弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
ヨーロッパ
2009年3月20日
ミレニアム1(下)
著者 スティーグ・ラーソン、 出版 早川書房
衝撃の結末です。その内容は読む人の楽しみを奪ってしまいますので、紹介を遠慮しておきます。上巻につづいて、ハラハラドキドキの展開が続き、意外な犯人、予期せぬ真相が語られ、舞台は国際的になるとだけ言っておきましょう。
オビの文句、幾重にも張り巡らされた謎、愛と復讐、壮大な構想で描き上げるエンターテインメント大作、というのは、大いにうなづけます。面白さいっぱいの本でした。
主人公は、スウェーデンの刑務所に2ヶ月間収監されるのですが、週末の外出許可というくだりにはあっと驚きました。刑務所内にはジムがあり、休憩時間には仲間と賭けポーカーをしたりします。そして、独房内にパソコンを持ち込んで本の執筆にいそしむのです。
末尾についている解説を紹介します。
アガサ・クリスティーが得意とした閉ざされた孤島という設定を大きく拡大し、スケールの大きな不可能状況下での人間(少女)消失事件。死者からの贈り物、暗号解読、連続殺人、見立て殺人など、ミステリ趣味が次々に描き出される。
さらにスウェーデンという国のかげの部分を指摘する社会派色も強い。とりわけ暴利をむさぼる実業家や金もうけ至上主義が容赦なく糾弾される。
本書の最大の特徴は、全篇にみなぎるジャーナリストとしての気骨である。著者は雑誌ジャーナリズムの出身だけあって、権力的なモノや巨悪に対して不屈の精神を持っている。
私も、スウェーデンの「刑事マルティコ・ベック」シリーズ(マイ・シューヴァルとペール・ヴァールー)は読んでいますが、このシリーズより一段と味わい深いものがあると感じました。
さあ、あなたも読んでみてください。
今朝、庭に出てチューリップの咲いている花を数えてみると、28本ありました。まだ庭のあちこちにポツポツ咲いているという感じです。近所の桜も花を咲かせ始めました。日本のソメイヨシノが全国的に老木となっているそうですね。心配です。
(2008年12月刊。1619円+税)
2009年3月15日
ディファイナンス
著者 ネハマ・テック、 出版 ランダムハウス講談社
ナチスに占領されたベラルーシでナチスと戦い、ユダヤ人1200人とともに森の中を生き抜いたユダヤ人3兄弟の話です。この実話が同じタイトルで映画となりましたので、私も福岡の映画館で観ました。この本を読むと、ユダヤ人3兄弟には問題行動もあったようですが、それでも同じユダヤ人といっても階層も考え方も違う1200人もの人々をまとめて生き延びたことは偉大な成果だったことは大いに評価されてよいと思いました。
ユダヤ人もただナチスに殺されていった人たちだけではなく、銃を持って戦った人たちもいたわけです。でも、そこにも問題がありました。
主人公のトゥヴィアは、他の何よりも重要なのは同胞(ユダヤ人)を助けることだ。20人のドイツ人を殺すことより、1人のユダヤ人の命を救うことのほうが大切だ、と強調した。
しかし、人々は生き延びたいから森にやって来た。子どもや女、武器を持たない男たちの数が増えることは、お荷物が増えるということでもある。森の中に全員にいきわたるだけの食料が果たして確保されるのか。だから、役に立たない人たちを切り捨てたいと考えるものもいた。
ところが、トゥヴィアは、武器を持っているか、戦闘力があるかどうかに関係なく、基地にたどり着いたあらゆるユダヤ人を迎え入れた。しかし、部隊の規模拡大は、内部の緊張を生み出した。
メンバーの4分の3が年寄りと子供だった。武装した青年や武器を扱える人びとは20~30%だった。大半はあまり教育を受けていない人々だった。上流または中流階級の出身者はごく少数しかいなかった。この少数派の大半は、女性だった。
ナチスの虐殺の初期のターゲットは、ユダヤ人エリートたちであり、ユダヤ人指導者の中で逃げ切れた人はごく一部だった。そして、彼らは都市生活者だったので、森の中での暮らしを選んだ人はほとんどいなかった。
食事について、原則として全員が同じ分量と種類の食事がもらえるはずだったが、実際にはそうはいかなかった。2種類の炊事場が作られ、一つは司令部と3兄弟一族用、そしてもう一つは残りの人々用とされた。
公平でいるのはとても難しかった。3兄弟と家族は、ロマノフ王朝と呼ばれていた。そんな証言もある。
単純で平凡な若者たちが、戦争前なら手の届かない存在だった社会的地位を持つ女性をたやすく手に入れることができた。女性たちは自分を守ってくれる男性と出会い、生き延びる道を選んだ。
ユダヤ人部隊は、ソ連のパルチザンとも提携していたが、反ユダヤ主義の影響を受けているソ連のパルチザンとは、かなりの緊張関係にもあった。この点は、映画にも反映されています。
ポーランド人のパルチザンは、ソ連の支配下にはいるのを嫌った。ナチスと戦う点では一致しても、内部には複雑な状況があった。こんなこともこの本を読むとよく分かります。
そんな難しいなかで、よくぞ1200人ものユダヤ人がまとまって生き延びたものです。工場があり、学校があり、刑務所まであったというのです。たいしたものです。
(2009年1月刊。1500円+税)
2009年3月14日
ミレニアム1(上)
著者 スティーグ・ラーソン、 出版 早川書房
スウェーデン発の小説です。全世界で800万部も売れているとオビに書かれています。読み始めのうちはそんなに面白いのかなあ、なんて冷めた思いでしたが、途中からぐいぐいと引きずり込まれてしまいました。すごい筋立ての本です。まだ上巻ですし、ミステリー本なので、アラスジの紹介は控えておきます。オビに書かれているキャッチコピーだけ紹介します。
孤島で起きた少女失踪事件の謎、富豪一族の闇、愛と復讐……。
そうなんです。いろんなものが絡み合って同時進行していくのです。次第に、どのシーンも目が離せなくなり、これが別の話とどう絡んでいくのだろうかと半ばの期待をかきたてられていきます。
孤島での少女失踪事件といっても、昨日今日の話ではありません。40年も前のことなのです。そんな古い失踪事件の真相究明を主人公が頼まれて動くことになるわけですが、いくらなんでも、今さら分かるはずもありませんよね。ところが、富豪一族の内部では、親ナチと反ナチと、深刻な反目があったことも次第に判明していき、なんだか手がかりらしきものが浮かび上がってくるのです。
今から40年前と言えば、私がちょうど大学2年生のころでした。長期のストライキに入って授業はなく、毎日、デモと集会に明け暮れていました。それでも本だけは一心不乱にいつも読んでいました。友人たちとも大いに議論をしていましたので、教室が野外にあったようなものだと今になって思います。といっても、真面目に勉強しなかったことの痛みは、今に至るまで自分の心底奥深い所にうずいています。なので、毎朝フランス語を聴いて学生気分を味わっているというわけです。
この本は、人口900万人のスウェーデンで、なんと、3部作が合計290万部も売れたというのですから、大変なものです。ところが、残念なことに著者は50歳の若さで心筋梗塞でなくなってしまいました。第4部の原稿が200ページほどパソコンに入ったままになっているそうです。なんと……。下巻が今から楽しみです。
それにしても、スウェーデンって、性について本当におおらかな国のようです。小説の中に出てくる話ではありますが、日本ではとても考えられないような気がするほど、大人も若者も男も女も伸び伸びと性を楽しんでいる気配です。
庭に土筆が頭を出していました。いつもと違った場所でした。赤紫色のチューリップの花が10本になりました。毎朝、庭に出るのが楽しみです。
(2008年12月刊。1700円+税)
2009年3月 3日
貧困にあえぐ国ニッポンと貧困をなくした国スウェーデン
著者 竹﨑 孜、 出版 あけび書房
社会問題の事後処理方法としての貧困対策に追われていたのが旧来の福祉政策であった。それでは税金をいくら注ぎ込んだところで問題の解消にはほど遠く、際限のない政治をやめるほうが得策だとスウェーデンが思いついたのは、発想の大転換だった。
いち早く雇用や労働を重視した政治が積極的に展開されてきた。豊かな生活へ近づける労働政策を重視して、貧困を根絶する急がば回れの方式へとスウェーデンの政治は方向転換した。
そうなんですよね。今の日本のように、正規か非正規かを問わず、労働者が大々的に首切られ、寒空にあてもなく放り出されてしまう政治の下では、貧困がなくなるはずもありません。貧富の格差がますます拡大するばかりです。日本の深刻な首切り旋風のひきがねをひいたトヨタとキャノンの責任は重大です。あれで、日本の内需は大打撃を受けてしまったのです。膨大な内部留保を株主にしか回さないなんて、根本的に間違っています。そして、自公政府が雇用確保についてあまりにも生ぬるい手を打たないことには怒りを覚えます。
スウェーデンは、貧困をなくした生活大国である。スウェーデンでは、生活保護受給者は職のない若者がほとんどで、生活に困ったらすぐに受給できる。そして、短期のうちに自律できる。ところが日本では、働く能力があれば生活保護をもらうのが大変困難です。そして、そのことがかえって自立を妨げています。
年金は国民を区別しない平等な仕組みであり、財源も租税により、保険料には頼っていない。お年寄りを大切にしない日本の政治は、根本的に間違っていますよ。
政府は大きいよりも小さい方がいいという主張は、アメリカとイギリスだけの話で、日本はこの2国を追随しているにすぎない。しかし、ほんとうに小さい政府でいいのか?
そんな小さい政府を目指しているはずの日本の国が抱える借金は、1996年に340兆円、2000年に500兆円、2004年に750兆円、2005年にはついに800兆円となった。
貧困の目立つのは日本とアメリカであって、貧富の差は激しくなる一方である。これに対して低所得層を引き揚げ、貧富の格差を減らした国の筆頭はデンマーク、続いてスウェーデン、フィンランドである。
スウェーデンは、デンマークと並んで世界最高の消費税25%を課している。しかし、だから生活が苦しいという非難は出ていない。
税の国民負担率は、スウェーデンが51.1%、デンマーク49.7%、フィンランド44.%となっている。税金は、実は国民の貯金である。税金で障害の安心を手に入れておくという意識がある。スウェーデンの人々は、貯蓄にはきわめて不熱心である。なんと、税金についての考えが根本的に日本とは違うのですね。
スウェーデンは国家・地方公務員が住民1000人あたり150人にのぼっている。全労働者の35%、およそ3人に1人は公務員として働いている。これに対して日本は、1000人に対して35人でしかない。フランス96人、アメリカ80人に比べても少ない。日本では、公務員攻撃がひどいですよね。あの橋下大坂府知事が急先鋒ですが、身近な公務員をいじめたら財界が喜ぶだけです。
スウェーデンの選挙の投票率は、1980年代まで90%だったのが、最近は少し下がって80%台である。これに対して、残念なことに日本は60%を割っています。
スウェーデンは、国際競争の最先端を走るためには良質の労働力がなによりも大切だと考えている。そうなんですよ。不安定で将来性のない非正規雇用では、良質の労働力は得られません。
スウェーデンには老人ホームがない。在宅介護が自治体の責任ですすめられている。寝たきり老人もいない。いやいや、すごいことです。日本も発想の大転換が今こそ必要です。
たとえば、日本も、ハコづくりばかりに走ってはいけません。それより、人を大切にするという視点で、すべてをとらえ直す必要があるのです。このことを痛感させられました。
日曜日、すっかり春景色になった山道を登りました。近くの山寺の臥竜梅が満開でした。風にふくいくとした梅の香りが漂っています。
帰りに、十文字ナデシコの苗を買って庭に植え付けました。今、桜の木が白い花を咲かせて満開です。サクランボの木です。黄水仙が庭のあちこちに咲いています。チューリップはもう少しです。アスパラガスはまだ頭を出してきません。
楽しみの春が到来しました。
(2008年11月刊。1600円+税)
2009年2月20日
最後のウォルター・ローリー
著者:櫻井 正一郎、 発行:みすず書房
ウォルター・ローリーはイギリスでは有名な人物だそうです。と、言われてもピンと来ませんでした。ところが、映画「エリザベス、ゴールデン・エイジ」を見た人は分かるでしょ、と言われると、はたと思い出しました。たしかにエリザベス女王に世界を航海する楽しさを力説する男伊達の近衛隊長が登場し、エリザベス女王をうらやましがらせるのです。そう、その近衛隊長こそ、この本の主役であるサー・ウォルター・ローリー、その人なのです。
ウォルター・ローリーは、なんと1618年10月29日、ロンドンで断首されます。ところが、その直前に45分間にわたってスピーチしたのでした。そして、そのスピーチのおかげで、生前のローリーの悪評判は一転し、その死後、ローリーはヒーローのようにもてはやされることになったというわけです。
ええーっ、死刑に処されられる罪人が、公衆の前でスピーチする、それも、45分間もスピーチできたなんて、ウソでしょ。そう思いたくなるのですが、スピーチを聞いた人が何人もいて記録しているのですから、これこそ歴史的な事実なのです。なぜ、そんなことが可能だったのか。この本は、それを解き明かします。
ローリーが処刑されたのは、スペイン嫌いに原因があった。エリザベス女王からジェイムズ1世の時代になって、スペインとの宥和政策がとられるようになると、ローリーがスペインと衝突していたことから、スペインはイギリスに対しローリーを死刑にせよと要求し、ジェイムズ1世は、それを呑むしかなかった。
ローリーは、エリザベス女王の侍女と秘密裏に結婚し、それが女王に露見して、ロンドン塔に入れられた。そして、エリザベス女王が死んでジェイムズ1世が即位したあと、陰謀事件に連座してローリーは死刑判決を受け、ロンドン塔で13年間を過ごした。この13年のうちに、ローリーは「世界の歴史」を書き上げた。
ローリーは、処刑されたとき64歳。10月29日の早朝、教誨師が訪れた。朝食をとり、白ワインを飲んだ。このころ、囚人は処刑される前に必ず白ワインを飲んだ。
ローリーは、断首台にのぼって、できないかもしれないと思っていたスピーチができた。スピーチは午前8時過ぎから45分間に及んだ。処刑は公開で、処刑場に居合わせた人々が一部始終を書きとめた。ローリーは、処刑のあと崇拝されて聖者になった。急転して、そうなったのだ。ローリーのスピーチは、体制に寄り添うように見せかけながら、その実質は体制に対立していた。ローリーのスピーチの意義は、早い時期における王権への抵抗にあった。というのも、処刑台に登った罪人たちは、決まったスピーチと決まった仕草ができるように、しかも心の底からそれができるように教化されていた。決まった筋書きに従ってスピーチがなされたので、処刑台は芝居の舞台、囚人は役者に等しかった。より多くの庶民が、仲間の死から学んで、国王と政府と教会に従順になることが期待されていた。
恐らくジェームズ1世の判断停止によって、ローリーは念願のスピーチができた。不覚にも掘られてしまった小穴が、絶対王制という大河の、堤防がやがて決壊するのを助けたことになる。
なーるほど、そういうことだったのですか・・・。歴史の皮肉というか、めぐりあわせなのですね。
(2008年10月刊。3800円+税)
2009年1月17日
幸せな子
著者:トーマス・バーゲンソール、 発行:朝日新聞出版
現職は国際司法裁判所の判事である著者は、ユダヤ人として、あのアウシュヴィッツに10歳の時に収容され、奇跡的にも助かり、父親は収容所内で死亡するものの、母親も収容所を生きのび、戦後、再会することができました。まさに奇跡の積み重ねがありました。こんなこともあるんだなと、つい思ってしまいましたが、本人は、強い生存本能のもとに、死ぬとは思わずに頑張ったようです。
子どもの生存本能は強く、環境が変わっても、そこで生きるために適応することができる。子どもは本能的に自分が死ぬことはないと、そして、自分には生きる権利があると信じている。
自分が生き残ったのは、まったくの幸運だったと思っている。生き残るか生き残らないかは、自分にはどうしようもない運のゲームであり、だから、その結果の責任は自分にあるわけではないと考えるようになった。ドイツ語もポーランド語もなまりなく上手に話せたこと。そして、ユダヤ人に見えなかったことも、生き延びるためには好都合だった。
ドイツ語が話せたおかげで何度も助かっただけでなく、ドイツ人っぽい顔つきのおかげで助かった。もしかして、私を見て、ナチの将校たちは自分の子どものことを思い出したのかもしれない。収容所の司令官は、私が働けると言ったとき、私を生かしておこうと決めたのかもしれない。ポーランド語を話せることでも何度も大いに役に立った。間違いなく、これらのことが組み合わさって、生き残るうえで役に立った。そして、それらは、ほとんどが偶然のことだった。
著者の子どものころの顔写真があります。いかにも利発そうで、愛らしく、可愛さあふれる男の子です。こんな可愛らしい男の子が目の前にいたら、いくらナチスだって、人間としてとても殺す気にはならなかったでしょう。
そして、当時40歳ほどの著者の父親の毅然とした態度が妻と子を生きのびさせたのです。たいした父親です。そして母親もすごいものです。単なる免許証をいかにも重要な証明書であるかのように言い通したり、ハッタリを堂々とかませてナチスをやりこめたのです。
収容所では子どもが一番危ない。それを出し抜く方法を著者の父親は考え出した。毎朝の点呼のとき、できるだけうしろの方に著者を立たせる。バラックの入り口の近くに。点呼が終わって死の選択が行われそうな気配が見られたら、著者はバラックにこっそり入って、そこに隠れた。な、なーるほど、ですね。すごい勇気です。
アウシュヴィッツでは、一度も鳥を見なかった。人間を焼く火葬場の煙と悪臭のせいで鳥がこなかったのだろう。
収容所の中に子ども用バラックがあった。あるドイツ政治犯が考え、ナチスを説得したのだ。子どもは収容所で役に立つ仕事ができるのに殺すのはばかげていると。そして、子どもたちの主な仕事はゴミの回収だった。
戦後、母親から著者に手紙が届いたときの様子を語ったくだりが泣かせます。
間違いなく母の字だと分かった。お母さんが生きている。ぼくは何度も何度も自分にそう言った。それは人生で一番幸せな瞬間だった。ぼくは泣き出し、同時に笑い出した。孤児院に来て以来、一生懸命つちかってきた自制心や強がりをみんな脱ぎ捨てて、ぼくにはお母さんがいて、だから、ぼくはまた子どもに戻ることができるのだ。
そうなんですよね。生きのびるために精一杯、背伸びをして大人を装っていたのをやめていいなんて、すばらしいことではありませんか。
戦後まもなく、ドイツ人が楽しそうに話しながら歩いているのを見て、著者はバルコニーに機関銃をすえて、ドイツ人がぼくの家族にしたのと同じことをしたいと考えた。でも、そんな無差別な復讐をしたところで、父も祖父母も戻ってこないと気がつくのには、それから長い時間がかかった。そして、憎しみや暴力の悪循環を絶たねばならないと気がつくまでには、さらに長い時間が必要だった。憎しみや暴力は、罪のない人々の苦しみを増やすだけなんだ・・・。
生きのびるって、本当にすばらしいことなんだと実感させてくれるいい本でした。
(2008年10月刊。1800円+税)
2008年12月 9日
モスクワ攻防1941
著者:ロドリフ・ブレースウェート、 発行:白水社
1612年のポーランド軍も、1812年のフランス軍も、1941年のドイツ軍も、すべて同じルートをたどってモスクワを目ざした。ロシア軍は以上すべてのケースでスモレーンスクで抗戦し、1812年と1941年にはボロジノーで踏みとどまって抗戦した。1941年のドイツ軍は、ナポレオン軍とほとんど同じくらい馬匹輸送に依存していて、モスクワに接近するまでにナポレオンよりずっと長い日数をかけた。ドイツ軍侵攻が違っているのは、快速の機甲戦力を駆使して多数のロシア兵を包囲し、捕虜にする能力を持っていた点だ。
ドイツ側の数字によると、捕虜にしたロシア兵は、7月10日から10月18日までに225万人をこえる。
ナポレオンは1812年6月24日にモスクワ攻略を開始し、9月14日にモスクワに到達するまで83日かけた。ヒトラーは1941年6月22日に開始して、12月5日まで166日かかったがモスクワに到達することはできなかった。
ドイツ軍はモスクワ攻略を目ざすタイフーン作戦を10月初めに開始した。中部軍集団の戦車部隊が北と南から迂回してロシア軍前線に約480キロの突破口をこじあけ、70万以上のロシア兵を捕虜にした。10月末までにモスクワからわずか130キロの地点まで迫り、しばらく停止させたのち、11月15日に進撃を再開した。しかし、ロシア軍が頑強に抵抗し、ついに12月5日、ドイツ軍の最後の総攻撃は阻止され、ロシア軍の反攻が始まった。
モスクワ攻防戦は、第2次大戦でも、最大の、したがって、史上最大の会戦である。双方あわせて700万を超える将兵がこれに加わった。モスクワ攻防戦はフランス全土に匹敵する広大な地域で戦われ、6ヶ月にわたって続いた。ソ連は、この攻防戦だけで92万6000人もの戦死者を出した。この犠牲者数は第2次大戦全体を通じての英米両軍の犠牲者数の合計よりも多い。
モスクワに至る道の夏の砂塵はヒトラー軍の戦車や車両のエンジンを摩耗させ、詰まらせ、ついには立ち往生させた。冬の酷寒は夏の炎暑におとらずすさまじい。12月から2月まで、マイナス40度以下に下がることもある。しかし、最悪の時期は秋から冬、冬から春への季節の変わり目だ。このとき近代的に舗装された道路以外は、すべて泥沼と化す。ナポレオンとヒトラーの軍勢を押しとどめたのは、実は冬将軍ではなく、この泥濘だった。
スターリンは見境のないテロルを発動した。1973年と38年にはソ連全国で250万人もの人が逮捕された。4万人もの人々を刑場あるいは収容所に追いやり、全国で80万人もの人が処刑された。法廷で審理されることなく殺されたり、尋問中ないし獄中で死亡した人はこれよりもっと多い。
スターリンによる粛清期に、ソ連に5人いた元帥のうちの3人、16人の軍司令官(大将)のうち15人、67人の軍団司令官(中将)のうち60人、師団長(少将)の70%が処刑された。いやあ、何回聞いても信じられない、ひどい、おぞましいスターリンの圧政です。独裁者であるトップが狂うと、こうなってしまうのですね。
1941年1月、ソ連最高統帥部は2度にわたって国土演習をおこない、赤軍がドイツ軍の攻撃に対処する能力を検証した。いずれのシナリオでも防御側の敗北という判定が下された。赤軍が戦闘準備を完整するまでは、なにがなんでも戦争を避けなければならないことが明白となった。
独ソ戦争の勃発は、完全にイギリスの思うつぼだった、スターリンは、そんなトリックに引っ掛かるつもりはまったくなかった。スターリンの希望的観測は、破滅的な脅迫観念と化した。ドイツが自らの意思でロシアと戦うなんて絶対にありえない。このようにスターリンは確信していた。
1941年6月21日の真夜中にヒトラーがソ連国境に投入した兵力はナポレオン軍の6倍、300万の兵員、2000機の航空機、3000両の戦車、75万頭の馬。これらが3個の軍集団の戦闘序列下にあった。これに対して、ロシアは170個師団、400万の兵員を擁していた。ただし、その多くはまだ東部から移動中だった。
スターリンは開戦後1週間の緊張にすっかりまいってしまっていた。ドイツの意図について途方もなく誤った判断を下し、自らの固定観念にそぐわない助言を拒否したことで、彼の権威はひどく失墜した。その結果、スターリンは虚脱状態になって別荘にひきこもった。6月30日政治局の面々が別荘にやって来たとき、スターリンは自分を逮捕しにやって来たと不安に思い、「君らは何をしに来たのかね?」と問いかけた。ところが、この人々が腑抜け連中であることを見抜いたスターリンは自信を取り戻した。
この記述に私は眼を開かされました。あの独裁者スターリンも、一瞬、弱気になっていた時期があったのですね……。
ドイツ軍の進撃に対してロシア軍は意外なほど抗戦した。最後まで徹底して抗戦した。無謀な逆襲を仕掛け、自殺的な波状攻撃を仕掛けた。これはドイツ兵に脅威を感じさせた。結局、これがモスクワを救ったのです。
モスクワの若い女性たちも、男性にひけをとらないほど熱心に従軍を志願し、前線で電話・通信兵や衛生兵・軍医として活躍した。赤軍の前線勤務軍医の約40%、衛生兵の全員が女性であり、17人がソ連邦英雄の称号をうけた。うち10人は死後の追贈だった。
実践部隊の戦闘員として従軍した女性も多かった。中央女子狙撃手学校の卒業生は、戦争中に1万2000人のドイツ兵を射殺した。全部で80万人もの女性が戦時中、赤軍に勤務した。この女性兵士たちの活躍ぶりと、それが戦後は評価されなかったことを詳しく語った本は先に紹介しました。
スターリンは、赤軍将兵の後退を阻止するためにNKVD阻止隊を組織した。阻止隊は2万6000人を逮捕し、1万人を射殺した。戦争中に100万人の軍人が軍法会議で判決を受けた。その3分の1は脱走によるもの。40万人が刑の執行を猶予されて、懲罰部隊に編入された。懲罰部隊の死傷率は異常に高く、通常の部隊の6倍だった。
ドイツ軍の捕虜となってソ連に送還された元捕虜200万人が「洗い出し」システムにかけられ、34万人が労役大隊に送られ、28万人が逮捕された。
スターリンの存命中、ロシア人はまともな歴史を書くことができなかった。
スターリンの致命的な誤りにもかかわらず、ナチス・ドイツ軍のモスクワ信仰を阻止したのは、老若男女を問わないロシア人の自発的な犠牲的行動によるものであったことがよく分かる本です。当時の写真も豊富にあって、状況がよく伝わってきます。なんだか数字をたくさん紹介してしまいましたが、実はモスクワ市民の戦時下の日常生活の様子などもたくさんの写真とともに紹介されていて、興味深いものがあります。
(2008年8月刊。3600円+税)
2008年12月 5日
ユダヤ人財産はだれのものか
著者:武井 彩佳、 発行:白水社
ホロコーストは史上最大の強盗殺人であった。
うむむ、な、なるほど、そういうことなんですね。
ナチス・ドイツにとって、移住とは、無産化したユダヤ人の輸出であった。ヒトラー政権の成立時にドイツに暮らしていた52万5000人のユダヤ人のうち、移住した者は30万人、殺害された者は14万人とされる。その残りは不明ということでしょうか……。
1933年当時のドイツの民間銀行1060行のうち、ユダヤ系のものが490行もあった。つまり、地方の民間銀行は、著しくユダヤ的な業種だった。大手銀行が、ユダヤ系の銀行を買収していくのがアーリア化の実態だった。
ドイツにおけるユダヤ人収奪の最大の収益者は、明らかにドイツという国であった。
1938年、ドイツの国家財政は破たん寸前だった。赤字は20億マルクにまで膨らんでいた。戦争に向けて大幅な増税は避けられないが、ヒトラーはこれを拒否した。
ユダヤ人社会に10億マルクの弁済額が課せられ、特別税収は国家の収入を一気に6%も押し上げた。また、ユダヤ人の大脱出による出国税の税収増も加わった。戦争が始まる前は、国家予算の9%がアーリア化による収入であった。
ユダヤ人から奪った物品を無償で分配することは原則としてなかった。収奪品を軍に引き渡すときにも支払いが要求された。盗品にも値札がつけられていた。
ヨーロッパのユダヤ人から奪われた財産は、ドイツの戦争経費へ転化された。
そして収奪されたユダヤ人の財産を戦後、どのように被害者へ還付するかというのが問題になったとき、肝心の遺族がいなかったのです。皆殺しにされたのですから、当然といえば、当然の現象ではあります。
そこで、ユダヤ民族という集合体が、ヨーロッパに残された財産の相続人であるという国際法の常識を覆す主張が登場した。
しかし、ユダヤ民族とは法的に定義可能なのか。民族というものに個々のユダヤ人の財産の相続権があるのか。つまり、集団全体は、集団の構成者の財産に対して権利を主張しうるのか。いずれにしても、殺して奪ったものによって富むことは許されない。このことは言える。
では、誰が、相続人不在のユダヤ人財産に対する権利を有するのか。
戦後ドイツのユダヤ人は2万人ほどでしかない。戦前の52万人ものユダヤ人には、とても匹敵しない。
ナチス・ドイツが占領国の中央銀行から略奪した金塊を、スイスの中央銀行を含めた銀行が購入していた。
ナチスに追われた難民がスイス国民で追い返された件数が2万4500件あり、少なくとも1万4500件の入国ビザ申請が領事館で却下された。
IBMは、ナチ収容所の囚人管理のためのデータ管理システムを提供していた。
ひえーっ、これには驚きました。あの天下のIBMって、ナチスのユダヤ人殺害に協力していたなんて、まったく知りませんでした。
島根の同期の弁護士から、太くて長い立派な長芋をたくさん送ってもらいました。実に見事な山芋で、トロロ汁を美味しくいただきます。でも、ちょっと食べきれませんので、知人にも少しだけ、おすそわけしました。
トロロ汁もいいのですが、山芋ステーキも腹もちして、いい案配です。そして、梅肉を混ぜ込むと、これまた絶品です。思い出すだけで、口中によだれがたまってきてしまいました。
(2008年75月刊。2600円+税)
2008年10月22日
戦争は女の顔をしていない
著者:スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチ、 発行:群像社
久しぶりに思いっきり感動しました。人間、そして社会の実相にトコトン深く迫った本だと思います。戦争という極限の状態に追いやられたとき、人間がどういう行動をとるのか、そして、平和を回復したとき社会がその過去の極限状態についてどう評価するのか。予想をはるかに超えた厳しいマイナス評価がなされます。すると、極限状態に置かれていた人々は一体どうなるのか…。
つい最近、NHKスペシャルで、イラク戦争に従軍したアメリカ人女性兵士が本国へ帰還してから悲惨な状況に置かれている様子が2回にわたって放映されていました。戦場で13歳の少年を殺してしまった女性兵士が、我が子を素直に抱けなくなってしまったというのです。とても衝撃的な番組でした。よくぞここまで映像にできたものだとNHKを再評価したほどです。この本は、そのアメリカ人兵士と同じ状況が第二次大戦を戦ったソ連赤軍の女性兵士にも起きていたことをまざまざと浮き彫りにしています。
ソ連では、第二次世界大戦に100万人を超える女性が従軍し、パルチザン部隊や非合法の抵抗運動に参加していた女性たちもそれに劣らぬ働きをした。
わたしが子ども時代をすごした村には女しかいなかった。女村だ。男たちはみな戦争に駆り出されていた。女の子たちの中には「前線に出なけりゃいけない」という空気が満ちていた。
父が殺された。兄も戦地で亡くなった。母は訊いた。「どうしておまえは戦争に行くの?」その答えは、「お父さんの敵討ちに」。
女性用の狙撃兵訓練所があった。敵といったって人間だから、ベニヤの標的は撃っても、生きた人間を撃つのは難しい。人をはじめて撃ったときは恐怖にとらわれた。自分は人間を殺したんだ。この意識に慣れなければならなかった。たまらなかった。
戦線から戻ってきたとき、21歳のなのに、すっかり白髪だった。
狙撃兵は2人一組で働いていた。部隊から「勇気を称える」メダルをもらったのが19歳。すっかり髪が白くなったのが19歳。最期の戦いで、両肺を打ち抜かれ、2つ目の弾丸が脊椎骨の間を貫通し、両足が麻痺して戦死したとみなされたのも19歳だった・・・。
女の子たちは、戦闘機にも飛行士として乗った。飛ぶだけでなく、実際に彼女らは敵機を撃墜した。
戦争で一番恐ろしかったのは、男物のパンツをはいていることだった。これは厭だった。夏も冬も、4年間も、戦場ではいていた。
クルクス大戦車戦にも女の子たちが兵士として参戦していたそうです。
ドイツ軍は、従軍していたソ連の女たちを捕虜にとらなかった。ただちに銃殺した。
通信兵をしていた女の子の心臓に弾丸があたった。ちょうど、鶴の群れが頭上を飛んでいった。
「残念だわ、あたし。ね、あ、あたし、本当に死んじゃうのかしら」
そのとき、郵便が配達された。
「あんたの家から手紙が来てるの。死んじゃダメ」
母親からの手紙だった。
「あたしの大事な、かわいい娘や」
手紙は終わりまで読み上げられた。そのあと、アーニャは目を閉じた。その様子を見て、医者は「奇跡が起きた」と叫んだ。
簡易塹壕や焚き火のそばで、むき出しの地面に何年も寝泊りすることが、何年も軍用ブーツや軍用外套を着ていることが、どうして18歳から20歳の女の子にできるのか。しかし、戦争の中でも、女性らしい日常は忘れられてはいなかった。
戦争はどんな色かと聞かれたら、こう答える。「土色よ」。工兵にとっては、黒や、砂の色、粘土の色、地面の色だと・・・。
私たちは、恋を胸のうちで大切にしていた。恋愛はしないなんて、子どもじみた誓いは守らなかった。恋していた・・・。
ソ連の従軍兵士たちは15歳から30歳で出征していった人たちで、看護婦や軍医だけでなく、実際に人を殺す兵員でもあった。ところが、戦争で男以上の苦しみを体験した彼女たちを、次の戦いが待ち受けていた。戦争が終わると、従軍手帳を隠し、支援を受けるのに必要な戦傷の記録を捨てて、戦争経験をひた隠しにしなければならなかった。「戦地に行って、男の中で何をしてきたやら」と、戦地経験のない女性たちからは侮辱され、男たちも軍隊での同僚だった女性たちを守らなかった。
取材される女性たちは、戦場でのあの地獄を追体験したくないといって語りたがらなかった。
戦後何十年もして、ジャーナリストが『プラウダ』に女たちも戦争に行ったことを初めて書いてくれた。従軍していた戦闘員の女性たちが家庭を持てず、今も自分の家もない女たちがいること、その人たちに対して国民みんなに責任があるということを書いた。それから初めて戦争に行っていた女たちに少しずつ注意が向けられるようになった。
すさまじい戦争の実相がよくぞ語られています。胸の奥底深くに迫ってくる衝撃の本でした。一読されることを、皆さんに強くおすすめします。
(2008年7月刊。2000円+税)
2008年10月16日
ベルリン終戦日記
著者:アントニー・ビーヴァー、 発行:白水社
1945年4月、ドイツの首都ベルリンにいた34歳の女性ジャーナリストの書いた日記です。ニセモノ説もあったようですが、ホンモノだと判定されています。この本を読むと、ニセモノ説があったなんてとても信じられません。きわめて具体的でまさに迫真そのものです。ジューコフ元帥の率いるベロルシア方面軍150万の赤軍兵団がベルリンを占領し、至るところでドイツ女性を強姦するのです。その状況が被害者として生々しく語られます。
日記は、1945年4月20日から6月22日までの2ヶ月分です。この間に、米英の空軍機による空襲、ソ連赤軍による地上砲撃、市街戦、ヒトラーの自殺(4月30日)、ドイツ軍の降伏(5月2日)、連合軍のベルリン占領があった。
1945年にレイプ被害にあったドイツ人女性は、200万人と見られている。ベルリンでは10万人から13万人とされている。
第一段階はソ連兵士による復讐と憎悪によるもの。多くの兵士は戦争の4年間に自国の将校や政治委員たちによってひどい屈辱を受けていたので、この屈辱を何としても埋め合わせねばと感じていた。ドイツの女たちは、そのもっとも簡単なターゲットだった。
第2段階では、赤軍兵士はその犠牲者を選ぶにあたってより慎重になり、防空壕や地下室の女たちの顔に懐中電灯の灯を当て、一番魅力的な女を選ぼうとした。
第3段階では、ドイツの女たちが特別な兵士あるいは将校と非公式の合意を結び、男たちは別の強姦者から彼女たちの身を守り、性的服従の見返りに食料をもたらした。
ソ連軍が占領する前、ある夫人が叫んだ。
頭上のアメ公より、腹の上の露助のほうが、まだましだわ。
赤軍兵士は、まず問いかける。「結婚しているのか?」 もし、そうだと答えれば、次には夫はどこにいるのか、と問う。もし、いいえと答えれば、ロシア人と「結婚する」つもりはないかと問う。それに続いて妙になれなれしい態度をとる。
彼らは太った女を捜していた。おデブちゃん、すなわち美人。その方が女らしいのだ。男の身体とは全然違っているから。
(強姦されているとき)私の自我は身体を慰みものにされた哀れな体をあっさり見捨てようとしている。それから、遊離して、漂いながら白い彼方へと無垢なまま向かおうとしている。こんな目にあったのが私の「自我」であってはならない。嫌なことは何もかも追っ払ってしまわなければ。頭がおかしくなっているのだろうか。
強い狼を連れてきて、他の狼どもが私に近づけないようにするしかない。将校、階級は高ければ高いほどいい。司令官、将軍、手の届くものであれば、なんでもいい。
シュナップス(アルコール)は、男を興奮させ、性的衝動をひどく亢進させる。赤軍兵士が見つけた大量のアルコールがなければ、強姦事件だって半分ですんだはずだ。兵士たちはカサノヴァではない。自分で景気をつけないと大胆な行動には出られない。酒で洗い流さなければならないのだ。だからこそ、連中は必死に飲むのだ。
それなのに、ナチス・ドイツはアルコールを貯めていた。それを飲んだら行動が鈍るだろうと、間違った予測を立てていた。
著者の生理も乱れてしまったようです。医者に診てもらうと、「食事のせいです。体が出血をおさえようとしているのです。あなたの体がまた太ってくれば、周期にも問題がなくなりますよ」といわれたとのこと。
『ベルリン陥落』(白水社)に描かれていた状況を、一女性の立場で生々しく告発しています。
(2008年6月刊。2600円+税)