弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
ヨーロッパ
2012年11月27日
コムソモリスク第二収容所
著者 富田 武 、 出版 東洋書店
戦後のシベリア抑留の実像に迫ったブックレットです。
シベリア抑留については、いろんな研究書や体験記が公刊されていますし、映像としても見られるようになりました。このブックレットは、そこに欠けている視点があるのではないかと指摘していて、なるほどと思いました。
収容所の食事がいかに粗末だったかがいつも語られている。しかし、1946年から47年にかけては、ソ連でも広範な飢饉を体験していた。一般の食事も配給制下で貧弱だった。むしろ、捕虜から大量の死者を出せば国際的威信にかかわるため、地方当局は必至に食糧確保策をとっていたのも事実だった。
コムソモリスク収容所のあったアムール流域の工業都市の人口は1945年8月に20万人。冬期の寒さは厳しく、12月に入ると零下30度、1~2月の厳冬期には零下40度を下回ることもある。
1945年8月、ソ連最高機関たる国家防衛委員会は、日本軍捕虜を50万人選別することを決定した。このとき、ソ連はすでに240万人ものドイツ人捕虜を領内に留置・移送して、生産や都市の復興の労働力として使役していた。
日本の関東軍首脳は、ソ連に対して、対米英戦争和平の仲介を依頼すべく近藤文麿を派遣するための要綱に「賠償として、一部の労力を提供することに同意する」としていた。要するに、関東軍は日本兵の労務提供を申し出ていたというのです。
労働力としての日本兵捕虜について、ソ連内の各地方州、共和国から追加要請があっていた。
日本人捕虜の調査対象30万人の19.5%は体力が衰え、6%が病気になった。1945年から46年に冬に酷寒と飢え、重労働で多数の死者が出た。全抑留期間の死亡者6万人の80%にのぼった。
1946年4月に、極東・シベリアの捕虜5万人を中央アジアに移送する命令が出た。
同年5月、ソ連領内の病弱な捕虜2万人を北朝鮮内の健康な捕虜2万2千人と交換するという命令が出された。
捕虜収容所の維持費が捕虜による生産高を上回る赤字が続き、黒字になるのはようやく1949年であった。
日本人捕虜収容所では、最初から反ファシスト委員会が存在したのではない。1947年後半から、反動的な将校団の影響力が著しく低下した。将校は労働力が免除され、それでいて給食は質量とも兵士以上だった。
1950年4月、日本人捕虜51万人の日本への送還が完了した。捕虜総数は64万人(日本人61万人)、うち死者6万2千人だった。最初の冬の半年間で4万6千人が死亡した。
最後に、ロシア政府はシベリア抑留関連文書を日本政府に引き渡す義務があること、日本政府と外務省は、ロシア政府に対して堂々と要求すべきだと著者は強調しています。まったく同感です。わずか60頁あまりの薄いブックレットですが、シベリア抑留の実情を知るうえで、欠かせないものと思いました。
(2012年10月刊。800円+税)
2012年11月15日
そこに僕らは居合わせた
著者 グードルン・パウセヴァング 、 出版 みすず書房
ナチス・ドイツ時代の社会の醜い実情をも語り伝えるべきだということで書かれた本です。人間の弱さと強みを見つめるということです。全体主義の狂気にフツーの人々がのみこまれていったのでした。今の日本で、ハシモト、イシハラに共通するところがある気がしてなりません。
ユダヤ人家族が強制連行されていく。そのことを知った近所の人々は、すぐにのりこむのです。ユダヤ人一家は連行されるとき、ちょうど昼食をとろうとしていたようです。のりこんだ家族は、そのまま、おいしく他人の昼食をいただくのでした。
それは、私たちのために用意された食事ではなかった。なのに、みんな、いつものように母に従った。
学校で、子どもたちはユダヤ人について、教師から次のように教えられていた。
ユダヤ人は、実直なドイツ人を食い物にしたり騙したりする悪い奴らだ。ユダヤ人は友情を知らないので、つきあってはならない。ユダヤ人は嘘つきなので、信用してはならない。ユダヤ人はたちが悪いので、どんな目にあっても同情してはならない。ユダヤ人は鉤鼻(かぎばな)をしているので、見分けがつく。
挿絵つきの少年少女向け物語集には、ユダヤ人によるあらゆる悪事が列挙されていた。少年少女に、ユダヤ人に対する敵対心を植えつけ、反ユダヤ主義者を育てるという明確な意図のもとに書かれた本である。
村の人々は、ユダヤ人の営む商店で、ツケで買い物し始めた。はじめは、みんなためらっていた。しかし、そのうち、みんなツケを利用するようになった。
村人は、商店が破産していく様子を、冷静かつ満足そうにみていた。そして、ついに本当に行き詰まり、店を売りに出した。示された買値は、本来の値段の10分の1だった。
戦後、村人は、そんなことをしたということを話すことはなく平穏に生きた。誰かが、戦前の話をしようとすると、みんなでやめさせた。
こんな暗い歴史でも語り継いでいく必要があると著者は語っています。私も同感です。それは決して自虐史観というのではありません。自らのルーツを全面的にみつめるうえで欠かせないということです。いい本でした。
(2012年7月刊。2500円+税)
2012年11月 2日
心に入り込む技術
著者 レオ・マルティン 、 出版 阪急コミュニケーションズ
元ドイツの情報局がドイツ・マフィアにスパイを潜入させる工夫を語っています。人間の弱点を巧みについた心理作戦が駆使されていて、大変勉強になりました。
コミュニケーションには、必ず意図がある。何かを言う、または何かをするのは、相手にそれを伝えるためだ。思考は必ず身体に表れる。
人と出会うとき、人は、とても繊細なアンテナを使って、相手の内面と外面が一致しているかどうかをチェックする。言葉や表情がうわべだけではないかどうかを感じとる。思考と行動が一致していれば、その人は調和を発散する。それは相手に好感を与え、信頼感につながる。この人なら信頼して大丈夫。そう、青信号に変わるのだ。
犯罪学における成功の秘訣の第一は、相手に対する心からの興味である。
圧力や脅しや強要によって、実りのある長期的な関係を築くことは出来ない。おカネは動機としては、あまり効果がなく、長期的な動機にはなりえない。おカネで情報を買えば、むしろ害になる可能性が大きい。
安心感、愛情、称賛・・・、これが、誰もが望む基本的な欲求だ。
接触の段階は、初めて視線が出会ったときに始まる。細部の細部まで計画された接触の瞬間に、自然で無意識な印象を与えるのが肝心だ。そして、気持ち楽にして、ほほ笑む。そうすれば楽しい会話がもっと魅力的になる。屈託のない誠実な笑顔を見れば、相手は警戒を解くだろう。
会話の初めに避けたほうがいいのは、陳腐な決まり文句、笑顔、政治である。無味乾燥で、退屈で、ぎこちないので、気楽で軽い接触に向かない。
あれこれ質問すると、相手はいぶかしく感じる。
なるべく人の名前は記憶する。そして、会話をうまく進めるポイントの一つは、共通の体験だ。身体をやや前に乗り出し、視線を相手に向け、適宜うなずく。相手の言った内容をときどき自分の言葉で要約したり、質問を入れたりして、理解していることを表明する。
人間関係の根底にある前提は責任だ。自分は頼りになるパートナーだと最初から示すこと。一度だけ、これ見よがしに見せるのではなく、繰り返し示す。
信頼関係を築くためには、やると言ったことは必ず実行する、要求されなくても、進んで約束し、それを必ず守る。
組織犯罪の世界にいる人間には感情の動きを失ってしまった人間が多い。この世界で暮らそうとすると、そうなってしまう。結果として、顕著なエゴイズムと権力欲、冷淡と無情につながる。大切なのはビジネスだけ。何を犠牲にしようとかまわない。商売の邪魔になるなら。人命すら価値をもたない。
価値体系は一夜にしてできたのではない。経験とともに生育し、徐々に適応してきた。社会的な境界をこえるたびに、境界の壁は低くなる。
マフィアから復帰した人たちは、心を揺さぶる体験がその価値体系を根底から変えたことによる。子どもの誕生、重い病気、親しい人の死など・・・。これらが方向転換を促し、その結果として思いがけず再び犯罪組織の外で生活することになる。
相手が嘘を言っているのではないかと薄々感じても、相手の面目をつぶさないように気をつける。相手を面と向かって非難して、袋小路に追いつめられたように感じさせても、得るものは何もない。
情報局と協働する情報提供者は、緊張度が極度に高い領域で活動している。
犯罪組織の波にもまれた筋金入りの人間ですら、裏切りは身にこたえるのだ。その罪悪感を理性で追い払うことはできない。そして、罪悪感には大きな不安が伴う。
そこで、相手に質問を投げかけて、その後しばらく、そっとしておくのが、もっとも効果的な方法だ。
信頼関係は一方通行では成立しない。互いに相手をよく知り、相手が何を保障してくれるかを理解することが前提となる。
スパイ獲得大作戦の手法なのでしょうが、人間心理をよく衝いていると驚嘆したことでした。
(2012年9月刊。1600円+税)
2012年10月25日
アンネ、私たちは老人になるまで生きのびられた
著者 テオ・コステル 、 出版 清流出版
オランダに住むユダヤ人のアンネ・フランクとクラスメートだった人たちが65年たって集まったのでした。アンネと同じ中学校に通ったのです。
このユダヤ人中学校の建物は今もあり、現在は理容美容専門学校として使われている。ユダヤ人中学校の生徒たちは、半数が戦争を生き残ることができた。しかし、オランダのユダヤ人全体でみると、その数はわずか2割だ。裕福であること、コネがあること、頼られる友人がいることが、ある程度までは生き残る助けになった。
アンネはアンネ・フランクという呼び方が好きだった。
アンネが自分の家で開いた誕生パーティーのときには、アメリカの映画の「名犬リンチンチン物語」が上映された。
アンネには、いつも男の子の友だちがたくさんいた。アンネは胡椒みたいな、おしゃまな女の子だった。教室でのアンネは、教師から指名されなくても平気で勝手に発言するような、生意気な女の子だった。
アンネはとても活発な子だった。いつも人の輪の中心にいたがっていた。注目を集めるのが大好きだった。正直なところ、アンネは、どこにでもいる普通の女の子だと思っていた。アンネは、正直で一風変わった女の子。アンネは大人っぽくて、しっかりしていた。
あの年代の女の子が、友だちから引き離され、植物や動物からも引き離され、実際すべてのものから引き離されて、大人ばかりに囲まれた環境に身を置くと、いろいろなことが一気に成長するもの。あの特殊な環境のせいでアンネは急速に成長せざるをえなかった。だから、作家としての才能も一気に花開いた。アンネの文章は美しく、とても十代の少女が書いたものとは思えない。
イギリスに亡命したオランダの政権の教育大臣は、ラジオで日記のような証言記録を残すことを呼びかけた。アンネは、呼びかけに答えて日記を書きはじめた。
強制収容所ベルゲン・ベルゼンで、アンネはチフスと想像を絶する飢えに苦しみながら4ヵ月のあいだ生き抜いた。そして、1945年3月、解放のわずか数週間前に亡くなった。15歳だった。
「アンネフランクのクラスメート」というドキュメンタリー映画がつくられたようです。みてみたいものです。読んでいるうちに、なんとなく元気の出てくる、いい本でした。
(2012年8月刊。1600円+税)
2012年10月13日
ロッシュ村幻影
著者 井本 元義 、 出版 花書院
仮説アルチュール・ランボーというサブタイトルのついた本です。著者は私と同じ日仏学館で学ぶフランス語仲間です。
会社を定年で辞めてフランスに何ヶ月間か住むという優雅な生活を過ごしています。そして、ランボー研究に精進しているのですから、すごいものです。
パリでは、安い屋根裏部屋を借りて長期滞在するとのこと。料理なんかはどうするのでしょうか。自炊なのでしょうか。
ランボーは、1891年11月、37歳の若さで亡くなります。
ランボーを悩ませ走らせたのでは、それが歓びとして昇華されることがあっても、荒れ狂う言葉の群れとの葛藤だった。そして片方では、新たな言葉を吸い込もうとしている砂地のように乾いた脳の奥底があった。何千冊の読書をこなしても言葉は一瞬のうちに吸い込まれた。言葉は狂乱して止むことはなかった。輝いてリズミカルに跳びはねた。目ぼしいものを見つけると、遠い彼方の空間からも言葉が飛んできた。その音に共鳴して、さらなる言葉が襲来してきた。そして規則正しく配列して決して終わろうとしなかった。独りでに言葉が口をついて出してきた。単語そのものが音と色を放った。それらを詩にして紙に書きなぐったとしても収まることはなかった。それは激しい性欲に似ていた。満たされても満たされなくても、すぐに次の衝動は起こってきた。さらに激しくなって。
ランボーはパリ・コミューンが成立する騒乱のパリに向かった。そして、1871年5月、パリ・コミューンが弾圧され兵士が虐殺されていくなか、ランボーはパリ脱出が成功した。
ランボー自身の心理描写と著者の心象風景が混然とした小説風のエッセイでもあります。昨年(2011年)は、アルチュール・ランボーの没後120年だったとのこと。
アフリカの闇に11年間もランボーが沈み込んでいた謎に迫ろうとする意欲にあふれた本でもあります。贈呈いただき、ありがとうございました。
(2011年10月刊。1800円+税)
2012年10月 4日
ソハの地下水道
著者 ロバート・マーシャル 、 出版 集英社文庫
「シンドラーのリスト」と同じように、実話にもとづいた映画の原作です。まだ映画はみていませんが、ポーランドの小都市の地下水道に、子どもを含むユダヤ人11人がポーランド人の労働者に助けられて、ナチス・ドイツが撤退するまで14ヵ月も隠れていたというのです。すごい話です。早く映画をみてみたいと思いました。
場所は現在のウクライナです。当時はポーランドの領内でした。ルヴフという小さな都市です。
彼らは1943年6月1日に下水道に入り、1944年7月28日に地上へ出てきた。この間の14ヵ月を下水道で過ごした。どうやって・・・?
ユダヤ人たちは地下室の床を掘り下げていき、下水道に出ようという作業が始まった。石灰岩のブロックを少しずつ削りとり、ついに縦坑が貫通した。下水道に通じることが出来た。そして、そこで下水道を管理しているポーランド人労働者と出会った。
「力を貸すことはできるが、タダで、というわけにはいかない」
「あんたらを密告すれば、ヒーローだ。ところが助けようとしても、もしそれが見つかったら・・・」
「銃殺なんてものではない。女房も子どもも街頭の柱から吊されるんだよ」
こんなやりとりでも、結局、ポーランド人労働者は密告しませんでした。
ナチスがユダヤ人絶滅作戦を開始した。縦坑の存在を聞きつけたユダヤ人が続々と地下室に集まってきた。そして、次々に地下水道へ逃げ込んでいく。総数は400人から500人。でも、地下水道を流れる川におぼれ死んだり、我慢できずに地上に出て、次々に死んでいった。それでも100人は残った。いったい、100人もの人間が狭い都市の地下水道にいつまで隠れておれるものか・・・。
ポーランド人は労働者のリーダーであるソハは4日目、70人以上の人間が地下水道にいる現実を知って、話したいと言ってきた。とても面倒みきれないのは当然だ。もっと人数を減らさなければ協力できないという。12人以下でないと無理だ。どうするか・・・。
ヒゲルたちユダヤ人がポーランド人労働者のソハに支払ったのは、1日あたり500ズウォティ。当時の労働者の平均月収は200ズウォティ。下水道労働者だと150ズウォティ。だから、月収に等しい額を、毎日、ソハはもらっていたことになる。
でも、ソハは500ズウォティのなかから21人分の食料を危険覚悟で調達してこなければいけないのだ。
本当にすごいことですよね。とてもお金ほしさだけでやったなんて思えません。恐らく、このユダヤ人グループのなかに2人の幼い子どもがいたのが良かったのでしょうね。
ソハは、やってくると、子どもたちに自分の昼めし(パンやソーセージなど)を分けてやっていた。
やがて、グループのなかにいさかいが起きます。そして一方のグループは、地下水道の暗闇から地上へ出ていくのです。もちろん地上に出たところで全員が殺されます。
ところが、一人、地上に出て「取引」に成功する仲間もいるものです。ここらあたりが、人間の不思議なところです。地上の町と地下水道を行き来できる仲間もいるのでした。そのうえ、なんと、地下水道で出産する女性までいました。でも、赤ちゃんは無惨にも仲間に殺されてしまいます。その泣き声が困るからです。
なぜ、ポーランド人労働者がユダヤ人グループを1年以上も生命がけで助けたのか。お金だけでは決して説明がつかない。なぜなら、ユダヤ人たちはお金を途中で使い果たしてしまったから。
ソハは、このとき、生まれて初めて他人から信頼の証を見せられたと感じた。それも、学があり、時代が時代なら、社会的名声もある紳士から、信用のおける人間だと思われた。これには、単なるお金以上の価値があり、それだけで、ヒゲルとその仲間たちが社会の追放者以上の存在に見えてきたのだろう。ソハにとって、ヒゲルとの関係はお金に代えがたい価値があるものだった。うむむ、なるほど、人間って複雑な存在ですよね。
解放される寸前には、ロシア兵まで地下水道にやってきた。脱走ロシア兵だ。このロシア兵を逃したら、まだ残っているナチスにユダヤ人グループの存在がバレてしまう。ロシア兵を監視した。決して逃すわけにはいかない。
このように最後の最後まで、地下水道では緊迫した状況が続いていきます。それでも、子ども2人をふくめて11人が助かるのでした。すごい実話です。ほっと胸をなでおろします。そして、ソハはどうなるのか、また、ヒゲルたちは・・・。ぜひ本書を読み、また映画もみてください。
(2012年8月刊。720円+税)
2012年9月29日
フランス・プロテスタントの反乱
著者 カヴァリエ 、 出版 岩波新書
カミザール戦争の記録というサブ・タイトルのついた部厚い文庫本です。
南フランスに行ったのは、私がまだ50代のときでした。弾圧された異端キリスト教徒として有名なアルビジョワ派の本拠地であるアルビにも行きました。この本は、その南フランスで起きたカトリック教徒によるプロテスタント弾圧のなかで、反乱に立ちあがったプロテスタントの動きを紹介しています。いつの話かと思うと1700年ころのことです。フランス大革命が起きたのは1789年ですから、わずか80年か90年ほど前のことなのでした。
この本を読むと、キリスト教って本当に寛容な宗教なんて言えないよね、とついつい思ってしまいます。だって、同じキリスト教徒なのに、ローマ教皇の支配下にあるかないかだけで、残酷な殺しあい延々と続けるのですからね。これって、宗教の嫌らしさそのものですよね。
カミザール戦争とは何か。本のオビには、次のように書かれています。
18世紀初頭、南フランスのセヴァンヌ地方でプロテスタントの農民が宗教の自由を要求して蜂起し、国王軍と戦った反乱について、その指揮官であったカヴァリエが遺した回想記。農民が10倍をこえる正規軍を敵にまわして、いかに戦ったかを生きいきと伝える。
セヴァンヌ地方というのは、南フランスのマルセイユに近い地方です。
1598年、アンリ4世がナント王令を発布し、フランスにおける宗教戦争に終止符をうったのでした。ところが、その孫に当たるルイ14世(太陽王と呼ばれました)は、1685年、ナント王令を廃棄し、国内のプロテスタントの徹底的な弾圧に転じたのです。ところが、新教徒人口の密度の高いセヴァンヌ地方では弾圧も抵抗も苛烈だった。2000人ほどの農民が、2万5000をこえるフランス国王の派遣した正規軍と2人の元師を敵にまわして2年あまり、いかに戦ったかカヴァリエは記録した。セヴァンヌの蜂起がなかったら、プロテスタントはフランスで存続しえなかったであろう。
セヴァンヌ戦争は、プロテスタントたちが未曾有の固い決意をもって、自分の子どもをカトリックのプロパガンダから守ったことを明らかにした。セヴァンヌ戦争は、政治とは無縁で、単に信仰の自由の擁護のみが惹起した戦いだった。
ルイ14世によるナント王令廃棄のあと、監獄ガレー船はプロテスタントで一杯になった。死刑台と絞首台は、プロテスタントの血で汚れた。これほど恐ろしい残虐行為は、プロテスタントの敵にとって不利になり、それだけプロテスタントに有利になった。というのは、それまではプロテスタントの仲間に加わる気などなく、静かに自分の家で暮らしていた人たちが、もはや誰ひとり安全ではないと知って、ためらうことなくプロテスタントの戦列に加わったからである。そこで、プロテスタントの軍営は人数が増え、強力になった。
フランスの山岳地帯において、第二次大戦中のナチス・ドイツ軍に対するレジスタンス運動さながらの抵抗闘争を展開していたプロテスタントたちの実情がよく伝わってくる本です。
私も、一度、ナント王令が出たナントに行ってみたいなと思っています。
(2012年2月刊。1320円+税)
2012年9月21日
スペインのユダヤ人
著者 エリー・ケドゥリー 、 出版 平凡社
中世ヨーロッパにおけるユダヤ人迫害史です。
1492年、ユダヤ人はスペインから追放された。まもなく、ポルトガルからも追放された。そのころ、ユダヤ人は、イベリアの諸国王の中で卓越した地位を得ていた。資金の提供者として、また徴税官として財政面で中心的な役割を担った。社会生活全般に関与し、都市でも農村でも、追放される直前まで、あらゆる生活の場にユダヤ人はいた。
1492年3月、フェルナンドイザベルによってユダヤ人追放令が出された。
15世紀のスペインにはコンベルソがいた。コンベルソとは、宗教的理由による迫害と、まさに追放を逃れるために改宗した人々である。
ユダヤ人追放令は、1391年。暴動に始まる一連の事件の最終結末だった。恐怖と迫害のなかで、多くのスペインのユダヤ人がキリスト教に改宗した。
スペインの異端審問所の判決は大変に厳しかった。有罪であるとされたコンベルソには死刑が言い渡されることがあった。そして、有罪判決は、有罪とされた人物の財産を国益のために没収することを意味した。
1481年から1488年のあいだに700人以上のコンベルソが火焙りとなり、5000人以上が教会と和解した。スペインの異端審問が廃止されたのは1834年のこと。1808年までに、3万2000人の異端者が火刑になったと推定されている。その大部分がコンベルソであったと思われる。
火刑になると分かっていても、自分の信仰は捨てなかった人が、こんなにいたのですね・・・。驚きます。それにしても25年間で3万2000人の火刑だなんて、1年間にすると1280人。1ヵ月に100人以上だなんて、いくらなんでも大変な火刑ですよね。
ポルトガルの王は、ユダヤ人を一括して強制的に改宗したことにした。だから、ポルトガルのユダヤ人全体が一気に新キリスト教徒になった。こうした緊急避難的な改宗のために、ポルトガルでは、ユダヤ教の知識・伝統・社会的ネットワークが、禁圧と秘密主義の被いの下に生き残った。
16世紀末から、アムステルダムに、ポルトガルのユダヤ人たちが定住し、なんの妨げもなくユダヤ教が許された。ポルトガルからオランダに逃れてきた隠れユダヤ教徒は、新キリスト教徒として1世紀以上も暮らしたあと、真のユダヤ教にもとづくユダヤ人共同体をアムステルダムに再建することができた。
ユダヤ人がスペインの国庫と金融業の大半を支配したというのは誤解である。しかし、その一方、最有力のユダヤ人が他の追随を許さない技術力と才覚をもっていたことも事実である。金融業の才覚のまったくないユダヤ人もいたし、キリスト教徒の金融業者もたしかに存在した。
ユダヤ人は、生まれながらにしてキリスト教徒以上の金融業者として才覚を有していたわけではなかった。しかし、親族関係に支えられて金融業に携わったので、一度この業務に習熟すると、その才能は代々継承されていった。
「奴隷」としてのユダヤ人は、しばしば王権の保護下に置かれ、ユダヤ人共同体は内政面での広範な自治権を保障された。
15世紀初めのスペインのアラゴン王の宮廷にはユダヤ人の用人たち、金融家。占星技術士師、ライオン使い、医者がいた。15世紀のスペインにおいて、都市ではユダヤ人の徴税請免人や医者はごく普通の存在だった。
1492年以前から、側近にユダヤ人の財務官や医者を抱えていた国王は、1492年以降も改宗したユダヤ人を顧問官に置き、1508年には、行政におけるコンベルソへの信頼を公然と表明している。反ユダヤ主義はイベリア社会で持続した。だが、追放令の目的は、ユダヤ人を排除することではなく、彼らを強制的に教会のメンバーに入れさせることだった。コンベルソの企業家たちは、新世界、アフリカ、そして極東に支店を置き、香料、砂糖、コーヒー、カカオ豆、奴隷プロゲード、刺繍製品その他を輸入し、取引した。
コンベルソは、どこにいっても異端審問所に追いかけられた。異端審問所は、メキシコシティー、リマー(ペルー)、コロンビア、ブラジルそしてゴアに裁判所をもっていた。
イベリア半島からのユダヤ人追放令のもっとも恐るべき結果は、コンベルソの増加にあった。多くのユダヤ人は流涙の民になるより残留を選択した。スペインのキリスト教徒は、異端審問所を介して改宗者を以前の宗教であるユダヤ教から完全に引き離そうと努めた。
しかし、コンベルソは、このあと3世紀にわたって、常にフダイサンテ、つまり隠れユダヤ教徒として多くの人々から疑惑の目で見られた。
1494年から1530年にバレンシアで有罪判決を受けた1997人のうち909人(45.5%)は死刑が宣告され、うち754人は実際に処刑された。多数のフダイサンテが現実に存在していた。
また、貴族のメンバーで、コンベルソの先祖をもたない者はほとんどいなかった。
キリスト教徒とユダヤ人との意外に微妙な関係を知ることができる本でした。
(1995年12月刊。2816円+税)
一日ゆっくり神田の書店街を歩いてきました。今回は、古書店はざっと眺めるだけにして、新書を売る大きな店に入りました。福岡にも、もちろんありますが、あまりにも大きな書店に入ると、大量の本に圧倒されて、かえっていい本にめぐりあわないことがあります。神田の裏通りにある本屋は独特の並べ方をしていて、ここには何かいい本に出会える、そんな期待をもたせてくれます。
いい本は背文字で訴えてきます。それが手積みされていて、表紙まで見れたら、強烈な自己アピールを感じます。そのオーラを感じたらすぐに手を伸ばし、手にとってみます。写真があったら、それを眺め、目次をみて、ぱらぱらと本文をめくってみます。
感じるときには、もう手放せません。勘定場に直行します。あのとき、買っておけばよかったなんてあとで後悔しないようにするためです。
2012年9月 6日
ネゴシエイター
著者 ベン・ロペス 、 出版 柏書房
さすが、交渉のプロは目のつけどころが違うなと感嘆しながら読んだ本です。テーマは身代金目的の誘拐事件で、犯人といかに冷静に交渉するか、というものです。
誘拐事件は、毎年2万件が報告され、当局に通報されるのは1割のみ。
誘拐事件の半数以上がラテンアメリカで起きている。メキシコでは毎年7000件の誘拐事件が報告されている。実際には、もっと多い。コロンビアでは1日に10件の誘拐事件が発生している。
ラテンアメリカで救出作戦によって無事に生還する人質は21%。誘拐事件の7割は身代金の支払いで解決している。力ずくでの人質救出は10%のみ。誘拐は、ウィークデイの午前中、被害者の自宅ないし仕事場あたりで起きる。
誘拐の被害にあうのは地元の人間であって、海外居住者や旅行者ではない。
ロンドンでは、誘拐に備える保険の保険料が年間1億3000万ドルにもなる。ブラジルは、年間の誘拐発生件数が世界第3位。サッカー選手の家族が狙われるようになった。
ネゴシエイター(交渉人)には、破るべからず大切な二つの黄金律がある。一つは銃を使わないこと。二つ、自分自身で交換をおこなわないこと。
現場に出た交渉人は待つことに耐えなくてはならない。誘拐犯がもつ最強の武器の一つが待たせること。誘拐犯が再び連絡してくるまで、何週間もかかることがある。数ヶ月あるいは数年ということもある。たいていの場合、待つのは拷問に等しく、コンサルタントに大きなプレッシャーがかかる。しかし、どんなときにもどっしりかまえていなければならない。少なくとも、そう見えるようでなくてはいけない。
交渉人は話し上手でなければならないと思われている。しかし、もっと重要なことは、聞き上手であること。電話で、向こうの言うのに耳を傾けることだ。
睡眠を奪うことは、誘拐犯が使用できる、きわめて効果的な拷問手段だ。
人質は、たいてい、もっとも基本的な人間の機能を奪われる。そして内に秘めた不屈の精神をくじかれる。もし、誰かを手なずけたければ睡眠を奪うのが、何よりてっとり早く、有効な方法だ。
個人富裕層を狙った誘拐は、かなり高度な計画が求められる。犯罪者たちは、時間をかけて標的となる人物の習慣や日課、警備状況などの情報を集める。
交渉人として事件を担当することを合意して最初にすることは何か?それは、小便である。合意した瞬間から、次はいつ小便するチャンスがあるか分からないからだ。
スケジュールはサディスト的にすさまじいものになり、全エネルギーと時間を事件の解決に集中させることになる。交渉人のいる部屋は、危機管理室となり、一般人の立ち入り禁止、鍵がかかり、無期限で24時間つかえ、電話とインターネットがつながっていて、コンピュータープリンターそれから、たくさんの電源ソケットがあり、誘拐犯との会話はすべて録音できることが必要だ。さらには、防音装置のあることが望ましい。
生存確認のもっとも良い方法は、電話で人質と話すこと。人質しか答えを知りえない質問する。
決して、こちらから電話を切らない。常に誘拐犯が電話を切るのを待つ。彼らが切り忘れる可能性があり、いつの間にか犯人たちの個人的な話が聞こえてきて、交渉の場で優位に立てるかもしれないからだ。
交渉人は、ふつうは誘拐犯の言い値の10%にまで下げさせる。時間は交渉人の味方である。
誘拐犯との交渉を指揮官にさせてはならない。その下位にいるものなら、「まずボスに相談しなければ・・・」と言って牛歩戦術を使える。
なーるほど、誘拐犯との交渉にあたる交渉人が職業として成り立つ理由がよく理解できました。
(2012年7月刊。2200円+税)
2012年8月18日
人生と運命(2)(3)
著者 ワシーリー・グロスマン、 出版 みすず書房
スターリングラード。予備の兵力からやってきた部隊をよく考えずに先を急いでいきなり戦闘に投入したことを隠すために、部隊のほとんど無駄ともいえる死を隠すべく、士官は上層部にお定まりの報告を送った。
「到着後、直ちに投入された予備の部隊の戦闘行動は、敵の進撃をしばし食い止め、本官に託された部隊の再編を実行可能にした」
1937年.スターリンの粛清が続いている。前の晩に逮捕された人々の名前がほとんど毎日のように取りざたされていた。
「今日、夜にアンナ・アントレーエヴナのご主人が病気になって・・・」
そんなふうにして逮捕について互いに電話で知らせあっていた。スターリンの粛清。文通の権利剥奪10年の判決。これは銃殺を意味していた。ラーゲリのなかには、文通の権利剥奪10年の刑を受けている囚人は一人もいなかった。
ロシアの重砲、迫撃砲そして武器貸与法によってアメリカから入手したドッジとフォードのトラックの縦隊がスターリングラードの方向へ向かうのを数百万の人々が目にした。ドイツ軍は、スターリングラードへの部隊の移動を知っていた。だが、スターリングラードでの攻勢はドイツ軍には分からないままだった。スターリングラード地域でのドイツ軍包囲は、ドイツ軍の中尉と元師たちにとっては寝耳に水だった。
スターリングラードの赤軍は、もちこたえ続けた。大量の兵員が投入されたにもかかわらず、ドイツ軍の攻撃は決定的な成果を上げなかった。じり貧状態のスターリングラードの赤軍諸連隊は、わずか数十人の赤軍兵士が残るだけだった。恐ろしい戦闘の極度の重圧をその身に引き受けた、この数十人の兵士こそが全ドイツ軍のすべての想定を狂わせる力だった。
1941年12月、モスクワでのドイツ軍への勝利によって、ドイツ軍に対するいわれなき恐怖は終わった。スターリングラードでの勝利は、軍と住民が新しい自意識をもつ助けとなった。ソヴィエトのロシア人は、自分自身について、これまでとは違った理解をするようになった。
この時期、国家ナショナリズムのイデオロギーを公然と宣言するチャンスをスターリンに与えた。かつて、ドイツ人はロシアの百姓家の貧しさを笑いものにした。しかし、今の、捕虜のドイツ人はぞっとするほどひどかった。
「ドイツ野郎たちには自業自得だ」
「我々がドイツ人を呼んだわけではない」
1000年のあいだ、ロシアは徹底した専制と独裁の国だった。ツアーリと寵臣たちの国だった。しかし、ロシア1000年の歴史に、スターリンの権力と似た権力はなかった。
スターリン、偉大なるスターリン。もしかしたら、鉄の意志の男は誰よりも意志の弱い男であるのかもしれない。
ええーっ、こんなことをまだスターリンが生きているうちに書いたソ連作家がいたなんて、信じられませんね。これでは発禁になるのも当然ですね。
スターリンが党大会の休憩時間にどうして懲罰政治の行き過ぎを許したりしたのかとエジョフに質問した。うろたえたエジョフは、スターリンの直接の指示を実行していたのですと答えた。スターリンは、取り囲んだ諸代表のほうを見ながら、悲しそうに、「こんなことを言うやつが党のメンバーなのだからね」と口にした。
この『人生と運命』を書くことで、グロスマンは、ドイツのナチズムとソヴィエトのスターリン主義が同じ全体主義のカテゴリーにくくられるという結論にたどり着く。そのうえで人間の自由への希求が変わらぬままであることが、国家の独裁に対する人間の永久的な勝利を約束すると言い切った。
ヒトラー・ドイツと戦ったスターリンのソ連が両者よく似た体質をもっていることを明るみに出しながら、同時進行でいくつものストーリーが展開していく大長編小説です。
(2012年3月刊。4500円+税)