巻2冊、1冊400頁近い大作です。どんどん飛ばし読みしていきました。
カエサルは、最終的にローマ共和政の最高権力を掌握し、称号までは得なかったものの、あらゆる実質的な意味で王として君臨した。
のちにカエサルの養子であるオクタヴィアヌスがローマ帝国の初代皇帝となった。その後、血縁関係も縁組関係もないのに、以後の皇帝たちはみなカエサルと名乗った。
 カエサルは貴族層の一家族の出身、しかもかなり目立たない家族の出身だったのに、事実上、最高かつ合法的な権力を象徴する称号となった。カイザーもツアーも、いずれもカエサルに由来する名称である。
 カエサルは、8年間にわたるガリア戦役で、少なく見積もっても10万人を殺害し、それ以上の人々を奴隷とした。ときにカエサルは冷酷きわまりなく、大虐殺や処刑を命じたし、大量の捕虜の手を切り落としたうえで、解放したこともある。
 カエサルが打ち負かした敵に対して慈悲を示したのは、敵がローマの支配を受け入れ、新しい属州で平和裏に税を支払う住民になることを望んだから。カエサルの態度は、冷徹なまでに現実的だった。
 カエサルは道徳的な男ではなかった。多くの点で道徳心を欠いている。そして、慢性的な浮気性で、妻や数多くの愛人に対して不誠実だった。
 カエサルは若いころから、自分自身が他人よりも優れていることを絶対的に確信していた。
 カエサルは共和政下のローマに生まれた。何世代にもわたってローマ人男性の大部分が軍務を果たした。それ以降、フランス革命期の政府が大規模な徴兵制を導入するまで、同程度の国家がこれほどの割合の人員を一定の期間をこえて動員したことはなかった。
 紀元前2世紀の中頃までは、人々が動員に抵抗することはあまりなかったようで、ほとんどの男性が喜んで兵役義務を引き受けた。
 軍団兵にはきわめて厳しい規律が課せられたにもかかわらず、軍団勤務はとても魅力的だった。というのも、戦利品や名誉を得る見込みがあったからである。
 軍は財産額に応じて区分された等級ごとに兵士を採用した。個々の兵士は、もっとも富裕な者は騎兵として、大多数は重装歩兵として、貧しい者や新兵は軽装歩兵として、従軍に必要な装備を自分で用意するように求められた。
 土地がもっとも一般的な財産の形態だったので、軍国の中核を構成したのは農民だった。農民兵にとっては、手早く勝ちを収めたら、自分の畑の収穫に間に合うように帰還するのが理想的だった。
 マリウスの志願兵の募集は、有産等級の代表から構成された市民軍から、圧倒的多数がきわめて貧しい人々から採用された職業軍へ移行するという重大な変化をもたらした。
貴族層にとって子どもの教育の場はもっぱら家庭だった。ローマでは子どもを無料の小学校に通わせるのは、中産階級の傾向であった。
 カエサルの弁論は聴衆を大いに引き付けた。そして、その弁論を出版した。
 紀元前1世紀のローマにおいて、貴族の妻たちはかなりの自由を謳歌していた。その多くが夫とは別に、結婚時の持参金をふくむ相当の財産を有していた。
 娘は、少なくとも子どもの頃は、その兄弟たちと同じような教育を受けていた。ラテン語とギリシャ語を学び、文学と芸術について深い審美眼を養った。
 ローマ最古の成文法典である十二表法には離婚についての規定はなかったが、長い伝統によって離婚は認められていた。共和制後期には、夫も妻も一方的に相方と離婚できた。夫が妻に「自分の物をもっていけ」と言うだけでよかった。
 カエサルは有権者の支持を得るために惜しみなくお金をつかった。相当な私財を費やして道路や建造物をつくった。有名なアッピア街道もその一つ。また、大規模な剣闘士士会も開催した。
 カエサルの競技会には320組の剣闘士たちが登場し、全員が銀で精巧に飾られた鎧をつけていた。ローマの人々は無料で開催された見世物や競技に舞中になった。
 カエサルはヒスパニア属州総督に就任した。これは金もうけの機会だった。
 カエサルは41歳のときにローマを出発し、担当する属州へと向かった。帰国したのは9年後のこと。カエサルが軍を率いて戦闘にのぞんだのは全部で50回にもなった。そして、『ガリア戦記』全7巻を書き記した。
 ローマ軍のもっとも重要な強みは、その規律と命令系統にあり、彼らが集団として効率的に動くことを可能にした。各部隊を補助するために、ローマの軍隊は、アウクシリア(補助軍)と総称された他国の兵士たちに頼った。その多くは、現地で採用された同盟者だった。
ガリアは、いかなる意味でも国家ではなかった。ガリア人の軍勢はまとまりに欠け、長期間の戦役で戦場を維持するための兵站能力を有していることは稀であって、指揮官たちが兵を操るのは困難だった。
 ヘルウェティイ族は36万8000人が移動した。その4分の1が戦闘可能な年齢の男性で、残りは女、子どもと老人だった。
 カエサルは、ローマ軍国の兵士に対して、「お前たち」とか「兵士諸君」ではなく、常に「戦友諸君」と呼びかけた。彼も彼らも、全員が良きローマ人であり、敵と戦うことで、共和制に奉仕し、それに伴って栄光と戦利品を獲得したが、それを全員が共有するよう、カエサルは持ち前の気前の良さで配慮した。
 以下、下巻に続きます。下巻が楽しみです。いよいよ、『ガリア戦記』のクライマックスが登場します。
(2012年9月刊。4400円+税)

2013年2月 3日

フランス組曲

著者  イレーヌ・ネミロフスキー 、 出版  白水社

アウシュヴィッツで殺されたフランス人の女流作家の原稿が戦後60年たって出版され、アメリカで100万部ものベストセラーになった小説です。
 著者はカトリックに改宗したユダヤ人でした。父親はロシアで裕福な銀行家であり、その一人娘として何の不自由もなく暮らしていました。しかし、ユダヤ人の両親はロシア革命によってフランスに亡命します。そして、イレーヌは、同じくユダヤ人銀行員の息子ミシェルとパリで知りあい結婚し、2人の娘をもうけるのでした。
 イレーヌは、『ダウィッド・ゴンデル』を書いて有名になり、その本は映画化されています。日本でも、1931年に翻訳・紹介されたそうです。
 イレーヌは、母から十分な愛情を注いでもらえませんでした。イレーヌの作品にもそれがあらわれているとのことです。
 それは富裕階級の一見華やかな暮らしの裏側にひそむ空虚、その精神的負担の摘出であり、親子とりわけ母と娘のあいだの憎しみと葛藤の描写である。そこには、少女時代の不幸の清算という側面も感じられるとはいえ、作品は個人的な感情に溺れるものではなく、人間の心理と行動に対する透徹した視線によって際立っている。卓越した人物造形に加え、同時代のヨーロッパ社会の抱える矛盾や歪みを大胆にとらえる強靱な批評的精神も認められる。印象的な場面の積み重ねによってスピーディーに物語を展開していく手腕も発揮されている。
 イレーヌたちは、パリを逃れて、ブルゴーニュ地方の小さな村にひっそり暮らしていた。そこへ、フランス人憲兵がやってきた。1942年7月13日のこと。当時12歳と5歳の娘たちへ、「何日か旅行に出かけるけれど、いい子にしていてね」と声をかけてイレーヌは家をあとにした。
 さらに、同年10月9日、夫のミッシェルも憲兵たちに連れ去られた。その別れ際、父は長女に小型のトランクを託した。
 「決して手放してはいけないよ。この中にはお母さんのノートが入っているのだから」
二人ともアウシュビッツ収容所で絶命したことを娘たちが知ったのは、終戦後しばらくしてからのこと。
子どもにとってはかなり重いトランクを懸命に運び続けた。そして、読む勇気もなく長年月がたっていった。娘は、母のプライベートな日記のようなものだと考えていた。
 ところが、これは、イレーヌが不吉な予感にとらわれながらも、それを振り払うようにして書き続けた最後の長編小説だった。ついに2004年、1冊の本として出版された。
 舞台は1940年初夏のパリ。ドイツ軍がパリへやって来る。太微とはパリを出そうとしている。そして、ドイツ軍はパリから地方都市へとやってきた。
 ドイツ軍占領下の田舎町の人々の生活がつづられています。
 正月休みに一人、事務所にこもって読みました。重たい本でした。近く映画になるということです。才能ある人を無惨に殺し、子どもたちから親を奪った戦争を私も憎みます。
 強制収容所で非業の死を遂げた24歳のユダヤ人女子学生、エレーヌ・ベールの日記を前に紹介したと思います(岩波書店)。こちらも、60年たって2008年に一冊の本になったのでした。
 さらに、同じようにベトナム戦争でアメリカ軍によって戦死したベトナム人の女医「トゥイーの日記」(経済界)があります。これは泣けて泣けて仕方のない本でした。いずれも忘れることのできない本です。
(2012年12月刊。3600円+税)

2013年1月25日

私はホロコーストを見た(下)

著者  ヤン・カルスキ 、 出版  白水社

ナチス・ドイツの魔の手から救出・解放されたあと、ヤン・カルスキは農村地帯に匿われます。そこで、健康を回復するのです。ポーランド・国民の全体として抵抗する風土がカルスキを助けました。しかし、著者を匿った一家も無事ではありませんでした。あとでナチス・ドイツに銃殺されているのです。
ポーランド亡命政府はイギリスのロンドンにあったが、ポーランド国内に地下秘密政府(レジスタンス)がしっかり根づいていた。
 これがよその国と決定的に異なるところです。フランスにもレジスタンスはありましたが、地下(秘密)国家というべきものはありませんでした。
 たとえば、地下政府は、金曜日に、ナチの新聞をポーランド国民は買ってはならないと指示した。すると、たちまち、金曜日発売のドイツ語新聞の発行部数は大幅に減った。それほどレジスタンスは、ポーランド国民から信頼されていた。
 さらに、レジスタンスの財政危機を打開するため、亡命政府は国債を発行することにした。そして、国債発行は大成功をおさめ、レジスタンスの活動を続けることができた。
レジスタンスは新聞も発行した。それは、4頁から16頁のものである。そして、発行人はワルシャワのゲシュタポ本部に1部を郵送してやった。ポーランド国民の気持ちを伝えるためである。レジスタンス機関は、地下新聞を介して住民との接触を絶やさずにいた。地下新聞のおかげで何が起きているのか、住民はいつでも知ることができた。住民の希望の日を燃やし続けているのも、地下新聞だった。
 地下活動における鉄則は「目立つな」である。秘密文書を個人宅に秘匿するための技術は、ポーランド国内で信じられないほど発展を見せた。二重壁、二重天井、二重の床板、抽出の二重底、浴室の偽配管、偽オーブン、細工家具など・・・。
地下活動には女性が適している。危険をすばやく察知するし、不幸に見舞われても男のようにいつまでもくよくよしない。人目につかない点でも男にまさっている。およそ女性の方がより慎重で、無口、良識を備えている。
 男は、大げさだったり強がったりと、往々にして現実を直視しない傾向がある。そして、何か謎めいた雰囲気を漂わせてしまう。それが遅かれ早かれ、致命傷となる。
 地下活動に携わるものが忘れてはならない重要な原則は、可能なかぎり自分の住まいを任務から無関係にしておくこと。政治活動をする者は、準備をしない、誰とも待ち合わせをしない、自分の寝る場所に秘密文書などは置かない。それを行動規範にする。それをしていれば、最低限の安全を確保したという気分になれ、絶え間ない不安から逃れられるし、恐怖心を抱かずに眠れる。
 女性連絡員の活動(寿命)は数ヶ月をこえることがない。女性連絡員こそ、占領下ポーランドにおける女性の運命を象徴している。より多く苦しんだのは彼女たちであり、その多くは命を失った。1944年に600人いたワルシャワの連絡員の50%は、ガールスカウト出身だった。
地下政府は地下学校を開いた。ワルシャワにあった中学と高校の103校のうち、90校が地下学級を持ち、2万5000人の高校生が授業を受けた。1944年までにワルシャワのみで6500のマトゥラ(大学入学資格)が秘密裡に授業された。高校教育(大学)は、ワルシャワだけで5000名の学生がいた。
 これらのおかげで、戦後のポーランド公教育の復活・維持が可能となった。
 ヤン・カルスキはユダヤ人ゲットーの中に潜入した。それは可能だった。地下室の出入り口がゲットー内に続く構造になっていた。絶望収容所までヤン・カルスキは見ています。
 この本を読んで残念なのは、ヤン・カルスキが自分の目で見た事実をアメリカのルーズヴェルト大統領などに直説話して伝えたのに、アメリカそしてイギリスを動かすことにならなかった事実です。アメリカもイギリスも、ソ連のスターリンへの遠慮そして国内政治状況の下で、ヤン・カルスキの訴えが結果的に無視され、何百万人ものユダヤ人殺戮が止まらなかったのでした。
 しかし、それにしてもヤン・カルスキの知恵と勇気そしてポーランド国民の不屈さには脱帽です。

(2012年9月刊。2800円+税)

2013年1月22日

ワルシャワ蜂起1944 (下)

著者  ノーマン・ディヴィス 、 出版  白水社

1944年8月に始まったワルシャワ蜂起は2ヶ月間続いたわけですが、その間ワルシャワ市内で文化行事が続いていたというのです。信じられません。
 パラデュム映画館では、朗読会、演奏会、演劇が連日開催された。平穏な夕方には、アマチュア劇団が野外劇場で劇を上演した。蜂起の期間中、ラジオ、映画、演劇、写真、マンガ、美術、文学などがワルシャワ市民の文化的生活を支える働きをした。
 詩が奔流のように生まれた。自然発生的に数十人もの新進詩人が現れた。
 西部戦線の英米軍は北西ヨーロッパとイタリア戦線で100万のナチス・ドイツ軍を相手に苦戦していた。東部戦線のソ連軍は200万のナチス・ドイツ国防軍と対峙して圧倒していたが、ベルリンの首相官邸の窓から東をのぞめば、ワルシャワまでわずかな距離でしかない。ワルシャワを手放すわけにはいかない。ソ連軍の到来前に、蜂起軍を粉砕しなければいけなかった。
 イギリスのメディアは、ワルシャワ蜂起について報道しなくなっていった。フランス国内のレジスタンス運動は華々しく報道されているのに、ワルシャワ蜂起の動きについては何も報道されなかった。
 アメリカのルーズヴェルト大統領は、ワルシャワ支援はソ連(スターリン)の協力を前提とするという態度をとった。ソ連はポーランド国内の抵抗運動が絶滅することを、むしろ望んでいた。
 イギリス空軍がワルシャワ蜂起支援のために空中から投下したコンテナ1284個のうち、8割はドイツ軍の支配地区に落下した。
 ソ連軍は蜂起軍を味方と考えていなかった。そして味方のはずの人民軍というのには実体がなかった。ワルシャワにおける共産党系勢力は質量ともに、とるに足りない存在でしかなかった。スターリンが戦前にポーランド共産党の幹部を絶滅していたからです。
 ついに蜂起軍はドイツ国防軍と降伏協定を結ぶことになりました。
 投降する国内軍(蜂起軍)兵士は10月3日、4日、5日の3日間、朝から夕方まで続いた。全部で1万1668人の兵士が降伏した。女性兵士2000人がふくまれていた。兵士は、対戦車ロケット砲、ステンガン、ライフル銃、拳銃をもって行進した。昂然と頭を上げ、誇り高く4列また6列で行進していった。見ていたドイツ軍士官は「あの誇らしげなポーランド人たちを見ろ」と大声で部下に向かって叫んだ。そして、数十万人の市民が歩いてワルシャワ市内を脱出した。
 その中に国内軍の予備司令部の要員もまぎれていたのです。これまたすごいことですね。ポーランド南西部の町に行き、抵抗軍の司令部を再建するという任務をもっていたのです。壊滅したかにみえたポーランドの偉大な抵抗運動は、まだ生き残っていた。
 ワルシャワ蜂起が敗北したあとも、ポーランド国内には20万人を上回る一の国内軍兵士が依然として戦闘態勢を維持し、ドイツ軍を悩ましていた。そして、1945年1月に国内軍は解散した。
 10万人をはるかにこえるワルシャワ市民がドイツ本国に送られ、降伏協定に反して奴隷労働を強制された。
 ヤルタ会談にのぞんだアメリカのルーズヴェルト大統領は死期を間近にしてうつ状態にあった。イギリスのチャーチルはもっとも弱い立場だった。チャーチルとルーズヴェルトは、スターリンによる東ヨーロッパ支配を黙認した。
 ドイツ軍青年士官が親にあって書いた手紙に、ワルシャワ蜂起軍について次のように書いた。
 「蜂起軍は実に英雄的に戦い、降伏に際しても名誉を失わなかった。蜂起軍の戦いぶりはドイツ軍よりも優れていた。学ぶべきところは、
 第一に、こんなかたちで外国を征服しても、何ら意義のある結果は得られないこと。
 第二に、不屈の精神、忠誠心、愛国心、自己犠牲の精神などはドイツの専売特許ではないこと。
 第三に、都市の抵抗は何ヶ月も持ちこたえることができる。攻撃側も重大な損傷を免れない。
 第四に、人間は戦闘精神や純粋な勇気があれば、多くを成しとげることができる。しかし、最後には、どんな精神力も物質的優位の前に屈することになる」
 「ぼく自身、もしポーランド人だったら、ドイツの支配下で生きたいとは思わないだろう」
 「降伏の行進のとき、ポーランド蜂起軍の兵士は民族の誇りを失わず、昂然と頭を上げて行進し、絶望の表情を少しも見せなかった。見上げた人々である」
 私は、この手紙を読んで、これだけでも、この書評で紹介する価値があると思いました。ポーランドの底知れぬ力強さ、不屈さには、ただただ圧倒されてしまいます。
 ワルシャワ蜂起の敗北のあとも、ワルシャワに潜伏した人が3000人以上もいたというのですから、これまた驚きです。やがてドイツ軍が去るのを待っていた。彼らの大半は、ユダヤ人であり、国内軍の医療班で働いていたユダヤ人が多かった。そして、映画『戦場のピアニスト』で有名になったシュピルマン(当時33歳)もその一人だった。
 ソ連軍がポーランドを占領すると、ワルシャワ蜂起は否定されます。そして、戦後のポーランド政府も同じでした。ソ連崩壊を待つまで、50年間、否定され、隠されてきたのです。
 下巻も500頁ほどの大作ですが、一心不乱に読み通しました。
 記念すべき歴史書として、一読をおすすめします。
(2012年11月刊。4800円+税)

2013年1月17日

ワルシャワ蜂起(上)

著者  ノーマン・デイヴィス 、 出版  白水社

この本を読んで、すっかりポーランドびいきになってしまいました。国民が全体として自由をかちとるためには死をも恐れず、団結していたなんて、心が震えるほどの感動を覚えました。
 ワルシャワ蜂起というと、ナチスに対する無謀なたたかいだったというイメージがあります。また、ワルシャワ市民が決起して何か月も死闘を目の前で繰り広げているのをソ連赤軍は腕を組んで見殺しにしたという暗いイメージがあります。
 蜂起が成功しなかったのはたしかですが、それでもポーランド市民の不屈の勇気は大いなる称賛に値するものと思います。蜂起なんて無謀だった、愚かな過ちだったなどと非難するのは許されないことだと、上巻だけでも550頁もある本書を何日もかけて読んで痛感しました。
 ワルシャワ蜂起が起きたのは1944年8月。6月にノルマンディー上陸作戦があった、連合軍がフランスを経て、ドイツに迫ろうというときです。パリではレジスタンス勢力が蜂起し、ワルシャワとは違って、パリ市内に残ったナチス・ドイツ軍を降伏させることができました。ワルシャワで蜂起した国内軍はパリ蜂起を祝っています。ところが、ナチス・ドイツ軍はワルシャワから撤退するどころか、各地から応援部隊を投入し増強したのです。そして、ソ連赤軍はスターリンの指示によって対岸から動かず、ひたすら情勢の推移を見守るのでした。
 イギリスは、大陸戦を自力で戦う能力をもっていなかった。1939年当時、英国陸軍の地上軍はチェコスロヴァキアよりも小規模だった。そのうえ、イギリスの財政事情は破綻寸前だった。イギリスの厳しい財政状態は、欧州戦争を戦うか、それとも大英帝国を救うかの二者択一を迫っていた。当時、たよりになる唯一の支援国であるアメリカから莫大な財政援助が得られない限り、勝利する可能性はほとんどゼロだった。
 ソ連は政治的粛清と大量処刑の渦中にあり、国家機能をマヒさせるような重大危機が進行していた。そして、赤軍はモンゴルで日本軍と戦争状態にあった。
 ポーランドは、ナチス・ドイツとソ連軍が分割支配した。ソ連のNKVDは、占領の前に占領したあと即刻逮捕すべき者の住所・氏名の膨大なリストを用意していた。そして、ポーランド軍将校と警察部隊の士官2万5千人がNKVDの捕虜となり、数か月間の取り調べの後、冷酷に射殺された(カチンの森事件)。
 1930年代にソ連国内で結成されたポーランド共産党はスターリンによる粛清の対象となり、ほとんど党の全活動家に相当する5000人の男女が、大部分はユダヤ人だったが、スターリンの命令で銃殺された。そのため、開戦当時のポーランドには、組織的な共産主義運動は存在しなかった。
 1940年7月から10月にかけて続いた英国本土上空の空中戦、バトル・オブ・ブリテンは、英国空軍がゲーリングのドイツ軍に粘り勝ちした。このときイギリスから出撃した英国空軍の操縦士の10%はポーランド人パイロットだった。そして、撃墜した敵機の12%はポーランド人パイロットの功績だった。
 ポーランド空軍飛行中隊の比類ない勇気と目覚ましい戦果がなければ、果たしてイギリスがバトル・オブ・ブリテンに勝利できたかどうか疑わしい。
 これは、イギリス空軍大将の言葉である。そして、連合国空軍によるドイツ爆撃作戦についてもポーランド空軍兵士の貢献には目覚ましいものがあった。
 イタリアを進んでいた連合軍はモンテ・カッシーノ要塞を攻めあぐねた。この攻防戦においてもポーランド軍2個師団の勇敢な兵士たちの活躍は目覚ましかった。
 ワルシャワは、世界でもっともユダヤ人の数が多い都市だった。やがてニューヨークが世界一になるが、そのニューヨークのユダヤ人の多くは、ワルシャワからの移民だった。
1918年、ユダヤ人はワルシャワの全人口の40%をこえ、まもなく過半数を占めると思われていた。ユダヤ人は、少なくとも500年前からワルシャワ住民だった。貴族階級がユダヤ人を保護していた。ワルシャワに住むユダヤ人の大多数は、ポーランド人とまったく同じ権利を持ち、ポーランド人と同じような考え方をしていた。
 あの有名なコルチャック博士も、ポーランドに同化したユダヤ人だった。
 ユダヤ人は、ポーランド全人口の10%でしかなかったが、大学生の比率は、はるかにそれを上回っていた。ワルシャワ大学の法学部と医学部の学生の過半数はユダヤ人だった。
 アドルフ・ヒトラーは、心の底からポーランドを憎悪していた。ポーランドは、スラヴ人とユダヤ人が住む国だったが、ナチスの教義では、その両方ともが人間以下の存在だった。
 ヒトラーは部下たちに対して、ポーランドでは可能な限り残忍に行動するよう命令した。
 ドイツのポーランド占領作戦は、他の西欧諸国に対する占領政策とは大きく異なっていた。総督府の使命は、「あらゆる手段をつかってポーランド人を最終処理する」ことにあった。
 ワルシャワ・ゲットーの人口は、最大時には38人に達した。1939年11月から1943年5月まで存在した。ゲットーの唯一の自衛手段はユーモアだった。誰も彼もが、必至の思いで現実から逃避しようとしていた。
 1943年4月、ゲットー蜂起が始まった。しかし、ゲットーの住民の中にも同胞の苦悩にまったく無関心な富裕層がいた。ゲットーの中でも、少数の金持ちは豊かな生活を送っていた。1943年のゲットー最後の日までダンスとコンサートを欠かさず、外で銃砲が飛びかっているなかでフルコースの料理を楽しむ一家も存在した。
 ええっ、ウソでしょ、そんな・・・と思ってしまいました。
 密使ヤン・カルスキがゲットーの中に立ち入り、イギリスにわたって、報告したことは別の本で紹介しました。
 ゲットー内のユダヤ人警察は、ナチス親衛隊の手先となってユダヤ人を殺害した。そうすることで自分自身が生きのびる期間が見つかると愚かにも信じていたからだ。
 これを愚かと言うには、あまりに残酷すぎますよね・・・。
 コルチャック博士は、自分の孤児院の子どもたちと一緒にゲットーに囲い込まれ、最後は子どもたちの手を引き、歌をうたいつつ、楽しい「ピクニック」へ出かける夢を語りながら絶滅的収容所への道を歩いていった。
 その気高さには、何度も涙が出て止まりませんでした。
 ゲットー蜂起とその失敗を多くのワルシャワ市民は聞いたことがないか、聞きたいとも思わなかった。噂が耳に入っても、どう理解すればよいか分からなかった。
 ポーランド人を奴隷民族にするという目標にあわせて、ナチスは強制労働システムを導入した。
 戦争中に200万人のポーランド人労働者がドイツ本国に強制移送された。
 ウッチ少年収容所に収容されていた1万3000人の子どものうち、1万2000人が収容所内で死んだ。
自由を求めて闘う気風はポーランドの長い伝統である。祖国を分割した列強勢力(ロシア、オーストラリア、プロイセン)に対して19世紀に繰り返し発生した武装蜂起は、ポーランドの歴史を語るうえで欠かせない重要事件である。
 決定的に重要な役割を果たしたのは女性だった。ポーランドの女性は、妻として、女として、また祖母として、民族の伝統を受け継ぎ、社会の基本構造を守り、活動家を支え、男たちにその果たすべき役割を教えた。女性がみずから武器をとって戦いの先頭に立つことさえあった。
 ポーランド地下抵抗組織は、誕生の最初の段階から確固たる命令系統と正統な法的枠組みの中で活動する組織だった。抵抗運動の最終目標が占領軍に対する一斉武装蜂起であることは、関係者全員にとって暗黙の了解事項だった。
 ポランド市民がドイツ侵略軍に協力するというのは、例外的な場所を除けば皆無だった。ポーランドのレジスタンスが選んだのは、危険と孤立と犠牲の道だった。
 勝利とは、敗北に耐えること。そして降伏しないことだ。抵抗運動を自発的、本能的に支えるという雰囲気が社会全体にあった。
 1944年7月は、ポーランドの地下国家閣僚会議が成立した。秘密国家は機能していた。地下国家の司法制度は地下の秘密裁判所と国内軍の軍事法廷によって支えられていた。対独協力者は処刑され、判決は公表された。ワルシャワの地下裁判所は220人に対して死刑判決を下した。
 1944年8月に始まった蜂起について、一般市民がこぞって熱狂的に蜂起を支持したというのは単なる伝説だ。正確に言えば、ワルシャワ市民の大多数は蜂起軍に共感していたが、蜂起とは無関係の立場を維持し、ひたすら自分が生き残ることのみを考える市民も多かった。 
 蜂起に対して、ソ連のスターリンは見殺しにし、アメリカも放置し、イギリスのチャーチルのみ空爆その他で援助したようです。
 蜂起したあとの経緯をたどるのは、心苦しいばかりではありますが・・・。下巻に続きます。

(2012年11月刊。4800円+税)

2013年1月 6日

知られざる大英博物館

著者  NHKプロジェクト 、 出版  NHK出版

実はイギリスにはまだ行ったことがありません。ヒースロー空港に乗り換えで降りたことはありますが、外には出ませんでした。大英博物館でロゼッタストーンの原物、そして、カール・マルクスが通っていた机と椅子を見てみたと思っているのですが・・・。
ニューヨークにあるメトロポリタン美術館には行ったことがあります。そのエジプトの館に足を踏み入れたときの、膨大な物量に圧倒されると同時に、これってみなエジプトからの略奪品じゃないのかしらんと疑ってしまいました。ヨーロッパの帝国主義列強のアフリカ分割支配の「成果」ではないでしょうか。
 大英博物館にしても、ナポレオンのエジプト遠征の失敗から、イギリスがその成果を横取りしたというものです。それにしても古代エジプトの栄華はすごいものです。しかも、それが何千年も脈々と続いていたというのですからね。
 そして、なんと言っても古代エジプトについて文字があって、それが解読されているため、当時の生活そして社会構造まで分かると言うのがすごいことですし、読んで楽しいのです。
 大英博物館の展示室で公開されているのは膨大な収蔵品のわずか1%のみ。残る99%は人知れず収蔵庫に眠っている。古代エジプトコレクションは15万点、展示室にはそのうち3500点のみ。
 古代エジプトにもパンがあり、給与としてパンが支給されていた。通貨はまだなかった。
 古代エジプトの人々は、死後、再生復活できると固く信じていた。来世には「イアル野」という楽園が待っていて、そこで幸せに暮らせると信じて疑わなかった。そのために必要と考えられていたのがミイラだった。
 ミイラを腐らせるものは、とにかく除去された。内臓は取り出され、死後も来世で必要と考えられていた4つの臓器、つまり肝臓・肺・胃・腸は専門の壺カノポスに入れられ、ミイラとともに埋葬された。体に残された唯一の臓器は心臓だった。心臓は、その人物の人格そのものであり、死後、冥界の神オシリスの前で受ける「最後の審判」を通過するときに必ず必要だった。
 逆に、脳は「鼻水」だと勘違いしていて、鼻の骨を砕いて、そこから特殊な棒ですべてをかき出していた。
そうなんですか・・・。頭の脳を大切なものと思わなかったというのは、不思議です。
古代エジプトでもワインが飲まれていた。ただし、ファラオ(王)や貴族など、裕福な人々の飲み物だった。庶民は主にビールを飲んでいた。
今から3200年前、古代エジプトに生きた「ケンヘルケプシェフ」という名前の書記は、手紙、教科書、会計簿などのパピルスを集めていた。
 子どものころは、とにかく勉強させ代、そうしないとダメな大人になってしまうぞ、お前が学問に通じていれば、人々は皆お前の言葉を信用するだろう。
 これは、「アニの教訓」と呼ばれているものです。
 古代エジプト社会では、文字が書けることは、想像する以上に重要なことだった。人々は書記になることを望み、そのための教育を受けることを切望した。
 パピルスのなかにはラブレターもある。男女が交互に語りあうかたちで、17篇の愛の詩が書かれている。
 古代エジプトでは、結婚は夫婦間の契約を結ぶ意味もあった。結婚すると、夫婦の財産の3分の1の権利を得ることができた。また、夫が死んだときには、遺産の3分の1が妻のものとなり、残りの3分の2は継承者のものとなった。その継承者のなかにも妻がふくまれていて、子どもたちと財産を分けることになっていた。
 さらに、離婚する権利は男女双方が持っていた。古代エジプトは、女性の権利も認められた、男女平等の社会だった。
王墓はファラオの罪名中に造り終えることが求められた。もし、建設途中でファラオが亡くなってしまえば、その時点で作業は中止された。
 パピルスにはピラミッドのつくり方を解説し、その計算問題などまであるというのには、驚きました。しかも、かなり高度な数式が使われているのです。
パピルスには、ファラオから支払われる給料の遅延に抗議してストライキが発生したことまで記録があるとのこと、これには腰を抜かしそうになりました。
知られざる古代エジプトのいくつかを知ることのできる本でした。
(2012年6月刊。1800円+税)

2013年1月 2日

愛と欲望のナチズム

著者  田野 大輔 、 出版  講談社選書メチエ

ヒトラーがなぜ独身だったのか、自殺する寸前に愛人のエヴァ・ブラウンと結婚したのはなぜなのか。そして、ナチス・ドイツは禁欲的生活を国民に強いていたのか・・・。いろんな疑問を次々に解明していく本です。
 ヒトラーは、女性について慰みもの以上の価値を認めていなかった。そして、恋愛や結婚も印象操作の道具程度のものと考えていた。
 多くの女性が私(ヒトラー)に好意を寄せているのは、私が結婚していないからだ。闘争期には、これが重要だった。映画俳優と同じだ。彼に憧れる女たちは、彼が結婚したら何かを失ってしまい、もはや彼は偶像ではなくなる。
 ヒトラーは、総統が民族に貢献する私心なき指導者であるというイメージを守るため、若い愛人の存在を国民の目から隠し続けた。
 ヒトラーは、高潔さを装う偽善的な姿勢をとり続けた。ナチス・突撃隊の幹部が粛清された1934年6月30日の「長いナイフの夜」は、隊長のエルンスト・レームが同性愛者であることは周知の事実で、ヒトラーもそれをながく黙認していた。しかし、突撃隊と国防軍の対立が表面化したとき、ヒトラーは政治的理由からレームを切り捨て、道徳的純潔の擁護者になりすました。
「健全なる民族感情」の代弁者をもって自認したナチズムは、疑いなくヌードの氾濫を黙認し、奨励すらしていた。ナチズムは、社会生活にはびこるエロティズムをユダヤ人の責任に帰することで、ナチス自身がそれを促進していた事実を曖昧にしていた。
 ナチス・ドイツでは婚前・婚外交渉が一般化していた。ナチ党が権力を掌握してから、警察は、街娼の摘発・逮捕を通じて「街頭の浄化」を進める一方、売春宿の営業を監視・規制することこそ警察の義務だとした。市当局も売春の存続に関心を払っていた。国防軍も売春宿を必要と認め、売春婦の逮捕は控え目にするよう求めた。
戦争が始まると、政府はただちに政令を出して売春の管理を強化した。国防軍は政令にもとづき、帝国全土および占領地域で軍用売春宿を次々に設立した。
 「公的な不道徳」の撲滅を唱えて売春の一掃に乗り出すかに見えたナチズムが、結局のところ売春の封じ込めと組織化に舵を切った経緯は、道徳的に純潔な体制という外観を守りつつ、実際には性欲の充足を奨励して、これを国家目的に動員しようとする狙いを照らし出している。
 ナチス・ドイツの支配の本質をえぐり出した本だと思いました。
(2012年9月刊。1800円+税)

2012年12月28日

私はホロコーストを見た(上)

著者  ヤン・カルスキ 、 出版  白水社

『ワルシャワ蜂起』を読んで、ポーランド国民の不屈の伝統を知り、大いに見直したばかりです。
 この本は、元ポーランド・レジスタンス機関の密使カルスキが語ったものです。そのすさまじさに圧倒されます。ところが、ヤン・カルスキは自分の任務は失敗したと思い、1945年以来、ずっと沈黙していたのでした。1981年10月になって忘却のなかに埋もれていたヤン・カルスキは再登場したのです。
 1942年夏、トレブリンカ絶滅収容所への大量移送後もまだワルシャワで生きのびていたユダヤ人ゲットー代表者からの要請を受け、カルスキは自分が目撃したユダヤ民族絶滅作戦の実態を連合国首脳に伝えようと、1942年11月末、ワルシャワからロンドンに到着するなり必死に動いた。
 ヤン・カルスキはユダヤ人ではないが、周囲にはユダヤ人家族が多かった。カルスキは予備士官学校に入って、そこを首席で卒業し、外務省に入った。1940年2月、陸軍少尉として初めて密使としてパリへ行った。そのたぐいまれなる記憶力、緻密さ、分析力は、「逸品」と評された。
 1942年10月に密使として出発するときには、カトリックの聖体とともに致死量の青酸カリも手渡された。
 ワルシャワ・ゲットーに対するナチスの「大作戦」と、トレブリンカ、ベウジェツ、ソビボルという名に象徴される絶滅作戦に関するすべての報告書をポーランド地下の国内軍(AK)情報部はマイクロフィルムにおさめていた。それをカルスキはカギの中に隠してパリまで運んだ。そのあと、ロンドンに届けられた。
 1942年12月、カルスキはロンドンでイギリス政府およびユダヤ人代表に口頭で報告した。さらに、1943年7月、アメリカでカルスキはルーズヴェルト大統領に直接報告した。
 つまり、アメリカもイギリスも、その最高首脳部はナチス・ドイツのユダヤ人絶滅作戦が進行中であることを直接きいていたのです。それでも、彼らはユダヤ人救出作戦を発動することはありませんでした。自国の都合を優先させたのです。アメリカ国内のユダヤ人勢力も、その点では似たようなものでした。結局、同朋を見殺しにしてしまったのです。
 ヤン・カルスキは、密使としてワルシャワからパリに行く途中でゲシンタポに捕まり、ひどい拷問を受けます。そして、自殺を図って病院に運び込まれるのでした。その病院は全体がレジスタンスに組み込まれていて、ついにカルスキは救出されました。
 何とも感動的な話です。下巻に続きます。
(2012年9月刊。2800円+税)

 本年もお読みいただきありがとうございました。
 今年よんだ本は560冊ほどです。弁護士会の用事が増えて出張が多くなると、読書タイムがそれだけ増えますので、うれしい面もあります。
 といっても、弁護士会の用事が増えたというのは、自民党が「大勝」して憲法改正の気運が強まっていることによりますので、本当は困ったことだと考えています。
 それはともかく、新年も引き続いて書評を書き続けますので、ご愛読をお願いします。

2012年12月20日

ヒトラーに抗した女たち

著者  マルタ・シャート 、 出版  行路社

ヒトラーとナチス・ドイツに反抗した女性を紹介した本です。信念に生き、死をも恐れなかった女性の姿が光り輝いています。
 1934年から44年までの間、ナチス・ドイツで1万1900人が処刑されたが、そのうち女性が1100人いた。1933年にナチ党員の中の女性は6%。全女性の1%にも満たなかった。
 ヒトラーが政権をとると、女性国会議員は地位を失い、懲役刑や禁錮刑に処せられた。女性は、あらゆる公式の場から追放された。ヒトラーは、政治問題に首を突っ込むような女は、身の毛がよだつと公言した。女性には、選挙権も被選挙権も与えられなかった。そして、市民レベルの女性団体はすべて解散させられるか、ナチスに吸収された。
 アメリカ人の女性ジャーナリストはヒトラーに会ったときの様子を、次のようにレポートしました。
 彼は不恰好、ほとんどこれといった特徴がなく、顔立ちは戯画めいて、体は軟骨からできているような男だった。口から出まかせに矛盾したことをべらべらとしゃべり、気分にむらがあって落ち着きがなく、まさしく器量の小さい男の典型だった。
 顔には、内的葛藤や自己抑制を経験した痕跡が皆目みられない。
 眼だけは注目すべきものがあった。濃いグレーで、甲状腺痛みの典型的なもので、しばしば天才やアルコール中毒者やヒステリー患者の特徴である、特異な輝きを放っていた。答えるとき、質問者の顔を一度も見ず、部屋の奥に視線をすえて、うわの空ののような印象を与えた。
 彼は劣等感をかかえている男である。劣等感を持った庶民とはうまがあう。
 ヒトラーが政権の座につけば、政敵のうちでもっとも弱い者に襲いかかるだろう。
 ヒトラーは、仮面をはががされる瞬間に、不安なり、不機嫌になる。そして、権力のある背後に、身を隠す。
 1943年8月5日に処刑された女性、ヒルデ・コッピについて、教誨師が小さなカードに次のように書いていた。これを戦後、大きくなった息子が見つけた。
 ヒルデ・コッピは人の心をうつ人物で、やさしく、繊細で勇敢で、まったく無私である。彼女は、人間による「恩赦」をあてにしなかった。
 また、あるゲシュタポの警部は次のように語った。
 被告人は、ユダヤ人にしても、道徳あるいは職業の面からいっても、質の悪い人間とは言えなかった。エリートであることが問題であったと言える。国家に対して彼らが抱いていた敵意は、事実にもとづいた動機によってしか説明できないもので、この印象こそ、ドイツ国内外の人々にきわめて用心深く隠しておく必要があった。
 ヒルデ・コッピは保険会社に働く共産党員であり、妊娠中だった。刑務所で出産した8ヵ月後に処刑された。
 1943年3月、ベルリンで何百人もの女性が集まり、自分たちの夫や家族であるユダヤ人の強制移送された抗議の声をあげた。ナチス親衛隊は、ベルリンの通りに集まった女性たちに機関銃を向けたが、撃つことはなかった。女性たちは、既に数多くの辱めや心配事、困難を経験ずみなので、全体主義的な政権の命令にさえ反旗を翻す覚悟ができていた。
 ベルリンでは、結局、8000人ものユダヤ人が戦後まで生き延びた。
 1943年2月、有名な「白バラ」グループが逮捕され、処刑されています。大学生グループです。3人は毅然たる態度を貫き、看守たちに感銘を与え、看守は3人に対してタバコを1本回して吸うあいだの面会を許した。そして、ゾフィー(女性)から先に斬首された。続いて、兄と友人も斬首された。
 ゾフィー・ショルは、自分と兄が処刑されたあと、学生たちがこぞってヒトラーに対して起ちあがると固く信じていたが、彼女が期待した叛乱は起こらなかった。
 かえって、学生たちは、足を踏みならして告発をした大学の用務員に賛意を示した。
 そうなんですね、大衆はすぐには反乱に起ちあがらないものなんです。でも、やがて、自らの死でそれをあがなうことになります。その大半が戦場に行かされて・・・。
勇気ある女性の起ちあがりがあったからこそ、今ここに私たちが平和に生きているわけですよね。本当にありがたいことです。
(2012年3月刊。2800円+税)

2012年12月19日

低線量汚染地域からの報告

著者  馬場 朝子・山内 太郎 、 出版  NHK出版

チェルノブイリ、26年後の健康被害というサブタイトルがついています。福島第一原発から放散し、流れ出ていった莫大な放射性物質による健康被害がとても心配です。電力不足とか電気代を心配する前に、人間の生存それ自体が脅かされていること、そして、それが何万年も続いていくことの恐ろしさにもっと思いを致すべきではないでしょうか。
 1986年4月26日、チェルノブイリ原発4号炉が爆発したことによって、放射線を帯びた粒子90トンが外部に放出された。そして、事故から26年たった今でも1万平方キロメートルの立ち入り禁止区域が周辺に広がっている。それは、東京、神奈川、埼玉そして大阪をあわせたくらいの広さであり、その土地に暮らしていた40万人がふるさとを追われた。
 原発周辺の高汚染地域からの避難民のうち、慢性疾患をもつ人は1988年に31.5%だったのが、2008年には78.5%に増えた。
 がんの発症率は事故前に10万人あたり200人だったのが310人と、1.5倍に増えた。リンパ腫と白血病について、事故前に26症例だったのが255症例となった。
事故当時、青少年だった人たちが40歳までのグループに入り、2007年に9人、2008年は15人、2010年に17人、2011年には22人ががん疾病を有している。
 一番多く影響を受けているのが、1970年と1971年生まれの人々。つまり、事故当時、15歳、16歳だった人。活発な生殖成熟期に事故にあった人たちに、がん症例が多く認められる。甲状腺、白血病、乳腺などにがんを発症している。
 事故前には年に数例だった先天性障害のある子どもが、今では年に30人から40人も生まれている。
 甲状腺がんの罹患率が上がっている。チェルノブイリ事故前は、全世界において甲状腺がんは滅多にない疾病だった。今では、年間700症例が記録されている。事故当時、子どもや青少年であった人たちだ。26年たって、少し収まるどころか、増え続けているし、いつまで増え続けるのか、誰も予測できない。
 子どもたちの目から、1000人あたり234人の割合で水晶体に異常が見つかった。これは白内障の前段階だ。
 チェルノブイリ事故のあと、学校では、子どもたちが疲れやすいことから、45分の授業時間を低学年は10分、高学年は5分短縮している。そして、子どもの8割が何らかの病気をもっている。
 うひゃあ、そんな恐ろしいことが・・・。
 485人の生徒のうち48.2%に甲状腺などの内分泌疾患が見つかった。背骨が曲がっているとか、背中に異常がある肉体発育障害が22.1%、目の障害は19.2%、呼吸器官に障害のある子どもは6.7%、消化器疾患・神経疾患は5%・・・。
 この現実を前にしてでもなお、「原発推進」を叫ぶのでしょうか、信じられません。原子力発電所なるものは核兵器と同じで、つくってはいけないものだったのです。即時、脱原発です。
(2012年9月刊。1400円+税)

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