弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
ヨーロッパ
2010年12月25日
古代ローマ人の24時間
著者 アルベルト・アンジェラ 、河出書房新社 出版
私は残念ながらイタリアにはちらっとしか行ったことがありません。北部にあるコモとミラノに行ったくらいで、ローマには行っていません。有名なポンペイにも行ってみたいのですが・・・・。
この本では、ローマ帝政時代のローマ人の24時間が再現されています。なるほど、そうだったのかと思うところが多々ありました。日の出前から話は始まります。
ローマの通りには照明というのもがまったくない。ローマは150万人もの人口をかかえる大都市なのに、夜明け前だけは静かなのだ・・・・、と思ったら、その次には、犬が遠吠えして、騒音が聞こえてきた。ローマは決して眠ることのない都市なのである。
紀元2世紀、ローマ帝国は栄華の絶頂期にあった。ローマ時代の裕福な家庭の夫婦は別々の寝室で眠るのが「優雅なこと」とされてきた。
ローマ人は、朝起きて、すぐに服を着替えることはしない、というより、寝るときにも服を脱がず、半分服を着たまま眠る習慣が広くみられた。昼のあいだ着ていたトゥニカが寝間着がわりになっていた。ただし、古代ローマ人は毎日浴場に通っていたし、ベッドに入る数時間前に身体を洗っていたから、清潔ではあった。通常、ローマ人の人々が公共浴場に行くのは昼食後である。
裕福な人々は、外出の際には、必ずローマ市民にとっての正装であるトガを着用した。
トガは、現在の「スーツにネクタイ」のようなものである。平均的なトガは、直径が6メートルもある半円形をしていて、トガをまとうときには奴隷に手伝ってもらう必要があった。ローマ市民だけがトガの着用を許され、外国人や奴隷・解放奴隷が着るのは禁じられていた。ところが、女性にとってトガは、姦通の罪を犯した印か、あるいは娼婦の服装なのである。
古代ローマ人は靴下を履いていない。
古代ローマにおいては正確な時計がなかったので、分や秒という単位は存在しなかった。時間は、常に一定ということではなく、季節によって異なっていた。
ローマ帝国では、どこでも最上階の借家人は乏しく、2階に住むのは裕福な者と決まっていた。
古代ローマでは、本質的に宗教は平等だった。侵攻の自由は帝国の安定のための重要な戦略となっていた。信仰の自由を認めることによって社会的緊張や反乱が避けられた。ただし、ローマ皇帝のためにも祭儀をおこなうことが条件とはなっていた。
ローマ帝国は、貧困層を中心とする市民の援助に力を入れていた。パンや小麦粉などの最低限必要な食品を無料ないし低価格で配っていた。15万から17万世帯、ローマ人の全人口の3分の1が配給を受けていた。
ローマ人の寿命は短く、男性は41歳、女性は29歳だった。女性は、出産時の死亡率が高かった。
ローマ市民は5人~12人の奴隷をかかえていた。農場になると、2~3000人という奴隷をかかえているところもあった。ローマ市民の多くが解放奴隷や元奴隷の子孫であった。
コロッセウムでは、最初に野獣狩り、続いて犯罪人の公開処刑、そして午後になって待ちに待った剣闘士どうしの戦いが始まる。この順番は、ローマ帝国のどこでも変わらない。
コロッセウムでは、下に行くほど社会的地位の高い人が座る。コロッセウムで、わずか3日間で2400人もの剣闘士が闘ったという記録もある。死刑囚と剣闘士たちが月に50~100人亡くなっていたとして、ローマ時代には27~50万人もの人々が死んでいった計算となる。どうぞ、続きは本を買って読んでください。なかなかに面白い本でした。
(2009年7月刊。2400円+税)
2010年12月18日
パリ・娼婦の館
著者 鹿島 茂、 角川学芸出版 出版
19世紀のパリの娼婦の館、メゾン・クローズ(閉じられた家)についての実証的な研究書です。この当時、パリにいた日本人の体験記も、ふんだんに引用されていますから、臨場感があります。
このころ、パリの娼婦について真面目に取り組まれた公的な調査の結果が紹介されています。それによると、娼婦になった原因の第一は、貧困と劣悪な家庭環境、第二は贅沢へのあこがれ。娼婦は、その性器が普通の女性と異なっているわけでも、性欲が異常に強いものでもなく、欲しているのは「愛」であることも明らかにされています。
パリの当局が娼婦についての規制を徹底しようとしたのは、性病とくに梅毒のまん延を防ぐ目的のためだった。
娼婦として体を張っても、客の払う50フランのうち、女主人が30フランを取り、自分の手には20フランしか残らない。これでは割りにあわない。女中の方がまだましと考える女性もいた。
娼婦予備軍をもっとも簡単にリクルートでできるのは、実は性病患者用の施療院だった。そして、そこで性病は感知しないまま退院していた。うむむ、なんということでしょうか・・・・。
高級なメゾン・クローズは、かつて王侯貴族や大ブルジョアの住んでいた大邸宅を改造したところが多かった。
メゾン・クローズでは、公開オーディション方式がもっとも一般的である。これに対して、日本では、どんなに破廉恥な風俗が普及しても、根本のところに羞恥と謙遜という美徳があるせいか、ずらりと整列した複数の娼婦のなかから一人だけ自分の好みの敵婦(あいかた)を選び出すという「公開方式」は採用されない。そして、このとき娼婦は、全員、靴だけははいている。これが娼婦としての「正装」であり、これで客と対峙するという礼儀があった。
女の子たちの勤務時間は午後2時から午前2時までの12時間。一晩に30人から40人の客をとる。客からもらったチップも店として折半する。
娼婦は、病気と弁当は自分もちの原則がある。娼婦の楽しみは食事だけだったから、食事は概して手の込んだ美味しいものだった。ここで、客にケチると娼婦が居つかないので、女将も食事にだけは気をつかっていた。
日本では、擬似恋愛を核としたキャバクラや高級クラブが単独で成立しているが、これは日本独特のものである。フランスに限らず、どの国でも、接待役の女性が横にはべるタイプの社交的サービス業は、これ単独で成立することは少なく、合法非合法の別はあっても、その後の客の要望をみたす直接的サービスを用意していた。二次過程のない一時過程というのは、欧米ではおよそ考えつかないような業態なのである。
うひょう、そうなんですか・・・・。ちっとも知りませんでした。
メゾン・クローズに住み込んでいる娼婦でも、2週間に一度は外出の許可を与えられ、その日は恋人かヒモと一緒にピクニックに出かけたり、ダンスホールで踊り明かしたりして楽しんだ。娼婦にとっては、恋人やヒモと外出する瞬間だけが、つらい「労働」に耐えるための生き甲斐となっていた。というのも、メゾン・クローズの生活は息が詰まり、単調な繰り返しの連続だった。そんな生活になんとか耐えていくには、ガス抜きが不可欠だった。
娼婦たちは、外出させないと逃げるし、外出させても逃げた。メゾン・クローズにとって、娼婦の外出は両刃の剣だった。
江戸・吉原の花魁の話と似ていますよね。私と同世代の著者ですが、よくぞここまで調べあげたものです。
(2010年3月刊。2500円+税)
私がパリに泊る時は、カルチェ・ラタンのプチホテルにしています。毎回ホテルは変えています。おかげでカルチェ・ラタンの通りには随分詳しくなりました。セーヌ川沿いには古本を売る露天商が並んでいますし、ノートルダム寺院も歩いてすぐのところにあります。見事なプラタナスの街路樹のサンジェルマンデプレ大通りもすぐ出たところにあります。
ルーブルもオランジュリーも、美術館には歩いて行けるのでとても便利です。そして、レストランもカフェーもたくさんあります。
2010年12月11日
パリが沈んだ日
著者 佐川 美加、 白水社 出版
今からちょうど100年前、パリは大洪水にあって、花の都パリが巨大な湖と化したのでした。その当時の写真が豊富に紹介されていますので、その大洪水のすさまじさがひしひしと伝わってきます。
セーヌ側のセーヌとは、ケルト語のゆっくりとした、緩やかなという意味に由来する。
パリ低地には、セーヌ川のほかにもう1本、ピエーヴル川が流れていた。ヴェルサイユ宮殿の所在地の近くに水源をもつ川で、水質も良く、流量は豊富だったので、パリの一部に生活水を供給していた。しかし、セーヌ川左岸の都市化が進むなかで、下水道の一部として組み込まれていって、1912年には、完全に暗渠となってしまった。
パリ市内を流れるセーヌ川には37本の橋がかかっている。昔は橋の上にも建物がたっていた。その常識を打ち破ったのは、いまもあるポン・ヌフ橋。1607年に完成した、この橋には橋上家屋は一軒もなかった。
パリに氷点下9度以下の気温が何日か続くと、セーヌ川は結氷し、セーヌ川がそのままアイススケート場になって、大人も子どももスケートを楽しんだ。うへーっ、セーヌ川でアイススケートをしていた時代があったのですか・・・・。信じられませんね。
パリ2000年の歴史には三大洪水がある。最高水位の第一位は1658年2月の34.86メートル。第二位は1910年1月の34.54メートル。第三位は1740年12月の33.95メートルである。
1658年の大洪水は、ルイ14世・太陽玉の治世のとき。当時のパリの町の半分が水に浸かった。1910年1月の大洪水のとき、被災した建物は2万、被害を受けたパリ市民は20万人に及んだ。ところが、この世紀の大洪水の死者は、わずか1人だけ。電報配達中に濁流にのみこまれた伍長一人だけだった。
いま、パリの大洪水を防ぐため、セーヌ川系の最上流に4ヶ所の貯水池がもうけられている。そして、大洪水になったときに備えて、たとえば、ルーブル美術館では収蔵品の大移動計画が立てられている。
花の都パリを、少し違ったしてんからとらえることのできる本です。
(2009年12月刊。1400円+税)
2010年12月 9日
ヒトラーとシュタウフェンベルク家
著者:ペーター・ホフマン、出版社:原書房
映画「ワルキューレ」は残念ながら見逃してしまいました。なるべく話題作の映画はみたいと思っているのですが、それなりに仕事をかかえていますので、なかなか思うようにはいきません。
この本を読むと、ドイツ国防軍のなかはナチス・ヒトラー一辺倒ではなかったことがよく分かります。少なくともヒトラーへの幻想がさめてからは、反ヒトラーの気分が横溢していたようです。それは、対ソ連戦で予想外に大敗してしまったこと、ユダヤ人の大量虐殺現場を見てしまった(知った)ことによるようです。
ヒトラー暗殺に失敗してしまったけれど、あと一歩で成功するところではあったシュタウフェンベルクは、ドイツの由緒正しい貴族出身でした。ヨーロッパでは現在なお貴族の家柄が生きているそうです。そのときの条件は背の高いことだそうですので、私などは、それだけでなれないというわけです。ずんぐりむっくりの貴族というのはいないのです。
ダンケルクからイギリス軍の逃走を許してしまったことについて、シュタウンフェンベルクは、マンシュタイン将軍の功績と考え、ダンケルク戦についてヒトラーを非難した。ヒトラーの誤った命令のせいで、敗走するイギリス軍を逃した。軽蔑をこめてヒトラーを非難した。ヒトラーについて、決して軍事専門家とは認めなかった。ただ、その軍事的才能は認めていた。
1942年5月、シュタウンフェンベルクは、ユダヤ人の大量虐殺を知り、ヒトラーを排除しなければならないと考えた。上級将校には、それを実行に移す義務があると信じていた。
1942年8月、シュタウンフェンベルクは親友のヨアヒム・クーン少佐に、ユダヤ人などへの扱いを見ると、ヒトラーの戦争が醜悪であること、ヒトラーが戦争の原因について嘘をついていたこと、したがってヒトラーは排除されるべきだと語った。
ただし、1942年にはドイツで1000人をこえる将兵が軍法会議で死刑に処せられていた。ヒトラー反対を唱えるのは、とても危険なことだった。
1943年4月、シュタウンフェンベルクはアフリカのロンメル軍団のなかにいて、イギリス軍の爆撃で倒れた。右手の手首から上を切断し、左手の小指と薬指、そして左目も切除しなければならなかった。
この年、1943年2月、ミュンヘン大学で「白バラ」グループの反戦活動が発覚し、首謀者たちは死刑(斬首)に処せられていた。
ヒトラーを打倒するには、精力的な中心組織と強力なリーダーシップが必要だが、それに欠けていた。
ヒトラーは、グデーリアン大将、クルーゲ元帥などを大金で買収した。
ヒトラーを暗殺したとの暫定的な元首・軍の最高司令官は、ベック大将が引き受けることになっていた。
ヒットラー暗殺を志願する若手の将校はたくさんいた。しかし、彼らはヒトラーに近づくことが出来ない。
シュタウンフェンベルクは、ヒトラー暗殺に成功したら、生きてベルリンに戻ってクーデターの指揮をとる必要があった。
ヒトラー暗殺計画はよく練りあげられていました。しかし、結局のところ、制度を運営する人間が肝心です。シュタウンフェンベルクは、すさまじいほどの緊張の下で生きていたようです。よくぞそれに耐えて実行したものです。
ヒトラー暗殺計画について、さらに少しばかり戦場感覚をつかんだ気がします。
(2010年8月刊、3200円+税)
2010年12月 3日
スウェーデンはなぜ強いのか
著者 北岡 孝義、 PHP新書 出版
スウェーデンは不思議な国である。国民の幸福感は、日本よりはるかに高い。税金の高い国なのに、国民からの反発は小さい。スウェーデンの国民は勤勉であり、労働生産性も日本より高い。福祉が行き届いた国なら、国民はやる気を起こさないはずなのにそうはなっていない。
国民の政治への参加意識は高く、4年に一度の国政選挙の投票率は、常に8割を超えている。実にうらやましいですね。日本は良くて6割、下手すると半分以下の4割の投票率という低迷ぶりです。これでは日本は良くなりませんよね。あきらめていたら、いつまでたっても政治はいい方へは変わりません。ところが、今の日本は議員を減らせの大合唱ばかりです。マスコミも大きく唱道しています。国会も地方議会も、どんどん議員を減らせというのです。少数異(意)見の尊重どころじゃありません。そして、公務員の人数を減らせ、その給料が高すぎるというばかりです。いやになってしまいます。大企業の経営者が何億円というべらぼうな報酬をもらっていても、まったく問題にはしないのです。おかしな話です。
オンブズマン制度は、スウェーデンでは国営である。これまた驚きですよね。
教育や医療サービスの分野で、スウェーデンは市場の機能は使われない。原則として、学校や病院は公立か国立であり、政府が運営している。スウェーデンでは、ながく社会主義政権が政権をにぎってきた。しかし、同時に国王をいただいてもきた。しかも、その国王の先祖はフランス人なのだ。ナポレオン配下のフランス人ベルナドッテ将軍が、時のスウェーデン政府に頼まれ、カール14世としてスウェーデン王国として即位した。いやはや、なんと・・・・。
スウェーデンは、1995年にEUに加盟したが、ユーロは導入していない。
スウェーデンの消費税は25%。医療費は、20歳以下なら原則として無料。20歳をこえても年間の医療費は上限で1万2000円。これはタダ同然ですね。教育費も原則として大学はもちろん、大学院まで無料。そのうえ、月額1万3000円の児童手当、託児所の無料化がある。
スウェーデンの福祉は、育児、教育、医療、老人介護は、原則として個人の負担ではなく、国の負担であるという理念にもとづいている。スウェーデンでは女性が働くことが奨励されている。そのため、ソフトとハードの両面の政策が実行された。ソフト面では、女性が社会で働くことはいいことだという徹底した意識改革をすすめた。ハード面では、女性の就業を支援するための経済支援、環境整備である。なーるほど、そうなんです。日本でも少子化対策が必要だというのですから、この二つが欠かせません。
現在のスウェーデン社会では、離婚は普通のことであり、男女の同棲、母子家庭、父子家庭、片親の異なる兄弟・姉妹はまったく一般的な現象である。スウェーデンの子どもは、このような家庭環境で育つ。だから、個性が強く、精神的に自立心の強い大人に育つのは、しごく当然のことである。うむうむ、そういうことなんですか、なるほどですね。
スウェーデンという国を知ることによって、日本社会の変革の方向、目指すべき道も明らかになると思いました。
(2010年8月刊。0円+税)
2010年12月 2日
ギリシャ危機の真実
著者 藤原 章生、 毎日新聞社 出版
ギリシャには行ったことがありません。パンテノン神殿とか、一度は行ってみたいと思ってはいるのですが、少しは言葉の分かるフランスにどうしても魅かれてしまいます。
それでも、先の選挙のとき日本がギリシャのようになってはいけないというキャンペーンが自民党や財界筋から出てきましたので、ギリシャの国の実情を知りたいと思って読んだのでした。この本を読んでギリシャの国の一端が少し分かった気になりました。ギリシャって、日本とはかなり異なった国家と国民性がある。つくづくそう思ったことです。
まず第一に、ギリシャの公務員の総数を政府も把握しきれていないというのです。これには驚きというより、呆れてしまいました。
公務員は選挙のたびに増え、2009年は2000年に比べて3割増の114万人になった。これは労働人口の21%、雇用者の3分の1に及ぶ。ところが、これは推計であって、実数は政府もつかめていない。
新たな政権ができると、閣僚の顧問や局長職は総入れ替えになり、閣僚や次官などの政治化が好きなように身内や友人などをそのポストに就ける。このときに臨時雇用だったはずが、いつのまにか正規雇用になっていて、政権が交代しても解雇されない。
官僚の給料は安いので、副業にいそしむ人は多い。これは民間企業でも同じこと。無税で働く非公式のお金、闇経済の社会がギリシャにはある。
そして、ギリシャの総計はまったく信用できない。実に怪しい数字をもとに算出されたマクロ経済の総計だけでこの国の実態は語れない。
ギリシャでは、政治すなわち公職を得る手段だと思われてきた。特権層に集中していた悪習を、パパンドレウ父首相は、左派の庶民にまで広げてしまった。ギリシャでは縁故主義が根強い。
ギリシャ共産党の得票数は1割でしかなく、議会政治のなかでは、決して主流になれない。しかし、ギリシャでは共産党員は孤立しておらず、庶民の中にふかく浸透している。
ギリシャ共産党は、庶民の目から見れば、訳の分からないこと、実現しそうもない理想をうたう人々である。しかし、困ったときに、また自分が国の犠牲になったときには親身に相談に乗ってくれる相手である。
共産党の古臭いスタイルのデモに、ごく一般の穏健な人々から極左まで参加している。そこには、レジスタンスを率いながら、戦後いい目にあえなかった被害者としての歴史がからんでいる。ギリシャ共産党は、主流のプレーヤーにはなれないが、庶民を動かし、世界に国のイメージを植えつける社会の一つのツールとしては機能している。
ギリシャ人は現状にすぐ慣れる。そして変化には強い。今回の危機など、長い歴史の中でみると大したことはない。周りが騒ぎ過ぎているだけ。
何を言われようと、どれだけ困ろうと、頑固にギリシャ人は生活スタイルを変えようとしない。ギリシャ人は、したたかで図太い。ギリシャ人は、ドイツ人のようなあくせくした生活を嫌っているようです。でも、決して怠けを好んでいるのではありません。だって、2つも3つも副業して働いているのですからね・・・・。世界はなかなか広いですよね。
(2010年8月刊。952円+税)
2010年11月17日
私たちが子どもだったころ、世界は戦争だった
著者:サラ・ウォリス、スヴェトラーナ・パーマー、出版社:文芸春秋
大変貴重な労作だと思いました。今の日本にも、たとえば北朝鮮に先制攻撃しろと勇ましく叫ぶ人は少なくないわけですが、実際に戦争になったときに何が起きるのか、想像力が欠けているように思われます。この本は、子どもとして戦争の悲惨さを体験した手記が集められています。それも、対立する陣営に所属する子どもたちが書いていますので、実によく置かれた深刻な状況が分かります。今の日本で、一人でも多くの人に読んでほしいものだと私は思いました。
手記といっても、立派な個人日記帳に書いた子だけでなく、読んだ本の余白にびっしり書き込んだ子もいるのです。そして、戦時下に飢え死にした子、特攻隊になって海のもくずと消えてしまった青年など、手記を書いた子が戦後まで生き残ったとは限らないのです。
たとえば、ナチス・ドイツのイデオロギーに心酔していた子どもが次第に厳しい現実に直面させられていく様子。ナチスの残虐な支配の下でレジスタンスに身を挺する子どもの生活。この本は、それら両面から紹介していますので、人間社会の複雑さを理解する一助にもなります。
18歳の東大生(一高生)は、12月8日の開戦日の翌日、次のように日記にしるしました。
どうも皆のように戦勝のニュースに有頂天になれない。何か不安な気持ちと、一つは戦後どうなるのか、資本主義がどうなるかも気になる。友人は戦争が始まってサッパリしたというが、とてもそんな気持ちにはなれない(8月9日)。
戦争?戦争が何だ。そんなものにうつつをぬかすから、犠牲者が出るのだ。人間、戦争なんかに精力をつかうほど馬鹿げたことはない。
現在、皇恩の下にこの帝国に生活して豊かに生きることのできる僕は、御召とあれば赴くことを否むものではないし、戦争などに押しつぶされるほど弱い心ではないつもりだ。しかし、僕は断固として反戦論者として自らを主張する。戦争を除くことに努力するつもりだ(12月15日)。
すごいですね。こんなことを日記に書いていたのですね・・・。
今日、戦争についてパパと話した。この状況では、ドイツは戦争に勝てない。この事実を直視しようとしないのは、弱さの表れというものだろう。
もうドイツに勝ち目はないとだれもが思っている。パパは、敗戦がそんなに絶望的なことだとは考えていない。アメリカの監督の下、ドイツは西側諸国によって共和国につくり変えられるだろうとパパは信じている。パパもママも平和になることだけを望んでいる (1944年1月2日)。
だけど、ドイツがアメリカの家来になるのだろう。それくらいなら死んだほうがましではないか・・・。本当に、この戦争は、とてつもなく無意味で狂っている。ドイツ人がすでに敗北を確信しているのに、前線ではまだみんなが殺されているのだから。それでも脅えているのは、あの狂ったヒトラーの意思の深さが予見できるのだからだ。ヒトラーは、自分自身の国の将来に対して、あまりに無責任だ(1944年7月25日)。
ああ、神よ。あなたは、どうして許しておられるのですか? やつらは神は常に中立の立場におられるなどと言うのを。
私たちを破滅させようとする者たちになぜ天罰をおくだしにならないのですか?
私たちが罪人で、彼らが正しい者たちなのですか?
それが真実なのですか?
あなたは聡明なお方ですから、そうではないことぐらい、きっとわかっておられるはずです。私たちは罪人ではなく、彼らは決してメシア(救世主)ではないことぐらい!
(1944年8月)。
これは氏名不詳の少年の最期の言葉です。
1944年8月6日、ナチス・ドイツは最後のユダヤ人の強制移送を始めた。6万7千人あまりの青年男女がアウシュヴィッツに送られ、半数以上はガス室に直行させられた。この少年の日記は、終戦後に発見されたものです。
1945年4月12日。ベルリンのみんなが自分の意見をあけすけに口にしていることには、まったく驚いてしまう。ほとんどが反ナチスの意見だ。ゲシュタポの恐怖にもかかわらず、もう誰もが意見を言うことを恐れていない。他人を密告する人間は、もう一人もいないからだ。そんなことをしたら、あとでアメリカ軍かソ連軍に捕まって処刑される、と誰もが思っている。
ただ、理解できないことは、それならどうしてドイツ人は、ナチスの圧政にもっと前から抵抗しなかったのか、ということだ。単に親衛隊が怖かったからだろうか。ドイツ国民は臆病者ばかりなのだろうか。きっとそうなのだろう。ドイツ国民がこれほど無神経になったのは、空襲の恐怖のせいもあるかもしれない。今では、誰もがナチスを憎み、ナチスの支配が終わってくれたらと願っている(1945年4月12日)。
ナチス・ドイツに加担した子ども、その被害にあったユダヤ人やポーランドの子どもたち、日本人で反戦思想の持ち主でありながら、特攻隊員となって戦死した大学生。さまざまな子どもと青年の手記によって戦争の残酷さが身にしみて伝わってきます。
一人でも多くの人に読んでもらいたい本です。
あとがきに、戦争中にも、実に多彩な青春があり、思春期があった。戦時下で大人になるとはどういうことなのか、読者は、あの戦争の意味を多面的にとらえることができるという指摘があります。まったく同感です。
(2010年8月刊。1900円+税)
2010年10月13日
カチンの森
著者:ヴィクトル・ザスラフスキー、出版社:みすず書房
スターリンって、本当にひどい男ですね。許せません。こんな独裁者を許した国民はどういうことなんだろうと思いますが、そうはいってもヒトラーに追従したドイツ国民、そして、我が日本では天皇制と軍部が日本国民を戦争へ駆り立てていったのですから、狂気というのは、どこの国でも起きてしまうものかな・・・、と悲観してしまいそうです。
でもでも、それにしても事実を直視することがまず第一ですよね。この本には、カチンの森で虐殺され、埋められたポーランドの将兵の遺体発掘現場の写真が冒頭のグラビアにあります。目をそむけたるなる写真ばかりです。
1940年4月と5月、ポーランドの市民、将兵2万5000人以上がソ連の秘密警察(NKVD)によって銃殺され、埋められた。
ソ連がナチス・ドイツと相互不可侵条約を結び、東部ポーランドをソ連が占領したときに捕われていた人々である。
スターリンは、カチン虐殺事件をもみ消し、ドイツ国防軍の責任になすりつけようとして、史上空前の偽造・隠蔽・抹消の大宣伝工作を展開した。
ポーランド分割によって、ソ連は領土の52%、国民の3分の1を獲得した。そのなかには25万人の将兵が捕虜となった。
ポーランド捕虜の扱いについて、NKVDは、ソ連強制収容所の数百万人の囚人を管理して得た豊富な経験を最大限に活用した。自国民のために強制収容所を組織してきたソヴィエト国家の弾圧機関が20年にわたって蓄積した経験のすべてが簡潔に凝縮された指令を発した。
1940年3月には、ポーランド将校を処刑する決定が下されていた。ソ連の政治局は、ベリヤとウクライナ共産党第一書記のフルショフが共同で提案したものを承認した。
彼らは、全員ソヴィエト制度を憎むソ連の不倶戴天の敵なのである。
1940年3月5日、ソ連共産党政治局の7人の局員、スターリン、モロトフ、ベリヤ、カガノーヴィッチ、ヴォロシーロフ、カリーニン、ミコヤンはNKVD機関に対し、2万5700人のポーランド戦争捕虜を特別手続き、つまり裁判手続きなしに処理(銃殺)するよう命じた。
つまり、ソ連の指導者は、ポーランド独立のための戦いでポーランド人を指導できる者は、誰彼とわず抹殺する決意だった。
ソ連は、ポーランド将校たちを脅迫・強 ・約束で再教育し、ソ連に協力させようと努力したが、わずか24人を除いて、他はみな将来ソ連軍と戦う危険があると判断した。
ポーランドの「地域活動家」は、追放の過程で、追放された者の財産を着服することが認められることを期待して、大いに張り切ってソ連に協力した。
いやあ、どこの国にも、こういう人は少なからずいるのですよね・・・。
ポーランド共産党の指導者は全員、民族主義ないし国際共産主義運動への裏切り者とされて銃殺された。
ですから、イデオロギーの問題というより、ソ連のスターリンなどの一部の支配者の保身のためだったのではないでしょうか・・・。
1943年4月、ナチス・ドイツはカチンの森のポーランド将兵の虐殺遺体を発見して、ソ連の仕業だと宣伝を始めた。この1943年春には、戦局がドイツ軍に不利になっていたので、絶好の宣伝機会として最大限に利用しようとした。
ソ連は1941年夏に虐殺があったと発表した。しかし、現場を観た特派員たちは、遺体が冬服を着ているのに気がついていた。
西側政府(イギリスやアメリカ)の積極的な助けがなかったら、ソ連は半世紀ものあいだカチン虐殺が自らのものであることを隠し通せなかっただろう。西側政府は、入手していた情報を隠蔽し、事件を握りつぶそうと全力を尽くした。アメリカ政府は1950年代はじめまで、イギリス政府はソ連政権の崩壊まで、この態度を変えなかった。
チャーチルは、「この問題には取り組まない方がよいと決定し、カチンの犯罪は突っこんで調査されることは決してなかった」と回想録に書いた。
フルシチョフは、スターリン時代の犯罪に自分が結びつかないよう全力を尽くした。しかし、カチン事件でのフルシチョフの個人的責任は明白である。
処刑は、NKVDの銃殺執行隊によってなされた。ほとんどの犠牲者は、後頭部の正確な個所を狙って、一発の弾丸で殺されている。拳銃と十段はドイツ製のものがつかわれていた。
殺された捕虜たちは、静かに死地に向かった。死は予想外のことだった。
該当者が呼び出されると、隊伍を組んで収容所を出て鉄道駅に向かった。その多くは釈放されるとの期待から嬉々としていた。
しかし、この撤収が処刑を意味していたのは、捕虜を除いて、収容所の職員はみな知っていた「秘密」だった。
カチン虐殺にかかわったソ連側の加害者は4桁にのぼる相当の人数になると思われるのに、目撃証言は出ていない。沈黙の掟が支配している。
処刑人たちは、銃殺が終わると、食堂車で大宴会だった・・・。
NKVDのブローヒンは1926年にスターリンの目にとまり、少将にまで昇進した。26年間のうちに数万人を自分の手で処刑したのが自慢だった。
カチン虐殺を実行したNKVD処刑人たちは、勲章をもらい、加俸された。
ソ連が崩壊して20年たっても、だれ一人として罪を問われていない。
1943年3月、ドイツ軍がカチンの森でポーランド将校の遺体を発掘しなかったら、完全犯罪のままになっていた可能性もある。
カチン事件を闇に葬り去るわけにはいかないと思わせる、貴重な労作でした。ポーランドの自主独立の回復を願いながら無念の思いで倒れた人々をしのび、襟を正しながら読み通しました。
(2010年7月刊、2800円+税)
遠野に行ってきました。昔話で有名な、あの遠野です。実は10年ほど前に、花巻から電車に乗って行きかけたことがありました。遠くて時間がかかるのが分かって、途中で引き返したのです。今回は親しい弁護士たちとのバス旅行でした。遠野は小さな町ですが、何箇所かある見るところは結構離れていて、全部を歩いて見て回るのは大変です。1泊はしてゆっくり見て回るだけの価値はあるところです。
まずは遠野の昔話を聞きました。100人ほども入りそうな小さなホールで、幸い一番前のかぶりつき席に座ってじっくり語り部の話を聞くことができました。語り部は老婆と言ったら失礼にあたる中高年のおばちゃんです。小さな舞台に一人番台に腰掛け、少し早口の遠野弁で語ります。私は半分ほどしか聞き取れませんでした。座敷わらし、雪女、とうふとコンニャクの話です。あとで遠野物語の本を読んだのですが、やっぱり半分しか分かりませんでした。語り部によると、修学旅行で来た生徒たちはさっぱり分からなかったという感想が出ることも多いそうです。無理もありません。
昼食は、遠野地方の野趣あふれたお膳でした。サンマと牛肉の組み合わせにミソをつけ、ほおの葉でつつんだものが出ました。デザートに山ブドウとアケビが出てきました。どちらも少し酸っぱく、自然そのものの味がして、子どものころを思い出させます。アケビの皮に詰め物をした料理が、前日の夕食に出ました。アケビの皮は食べられないとおもっていたところ、京都の川中夫人が店の人に尋ね、アケビの皮まで食べられるということを教えてもらいました。なんでも訊いてみるものですね。
遠野ではお祭りがあっていました。広場で子どもたちの可愛い踊りを見たあと、お祭りがあっていました。広場で子どもたちの可愛い踊りを見たあと、博物館へまわりました。水木しげるの妖怪マンガもあります。愛らしい河童が登場するのです。かやぶき屋根の曲り屋を伝承園で見たあと、歩いてカッパ淵に回りました。お寺の裏に流れる川は、いかにもカッパが出てきそうな雰囲気です。清流にキュウリをつけた釣り竿が仕掛けてあります。カッパをこれで釣ろうというのです。
遠野は昔話が現代に生きている町です。
2010年10月11日
卵をめぐる祖父の戦争
著者 デイヴィッド・ペニオフ、 早川書房 出版
ナチス・ドイツに包囲され、飢餓にあえぐレニングラード。その戦いの規模は『攻防900日-包囲されたレニングラード』(早川書房)で詳細に紹介されています。この本は、そのレニングラード防衛戦の実情を、ソ連軍からの「脱走兵」とされてしまった二人の若者の奇妙な戦争を通して浮きぼりにします。なるほど、小説って、こうやって悲惨な戦争の実態を読み物にしてしまうのですね・・・・。
飢えに苦しむレニングラード市民、地雷犬の無残な死など、戦争の悲惨さがリアルに描かれている。ソ連政府の発表でも、100万人もの市民が生命を落としたレニングラード攻防戦。それでも、ナチス・ドイツに征服されることなく、守り抜いた。その陰には、多大の犠牲があった。しかし、レニングラードを防衛する軍の上層部には、娘の結婚式のためにケーキが必要だ、そのために卵を1ダース調達してこいと命令するくらいの余裕はあった。卵1ダースを調達するために、二人の若者が戦場へ生命かけて探しまわる。そんなお話です。なんともまあ、悲惨な状況での、おとぼけた話の展開ではあります。
戦場の奇妙な現実を、それなりに反映しているのだろうなと思いながら、ついつい引きずりこまれて読了しました。
(2010年8月刊。1600円+税)
2010年9月27日
サラの鍵
著者 タチアナ・ドロネ、 新潮クレスト・ブックス 出版
久しぶりに、読んでいる途中から涙が止まらなくなりました。沖縄からの飛行機のなかで読んでいましたが、隣の男性を気にせずハンカチで涙をしきりに拭いてしまいました。
大変なストーリー・テラーだと驚嘆しました。あなたにも強く一読をおすすめします。
第二次世界大戦が始まって4年目、1942年7月16日の早朝、パリ市内外のユダヤ人1万3152人が一斉に検挙され、パリ市内にあったヴェロドーム、ディヴェール(冬の自転車競技施設。屋内競技場)に連行され、押し込められた。そこには4115人の子どもたちも含まれていた。トイレも使えず、満足な食事も与えられないまま、6日間、この競技場に留め置かれたあと、彼らのほぼ全員がアウシュヴィッツに送られ、殺された。戦後、生還できたものは400人足らずでしかなかった。大人と違って、子どもたちは選別されることもなく、死に直行させられたのでした。
誰が、この一斉検挙を企画し、実行したか。当時、パリはナチス・ドイツ軍に占領されていた。フランスのヴィシー政権は、ユダヤ人身分法を成立させるなど、ユダヤ人を迫害していた。この一斉検挙も、フランス警察が立案し、実行したのだった。
1995年7月16日、シラク大統領(当時)は、この事件について国家として正式に謝罪した。53年前に450人のフランス警官がユダヤ人の一斉検挙を行い、彼らを無残な死に追いやったことをはっきり認め、それを謝罪した。
シラク大統領の演説を聞いて、この事件をはじめて知ったというフランス人も少なくなかった。1961年生まれの著者(当時34歳)もその一人だった。学校では教えられなかったこの事件を聞いてショックを受けた彼女は、もっと事件のことを知りたいと思い、調べはじめた。子どもたちのたどった悲惨な運命を決して埋もれさせてはいけないという使命感が膨らんでいった。そして、単なる歴史書ではなく、その悲劇を現代に生きる我々の胸によみがえらせ、我々のドラマとして共有しようと思った。その思いが見事に結実した小説です。
この日、警官に連行される直前、10歳の少女サラは弟のミシェルを姉弟だけの秘密の納戸に隠し、鍵をかけた。「あとで戻ってきて、出してあげる。絶対に」と言って。しかし、サラは訳も分からないうちに強制収容所に入れられ、両親とも離れ離れにさせられた。パリの自宅に戻るどころではない。しかし、奇跡的にも脱走に成功し、ついにパリの自宅に戻ることが出来た。そして例の網戸を開けたときにサラが見たものは・・・・。
ユダヤ人一家を追い出したあと、「何も知らない」フランス人の家族がそこに移り住んでいます。そして、元の所有者であるユダヤ人の娘が登場したときに・・・・。
過去の忌まわしい出来事を今さらほじくり返して何になるのか、そんなことは忘れ去ったほうがいいだけだ・・・・。
フランス人の夫をもつアメリカ人ジャーナリストである主人公が事件を調べはじめると、そんな非難がごうごうと夫の家族から湧きあがってきます。それでも調査をすすめていと・・・・。いくつもの意外な展開があり、予断を許しません。次の展開を知りたくて、頁をめくる手がもどかしくなります。
自分の親が若いときに何をしていたのか。これって、自分とはどういう存在なのか、それを考えるうえで欠かせないものではないでしょうか。10代のころの私は、恥ずかしながら、まったく親を凡愚の典型としか見ていませんでした。今思うと、顔から冷や汗が噴き出しそうです。30代になって、少しは親を見直しました。40代になったとき、親の生きざまをインタビューしはじめ(録音もしました)、その裏付け調査をして、生い立ちとして文章化していくなかで、日本の現代史が私にとって身近なものになりました。親を人生の先輩として評価することもできました。
父の場合は、朝鮮半島から徴用労働者を日本へ連行するという、日韓・日朝関係では避けて通れない蛮行に、三井の「労務」担当として従事していたのでした。
母の異母姉の夫(中村次喜蔵)は第一次大戦中に青島(中国)にあったドイツの要塞攻撃に参加して手柄をあげ、かの有名な秋山好古(日露戦争のとき、騎兵を率いてロシア軍を撃破)の副官にもなり、終戦時には第112師団の師団長(中将)として満州で愛用の拳銃をもって自決したことまで分かりました。偕行社に調査を依頼して判明したのです。
日本人は戦争被害者であると同時に加害者でもある。このことを親のことを調べていくうちに実感させられました。いずれも簡単な小冊子にまとめたところ、これを読んだ甥が感動したと言ってきました。
父の弟は応召して中国大陸に渡り、終戦後は、八路軍に技術者として何年間か協力させられました。国共内戦のなか、満州を八路軍とともに転戦したのです。このことを調べるなかで、百団大戦とか国共内戦の実情などが身近なものになりました。
日本は、歴史的事実に対して今なお率直に認めず、中国や朝鮮、韓国に対してきちんと謝罪していないと私は思います。むしろ、開き直ってさえいます。自虐史観とかいって事実直視を非難するのはあたりません。事実は事実として認め、過去の事実から現代に生きる我々は何を教訓として学び、今日に生かすべきか、もっと冷静な議論が必要に思います。
あなたは、自分の親がその若いころ、何をしていたか、どんなことを考えていたか、ご存知ですか? それを知りたいと思いませんか。
ちなみに、私の亡父は大学生のころ法政大学騒動の渦中にいたようです。三木清がいたころのことです。私も東大「紛争」のとき、大学2年生でした(私は当事者の一人として、紛争とは呼びたくありません)。じっくり読んで、人生を考えてみるのに絶好な本です。
(2010年5月刊。2300円+税)