弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

ヨーロッパ

2008年8月 4日

第三帝国の中枢にて

著者:ゲルハルト・エンゲル、出版社:バジリコ
 総統付き陸軍副官の日記というサブタイトルがついている本です。総統とは、もちろんヒトラーのことです。本のオビに、「1938年から1943年にわたり、ヒトラーの副官をつとめた若手将校の日記が伝えるナチス・ドイツ深奥の作戦中枢における生々しい人間模様」と書かれています。たしかに、ナチス・ヒトラーとドイツ陸軍との水面下のドロドロとした対立状況が伝わってくる第一級の資料です。先に紹介しましたヒトラー暗殺計画の動きも、この本とあわせて読むと、かなり理解できるところがあります。つまり、ドイツ陸軍内部が必ずしもヒトラー一辺倒だったわけではないことがよく分かります。
 ドイツ国防軍最高司令部のヴィルヘルム・カイテル長官は、ヒトラーに歯向かうことはほとんどなく、周辺から「おべっか使い」と揶揄(やゆ)されていた。
 ブラウヒッチュ陸軍総司令官も、妻と離婚に際して多額の慰謝料を支払うために引き受けたことから、ヒトラーに借りがあった。さらに新しい妻の素性が怪しかったため、ヒトラーにおもねるしかなかった。
 ヒトラーが任命した軍務大臣フォン・ブロムベルク陸軍元帥は、いかがわしい噂のある女性と結婚したことが原因で失脚した。結婚したすぐあとのことだったので、結婚立会人をつとめたヒトラーは非常にまずい立場に立たされた。保守的な将軍らの抵抗にもめげずに自分の政治的路線を支持してくれた信用できる男、ブロムベルクを犠牲にせざるをえなかったヒトラーは、その後、保守勢力による権力掌握阻止に動いた。陸軍と国家指導層との関係を改善できなかったことから、ヒトラーは常に不安にさいなまれていた。
 イギリス軍がダンケルクから脱出できた裏話も興味深いところです。要するに、ヒトラーが政権を握ったあとに創設されたドイツ空軍に決定的な役割を果たさせる点で、ヒトラーはゲーリングと意見が一致したのだった。ヒトラーが5月24日に停止命令を出したのは、ゲーリングの発言を信頼したから。ヒトラーは、伝統的に保守的傾向の強い陸軍より、空軍には国家社会主義(つまりナチス)の精神がよく浸透していると考えていた。
 ヒトラーは、世界観戦争の観点からも、また国内の士気を高めるためにも、スターリングラードの攻略は欠かせないと考えていた。したがって、ヒトラーは、突撃はやめるべきだという提言には、一切、耳を貸さなかった。
 スターリングラードで、ついにパウルス将軍が降伏したとき、ヒトラーは自分の非を認めようとせず、むしろほかの誰かに失敗の責任を転嫁しようとした。そして、その態度が戦線指揮官らの怒りを買うことになった。
 この日記は危機に直面したときのヒトラーの優柔不断ぶりを伝えている。その一方、ヒトラーには、細かい知識や情報を吸収して記憶する並はずれた才能があった。
 エンゲルが副官になったのは32歳のとき。エンゲルは1943年4月に実戦の指揮官に転出し、最終的には中将にまで昇給し、1944年12月のアルデンヌの森の反撃で負傷した。以下、少し紹介します。
(1938年6月25日)
 ゲーリングは元帥の地位にありながら、次々に陸軍を批判し、偏見にみちた参謀本部攻撃を行い、西部要塞監督局について無礼きわまりない意見をのべた。ヒトラーもこれに同調した。
 (1940年12月18日)
 バルバロッサ作戦の指示が出た。陸軍総司令官から、ヒトラーが本当に戦闘を望んでいるのか、それともこけおどしにすぎないのか探るように命じられた。ヒトラー自身も分かっていないと確信している。ヒトラーは、ロシアは弱い、イギリスの譲歩を期待し、アメリカの参戦はないと信じている。ドイツの空軍力に対する信頼は驚くほど高い。
 (1941年1月17日)
 ヒトラーは、ソ連赤軍の戦闘能力に関して、非常に楽観的だ。武器や設備は時代遅れで、とくに飛行機は少なく、戦車も旧式だ。
 (1941年7月28日)
 レニングラードとモスクワという2つの大きな腫瘍を除去しなければならない。それはロシア国民にとっても、共産党にとっても、大きな打撃となる。ゲーリングは空軍だけでやれると断言するが、ダンケルク以降、余(ヒトラー)は少々懐疑的になっている。
 (1943年2月1日)
 スターリングラードは、もう終わりだ。ヒトラーは深く落ちこんで、ミスや命令不履行がなかったかどうか、くまなく探している。
 軍事戦略の「天才」ヒトラーは、同じ「天才」スターリンとまったく同様の俗物そのものだったことがよく分かります。
(2008年4月刊。2600円+税)

「情熱のシェフ」

著者:神山典士、出版社:講談社
 福岡出身のシェフがフランスでミシュランの星を獲得しました。それも、わずか28歳とは、恐るべきことです。この本は、その若きオーナー・シェフである松嶋啓介の足どりを丹念に追いかけています。いやあ、プロの料理人(シェフ)というのは、すごいものです。一度は、ぜひとも味わってみたいものです。
 この本の人物紹介を紹介します。
 1977年に福岡県で生まれる。高校を卒業したあと、上京し、料理学校「エコール辻東京」に学ぶ。渋谷「ヴァンセーヌ」などで働いたあと、20歳でフランスへ渡る。フランス国内で修業を重ね、南仏ニースに2002年12月、25歳のとき自分の店
「Kei’s Passion」をオープン。素材の魅力を存分に生かした斬新な料理が話題を呼び、3年後の2006年、28歳でミシュラン一つ星を獲得した。
 その後、店を拡張し、「KEISUKE MATSUSHIMA」に改めた。近く東京にも進出する。
 ケイは、食材の組み合わせは基本的なものであっても、完成したときに意外性を出す。料理はエンタテイメントなのだから、「驚き」は大切な要素だ。
 まずは食材・素材ありき。食材に対する感動こそ、料理人に対する最大の賛辞となる。料理人は、ある意味で、生産者の通訳である。
 ケイは味覚を複雑にせず、食材の良さを前面に出すような作品を心がける。その代わり、シンプルな料理は味覚の組み立てが完璧でなければいけない。
 ケイにとって料理をつくるのも楽しいことだが、一番うれしいのはフロアーに出て客から「メルシー」と言われた瞬間だ。料理は、自分のためではなく、人に喜んでもらうためにこそある。
 ケイの父は福岡市城南区に住む団塊世代の営業マン。祖父は太宰府に住む。1000坪の農地でニワトリを飼っていた。
 ケイは子どものころ、やんちゃの一言に尽きる悪さ坊主だった。ただし、味覚の良さは抜群だったし、母親はいつも手づくりの料理で、冷凍食品はめったにつかわなかった。
 ケイは東京で調理師学校に通うかたわら、東京の有名レストランを見てまわった。
 ニースのレストランが居抜きで1000万円に売りに出されるのを買ったのです。すごい決断ですね。24歳のときです。25歳の誕生日に店はオープンしました。20歳でフランスに渡って、わずか4年でフランスで店を構えるというのですから、その実行力と決断力は常識はずれのものがあります。
 しかも、開店して3日目には22席が満席になったというのです。
 今や、夏に月商13万ユーロ(2100万円)、冬でも10万ユーロ(1600万円)。1日の売上が平均4000ユーロです。店は150平方メートル(45坪)です。フロアと調理場をあわせて17人。うち日本人が6人(19万円の給与)、フランス人11人。平均年齢は、なんと22.6歳。最年少は15歳。調理場にも16歳2人、17歳、19歳がいる。ニースの料理学校から実習に来ている少年少女たち。
 ところが、スタッフの確保と養成は大変なようです。
 毎朝、市場にまで買い出しに行って、そこで生産者と顔を合わせながら、食材を自分の目で選び、その食材に合わせて料理を考えるというケイのスタイルに大いに魅かれるものがありました。これからも大いに活躍してほしい日本人、いえ福岡県人です。
(2008年6月刊。1700円+税)

2008年7月30日

大量虐殺の社会史

著者:松村高夫・矢野 久、出版社:ミネルヴァ書房
 アメリカのカーター大統領は、1976年にはバンコクのアメリカ大使館を通じてカンボジアの虐殺の事実をつかんでいながら、ポル・ポトのクメール・ルージュを支持し、ポル・ポト政権崩壊後も10年間にわたって国連代表権を認めた。
 南米のチリ、アルゼンチン、グアテマラでの虐殺は軍事政権下で起こったが、これらも背後でアメリカのCIAや軍部が関与していた。
 1984年のルワンダにおける80万人のツチ虐殺は、100日間にわたって1日あたり8000人のツチが虐殺されたことになるが、アメリカのクリントン大統領は、国連安保理への影響力を行使して、国連平和維持軍をルワンダから引き上げさせた。その結果、100日間にわたってアメリカをはじめとする外国からの干渉をまったく受けず、文字どおり自由自在にフツに虐殺させた。
 これってルワンダで起きた大虐殺にアメリカは直接的に手を貸したと同じですよね。映画『ホテル・ルワンダ』には、国連軍としてフランス軍が頼りにならないけれど少しは頼れる存在として登場していました。アメリカは自分にとって利権のない国は見向きもしないわけです。日本はアメリカにとって大変な利権をうむ国ですから、やすやすと手放すことはしないでしょうが・・・。
 この本を読むと、世界が人権意識に目覚めた20世紀のはずが、実は大量殺りくの絶えない「戦慄の20世紀」であったことがよく分かります。まったく、うんざりするほど、殺し合いにみちみちた世の中です。
 でも、こうやってこの本を紹介しようとしているのは、お互いに現実から目をそらさないようにしようということです。だって、それが現実の人間社会なのですから。私の、日本国憲法9条2項には世界に広めるべき今日的意義があるという確信は、こんな本を読むとますます深まります。
 1915年4月。トルコはアルメニア人80万人を虐殺した。これは自然発生的な行動ではなく、周到に準備され明白な計画的国家犯罪だった。
 ナチス・ドイツによるユダヤ人大虐殺は、ここでは紹介を割愛します。別の本で紹介することにします。
 朝鮮戦争のさなか、1950年7月、アメリカ軍が避難民を老斤里で虐殺した事件が紹介されています。避難民に前線を越えさせるな、前線を越えようとする者は誰でも殺せ、という命令が出ていたのです。アメリカ軍は空爆で300人の避難民を殺した。これは、避難民のなかに朝鮮人民の兵士がまぎれこんでいるという情報にもとづいた行動でもあった。アメリカ軍は、直接的な虐殺を韓国でもしていたのです。
 インドネシアでは9.30事件というものがありました。1965年9月からインドネシア共産党とその支持者が軍隊によって大量虐殺された事件です。その時点までインドネシア共産党は250万人の党員をかかえ、得票率16.4%で、国会に39議席を占めていました。その共産党が殺害者リストをもっているというデマ宣伝があり、殺される前に殺せといって、共産党とシンパ層が非合法に殺されていったのです。1968年6月までに殺された被害者は50〜100万人とみられ、正確なデータは今も不明のままとなっています。
 事件に深く関与していたインドネシア国軍のなかには、真相究明に対して根強い抵抗があり、軍やイスラム勢力との強調を重視する政府は、思い切った政策がとれない。ともあれ、この大虐殺事件とその恐怖がインドシナ社会に与えた影響はとてつもなく深刻なものだった。
 私もインドネシアの作家がこの9.30事件にふれて書いた本を2冊ほど読んだ記憶がありますが、深く重く沈んだテーマだと思いました。
 この本は最後に次のように書いています。
 21世紀に生きる我々に課せられたもっとも重要でかつ緊要な課題は、戦争と虐殺のない世界を創出することである。それは、20世紀に戦争と虐殺の被害を受け、犠牲となった人たちが現代に生きる者に発したであろうメッセージである。このメッセージを真摯に受けとめ、戦争と虐殺のない世界を構築するためには、国民和解をふくむ歴史和解が必要であろう。しかし、歴史和解はいかに達成されうるのか、その道筋は明確になっているわけではないし、また容易でもない。歴史和解を達成するためには、真相究明が必要不可欠であることについても疑いの余地はないであろう。
 そうなんです。私たちは、もっともっと現実を知り、真相を探るべきだと思います。そして、軍事的報復に走る前に何をなすべきなのかを考えるべきだと思うのです。
 ずっしり重たい本ですが、心ある人は読むべき本だと思いました。
 7月の半ばに沖縄へ行ってきました。泊まったホテルがモノレール「おもろまち駅」から歩いたところにありましたが、あれっ、この地形はなんだか見たような気がすると思いました。前に紹介した『沖縄シュガーローフの戦い』(光文社)に写真つきで紹介されています。この「おもろまち駅」周辺は、まさに沖縄戦の最激戦地だったのです。
 1945年5月12日から18日の1週間、この丘をめぐる争奪戦でアメリカ第6海兵師団は2000人をこえる戦死傷者を出した。日本軍は首里防衛戦にいた5万人の将兵のうち、無事に撤退できたのは3万人。残る1万5000人がアメリカ軍によって戦死させられた。今は平和で、のどかな沖縄市街地ですが、63年前は猛火に包まれて、人々は殺されていったのでした。無惨です。
 残念なことに、当時をしのぶ説明板は駅周辺に見あたりませんでした。どこかにあって、私が見落としただけでしたら、すみません。
(2007年12月刊。4500円+税)

2008年7月 4日

ティーガー戦車・戦場写真集

著者:広田厚司、出版社:光人社
 第二次世界大戦中、ドイツのティーガー戦車と呼ばれる重戦車は連合軍を次々に撃破し、鋼鉄の虎と呼ばれ、恐れられました。その実像に迫った写真集です。
 いやあ、ともかくでかいです。これぞまさしく重戦車と呼ぶのにぴったりです。
 1949年7月のクルスク大会戦は史上最大の戦車戦(チタデル戦)でした。ソ連赤軍とドイツ国防軍の双方で1000両以上の装甲戦闘車両が10数キロの幅で激突したのです。このとき、ティーガー戦車は115両も参加しました。400両もの赤軍戦車を撃破したとされています。
 ティーガー戦車は1943年から45年にかけて1800両ほど生産された。
 ティーガー戦車の時速は実際には20〜25キロ。
 ティーガー戦車は1943年夏には履帯の故障が続出した。
 昼間は時速10キロで走り、最初の5キロ地点に第1の修理所があり、次いで10〜 15キロごとに修理班が待機し、メンテナンスを行いつつ集結地に向かった。
 大戦後半のティーガー戦車の稼働率は68〜70%だった。パンター戦車(62%)よりは良かった。40〜45両のティーガー戦車を運用するのに、実に1000人ほどの大隊要員を必要とした。
 ティーガー戦車は、赤軍のT34戦車を距離1400〜1500メートルで撃破するのを最適距離とした。重量56トン。全長8.45メートル、前面装甲は100ミリ厚。そして強力な8.8センチ戦車砲を装備していた。ただし、非常に高価で、多くの製造工程を必要としたので、大量生産が難しかった。
 訓練不足の要員と悪い保守管理が重なると、長所を生かすことができなかった。とくに履帯の交換方式は実用的でなく、燃費も1.6キロ走行あたり12.5リットルを必要とし、航続距離は140〜150キロと短かった。砲手と車長が操作する油圧と主導のいずれも砲塔回転速度が遅く、戦闘時、目標を捕捉するのに影響を与えた。
 エンジンの短命さと変速機の信頼性も不足していた。
 生産テンポが遅かったため、当初考えられていた戦車師団に重戦車大隊を配備する計画を実行することはできなかった。広大な戦線にばらまかれたティーガー戦車は少ないままだった。
 1944年12月から始まったドイツの最後の反撃戦(バルジの戦い)に、ティーガー戦車123両が参加した。作戦稼動数は64%の79両だった。しかし、決定的な燃料の枯渇により、多くの戦車が放棄され、アルデンヌ攻勢はついに失敗した。
 赤軍の重戦車であるスターリン戦車は、近距離ではティーガー戦車との交戦を避けようとしたが、距離2000メートル以上だと砲力優勢により積極的となった。
 ティーガー戦車は、遠距離砲撃では、スターリン戦車の前面装甲を貫通できなかった。
 史上最強という伝説のあるティーガー戦車なるものの実体を、写真とともに知ることができました。
(2008年4月刊。1900円+税)

2008年5月28日

ヒトラー暗殺計画

著者:グイド・クノップ、出版社:原書房
 小説ではありません。歴史ドキュメントです。本文とあわせて、関係者の証言がエピソード的に紹介されていて、ヒトラー暗殺計画の周辺状況を多角的に知る事実ができます。初めて知ることがたくさんありました。
 もちろん、私は暗殺とかテロを支持しているわけでもなく、賛美したりなど決してしません。しかし、ヒトラーに限っては(実は、スターリンについても同じですが)、早いとこ暗殺されてしまったら、ヨーロッパ戦線で数百万人の兵士が死ぬ必要はなかったろうし、数十万人のユダヤ人が死ぬこともなかっただろう。著者の、この指摘には同感せざるをえません。
 ヒトラー暗殺の第一弾は、1939年11月8日のこと。ミュンヘンでヒトラーが演説し、いつもより早く1時間半ほどで切り上げて会場のホールから立ち去ったあと、その13分後に10キロの爆薬が爆発した。演壇そばのホールの支柱が爆発したのだった。8人が死に、数十人がケガをした。
 犯人は、一人の工芸家具職人であり、単独犯で、黒幕はいなかった。彼はドイツ共産党に投票していたが、党員ではなかった。ヒトラーは戦争だ、ヒトラーがいなくなれば平和になる。このように考えての行動だった。
 この暗殺者は、実行する1年前に会場の下見をした。そして、爆弾を購入するために、少しずつ家財道具を売り払って、材料を買いととのえた。会場の店には夜のうちに入っていて物置部屋に忍びこみ、ホールの支柱に工作した。大変な苦労をしたのですね。ヒトラーが、この日、天候を気にして早めに演説を切り上げたのは、まったくの偶然でした。まったく悪運の強い男です。
 「犯人」はザクセンハウゼン強制収容所に入れられましたが、ずっと他の囚人から隔離されていました。独房3室があてがわれ、1室で寝起きし、1室に作業台を置いて木材加工し、最後の1室にSS監視兵が1人つめていた。食事も衣料も好待遇だった。暗殺に失敗したあと、5年半も生きていて、1945年4月9日夜、SS兵にうしろから撃たれ、翌日、ダッハウ強制収容所の焼却炉で灰になった。
 ヒトラーは、ドイツ帝国の東部国境を、バクー、スターリングラード、モスクワ、レニングラードのラインまでずらす。この線から東をウラル山脈まで焼きはらい、その地域の生あるものすべてを抹殺する。そこに住むロシア人3000万人は餓死させる。レニングラードとモスクワは跡形もなく消し去る。このような戦慄のシナリオを知ったヒトラーの犯罪的所業を阻止する必要があると考えたドイツ国防軍の将校群が生まれた。
 ユダヤ人、捕虜、コミッサールの射殺は総じてドイツ国防軍の将校団から拒絶された。このような射殺はドイツ将校団の名誉を毀損すると見なされた。そして、前線にいるドイツ国防軍の将校は我々の想像以上にこれを問題にしていた。
 1943年3月7日、ドイツ国防軍防諜部(アプヴェーア)長官カナリス提督が幕僚を率いてスモレンスクへ飛んだ。オスター少将、ラホウゼン大佐、ドホナーニ特別班長が同行した。表向きの会談は前線司令部における情報将校の大会議。実は、ヒトラー暗殺のあと、ベルリンでどのように政権を引き継ぐか、そのときの措置、そして意思疎通のための暗号が取り決められた。
 1943年3月、成功できたはずのヒトラー暗殺計画が、2件、たて続けに失敗してしまい、クーデター将校は仕切りなおしを強いられた。
 ブライデンブーフ大尉がヒトラーを自分の拳銃で射殺することになった。しかし、なぜか、その日、ブライデンブーフ大尉はヒトラーの参加する作戦会議の開かれた会議室に入ることを拒まれた。
 「ああいうことは、一度きりだ」とブライデンブーフは語った。神経の緊張はあまりにも大きく、2度もそれに耐えるとは思えなかった。
 シュタウフェンベルクは、1943年4月、アフリカのチュニジアで敵機の機銃掃射を受け、命は助かったが右手を手首の上方で切断され、左手の小指と薬指を失い、さらに左目も喪った。やがてシュタウフェンベルクは、快復したあと1943年、本国へ異動した。そして、市民レジスタンスグループと連絡をとることができた。
 1943年9月にベルリンへ来てから、シュタウフェベルクは短期間のうちにクーデター計画のリーダー格になった。レジスタンスの最重要人物と連絡をとり、意見の相違はあっても、共通の目標に対する支持をとりつけた。
 1944年6月、連合軍がノルマンディー上陸作戦に成功したとき、シュタウフェンベルクはクーデターに意義があるのか疑問を感じた。そのとき、トレスコウはこう言った。
 「いかなる犠牲をはらおうと、ヒトラー暗殺はなしとげなければならない。失敗するにしても、クーデターは起こさなければならない。もはや、重要なのは、現実の目標ではない。世界と歴史の前に、ドイツのレジスタンスが命を賭して決定的な一石を投じた、ということが重要なのだ。その事実に比べれば、ほかのことはどうでもよい」
 いやあ、すごい言葉ですね。しびれます。まったく、そのとおりです。私は、今は亡き、この2人の先人に対して心からの敬意を表します。
 いよいよ、ヒトラー暗殺を実行できるのはシュタウフェンベルク1人にしぼられていきました。日頃、口先で大きなことを言っていても、いざとなれば臆病風が吹いてしまうものです(なんだか、私のことを言われているようで・・・)。
 1944年7月15日に至る経過で明らかになったのは、ベルリンでクーデターを指揮できるだけの精神力と行動力をふりしぼることのできるのは、シュタウフェンベルクだけだった。彼は、刺客兼クーデター指揮者という2つの役を兼ねなければならなかった。
 しかし、片手の男が暗殺を決行するのは正気の沙汰ではなかった。ところが、ほかには誰もいなかった。シュタウフェンベルクと副官ヘフテンは書類カバンのなかに、それぞれ1キロのドイツ製プラスチック爆弾を隠していた。爆弾の組立は、きわめて複雑な作業である。確実に爆発させるためには1個だけでなく、2個か3個の信管を起動させる必要があった。ところが、2個目の爆弾をセットしようとする寸前にシュタウフェンベルクは謀議仲間から電話が入り、2個目の爆弾をカバンに入れることなく、ヒトラーの入る会議室に入ってセットせざるをえなかった。いやあ、これって、まさに運命のイタズラですね、仲間によって邪魔されたというのですから。
 シュタウフェンベルクがヒトラーをなぜ会議室で射殺しなかったのかというと、彼は暗殺が成功したときのことにまで責任をもっていたからだ。
 ああ、またもや悪運強し、です。ヒトラーは間一髪、爆死を免れました。ちょうどやってきていたイタリアのムッソリーニを無事に送り出し、ラジオで自分が元気でいることをドイツ国民に知らせることができた。
 ロンメル将軍は、ヒトラー暗殺計画に積極的に加担してはいませんでしたが、軍部レジスタンスの味方をしていました。ところが、7月20日の直前の7月17日にフランス国内でイギリス軍の機銃掃射にあい、予期せぬ重傷を負ってしまったのです。これまた、なんという皮肉な運命でしょうか。
 7月20日のヒトラー暗殺の失敗のあと、数週間のうちに800人ほどの人が逮捕され、200人が殺害された。ドイツ国民の大多数はヒトラーの暗殺未遂の知らせに驚愕し、激怒した。
 シュタウフェンベルクは1944年7月21日未明、直ちに銃殺された。8月7日、クーデター将校に対する裁判が始まったが、非公開で行われた。裁判を公開したら、被告人にしゃべらせなければいけない。それは危険だ。こういう判断でした。
 ゲッベルスはこの裁判の記録映画をドイツの映画館で公開するつもりだったが、むしろドイツ国民はフライスラー裁判長に対して嫌悪し、被告人たちに同情と尊敬を覚えるだろう。こう心配して、とりやめにした。
 8月8日、被告人たちに死刑が宣告され、ヒトラーの命令どおり、家畜のように絞首刑が執行された。その様子をカメラが記録していて、ヒトラーは、何度となく観賞してあきることがなかった。ヒトラーは、やはりサディストそのものです。
 死刑囚は、みな、嘆きの言葉一つも言わずに、背筋を伸ばして絞首台へ向かった。
 ずっしり重たい本です。東京からの帰りの飛行機で一心に読みふけり、時間のたつのを忘れましてしまいました。
(2008年3月刊。2800円+税)

2008年5月21日

ハンガリー革命1956

著者:ヴィクター・セベスチェン、出版社:白水社
 日本人の私にとっては「ハンガリー動乱」という言葉のほうがピンときます。この本では、「12日間にわたるハンガリー革命」と呼ばれます。ときは1956年10月末から11月初めにかけてのことです。ハンガリーの首都ブダペストが中心となります。
 ナジ政権の樹立とソ連軍撤退を要求し、ハンガリーの学生、労働者、知識人がデモを行ったことがきっかけで、火炎瓶、ライフル銃と死に物狂いの勇気でソ連軍の戦車を相手に壮絶な戦いをくり広げた。ソ連軍は、一時、撤退し、ハンガリー人は勝利したかのように思った。しかし、ソ連軍は引き返して第二次侵攻を開始した。
 アメリカのアイゼンハワー大統領のスポークスマンたちは「鉄のカーテン」と共産主義から解放すると言っていた。CIAはハンガリー民衆を大いにそそのかした。しかし、本当に助けが求められたとき、ワシントン当局は手を引いた。ハンガリーの人々はアメリカから見捨てられた。
 すべての共産主義衛星国は、ソ連に対して憤りを感じていた。ソ連は、衛星国をすべて植民地と見なし、そのように扱った。それをハンガリーほど強く深く憎んでいた衛星国はなかった。ハンガリーは敵国のように扱われる敗戦国だった。というのも、ハンガリーは、20年間ものあいだファシスト独裁者の支配下にあり、ポーランドかチェコと違って、ソ連に侵攻した国だった。
 ハンガリーは、1920年から1944年までの25年間、摂政ミクローミュ・ホルティ提督の独裁政治下にあって、ドイツにとって重要な枢軸国だった。ホルティ摂政の陸軍はソ連に攻め寄った。
 1944年12月のクリスマス・イブに始まった流血のブダペスト包囲戦は、51日間続いた。ドイツ軍は西部戦線からハンガリーへ10個師団を移動させていて、ヒトラーはいかなる犠牲を払ってでもブダペストを防衛せよと下命した。4万人以上のドイツ軍兵士と7万人以上のロシア軍兵士が戦死した。
 ソ連軍とともに、モスクワっ子として知られたハンガリー生まれの共産主義者集団がやって来た。その数は300人ほど。スターリンに慎重に選ばれた彼らは、ソ連市民となって、ソ連に15〜20年住んでいた。
 スターリンはユダヤ人であるラーコシを使い物になると判断して、ハンガリー共産党の指導者に任命した。ラーコシとその徒党には国家的基盤がなかったため、なおさらソ連に依存した。ラーコシ、側近のゲレー、ファルカシュ国防相、レーヴァイ教育相は、みなユダヤ人だった。
 ハンガリー陸軍は再編成された。標準的武器はソ連製である。しかし、ソ連軍のT34戦車は砲弾を発射することができなかった。重要な部品はソ連の軍事顧問が保管していた。
 ソ連のKGBに似たAVOが発足した。AVOの任務は、共産党に反対する政党を排除すること。AVOは、やがて巨大で思いあがった恐怖の官僚機構となった。5万人近い職員、人口の1割100万人もの情報提供者をかかえた。
 スターリンに批判的な者が摘発された。ライクがスパイとしてでっち上げられ、裁判にかけられた。ライク裁判のあと、大恐怖が3年以上も続いた。人口1000万人という小さな国で、大勢の人が動揺した。1950〜1953年に130万人以上が裁かれ、その半数が投獄された。2350人が即座に処刑された。3つの強制収容所に4万人もの人が収容された。1950年には、85万人の共産党員のうち半数が刑務所と強制収容所に送られ、国外に追放され、3年後に死亡した。
 イムレ・ナジはソ連での15年間と、ハンガリー政府の大臣であったとき、ソ連秘密警察のスパイだったという書類がある。1956年10月にハンガリー革命が始まったとき、ナジは原則として学生の抗議に反対だったし、デモに参加する提案に愕然とした。デモの先頭に立つなど、思いもよらなかった。ナジは革命を望んではいなかった。ナジは民衆の気持ちが理解できなかったし、難局に対処できなかった。
 フルシチョフはナジを復帰させて秩序を回復させようとした。そして、ハンガリーを監視するため、ミコヤンとスースロフを派遣した。同時に、陸軍参謀総長とKGB長官もこっそり派遣した。それほど、クレムリンのボスたちはハンガリー危機を深刻に受けとめていた。
 民衆のデモが始まったとき、ハンガリー軍の兵士のほとんどは、どちらにもつかず、兵舎に戻った。そして、武器と銃弾を市民に手渡した。ライフル銃も渡された。警察本部長は中立ではなく、革命者に転向し、警察の武器保管所を解放した。こうして、市民の抗議は武装蜂起に変わっていった。
 10月24日、ソ連軍は午前2時からブダペスト市内に侵入した。6000人の将兵と戦車700台を市内に送り込んだ。さらに、2万人の歩兵と1100台の戦車、185門の重砲を配備した。159機を有する戦闘機2分隊で地上部隊を支援できる態勢をととのえた。
 ブダペスト市内で市街戦が始まった。ソ連軍のT34戦車は白兵戦には適していなかった。1日間でソ連軍の死者は20人、負傷者は40人に達した。戦車4台と装甲車4台が大破した。秩序回復の兆候はなかった。
 2日目、反乱者は銃殺されていないどころか、元気づいていた。象に立ち向かう一匹のアリだった・・・。ソ連軍は1万4000人の兵士と250台の戦車の援軍を得た。
 このとき、アメリカのアイゼンハワー大統領はハンガリーには介入しないと決意していた。アメリカはソ連にそれを伝えて安心させた。1000万人しかいないハンガリー国民のためにアメリカ市民を戦争のリスクにさらす必要はないと判断したのだ。
 ハンガリー革命の戦士は1500人をこえていた。アメリカは表向き、革命者の戦闘継続を声援していた。だから、彼らがアメリカをあてにしたのは当然のことだった。しかし、ワシントンには、イムレ・ナジに政治的支援と物的援助を与える理由は何もなかった。
 革命が始まった1週間のあいだに1000人のハンガリー人と500人ものソ連軍兵士が命を落とした。
 アメリカは、このころ、英仏両国がイスラエルと共謀して対エジプト攻撃の計画を立てていることを知っていた。エジプトはスエズ運河を国営化した。このエジプト侵攻は、ハンガリー革命の直前になされた。おかげで、世界の注目はブダペストからそれてしまった。
 11月2日、ソ連軍が大雨のなか、ハンガリーに戻ってきた。ハマーショルド国連事務総長はスエズ問題に専念していた。スエズのほうが優先事項だった。
 ソ連軍が送りこんだ高速の新型T54戦車には、ハンガリー革命人士の火炎瓶と軽火器は歯が立たなかった。2日間で、ブダペストは破壊された。
 数ヶ月間のうちに、18万人ものハンガリー人が祖国を去った。アメリカに15万人、イギリスとフランスがそれぞれ3万人を受け入れた。ハンガリー革命のあと、ソ連は恐れられ、嫌われた。世界中が激怒した。ハンガリーにおけるソ連の蛮行はヨーロッパの左翼を粉砕した。フランス共産党は党員の半数を失い、分裂したイタリア共産党はモスクワと手を切った。イギリス共産党は3分の2の党員が脱党した。オランダ共産党は消滅した。
 日本共産党は、辛うじて生き残っています。そして、いま再び元気を取り戻しつつあります。ソ連共産党の誤りは許せないと勇気をもって批判したからです。
 少し前に映画『君の涙、ドナウに流れ』をみたので、その背景を知りたいと思っていたところに出会った本でした。私は、今でも社会主義の思想が間違っていたとは考えていません。それを運用していた独裁者と周辺グループに大きな問題があったと考えています。だって、今の日本を見て、「資本主義、万歳!」だなんて、言えますか・・・。
(2008年2月刊。3800円+税)

2008年5月 8日

ヒトラーを支持したドイツ国民

著者:ロバート・ジェラテリー、出版社:みすず書房
 ヒトラー独裁といっても、それは多くのドイツ国民の最後までの支持なしにはありえなかったし、ドイツ国民は強制収容所の存在、そして、そこでの囚人虐待を知っていたという本です。ドイツ国民は何も知らなかったという従来の通説とは異なりますが、当時のマスコミ報道をふくめて資料を丹念に掘り起こしていますから、説得力があります。目を背けてはいけない事実です。
 いま日本で、75歳の人が後期高齢者として保険料の年金からの天引きそして医療費の大幅な制限が始まり、多くの人が怒っています。でも、それを決めたのは小泉元首相でした。小泉フィーバーに乗っていた人々が、いま手痛いシッペ返しをくらっているとも言える事態です。スケールは断然違いますが、事の大小はともかくとして、ドイツでも日本でも、本質的には似たようなものだと私は思いますが、いかがでしょうか。
 ヒトラーが1933年1月30日にドイツ(ワイマール共和国)の宰相に任命されたのは、43歳のとき。そのころのドイツには絶望感がみなぎっていた。それは自殺率に反映された。1932年には、イギリスの4倍、アメリカの2倍だった。そして、ヒトラーの任命前の3回の選挙において共産党は毎回3位を占め、得票は増えていた。
 ヒトラーが宰相に任命された直後の国会解散のとき、ヒトラーの選挙スローガンは、「マルクス主義を攻撃せよ」だった。これは、善良な市民と資産家に訴える効果を狙っていた。
 ヒトラーの1935年の徴兵制度の再導入は、労働市場から大量の就労年齢の男性を吸い上げ、失業者数を減らした。雇用と収入が突然戻ってきて、ドイツ国民に希望がよみがえった。それは、ことに青年男女にとって顕著だった。そこで、多くのドイツ国民が競ってナチ運動に参加しようとした。ナチ党員は、1930年に 13万人、1933年に85万人、その後、数年で500万人となった。ナチ党突撃隊 (SA)には1931年に8万人、1932年に50万人、1934年に300万人いた。女性も同じ。ナチの女性組織(NSF)は1932年に11万人、1933年に85万人、1934年に150万人、そして1938年には400万人だった。
 警察官はナチに簡単に順応した。98%の制服警察官、90%の幹部が引き続き勤務でした。いやあ、こんな数字をあげられると、大衆操作の怖さをつくづく実感します。
 ナチによる逮捕者は、裁判なしに強制収容所に送られたが、それは広く報道され、隠されてはいない。囚人の多くが共産党員であり、普通の監獄が満員なので、一時的に収容所に送られたと報道された。法なきところに罪なしという原則が、罰なき罪なしの原則に変えられたと市民に告知された。このスローガンは、犯罪者にあまりに権利を与えすぎて社会負担を無視する法制度にうんざりしていた人たちの心をつかむものだった。
 ヒトラーの新警察は、時間のかかる法手続を無視して迅速な措置がとれるうま味をいったん覚えると、もう二度と後戻りできなかった。
 1933年に非合法で逮捕され、強制収容所に収容された人は10万人をこえる。それらの人々は、なんらかの形で共産党に関係していた。ベルリンには、共産党員と社民党員の多い労働者居住区に100以上の拷問部屋があった。
 世論懐柔のため、強制収容所は、もっぱら共産党員用だと宣伝された。ドイツのほとんどの町にあるといってもよい強制収容所について、新聞が一斉に報道したのだから、収容所の存在は秘密でもなんでもなかった。しばらくとはいえ、むしろ町民たちは、町に強制収容所があることを誇りに思っていた。ええーっ、そうだったんですか・・・。
 警察は、ユダヤ人が共産主義者のような裏切り活動と結託していることを示す努力を払った。ユダヤ人憎悪を広めるもう一つのやり方は、ユダヤ人を犯罪と結びつけること。横領、詐欺、密輸、性犯罪、金銭、麻薬、どんな罪でも、ユダヤ人がかかわるものを新聞は記事にした。うむむ、まさに権力によるデッチ上げの犯罪行為ですね。
 ヒトラーは激烈な死刑論者だった。だから、ナチ党が権力につくと、死刑判決の数が増え、死刑執行も増えた。死刑判決を受けた者の80%が執行された。1933年から45年までのあいだにドイツ国内の法廷で1万6500人に死刑を宣告し、その4分の3は執行された。その大多数はユダヤ人ではない。また、軍事裁判は、1万5000人に近い人々に死刑を宣告し、その85%が執行された。
 ヒトラー独裁制は当初から反ユダヤ主義を培ってきた。けれども最初の2年半は、一般に想像されているよりも用心深くおこなわれた。ユダヤ人を狙った行動は、1935年5月から勢いを増し、7月半ばになると、ベルリン中心部の高級店を乱暴者が襲うようになった。それでも、地下に潜った社会民主党員は総じて楽天的でありつづけた。彼らは人々がナチの嘘を見破るのを期待し、多くのドイツ人がナチの仕業を支持するはずがないと信じこんでいた。しかし、ナチは、反ユダヤ主義を広めるバネとして、ユダヤ人の逮捕とは、共産主義者を逮捕することと同じなんだと請合った。これで、多くの善良な市民が騙されたわけです。
 ヒトラーは、1939年9月、ドイツ国民が外国放送を聴くことを禁止した。ナチ警察は、こんな法律を守らせるのはきわめて難しいという理由から態度を保留した。たしかに、ドイツ人は、禁止されたイギリスのBBC放送をしっかり聴いていたし、それは公然の秘密だった。外国放送を聴いているという密告が数多くなされたが、その75%は、ナチへの支持とは無縁の、利己的な目的によってなされた。ドイツ全土が密告の雰囲気に包まれた。普通のドイツ人は、ゲシュタポを心配して四六時中ビクビクするどころか、自分たちの利益になるように制度を操作するように、この制度に順応した。
 ドイツ人は、囚人服を着て木靴をはいた囚人を色眼鏡をとおして見た。よくて無関心か恐怖心、悪くて看守と一緒になって侮蔑、敵意、憎悪をむき出しにして囚人を見ていた。
 一般市民も囚人を自分たちのために強制して働かせることをなんとも思っていなかった。囚人は、人間以下の人間として、国家の敵、犯罪者としての烙印が押されていたから。そして、ドイツの民間企業こそが、強制収容所囚人の最大の搾取者だった。IGファルベン、ジーメンス、ダイムラー、ベンツ、フォルクスワーゲン、BMW、などなど。
 1941年にダッハウ収容所には、8つの衛星収容所があった。それは120ヶ所にまで増えた。衛星収容所の多くは市町村のまんなかに置かれたから、住民としては見ないわけにはいかなかった。ベルリンには30ほどの衛星収容所があって、そのうち半数は女性だった。そのほか、700の外国人労働者用のさまざまな収容所があった。このように囚人を住民の目と心から切り離すことは不可能だった。
 住民は、囚人を犯罪者か共産党員だと信じこんでいたし、無反応であり無関心だった。
 300頁ほどの本ですが、大変重たく感じる本です。いまの日本は、小泉元首相への熱狂によって悪い方向に大きく切り換えられてしまいました。このことは、今では明確だと思うのですが、まだまだ多くの日本人はそのことを自覚しないまま、景気回復の幻想にひたっているような気がしてなりません。残念です。
 連休は熊本以外、どこにも出かけず、モノカキと庭仕事に精を出しました。ウグイスの鳴き声を聞きながら、庭を掘り下げて、野菜と木を植えました。まずアスパラガスです。今年は例年とちがって、なかなか芽が出てきません。植えてから、もう10年にはなりますので、寿命が来てしまったのかもしれない。そう思って、新しい苗を買ってきたのです。そして、少し離れたところに沈丁花の木を植えました。毎年、早春に咲いてくれていたのですが、近くのアンデスの乙女にでも負けてしまったのか、枯れてしまいました。最後にツルバラです。フェンスにからんで咲いてくれていたのですが、これも枯れたので、前と同じ紅い花のツルバラを植えました。
 サクランボの実が、ぎっしりなっています。ヒヨドリが早速食べにやってきました。ヒマワリが庭のあちこちでぐんぐん伸びています。連休が終わると、もうすぐホタルも見れるようになります。初夏はもうすぐです。
(2008年2月刊。5200円+税)

2008年4月21日

シェフの哲学

著者:ギイ・マルタン、出版社:白水社
 パリの三ツ星レストラン『グラン・ヴェフール』のシェフが語った美味しい話です。読むだけで思わずよだれがこぼれ落ちてきます。フランス人は食に人生をかけているのです。
 私がフランスが好きなのは、そこに魅かれるのです。あっ、中国人も食を大切にしていますよね。それに比べてアメリカ人って、なんであんなに食事を粗末にするのでしょうけ。ファーストフードなんて、身体にも良くありませんよ。
 原産地証明つきの食材でしか仕事をしない。そのためには納入業者の質が重要だ。その質こそが食文化を洗練するための基礎になる。そして、もっとも時宜にかなった最良の食材を探し求める。季節の移り変わりに完全に合致した旬の食材追求を片時も中断してはならない。これには、強い好奇心が必要だ。
 著者は冷凍魚や長期にわたって氷漬けになっていた魚は断固拒否します。ブルターニュや地中海から直接に取り寄せたものですし、養殖物ではありません。
 食材のなかの最良のものを探し出すのが、シェフの挑戦なのだ。
 な、なーるほど。やっぱり、まずは素材なんですね。インチキ産地はいけません。
 人は単に食べるためだけにレストランにやって来るのではない。期待にみち、喜びを求めてやって来る。だから料理には、香り、味わい、彩りはもとより、質感、たとえばぐっと凝固しているとかスポンジ状であるとか、蜂の巣状であるといった姿。さらに柔らかい、溶ろける、パリパリした、カリカリしたという食感が求められている。
 料理は、感覚全体、つまり味覚は当然のこととして、さらに嗅覚、視覚、触覚そして聴覚の五感で賞味されるものだ。シェフはこんなあらゆる要求を満足させるように、あらゆる期待感を呼び起こすように自分だけのレシピを入念に仕上げる。
 シェフは幸福を売るセールスマンのようなものである。
 多くのシェフと違って、著者はゼロから始めました。業界内にコネはなく、家系も別にありません。今日の有名シェフの多くは、その両親もこの業界に身を置いていたそうです。
 プロフェッショナルな試食・試飲は、冷静に、技術的に、客観的に行われなければならない。著者が自店でつかうすべての食材をパリで試食・試飲するのは、そのためだ。余人を交えずに比較し、メモをとり、議論し、最後に自分たちだけで決める。
 たとえば、フォワグラの生産者が売り込んできたら、その鴨はどのように飼育されたのか、どこから来た鴨か、何日間肥育したのか、肥育にはどのような穀物のどのバリエーションをつかったのか、その原産地はどこか、などを訊く。それに答えられなかったら、話はそこで終わる。それに詳しい説明ができたら、その人が有機農法規則にしたがって仕事をしていたら、見本を求める。そして試食してみる。見本をみて、このフォワグラは、処理場まで生きたまま運ばれたのか、殺されて処理場で取り出されたのか、などを確認する。
 うむむ、おぬし、そこまでやるか・・・。驚きました。
 私はフランス料理のなかでは、リ・ド・ヴォーが大好物なのですが、日本ではなかなかめぐりあうことができません。もし、あなたがリ・ド・ヴォーを食べたことがなかったら、一度、挑戦してみてください。もちろん、人によって好きじゃないということになるかもしれませんが・・・。
 厨房では、舞台裏と同じく、秩序ある興奮が支配していなければならない。
 料理という芸術を実践することは、毎日、綱渡りをしているようなものなのだ。シェフは独奏者であると同時に、オーケストラの指揮者でもある。常に自分の協力者たちの真ん中にいて、ジュを味わい、火入れの加減を確認するまさにその瞬間に、これから起こることを想定し、うまくいかないであろうと思えることを見分け、修正し、改めて必要な説明を行ない、安定して質的に統一されたやり方で、正確なリズムをチームにもたらすことができなければならない。
 もし、シェフが美食の殿堂の警護を自認するなら、それぞれの皿のごく細かい部分までコントロールしなければならず、料理人たちの驚きを誘うことにこだわりながら、新しいレシピを構成しなければならない。そのためには、まず何をおいてもオリジナリティ、創造性、新しいアイデアが不可欠である。
 あらゆる料理は、いくつ作っても同じ出来でなければならない。シェフと同等と考えられているセカンドたちと、スー・シェフは、シェフが不在であっても、火入れの加減、香り付け、盛り付けを変えることなく、それぞれのレシピが料理できなければならない。
 シェフの協力者たちは、単に創造のプロセスを全体として理解しているだけでなく、シェフ固有の感受性にいたるまで、ミリ単位ですべてを転写するように、また、シェフのどんな細かい眼差しの違いにもいちいち対応させられるように同化していなければならない。
 うひょー、これってすごいことですよね。たしかに、毎回ちがった味では困ります。といっても、マックといったファーストフード店のように、全世界どこでも同じ味つけというのはいやですね。私はマックは食べません。合成的な味つけに舌を慣らしたくないからです。あんなものを食べるくらいなら、メロンパンにしておきます。
 フォワグラは、曲げの力を加えたときに割れずに曲げられなければならないし、かといって、あまりにも柔軟であり過ぎてもいけない。つまり、固すぎても柔らかすぎてもよろしくない。その次に、見た目、色、肌理(きめ)が検証される。目に快い仕上がりでなければならない。小さな粒子感があって、高密度に締まっており胆汁の痕跡は無視できる程度でなければならない。
 料理人には味覚がもっとも重要だ。味覚を訓練し、繊細なものにしていかなければならない。これは一朝一夕ではつくり出せない。さまざまな味に徐々になじんでいく必要がある。繊細な舌、繊細な味覚をもつというのは、必ずしも生まれつきの才能ではなく、勉強であり、一つ一つの味や匂いを記憶していくことだ。薫り(アローム)は、個々の食材や香辛料の香りがきわめて複雑にまざりあって出来あがっているものだが、シェフであるからには、さまざまな香辛料を含んだ料理を味わったとき、直接的に何がつかわれているかを識別できなければならないし、つかわれた主な香辛料は何か、これをだいたい把握出来なければいけない。
 むひゃあ、すごーい。とても私にはできそうもありません。さすが三ツ星レストランのシェフですね。そのプライドがよく伝わってくる本です。
 高級レストランの経営も大変なんだという話も出てきます。こんなお店で、気のおけない友だちとおしゃべりしながら美味しく味わいたい、そんな本です。
(2008年2月刊。2700円+税)

2008年4月16日

ヒトラーとは何者だったのか?

著者:阿部良男、出版社:学研M文庫
 文庫本なのに、700頁もあります。ナチス・ヒトラーについて書かれた本を3000冊以上も読んだ人が、そのうちの220冊を厳選して要旨を紹介した本です。なんと、学者ではありません。銀行に勤めながら、長いあいだ、ヒトラー関連の文献を集めたというのです。私も、この220冊のうち、かなりの本は読んでいますが、負けました。といっても、私も、ナチス・ヒトラーに関連する本は300冊は読んでいると思います。
 ある分野について一応読んだと言えるためには最低300冊は読了することが必要だという説を読んだことがあるからです。ですから、私の書庫も、同じテーマのものは、集中しておくようにしています。そのテーマで書くときに必要な文献を、すぐに取り出せるようにするためです。私は、ヒトラーと同じように、ソ連とスターリンについても多くの本を読んでいます。
 ヒトラーは臆病で、総統などという柄じゃない。優柔不断で、考えがぐらつき、人の意見に左右される。いま誰かと話すと、そのたびにころっと意見が変わる。だが、抜け目がなく、立ち回りはうまいし、気の弱い人間に限ってそうなのだが、残忍なところがある。
 これはヒトラーと同時代の人の評価です。なるほど、と思います。ヒトラーは単純な精神異常者ではありませんでした。
 ヒトラーは、暴力行為がもっとも効果的な政治の手段であることはよく理解して実行していた。その効果は噂と恐怖の拡大現象で増殖し、次第に民衆の独立的な抵抗意識を奪っていった。
 アメリカのフォードは、ユダヤ人嫌いで、ドイツに輸出した自動車の売り上げから、ヒトラーに資金援助した。
 ナチス突撃隊(SA)のレームは、資本家と決別することをヒトラーに要求した。それは旧体制との妥協を考えているヒトラーには同意できないことだった。
 ヒトラーが1934年6月にSA隊長レームなど89人を粛清したことからナチ党の腐敗に対する断固たる処置としてヒトラーを高く評価し、神話が生まれた。
 ナチス・ヒトラーは、生きるに値しない障害者を計画的に抹殺した。精神障害者、結核患者、知的障害者など20万人がドイツ内の6施設で薬物やガスで殺された。
 この本で私が初めて知ったのは、アメリカ軍が200万人のドイツ兵を捕虜としたのに、通常の捕虜(POW)として扱わず、扶養する義務のない「新しい身分の捕虜」(DEF)と扱ったことから、100万人ものドイツ人が消えて(死んで)いったということです。アイゼンハワー元帥の考えによるものでした。
 「水晶の夜」の真相は、ゲッペルス宣伝大臣がチェコ人女優と恋に落ちて結婚を望み、宣伝大臣の辞任と日本大使を希望したのに対してヒトラーが怒ったことから、ゲッペルスが名誉挽回を図ったものだというのです。ひどーい話です。
 ホロコーストは、並の人間の想像力をはるかに超えていた。だからこそ、ホロコーストを否定する人々は、現在に至るまで、そんなことはウソだと言いはることができた。ナチ犯罪はあまりにも特異で、容易には理解しがたいものであるからこそ、これを否定しようとする、よどんだうねりは絶えることがなかった。
 それでも、ウソはウソなのです。日本軍が南京で大虐殺をしたことが事実であるのに、あたかもウソであるかのようにいいつのる日本人が絶えないのが悲しい日本の現実です。 1944年7月のヒトラー暗殺計画に直接加担したのは200人近い。21人の将軍、33人の将校、2人の大使、7人の外交官が含まれていた。処刑されたのは年内に5764人、年が明けてさらに5684人だった。ヒトラー最大の危機だったのですね。
 ヒトラーは、人種的観点からはむしろ問題の多い日本人との同盟を拒否はしなかったが、日本との対決を遠い将来に覚悟していた。ヒトラーは、日本が話題になるたびに、いわゆる黄色人種と手を握ったことを残念がる口ぶりを示した。
 ヒトラーは黄色人種、つまり日本人も蔑視していました。ヒトラーの言葉が紹介されています。
 白色人種の国々が結束していれば、極東を手に入れて、日本がこれほどのさばることもなかったはずだ。
 ヒトラーと妻エヴァの遺体は、埋葬場所を転々と変え、1970年4月、ソ連のアンドロポフKGB議長が最終処分を指示した。遺体は火葬され、灰はエルベ川支流に捨てられた。
 ヒトラーについて、その全体像を知る手がかりを与えてくれる本です。
 昨日は絶好の春うららかな日和でした。車で山間部の支部まで出かけました。桜の花がハラハラと散っています。ナシの白い花が満開です。民家の庭先に咲くハナズオウの赤紫色の花があでやかに輝いていました。レンゲ畑となっていた田んぼにトラクターが入って、すきおこしをしています。
 わが家のチューリップは今400本咲いています。いまが真っ盛りで、写真でお見せできないのが残念です。
(2008年1月刊。1300円+税)

2008年3月28日

オルガスムの歴史

著者:ロベール・ミュッシャンブレ、出版社:作品社
 表紙に書かれていたヌードの絵といい、タイトルといい、みるからに怪しげ気な本ですが、書かれていることはきわめて真面目な本なのであります。
 王妃マルゴは、彼女の奔放さにほとほと手を焼いた兄のアンリ3世から追放されるまでの自身の生涯を才能豊かに語った。おそらく夫のアンリ4世から請求された離婚の交渉を、より有利に運ぼうとして筆をとったのだろう。離縁され、王座からはるかに遠ざけられた王妃マルゴは、自分にとってもっとふさわしいイメージを、自分自身に対して与えようとしたのだ。
 16世紀ころのフランスでは、どれだけ殴っても生命を危険にさらさない限り、妻に体罰を加えてよいという権利が夫の与えられていた。妻は何よりもまず、夫の「所有物」であった。
 強姦は、被害者のほうが、生まれつき持っている好色に身をゆだねたのではないかと疑われるので、法廷でこれを証明するのは、きわめて困難だった。
 イギリスでは、1597年、離婚後の再婚はいかなる場合にも認められないという教会法をイギリス国教会が発布した。このようにカトリックでは結婚は解消することができないとされた。これに対してピューリタンは、結婚をただの非宗教的な契約であり、救済に何の関係もなく、完全に当事者同士の合意にもとづくものであるとみなした。
 フランス革命期の1792年につくられた法令は、離婚権は個人の自由にもとづくものである。離婚は、夫婦相互の合意によって行われる。配偶者の一方は、性格不和を申し立てることのみによって離婚の言い渡しを求めることができるとした。これはすごいですね。今と同じです。
 イギリスの首都には、1750年から1850年にかけて、庶民のあいだに風変わりな離婚の形態があった。妻を競売にかけるのである。もっとも、取り引きは、あらかじめ決めてあった。
 19世紀のイギリスでは男の2重性が発達した。昼は良き家庭の父親であったのが、夜になると厚かましい売春宿通いに変身するのだ。だからこそ、ポルノ文学が隆盛を誇った。そして、この時期は、本能を抑えるように口やかましく説いてまわる啓蒙哲学が盛んだった。
 イギリスでは、マスターベーションは18世紀のはじめに正真正銘のタブーとなった。
 イギリスでは、19世紀のあいだずっと、夫婦生活の営みのとき全裸になるのはワイセツの極みと見なされていた。
 1700年のロンドンには、2万人以上の徒弟がいて、1万人以上の娼婦がいた。
 19世紀のパリとロンドンは、地方からやって来る娼婦であふれていた。ロンドンは 1801年の人口が90万人だったのに1901年には450万人となった。このとき街娼の人数は8万人から12万人だった。パリの娼婦も同じく12万人だった。
 1746年にフランスのトゥールーズで処刑されたプロテスタントの牧師の公開絞首刑には、4万人もの見物人が押しかけた。そのうち2000人は子どもだった。公開処刑は、熱狂的な見せ物だった。
 教科書に書かれていないような生活の真実をいろいろと知ることができました。
(2006年8月刊。3200円+税)

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