弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
ヨーロッパ
2008年12月 9日
モスクワ攻防1941
著者:ロドリフ・ブレースウェート、 発行:白水社
1612年のポーランド軍も、1812年のフランス軍も、1941年のドイツ軍も、すべて同じルートをたどってモスクワを目ざした。ロシア軍は以上すべてのケースでスモレーンスクで抗戦し、1812年と1941年にはボロジノーで踏みとどまって抗戦した。1941年のドイツ軍は、ナポレオン軍とほとんど同じくらい馬匹輸送に依存していて、モスクワに接近するまでにナポレオンよりずっと長い日数をかけた。ドイツ軍侵攻が違っているのは、快速の機甲戦力を駆使して多数のロシア兵を包囲し、捕虜にする能力を持っていた点だ。
ドイツ側の数字によると、捕虜にしたロシア兵は、7月10日から10月18日までに225万人をこえる。
ナポレオンは1812年6月24日にモスクワ攻略を開始し、9月14日にモスクワに到達するまで83日かけた。ヒトラーは1941年6月22日に開始して、12月5日まで166日かかったがモスクワに到達することはできなかった。
ドイツ軍はモスクワ攻略を目ざすタイフーン作戦を10月初めに開始した。中部軍集団の戦車部隊が北と南から迂回してロシア軍前線に約480キロの突破口をこじあけ、70万以上のロシア兵を捕虜にした。10月末までにモスクワからわずか130キロの地点まで迫り、しばらく停止させたのち、11月15日に進撃を再開した。しかし、ロシア軍が頑強に抵抗し、ついに12月5日、ドイツ軍の最後の総攻撃は阻止され、ロシア軍の反攻が始まった。
モスクワ攻防戦は、第2次大戦でも、最大の、したがって、史上最大の会戦である。双方あわせて700万を超える将兵がこれに加わった。モスクワ攻防戦はフランス全土に匹敵する広大な地域で戦われ、6ヶ月にわたって続いた。ソ連は、この攻防戦だけで92万6000人もの戦死者を出した。この犠牲者数は第2次大戦全体を通じての英米両軍の犠牲者数の合計よりも多い。
モスクワに至る道の夏の砂塵はヒトラー軍の戦車や車両のエンジンを摩耗させ、詰まらせ、ついには立ち往生させた。冬の酷寒は夏の炎暑におとらずすさまじい。12月から2月まで、マイナス40度以下に下がることもある。しかし、最悪の時期は秋から冬、冬から春への季節の変わり目だ。このとき近代的に舗装された道路以外は、すべて泥沼と化す。ナポレオンとヒトラーの軍勢を押しとどめたのは、実は冬将軍ではなく、この泥濘だった。
スターリンは見境のないテロルを発動した。1973年と38年にはソ連全国で250万人もの人が逮捕された。4万人もの人々を刑場あるいは収容所に追いやり、全国で80万人もの人が処刑された。法廷で審理されることなく殺されたり、尋問中ないし獄中で死亡した人はこれよりもっと多い。
スターリンによる粛清期に、ソ連に5人いた元帥のうちの3人、16人の軍司令官(大将)のうち15人、67人の軍団司令官(中将)のうち60人、師団長(少将)の70%が処刑された。いやあ、何回聞いても信じられない、ひどい、おぞましいスターリンの圧政です。独裁者であるトップが狂うと、こうなってしまうのですね。
1941年1月、ソ連最高統帥部は2度にわたって国土演習をおこない、赤軍がドイツ軍の攻撃に対処する能力を検証した。いずれのシナリオでも防御側の敗北という判定が下された。赤軍が戦闘準備を完整するまでは、なにがなんでも戦争を避けなければならないことが明白となった。
独ソ戦争の勃発は、完全にイギリスの思うつぼだった、スターリンは、そんなトリックに引っ掛かるつもりはまったくなかった。スターリンの希望的観測は、破滅的な脅迫観念と化した。ドイツが自らの意思でロシアと戦うなんて絶対にありえない。このようにスターリンは確信していた。
1941年6月21日の真夜中にヒトラーがソ連国境に投入した兵力はナポレオン軍の6倍、300万の兵員、2000機の航空機、3000両の戦車、75万頭の馬。これらが3個の軍集団の戦闘序列下にあった。これに対して、ロシアは170個師団、400万の兵員を擁していた。ただし、その多くはまだ東部から移動中だった。
スターリンは開戦後1週間の緊張にすっかりまいってしまっていた。ドイツの意図について途方もなく誤った判断を下し、自らの固定観念にそぐわない助言を拒否したことで、彼の権威はひどく失墜した。その結果、スターリンは虚脱状態になって別荘にひきこもった。6月30日政治局の面々が別荘にやって来たとき、スターリンは自分を逮捕しにやって来たと不安に思い、「君らは何をしに来たのかね?」と問いかけた。ところが、この人々が腑抜け連中であることを見抜いたスターリンは自信を取り戻した。
この記述に私は眼を開かされました。あの独裁者スターリンも、一瞬、弱気になっていた時期があったのですね……。
ドイツ軍の進撃に対してロシア軍は意外なほど抗戦した。最後まで徹底して抗戦した。無謀な逆襲を仕掛け、自殺的な波状攻撃を仕掛けた。これはドイツ兵に脅威を感じさせた。結局、これがモスクワを救ったのです。
モスクワの若い女性たちも、男性にひけをとらないほど熱心に従軍を志願し、前線で電話・通信兵や衛生兵・軍医として活躍した。赤軍の前線勤務軍医の約40%、衛生兵の全員が女性であり、17人がソ連邦英雄の称号をうけた。うち10人は死後の追贈だった。
実践部隊の戦闘員として従軍した女性も多かった。中央女子狙撃手学校の卒業生は、戦争中に1万2000人のドイツ兵を射殺した。全部で80万人もの女性が戦時中、赤軍に勤務した。この女性兵士たちの活躍ぶりと、それが戦後は評価されなかったことを詳しく語った本は先に紹介しました。
スターリンは、赤軍将兵の後退を阻止するためにNKVD阻止隊を組織した。阻止隊は2万6000人を逮捕し、1万人を射殺した。戦争中に100万人の軍人が軍法会議で判決を受けた。その3分の1は脱走によるもの。40万人が刑の執行を猶予されて、懲罰部隊に編入された。懲罰部隊の死傷率は異常に高く、通常の部隊の6倍だった。
ドイツ軍の捕虜となってソ連に送還された元捕虜200万人が「洗い出し」システムにかけられ、34万人が労役大隊に送られ、28万人が逮捕された。
スターリンの存命中、ロシア人はまともな歴史を書くことができなかった。
スターリンの致命的な誤りにもかかわらず、ナチス・ドイツ軍のモスクワ信仰を阻止したのは、老若男女を問わないロシア人の自発的な犠牲的行動によるものであったことがよく分かる本です。当時の写真も豊富にあって、状況がよく伝わってきます。なんだか数字をたくさん紹介してしまいましたが、実はモスクワ市民の戦時下の日常生活の様子などもたくさんの写真とともに紹介されていて、興味深いものがあります。
(2008年8月刊。3600円+税)
2008年12月 5日
ユダヤ人財産はだれのものか
著者:武井 彩佳、 発行:白水社
ホロコーストは史上最大の強盗殺人であった。
うむむ、な、なるほど、そういうことなんですね。
ナチス・ドイツにとって、移住とは、無産化したユダヤ人の輸出であった。ヒトラー政権の成立時にドイツに暮らしていた52万5000人のユダヤ人のうち、移住した者は30万人、殺害された者は14万人とされる。その残りは不明ということでしょうか……。
1933年当時のドイツの民間銀行1060行のうち、ユダヤ系のものが490行もあった。つまり、地方の民間銀行は、著しくユダヤ的な業種だった。大手銀行が、ユダヤ系の銀行を買収していくのがアーリア化の実態だった。
ドイツにおけるユダヤ人収奪の最大の収益者は、明らかにドイツという国であった。
1938年、ドイツの国家財政は破たん寸前だった。赤字は20億マルクにまで膨らんでいた。戦争に向けて大幅な増税は避けられないが、ヒトラーはこれを拒否した。
ユダヤ人社会に10億マルクの弁済額が課せられ、特別税収は国家の収入を一気に6%も押し上げた。また、ユダヤ人の大脱出による出国税の税収増も加わった。戦争が始まる前は、国家予算の9%がアーリア化による収入であった。
ユダヤ人から奪った物品を無償で分配することは原則としてなかった。収奪品を軍に引き渡すときにも支払いが要求された。盗品にも値札がつけられていた。
ヨーロッパのユダヤ人から奪われた財産は、ドイツの戦争経費へ転化された。
そして収奪されたユダヤ人の財産を戦後、どのように被害者へ還付するかというのが問題になったとき、肝心の遺族がいなかったのです。皆殺しにされたのですから、当然といえば、当然の現象ではあります。
そこで、ユダヤ民族という集合体が、ヨーロッパに残された財産の相続人であるという国際法の常識を覆す主張が登場した。
しかし、ユダヤ民族とは法的に定義可能なのか。民族というものに個々のユダヤ人の財産の相続権があるのか。つまり、集団全体は、集団の構成者の財産に対して権利を主張しうるのか。いずれにしても、殺して奪ったものによって富むことは許されない。このことは言える。
では、誰が、相続人不在のユダヤ人財産に対する権利を有するのか。
戦後ドイツのユダヤ人は2万人ほどでしかない。戦前の52万人ものユダヤ人には、とても匹敵しない。
ナチス・ドイツが占領国の中央銀行から略奪した金塊を、スイスの中央銀行を含めた銀行が購入していた。
ナチスに追われた難民がスイス国民で追い返された件数が2万4500件あり、少なくとも1万4500件の入国ビザ申請が領事館で却下された。
IBMは、ナチ収容所の囚人管理のためのデータ管理システムを提供していた。
ひえーっ、これには驚きました。あの天下のIBMって、ナチスのユダヤ人殺害に協力していたなんて、まったく知りませんでした。
島根の同期の弁護士から、太くて長い立派な長芋をたくさん送ってもらいました。実に見事な山芋で、トロロ汁を美味しくいただきます。でも、ちょっと食べきれませんので、知人にも少しだけ、おすそわけしました。
トロロ汁もいいのですが、山芋ステーキも腹もちして、いい案配です。そして、梅肉を混ぜ込むと、これまた絶品です。思い出すだけで、口中によだれがたまってきてしまいました。
(2008年75月刊。2600円+税)
2008年10月22日
戦争は女の顔をしていない
著者:スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチ、 発行:群像社
久しぶりに思いっきり感動しました。人間、そして社会の実相にトコトン深く迫った本だと思います。戦争という極限の状態に追いやられたとき、人間がどういう行動をとるのか、そして、平和を回復したとき社会がその過去の極限状態についてどう評価するのか。予想をはるかに超えた厳しいマイナス評価がなされます。すると、極限状態に置かれていた人々は一体どうなるのか…。
つい最近、NHKスペシャルで、イラク戦争に従軍したアメリカ人女性兵士が本国へ帰還してから悲惨な状況に置かれている様子が2回にわたって放映されていました。戦場で13歳の少年を殺してしまった女性兵士が、我が子を素直に抱けなくなってしまったというのです。とても衝撃的な番組でした。よくぞここまで映像にできたものだとNHKを再評価したほどです。この本は、そのアメリカ人兵士と同じ状況が第二次大戦を戦ったソ連赤軍の女性兵士にも起きていたことをまざまざと浮き彫りにしています。
ソ連では、第二次世界大戦に100万人を超える女性が従軍し、パルチザン部隊や非合法の抵抗運動に参加していた女性たちもそれに劣らぬ働きをした。
わたしが子ども時代をすごした村には女しかいなかった。女村だ。男たちはみな戦争に駆り出されていた。女の子たちの中には「前線に出なけりゃいけない」という空気が満ちていた。
父が殺された。兄も戦地で亡くなった。母は訊いた。「どうしておまえは戦争に行くの?」その答えは、「お父さんの敵討ちに」。
女性用の狙撃兵訓練所があった。敵といったって人間だから、ベニヤの標的は撃っても、生きた人間を撃つのは難しい。人をはじめて撃ったときは恐怖にとらわれた。自分は人間を殺したんだ。この意識に慣れなければならなかった。たまらなかった。
戦線から戻ってきたとき、21歳のなのに、すっかり白髪だった。
狙撃兵は2人一組で働いていた。部隊から「勇気を称える」メダルをもらったのが19歳。すっかり髪が白くなったのが19歳。最期の戦いで、両肺を打ち抜かれ、2つ目の弾丸が脊椎骨の間を貫通し、両足が麻痺して戦死したとみなされたのも19歳だった・・・。
女の子たちは、戦闘機にも飛行士として乗った。飛ぶだけでなく、実際に彼女らは敵機を撃墜した。
戦争で一番恐ろしかったのは、男物のパンツをはいていることだった。これは厭だった。夏も冬も、4年間も、戦場ではいていた。
クルクス大戦車戦にも女の子たちが兵士として参戦していたそうです。
ドイツ軍は、従軍していたソ連の女たちを捕虜にとらなかった。ただちに銃殺した。
通信兵をしていた女の子の心臓に弾丸があたった。ちょうど、鶴の群れが頭上を飛んでいった。
「残念だわ、あたし。ね、あ、あたし、本当に死んじゃうのかしら」
そのとき、郵便が配達された。
「あんたの家から手紙が来てるの。死んじゃダメ」
母親からの手紙だった。
「あたしの大事な、かわいい娘や」
手紙は終わりまで読み上げられた。そのあと、アーニャは目を閉じた。その様子を見て、医者は「奇跡が起きた」と叫んだ。
簡易塹壕や焚き火のそばで、むき出しの地面に何年も寝泊りすることが、何年も軍用ブーツや軍用外套を着ていることが、どうして18歳から20歳の女の子にできるのか。しかし、戦争の中でも、女性らしい日常は忘れられてはいなかった。
戦争はどんな色かと聞かれたら、こう答える。「土色よ」。工兵にとっては、黒や、砂の色、粘土の色、地面の色だと・・・。
私たちは、恋を胸のうちで大切にしていた。恋愛はしないなんて、子どもじみた誓いは守らなかった。恋していた・・・。
ソ連の従軍兵士たちは15歳から30歳で出征していった人たちで、看護婦や軍医だけでなく、実際に人を殺す兵員でもあった。ところが、戦争で男以上の苦しみを体験した彼女たちを、次の戦いが待ち受けていた。戦争が終わると、従軍手帳を隠し、支援を受けるのに必要な戦傷の記録を捨てて、戦争経験をひた隠しにしなければならなかった。「戦地に行って、男の中で何をしてきたやら」と、戦地経験のない女性たちからは侮辱され、男たちも軍隊での同僚だった女性たちを守らなかった。
取材される女性たちは、戦場でのあの地獄を追体験したくないといって語りたがらなかった。
戦後何十年もして、ジャーナリストが『プラウダ』に女たちも戦争に行ったことを初めて書いてくれた。従軍していた戦闘員の女性たちが家庭を持てず、今も自分の家もない女たちがいること、その人たちに対して国民みんなに責任があるということを書いた。それから初めて戦争に行っていた女たちに少しずつ注意が向けられるようになった。
すさまじい戦争の実相がよくぞ語られています。胸の奥底深くに迫ってくる衝撃の本でした。一読されることを、皆さんに強くおすすめします。
(2008年7月刊。2000円+税)
2008年10月16日
ベルリン終戦日記
著者:アントニー・ビーヴァー、 発行:白水社
1945年4月、ドイツの首都ベルリンにいた34歳の女性ジャーナリストの書いた日記です。ニセモノ説もあったようですが、ホンモノだと判定されています。この本を読むと、ニセモノ説があったなんてとても信じられません。きわめて具体的でまさに迫真そのものです。ジューコフ元帥の率いるベロルシア方面軍150万の赤軍兵団がベルリンを占領し、至るところでドイツ女性を強姦するのです。その状況が被害者として生々しく語られます。
日記は、1945年4月20日から6月22日までの2ヶ月分です。この間に、米英の空軍機による空襲、ソ連赤軍による地上砲撃、市街戦、ヒトラーの自殺(4月30日)、ドイツ軍の降伏(5月2日)、連合軍のベルリン占領があった。
1945年にレイプ被害にあったドイツ人女性は、200万人と見られている。ベルリンでは10万人から13万人とされている。
第一段階はソ連兵士による復讐と憎悪によるもの。多くの兵士は戦争の4年間に自国の将校や政治委員たちによってひどい屈辱を受けていたので、この屈辱を何としても埋め合わせねばと感じていた。ドイツの女たちは、そのもっとも簡単なターゲットだった。
第2段階では、赤軍兵士はその犠牲者を選ぶにあたってより慎重になり、防空壕や地下室の女たちの顔に懐中電灯の灯を当て、一番魅力的な女を選ぼうとした。
第3段階では、ドイツの女たちが特別な兵士あるいは将校と非公式の合意を結び、男たちは別の強姦者から彼女たちの身を守り、性的服従の見返りに食料をもたらした。
ソ連軍が占領する前、ある夫人が叫んだ。
頭上のアメ公より、腹の上の露助のほうが、まだましだわ。
赤軍兵士は、まず問いかける。「結婚しているのか?」 もし、そうだと答えれば、次には夫はどこにいるのか、と問う。もし、いいえと答えれば、ロシア人と「結婚する」つもりはないかと問う。それに続いて妙になれなれしい態度をとる。
彼らは太った女を捜していた。おデブちゃん、すなわち美人。その方が女らしいのだ。男の身体とは全然違っているから。
(強姦されているとき)私の自我は身体を慰みものにされた哀れな体をあっさり見捨てようとしている。それから、遊離して、漂いながら白い彼方へと無垢なまま向かおうとしている。こんな目にあったのが私の「自我」であってはならない。嫌なことは何もかも追っ払ってしまわなければ。頭がおかしくなっているのだろうか。
強い狼を連れてきて、他の狼どもが私に近づけないようにするしかない。将校、階級は高ければ高いほどいい。司令官、将軍、手の届くものであれば、なんでもいい。
シュナップス(アルコール)は、男を興奮させ、性的衝動をひどく亢進させる。赤軍兵士が見つけた大量のアルコールがなければ、強姦事件だって半分ですんだはずだ。兵士たちはカサノヴァではない。自分で景気をつけないと大胆な行動には出られない。酒で洗い流さなければならないのだ。だからこそ、連中は必死に飲むのだ。
それなのに、ナチス・ドイツはアルコールを貯めていた。それを飲んだら行動が鈍るだろうと、間違った予測を立てていた。
著者の生理も乱れてしまったようです。医者に診てもらうと、「食事のせいです。体が出血をおさえようとしているのです。あなたの体がまた太ってくれば、周期にも問題がなくなりますよ」といわれたとのこと。
『ベルリン陥落』(白水社)に描かれていた状況を、一女性の立場で生々しく告発しています。
(2008年6月刊。2600円+税)
2008年10月15日
アテネ最期の輝き
著者:澤田 典子、 発行:岩波新書
アレキサンダー大王(この本ではアレクサンドロス大王)が活躍していた当時、アテネの民主政がギリシア最期の民主政として輝いていたということを初めて認識しました。
紀元前338年、フィリポス2世の率いるマケドニア軍とアテネ・テーベを中心とするギリシア連合軍とが激突した。カイロネイアの戦いである。このとき、マケドニア軍が圧勝した。
フィリポスは、自らが率いる右翼の歩兵部隊を後退させ、対峙するアテネ軍がこれを追って前進した。偽装退却と反転攻撃を組み合わせ、敵の戦列を撹乱して撃破するというフィリポスお得意の戦法にアテネ軍はひっかかってしまった。
ところが、この敗戦のあと、フィリポス2世は寛大な講和条件を示した。領土の没収も賠償金の支払いも求められず、アテネにマケドニア軍が駐留することもなかった。さらに、アテネの捕虜全員を無償で釈放した。このことによって、アテネでは、10数年間の「平和と繁栄」の時代が到来した。
アテネ民主制で重要な役割を果たしたのは、民会と500人評議会、そして民衆法廷である。市民の総会である民会は、アテネの最高評議機関だった。成年男子市民の誰もが民会に出席して発言する権利を持ち、平等の重さの一票を投じることができた。行政・立法・軍事・外交・財政など、ポリスに関わるあらゆる案件が年に40回開催された定例の民会で市民の多数決によって決められた。
民会は1万7000人を収容するディオニュソス劇場などで開催されていた。その審議を円滑にするため、民会の審議事項を先議したのが500人評議会である。評議員は、30歳以上の市民から抽選で選ばれ、1年任期だった。
民衆法廷のほうも、抽選で選出された。30歳以上の市民6000人が任期1年の陪審員として登録される。そのなかから、裁判の性格や規模に応じて、201人とか501人といった陪審員が選ばれて個々の法廷を構成した。判決は、陪審員の秘密投票による多数決で決まった。
このころ活躍したデモステネスは、弁論術の習得のため、血のにじむような努力を重ねた。たとえば、口の中にいくつかの小石を入れたまま演説の練習をして不明瞭な発音を直そうとした。坂を上りながら演説を一息で朗唱する。海岸で波に向かって大声で叫んで息や声量を鍛えた。役者から演技の指導を受け、大きな鏡の前で演説の練習をした。
だから、反対派は「デモステネスの議論はランプの臭いがする」と嘲笑した。夜通しの苦労がありありと分かるとケチをつけたわけである。いやあ、すごいですね。これから裁判員裁判が始まろうとしていますので、日本の弁護士も演技指導を受ける必要が出てきました。
マケドニアの王フィリポス2世は、ギリシア世界の王者として華々しい祝典を執り行っている会場で、衆人環視の中で暗殺された。暗殺者は、なんと若い側近の護衛官だった。フィリポスはまだ46歳であった。
このときアレキサンダーは20歳になったばかりだが、王位に就くことができた。
アテネで市民権を喪失すると、市民身分にともなって発生する公私の諸権利を喪失する。民会への参加、裁判を起こすこと、一定の公職に就くことが禁止され、また神域やアゴラへの出入りも禁じられる。
兵役を忌避した者、両親を虐待した者、姦通した妻を離縁しなかった者、国庫に借財を負っている者、偽証罪などで三度も有罪になった者は市民権を全面的に喪失する。
アテネの公的裁判は私訴が1日に複数の裁判が行われるのに対して、1日1件のみ。1件当たり6時間半もの時間が保障された。原告・被告の双方とも、弁論の持ち時間は2時間半前後だった。
再びアテネがマケドニア軍に敗北したとき(前322年)、マケドニアは参政権について一定の財産を持つ上層市民に制限するという寡頭政をアテネに押し付けた。参政権の財産資格は、2000ドラクマであった。これによって、1万2000人の成年男子市民が参政権を失った。財政の多寡に関わらずすべての市民が平等に政治に携わることを原則としていたアテネ民主政は、カイロネイアの戦いから16年たったクランノンの戦いでギリシア連合軍が敗北して終焉を迎えた。
しかしながら、アテネは前338年に独立国家としての地位は失ったものの、その民主政は前322年に突然終止符が打たれるまで強靭な生命力を持ってたくましく行き続けた。
アテネ民主政の様子を知ることができました。それにしても、小泉流のごまかしに民衆が踊らされることもあったようです。総選挙が近づいていますが、今度こそはその場限りの甘い言葉にごまかされないようにしたいものですね。
(2008年3月刊。2800円+税)
2008年10月13日
タンクバトル
著者:斎木 伸生、 発行:光人社
第二次世界大戦のとき、ナチス・ドイツ軍とソ連軍とのあいだで戦われたクルスク大戦車戦というものに関心があったので読みました。この本のオビには、「独ソ戦車戦のクライマックス」と書かれています。ドイツのティーガー戦車が「活躍」するわけですが、実際には戦局を転換するほどのものではなかったようです。ソ連のT34戦車が次々に撃破されてしまうのが哀れです。祖国を守るため死を恐れず勇敢にドイツ大型戦車に突撃していくソ連軍戦車の勇士を褒め称えたくなります。
図と絵と写真入りで、要領よく個々の戦闘経過がまとめられています。深い分析はなされていませんが、非情な戦車戦の実情が伝わってくる本です。
10月初めに富山で行われた人権擁護大会で、米田さんという新聞記者が、防衛白書に「脅威」という言葉はなくなっていると指摘していたのにハッとさせられました。それに代わる言葉として、「不安定要因」と書かれているそうです。軍隊は「敵」の存在を不可欠とするものです。「敵の脅威」があるからこそ、軍備を強化する必要があるということになるわけですが、なんとそれがないというわけです。
では一体、防衛省そして自衛隊は何のために存在しているのでしょうか。米田さんは、自衛隊を海外にも派遣できる災害救助隊とすること、そして、現在、国内各地にある基地を整理統合し、5兆円にのぼる軍事費を削減して他に回したら良いという趣旨の提起もされ、なるほどと思ったことです。
さらに、「脅威」がないという点で、日本に「攻め込む」可能性がある国として、ロシア、中国、北朝鮮がよくあげられるけれど、ロシアと中国については、その能力はあるけれど、意思が全く認められない。北朝鮮には能力も意思もないとキッパリ断言されたことがとても印象的でした。
むしろ、アメリカは、中国を潜在的脅威と見ていること、また、台湾を手放すつもりがないことから来る紛争の可能性がないわけではなく、そのとき、日本がアメリカと一体となると中国が見ていること、つまり、中国にとって日本こそ脅威になっていると見られていることの重大性の指摘もあり、考えさせられたことでした。
イラクのサマワに派遣された自衛隊の旭川師団が、イラクから帰還したあと、旭川の町で集団暴行事件を起こしたそうです。それまでは市民を守るべき存在として教育が徹底してなされてきた。ところが、イラクに行ってそのタガが外れてしまったようだ、というのです。
イラクでオレたちは生命をかけて国を守るために苦労してきた。それなのにおまえらは平和な日本でぬくぬく、のほほんとして、許せない…。血がたぎったまま平和な日本に帰国してきた隊員の、そんな鬱憤が集団暴行事件に繋がったようです。怖い話です。
(2008年9月刊。2300円+税)
2008年9月28日
アシナガがゆく
著者:辻本 公一・斉藤 護、 発行:徒歩々庵編集工房
いやあ、驚き、呆れ、恐れ入りました。こんなことを思い立ち、そして、それを実行する人が、この世の中にはいるんですね。信じられません。だって、パリからスペインまでの1800メートルを2ヶ月かけてテクテク歩いていったというのですよ。それも、いい年齢(とし)した弁護士のおっちゃん(67歳)が…。私の方はちょうど膝に神経痛が出て、歩くのも不自由していたときに読みましたから、余計に驚嘆してしまいました。
大阪には、狂歩楽々宗なる得体の知れないグループがあるとのことです。しかも、そのメンバーたるや、今の大阪弁護士会長、元の日弁連副会長まで加わっているというのです。なんだか西欧社会を背後で操っているというフリーメーソンみたいではありませんか…。(失礼しました)
この本はまず、その狂歩楽々宗の有力信徒の一人である佐伯照道弁護士より贈呈されました。途中まで読んでいたところ、なんと恐れ多くも狂歩楽々宗の教祖様である辻本公一弁護士からも贈呈本が届いたのです。私のかねてより敬愛する石川元也弁護士の紹介で送るとの添え書きがついています。これは大変なことになった。そう思って後半を読み進めていったという次第です。
いったい、2ヶ月間も、フランスをパリからスペインにかけて歩きとおすなんていう発想はどこから出てきたのでしょうか…?あとがきによると、大阪でも通勤するのに往復を歩いていたということです。1年間に360キロを歩いたと書いてありますので、毎日1キロ歩いたというわけですね。すごいですよね、これって…。それで、音に聞くコンポステル巡礼路へ行ってみよう、そして、美しいというフランスの田舎も見てみたいと思うようになった、というのです。なるほど、フランスの田舎町は美しいです。でも、でもですよ。一人でテクテク歩くのです。それも重たいリュックサックを背負って、なんですよ。私なんか、考えただけでも足が引きつってしまいそうです。
パリから歩いていく途中で、ロワール川の古城めぐりのお城も登場します。シャンボール城やブロア城などです。私も3年前の夏に行ってきました。タクシーで一日かけて回りました。観光バスよりはゆっくりできたと思いますが、それを歩いて回ったとは…。
ブロアもいいし、アンボワーズもいいところです。レオナルド・ダヴィンチが生活していたお城でもあります。この本には、歩いた風景が写真で紹介されています。うんうん、こんなのどかな情景って、フランスのあちこちにあるよね、そこをゆっくりのんびり歩くって、人生最高の贅沢だよね。私もそう思います。だけど、でも、ですね…。
アシナガ氏は、ホテルに泊まって朝食をとって、だいたい午前9時ごろに歩き始めたようです。たまには3日間ほど同じホテルに泊まって、休養もしたようです。それはそうですよね。そして、一日9時間も歩いたことがあるそうです。一日に30キロとか40キロも歩くのです。しかも、雨が降っていても歩いたというのです。すごーい。
ホテルはケータイで前日のうちに予約していたようですが、たまにはぶっつけ本番であたったりもしています。道に迷ってしまって夜になってもホテルが見つからず、道を尋ねたところ、親切な母娘に車でホテルまで送り届けてもらったこともあるといいます。やはり、見知らぬ国での一人旅は大変な冒険です。
ところが、フランスではひなびた村にもとびきり美味しい料理を出してくれるレストランとホテルがあるのです。そこが、フランスの旅の良いところです。
壁には風雅な飾り物。趣味のいい調度品、ゆったりとしたテーブルの配置、テーブルの上には古風なローソクスタンド。実に落ち着いたくつろぎの空間を演出している。若い夫婦二人で切り盛りしているホテル・レストラン。夫は厨房で料理を、妻はテーブルを回ってメニューを配り、注文を聞き、料理やワインを運び、天性の美しい笑顔で、お客と和やかに言葉を交わす。その挙措は精錬され、優雅なことこの上ない。
アペリティフはカシスのキール。本日のスープはバジリコ入りの熱々スープ。メインデッシュは盛り付けも鮮やかな鴨のステーキ。味も申し分なし。ワインにもハズレたころは一度もない。
いやあ、ホントなんですよね。さすが、うまし国、フランスだけのことはあります。どんな田舎に行っても、美味しい料理を期待できる。それがフランスです。
田園地帯を歩いていると、牛が物珍しそうに近寄ってくる。眠たそうな目でじっと見つめ、トコトコと寄ってきて、「おっちゃん、どこ行くん?」と聞いてくるのもいるほど…。
やはり、狂信的な信者というしかありません。いやはや、見事な道中記です。写真もまた素晴らしいですね。 感心、感嘆、感銘を受けました。
(2008年8月刊。?円)
2008年9月13日
フランスに学ぶ国家ブランド
著者:平林 博、 発行:朝日新書
フランスは超大国ではない。核保有国であり、国連の安全保障理事会の常任理事国であるが、経済規模や人工などの観点からすると、中規模国家である。面積を除いて、日本の方が経済力などで上まわる。しかし、フランスには独特の国家ブランドがある。フランスには、独自の「国のかたち」があり、強い発信力がある。
そうなんですよね。まるで下駄の雪みたいに、踏まれてもバカにされてもひたすらアメリカの言いなりになる日本とはまったく違って、フランスは独自路線を少しでも強調しようとします。もっとも、今のサルコジ大統領は露骨な親米政策を打ち出していますが…。
サルコジはかつてトヨタ自動車がフランスに進出するに当たって、弁護士としてアドバイスしたことがあり、トヨタの招待で日本にも一度来ている。サルコジの父はハンガリー貴族であり、ソ連赤軍から逃れてフランスに亡命した。母はギリシャ出身のユダヤ人。サルコジはパリ大学は卒業したが、グランゼコール(シアンス・ポ)に入ったものの卒業はしていない。フランスのグランゼコールというのはエリート中のエリートを輩出する大学です。
フランスは欧州諸国の中でもっともユダヤ人が多い。60万人いる。フランスを旅行すると、町並みを出た途端、豊かな田園風景が広がる。
フランスは穀物、乳製品、ワインなどの生産量は自国民の消費量を上まわる。果物や野菜も十分に生産しているが、輸入もしている。カロリー・ベースで計算したフランスの食糧自給率は122%(2003年)。フランスより自給率が高いのは、オーストラリア(237%)、カナダ(145%)、アメリカ(128%)である。
フランス人は食料の安全保障を当然に必要なことと考えている。
そうなんです。そこが日本と決定的に違います。日本人は、政府の間違った食糧政策を盲信させられています。食べ物は、お金さえあれば好きなように買えると思いこまされています。でも、そんなことは決してないのです。食料と水は、今や世界を制覇する道具と化しているのです。少なくとも、食糧自給率の向上に今すぐ日本政府は真剣に取り組むべきです。だって、日本の食糧自給率は、せいぜい40%しかないのですよ…。
フランスの就業人口の4分の1は公務員か国営企業に勤める準公務員である。
今の日本では、公務員を一人でも減らしたらその政治家の大手柄になります。一方では政治家の口利きと称して子弟を公務員として送り込んできたわけですが、目下、そのことが最大争点の一つとなりつつあります。
また、フランスでは、いくつかの宗教系の私立学校を除いて、学校はすべて公立ないし国立である。入学金も授業料もごくわずか。北欧となると、そのいずれもタダだそうです。
ニースから電車に乗って、カーニュシュルメールというところに行きました。駅前に無料のシャトルバスがあるとガイドブックに書いてありましたが、見あたりません。駅から歩いてルノワール美術館を目指しました。強い陽射しを浴びながら坂道をのぼっていったのです。ちょうど昼前のことでした。なんと、午後2時まで昼休みだというのです。汗が一度に噴き出してきました。仕方がありません。もう一つの目的地である古城にまわり、一休みしたあと、再びルノワール美術館に出かけました。オリーブの木が植えられている広大な丘にルノワールが晩年を過ごした建物が残っていました。ルノワールの絵って、本当にいいですよね。見ていると、気持ちがほんわか、ゆったりしてきます。暑いなか苦労してたどり着いた甲斐はありました。
(2008年5月刊。740円+税)
2008年9月 9日
タンゴ・ステップ
著者:ヘニング・マンケル、出版社:創元社推理文庫
上下2巻のスウェーデン産ミステリー小説です。なかなかの読みごたえがあります。私はスウェーデンがナチス・ドイツのあいだに深い関係があったことを初めて認識しました。
フランスに行く飛行機のなかで読みふけりました。実に面白く、ぐいぐい引きずられるように読みすすめました。第二次大戦前後、スウェーデンで大勢の人がナチス思想に共鳴し、ナチスの兵士になっていったというのです。今では信じられませんが、恐らく本当のことでしょう。著者は、私と同じ、1948年に生まれです。
1930年代、40年代、スウェーデンは実にナチス信奉者の多い国だった。彼らはドイツ軍がスウェーデンに侵入するのを待ち望み、スウェーデンがナチズムに統治されるのを何より望んでいた。
スウェーデンの軍事産業は多大な鉄鋼を寄贈し、それによってドイツの軍事産業はヒトラーの命じる最新式の軍艦や戦車を製造することができた。
日本からパリまでの飛行時間は実に12時間あります。その長さを忘れ去れる充実した読書タイムでした。推理小説ですから、ここで種明かしをするわけにはいきません。そこで、オビなどに書かれている文句を少しばかり紹介します。
影におびえ続けた男。元警察官の血まみれの死体は森の入り口で発見された。男は54年間、眠れない夜と過ごしてきた。森の中の一軒家、選び抜いた靴とダークスーツを身につけ、人形をパートナーにタンゴを踊る。だが、その夜明け、ついに影が彼をとらえた・・・。
ステファン・リンドマン37歳。警察官。舌がんの宣告を受け動揺した彼が目にしたのは、自分が新米のころ指導を受けた先輩が、無惨に殺害されたという新聞記事だった。動機は不明。犯人の手がかりもない。治療を前に休暇をとったステファンは事件の現場に向かう。
それにしても、スウェーデンにナチス信奉者がいたというのは何十年も前の過ぎ去った昔のこと、とは言えない現実があることを、この本は鋭くえぐり出しています。ネオ・ナチズムはヨーロッパのあちこちにひそんでいて、暗躍しているのです。それは、ちょうど、日本で大東亜戦争肯定論を唱える右翼のようなものです。どちらも歴史から学ぼうとはしません。
アヴィニヨンの駅前からタクシーに乗ってシャトー・ヌフ・デュパープ村へ行ってきました。前にボルドーのサンテミリオンにも行ったことがありますが、とても似た雰囲気の小さな村です。この村は高級ワインを産出するので名高いところです。村の周囲にブドウ畑が広がっています。はるか遠くには頂に白いものも見える高い山々が連らなっています。村の中心部の高台には今や城郭の一部しか残っていませんが、古いお城がありました。またまた美味しいワインを飲みたくなったものです。
(2008年5月刊。980円+税)
2008年9月 8日
フランスものしり紀行
著者:紅山雪夫、出版社:新潮文庫
私は大学生のころからフランス語を勉強していますし、フランスにも5回ほど行きましたので、それなりにフランスのことは知っているつもりでしたが、なんのなんの、まだまだ知らないことばかりだということを思い知らされる本でした。この夏にフランスへ行ってきましたが、フランスへの飛行機のなかで一生懸命にこの本を読んで予習しました。
パリはフランス語ではパリですが、英語ではパリスと、語尾のスまで発音しますよね。パリの語源はパリシイ族に由来する。
3年前にはロワールの城めぐりとモン・サン・ミッシェルそしてボルドー、サンテミリオンを歴訪しました。この本にもロワール川流域にある美しい城がいくつか紹介されています。アゼ・ル・リドー城、シノン城、ブロワ城、シャンボール城、シュノンソー城、アンボワーズ城です。その優美さ、壮大さは思わず息を呑み、足を停めてしまいます。素人カメラマンでも美しく撮ることができます。
そして、この夏は南フランスをまわってきましたので、そちらを紹介します。
アルルはゴッホが住み、こよなく愛した町です。駅から歩いて10分もかからないところに旧市街入り口の古い門があります。
ゴッホは、アルルは明るい色彩効果のため、日本のように美しく見える、と言ったそうです。もちろんゴッホが日本に来たことはなく、日本の浮世絵を見ていたことからの連想です。中心部にローマ時代の円形闘技場がほとんど完全な形で残っています。近づくと本当に圧倒されてしまいます。よくもこんな巨大な石造りの建物をつくったものです。この本によると、ローマ帝国が滅亡したあと集合住宅としてつかわれていたのが保存に幸いしたのだそうです。なーるほど、ですね。
アルルの郊外に有名なゴッホの「跳ね橋」があります。私は20年近く前にアルルの町から歩いていこうとして、見つからずに断念したことがありました。今回、タクシーに乗って「跳ね橋」に行ってみて、歩いていけるような距離ではないことを実感しました。ガイドブックに女性の一人歩きは厳禁と書いてありましたが、私は、女性だけでなく、男性もやめたほうがいいと思いました。なにしろ遠すぎるし、迷い子になるのは必至だと思ったからです。ゴッホの「跳ね橋」は再現されていますが、晴れていたら絵になるロケーションにありました。残念なことに、私の行ったときには曇り空でしたので、絵にはなりませんでした。
アルルから、タクシーでレ・ボーに行きました。ここは前にも一度行ったことがあるのですが、奇岩城としか言いようのない断崖絶壁の町です。
松本清張がレ・ボーを題材に『詩城の旅びと』(NHK出版、1989年)という本を書いています。清張は次のように描きました。
レ・ボーは、アルピーマ山塊の一部が平野に向かって突出した細長い岩山の上にあり、まわりを断崖絶壁で囲まれていて、まさに難攻不落としか言いようがない天然の要塞である。岩山の上に城塞の廃墟が延々と連なっている。
私も一番高いところまでのぼりましたが、とても風が強くて吹き飛ばされそうなほどでした。写真でお見せできないのが残念です。
(2008年5月刊。590円+税)