弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

ヨーロッパ

2012年7月31日

医療クライシスを超えて

著者   近藤 克則 、 出版   医学書院  

 イギリスと日本の医療制度を比較した興味深い本です。
 イギリスの医療が荒廃し、国会で大問題となった。かつてのイギリスでは医療費を抑制しすぎて、100万人を超える入院待機者が生まれ、手術しても1年半以上も待たされるという医療の荒廃を経験した。医療費水準は低いほどよいのでは決してない。そこで、世界の他の先進国に比べて異常に抑えすぎた医療費が主因であるという認識が広がった。その結果、医療費を5年間で1.5倍にするという医療改革にイギリスは取り組んだ。
 医療費が抑制された1990年代半ばに看護師数やGP研修医は減少していたが、増加に転じた。1999~2004年の5年間に、看護師は33万人から40万人へ7万人も増えた。医師は9万人から11万人へと2万人ふえた。医学部の定員は4千万人から6千万人へと6割アップした。
カナダも、同じように医療費を増やす道を選んだ。日本より医療費の水準が高いにもかかわらず・・・。このように、先進国では、むしろ医療費を増やすかたちで必要な投資をし、質を高めつつ、効率を高めるという医療改革をしている。医療費を抑えている日本は世界の流れに逆行している。
 患者の自己負担を増やすのは、短期的には効果があるようにみえても、意外なことに長期的にみると、公的医療費の削減にはつながらない可能性が高いというのが国際的な経験である。
 自己負担を増やせば、それを払えない人も増える。それを公的に補う結果、公的な医療費は増える。国民皆保険でないアメリカのほうが、医療費が高いこともあって、GDPに占める公的医療費に限っても日本以上に大きい。
 自己負担を増やした結果、公立病院の未収治療費が3年間で1.5倍にも増えた。
 日本の医師は偏在している。そして、医師不足は深刻だ、もっとも医師の多い京都府は(272.9人)であっても、OECD加盟国の平均310人に達していない。平均並みにするには12万人も医師が足りない。
 日本より人口あたり医師数が少ないのは、韓国、メキシコ、トルコの3ヶ国である。
 自己負担増は病院の未収金を増やすだけでなく、患者の受診抑制を招く。
 患者は低所得層に多く、自己負担できる富裕層には患者は少ない。
 日本社会は、子の50年のあいだに平均寿命を10年以上も伸ばすという「長寿」を実現した。今では「健康寿命」も世界一の長さを誇っている。これは介護予防政策が強化される前に起きたこと。つまり、健康医療制度の拡充だけでなく、経済発展や教育水準の向上、他国に比べて少ない失業率、終身雇用制、1980年代まで貧困の減少や年金制度など社会保障の拡充による格差の是正など、多くの社会経済的要因が寄与したと思われる。
「社会保障との一体改革」の名のもとで、いま、社会保障制度の改革がどんどん進められています。そこでは、私たちの団塊世代が諸悪の根源であるかのような議論も出ていて、とんでもないことだと怒りに燃えてしまいます。
この本で、イギリスとの非核で日本はアメリカのような医療保険会社だけがもうかる、いびつな社会になってはいけない、公的医療制度の充実こそ大切だと実感させられました。
(2012年3月刊。2800円+税)

2012年7月24日

イワンの戦争

著者   キャサリン・メリデール 、 出版   白水社

 第二次世界大戦におけるソ連の大祖国戦争で倒れた3000万人もの赤軍兵士の実情を丹念に掘り起こした450頁もの労作です。
 ヒトラーを信用して欺されてしまったスターリンの犯罪的責任はきわめて大きいと改めて思いました。それをどうやってソ連の人々がカバー・克服していったのか、さらに、それをスターリンがどうやって利用したのかも紹介されています。ところどころに当時の写真があるのも、本文の記述を理解するのを助けます。
戦争の全期間を通して、ロシア人はソ連軍の多数派だった。ウクライナ人が2番目に多く、他にもアルメニア人やヤクート人まで多彩な人種がいた。多くの人々が、伝統的な区別を捨て、「ソ連人」という新たな呼称で自分を規定した。
 兵士の年齢はまちまちだったが、1919年から25年までの生まれが多かった。40代が何十万人もいて、年配の兵士も少なくなかった。
 しかし、人員の消耗率が高く、戦死や重傷による移送まで、前線にいる期間は平均3週間。後方からの補充も目まぐるしい。小さな集団の仲間が長く一緒にいるのは、まれだった。
 実に苛酷すぎる戦場だったことがよく分かります。
 ソ連は戦争の申し子だ。この国以上に暴虐と面と向かった国はない。最初は帝政ロシアがドイツに立ち向かった戦争だった。ロシアは欧州のどの国よりも多くの兵士を失った。
 十代の若者がみんなあこがれたのは、プロペラ機の搭乗だった。1940年には、訓練を受けて落下傘で降下できるソ連国民は100万人をこえると推定された。しかし、戦争本番では落下傘部隊の出動はほとんどなかった。
 軍隊には政治委員がいた。ポリトルクという政治将校が中隊以下を担当した。このポリトルクは、プロパガンダ担当、従軍神父、神経科医、監督教官、そしてスパイの役割を担っていた。ポリトルクも、プロパガンダの太鼓を叩きすぎると、抵抗を受けた。ポリトルクは、嫌われ者でもあった。規則に関して全権をもっていたからだ。ポリトルクの教育水準は平均より高く、その多くがユダヤ人だった。
トハチェフスキー赤軍参謀総長が逮捕され、裁判にかかったことは、軍のエリートたちを動揺させた。
 トハチェフスキーの逮捕は、国家によるテロ第一弾だった。軍だけでなく、国防機関のすべてを新たな政治統制の下に置くプロセスが始まった。
 1973年から39年までの3年間で3万5千人余の士官が職を追われた。1940年までに5万人近くが赤軍と海軍から追放された。戦前最後の3年間で、全軍管区の90%の指揮官が降格された。上下関係の転倒は、戦争をまさに目前にして、徴兵・訓練・補給・部隊間の連携を大混乱に陥れた。職業軍人は地位を失うまいと争い、士気も荒廃した。
 1940年までに1万1千人が軍に復職した。しかし、粛清は、士官一人ひとりの仕事をさらに難しくした。誰にも、職はおろか生命の保証さえないという事実が既に明らかだった。
 士官候補生や初級士官の自殺率の高さは目を覆うほどだった。その自殺の原因で、最も多いのは、「責任を問われる恐怖」だった。
 軍は肥大し、1941年夏に500万人を超えていたが、士官の数は絶望的に少なかった。少なくとも3万6千人の士官が足りなかった。戦時動員が始まると、不足数は5万5千人にはねあがった。その結果、兵士は男も女も、実戦経験のない若者の指揮下で戦わねばならなかった。そして、幹部の無能は、すぐに露呈した。士官の力量不足は致命的だった。兵士は初級士官を侮辱し、命令に従わなかった。
 ヒトラー・ドイツ軍が侵略を開始して最初の数週間でソ連赤軍は崩れた。これは兵士個人の責任ではなく、官僚的な規則、無理強い、嘘、恐怖と無統制の末路だった。
 1941年、ドイツ軍の砲火でやられた戦車より、故障で使えなかった戦車のほうが多かった。ドイツ軍1両に対して、ソ連は6両の戦車を失った。
 1941年末まで、ドイツ軍にとって赤軍の捕虜の生命なんかどうでもよかった。戦争初期、赤軍兵士は、簡単に降伏した。1942年、ソ連兵はドイツ軍の捕虜となれば残酷な仕打ちか死を覚悟しなければならないことを確信した。それを知ってから、ソ連軍の戦いぶりは激しくなり、敵への増悪は深まった。ドイツ軍は捕虜を虐待し飢えさせ、殺したことで、結果としてソ連軍を助けた。
 ソ連軍の捕虜のなかで、ポリトルクとユダヤ人は見つかり次第、どこでも射殺された。ドイツ軍の虐待行為がなければ、ソ連国民は再び戦いの持ち場につかなかっただろう。
 スターリン主義のもとでは、個人が目立つことを嫌う傾向が強かった。しかし、今や兵士一人ひとりが奮起して命がけで行動しなければならない局面を迎えていた。
 1941年から45年までに、ソ連軍は1100万個の勲章を授与した。アメリカ軍は140万個だった。軍人は立派な仕事をすれば必ず報酬があると理解した。物資面でも優遇された。
 1942年7月、スターリングラードに50万人をこえる将兵が終結した。このうち30万人をこえる人命が失われた。そして、このとき一定の法則があった。誰でも、10日間はなんとかなる。だが、どんなに頑丈でも、8日目か9日目になると、死ぬか、死ななくても負傷は免れなかった。
 兵士を奮い立たせたのは、言葉を超えた感情だった。愛といっても差し支えのないものに裏うちされた、まっすぐな憤怒だった。生きている限り、略奪者を撃破しなければならないことが分かっていた。
 ドイツ兵に比べて、ソ連兵の要求水準は常に低かった。ソ連兵はクリスマスツリーも、お菓子もケーキも夢に見なかった。そのようなものは、もともと知らなかった。
 1943年1月、赤軍は10万人近いドイツ兵捕虜を得ていた。粗末な食事と飢餓がドイツ兵捕虜の死因の3分の2を占めた。
 1943年7月、クルスクで赤軍とドイツ軍との大戦車戦が始まった。兵器の性能の優劣では、ドイツがソ連より上だった。しかし、数量ではソ連に分があった。しかし、勝敗を分けた最大の要因は技術や兵器ではなく、人間だった。我が身をかえりみない、決死的ともいえる勇気が勝つためには不可欠だった。40万人の赤軍戦車兵のうち31万人が死んだ。戦争は初日で決した。
戦争は若い女性には残酷だった。戦争中は、男性より女性のほうが早く年老いた。とくに戦闘に直接従事した女性はそうだった。
赤軍がドイツに入ったとき、兵士が感じたのは怒りだった。これだけ豊かなドイツ人が、なぜ東隣の国を略奪したのか。こんなに満ち足りているのに、どうしてさらに多くを求めたのか、誰にも理解できなかった。ポーランドでも、赤軍兵は相手の豊かさに同じような衝撃を受けた。怒りこそ、兵士たちの力の源だった。ドイツ人がすべての悪の根源だった。
 兵士は戦争で心労を深め、際限なく寄せ来る悲しみにうちひしがれ、疲労、恐怖、不安、極度の緊張にとられていた。彼らをそそのかすのは容易だった。
 ソ連は大暴れをはじめた。街は焼かれ、公人は殺され、レイプはもっとも広く行われた犯罪だった。モスクワの指導部が指令こそ出さなかったものの、兵隊の行為をそそのかした事実は疑いようもない。
 多くのものが夢うつつの状態だった。酒が一つの理由だった。大多数の兵士が意識を麻痺させるために酒に手を出した。情欲は情欲として、大多数の兵士には女性をうとましく、増悪さえする理由があった。戦争が始まってからというもの、家からの手紙は悲しい内容ばかりだった。飢餓やレイプ、死の知らせも届いたが、多くは別れの手紙だった。家族は崩壊し、個々の生活が別々の世界で生まれつつあった。兵士と家族の間の緊張は、戦場にいるものと民間人の亀裂から生まれた。軍隊が男社会であるのも一因だった。女性は疑いのある対象であり、女性嫌いの世界にあっては邪魔者だった。
赤軍は史上例をみない大掛かりな規模で、ありとあらゆる犯罪に手を染めた。赤軍は他のどの国の軍隊よりも苦渋をなめ、損失も大きかった。今や、その代償を求めていた。
 36万人を超える赤軍兵士たちがベルリンを目ざす作戦において死亡した。
 ドイツ、とりわけベルリンでの赤軍兵士のレイプは悪名高いわけですが、その背景事情をはっきり認識できました。もちろん、だからといってこの大々的な蛮行が正当化できるわけではありません。赤軍兵士イワンの実体をよく知ることのできる画期的な大作です。
(2012年5月刊。4400円+税)

2012年7月22日

父さんの手紙は全部おぼえた

著者   タミ・シェム・トヴ 、 出版   岩波書店

 第二次大戦中、オランダでもユダヤ人の迫害がありました。
 いえ、迫害があったというのは正しくありません。戦時中のユダヤ人死亡率はイタリアやフランス、ベルギーでは20%台だったのに、オランダでは、ドイツ、ポーランドに次いで70%と高かったのでした。これは、オランダ政府がナチスの政策を黙認して協力したため、強制収容所に移送されて亡くなった人が多かったという事実を示しています。そう言えば、アンネ・フランクもオランダで隠れていたのでしたよね。もちろん、そんなユダヤ人一家を生命がけで助けたオランダ人もたくさんいたのでした。
 この本のユニークなところは、ユダヤ人の10歳の少女がユダヤ人を秘して隠まわれていた農村地帯にある家に、別のところに隠れ住んでいた父親から絵入りのいくつも手紙が届いていて、その実物が戦後、掘り出されて紹介されているということです。
 絵入りの手紙は、とても素晴らしいものです。残念ながらオランダ語の手紙文の方は読めません(もちろん本文中に日本語訳はあります)。ともかく、手書きで活字体の文字がとても読みやすいのです。愛する10歳の娘に向けてのものだからでしょうね。そして、絵はさらに素晴らしい。医学部教授だった父親には絵心があったのでした。
 そのうえ、なにより素晴らしいのは、戦時中に病死した母親を除いて、家族みんなが無事に戦後になって再会できたことです。
 そんなわけで、この本は今も元気に生きている当時10歳の少女が父親からもらった絵手紙を前にして語ったものなのです。10歳の少女の素直な目から見た社会の矛盾だらけの動きがよく伝わってきます。
父親のユーモアあふれる絵と文章は実に魅力的。本当にそうなんです。この絵手紙に接することのできた日は、一日中、何となくトクした気分でした。
 2010年のドイツ児童文学賞にノミネートされたというのも、なるほどと思いました。この絵手紙の現物はイスラエルのロハメイ・ハゲタオット記念館に展示されているそうです。いちど見てみたいものだと思いました。
(2011年10月刊。2100円+税)

2012年7月18日

第一次世界大戦(上)

著者   ジャン・ジャック・ベッケール 、 出版   岩波新書

 第一次世界大戦、とりわけフランスとドイツとの戦争の実相を両国の学者が共同して描いています。
 1900年の人口はドイツ5600万人、フランス3800万人。いずれも人口数は停滞していた。
植民地征服のかなりの部分は必ずしも明確な経済的理由をもっていなかった。国家の目的は、しばしば国民感情によって直接的な支持を受けていた。単純に経済的次元に限定するのは不十分である。
フランス軍もドイツ軍も、動員のためには準備期間が必要であり、奇襲攻撃など不可能であった。
 ドイツの社会主義者たちは、フランス社会党の指導者との合意の下、1913年3月、軍国主義の反動に対する巨大なポスターを作成した。このポスターは、ドイツ語とフランス語で書かれていた。両国の社会主義政党は、軍国主義の過剰に対しては抗議をするが、祖国防衛には決して反対しないと書かれていた。
 1914年、社会主義者たちに平和への意思を放棄させ、危機に瀕する祖国防衛を受け入れさせたのは、間違いなくロシアこそが主要な侵略者であるという確信だった。
 1914年7月の時点では、フランスのCGT(労働総同盟)や社会民主主義者の幹部たちは戦争の勃発を阻止すべく行動していた。しかし、翌8月1日に、フランス政府が動員令を布告すると、戦争への抵抗は止んだ。フランス世論は、全体としてドイツによる侵略を信じた。自分たちが、何ものによっても正当化されえない侵略の犠牲者であるという確信こそが、動員され出征していく兵士たちの決心を支えていた。彼らにとって、この戦争は脅威にさらされた祖国を守るということだった。
 社会主義者が入閣するうえでの障害はもはや存在しかなかった。社会主義者たちは、緊急事態であるということを理由に、この入閣の誘いを受け入れ、それによって第二インターが禁じていた「ブルジョワ政府」への参画を実行した。
 1914年8月のドイツ人たちは、ほぼ例外なく、攻撃を受けた祖国を防衛することは正当であると考えた。
 1914年9月、軍部がフランス全体を統制下に置いていた。軍部独裁とまでは言えないが、実態はそれに近いものだった。議会のメンバーが前線に出かけて戦況を視察することが不可欠だったが、軍部はこれにきわめて強力に反対した。すべての選挙は、戦争状態の終了後まで延期された。
 軍部の統制下におかれ選挙権も奪われていたフランス市民は、何よりも情報の制約の犠牲者だった。検閲は、政府が反対派を沈黙させるための都合の良い手段となりえた。
開戦後、初めの数ヶ月間はフランスの社会主義者の立場に変化は見られなかった。彼らは神聖なる団結と祖国防衛を支持していた。しかし、戦争が続くなか、動揺する社会主義者たちの数は増える一方だった。
ドイツの司教教書は、開戦を物質的な文化の病的な雰囲気を一掃するものとして歓迎した。ドイツの「戦争文化」は、自らが正当な防衛の立場にあるのだということをドイツが繰り返し主張しなければならなかったという状況にも影響されていた。
フランスの側では、祖国が侵略され、一部占領されているという事実は、極端なまでの暴力的な言説をもたらした。それは、戦争の体験とそこから生まれる強迫観念や幻想を直接反映するものだった。フランス人に対して、ドイツ「文化」の内在的な暴力性を確信させるのに、たいした労力は必要とされなかった。
 一方、ドイツ人は戦場から離れており、自国の地を敵に踏ませていないという誇りから、「敵にあふれた世界」に対して自分たちの文明を守らなければならないのだという信念に固執していた。
 1914年から1918年にかけてのフランス人とドイツ人の日常生活の行動を規定していた要素はいろいろあるが、その最大は犠牲の巨大さである。その実数は国家の秘密事項であり、戦後に判明した。ドイツの死者は203万人、フランスは132万人だった。ロレーヌでは、1914年8月20日から23日までの戦闘で4万人が戦死したが、そのうち2万7千人は8月22日の一日だけの死者である。
 1914年11月末までに、フランス軍は45万4000人を戦死・行方不明・捕虜として失った。それはドイツ軍も同じようなものだった。ドイツ軍は開戦後1年間に66万5千人を戦力として失った。しかし、戦争は死者だけではなく、大量の戦傷者も生み出した。
 フランスでは食糧不足による騒乱や暴動は起きなかった。ドイツは事情が異なり、住民に対する食糧供給は、戦争の長期化とともに最重要の問題となっていた。1917年になると、パリで大規模なデモが行われ、人々を驚かせた。ドイツでは、既に1916年5月にベルリンでデモが開催され、そこでカール・リープクネヒトが逮捕された。1917年5月にベルリンで起こったストライキには20万人の労働者が参加した。
 1917年のロシア改革は、ドイツ国民の士気の回復に大いに貢献した。フランスと同様、ドイツの大衆も士気は低下した。しかし、ドイツ人にとって1917年はフランス人ほど絶望的な年ではなく、むしろ逆に勝利、あるいは平和の到来に対する期待に満ちていたため、士気は全体として依然として維持されていた。最終的にドイツが大戦中に動員した兵力は1300万人に及んだ。
 戦争はまた、機関銃の戦争でもあった。無骨だが頑丈なホッチキス機関銃が使われ、開戦当初の5100台が終戦時には6万台となっていた。1日に600万発の銃弾がつくられ、全体では60億発にもなっていた。5万2000機もの飛行機と9万5000台のエンジンを製造した。1918年には2500台の戦車が実践に投入された。そして、化学産業の申し子である毒ガス兵器もつかわれはじめた。
フランス人は税金を使って戦争をするつもりはなかった。しかし、お金を貸すことは嫌いではなかった。そこで、国債が発行された。戦争終結時にフランスの金保有量はほとんど減っていなかった。それは、個人に対する金の回収運動の成果だった。
戦争の需要はドイツの産業界に莫大な利益をもたらした。さらに、戦時社会の最も顕著な発展の一つが、女性労働の飛躍的な増加だった。
 この本を読んで、最近みたスピルバーグ監督による映画『戦火の馬』を思い出しました。第一次世界大戦も経済事情というより両面のプロパカンダに一般大衆が乗せられ、「祖国防衛」という実体のない叫びの下に、大量の戦死・犠牲者を出していったということを改めて認識しました。いわば、慎太郎・橋下流ポピュリズム政治が結果としてもたらすものを予見させる怖さです。
(2012年3月刊。3200円+税)

2012年7月12日

ナチ戦争犯罪人を追え

著者   ガイ・ウォルターズ 、 出版   白水社

 ナチの残党の逃亡を助けるオデッサと呼ばれる組織(オデッサファイル)があり、南米に逃亡して大農場で豊かに暮らしているところを、ジーモン・ヴィーゼンタールのようなナチ・ハンターによって追跡されて摘発・逮捕された。これが私の理解でした。ところが、それがほとんど嘘っぱちだったというのです。
 オデッサなる組織はなく、南米でナチの残党が暮らしていたのを摘発したのはジーモン・ヴィーゼンタールではなかったのでした。では、いったい、誰がどうやってナチ残党の逃亡を助け、そして摘発したというのか。その点を徹底解明した500頁もの大作です。スリル小説を読んでいるような迫力さえある本でした。
ジーモン・ヴィーゼンタールはとても長いあいだ世俗の聖人扱いされてきたが、アイヒマン狩りでの自分の役割を捏造したし、それだけでなく、いくつものエピソードをでっちあげた。
 本書で、著者は、ヴィーゼンタールは嘘つき、しかもひどい嘘つきであって、その名声は砂の上に築かれていると断言しています。
ノーベル平和賞の候補者に4回もなり、フランスのレジオン・ドヌール勲章を授けられているヴィーゼンタールは、1100人もの元ナチを捕らえた。なによりアイヒマンの所在を突きとめた「功績」で有名だ。それが、みんな嘘だったなんて・・・?!
 ヴィーゼンタールが具体的に書いているとき、そのほとんどが嘘をついている。うひゃあ、ここまで断言されるとは・・・。こたえますね。
 煙に包まれているナチ逃亡援助機関は、実際には校友会組織に似ている。煙の下に一つの大きな火があったわけではなく、多くの小さな火があったのだ。
 オデッサについてのヴィーゼンタールの情報源は、疑わしい信頼できない男のものでしかない。オデッサは、作家フレデリック・フォーサイスの作った完全なフィックションだった。
 アイヒマンは、ハンブルグ近くで森林管理人として働いていた。そして、かつてアイヒマンが迫害していた者たちが彼を助けた。オーストリアへ逃げ、ジェノヴァに出て、そこで赤十字の旅券を受けとった。
 そして、ヨーゼフ・メンゲレも1949年8月に、南米のブエノスアイレスに到着した。
 アイヒマンも同じブエノスアイレスの近くに住み、ドイツから家族を呼び寄せた。ブエノスアイレスのドイツ風レストランで二人は会ったことがある。しかし、メンゲレは洗練されていて、アイヒマンは中産階級の下と目されていた。
 そして、1960年5月11日、アイヒマンは捕まった。イスラエルから派遣されてきた男たちによって・・・。ヴィーゼンタールは、アイヒマンの居所を突きとめるのに関わってはいない。厚顔無恥に自分の手柄にしたというだけのこと。
 では、誰がアインヒマンの存在を明るみに出したのか・・・?
ここで答えを書くと、アインヒマンの息子が交際していた女性がユダヤ人であって、彼の名前がアインヒマンだということを知って、遠くドイツの検察官に手紙を書いたということです。
 悪いことをしたら、いつかはそれが明るみに出るものだということですね。
(2012年3月刊。3800円+税)

2012年7月 1日

楽園のカンヴァス

著者  原田 ハマ  、 出版   新潮社

 著者には大変申し訳ありませんが、まったく期待せずに読みはじめた本でした。私の娘がキュレーターを目ざしているので、親として少しは知識を得ようと思って、いわば義務の心から読みはじめたのです。
 ところがところが、なんとなんと、とてつもなく面白いのです。あとで、表紙の赤いオビに山本周五郎賞受賞作と大書されていることに気がつき、なるほどなるほど合点がいきました。江戸情緒こそ本書にはありませんが、パリのセーヌ川(らしき)の情緒はたっぷりなのです。 
推理小説では決してありませんが、その仕立てだと思いますので、粗筋も紹介しないでおきます。博物館や美術館にいるキュレーターの仕事の大変さが、ひしひしと伝わってくる本ではあります。
画家を知るためには、その作品を見ること。何十時間も、何百時間もかけて、その作品と向き合うこと。コレクターほど絵に向き合い続ける人間はいない。
キュレーター、研究者、評論家、誰もコレクターの足もとには及ばない。
待って。コレクター以上にもっと名画に向き合い続ける人間がいる。誰か? 
美術館の監視員(セキュリティ・スタッフ)だ。監視員の仕事は、あくまでも鑑賞者が静かな環境で正しく鑑賞するかどうかを見守ることにある。監視員は、鑑賞者のために存在するのではなく、あくまで作品と展示環境を守るために存在している。
この本は、アンリ・ルソーの『夢』そして『夢を見た』という絵画がテーマになっています。どちらかが真作ではなく、偽作だという疑いがかかっています。それを7日間のうちに見抜かなければいけないし、それに勝てばたちまち億万長者になるというのです。
1908年、第一次世界大戦が始まる(1914年)前のフランス・パリを舞台とする描写があります。アンリ・ルソーはピカソとも親交があったようです。そして、『夢』が描かれる経緯が紹介されます。
果たして、この絵は本物なのか、偽作なのか。偽作だとしても誰が描いたのか・・・・。謎はますます深まっていくのでした。
なかなかに味わい深い絵画ミステリー小説でした。
一つの絵の解説本としても面白く読めます。巻末に参考文献も紹介されていますが、これをちょっと読んだくらいで書ける本ではないと思いました。底が深いのです。一読をおすすめします。
(2012年5月刊。1600円+税)

2012年6月19日

チェルノブイリ原発事故がもたらした人体被害

著者   核戦争防止国際医師会議 、 出版   合同出版

 1986年、チェルノブイリ原発で大事故が発生しました。
 その処理作業に従事した人々をリクビダートル(後始末する人)と呼び、83万人いる。
 今日、大勢のリクビダートルが白血病や肺がんなどに苦しんでいる。リグビダートルとして働いたあと、車の運転中に眠りに落ちてしまうことが続いたため、仕事を辞めるしかなかったドライバーが大勢いる。発語障害、うつ病、記憶機能障害、集中力低下に苦しんでいるリグビダートルは数万人存在する。統合失調症も増加している。
 リクビダートルは、50~200ミリシーベルトの放射線に被曝していたが、これは原発労働者が10年間に受ける線量とほぼ同じである。
 ベラルーシでは、発ガン率が有意に4割増加した。とりわけ増加したガンは、大腸がん、肺がん、胆のうガン、甲状腺ガンだった。女性の乳ガン発生率も増加し、乳ガン発症年齢が若年化している。
 ところが、1991年春、200人の西側科学者と500人のロシア科学者は、放射線被曝による健康被害は発生しておらず、検診を受けた子どもたちの健康は概して良好だったという結論を出した。
 これって、日本のマスコミで、「すぐには健康被害は心配ない」と言い続けた学者と政府要人と同じですね。無責任の極みです。
 1986年、ベルリンでは異常な乳幼児死亡率の増加がみられた。
 ウクライナでは、1987年から1992年の間に、内分泌疾患は125倍、脳神経疾患は6倍、循環器疾患および神経疾患は53倍も増加した。そして、子どもと若者のI型糖尿病も急増した。
 ドイツではチェルノブイリ事故のあと、ダウン症候群をもつ新生児が有意に増加した。チェルノブイリ原発事故によって死亡した乳幼児は5000人。ドイツのバイエルン地方だけでも、1000人から3000人の先天性奇形児が超過発生した。西ヨーロッパでは1万人から2万人が流産した。
 がんの多くは、発病するまでには25~30年かかる。リクビダートルには、前立腺がん、胃がん、白血病、甲状腺がんが増えている。
日本では原発再稼働を民主党政権が執拗に企図しています。電力業界を中心とする経済界がお金にあかせて強力に後押ししているのです。そして、マスコミは経済界と一体となって電力不足キャンペーンを張って、今なお日本は原発に依存するしかないなんていう嘘を恥ずかしげもなくまき散らしています。そんなとき、チェルノブイリ原発事故によってヨーロッパとロシアで何が起きたのかを冷静に明らかにした本書を紹介するのは大きな意義があります。
 原発事故の恐ろしさには目をふさいでしまいたいのは私も同じ気分です。でも、怖いもの見たさではなく、本当に何が起きるのか知る必要があると思って読みすすめました。あなたもぜひ、手にとってお読みください。
(2012年3月刊。1600円+税)
日曜日、年2回、恒例のフランス語検定試験(1級)を受けました。試験会場となっている大学に大勢の人が入っていくのですが、それは漢検のほうでした。
 この日は、朝6時に起きて、仏検の過去問10年分を復習し、頭の中をフランス語モードに切り替えます。出張先の鹿児島から新幹線に乗って福岡に出かけ、車中でも一心不乱にフランス語に集中します。残念なことに、前に習って覚えた単語もすっかり忘れていて新鮮です。何とかフランス語の勘を取り戻したいと必死にがんばるなかで本番が始まりました。
 いつものように、文法はからきしダメです。歯が立ちません。今日はいったい何をしに来たのか、自分がみじめになります。長文読解のところで、少し分かり、作文はなんとか書き、書き取りはまあうまくいきました。
 3時間の長丁場が終わったときにはぐったり疲れました。自己採点で56点(120点満点)でした。初めて4割を超えていると思います。緊張の一日でした。

2012年5月24日

ナチスの知識人部隊

著者   クリスティアン・アングラオ 、 出版   河出書房新社

 ナチスのユダヤ人をはじめとする虐殺の実行部隊を指揮したのは、頭脳明晰な大学出の若きエリートたちだった。彼らは美男で、輝かしく、知的で、教養があった。にもかかわらず、人間にあるまじき、人間として絶対に許されない殺戮を続けていたのです。なぜか?
 本書は、そのような80人ほどの大学出の若者たちを分析しています。
 ナチス親衛隊の保安情報機関に採用されたのは、その知性を買われてのこと。情報の収集や分析に、人文科学の知識が必要だった。また、ナチスのイデオロギーに学問的な裏づけを与え、それを正当化するのも、知識人の重要な役目だった。
 そして、SS保安部(SD)や国家保安本部(RSHA)で中心な役割を担い、その保安業務の一環として東部へ派遣されて、処刑部隊の先頭に立った。
 敵への「恐怖」や暴力に対する「慣れ」によって、人は誰でも残虐行為をエスカレートさせる可能性があることを、本書は証明しています。
これら80人の知識人たちに共通しているのは第一次世界大戦が子ども時代の根源的なトラウマになっていること。およそ10年間、日常生活は混乱をきわめた。その10年間に多感な子ども時代そして青年時代を過ごした。そして、ドイツ国民の半数が、近親者と死別する経験をした。
 1万人の学生のうち9400人、講堂やゼミナールや研究室にただ通って、自分の勉強や試験に追われているだけである。進取の気性に富む学生は600人ほどで、そのうち400人は超国家主義(ナチス)であり、残りの200人は共産主義、社会民主主義、民主主義に分かれている。
 SSの上層部は、ドイツ民族が消えようとしている。さらには抹殺されようとしていると考えていた。ロシアのボリシェヴィズムの強迫観念にもとづくパニック的な恐れがそこにあった。
 ユダヤ人といえば、混乱をひき起こし、残虐行為をおこない、放火犯であり、共産主義体制の主要な支持者であるといった三段論法的表現によって、ユダヤ人がドイツの侵略に対する潜在的レジスタンスの尖兵であるという考え方が増幅するにつれ、15歳から60歳までのユダヤ人男性が組織的に銃殺されていった。
 ところが、ユダヤ人を銃殺する処刑隊員の神経も病んでいくのでした。当然ですよね。飲酒したくらいで気が晴れるはずはありません。
 ガス・トラックにしても、死体を運び出さなければならないという重大な問題があった。それで、トラックを使うのを止めた。死刑執行人立ちの心に傷を負わせてしまうのである。
ナチスのユダヤ人大量虐殺の中心にドイツの知識人青年がいたことの意味は重いと改めて思いました。
(2012年1月刊。3200円+税)

2012年5月 7日

情熱の階段

著者   濃野 平 、 出版   講談社

 スペインで日本人闘牛士が孤軍奮闘しているなんて、ちっとも知りませんでした。ユーチューブで、その活躍ぶりがきっと見られるのでしょうね。見てみたいものです。
 著者は世界唯一の現役の日本人闘牛士です。一人前の闘牛士になるための悪戦苦闘ぶりが生々しく、その苦しい息づかいとともに伝わってくる迫力ある本でした。なにより、単なる成功譚で終わっていないところが素晴らしい。決してハッピーエンドの世界ではなく、これからも闘牛士として苦難の道が続くことを想像させます。がんばれ、日本人青年。つい、こう叫んでしまいました。
 私は、この動物を殺す。剣の一撃によって。食べるためではない。毛皮を剥(は)ぐためでもない。この大きな角をもった猛獣を、大勢の観客の前でただ殺す。
人によっては、血に飢えた残酷な者たちによる野蛮な儀式だという。
 人によっては、危険な恐れない勇者たちによる偉大な芸術であるという。
 スペイン闘牛、それは生と死をめぐる見世物だ。その舞台上では、動物への感傷が入る隙間はない。
 著者は世界唯一の現役の日本人闘牛士。
牡牛の前に立っているときは、それほど怖さを感じない。やるべきことや考えるべきことが多くて、恐怖を味わう暇があまりないからだ。むしろ、恐怖は闘牛の始まる前と終わってしばらくしたころにやって来る。
 この試合さえ無事にすんだら、もう二度と闘牛なんかやらないから、自分を護ってほしいと、何かに祈ってすがりつきたくなることもある。牡牛は怖い。大怪我をする危険はいつだってある。観客は、もっと怖い。そこにあるのは、自分自身とのたたかいだ。その背中、肩甲骨の間の小さなくぼみ、そこに剣を正しい角度で突き入れると、牡牛は死ぬ。
 過去に日本人でプロ闘牛士の世界に足を踏み入れたのは2人だけ。著者は3人目になります。
闘牛士が優れた縁起で観客の心をつかみ、「真実の瞬間」と呼ばれる仕留めをうまく決めることができれば、褒賞として牡牛の耳一枚が与えられる。それ以上の価値がある闘牛であったと判断されたら、耳二枚、さらに尻尾まで闘牛士に贈られる。
 闘牛士たちは一頭あたり20分、全6頭からなる2時間あまりの興行がつづく。闘牛につかわれる牡牛の血統は、乳牛や食用牛などの飼い慣らされたおとなしい動物ではない。自己防衛本能により、あらゆる外敵に対して攻撃を仕掛ける性質がもともと備わっている。自分以外に動く、あらゆる対象物へとためらうことなく攻撃を仕掛けるのが大きな特徴だ。
 スペイン全土には1300をこえる闘牛牧場がある。そして闘牛場はスペイン全土に500もある。それは3つの格式にクラス分けされている。闘牛は年間2000回も開催されている。ただし、入場料は高い。田舎町で3~4000円もする。
牛は、たった一度しか闘牛に使えない。牛は闘牛士と10数分ほど対峙することによって、闘牛士本人とおとりであるカポテやムレタとの区別がつくようになり、2度目は迷わず闘牛士の体を攻撃する。だから、闘牛で使われた牡牛は、演技終了後に殺されて食肉となる。闘牛場内で直ちに解体されて、販売される。
 牡牛の死に至るまでの過程こそが、もっとも重要視される。
面白い闘牛に出会うのは簡単なことではない。10回みて、1回か2回、面白い闘牛があれば良いほうだ。
 闘牛術は、あくまでも勇気という前提条件の上に成り立っている。闘牛士には、自らがもつ本能的な恐怖を理性によって抑えることが求められている。だから、実際には、闘牛士と牡牛とのたたかいでは決してない。牡牛は、闘牛士のつくり出す作品の素材にすぎない。恐怖心に負けず果敢におのれの限界にまで挑む、自らの弱い心と常に争い続ける闘牛士の内部にこそある。つまり闘牛とは、自分自身との闘いなのだ。
 試合に出される牡牛は、過去に一度も闘牛士と対峙していない牡牛から選ばれる。
闘牛術の習得の難しさは、生きた牛相手の練習機会を得ることが、きわめて難しい点にある。
 なーるほど、そうなんですか。私はてっきり、あの牛たちは何回も挑戦しているとばかり思っていました。
闘牛士として挑戦するためには大変なお金がいります。そのため、著者はオレンジ農場で働いたり、日本に戻って東京の築地市場でアルバイトをしたりしていました。
スペイン闘牛界において、闘牛収入だけで生計を立てられる闘牛士は、スペイン全土でわずか数十人程度でしかない。
いやはや、とんでもない厳しい世界です。そんななかで、よくも日本人闘牛士として頭角をあらわしたものですね。すごいものです。日本人の青年(ここでは男性)もたいしたものではありませんか。この本を読むと、思わず力が入り、また、元気が出てきます。のうのさん、体に気をつけてがんばってくださいね。
(2012年3月刊。1400円+税)

2012年5月 1日

最後の子どもたち

著者   グードルン・パウゼヴァング 、 出版   小学館

 平穏な毎日を過ごしているなかで、突然、原爆が落ちたら、社会と生活はどうなるのか。そのことを実に事細かに分からせてくれる貴重な小説です。
 3.11のフクシマのあと、私たち日本人の少なくない人々が原発事故の恐ろしさに目をふさいでいるように感じます。今でも「電力不足」を本気で心配している人がいますが、それって、本当に心配しなくてはいけないことなのでしょうか。お互い、多少の不便を耐えしのんでも、次々世代にわたって安全に生きられることを優先して考えるべきではないでしょうか。
 ある日突然、原爆が近くの村に投下され、その付近一帯は消滅してしまった。こんな情景から物語はスタートします。福島第一原発で事故が起きたのとまるで同じです。
 しかし、人々は事態の本当の恐ろしさを信じようとしません。それまでどおりの日常生活を過ごしたいのです。
 病院はすぐに満杯になります。食べるものもなくなっていきます。弱い子どもたちが次々に死んでいくなかで、孤児となった子どもを収容する施設もつくられます。でも、誰がどうやって面倒をみるというのでしょうか。
 原爆症のために亡くなる人が続出します。白血病、腸の出血そして吐血。みな放射能による病気です。
 死んだものを埋める、葬る。これが生き残った者の主な仕事になってしまった。その朝、葬る側にいるのは、もうたくさんだと思った。むしろ、やっと安らぎを得た死者がうらやましかった。
 核戦争が起きる前の数年間、人類をほろぼす準備がすすんでいくのを、大人たちは何もせずに、おとなしく見ているだけだった。大人たちは、そんなことを言ってもしょうがないと、あきらめていた。また、核兵器があるからこそ平和のバランスが保てるんだと飽きもせずに、大人たちは主張していた。心地良さと快適な暮らしだけを求めて、危険が忍び寄るのに気がつきながら、それを直視しようとしなかった。
 子どもは大人に対して、あなたは平和を守るために何かしたのですかと問いかけた。大人たちは、黙って首を横に振るだけだった。
 こんなふうにならないように、今こそ声を大にしてあまりにも危険な原発なんかなくせと叫ぶ必要があるのではないでしょうか。
 この本は今から30年も前にドイツ(当時の西ドイツ)で出版された本です。反核運動を大いに励ましたそうです。いま読み通して(わたしは初めて読みましたが)、フクシマの恐ろしさを伝えるのに絶好の本だと思いました。
(1984年5月刊。780円+税)

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