弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

ヨーロッパ

2012年6月19日

チェルノブイリ原発事故がもたらした人体被害

著者   核戦争防止国際医師会議 、 出版   合同出版

 1986年、チェルノブイリ原発で大事故が発生しました。
 その処理作業に従事した人々をリクビダートル(後始末する人)と呼び、83万人いる。
 今日、大勢のリクビダートルが白血病や肺がんなどに苦しんでいる。リグビダートルとして働いたあと、車の運転中に眠りに落ちてしまうことが続いたため、仕事を辞めるしかなかったドライバーが大勢いる。発語障害、うつ病、記憶機能障害、集中力低下に苦しんでいるリグビダートルは数万人存在する。統合失調症も増加している。
 リクビダートルは、50~200ミリシーベルトの放射線に被曝していたが、これは原発労働者が10年間に受ける線量とほぼ同じである。
 ベラルーシでは、発ガン率が有意に4割増加した。とりわけ増加したガンは、大腸がん、肺がん、胆のうガン、甲状腺ガンだった。女性の乳ガン発生率も増加し、乳ガン発症年齢が若年化している。
 ところが、1991年春、200人の西側科学者と500人のロシア科学者は、放射線被曝による健康被害は発生しておらず、検診を受けた子どもたちの健康は概して良好だったという結論を出した。
 これって、日本のマスコミで、「すぐには健康被害は心配ない」と言い続けた学者と政府要人と同じですね。無責任の極みです。
 1986年、ベルリンでは異常な乳幼児死亡率の増加がみられた。
 ウクライナでは、1987年から1992年の間に、内分泌疾患は125倍、脳神経疾患は6倍、循環器疾患および神経疾患は53倍も増加した。そして、子どもと若者のI型糖尿病も急増した。
 ドイツではチェルノブイリ事故のあと、ダウン症候群をもつ新生児が有意に増加した。チェルノブイリ原発事故によって死亡した乳幼児は5000人。ドイツのバイエルン地方だけでも、1000人から3000人の先天性奇形児が超過発生した。西ヨーロッパでは1万人から2万人が流産した。
 がんの多くは、発病するまでには25~30年かかる。リクビダートルには、前立腺がん、胃がん、白血病、甲状腺がんが増えている。
日本では原発再稼働を民主党政権が執拗に企図しています。電力業界を中心とする経済界がお金にあかせて強力に後押ししているのです。そして、マスコミは経済界と一体となって電力不足キャンペーンを張って、今なお日本は原発に依存するしかないなんていう嘘を恥ずかしげもなくまき散らしています。そんなとき、チェルノブイリ原発事故によってヨーロッパとロシアで何が起きたのかを冷静に明らかにした本書を紹介するのは大きな意義があります。
 原発事故の恐ろしさには目をふさいでしまいたいのは私も同じ気分です。でも、怖いもの見たさではなく、本当に何が起きるのか知る必要があると思って読みすすめました。あなたもぜひ、手にとってお読みください。
(2012年3月刊。1600円+税)
日曜日、年2回、恒例のフランス語検定試験(1級)を受けました。試験会場となっている大学に大勢の人が入っていくのですが、それは漢検のほうでした。
 この日は、朝6時に起きて、仏検の過去問10年分を復習し、頭の中をフランス語モードに切り替えます。出張先の鹿児島から新幹線に乗って福岡に出かけ、車中でも一心不乱にフランス語に集中します。残念なことに、前に習って覚えた単語もすっかり忘れていて新鮮です。何とかフランス語の勘を取り戻したいと必死にがんばるなかで本番が始まりました。
 いつものように、文法はからきしダメです。歯が立ちません。今日はいったい何をしに来たのか、自分がみじめになります。長文読解のところで、少し分かり、作文はなんとか書き、書き取りはまあうまくいきました。
 3時間の長丁場が終わったときにはぐったり疲れました。自己採点で56点(120点満点)でした。初めて4割を超えていると思います。緊張の一日でした。

2012年5月24日

ナチスの知識人部隊

著者   クリスティアン・アングラオ 、 出版   河出書房新社

 ナチスのユダヤ人をはじめとする虐殺の実行部隊を指揮したのは、頭脳明晰な大学出の若きエリートたちだった。彼らは美男で、輝かしく、知的で、教養があった。にもかかわらず、人間にあるまじき、人間として絶対に許されない殺戮を続けていたのです。なぜか?
 本書は、そのような80人ほどの大学出の若者たちを分析しています。
 ナチス親衛隊の保安情報機関に採用されたのは、その知性を買われてのこと。情報の収集や分析に、人文科学の知識が必要だった。また、ナチスのイデオロギーに学問的な裏づけを与え、それを正当化するのも、知識人の重要な役目だった。
 そして、SS保安部(SD)や国家保安本部(RSHA)で中心な役割を担い、その保安業務の一環として東部へ派遣されて、処刑部隊の先頭に立った。
 敵への「恐怖」や暴力に対する「慣れ」によって、人は誰でも残虐行為をエスカレートさせる可能性があることを、本書は証明しています。
これら80人の知識人たちに共通しているのは第一次世界大戦が子ども時代の根源的なトラウマになっていること。およそ10年間、日常生活は混乱をきわめた。その10年間に多感な子ども時代そして青年時代を過ごした。そして、ドイツ国民の半数が、近親者と死別する経験をした。
 1万人の学生のうち9400人、講堂やゼミナールや研究室にただ通って、自分の勉強や試験に追われているだけである。進取の気性に富む学生は600人ほどで、そのうち400人は超国家主義(ナチス)であり、残りの200人は共産主義、社会民主主義、民主主義に分かれている。
 SSの上層部は、ドイツ民族が消えようとしている。さらには抹殺されようとしていると考えていた。ロシアのボリシェヴィズムの強迫観念にもとづくパニック的な恐れがそこにあった。
 ユダヤ人といえば、混乱をひき起こし、残虐行為をおこない、放火犯であり、共産主義体制の主要な支持者であるといった三段論法的表現によって、ユダヤ人がドイツの侵略に対する潜在的レジスタンスの尖兵であるという考え方が増幅するにつれ、15歳から60歳までのユダヤ人男性が組織的に銃殺されていった。
 ところが、ユダヤ人を銃殺する処刑隊員の神経も病んでいくのでした。当然ですよね。飲酒したくらいで気が晴れるはずはありません。
 ガス・トラックにしても、死体を運び出さなければならないという重大な問題があった。それで、トラックを使うのを止めた。死刑執行人立ちの心に傷を負わせてしまうのである。
ナチスのユダヤ人大量虐殺の中心にドイツの知識人青年がいたことの意味は重いと改めて思いました。
(2012年1月刊。3200円+税)

2012年5月 7日

情熱の階段

著者   濃野 平 、 出版   講談社

 スペインで日本人闘牛士が孤軍奮闘しているなんて、ちっとも知りませんでした。ユーチューブで、その活躍ぶりがきっと見られるのでしょうね。見てみたいものです。
 著者は世界唯一の現役の日本人闘牛士です。一人前の闘牛士になるための悪戦苦闘ぶりが生々しく、その苦しい息づかいとともに伝わってくる迫力ある本でした。なにより、単なる成功譚で終わっていないところが素晴らしい。決してハッピーエンドの世界ではなく、これからも闘牛士として苦難の道が続くことを想像させます。がんばれ、日本人青年。つい、こう叫んでしまいました。
 私は、この動物を殺す。剣の一撃によって。食べるためではない。毛皮を剥(は)ぐためでもない。この大きな角をもった猛獣を、大勢の観客の前でただ殺す。
人によっては、血に飢えた残酷な者たちによる野蛮な儀式だという。
 人によっては、危険な恐れない勇者たちによる偉大な芸術であるという。
 スペイン闘牛、それは生と死をめぐる見世物だ。その舞台上では、動物への感傷が入る隙間はない。
 著者は世界唯一の現役の日本人闘牛士。
牡牛の前に立っているときは、それほど怖さを感じない。やるべきことや考えるべきことが多くて、恐怖を味わう暇があまりないからだ。むしろ、恐怖は闘牛の始まる前と終わってしばらくしたころにやって来る。
 この試合さえ無事にすんだら、もう二度と闘牛なんかやらないから、自分を護ってほしいと、何かに祈ってすがりつきたくなることもある。牡牛は怖い。大怪我をする危険はいつだってある。観客は、もっと怖い。そこにあるのは、自分自身とのたたかいだ。その背中、肩甲骨の間の小さなくぼみ、そこに剣を正しい角度で突き入れると、牡牛は死ぬ。
 過去に日本人でプロ闘牛士の世界に足を踏み入れたのは2人だけ。著者は3人目になります。
闘牛士が優れた縁起で観客の心をつかみ、「真実の瞬間」と呼ばれる仕留めをうまく決めることができれば、褒賞として牡牛の耳一枚が与えられる。それ以上の価値がある闘牛であったと判断されたら、耳二枚、さらに尻尾まで闘牛士に贈られる。
 闘牛士たちは一頭あたり20分、全6頭からなる2時間あまりの興行がつづく。闘牛につかわれる牡牛の血統は、乳牛や食用牛などの飼い慣らされたおとなしい動物ではない。自己防衛本能により、あらゆる外敵に対して攻撃を仕掛ける性質がもともと備わっている。自分以外に動く、あらゆる対象物へとためらうことなく攻撃を仕掛けるのが大きな特徴だ。
 スペイン全土には1300をこえる闘牛牧場がある。そして闘牛場はスペイン全土に500もある。それは3つの格式にクラス分けされている。闘牛は年間2000回も開催されている。ただし、入場料は高い。田舎町で3~4000円もする。
牛は、たった一度しか闘牛に使えない。牛は闘牛士と10数分ほど対峙することによって、闘牛士本人とおとりであるカポテやムレタとの区別がつくようになり、2度目は迷わず闘牛士の体を攻撃する。だから、闘牛で使われた牡牛は、演技終了後に殺されて食肉となる。闘牛場内で直ちに解体されて、販売される。
 牡牛の死に至るまでの過程こそが、もっとも重要視される。
面白い闘牛に出会うのは簡単なことではない。10回みて、1回か2回、面白い闘牛があれば良いほうだ。
 闘牛術は、あくまでも勇気という前提条件の上に成り立っている。闘牛士には、自らがもつ本能的な恐怖を理性によって抑えることが求められている。だから、実際には、闘牛士と牡牛とのたたかいでは決してない。牡牛は、闘牛士のつくり出す作品の素材にすぎない。恐怖心に負けず果敢におのれの限界にまで挑む、自らの弱い心と常に争い続ける闘牛士の内部にこそある。つまり闘牛とは、自分自身との闘いなのだ。
 試合に出される牡牛は、過去に一度も闘牛士と対峙していない牡牛から選ばれる。
闘牛術の習得の難しさは、生きた牛相手の練習機会を得ることが、きわめて難しい点にある。
 なーるほど、そうなんですか。私はてっきり、あの牛たちは何回も挑戦しているとばかり思っていました。
闘牛士として挑戦するためには大変なお金がいります。そのため、著者はオレンジ農場で働いたり、日本に戻って東京の築地市場でアルバイトをしたりしていました。
スペイン闘牛界において、闘牛収入だけで生計を立てられる闘牛士は、スペイン全土でわずか数十人程度でしかない。
いやはや、とんでもない厳しい世界です。そんななかで、よくも日本人闘牛士として頭角をあらわしたものですね。すごいものです。日本人の青年(ここでは男性)もたいしたものではありませんか。この本を読むと、思わず力が入り、また、元気が出てきます。のうのさん、体に気をつけてがんばってくださいね。
(2012年3月刊。1400円+税)

2012年5月 1日

最後の子どもたち

著者   グードルン・パウゼヴァング 、 出版   小学館

 平穏な毎日を過ごしているなかで、突然、原爆が落ちたら、社会と生活はどうなるのか。そのことを実に事細かに分からせてくれる貴重な小説です。
 3.11のフクシマのあと、私たち日本人の少なくない人々が原発事故の恐ろしさに目をふさいでいるように感じます。今でも「電力不足」を本気で心配している人がいますが、それって、本当に心配しなくてはいけないことなのでしょうか。お互い、多少の不便を耐えしのんでも、次々世代にわたって安全に生きられることを優先して考えるべきではないでしょうか。
 ある日突然、原爆が近くの村に投下され、その付近一帯は消滅してしまった。こんな情景から物語はスタートします。福島第一原発で事故が起きたのとまるで同じです。
 しかし、人々は事態の本当の恐ろしさを信じようとしません。それまでどおりの日常生活を過ごしたいのです。
 病院はすぐに満杯になります。食べるものもなくなっていきます。弱い子どもたちが次々に死んでいくなかで、孤児となった子どもを収容する施設もつくられます。でも、誰がどうやって面倒をみるというのでしょうか。
 原爆症のために亡くなる人が続出します。白血病、腸の出血そして吐血。みな放射能による病気です。
 死んだものを埋める、葬る。これが生き残った者の主な仕事になってしまった。その朝、葬る側にいるのは、もうたくさんだと思った。むしろ、やっと安らぎを得た死者がうらやましかった。
 核戦争が起きる前の数年間、人類をほろぼす準備がすすんでいくのを、大人たちは何もせずに、おとなしく見ているだけだった。大人たちは、そんなことを言ってもしょうがないと、あきらめていた。また、核兵器があるからこそ平和のバランスが保てるんだと飽きもせずに、大人たちは主張していた。心地良さと快適な暮らしだけを求めて、危険が忍び寄るのに気がつきながら、それを直視しようとしなかった。
 子どもは大人に対して、あなたは平和を守るために何かしたのですかと問いかけた。大人たちは、黙って首を横に振るだけだった。
 こんなふうにならないように、今こそ声を大にしてあまりにも危険な原発なんかなくせと叫ぶ必要があるのではないでしょうか。
 この本は今から30年も前にドイツ(当時の西ドイツ)で出版された本です。反核運動を大いに励ましたそうです。いま読み通して(わたしは初めて読みましたが)、フクシマの恐ろしさを伝えるのに絶好の本だと思いました。
(1984年5月刊。780円+税)

2012年4月14日

見えない雲

著者   グードルン・パウゼヴァーグ 、 出版   小学館

 1987年(昭和62年)に発刊された本を初めて読んだのです。
 ロシアのチェルノブイリで原発事故が起きたのは、その前年の1986年4月のことです。同じような原発事故がドイツで発生したときにドイツ国民にどんな影響をもたらすのかが、実によく分かります。先に、この本のマンガ版を紹介しましたが、その元になった本があると教えられて読みました。すでに黄ばんでいましたが、内容は古くなっていないどころか、まさにフクシマのあと日本が直面している事態が描かれていると感じました。
 そして、何より大切なことは、役人を信じないということだ。
そうですよね。政府も東電も信じられませんよね。「今すぐには健康に影響はない」なんてことしか言わなかったのですからね。そして、日本国民には知らせなかったデータを、いち早くアメリカには通報していたわけです。日本って、アメリカの属国でしかないというのは、悲しい現実です。
主人公の女の子は放射能のせいで頭の髪の毛が抜けてしまいます。夏の真っ盛りなのに、帽子やスカーフをかぶっている。そんな被爆者が周囲から差別され、誰も近寄らない。離れたところから好奇の視線を投げる。軽蔑したり、意地悪したり、心を傷つけることは誰もしない。隣に座ろうとする人もいない。こうやって被爆者は罪もないのに社会的に孤立させられるのですね。
 目には見えない放射能の恐ろしさですから、立ち入り禁止の生まれ故郷に戻る人々がいます。日本の福島でも同じことが起きています。この本では、故郷に戻った祖父が次のように孫に話す場合があります。
 「知らせなくてもいいことまでマスコミに知らせたのが、そもそもの間違いだった。連中は、なんでも大げさに書きたてる。そんなことさえしなければ、こんなヒステリーが生じることもないし、誇張やプロパガンダにまどわされることもなかった」
 今の日本の政治家の多くが同じ考えなのでしょうね。本当に嫌になります。民は由らしむべく、知らしむべからず、というわけです。でも、病気になる確率は若い人ほど大きいのが現実です。そして、年寄りだから、もう病気にならないということでは決してありません。
 脱原発の運動がもうひとつ盛り上がりに欠けるのが残念です。原発を推進してきた政治家が「身を削る」と称して、比例定数削減を狙うなんて、火事場泥棒のようなものですよね。まずは政党助成金を廃止して、国民(個人)の浄財(カンパ)以外に政党はお金を受けとれないようにすべきではないでしょうか。私たち日本人は、もっと怒るべきだと思います。
 この本がベストセラーになったおかげで、ドイツは脱原発へ大きく舵を切りました。それほどのインパクトのある本です。
(1987年12月刊。780円+税)

2012年4月10日

なぜメルケルは「転向」したのか

著者   熊谷 徹 、 出版   日経BP社

 10年後に原発は全廃することを決めたドイツの歩みを詳しく紹介した本です。私たち日本人にとっても大変参考になります。
日本人はドイツ人ほどリスクに敏感ではない。原発反対運動は地域的に限定され、ドイツのように国全体を巻き込む社会運動にはならなかった。
日本のメディアは、福島原発事故が起きるまで原発や環境問題、エネルギー問題について、ドイツのメディアほど鋭い問題意識をもって詳しく報道してこなかった。
 原発の危険性を指摘した国会議員がいたにもかかわらず、日本政府は「地震や津波で原発の冷却機能が失われた例はない」という楽観論に終始し、十分な対策をとらなかった。
 日本人は、目先の細部の完璧さを追及するあまり、人命や安全という根本を見失うことがある。日本人は、木を見て森を見ない民族だ。
 日本人は、見事を前向きに考える方向が強い楽観主義者である。不幸な事態が起きても、その原因を徹底的に分析して、政府や企業の責任を追及するよりは、不快な過去は水に流して正体に希望をつなごうとする。悲観主義者が多く、何事にも批判的な状態をとるドイツ人とは対照的だ。
チェルノブイリ事故は社会主義国だから起きたという認識が使えた。しかし、福島第一原発事故が起きて、リスクがこれまで考えられていたより大きく、ドイツ政府は欧州でも大事故が起こり売るという結論に達した。
 結党以来一貫して原発廃止を求めてきたドイツの緑の党は前回選挙より2.6倍に増えて、46万票と大幅増を示した。
ドイツの原発廃止は突然に決まったのではなく、そこに至るまで40年に及ぶ推進派と反対派の戦いがあった。この経験の蓄積があったからこそ、福島第一原発事故のあと、わずか4ヶ月間で国民的合意をまとめ上げ、脱原発を法制化できた。
 ドイツで最初の反原発運動は、突然の恵みに寄って生活の糧をえている農民のあいだから生まれた。そして、ドイツの反原発運動の特徴は、個々の地域で原発に反対していたグループが地域をこえ、全国に広がるネットワークを作っていたこと。
 ドイツの州政府には、日本の県とは比較にならないほど大きな制限が与えられている。原発が地域に立地しても、日本のように多額の補助金がふり注ぐということはない。
 ドイツの行政裁判所は反原発派に対して理解を示すことが多く、原告の訴えを認める傾向が強い。ここらあたりは、日本とはかなり状況が違っていますね。
 チェルノブイリ事故のあと、1987年に『見えない雲』という本が159万部というベストセラーになったことも大きい。今後、本を紹介します。
 ドイツの原発には、航空機による自爆テロ攻撃に備えて煙幕発生装置を設置しているところがある。なーるほどですね。今回の福島第一原発事故によって、原発はテロ攻撃にいかに弱いかも如実に証明されてしまいました。いったんやられてしまったら、もうどうにも止められない怖いもの、それが原発です。
原発で過酷事故が再び起こることは確実だ。唯一確実でないのは、それが、いつ、どこで起こるか分からないということだけ。
 本当にそうなんですよね。「楽観主義」もいいですけれど、やはり安全対策抜きに手放しで「楽観」していたら、とんでもないことになってしまいます。そうなってから後悔しても遅すぎるのです。
 ドイツには学ぶべきところが大きいと改めて考えさせられました。
(2012年1月刊。1600円+税)
 すっかり陽が長くなりました。庭に午後6時半まで出ています。
 日曜日、庭にチューリップが8割方、咲いて、春らんまんをじっくり実感させてくれます。形も色とりどりのチューリップたちがカラフルに華やかに咲き誇っています。私の個人ブログで写真を紹介しています。
 赤い豆粒のような花をぎっしり付けたハナズオウ、生命力旺盛なじゃがの花も咲いています。黄色と白色のアイリスが高貴さを感じさせながら早くも咲きはじめました。
 地植えにしているアスパラガスが3本、地上に伸びていましたので、早速、食べてみました。春の香りを満喫することができました。

2012年4月 1日

ナチを欺いた死体

著者   ベン・マッキンタイアー 、 出版   中央公論新社

 ヒトラードイツの目を欺いたイギリスのスパイ大作戦を紹介した面白い本です。
 ナチス・ドイツの諜報部(カナリス提督が率いていました)には、反ヒトラーの立場に立って、連合軍を実際以上に大きく見せかけ、早くナチス・ドイツ軍が負けるように仕組んでいた上級将校たちがいたことも知りました。
 ですから、イギリスの奇抜なスパイ大作戦が成功したのは、ドイツ軍内部が決して一枚岩ではなかったことにもよるものでした。そして、そのような反ヒトラー諜報将校はヒトラー暗殺のワルキューレ作戦が失敗すると、残虐に処刑されたのです。
 ここで紹介されるスパイ大作戦は、イギリス軍の機密情報をもった将校の死体がスペインの海岸に漂着し、その死体にあった重大な情報がナチス・ドイツの手に渡って、ヒトラーを欺くというものです。
 死んだ将校に扮する死体を確保するのがまず最初の難関です。そして、それをどうやってスペインの海岸に漂着させるか。死体をイギリス海軍の将校の遺体と誤認させるための工夫には涙ぐましいものがありました。ロンドンのバーの領収書まで偽造しなければなりません。そして、遺体を解剖されたとき、死因や死亡日時と漂着の原因とに矛盾をきたさないようにするのも大変でした。ごまかすのも簡単なことではないことを思い知りました。
 死体が身につけていた「機密」情報にしても、ナチス・ドイツが本物と信じるほどにもっともらしいものでなくてはならない。わざとらしくなく、そして、自然に信用してもらえる内容にする点で、何回となく書き変えられた。
 なーるほど、文面は慎重さが求められることでしょうね。
 スパイ・マスターの大変さも紹介されています。
 ナチス・ドイツへ報告を送る二重スパイのなかには、まったく架空の存在であるものが増えていった。実在するスパイより、架空のスパイのほうが扱いやすい。しかし、架空の人物を動かすためには、細かい点まで矛盾の内容に注意しなければならない点が難しい。
アレクシス・フォン・レンネ男爵は、表向きはナチの有能な情報将校だった。宣誓を忠実に守り、ヒトラーお気に入りの情報分析官だった。しかし、フォン・レンネは、ナチズムに対して密かに強い反感を持っており、一種の二重生活を送っていた。ヒトラーと、その粗野で冷酷な取り巻きたちを彼は嫌悪していた。
 キリスト教徒としての良心から、親衛隊がポーランドでふるった、目も覆いたくなるほどのテロ行為に激怒していた。人知れず、信念をもってナチ体制に反旗を翻した。フォン・レンネは、情報の達人という評価を受けながらも、1943年には、間違いだと分かっている情報をわざとヒトラーのデスクへ直接に送り続けていた。
 このスパイ大作戦は連合軍の上陸作戦の目的地はイタリアのシシリー島ではなく、ギリシャだという嘘の情報を流してナチス・ドイツに信じ込ませて、その不意をつこうというものでした。そして、ヒトラーは、まんまとそれを信じたのです。
 スパイ大作戦の背景にある真相を知ることのできる興味深い本でした。
(2011年10月刊。2500円+税)

2012年3月25日

帝国を魅せる剣闘士

著者   本村 凌二 、 出版   山川出版社

 冒頭に、ある剣闘士の手記が載せられています。闘技場に駆り出され、死ぬまでたたかうしかない剣闘士の心情がそくそくと伝わってきます。大観衆が狂ったように怒声をあびせ、甲高いラッパの響きが耳をつんざく。やがて、「殺せ、殺せ」の大合唱になっていく。それで、剣闘士は、敗者の喉を切りさくのだった・・・。
ローマの闘技場(コロッセウム)は5万人もの大観衆を収容する。そこでは血なまぐさい殺しあいが果てしなく続いていた。
 私はローマの闘技場は見ていませんが、フランスにある円形闘技場の遺跡はあちこちで見ました。初めは野外の円形劇場だと誤解していました。そこでは歌と芝居も上演されていたのかもしれませんが、それより闘技場として殺しの舞台だったことは間違いありません。
 ローマ人よりも前に、カプア人が剣闘士競技を葬儀につきものの行事として挙行していた。
剣闘士は、市場に立つ奴隷であり、血を売る自由人であった。前2世紀には、既に専業化した剣闘士が登場していた。
 剣闘士の競技は600年も続いた。ローマの民衆は剣闘士競技にすさまじく熱狂し、元老院も剣闘士競技を公の見世物として公認した。
 なによりも民衆の関心を集めたのは、戦車競争と剣闘士競技であった。大掛かりな舞台装置には、戦争捕虜が連れ出され、壮絶な大量処刑の流血の見世物がくり広げられた。ローマの公職選挙と結びつき、また実力者の勢威を際立たせる手段として、剣闘士競技は頻繁に開催されていた。
100組の対戦で、19人が喉を切られて殺された。5組の対戦があれば、1人が喉を切られた。10人の剣闘士が闘技場の舞台に出ると、1人が殺されたことになる。
興行主の側からすると、喉切りは剣闘士という資産を損失することだった。それにもかかわらず、彼らは競って多くの死体を民衆に提供した。なぜなら、殺される場面が多ければ多いほど興行主の気前の良さが民衆に伝わるからだ。等級が高く、資産価値のある剣闘士は、めったなことでは殺されなかった。
 剣闘士は年に3回か4回ほど対戦し、5~6年にわたって活動していた。およそ20戦未満で、命を失うか生き残れるかの瀬戸際に立つ。生き残って木剣拝受者になれる剣闘士は、20人に1人くらいの割合だった。
 剣闘士は卑しい身分だったが、命がけの競技なので人気者でもあった。
 ローマ時代のコロッセウム(円形闘技場)をフランスでいくつか見学したものとして、そこであっていた剣闘士の競技の実際を知りたいと思っていました。実に残酷な競技ですよね。何万人もの民衆が熱狂しながら見物していたなんて、信じられません。
(2011年10月刊。2800円+税)

2012年2月 9日

ノルマンディー上陸作戦(下)

著者   アントニー・ビーヴァー 、 出版   白水社

 連合軍はノルマンディーになんとか上陸したあと、一路ドイツに向かって快進撃を続けたというのではないことがよく分かります。実際にはヒトラー・ドイツ軍の反撃もあって、しばらく苦戦したのでした。
パットン将軍が最高司令官のアイゼンハワー将軍に対して軍人として一目置いたことは、ただの一度もなかった。パットンは次のように語る。
 「親しく接することで、部下と分け隔てのない関係を築けるというのがアイクの考え方なのだろう。だが、分け隔てがなくなったら、部下を指揮することなど、断じてできまい。私は、あらゆる方法を駆使して、部下の士気向上をはかる。だが、アイクは部下の合意を取りつけようとする」
 パットンは、モントゴメリー将軍も見下していた。
軍医は、傷とそのタイプを見ると、いま我が軍の部隊が前進しているのか、後退しているのか、停滞しているのか、判断がついた。
 自傷行為に走った兵隊が運ばれてくるのは、たいてい戦闘が始まった直後だ。部隊が前進すると、傷の種類は、迫撃砲、機関銃、そのほか小火器によるものに変わる。敵の守りを突破したり、人知を破保したあとは、地雷とブービートラップの患者が相手となる。
 負傷者の過半数ではないものの、心的外傷を負った兵士は、依然として相当数にのぼっていた。アメリカ陸軍がノルマンディーにおいて対処せざるをえなかった戦争神経症患者は3万人に及んだ。
 ドイツのロンメル将軍は、幹線道路を走るのは避けるように忠告されたにもかかわらずオープンカーで道路を走っていて、2機の英軍機スピットファイアに攻撃された。ロンメルは車から投げ出され、重傷を負った。ロンメルは、病院に送られ、以後、この戦争から離れてしまった。
 3日後の7月20日、ヒトラーに対する暗殺未遂事件が起きた。連合軍がノルマンディー防衛戦を突破するのではないかという懸念と、いっこうに現実を見ようとしないヒトラーに対する忌避感情が事件の背後にあった。
 ロンメル元師を中心とするヒトラー反対派も存在した。ヒトラー暗殺、クーデター計画には、実に多くのドイツ国防軍の上級将校が関与していた。しかし、組織としてのまとまりや、効果的な連絡手段があまりに欠如していたため、ヒトラーの生死という肝心要の事実さえ確認がとれず、それは必然的に、初動の遅れと混乱へとつながった。ヒトラーの生存が確認されたため、どっちつかずの態度をとっていた者たちは慌てて自分の尻尾隠しに狂奔した。大半の下級将校はショックを受け、混乱はしていたけれど、この問題に関しては、くよくよ考えないという選択をした。
戦争とは結局、およそ90%が待ち時間である。
 これはアメリカの師団のある将校が日記に書いた言葉である。
 モーリス・ローズ准将は、配下の戦車兵・歩兵共同チームに徹底的な訓練を施した。
 戦場の視察にやってきたソ連軍の軍事使節団は、100万人の元赤軍兵士がドイツ国防軍の軍服を着て戦っている事実を知らされて、顔をこわばらせた。
 イギリスのチャーチル戦車やクロムウェル戦車は、ドイツのティーガー戦車にはほとんど歯が立たなかった。
最前線のアメリカ軍部隊は、処理すべき人数があまりに多かったので、捕虜の扱いがきわめてぞんざいだった。なにしろ、第八軍団だけで、3日間に7000人、第一軍が捕らえた捕虜は6日間で2万人に達した。
 ブルターニュ地方は、フランスにおけるレジスタンスの一大拠点だった。2万人の活動家がいて、7月末には3万人をこえた。うち1万4千人は武装していた。ドゴール派のFFIも、共産党のFTPもブラッドリー将軍の期待をはるかに上回る活躍を見せた。
 そして、ドイツ兵と寝た女性への報傷行為も、ブルターニュ地方のほうがはるかに苛烈だった。髪の毛をむりやり刈り取られたうえ、腰をけられて病院送りとなった。
 8月初め、ヒトラーは、撤退など論外だと言い出した。その内なるギャンブラー体質に、ドラマ性を好む性向が加わり、目の前の地図を眺めて、日々夢想にふけった。名ばかりの師図になっているのに、そうした現実をヒトラーは断じて受け入れようとはしなかった。ヒトラーは自分に都合のよいものしか目に入らなくなっていた。8月7日、ドイツ軍の反撃が開始された。攻撃が失敗したとき、ヒトラーは、こう言った。「クルーゲがわざとやったのだ。私の命令が実行不能であることを立証するため、クルーゲのやつが、敢えてこれをやったのだ」
 パットン将軍のアメリカ第三軍は補給の問題をかかえていた。
 アイゼンハワー最高司令官は、パリを素通りして、そのまま東フランスから一気にドイツ国境に迫るという考えだった。これにドゴール将軍が反発した。
パリを破壊させよというヒトラーの命令を実行する考えだったコルティッツ司令官に対して、前任司令官と参謀長が説得し、やめさせた。
 8月24日、フランス自由軍がパリに入った。アメリカ軍も8月25日朝、南方からパリに入った。パリにドゴール将軍が入るのが先か、共産党のレジスタンス蜂起が先に成功するか、息づまる努力争いが展開された。これはまさに戦後政治の先どりでした。
 1944年後、髪の毛を丸刈りにされたフランス人女性は2万人にのぼった。ドイツ兵と寝たことが理由である。
1944年夏の3ヵ月間にドイツ国防軍は24万の将兵が犠牲となり、20万人が連合軍の捕虜となった。イギリス、カナダなどの連合軍は8万人の犠牲者を出し、アメリカ軍の犠牲者は13万に近い。
 たしかにすさまじい戦争だったことがよく分かる、詳細な戦史です。よくぞここまで調べあげたものです。
(2011年8月刊。3000円+税)

2012年1月 8日

指導者は、こうして育つ

著者  板倉 康夫 、 出版  吉田書店

 フランスの高等教育、グランゼコールを紹介した本です。
 グランゼコールの一つ、シアンスポはパリの中心部、カルチェラタンにあります。実は、今、私の娘がそのすぐ近くに下宿しているのです。この夏、パリに行ったときに娘の住所を探しているうちにシアンスポを発見したのでした。シアンスポは、ニコラ・サルコジ大統領の出身校でもあります。シアンスポとは、パリ政治学院のことです。
グランゼコールとは、大学とは別のエリートを選抜するための高校教育機関である。そこに入るには猛烈に勉強しなければいけない。
フランスで大学に進学するにはバカロレアに合格しなければいけない。いま同世代の66%ほどがバカロレアに合格し、その82%が大学に進学する。それとは別に存在するグランゼコールは、300校、全国で12万4000人の学生が在学する。フランス全土の大学生132万人の1割以下である。
 グランゼコールの卒業生がフランスの支配層を形づくっていると言われています。官庁も企業も、彼らによって占められているのです。
 私の好きなポール・ニザンもグランゼコール(パリの名門のひとつであるアンリ四世校)の卒業生でした。ここでサルトルと知り合い、激しい首席争いをしたのです。
 そして、ポール・ニザンは共産党に入り、教員となったあと徴兵され、ダンケルクから撤退する途中で戦死したのでした。
 20歳がひとの人生で一番美しい年齢だなどとは言わせない。これは「アデン・アラビア」の一節ですが、私も大学一年生のとき(まだ20歳になる前のことです)に読み、感銘を受けました。
 フランスのようなエリート・システムを日本も真似してよいのかどうかは疑問がありますが、フランスという国を知るには、このグランゼコールを知らなければいけないと私も思います。それにしても、バカロレアの試験問題があまりに哲学問答なのに驚かされます。この点については日本も真似てよいと思います。
(2011年9月刊。1900円+税)

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