弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
ヨーロッパ
2013年6月 7日
消えた将校たち
著者 J・K・ザヴォドニー 、 出版 みすず書房
カチンの森虐殺事件について書かれた本です。その残虐さでは、ヒトラーに匹敵するスターリンによる大虐殺事件が起きました。そして、ソ連はナチス・ドイツによるものだと言い張ったのです。驚くべきことに、アメリカもイギリスも、スターリンの機嫌を損ねたくないため、そのソ連の詭弁を受け入れ、真相究明をしませんでした。
なぜスターリンは、カチンの森虐殺事件を起こしたのか?
その答えが本書で明らかにされています。要するに、スターリンはポーランドをソ連の支配下に置きたかった。それを邪魔するようなポーランドの知識階級(指導階級)を地上から抹殺しようと考えたということです。
ソ連軍に捕らわれたポーランド軍1万5000人が行方不明となった。そのうち8000人以上が将校だった。
ナチス・ドイツは1943年4月、多数のポーランド軍将校がソ連に殺害されているのを発見したと発表した。これに対して、ソ連側は、直ちにポーランド軍捕虜を殺したのはナチス・ドイツだと反論した。
カチンの森には、死体でいっぱいの、深さ3メートルほどの集団墓穴が8つ発見された。死体は顔を下に、両手は両脇にそってか、背中でしばりあげられ、足はまっすぐに伸び、9層から12層に重なりあって積み上げられていた。そして、後頭部を銃で撃ち抜かれていた。その銃弾はドイツ製だった。
ポーランド将校は丈長の長靴をはいていた。それは威信や地位の象徴だった。
墓穴の上には、わざわざトウヒの若木が植えてあった。
ソ連は逮捕したポーランド軍将兵を共産主義者に転向させるべく、思想強化に努めた。しかし、この思想強化は全体として失敗に終わった。ポーランド人は、共産主義教義を公然と拒否した。そこでソ連(NKVD)は、まだ可能性があると判断した448人を選び出し、あとは抹殺することにした。
しかし、この448人も大多数はソ連の強化に応じなかった。50人だけが応じたが、彼らは村八分にあった。残りは、結局、強制収容所へ送られた。
1940年当時、NKVDと呼ばれたソ連秘密警察は、ソ連国家が内部の敵と戦うための楯であり、剣であった。スターリン時代、その警戒行動には限界がなかった。
スターリンの支配するソ連共産党政治局は、ソ連秘密警察NKVDに命じて、ポーランドの将校と知識階級2万2000人(2万5000人)をロシア、ウクライナ、白ロシア(ベラルーシ)の各地で1940年4月から7月にかけて組織的に一斉に殺害した。
カチンの森虐殺事件と呼ばれていますが、虐殺現場はカチンだけではなかったということです。スターリンの犯罪は本当に信じられないほどひどいものです。絶対に許せません。
(2012年12月刊。3400円+税)
土曜日から日曜日にかけて、久留米で九州のクレジット・サラ金被害者交流集会があり、参加してきました。270人もの参加があり、盛況で、内容としても大変勉強になりました。
私は、この交流集会の原始メンバーの一人ですが、各地のクレサラ被害者の会は、いま相談者が激減して活動を停止している状況にあります。
これも貸金業法が改正されて、規制が厳しくなったことの成果という面もあります。それでも、ヤミ金をはじめ、まだまだ借金をかかえて泣いている人、困った人はたくさんいます。そのような人に、家計管理をきちんとして、生活を立て直してもらえる場として被害者の会は有効な場でした。なんとか代わりを考える必要があります。
2013年5月31日
トロツキー(下)
著者 ロバート・サーヴィス 、 出版 白水社
レーニンは、死ぬ前に「スターリンはあまりに粗暴である」という遺言を書いて、書記局から排除することを提言した。レーニンは、自分が死んだあとは、集団指導体制をとることを願った。スターリンは、レーニンの遺言を無視し、公開しなかった。
トロツキーは、スターリンをあまりに軽視しすぎていたようです。
スターリンは、トロツキーからみて、常に政治的に凡庸で、知的にはとるに足らない人物だった。
ところが、レーニンの死後に開かれた1924年5月の党大会のときは、トロツキーは分派主義に走っていて、スターリンは現状の指導部のためにしっかり忠実に働いていて文句のつけようがなかった。この党大会で、トロツキーは、投票権すらなかった。
スターリンとブハーリンはトロツキーを追い落とすべく密接に協力していた。
1926年10月、トロツキーは政治局を解任された。ジノヴィエノは前に解任されていた。
トロツキーは、個人としての他人を思いやる気持ちが基本的に欠けていた。トロツキーには人間性がない。トロツキーをよく知る人は、このように言っていた。
これではトロツキストが盛況になるはずはありませんよね。
トロツキーは、公的にも私的にも、頭の悪い人物には冷たいどころか、一切容赦がなかった。
1927年から28年の冬、ソ連は政治的に緊急事態にあって、経済が崩壊しつつあった。都市の倉庫の小麦・ライ麦の備蓄は危険なまでに少なくなっていた。
1928年1月、トロツキーはカザフスタン(アルマ・アタ)へ送られた。
1929年1月、トロツキーを国外へ追放することが決定された。トルコ当局は、トロツキーの亡命を認めるにあたって、ソ連に極秘の条件を課した。それは、トルコでトロツキーを暗殺しないということだった。そして、トルコは、トロツキー本人にも、トルコの地元政治に干渉しないこと、トルコ国内で出版しないことを求めた。
この本を読んでいると、トロツキーは、自己の安全について、あまりに楽観視していたようです。これも過剰な自己過信のあられなのでしょうか・・・。
トロツキーによると、各国の共産党の指導部は絶望的だった。トロツキーはドイツのエルンスト・テールマンとフランスのモーリス・トレーズは愚の化身としていた。
1937年からトロツキーはメキシコに居住した。メキシコ警察はトロツキーに24時間体制で警護をつけ、その動向を定期的に政府に報告した。アメリカも同じように情報を収集していた。メキシコ共産党はトロツキーを監視し、モスクワに情報を提供していた。
1936年当時、世界のトロツキズムは、ソ連のスターリンが想像していたよりも、はるかに規模は小さかった。トロツキストは、構成員の統計の公開を嫌った。オランダ2500人、アメリカ1000人、ドイツは150人。ヒトラーが政権を握る前には750人。フランスは分裂を重ねて不明。イギリスも3つの小集団に分かれていた。
トロツキーは他人の気持ちに配慮する性質ではなかったが、妻に対しては例外で、夕食の席で妻の望みや要求にいつもこたえた。
スターリンによる1936~38年のモスクワ裁判は、茶番だったが、トロツキーには試練となった。被告人は拷問を受けていた。スターリンにあくまで抵抗した人は証言台に姿をあらわすことなく処刑されていた。
1940年8月、暗殺犯によってトロツキーの生命は奪われました。トロツキーは、いつものとおり、あきれるほどめでたく、何の疑念も抱かなかったというのです。暗殺犯はトロツキーの臨時秘書の恋人でした。トロツキーの頭にレインコートに隠しもっていたピッケルを手早く打ち込んだのです。そして、この暗殺犯は1960年に20年の懲役刑を終えて、モスクワに英雄として迎えられ、ついにはキューバに渡って、1978年に死亡したとのことです。
対立の絶えないトロツキストたちは、モスクワの指導部に従った共産党と戦うより、仲間内で議論するほうが多かった。モスクワにおけるトロツキーの立場を回復したのは、第四インターナショナルではなく、ゴルバチョフだった。
トロツキーは、スターリンとの政治闘争で究極の犠牲をはらったが、その前にトロツキー自身も高い地位について血なまぐさい弾圧をしている。肉親のほとんどはトロツキーのせいで死に追いやられた。娘のニーナは結核で亡くなり、ジーナは自殺した。息子のリョーヴァは医療ミスで死んだ可能性がある。
等身大のトロツキーを知ることのできる本でした。それにしても、今でも、昔ながらの過激派はいるようです。驚きます。でも、もう誰もトロツキストとは呼ばないのでしょうね・・・。
(2013年4月刊。4000円+税)
2013年5月30日
戦時下のベルリン
著者 ロジャー・ムーアハウス 、 出版 白水社
ナチス・ドイツ支配下のベルリンの市民生活を詳しく紹介した本です。
ベルリンには、最後まで少なくないユダヤ人が隠れ住んでいました。それも、ベルリンに革新的な土壌があったからだというのです。ナチス・ヒトラーの一色で染めあげられていたのではなかったというわけです。
戦時中のドイツで、1万2000人ほどのユダヤ人が地下に潜ったと推定されている。その大部分は、匿名性を保つのが容易な大都市に隠れた。左翼的・自由主義的伝統と、ユダヤ人が定住した歴史のあるベルリンが生きのびる最大の機会を提供した。地下に潜ったユダヤ人の半分、7000人ほどが首都ベルリンにいたと考えられている。
潜ったユダヤ人は、自分の外観を代えるのが急務だった。地下の生活の黄金律は、「だらしない身なりをしないこと」で無精ひげを生やしていたり、襟が垢だらけだったりすると、必ず人の注意を惹く。生きのびるためには困難な状況にもかかわらず、自信にみちた、「普通の」態度をしていなければならなかった。
ユダヤ人の「潜水夫」は雄々しい自助努力をしたけれど、ほとんどの場合、アーリア人の協力者にすっかり頼っていた。独りの逃亡ユダヤ人を助けるのに、平均7人のドイツ人の協力が必要だった。
ユダヤ人女性で、ナチスのまわし者になって逃亡ユダヤ人を密告してまわったシュテラという人物が紹介されています。ゲシュタポはシュテラとの約束を破り、両親をアウシュビッツに送り、シュテラも捕まった。しかし、戦後まで生きのび、1994年、シュテラは72歳で自殺した。うむむ、裏切り者は必ずいるものなんですね・・・。
1943年夏、ベルリンには40万人もの外国人強制労働者がいた。ベンツ、AEG、ボッシュ、ジーメンス、ドイツ鉄道で働いていた。労働者はヨーロッパ各地からやって来た。10万人がドイツ軍占領地区から、かつてのソ連軍占領地区からやって来た。占領下のフランスから6万5000人、ベルギーから3万人、オランダとポーランドからも同数が来た。
ベルリンの外国人労働者の3分の1は西ヨーロッパから来た。その3分の1は女性だった。「東労働者」が病気だと申出るのは、自殺の遺書を書くのに等しかった。
1941年秋、ベルリンのゲットーのは20万人のユダヤ人が押し込まれて住んでいた。
大部分のベルリン市民は、ホロコーストの陰惨な真実を、たとえ知っていたとしても、信じるのは難しかっただろう。信じたがらないことが多かった。ある人種が「工業規模」で組織的に殺されるというのは、大方の人間の想像力をこえていた。そんなことは信じがたいという気持ちが蔓延していた。それは本当にそうなんだろうなと私も思います。
ラジオのもつプロパガンダの側面は、ナチにとってきわめて重要だった。1938年に始まったイギリスBBCのドイツ語放送に、多くのドイツ人は自国の放送より高く評価していた。ドイツ人の3分の2が外国放送を定期的に聞いていると推定された。
ゲシュタポの絶頂期でさえ、ベルリンにいた工作員とスパイは800人をこえなかった。450万人の都市において、1人のスパイが5600人のベルリン市民を相手にしていた。
ベルリンはナチスの第三帝国に対する抵抗の中心だった。自由主義的、コスモポリタン的性格をもち、ユダヤ人が大勢住み、伝統的に左翼の稜堡であったベルリンは、ナチにとって有利な選挙区ではなかった。ヒトラーに投票した人は全国平均を下回った。ナチが選挙で大躍進した時でさえ、いくつかの地区では一般の投票数の半分しか得られず、ベルリンのナチが獲得した投票数は合計の3分の1以上には達しなかった。ただし、多くの普通のベルリン市民にとって、しっかりと組織化された抵抗運動に加わるのは、自殺に等しいと思われていたに違いない。
1943年2月、首都に残っていたユダヤ人が一斉に逮捕された。そして、ユダヤ人の夫をもつアーリア人の妻たちが抗議に集まった。600人から1000人の女性が、「私達に夫を返して」と叫んだ。ローゼン通りに何時間も、毎晩毎晩、壁のように立って叫んだ。そして、ついに一週間後、「特権的ユダヤ人」つまり異人種間結婚していたユダヤ人たちは家に帰された。ローゼン通りで自由になったのは1800人。1943年のドイツ、ベルリンで公然と抗議の示威行動があり、要求を勝ちとったというのは驚くべきことだ。
ベルリンは英国空軍から大空襲を受けたが、ドイツの民間人の士気は、それほど失われなかった。広い並木道と石造りの大通りは簡単には燃えなかった。それでも、ナチに抱いていた信頼感が次第に薄らいだのは確かだった。
1943年、スターリングランドの敗北のあと、ベルリン市民は無気力状態に陥り、なんとかして戦争を生きのびたという単純な願望になった。
1945年4月、ベルリンをソ連赤軍が占領した。ソヴィエト兵によって強姦された女性は13万人をはるかにこえると推測されている。強姦された女性の1割が自殺した。1946年にベルリンで生まれた子どもの5%がロシア人の子どもだと推定されている。
多くのベルリン市民は、戦争の経験とナチ体制と共犯関係にあったことで、すでに傷ついていたので、輪をかけた屈辱を受けいれるのが難しかった。
戦争というのは、まことに多面的な状況をうみ出すものだと痛感させる本でもありました。
(2013年3月刊。4000円+税)
2013年5月21日
キャパの十字架
著者 沢木 耕太郎 、 出版 文芸春秋
戦勝写真家として名高いキャパの写真「崩れ落ちる兵士」の真相を追求した本です。とても説得力があり、すっかり感嘆しました。
推理小説ではありませんので、ここで結論をバラしてしまいます。あの写真はキャパが撮ったのではなく、パートナーの女性が撮ったものであり、兵士は撃たれて崩れ落ちたのではなく、足元の悪い斜面で足をとられてあおむけに崩れ落ちたのだということです。この点について著者は現地に何回も行って、見事に論証しています。たいしたものです。
問題の写真の舞台は、スペイン戦争です。共和国政府に対して、ナチス・ドイツなどが後押しするファシスト派が叛乱を起こし、結局、共和国政府は打倒されてしまいます。そのスペインの叛乱の渦中に起きた「出来事」(兵士の死の瞬間)が迫力ある写真として世界に紹介されました。
そして、この兵士の氏名まで判明したのです。ところが、実は、この兵士は撃たれて死んだのではなく、キャパたちの求めに応じて演じていたのでした。
キャパの本名はエンドレ・エルネー・フリードマン。両親はユダヤ系のハンガリー人。夫婦で婦人服の仕立て屋を営んでいた。そして、ナチス・ドイツが台頭してきて、フランスはパリに逃れた。そこで、同じユダヤ人女性、ゲルタ・タローにめぐり会った。このタローという名前は、岡本太郎にもらったものだそうです。当時、彼女はモンパルナスで同じ芸術仲間だったといいます。
キャパの相棒だった、このゲルダ・タローは、1937年7月に共和国軍の戦車が暴走して事故死してしまいます。まだ27歳という若さでした。
「崩れ落ちる兵士」は銃弾によって倒れたのではない。しかし、ポーズをとったわけではなく、偶然の出来事によって倒れたもの。そして、その場には2台のカメラがあり、カメラマンが二人いた。このあたりは、たしかにそうだろうと思えました。というのも、あの有名な写真のほかに、連続してとられた多数の写真があり、状況を再現することが可能だったからです。
キャパは、ついにベトナムの戦場で地雷を踏んで死んでしまいました。アメリカのベトナム戦争の被害者になってしまったわけです。
でも、その前、第二次大戦中のノルマンディー上陸作戦にも参加して、死にかけたのでした。戦場カメラマンというのは本当に危険な職業ですね。今の日本にもいますし、そのおかげで居ながらにして戦争の悲惨な状況を写真で知ることができるわけです。それにしても、キャパの写真をここまで執念深く追求したというのは偉い。つくづくそう思いました。
(2013年2月刊。1500円+税)
2013年5月11日
成功する人の「語る力」
著者 フィリップ・コリンズ 、 出版 東洋経済新報社
イギリスのブレア元首相のスピーチライターによるスピーチ原稿のつくり方を紹介する手引書です。
優れたスピーチを書く技術を身につけたければ、書く内容が定まっていなのに書きはじめたり、内容そのものよりも耳に心地よいスピーチをすることは避けなければならない。
いいスピーチは、骨組みがしっかりしている。
スピーチは、いちばん核となるテーマを一行で表してみること。もし、一行でまとめられないのなら、自分のテーマがまだ分かっていないということ。
スピーチが果たす基本的な機能は、情報性、説得力と刺激の三つである。
スピーチとは、一度マイクの前に立ったら、誰かに邪魔されることなく、20分は話ができる素晴らしい機会である。
スピーチでは、できるだけわかりやすく明確に話すことが必要だ。
スピーチに最適なのは午前11時ころ、最悪なのは昼食直前だ。聴衆は、まだ話をきく態勢になっていない。
効果的に説得するにはコツがある。まずは寛大な態度を示す。そのうえで、論理立てて相手の意見を切り崩していくこと。初めから反対論者を叩きのめそうとしてはいけない。
スピーチするとき、あなたという人格が伝わることが大切だ。そして、聴衆が遠くからでもわかるように、あなたの個性をわざと目立たせる工夫も必要だ。
ひとたびステージにあがったら、ゆったりとふるまう。前口上は短く終わらせ、やや長めの間を取って、これからスピーチを始めるのだと聴衆に知らせよう。
ステージ上では、少々大げさに話す。いつもの調子で話してしまうと、迫力に欠け、あまりやる気ないように見えてしまう。そして、話すペースに変化をつける。
オバマ大統領の秘密は、すべてその声にある。オバマは歌うように言葉を発する。オバマの原稿を読んでも、それほどの感動はない。
とても実践的なスピーチ原稿のつくり方の本でした。
(2013年4月刊。1500円+税)
2013年5月10日
トロツキー(上)
著者 ロバート・サーヴィス 、 出版 白水社
大学生時代、私にとってトロツキストというのは暴力学生であり、権力と通じて街頭で派手に暴れまわり、心ある人々を困らせる存在というイメージでした。この本は、トロツキーの素顔に迫っています。大変興味深く読みました。ただし、上巻だけで400頁もの大作です。
トロツキーは、政治の空を駆け抜けるまばゆい彗星のようだった。誰が見ても、トロツキーはロシア革命でもっとも弁舌の立つ人物だった。トロツキーは10月に臨時政府を打倒した軍事革命委員会を率いた。赤軍の創設に誰よりも貢献した。トロツキーは、レーニンとお互いに反目もした。
トロツキーは1929年にソ連を追放され、ソビエト国家のどこがおかしくなったのか、というトロツキーの分析は外国では影響力を持ち続けた。トロツキストは、政治状況が許せば、どこでも登場した。
スターリンは、トロツキーを十月革命の敵として描き、1936~38年の見世物裁判で有罪宣告をし、ソビエト諜報機関に暗殺を命じた。そして1940年、暗殺に成功した。
存命中のトロツキスト集団は政治的にはごくわずかな影響力しか及ばさなかった。そして、トロツキーの死後、運動はジリ貧となった。
1968年にヨーロッパとアメリカの学生運動が起きて、一瞬だけトロツキーは復権したが、年末には沈静化した。これが私の大学生のころのことです。一瞬だけ、だったんですね・・・。
ソ連では嫌悪され続けたが、1988年にゴルバジョフがトロツキーの政治的な名誉を回復した。西側のトロツキストは、相変わらず従党を組んで遁走に明け暮れ、しばしばトロツキーなら飛びあがったはずの思想を喧伝した。トロツキーは、暗殺されたことによって政治的な殉教者となり、おかげで通常なら疑問を抱いたはずの著述家も好意的に解釈してくれた。
スターリン、トロツキー、レーニンは、反目する部分より、共通する部分のほうが多かった。スターリンではなく、トロツキーがソビエトの至高の指導者になっていたとしたら、ヨーロッパにおける大流血のリスクは大幅に高まっただろう。
トロツキーの傑出した能力には疑問の余地はない。見事な演出家で、オルグ家としても指導者としてもすばらしかった。だがトロツキーだって聖人君子などではない。独裁権力と恐怖政治への指向は、内戦時代には露骨なほどだった。
トロツキーは、23歳までレイバ・ブロンシュテインだった。自分がユダヤ人の出身なのを否定はしなかった。両親は、その地方で有数の農民だった。
ブロンシュテイン家は、近所でもっとも豊かなユダヤ人だった。父親は、あまり熱心なユダヤ教徒ではなかったので、子どもをキリスト教の学校に平気で通わせた。
レイバは、いったん教わったことは、ほとんど忘れなかった。
トロツキーは、1902年、パリに到着した。そこでトロツキーは演説し、華々しい大成功をおさめた。聴衆を魅了する才能を示した。そして、人もうらやむ速筆ぶりだった。
どこへ行っても、トロツキーは大成功をおさめた。
プレハーノフは、心底からトロツキーを嫌った。老いたプリマドンナは頭角をあらわし始めた新しいプリマドンナを嫌うものだ。
1904年に日露戦争が始まると、トロツキーは、日本との戦争は国益全般に被害を与えたと主張した。トロツキーは、日露戦争は革命の見通しを高めたと判断した。トロツキーはレーニンに刃向かい、そのことによってボリシェヴィキの敵対者たちからの評価を高めた。
1908年、ロンドンにいたトロツキーは、どの派閥にも属さないと宣言し、メンシェヴィキとボリシェヴィキの双方の戦略を糾弾した。だから、トロツキーは、党中央委員に選出されなかったが、それも当然だった。それでもトロツキーは、党内に居場所を失ってはいなかった。相変わらず、党全体の融和を主張していた。だが、党内の多くの人にとって、トロツキーは、日和見主義に見えた。どちら側の意見もオープンに聞くトロツキーは、多くの敵をつくり、信用できない人物とされた。
1917年、トロツキーは、ニューヨークに着いた。演壇に上ると、そこにいるのが天才弁士だと言うことは誰の目にも明らかだった。
1917年、ロシアにトロツキーは戻った。トロツキーの話し方は、文法どおりだった。その流暢さは非凡だった。冷笑的で、説得力があり、情熱的だった。もじゃもじゃの赤褐色の髪が風にそよぐ。スリーピースのスーツを着て、いつもこざっぱりとしていた。聴衆のほとんどよりも背が高く、聴衆を揺り動かすための言葉やテーマを選び出しつつ、しなやかに動いた。トロツキーは身振りを多用した。そして、論点を強調したいときは、右腕を前にはねあげて、人差し指で聴衆を指さした。トロツキーは、ロシアの新しい「政治」を明らかに楽しんでいた。
「レーニンはどんなに賢くても、トロツキーの天才と並ぶと、かすんで見える」
これは当時の評である。しかし、レーニンのほうは急進左派に自分のライバルがいるなどと心配はしていなかった。
1915年5月。トロツキーは、デマゴギー的な戦術をためらったことはなかった。
9月。主要なボリシェヴィキが党代表として登場するとき、みんなが見聞したいのは、トロツキーだった。ボリシェヴィキのなかで、カーメネフも、大衆的な人気の点では、トロツキーの足元にも及ばなかった。このころレーニンはヘルシンキに隠れており、新聞論説でしか影響力を行使できなかったが、ほとんどの人は新聞など読まない。
トロツキーは執筆し、演説し、議論した。組織をまとめた。革命ロシアで最高の万能活動家だった。レーニンとトロツキーはロシアの政治における不可分の存在となった。一心同体で、敵に対しては国家テロルを含む容赦ない手段を使う決意だった。
トロツキーは、レーニンとのパートナーシップを楽しんでいたため、党の指導部内でどれほどの恨みを買っているか、気がついていなかった。
今や、レーニンが統治問題のあらゆる重要な点の相談相手はトロツキーだった。
世間的な名声でトロツキーはいい気になってしまった。トロツキーは、もともと組織への忠誠などで動く人間ではなかった。
1918年2月、トロツキーは、自分の信念のために戦い、そして闘争に負けた。トロツキーは、ロシアがもはやまともな軍隊を持っていないと知っていたくせに、みんなに「革命戦争」が可能だと思わせようとした。
1918年8月、トロツキーは、いやいや戦っていたのではない。人道的な面などまったく考慮せず、政治革命を暴力的手段で嬉々として深めていった。
1918年12月、赤軍が総崩れとなった。白衛軍がロシア中心を目ざした。モスクワへの進路を防衛する軍をまとめられるのはトロツキーしかいなかった。スターリンですら、これは否定しようがなかった。
十月革命と内戦で世間の賞賛を集めつつ、トロツキーは党内で、かなりの嫉妬と疑惑を引き起こしていた。そしてトロツキー本人は、これにほとんど気をつかわなかった。
ありとあらゆる問題について、正しいのは自分だと思っていたトロツキーは、党を自分の見方に無理矢理従わせるのが義務だと考えていた。トロツキーは自分の地位を当然のものと思っていた。
トロツキーがレーニンと反目しあっていたこと、そしてレーニンと一緒に内戦を乗り切ったこと、スターリンがそれを若々しく思っていたことなどが上巻で紹介されています。下巻が楽しみです。
(2012年4月刊。4000円+税)
2013年4月28日
バルザックと19世紀パリの食卓
著者 アンカ・シュルシュタイン 、 出版 白水社
フランス大革命はレストランを流行させたのですね。
「食卓」の重要性を意識していたバルサックは、偉大なる食通ではなかった。エキセントリックな「食べる人」だった。バルサックは、ほとんど食事をとらずに長時間にわたって執筆に没頭した。そして原稿を書き終えると、そのお祝いに、はかり知れぬほどのワインやカキ、肉料理やヴォライユの料理に身をゆだねた。
バルサックは、8歳から6年間を寄宿舎で過ごした。幼い生徒にとって、食事は喜びではなく、屈辱だった。バルサックは親からプレゼントをもらえず、孤独を感じていた。寄宿舎で過ごした数年間、バルサック少年は食事のかわりに読書に情熱を傾けていた。
バルサックは17歳で代訴人(弁護士)事務所の見習いとなった。この事務所で、バルサックは家庭内の悲喜こもごもに出会い、それが、あとで小説のネタとなった。
バルサックにとって不幸なことに、使う金額以上に稼げたことが一度もなかった。この大作家は最期まで、借金のために牢屋に入れられるのではないかと心配しながら生活していた。
バルサックは書くのが早かった。債務者たちにせつかれ、豊かな想像力に駆り立てられ、仕事に取りかかるやいなや扉を閉ざす。日に18時間も働き、2ヶ月には名作の原稿が完成していた。
創作に打ち込んでいるあいだは水しか飲まず、果物で栄養をとっていた。バルサックは、かなり濃いコーヒーを大量に飲んでいた。眠気を追い払い、自身を興奮状態に保ち想像力を増すためだった。
バルサックは借金のためではなく、国民衛兵として使えるという義務を何度も繰り返し怠ったため、牢獄生活を余儀なくされた。
フランス大革命の前、上流階級の人々は1日に3回の食事をしていた。朝6時から8時のあいだに何か詰め込み、午後2時にディネをとり、夜9時以降に夜食をとっていた。
これに対して、農民や職人は一日2回の食事ですませていた。夜食は、夜会や感激に行く特権階級に限られたものだった。
当時の人々は膨大な量の酒を飲み、水を飲むのはまれであった。
夕食会は3時間をこえてはならなかった。さっさと片づけることがとても重要だった。
フランスでシャンパンへの趣向が高まったのは非常に遅い。イギリスよりも、はるかに後のこと。ポンパードール夫人はシャンパンを高くし評価した女性の一人であり、彼女がワインを流行らせた。
夕食のとき、料理を次から次に給仕するのを、バルサックは好まなかった。というのも、この方式だと食べることが大好きな人々にとって、ものすごく食べることを強いるし、最初の料理で食欲が収まってしまう小食の人たちには、もっとよいものをなおざりにさせてしまう欠点があった。
フランス大革命のころの食習慣を知ることができました。バルサックの奔放な生き方には圧倒されます。
(2013年2月刊。2200円+税)
2013年4月25日
アフガン侵攻 1979-89
著者 ロドリク・ブレースウェート 、 出版 白水社
ソ連のアフガニスタン侵攻の始まりから撤退までを詳細に明らかにした本です。ベトナム侵略戦争におけるアメリカのみじめな敗退と同じことをソ連もやったわけです。
アフガニスタンには、機能する統一国家を築くための土台となる国家的組織体という観念はなきに等しい。地方から中央まで、あらゆるレベルの政治と忠誠は、各集団間の対立と取引によって規定される。それは末端の一族同士でも同じである。
アフガニスタンは、世界でもっとも古くから人々が暮らしてきた地域の一つである。アレクサンドロス大王が支配し、ペルシア帝国の支配を受けたあと、13世紀にチンギス・ハン、
14世紀にティムールによって完全に征服された。この二人の子孫であるバーブルが16世紀にムガール帝国を築きあげた。
アフガニスタンの国民はパシュトン人、タジク人、ウズベク人、ハザラ人、その他の弱小民族集団に分かれ、さらにいくつもの部族に細分化する。そして、アフガニスタン人の大部分はスンニー派のイスラム教徒である。
アフガニスタンで史上初の政治運動を生み出したのは大学だった。1965年に創設された共産主義政党であるアフガニスタン人民民主党の創設メンバーである、ヌール・ムハンマド・タラキ、バフラク・カルマル、ハフィズラ・アミンの3人もそうである。そして、ラバニ、ヘクマティアル、サヤフ、マスードは、全員がカブール大学で学んでいる。
1978年4月、ダウド大統領はアフガニスタンの共産主義勢力に打倒され、無残な最期を遂げた。4月のクーデターは悲劇の始まりだった。
ソ連にとって、アフガニスタンの共産主義勢力は、はじめから悪夢だった。1968年、人民民主党(PDPA)の党員はわずか1500人だったが、ソ連は彼らを無視できなかった。PDPAは理論を一掃し、権力の奪取と行使に専心した。さらに悪いことに、PDPAは、はじめから分裂状態にあり、パルチャム派とハルク派に分かれ、ときに血の闘争をくり広げていた。パルチャム派のリーダーはカルマル。パシュトン人で、陸軍の将軍の息子だ。ハルク派は、地方やパシュトン人部族から支援を集めた。リーダーは、タラキとアミン。
狂信に支配されていたアフガニスタンの共産主義者たちは、いかに保守的で、誇り高い独立国であっても、銃を突きつけて無理やり言うことを聞かせれば近代化させることが出来ると確信していた。カンボジアのポルポト政権とよく似ている。しかし、カンボジアとは異なり、アフガニスタンの国民は、政府のそのような扱いを耐え忍ぶつもりはなかった。アフガニスタンの共産主義政権は、イスラム教の力と国民への影響力を過小評価するという致命的なミスを犯した。
1979年3月、アフガニスタン政府からの軍事介入要請は、考えれば考えるほど、ソ連指導部にとっては望ましくないように思えた。しかし、完全に排除しようとする者はいなかった。そこで、最終的には結論として、軍需品といくつかの小部隊を送ることにした。
1979年、アフガニスタン全土で、情勢が悪化し、共産主義政権に対する武力抵抗が拡大を続けるなか、主流派であるハルク派の内部抗争が激化していた。
ソ連のKGBは、パルチャム派に巨額の資金を提供し、自分達の意見を反映させようとした。しかし、パルチャム派は、PDPAの党員1万5000人のうち、わずか1500人でしかなかった。それ以外は全てハルク派だった。ハルク派は陸軍の共産主義将校の大多数が所属する派閥であり、アミンは特別の努力を払って、この将校たちとの関係を築き上げていた。
タラキ殺害で重要な役割を演じたのは大統領警護隊だった。アミンの指示によるタラキ殺害は、ソ連の意見決定プロセスにおいて決定的な転換点となった。とくにブレジネフは、そのニュースに衝撃を受けた。タラキを守ると約束していたからである。
ソ連のカブール駐在の主席軍事顧問は、アミンを高く評価していた。アミンは、強固な意志をもち、非常に勤勉で、その組織化の手腕は並外れており、ソ連の友人を自称しているが、狡猾なウソつきで、血も涙もない弾圧者である。それでも、ソ連が手を組むとしたら、アミンしかないという結論だった。
軍事介入に懐疑的なソ連の幹部たちは、わきに押しやられるか、無視された。アフガニスタンの首都に駐在するソ連幹部の大半は、この国で過ごしたことがほとんどないものばかりになっていた。アミンの支配下にあったのは国土のわずか20%にすぎず、しかも、その割合は徐々に縮小しつつあった。
アフガニスタン人は、国内に外国人が駐留することを許容したことがない。ソ連軍部隊は否応なしに軍事活動に引きすりこまれるだろう。
ソ連軍参謀長は、このようにブレジネフに進言したが、聞きいれられなかった。
ソ連は、武力介入によって生じる不利をすべて予見していた。激しい内戦に巻き込まれ、多くの血が流され、巨額の費用がかかり、国際的に孤立することは分かっていた。
1979年12月、アフガニスタンへの介入は最終決定が下されたとき、すでに介入は避けがたい状況になっていた。それは重大な政策ミスであったが、決して不合理な決断ではなかった。
ソ連の軍事専門家は、アフガニスタンの安定化を図るためには、30~35個師団が必要だとみた。ソ連軍がカブールを制圧したとき、カルマル本人は、KGBの保護下にあった。
カブール在住の多くのソ連民間人は、何が起きているかまったく知らなかった。アミン殺害作戦のなかで、民間人の犠牲者は一人も出さなかった。ソ連軍は航空兵力を使わなかったから。
このころ、アメリカは、テヘランでアメリカ大使館員が人質にとられるという事件が起こった、ばかりだった。カーター大統領は、ソ連のアフガニスタン侵攻を公然と非難した。
ソ連の武力介入の目的はPDPA内の残虐な抗争に終止符を打ち、共産政権による、恐ろしい逆効果を招いた極端な政策を根本的に変えさせることにあった。つまり、アフガニスタンを征服あるいは占領することが目的ではなかった。アフガニスタン政府が責任を引継げる状態になったらすぐにでも撤退するつもりだった。しかし、これは非現実的な願望にすぎなかった。アフガニスタンの問題は、政治的な手段で解決できないことを、ソ連は十分理解していた。ソ連は、その武力で体制を維持できないと思っていた。それでもソ連は、安定した政府、法と秩序などをアフガニスタン国民が最終的には歓迎してくれるだろうと期待していた。
だが、やがてソ連は、アフガン人の大多数が己の道を行くことを望んでいて、神を認めぬ外国人や国内の異教徒どもに何か言われて気が変わることはないのだと悟った。ソ連は、この根本的な戦略問題に対処せず、また対処できなかった。
ソ連が目の当たりにした残虐な内戦は、侵攻のはるか以前に始まり、撤退後も7年間続き、1996年、タリバンの勝利でやっと終結した。
ソ連軍は、いつかは国に帰る。そのことは、ソ連側もアフガニスタン側も分かっていた。
ソ連政府の内外で失望が広がるにつれ、この残虐で犠牲の大きい、無意味な戦争を続けようという指導部の意思は後退していった。
ソ連軍とソ連国家が受けた屈辱は大きく、将軍たちは愕然とした。それが、ソ連崩壊と新ロシア誕生の政治的動きのなかで重要な役割を演じた。
ソ連軍のアフガニスタン侵攻を検証した画期的な本です。アフガニスタン政府の要請によってソ連軍は進駐したのだ、なんていう嘘が見事に暴露されています。また、ソ連軍とソ連の人々の受けた打撃の大きさもよく記述されていて、大変興味深く読み通しました。
(2012年1月刊。4,000円+税)
2013年4月18日
メドベージェフvsプーチン
著者 木村 汎 、 出版 藤原書店
現代ロシアの政治がどう動いているのかを知りたくて読みました。450頁もある大作ですが、とてもスッキリ明快な語り口なので、よく理解できました。
タンデムのハンドルを握っているのはプーチンであり、メドベージェフは子ども席に座らされている。この実情がよく分かります。
プーチンが2012年5月に大統領に返り咲くまでに、ロシア政治の基本やその行方を左右する最高指導者をめぐる人事は、一人の人間によって決定された。与党の「統一ロシア」は次期大統領の候補者選びにまったく関与しなかった。同党は討論も票決も一切行うことなく、まるで盲印を捺すかのようにプーチンの決定を承認した。
ロシアでは、法や制度などフォーマルな取極めが物事を決めているのではない。その代わりに、特定の人間がもっとも重要な決定を行う。別の言葉で言えば、地位(椅子)そのものよりも、そのポスト(椅子)に一体誰が座っているか、このことがロシアではより一層重要な意味をもつ。すなわち、一握りの少数指導者が強力な権力を握る。彼らは、非公式の場(密室)で、彼ら相互間の力関係にしたがい、いわば臨機応変のやり方で決定をくだす。彼ら指導者、とりわけ最高権力指導者がおこった決定は絶対で、「垂直権力」の原則にしたがい、下部へと伝達される。ロシアでは、法律よりも個人による統治がおこなわれている。
メドベージェフは、歴代指導者のなかにあって、けっしてナンバー1と呼べる指導者ではなかった。実質上はナンバー2でしかなかった。しかし、メドベージェフは、プーチン首相のたんなる操り人形に終始することをいさぎよしとしなかった。
メドベージェフはプーチンより13歳も若い、大統領になったとき42歳、辞職時に46歳だった。メドベージェフとは、熊を意味する。身長は162センチしかない。プーチンは168センチである。
メドベージェフはユダヤ系とみられるが、そのことについて一切口をつぐんでいる。メドベージェフは、両親ともに教授という知識人の家庭に生まれた。プーチンは下層労働者階級の出身者。メドベージェフとプーチンは、ともにレニングラード国立大学法学部を卒業している。プーチンは正真正銘のシロビキ。KGBなど、治安関係の出身者。メドベージェフは、母校で民法を高ずる大学助手だった。
プーチン首相は2010年10月、若返り効果を狙って顔面の整形手術を受けた。しかし、これは逆効果だった。ロシア人が嫌うアジア人(中国人)のように釣りあがった孤眼になったから。メドベージェフはインターネットが大好き。プーチンは、ケータイさえもっていないテレビ党。
プーチンがメドベージェフを選んだのは、自分と対蹠的なタイプの人間だから。
メドベージェフは権力基盤、その他の点で脆弱な人物である。だからこそ、プーチンによって便利な中継ぎとして選抜された。メドベージェフの弱みこそ、彼の力になっている。
プーチン自身がエリツィン前大統領の政策の多くを変更し、また反古にした人物である。だから、メドベージェフが大統領になって同じことをする危険を心配した。
プーチンは、ロシア首相と「統一ロシア」党首という二つの重要ポストを兼任することによってメドベージェフ大統領の行動様式を監視し、操作できる立場にたった。
メドベージェフには側近や部下がいない。メドベージェフは、周囲にいる優秀な同僚や仲間を内閣はもちろん大統領府内にすら登用しえなかった。その人事を主導したのがボスのプーチンだったから。プーチンの作成した人事案を丸呑みする以外の選択肢は与えられなかった。
メドベージェフは4年間の大統領在任中、最後まで、マスメディアを掌握できなかった、プーチンがマスメディアを独占的に支配していた。テレビで報道されるときのプーチンとメドベージェフの座る位置は、プーチン大統領のときと同じだった。テレビ対話は、大統領との対話から首相との対話に名前を変えただけで、プーチンが4年間そのまま続けた。
ロシア、グルジア「5日間戦争」はメドベージェフがプーチンと変わらぬ対外強硬論者であることを証明した。「リベラル」というイメージを完全に打ち砕いた。
ロシア・グルジア戦争は、CIS諸国にロシアに対する恐怖感をもたらし、異質感を増大させた。ロシアに逆らうと、深刻なマイナスをこうむる。しかし、だからといってロシアの言いなりになれば、別のマイナスを覚悟せねばならない。
ロシアのグルジア軍事侵攻によって驚かされた欧米諸企業は、ロシア市場へ投下していた資本を一斉に引き揚げた。そのことによってロシア経済がこうむったダメージは、予想外に大きかった。
ロシアはエネルギー資源大国である。石油、天然ガス、金、ダイヤモンド、鉄鉱石などの埋蔵量で世界第一位。
ロシアは世界規模の経済危機に無関係どころか、そのもっとも深刻な犠牲者だった。なぜか。それはロシア経済がもっぱらエネルギー資源の輸出の大きく依存する事実上の「モノカルチャー経済」であることによる。ロシア経済の国際競争力は、上昇しないどころか復退した。航空機事故が多発し、ロシアはコンゴよりも「世界でもっとも危険な国」となっている。
年金生活者は、民主主義的指権利の保障よりも、社会の安定や秩序を望む。プーチン支持層の中核をなしている。
プーチン主義は、政治や経済の運営を下からの国民のイニシアティブに委ねることなく、「権力の垂直支配」の名のもとに国家による上からの指導でおこなう。とりわけ、ロシアが豊富に所有するエネルギー資源を、軍需産業同様、重要な国の基幹産業とみなして、政府の厳格な監督、管理下におく。そして、その余剰利益(レント)を側近間で分配する。
現ロシアでは汚職は歴然として存在している。いや、それどころか、ソビエト時代に比べてさらに増大する勢いである。
プーチンは、KGB勤務によってつちかったフレキシブルな思考法のおかげで、数々の難局や危機を乗りこえてきた。
大変わかりやすく、ロシアの現状を鋭く分析した本でした。
(2012年12月刊。6500円+税)
2013年4月 6日
深い疵(きず)
著者 ネレ・ノイハウス 、 出版 創元推理文庫
本の扉にあらすじが紹介されています。推理小説ですから、ネタバレは許されませんが、以下は扉にあるものですから許されるでしょう。
ドイツ、2007年春、ホロコーストを生き残り、アメリカで大統領顧問をつとめた著名なユダヤ人の老人が射殺された。凶器は第二次大戦記の拳銃で、現場に「16145」という数字が残されていた。しかし、司法解剖の結果、遺体の入れずみから、被害者がナチスの武装親衛隊員だったという驚愕の事実が判明する。そして、第二、第三の殺人が発生、被害者らの隠された過去を探り、犯行に及んだのは何者なのか。
刑事オリヴァーとピアは幾多の難局に直面しつつも、凄然な連続殺人の真相を追い続ける。ドイツ本国で累計200万部を突破した警察小説シリーズ・開幕!
ドイツには今もネオ・ナチがうごめいているようです。でも、日本だって同じようなものですよね。安倍首相なんて、戦前の日本への回帰を臆面もなく言いたてていますので、ドイツを批判する資格もありません。
それにしても、ナチス親衛隊員が戦後、ユダヤ人になりすましていたなんて、信じられません。そして、残虐な殺人劇が続いていくのです。
警察内部の人間模様も描かれていますが、やはり本筋はナチス・ドイツの残党が今なおドイツ国内でうごめいていることにあります。
読ませるドイツの推理小説でした。
(2012年7月刊。1200円+税)