弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

ヨーロッパ

2011年8月30日

囁きと密告(下)

著者  オーランド・ファイジズ     、 出版  白水社 

 スターリンの大テロルの直接の犠牲者は大人たちですが、当然のことながら子どもたちも犠牲となりました。大量の親なし子が生まれたのです。
 大テロルは家庭を押しつぶし、家族をバラバラに引き離したが、生き残りのメンバーを再び結び合わせる努力の中心には、いつも祖母たちの働きがあった。ロシアのおばあちゃんも、たくましいのです。当局を前にして一歩も引かずに孫たちを守り通していったのでした。
両親の無実を一瞬たりとも疑ったことはなかった。両親への信頼を維持することができたのは祖母のおかげだった。祖母はソヴィエト権力の本質を理解しており、何を言われても負けなかった。革命が起こったとき、祖母は既に40歳に近かったからだ。
多くの場合、親が逮捕されると、残された子どもは一夜にして大人になった。
 両親が逮捕されたとき、頼る先をもたない子どもの数は数百万人を下らなかった。多くは孤児院に収容されたが、中には浮浪児となって街をうろつく子どももいた。少年ギャング団が出来た。
 孤児たちは、自分たちが世界で一番幸福な孤児だと思い込んでいた。なぜなら、すべての子どもを愛する国父スターリンに率いられる国家が孤児たちにすべてを与えてくれるからだ。なんという皮肉でしょうか・・・・。
10代後半の年齢を迎えた「人民の敵」の子供たちにとって、「ソヴィエト市民」としての社会復帰を象徴する最大の出来事はコムソモール(青年共産同盟)への加盟だった。流刑地や特殊居住地で育った「クラーク」の子どもたちにとって、出征の汚点を克服する唯一の道は、ソヴィエト社会の価値観を全面的に受け入れることだった。
 1938年終わりころから政策が変更された。「クラーク」の子どもたちの「鍛え直し」と社会復帰が強調され始めた。
1939年8月、スターリンは英仏両国への期待を維持できなくなった。スターリンは欧州戦争が勃発することを確信していたが、同時に現状ではナチス・ドイツに抵抗する軍事力がソ連にないことも理解していた。とくにかなりの兵力を満州国境に配置しなければならないという条件が対独戦争を困難にしていた。そこで、スターリンはヒトラーと協定を結ぶ以外に選択肢はないという結論に達した。独ソ不可侵条約を結んだのは、長期的な計算からではなく、目の前に発生していた事態への対応策だった。
独ソ戦が始まったときのソ連の壊滅的敗北は、スターリンが情勢の把握に失敗して防衛体制の準備を怠ったというだけでなく、それまでのスターリンのテロル支配が恐怖と不信を生み、その結果、国家の有機的な防衛能力が事実上の機能不全に陥っていたことによる。
 赤軍の指導部に対して発動されたテロルは指揮官たちの権威を失墜させ、彼らを萎縮させていた。指揮官たちは処罰されることを恐れ、彼らの一挙手一投足を監視しているコッミサールなどの政治将校たちによって告発されることをひたすら避けようとしていた。そのような指揮官が適切な軍事的判断を下し、主導権を発揮することは不可能だった。指揮官たちは、いきおい消極的になり、上部からの命令を待つだけになった。しかし、命令は常に遅きに失し、現場の軍事情勢に能動的に対処するには、何の役にも立たなかった。
 1942年9月、スターリングラードの戦いのとき、優勢なドイツ軍に圧倒されながらも、廃墟となった街路とビルを守ろうとして必死に戦うソヴィエト軍兵士の異常なほど高い士気は記者を驚かせた。厳しい軍規によっても、イデオロギーによっても説明のつかないこの戦意こそがスターリングラード戦の帰趨を左右し、ひいては戦争全体の命運を決した。
 テロルより効果的だったのは、ソヴィエト国民の愛国的心情に訴えるというやり方だった。兵士の圧倒的多数は農民の息子だった。彼らには農村を破壊したスターリンや共産党に対する忠誠心はなかった。彼らが愛していたのは、家族と故郷であり、イメージのなかの「祖国」だった。政府は国民の愛国的心情に訴えかけようとして、そのプロパガンダから、次第にソヴィエト的なシンボルを引っ込め、古い「母なるロシア」のイメージを全面に押し出した。
 国民が自己犠牲の精神に慣れ親しんでいたことこそがソ連邦の最大の武器だった。とりわけ1941年夏の開戦から1年後、ソ連が全面的な敗北をこうむりつつもなんとかして生き延びようと悪戦苦闘していた時期に、国民の自己犠牲の精神は決定的に重要な役割を果たした。軍事指導部の度重なる失策と政府機能のほぼ全面的な麻痺状態を埋め合わせたのは、膨大な数の兵士と一般市民の自己犠牲だった。自己犠牲の精神がなかでも強かったのは、1910年代から20年代前半にかけて生まれた人々だった。つまり、国家のために自己を捨てたソヴィエトの英雄たちの神話を常に聞かされて育った世代だった。
 兵士がその開戦能力を最大限に発揮するのは、何のために戦うのかを知っているときであり、自分自身の運命と戦争の目標を一体のものとして意識するときである。
 1943年からソヴィエト軍に勝利をもたらした要因は、兵士の勇敢さと粘り強い抵抗力に加えて、赤軍内部の指揮系統が変更されたことも重要だった。スターリンは開戦後1年間のみじめな敗北を経験して、軍事指導権に対する党の介入が(最高司令官としての自分自身をふくめて)戦闘能力を引き下げていること、軍人たちを信頼して一任するほうが有効であることを認めざるをえなくなった。
 1942年8月、スターリンはジューコフ将軍を最高司令官代理に任命して、自分は軍事指導から一歩引き下がった。戦略計画と戦争努力遂行の責任は、次第に政治家の手から参謀本部の軍事評議会の手に移り、主導権を握った参謀本部は党指導部に情報を伝えるだけとなった。コミッサールらの政治将校が軍事的な意思決定に関与する機会は大幅に減少した。党による監視と管理から解放された軍事司令部は新たな自信を獲得した。自立性が勇気ある発意につながり、安定した軍事専門家集団を生み出した。
 戦時経済の発展には、グラーグ管理下の収容所の労働力が大きく貢献した。ソヴィエト軍の全弾薬の15%、軍服の大部分、軍の糧食のかなりの部分が労働収容所の囚人労働によって生産されていた。収容者人数は1941年から43年にかけて減少した。50万人の囚人が「罪をあがなうために」前線に送られた。
 戦争中、党は党員数でこそ倍増したが、戦前の党の特徴だった自発的精神は大幅に失われた。党の中核を形成していたボリシェビキの多くが1941~42年に戦場で消えていった。1945年になると、600万人の党員の半数以上が軍人であり、3分の2は戦争中に入党した党員だった。党の気風は1930年代とは大きく変わった。
 テロルによって労働収容所に入っていた母親と、孤児院育ちの子どもが再会しても、それまでの人生で受けた傷が深すぎて、互いに心を開くことができず、親密な関係になれなかった。
 戦後スターリンは、すばやく手を打って、政治改革を求めるあらゆる動きを抑制した。終戦直後の最初の粛清の標的としてスターリンが選んだのは、赤軍幹部と党指導部だった。まず、赤軍幹部が狙われた。ジューコフ元帥は改革を求める国民の希望の星だった。そのジューコフは降格され、左遷された。レニングラードの指導者たちも狙われた。
終戦と同時に、国家が無給で利用できる労働力は膨大な規模に増大した。既に存在していたグラーグ管理下の囚人と労働軍に徴用された労働者に加えて、200万人のドイツ軍捕虜とその他の枢軸国軍の捕虜100万人が手に入った。戦後のソ連経済はグラーグ経済と通常の民生経済とが分かち難くからみあう形で発展した。
ソヴィエト・ロシアで生き残るためには、どの 時代であれ、自己を隠して偽装する技術が必要だった。しかし、仮面をかぶって自己を偽る技術が完成の域に達したのは戦後期になってからだった。人々は人前での演技があまりにもうまくなったので、ついには自分が演技をしているのか、それとも、それが本来の自分の姿なのかの区別がつかなくなる有り様だった。ソヴィエト国民の典型的な心理状態は自己分裂だった。
新しいソヴィエト官僚は、必ずしも党と党の理想の信奉者ではなかった。ただし、党の命令に忠実に従うという意味で従順な出世主義者だったことは間違いない。スターリン体制は大小の権力者を通じて機能していた。
スターリンの死が何を意味するにせよ、大多数のソ連国民にとって、それは恐怖からの解放ではなかった。むしろ、恐怖が強まった。次に何が起きるのか分からないという恐怖だった。
囚人たちがスターリンの牢獄から帰還しはじめると、彼らを収容所に送り込んだ側の人々は、当然ながら、恐怖におののいた。
自分たちの運命を左右する力が何であるかを知らないソヴィエト国民の大多数は、依然として混乱したまま、自制心を発揮し、過去についての沈黙を維持していた。
この本で描かれていることの多くは、決してスターリン体制下のソ連だけのものではないと思いながら最後まで興味深く一心に読みふけりました。おかげで、上下2巻の紹介がこんなにも長くなりました。それほど、刺激的な本なのです。この労作を書き、また翻訳した人たちに心から拍手を送ります。

(2011年5月刊。4600円+税)

2011年8月25日

キリスト教とホロコースト

著者    モルデカイ・パルディール  、 出版   柏書房

 ヒトラーによるユダヤ人絶滅作戦が進行するなかで、自らの生命を賭してユダヤ人を救った人がいたのを知るのは本当に救いです。
 ホロコーストの時代、ナチからユダヤ人を救命するために自分の生命を賭した非ユダヤ人2万1000人以上が「正義の人」として栄誉をたたえられている。残念ながら、日本人はセンポチウネただ1人である。
 キリスト教の聖職者は、そのうち600人ほどです。本書は、その聖職者を主として紹介しています。
 ユダヤ教とキリスト教の関係は、まぎれもなく親密な性格を有している。そもそも、キリスト教の崇敬の主たる対象は、ユダヤ人に生まれユダヤの信仰を実践し、唯一かつ万物の造り主である神と同じ位格の神であり人であると考えられる一人の人物である。彼の直の弟子は皆ユダヤであったし、最初に彼の復活と再臨を信じたのは数千人の人々であった。
 彼の故郷ナザレにおいてのみ受け容れられなかったが、その行く先々で群衆は彼を追った。宗務当局は彼を逮捕しようとしたが、群衆の人気に押されて手を下せなかった。
 イエスについて、人々は好意的に受けとめるのが通例だった。
中世のカトリック神学者の一人であるトマス・マクィナスをはじめとする神学者たちはユダヤ人が教勢促進も挑発もせず、騒々しい戦いを避ける以外に何も望まなかったにもかかわらず、ユダヤ人を激しく非難し続けた。プロテスタントの偉大な改革者であるマルティン・ルターは、後期中世のもっとも悪質なユダヤ人迫害者の一人として突出している。うひゃあ、そうだったのですか、ちっとも知りませんでした。
 1933年1月、ヒトラーが権力を握ったとき、ドイツ全土にユダヤ人は52万人ほど、ベルリンに7割近い38万人がいた。ユダヤ人の多くはドイツ人の暮らしの中に完全に同化していた。
 ヒトラーは、自らの反キリスト教の見解を表明するのは注意深く、公衆の面前では教会の忠実な支援者という建て前を装った。
 推定で2万人のユダヤ人がドイツ国内で生きのびた。そのうちの1万5000人は地下生活に潜ることなく、非ユダヤ人配偶者との結婚によって保護された。推定5000人近くのユダヤ人が潜伏して生きのびた。
 ドイツでは、ほとんどのプロテスタント聖職者、とりわけルター派が1937年1月のヒトラーの権力掌握に際して、強い高揚感を表明した。
 フランスには30万人のユダヤ人がいて、パリには18万人いた。ビシー政府はドイツの圧力を待たずにユダヤ人を差別する法律を布告した。フランスの解放までに7万5000人以上のユダヤ人がドイツに引き渡された。フランス警察が、ドイツ軍以上に多くのユダヤ人を逮捕した事実は、フランスの名と民族的名声に汚点を残している。しかし、ユダヤ人を助けるため、カトリック司祭とプロテスタント牧師が共に連携して動いたことも事実である。フランスにおけるユダヤ人の生存率は、他の西側諸国に比べて相対的に高かった。
 1980年代のフランス映画『さよなら子どもたち』は私もみましたが、ユダヤ人の子どもたちを救おうとするフランスの取り組みが描かれています。
ゲシュタポは、ユダヤ人の所在の通報者には報奨金100から1000フランを約束していた。重要人物については5000フランだった。当時の平均月収は3000フランだったので。月収に匹敵するものだったが、人々は応じなかった。
イタリアのユダヤ人の80%はドイツ軍の占領時代を生きのびた。ファシストと呼ばれるムッソリーニ政府が1943年9月にドイツによって占領されるまでユダヤ人をナチスに引き渡すことがなかったことをはじめて知りました。イタリア人は、ナチの論理にしたがって、ユダヤ人として生まれたことだけを理由として人間の命を奪い取る気になれなかった。そのため、官僚的な口実や嘘をふくめ、想像しうる限りのありとあらゆる計略、逃げ口上を弄して、ドイツの要求に応じなかった。
 うへーっ、すっかりイタリア人を見直しましたよ。たいしたものです。
 イオニア海にあるザキントス島では、ドイツ人将校がやって来てユダヤ人の引き渡しを求めたとき、カトリックの主教がユダヤ人リストに自分の名前を目の前で書き加え、「あなたは私を逮捕できる。それで満足できないのなら、私もユダヤ人と共にガス室に直行するつもりだ」と宣言した。ドイツ軍将校はあっけにとられ、折れた。
 560頁もの大部な本です。キリスト教会がユダヤ人絶滅にいかに関与したのか、よく分かる本となっています。
 バチカンはユダヤ人絶滅策が進行していることを熟知していたにもかかわらず、公にホロコーストを非難することはなかった。しかし、イタリア全土のカトリック施設に数千人のユダヤ人をかくまっていた事実はある。
 ユダヤ人絶滅について、キリスト教会が全体として手をこまねいていたことは争いようのない事実です。しかし、そのなかでも、個々の聖職者は自分の生命と家族を危険にさらすことを承知しながらユダヤ人の救出にあたっていたのでした。その矛盾をどう考えたらいいのかを改めて考えてみました。
(2011年5月刊。4800円+税)

2011年8月23日

慈しみの女神たち(上)

著者  ジョナサン・リテル    、 出版  集英社 

 ずっしり重たい本です。読みすすめるのが辛くなる物語です。
 上巻だけで上下2段組、500頁あります。ユダヤ人を大量虐殺したナチ親衛隊将校の手記という構成なので、大虐殺状況を目撃して、それをずっとずっと語っていくのです。気が滅入ってしまいます。
いくらユダヤ人を豚以下の存在だと言われても、目の前にいるユダヤの人々はやはり同じ人間なのだから、どうしても、そこにためらいが生じる。
女性や、それ以上に子どもたちの場合、私たちの仕事はときに非常に困難で、胸を抉られるようなものとなった。兵士たちは絶えず不満を漏らしており、とりわけ家族のいる年長のものたちがそうだった。無防備なあの人々、子どもたちを護ることもできず、ただ殺されるのを見ていなければならない。そして子どもたちとともに死ぬことしか出来ないあの母親たちを前にして、わが軍の兵士たちは極度の無力感に苛まれ、自分たちもまた無防備であることを感じていた。
このような状況に何ヶ月もさらされたなら、健康な精神の持ち主であれば、後遺症、それもときに重大な後遺症に見舞われないことは不可能なのだ。
あるSS少尉は正気を失い、幾人もの将校を殺害したのちに、自らも射殺された。上層部は前代未聞の命令を下した。良心からにせよ、弱さからにせよ、ユダヤ人を殺すことを自らに課すことが出来ないものは、他の任務への配属や、さらにはドイツの送還のために全員が幕僚部へ出頭しなければならないというもの。
恐るべき虐殺が証明していることがひとつあるとすれば、逆説的なことに、それはまさに人類の、痛ましい、変わることのない連帯である。
 どんなに獣のようになり、どんなに慣れてしまっても、我々の兵士の誰ひとりとして、自分の妻、妹、あるいは母を思うことなしにユダヤ女性を殺すことはできないし、目の前の穴に自分自身の子どもたちの姿を見ることなしにユダヤ人を殺すことはできない。
彼らの反応、彼らの暴力、アルコール中毒、神経衰弱、自殺、私自身の悲しみ、これらすべてが証(あかし)立てているのは、他者が存在すること、他者として、人間として存在することであり、また、どんな意志も、どんなイデオロギーも、どれだけの量の愚行やアルコールも、細いけれども堅固なこの絆(きずな)を断ち切ることはできないということだ。これは事実であって、意見ではない。
38歳のアメリカ人が大量の本を読みつくして4ヶ月で書きあげたというのです。恐るべき筆力です。
(2011年2月刊。1000円+税)

2011年8月22日

ノーザン・ソングス

著者    ブライアン・サウソールほか  、 出版   シンコーミュージック・エンタテインメント

 なつかしのビートルズの著作権をめぐる本です。ビートルズは私が高校生のころ一世を風靡しました。「イエスタデイ」とか「ミッシェル」と言ったポール・マッカートニーのバラードなんかも最高でしたね。
 夏に市営プールで泳いでいると、ビートルズの「イエローサブマリン」の曲が流れてきたことを今も鮮明に記憶しています。これは高校生というより中学生のときかもしれません。
 ジョン・レノンがアメリカで射殺されたのもショックでしたね。アメリカって、本当に恐ろしい国だと思いました(実は今も思っています)。
 音楽の分野で天才だった四人組も、商売の分野ではなかなか苦労したようです。
音楽出版の世界において著作権ほど重要なものはない。ソングライターと出版社にとって、「著作権は絶対に手放すな」という金言は不変である。
レノン&マッカートニーは、自分たちの曲の著作権を実際に放棄したわけではなかった。相次ぐ契約によって、作品がどんどん資産価値を上げていく渦中で、気がつくと手元から消え失せてしまっていたのだ。
 音楽出版社と契約をかわすことで、ソングライターは楽曲の所有権(つまり著作権)の一部を譲渡する。その代わりに出版社は、その楽曲を売り込み、そこから得られた収入をソングライターと事前に合意した割合にもとづいて分配する。通常は50対50がいいところだが、売れ行きによっては作家側の取り分が増えることもある。普通は純利を分配するので、音楽出版社側はデモ録り、事務所経費、交通費などの費用を控除することができる。したがって、作家とり分50%というのは、総収入を100としたときの50ということではない。
 出版社と作家が受けとる使用料を徴収するのは著作権管理団体であり、その徴収の範囲は、演奏、放送、録音に及ぶ。
 スナックがカラオケを無断で利用していると、この著作権管理会社から請求書が届き、裁判を起こされるというのは、日本でもよくあります。
 1962年の音楽ビジネスは、現在と同じくロンドン中心部に拠点をもつレコード会社と音楽出版社を中心に回っていた。彼らは業界を何十年にもわたって支えてきた不動の原理原則を行使し、才能あふれる若きミュージシャンたちの運命を握っていた。そこでは、クリエイティブな人間よりも、決定権を持つ企業が常に優位な立場にあった。
 1963年、わずか2枚のヒット・レコードを出しただけなのに、ビートルズは既にイギリス業界を席捲しつつあった。ツアーは売り切れ、テレビやラジオに出演すると、ティーンエイジャーにとって、それは「絶対に見なくてはならない」ものになった。たしかに、すごい熱狂でした。
 1963年、「シー・ラブズ・ユー」は数週間のうちに100万枚をこえて売れた。
 1964年の「キャント・バイ・ミー・ラブ」は英米で250万枚の予約注文数を記録した。
 1965年の時点で、四人組は若き大金持ちになっていた。
ところが、イギリスの高額所得税は83%、それに異進付加税として、さらに15%が足された。なんと98%の税率です。これは、いくらなんでもたまりませんね。
そこで、節税対策が始まります。しかし、それはそれで四人組の仲間割れにもつながるのでした。四人組が全員そろってレコーディングスタジオに入ったのは1969年8月が最後だった。
 そして、その結果、ポール・マッカートニーが自分の出演映画で「イエスタデイ」を使おうとすると、会社(ATVミュージック)に許可申請しなければならなかったのです。なんということでしょう。曲をつくった人が自分の曲を自由に使えないなんて・・・。
 音楽著作権の世界の難しさをなんとなく実感させられる本でした。
(2010年4月刊。2400円+税)

2011年8月18日

囁きと密告(上)

著者    オーランドー・ファイジズ  、 出版   白水社

 人間とは社会的存在であることがよくよく分かる大作でした。スターリン時代のソ連で人々がどのように生きていたのか、なぜスターリンの暗黒政治があれほどまで大々的に、かつスターリンが死ぬまで続いたのか、ようやく謎が解けた気がしました。
 一番の心の深手は「クラーク」(富農)の出身という烙印を押されたことだった。出身階級によってすべてが決まる社会だった。高等教育を受ける権利も、まともな仕事につく機会を認められない「階級の敵」の烙印がつきまとった。テロルの波はスターリン支配の全期間を通じて国中に吹き荒れたが、その波をかぶれば、「階級の敵」はいつでも逮捕され、処刑される危うい身分だった。自分が社会的に劣等な存在であるという意識は心を離れることがなく、その意識は一種の恐怖心となった。
 数百万人がテロルの犠牲となったが、犠牲者の家族も同じように被害者だった。
 この四半世紀の間に確立された独裁体制はスターリンの死後も簡単には終わらなかった。スターリン支配の四半世紀にソヴィエト体制の抑圧の犠牲となった人々は控え目にみても2500万人を下らない。これは、当時のソ連の人口2億人の8分の1に相当する。
 スターリン支配が生み出し、現在まで残る影響の一つは、体制にひたすら順応する沈黙の大衆の存在である。多くの人々が過去を口にしない習慣を身につけた。
 1930年代、そして40年代には、日記を書くこと自体がきわめて危険な行為であり、危険を冒して私的な日記を書き残す人は、きわめて稀だった。
 1917年から55年の38年間に行われた政治犯の処刑の85%が1937年~38年の2年間に集中している。なぜか?
 もし、善良なスターリン主義者というものが存在しうるとしたら、シーモノフは間違いなくその一人だった。正直で誠実、礼儀正しく、上品で、思いやりにあふれ、魅力があり、人を喜ばせることが得意な人物だった。幼少期以来、ソヴィエト体制にどっぷりとはまり込んでいたシーモノフは、教育の結果としても、気質上の傾向からも、独裁体制の精神的な圧力と要求から自分を解放する手段を持たなかった。
 
 ソヴィエト・ロシアの国民生活は、ほぼ全面的に国家管理の下に組み込まれていたので、そのために必要な官僚機構は膨大な規模に膨れ上がった。1921年の官僚機構の規模は帝政時代の官僚組織の10倍以上となった。国家公務員の数は240万人に達したが、それは産業労働者の2倍以上だった。公務員こそがソヴィエト体制を支える主要な社会層だった。
 1920年代に盛んになった粛清システムの中で中心的な役割を果たしていたのが密告の奨励である。
 ボリシェビキによれば、子どもを社会的な存在として育てるための最大の障害物は、他でもない家族だった。
1920年代にはいると、多くの家庭で世代間の溝が深まるという現象が始まった。家庭の価値観と学校の方針との不一致は多くの家庭で摩擦を生んだ。家族から聞かされる話と学校で先生から教わることが矛盾するので、子どもたちは混乱した。
 ボリシェビキの上級幹部になればなるほど、賃金の高い有能な乳母を雇う傾向があった。そして、皮肉なことに、有能な乳母の多くは反動的な意見の持ち主だった。
 モスクワにいるユダヤ人は1914年に1万5000人で、1937年には25万人になった。これはロシア人に次いで2番目に多い人種集団であり、ユダヤ人はソ連邦の一大勢力だった。
 党を与えるプロレタリア階級の大半はレーニンの始めたネップに対する強硬な反対派だった。ネップが引き起こした物価上昇に耐えられなかったからである。だから、革命期と内戦記の階級闘争を再現しようとするスターリンの激しいレトリックは、党を支持するプロレタリアから幅広い支持を集めた。
 「クラーク」と呼ばれた農民の大半は、勤勉な篤農家であり、そのささやかな財産は家族全員の勤勉な労働の結果だった。「クラーク」が勤勉な篤農家であることは、農民の大半が認めていた。「クラーク」撲滅キャンペーンとは、「もっとも勤勉で、もっとも優秀な耕作者」をコルホーズから追放する運動に他ならなかった。「クラーク」の消滅はソ連邦の経済的破局を意味していた。それは、この国でもっとも勤勉な農民の労働倫理と農業技術を集団農場から奪い去り、最終的にはソヴィエト農業部門に末期的な衰退をもたらす結果となった。しかし、「クラーク」との戦争に踏み切ったスターリンには、経済問題への配慮はまったくなかった。少なくとも1000万人の「クラーク」が1929年から32年までの間に家を失い、故郷の村を追われた。そして、「クラーク」の子どもたちの多くが、成長後は熱烈なスターリン主義者となった。
 コルホーズに加入していた農民のうち、3人に1人が完全に農業を放棄し、その大半が工業地帯に逃げ込んで賃金労働者になった。1932年の前半には数百万人が国内を流浪していた。家族の崩壊が進み、農村部の若者たちは家を出て、都市を目ざした。
 スターリンが5ヶ年計画で結束した急激な成長率を確保するためには、強制労働が不可欠な要素だった。1920年代の労働収容所は基本的には刑務所であり、囚人たちが労働を強制されたのは、本来、囚人の食い扶持を囚人自身に稼がせるという趣旨からだった。
多くの家族が農業集団化と都市化という二重の圧力に屈服させられた。集団化こそ大変動の中で農民の生活にもっとも深い傷を残した。集団化は、ソヴィエト式の生活様式を受け入れるか否かをめぐって、父と子を争わせ、家族を分裂させたからである。
 「自己改造」は、ボリシェビキの間では、ごく普通の概念だった。旧世界から受け継いだプチブル根性や個人主義的な性癖を排除して自分を浄化し、より高度の人間、つまりソヴィエト人に成長するというボリシェビキの思想の中心的な位置を占めるのが他ならぬ「自己改造」だった。
不純分子への恐怖心は共産党指導部が抱えていた深刻な問題、つまり自信欠如の表れだった。幹部の自信欠如こそが粛清を繰り返すという党風をつくり出すことになる。
 シーモノフは、自分の継父が逮捕されたとき、それは誤解によるものだと思った。それは、親族を逮捕された人々の大半が示す反応と同じだった。
党内には表立ってスターリン路線に反対する勢力は存在しなかった。しかし、膨大な人的被害をともなって強行された1928~32年の粛清に対しては、水面下で異議と不満が鬱積していた。
 1932年11月、スターリンの妻ナジェージタが自殺する。スターリンは妻に自殺されて狂乱状態となり、周囲の人間全員に対して一層深い不信感を抱くようになった。
 1930年代が進むにつれて、多数の古参党員が、粛清され、代わって新規党員が入党したために、党の性格自体が次第に変化を見せはじめる。古参ボリシェビキの影響力は弱まり、その代わりに一般党員の間から新しい党官僚グループが台頭してきた。この新・管理職層こそがスターリン体制を支える主要な柱となる。平均7年程度の教育しか受けていない新エリート層の大部分は自分の頭で政治的問題を考えるだけの能力を持たなかった。彼らは、新聞発表の党声明を自分の意見とし、宣伝スローガンと政治的な決まり文句をオウムのように繰り返すだけだった。
 1934年12月に、レニングラードの党書記長キーロフの暗殺事件が起きたが、その直後、スターリンは、旧貴族とブルジョアジーの大量逮捕と流刑を命じた。
 NKVDは1930年代の半ばまでに情報提供者を組織して、膨大な密告ネットワークの構築を完成させていた。すでに、あらゆる工場、事務所、学校などに密告者が配置されていた。元来、相互監視方式はロシア国家の根幹をなす制度だった。広大すぎて警察組織だけでは管理できないロシアという国家は、ギリシェビキ体制になっても、帝政時代と同様に、国民の相互監視という統治スタイルに大きく依存せざるを得なかった。
 人々にストレスをもたらした最大の原因はプライバシーの欠如だった。トイレと浴室は軋轢と不安の絶えざる発生源だった。
大多数の市民は、自分たちが生きている間に共産主義のユートピアが実現することを期待しつつ、賢明の努力を重ねていた。1930年代のソヴィエト体制を支えていたのは、人々のこの期待だった。何百万人もの人々が、毎日の苦しい生活は共産主義社会を建設するために必要な犠牲であると信じ込まされていた。今日の辛い労働は、明日には報われるだろう。明日は、ソヴィエトの「素晴らしい生活」を全員が享受することになるだろう、と。
 1930年代を振り返って、当時は目先の問題よりも未来を考えて生きるという生活感覚が一般的だったと回想する人が少なくない。この楽観的な雰囲気に押し流されて、ソヴィエトの知識人たちはスターリン体制が進歩の名の下で犯していた恐るべき犯罪の実態を見ようとはしなかった。
 1937~38年の大テロルは、当時の情勢認識に対応してスターリン自身が全体を綿密に計画立案し、指揮監督した大作戦だった。迫り来る戦争へのスターリンの恐怖心と国際包囲網の脅威に対するスターリンの恐怖心は、1936年11月にベルリンと東京が反コミンテルン防共協定を締結したことで、さらに増大した。
 1937年の時点で、ソ連邦はヨーロッパではファシスト諸国と戦争、アジアでは日本との戦争の瀬戸際まで追い込まれているとスターリンは確信していた。
 1936年にスペイン共和国政府が喫した軍事的敗北の原因は、共産主義者、トロツキスト、アナーキストなど、さまざまな左翼グループが分派行動に走り、内部抗争を繰り返したからだとスターリンは見てとっていた。したがって、ソ連邦では政治的抑圧が緊急に必要であるというのがスターリンの得た教訓だった。単に「第5列」「ファシストのスパイ」「敵性分子」などを粉砕するだけでなく、すべての潜在的反対派を対ファシスト戦争が勃発する前に殲滅しておく必要があるとスターリンは考えた。
 1937年6月のスターリンの発言によると、逮捕された人々の中に本物の敵が5%もふくまれていれば逮捕作戦は大成功と言うべきだとされた。すなわち、大テロルは迫り来る戦争に備えるための必要不可欠の準備作戦だった。
人々は逮捕される順番が来るのを待っていた。NKVDがドアをノックしたらすぐに対応できるように必要な品物をカバンに詰めてベッドの横において寝る人が少なくなかった。逮捕される側の人々が示したこのような受動的な態度は、大テロルの時代の人々のもっとも驚くべき特徴のひとつである。
 逮捕されるという運命に直面してとりわけ受動的だったのは、ボリシェビキの幹部たちだった。彼らは、あまりにも深く党のイデオロギーに浸りきっていたので、抵抗しようとする意思よりも党に対して自分の無実を証明したいという要求のほうがはるかに強かった。
 ずしりと重たく、画期的な分析にみちた大変な労作です。
(2011年5月刊。4600円+税)

2011年8月11日

十字軍物語 1

著者  塩野 七生    、 出版  新潮社 

 十字軍の実態を知れば知るほど、キリスト教っていいかげんな宗教じゃないのかなと感じます。教皇と王とは、世俗の君主として権力争いをしていたのですよね。そこには、大義も何もあったものじゃありません。そして、イスラム教徒に支配される聖都イエルサレムを奪還しようと教皇が呼びかけ、それに応じて真っ先に行動したのが貧者の軍隊でした。ところが、イエルサレムに向かって行進していくうちに霧消していくのも哀れです。
 カノッサの屈辱は1077年のこと。法王の反対を無視した皇帝を法王は破門に処した。破門とは、当時、社会からの全面的な追放を意味していた。そこで、皇帝は法王が滞在中のカノッサの城の前に、降りしきる1月の雪のなか、裸足で立ち尽くしたのだった。
 ときに得意絶頂の法王は57歳。皇帝はまだ27歳だった。カノッサで受けた屈辱を忘れなかった皇帝は、軍事力で法王を追いつめると同時に教会の内部を分裂させることで対立法王を選出させ、ローマ法王のもつ権威を足許から崩す策に出ていた。
 イスラムの支配するなかでキリスト教徒たちは既に300年以上も生きてきた。この地方に住む人々からローマ法王に対して現状から解放してほしいと求めた史実はない。法王に援軍の派遣を求めたのは、かつてビザンチン帝国領であった中近東を取り戻したいと欲したビザンチン帝国の皇帝だった。
 法王の呼びかけに応じて最初に東方に向かってヨーロッパを発ったのは、隠者ピエールの率いる貧民から成る十字軍だった。貧民十字軍には、人的犠牲にはまったく無関心という絶対的な強みがあった。それにしても哀れな末路でした。教会って無責任ですよ。
 法王には、十字軍を成功させることで法王の権威を強化し、それによって皇帝の権力を弱体化させようとする思いがあった。
 この当時はまだ中央集権ではなかった。11世紀の諸君たちは皇帝や王に対して地位は下でも、実力では劣る存在ではなかった。公爵や伯爵とは呼ばれていても、これらの諸侯が領土を持っていたのは、皇帝や王から与えられたからではない。彼らのほうがすでに領土を持っていて、その状況下で、まあ、あの男ならば今のところは不都合はないだろう、とした人物に、皇帝なり王なりへの忠誠を一応は誓うのである。自らの力で獲得し、自らの力で保持する領国の主(あるじ)であり、それに欠くことのできない軍事力として血のつながりのある一族郎党を率いるボスだった。貴族とも言われていたが、その実態は豪族であり、部族であった。
 十字軍には、最高司令官は最初から最期まで存在しなかった。だから、指令系統の一元化はついに成らなかった。貧民十字軍は、聖地に近づく前に、小アジアに足を踏み入れたとたんに消滅してしまった。
 十字軍との戦いで敗北したセルジュク・トルコ軍は大軍を結集しての会戦方式ではなく、少ない兵力を駆使してのゲリラ戦法に変えた。そして、ゲリラ戦法だけでなく、焦土作戦にも打って出た。
すべては領土の問題であって、宗教の問題ではなかった。イスラム側が、十字軍とは神の旗のもとにまとまった軍勢であり、十字軍遠征の目的が、イスラムを撃退し、その地に十字軍国家をうちたてることにあるのを知るのは、80年後のサラディンの時代だった。それまでは、イスラム教徒の大半は、十字軍を領土獲得を目的とする侵略軍と思い込んでいた。
 力だのみの野蛮な十字軍将兵の実像が描かれています。だから、現代世界でレーガンでしたか、十字軍なんて言うと、野蛮とか残虐というイメージにつながるのですね。

(2010年9月刊。2500円+税)

2011年7月28日

プラハ侵略1968

著者    ジョセフ・クーデルカ  、 出版   平凡社

 ずっしり重たい大判の写真集です。300頁近くの歴史的場面が3800円で手にとって眺め、当時の状況を画像でしのぶことが出来るのですから、安いものです。
 1968年8月は、私が大学2年生のときです。親しくしていた下級生が、私に向かって先輩はソ連のチェコ侵入を認めるのですかと非難めいた口調で糾しました。私がそのころ左翼的言辞を弄していたことから、それでもやっぱりソ連を擁護するのかと問いかけたわけです。一世代前の左翼とは違って、私の周囲にソ連を絶対視するような学生はまったくいませんでした。私は、ソ連の行動を支持するわけではないと答えました。ただ、チェコ国内で一体、何が起きているのか、それこそアメリカCIAの策動でクーデター的に何か起きているのかもしれないという一抹の不安は感じていました。あとになって、そうではなく、あくまでチェコ国民の民主化に願う動きだと知りましたが、当時は何も分かりませんでしたので、ソ連のやることはひどいけれど、チェコの方もどうなってんだ・・・、という心配があったのです。
 この写真集は、1968年8月21日からの1週間、主としてプラハ市内の様子をとらえた写真からなっています。本当に緊迫した街の様子がひしひしと伝わってきます。日本で言えば首都・東京にアメリカ軍が戦車をともなった兵隊が進駐してきて支配するという事態が続いたわけです。チェコの人々はじっと我慢して、ソ連をはじめとする各国軍40万の兵士が退去するのを静かに待ったのです。偉いですね。
 死者100人、重軽傷者900人で済んだのは、今からいうと不幸中の幸いでした。いかにチェコの国民がじっと冷静に対応したかが分かります。なにしろ、ソ連軍の進駐に呼応する予定のチェコ人幹部がきちんと名乗り出ることができず、ずっと裏切り者扱いされたままで権力を握れなかったのです。
暴力回避がずっとアピールされました。そして人々は、路上にいる武装兵士を無視し、言葉を交わさずに広場を清掃しました。さらには、街路名、施設や役所の看板や標識をペンキで塗りつぶしました。よそから来た人間がプラハのどこにいるか分からないようにしたのです。すごい知恵ですね。その写真もあります。
 大きな広場で戦車が立ち往生し、市民がぎっしり取り囲んでいます。これじゃあ、とても武力制圧したとは言えないでしょう。人の波にロシア兵が埋もれてしまっているのですから・・・。そして、ときに戦車が火に包まれてしまいます。それでも、市民は誰も武器を持っていないのです。武器を手にしているのはソ連軍兵士だけ。
素手のまま、ソ連軍戦車の前に立ちふさがるチェコ青年の写真があります。ジャンパーを広げて胸を出し、銃をかまえる兵士に、射てるものなら射ってみろと抗議の声をあげて叫ぶ青年もいます。
 人々は広場から消え、また現れて座り込みを始めます。大群衆が座り込みをしたら、進駐軍の兵士は手も足も出ません。
 『プラハの春』(春江一也。集英社)を読んだときの震える感動を思い出しました。
(2011年4月刊。3800円+税)

2011年7月26日

ユダヤ人大虐殺の証人 ヤン・カルスキ

著者    ヤニック・エネル  、 出版   河出書房新社

 重たい本です。いえ、220頁ほどの軽い本なのですが、読み終えると、ずっしり心に重くのしかかったものを感じます。強制収容所に忍び込んでユダヤ人大虐殺の現場をみて、ワルシャワ・ゲットーにまで立ち入っています。そして、自分の見た事実をイギリスで、アメリカで、つぶさに報告したのに、誰も動いてくれないのです。アメリカの大統領にいたっては報告の最中、何度もあくびをかみ殺していたのでした。ええーっ、嘘でしょと叫びたくなります。でも、アウシュビッツなどの強制収容所を、少なくともその周辺を爆撃すれば良かったのに、連合軍は近くの工場を攻撃目標としても、収容所やそれに至る線路などを爆撃することはありませんでした。その理由は、ユダヤ人が逃げ出してきて、自分の国にやってこられたら困るということだったようです。そして、ソ連のスターリンへの配慮でもありました。なんということでしょうか。そこで、著者は絶望感に陥り、長く口を閉ざすことになります。大学の教員として、学生たちには少し話していたようですが・・・。
 著者はポーランド人です。カトリックを信じるユダヤ人だとも自称していたようです。なぜ何百万人ものユダヤ人が殺されてしまったのか、その問いかけに対する答えは、実に重いものがあります。
 レジスタンス運動の捕まったメンバーに対して、次の言葉とともに青酸カリの錠剤が2つ送られてきた。
 「きみは勇敢勲章を授けられた。青酸カリを添える。また会おう。同胞」
それでも著者はナチス・ドイツの魔の手から脱出することができたのでした。もちろん、多くの人の援助がそこにありました。
 ユダヤ人の組織(ブンド)のリーダーは言った。連合軍に理解させなくてはいけないことは、ユダヤ人には防御手段がないという点だ。ポーランドでは誰にも、この絶滅政策を妨げることができない。レジスタンス運動だけでは、少数のユダヤ人しか救えない。連合国の列強が彼らを救いに来なくてはならない。外からの援助が必要だ。ナチスは、ポーランド人のように、ユダヤ人を奴隷にしようとしているのではない。彼らは、ユダヤ人を絶滅させたいのだ。この両者はまったく違う。世界は、まさにこのことを理解できない。説明しようとしても、このことが説明できない。
 ヤン・カルスキは正確な事実を確かめようと、ブンドのリーダーに質問した。ゲットーのユダヤ人のうち、既に何人死んだか。収容所に移送された人数分が死者だというのが答えだった。ヤン・カルスキは驚く。強制移送されたもの全員が殺されたのか?そうだ、全員だ。リーダーは断言した。心が寒くなる回答です。
 連合国は恐らく、1年か2年あとには戦争に勝つだろう。しかし、ユダヤ人にとっては遅すぎる。そのときには存在していないのだから。西洋の民主主義国家は、いったいどうして、ユダヤ人がこのように死んでいくのを見殺しにできるのか・・・?
ヤン・カルスキは、1942年11月、イギリスに到着し、ポーランド亡命政府に報告することができた。ロンドンからみると、ポーランドの存在など、たいした問題ではなかった。この戦争の機構と、その経済規模があまりに大きいため、ポーランドの状況などあと回しにされてしまう。
 ヤン・カルスキはニューヨークに行き、ユダヤ人のフランクファーター最高裁判事にも訴えた。
 「そんなこと、信じられません」
 「私が嘘を言っているとお考えですか?」
 「あなたが嘘をついたといったのではありません。私にはそんなことは信じられないと言ったのです」
 1943年にはヨーロッパのユダヤ人が絶滅させられつつある事実を信じるのが不可能だったことから、「世界の良心」は揺り動かされなかった。同じくルーズヴェルト大統領にも直接話して訴えた。しかし、誰もヤン・カルスキの話を信じなかった。信じたくなかったからだ。何百万人もの人間を抹殺するなんて、不可能だと言い返した。ルーズヴェルトは驚いてみせたが、その驚きは偽りにすぎなかった。彼らは全員知っていたのに、知らないふりをしていた。無知を装った。知らないほうが、自分たちに有利だったから。そして、知らないと思い込ませることが利益になった。
 しかし、諜報機関はちゃんと働き、だから彼らは知っていた。イギリスは情報を得ていたし、アメリカも情報を得ていた。事実を十分に知りながら、ヨーロッパはユダヤ人絶滅政策を止めさせようとはしなかった。イギリスとアメリカの消極的加担を得て、ヨーロッパのユダヤ人はナチスに絶滅させられつつあり、続々と死んでいった。
 ポーランド人とは、レジスタンス運動を意味する。ポーランド人であるとは、すべての圧制に反対することなのだ。ポーランド人は、ヒトラーに対してだけでなく、スターリンとも闘った人だ。ポーランド人は、いつの世でもロシア人に対してたたかった人だ。ポーランド人とは、何よりもまず、共産主義の嘘にだまされなかった人のこと。そしてもう一つの嘘、アメリカによる支配の嘘、民主主義を自称する国に特有の罪深い無関心にもだまされない人のことだ。うむむ、こんな言い方が出来るのですね。重たい指摘です。
 ヨーロッパのユダヤ人を救済することが誰の利益にもならなかったら、行動しなかった。イギリス人もアメリカ人も、ヨーロッパのユダヤ人を救えば、自分たちの国に受け入れなくてはいけなくなるのを怖れた。パレスチナをユダヤ人に開放しなければならなくなるのを、イギリスは嫌がった。
 アメリカによって巧みに組織されたニュルンベルク裁判は、ヨーロッパのユダヤ人絶滅政策に対する連合国の加担を言及しないための隠れ蓑でしかなかった。もちろん、罪を犯したのは、ナチスである。ガス室を設置したのはナチスであり、ヨーロッパのユダヤ人数百万人を強制移住し、飢えさせ、辱め、拷問し、ガスで殺し、焼いたのもナチスだ。だが、ナチスに罪があることは、ヨーロッパとアメリカを無罪にするものではない。
 初めは、なんだか読みにくいなと思っていましたが、途中からは一気呵成に読了しました。
(2011年3月刊。2200円+税)

2011年7月24日

フェルメールの光とラ・トゥールの焔

著者    宮下  規久朗   、 出版   小学館ビジュアル新書

 フェルメールの光の粒も、ラ・トゥールの静謐な焔も、レンブラントの輝く黄金も、ダ・ヴィンチの天上の光も、美しい光は美しい闇がなければ描けない。
 これは、この本のオビにあるセリフです。まことにもってそのとおりです。この本を読むと、けだし至言である、とつい言いたくなってしまいます。
 レオナルド・ダ・ヴィンチの絵は、光はどこから差しているのかわからないが、人物たちは影の中から浮かび上がってくる。レオナルドは、背景を漆黒の闇に塗りつぶすこともあった。
16世紀のイタリアに来たギリシャ人、エル・グレコの「ロウソクの火を吹く少年」は、燃えさしの火種と、それが照らし出した少年の顔や手の明暗を、実際に観察したようにとらえている。宗教的テーマではなく、光と影の迫真的な描写がそこに認められている。
カラヴァッジョは、光と影による空間の描出、そしてドラマの演出に重点を移し、その技術を高めた。その絵「聖マタイの召命」は、見事です。
 17世紀はじめのヴェネツィアで活躍したドイツのエルスハイマーは夜景表現を得意とした。彼の「エジプト逃避」には、満天の星、天の川、そして星座が正確に描かれている。これって、すごいことですよね。天体望遠鏡の精度はそれほどのものではない時代に・・・。
 17世紀はオランダが美術史上類を見ないほど濃密で高度な美術の黄金時代を迎え、科学や哲学も発展したため、オランダの世紀と呼ぶこともある。
 オランダ絵画の黄金時代を代表する三代巨匠ハルス、レンブラント、フェルメールは、いずれもイタリアには行っていないが、みな深くカラヴァッジョ様式の影響を受けている。
 レンブラントの絵「夜警」っていいですよね。ぜひ、一度現地に行って現物を拝みたいと思います。
 ゴッホの「聖月夜」も最後のところで紹介されています。夜の闇のなかに、くっきり光かがやくように描くのって、希望があっていいですね・・・。素敵な新書でした。
(2011年4月刊。1100円+税)

2011年7月22日

世界史をつくった海賊

著者  竹田 いさみ    、 出版   ちくま新書

 イギリス、昔の大英帝国は海賊と深いつながりがあったどころか、そのおかげで世界を支配してきたことがよく分かる本です。
世界経済を長く牛耳ってきたイギリスの金融街ザ・シティは、そもそも海賊出身者が金融を動かしてきたもので、海賊ビジネスの元祖である。
 フランシス・ドレークはイギリスを代表する超大物の海賊であり、スペインやポルトガルを相手に略奪の限りを尽くした略奪王にほかならない。このドレークは女王エリザベスⅠ世からないとの称号を与えられたが、それは略奪した財宝によってイギリスに多大の富をもたらしたことによる。
 スペイン支配下のカリブ海へ大量のアフリカ系黒人を密輸したのもイギリスの貿易商人だった。そのとき、エリザベス女王が権力者、黒幕、投資家として常に登場してくる。これらの出来事に深く関与し、先兵として働いていたのが海賊である。現在、保険会社として世界に君臨するロイズ、高級紅茶として知られるトワイニングも、かつては海賊と切っても切れない関係にあった。
 海賊はエリザベス女王時代の経済的基盤を支えただけでなく、いざ戦争となると特殊部隊として参加し、イギリスを戦争の勝利者へと導いた。海賊は国家権力と一体化していて、海賊の存在なくしてイギリスが世界史に残る偉業を遂げることはなかった。
 エリザベス女王にとって、海賊は利用価値の高い集金マシーンと認識されていた。エリザベス女王がドレークをひいきにした最大の理由は、ドレークが巨額の利益をもたらしたからである。少なくともイギリスに60万ポンドをもたらし、エリザベス女王は半分の30万ポンドを懐に入れた。当時の国家予算は20万ポンドだったから、実に3年分の国家予算に匹敵する海賊マネーをイギリスに持ち帰ったことになる。
ドレークは単なる探検家ではなく、海賊としての能力と実績がある。献上品の大半は盗品、主として、スペイン船から略奪した金と銀である。
 ドレーク海賊船団の生還率は高く、乗組員164人のうち100人が生還している。ドレークの略奪対象は、金と銀のコインや延べ棒が中心で、これに加えて大量の砂糖やワインを含んでいた。
 イギリスの海賊船団といえども、スペイン護送船団を襲うだけの力量はなく、護送船団の枠外で航行しているスペイン船を待ち伏せしてゲリラ的に襲撃していた。ドレークたちは、そのため綿密な情報収集を行っていた。イギリス側は、スペインのスパイが常駐していることを十分知り尽くしたうえで、策を講じていた。
 エリザベス女王が海賊に関与している証拠を残さないよう最新の注意が払われていた。ドレーク船団のなかでも、ドレークのみが航海の目的とルートを知っていて、情報管理に心がけていた。たとえ海賊シンジケートが失敗に終わっても、女王に責任が及ぶことのないよう、闇に葬られた。
 ドレーク海賊船団には、女王を筆頭に側近グループがこぞって出資しており、まさに国家を総動員した一大プロジェクトであった。
イギリスがスペインの無敵艦隊に勝利したのも、ゲリラ戦、スパイ戦、そして海賊作戦という三つの戦術をたくみに組み合わせることが出来たからである。ドレークたち海賊とイギリス王室海軍は一体化していた。
 西アフリカで調達した黒人奴隷をカリブ海のスペイン植民地にこっそりと、しかも組織的に密輸するルートを開発した主人公には大物海賊のジョン・ホーキンズだった。そして、ホーキンズの奴隷貿易計画を主導していたのは、ほかならぬエリザベス女王だった。イギリスが奴隷貿易に関与したのは1560年代であり、イギリス議会が奴隷貿易を廃止したのは1807年。奴隷の密輸は、そのあともしばらく続き、最終的に廃止したのは1833年だった。つまり、イギリスは16~19世紀、270年間にわたって奴隷労働を延々と行ってきた。この間、1000万人以上の黒人奴隷がカリブ海や南北アメリカ大陸に売却され、イギリス、ポルトガル、フランスなどは奴隷労働で潤った。貧しい二流国家であったイギリスが豊かな一流国家へと変貌する過程で奴隷貿易による利益が大きな役割を演じたことは疑いのないところだ。
 うひょう、イギリスって紳士の国というイメージがありましたが、実は海賊の国であり、奴隷商人の国だったのですね・・・・。
(2011年3月刊。760円+税)

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