弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
ヨーロッパ
2008年1月29日
上からの革命
著者:渓内 謙、出版社:岩波書店
タイトルだけでは、いったい何の本なのか、よく分かりません。サブ・タイトルにスターリン主義の源流とあります。この本を読んでみて、スターリンの独裁権力形成過程の研究と名づけてほしいという感想を私はもちました。いえ、タイトルにケチをつけているということではありません。読んですごく勉強になりましたが、読む前には何についての本だろうかと皆目見当がつかなかったので惜しいと思ったということです。
著者の名前は、たにうち・ゆずると読むそうです。2004年2月に亡くなられています。東大名誉教授だったそうです。ロシア現代史が専攻です。レーニンの死後、スターリンがまだ独裁的権力を確立する前、1928年から1929年にかけての2年間のソ連を詳細にあとづけ、分析しています。大変勉強になりました。スターリンといえども一挙に独裁者になったのではないのですね。そのことが改めてよく分かりました。
スターリンを書記長に選出したソ連共産党の新指導部が最初に直面した重大な課題は、1927年10月以降、深刻化の度合いを深めつつあった穀物調達テンポの低落の阻止だった。これを放置すると、都市その他の消費地の食糧不足を招き、ひいては確立された工業化路線を脅かす危険もはらんでいた。
12月末には、党指導部はパニック状態に陥っていた。調達テンポの急速な引き上げは至上命令となった。
1928年のスターリンが起草した政治局決定によると、穀物調達に関する中央委員会の指示を達成しない地方党組織の書記は、党規約所定の手続きによらずに中央委員会が罷免できるとした。これは、党書記の全権のもとに、すべての国家、社会組織を一元化する体制の確立が図られたということである。
調達方法における強制的契機の強化は、統治構造における党書記の位階制の影響力の拡大と並んで、治安警察(オゲペウ)など強制装置の役割が政策の実現過程において突出する傾向を随伴した。
穀物危機を緊急に打開するための非常手段として、内戦体制の復活を思わせる組織的措置が採られた。この内戦体制への復帰は、完全に党組織主導により行われた。地方の非同調的態度に対する中央の対応は、威嚇と圧力の加重、とりわけオゲペウ権力の利用であった。
1928年1月15日、スターリンは中央委員会全権代表としてシベリアに出張した。
1928年の時点では、スターリンは、まだ機構の人であって、個人的独裁権力を確立してはいなかった。スターリンの意思が自動的に党と国家の意志となるというシステムはこの時期には実在していなかった。
シベリアでの経験をふまえて、スターリンは党組織の浄化を指令した。その対象となったのは、「農村の誰にも損害を与えないで、すべての農民の間で人気を保つことに務め、クラークと断固たたかうことのできない者たち」のこと。つまりは、農民の気分を無視できない良心的な人ということでしょう。なにしろ内戦状態にあるというのですから。
穀物の供出を拒否したのは、実際には多くは中農であって、クラークは少なく、貧農も少なくなかった。ある管区では、処罰されたのは、中農64%、貧農25%、クラーク7%という割合だった。
穀物危機に際して、党組織が非常措置適用主体として農村に君臨し、農民と対峙した局面があった。都市と工場から多数の党員が全権代表として農村に送られ、農村党組織、農民コムニストはその分肢として行動することを要求され、抵抗する組織と個人は排除された。農民は、もはや党の安定的同盟者ではなかった。
農村では、都市に比べて党の組織的基盤は脆弱であり、農民に対する党の日常的影響力は弱かった。穀物情報を戦時的に規制し、農民の動向をふくめて一種の軍事機密として扱われることになった。
農村において、クラークはいなくなったと考えられていた。クラークは都市の活動家の想像のなかだけに存在した。しかし、党にとってクラークとの闘いは終わらなかった。むしろ、隠れて機をうかがっている存在としてクラークはみなされた。その実体は、農村にある実体的秩序そのものとの闘いであった。歴史的に都市と工業を社会基盤として生成を遂げたボリシェヴィキ党は、農村では組織的に微力だった。
革命後、統治の党になって党員数は急増し、1921年に58万人、1925年には 100万人をこえた。農村出身の党員も増加したが、それは内戦に勝利する必要から農民出身の兵士に門戸を広げた結果であり、農村における日常活動の成果ではなかった。
スターリンは、1929年10月の時点では、農村における党の絶望的無力を率直に認めた。農村には、党とはまったく無縁な数千万の農民の大海が広がっている。
1929年初め、地方党組織あての党中央の声明は、選挙過程への党の強力な介入を指令した。党とコムソモールの系列から多数の責任活動家を農村に投入すること。
1927年の選挙では、選挙権を剥奪された者が、前回の3倍(選挙民の3.6%)に達した。1929年の選挙では、それがさらに増え、4.1%になった。そして、その基準が客観性を欠いた恣意的な事例が多発した。剥奪の実際は、中農の選挙過程からの脱落をもたらした。
1929年4月に開かれた党中央委員会で、ブハーリンらは最後の抵抗をした。スターリンのやり方は農民との結合を重視したレーニンの考えに反すると指摘した。しかし、ブハーリンは圧倒的大差でもって敗れ去った。急速な工業化をすすめるために必要な穀物を農民から入手するためには、国家的強制の行使も辞さないという決意が支持されたのだ。
こうやって、スターリンの強権的独裁が確立していったのです。なるほど、ですね。パンがなくてどうするんだ、という声には誰しも弱いところですよね。530頁もある大部な学術書ですが、ロシア革命の内実を少しうかがい知ることができました。
(2004年11月刊。11,000円+税)
2008年1月15日
受けてみたフィンランドの教育
著者:実川真由、出版社:文藝春秋
はじめから私事ですが、私の娘と同じ名前なので、とても親近感を抱きながら読みました。高校生の娘を遠くフィンランドへ一人送り出すというのは親も本人も、とても不安だったと思います。でも、結果オーライでした。大変な自信がついたようです。よかったですね、まゆさん。ぜひ日本でも大いにがんばってください。
フィンランドの教育レベルは世界一です。といっても、先日、フィンランドでも、アメリカと同じように高校生が校内で銃を乱射して人を殺し、自分も自殺したという事件が起きてしまいました。どこの国でも、まったく問題がないというわけではないのですね。それでも、この本を読むと、日本の高校と違って生徒がとてものびのび自由に毎日を過ごしているのがよく伝わってきます。うらやましい限りです。
フィンランドの学力は、読解、科学で世界1位、数学、問題解決能力で世界2位。日本は、読解力は14位、数学は6位。
フィンランド経済は年5%のペースで成長している。
フィンランドには塾も偏差値もまったくない。
フィンランドの高校は、どのクラスも25人から30人。中高一貫の高校は珍しくない。
フィンランドの学校は基本的にすべてタダ。学費はタダだし、学校での昼食と軽食もタダ。ただし、おいしくない。大学はすべて国立。学生は毎月、国から奨学金を受ける。寮に入れば、寮費もタダ。塾はないし、高校は単位制。
フィンランドでは、高校を卒業してすぐに大学に進学する人は少数派である。何年か働いたり、外国を放浪したり、ボランティアをしたり、兵役にいったりして、20歳を過ぎたころに、大学に行くことを考える。これって、いいですよね。自分の生き方、そして人生についてゆっくりじっくり考えることができます。私の娘も何回となく外国に出かけましたが、まだまだ考える時間が必要のようです。やはり、人生にはゆとりが欠かせません。
フィンランドのテストは、ほとんど作文(エッセイ)。英語・国語はもちろん、化学、生物、音楽までもエッセイ。つまり、自分の考えを文章にして書かせるのが一般的なテスト。フィンランドでは穴埋め問題などなくて、すべて記述式。テストには時間制限がない。テストの前、生徒たちはやたら分厚い本をかかえていて、それを読んで、知識を詰め込む。
フィンランドの教育の質の高いのは、教師の質が高いことと、義務教育を9年一貫制にしたことによるという。フィンランドでは、教師は絶対に尊敬される職業である。
教師は、授業中にふざけたり、しゃべったりする生徒がいると、何もいわずにドアを開けて「どうぞ」と言って外に出す。あとで、その生徒を呼び出して怒ることもない。
うむむ、これはすごいですね。日本でも、もっと教師は大切にされるべきです。
フィンランド人は暗算をしようとしない。フィンランド人は520万人。日本よりやや狭い面積。医療と教育に手厚いサービスがある。そして、地域コミュニティが機能している。地域のみんなが顔見知りで、挨拶しあう。友だちづきあいは一生続く。
フィンランドの不動産は日本並みに高い。外食やショッピングをせず、家でごはんをつくって家族で食べて、庭いじりやインテリアを手作りで楽しめば、お金はそれほどかからない。スラムもない。
フィンランド語は、書き言葉と話し言葉がかなり違う。メールは話し言葉で書く。フィンランド語は、ウラル語族に属していて、ハンガリー語と並んでヨーロッパでは特殊な言語である。フィンランドには、ぜひ一度行ってみたいと思っています。
(2007年9月刊。1524円+税)
2008年1月 9日
アレクサンドル?世暗殺(上)
著者:エドワード・ラジンスキー、出版社:NHK出版
1881年3月1日、ロシアのアレクサンドル?世が暗殺された。
専制、正教、国民性というこの3要素は、ロシアでは不滅の原理であった。スターリンも、ロシア国民には神と皇帝が必要であると言い、自らを皇帝とし神とすることで、スターリンはマルクス・レーニン主義を新しい宗教と化した。ロシアの急進革命家たちが建設したボルシェヴィキの帝国は、彼らが憎んだニコライ1世の帝国に驚くほど似ていた。
ロシアの上流社会はフランス語で会話し、宮廷の最有力メンバーは全員ドイツ系からなり、皇帝たち自身も90%以上、ドイツの血が混じっていた。
ドイツの諸公国は、久しくロシアの皇帝たちが妻を選ぶためのハーレムと化していた。昨日まで田舎の公女だった者たちが、貧弱な両親の宮殿を出て、野蛮な絢爛さでヨーロッパ人を驚かすロシアの宮殿に入っていった。花嫁候補のリストにあがっていたのはドイツの公女たちだった。
有名なフランス人作家キュスティーヌ侯爵はロシアを訪問して次のように書いた。
「これまで私は、真実は人間にとって空気や太陽のように不可欠だと思っていた。だが、ロシア旅行はそうした確信を揺るがせた。ここでは嘘をつくことが王座を守ることであり、真実を語ることは根幹を揺すぶることなのである」
こう書いたキュスティーヌの本は当然のことながらロシアで発禁となった。しかし、ロシアでは禁止ほど効果的な宣伝はない。キュスティーヌの書はロシアの全教養階級に読まれた。皇太子アレクサンドルも読んだ。
何もかも検閲によって圧殺された沈黙の国に、国外発信の暴露的な言説が響きはじめた。国外に自由ロシア出版所をつくり、非合法に国内にもちこまれたロシアの教養階級はひそかにこれを読んでいた。誰が情報を流していたのか。実は官僚たち自身だった。官僚の誰かが同僚を蹴落としたいと思ったとき、皇帝に密告しても効果はないが、国外に送れば直ちに皇帝の反応が得られた。皇帝が一番それをよく読んでいたからだ。
ロシアの軍隊は世界一偉大な軍隊とされたが、それを構成しているのは、一切の権利を剥奪された農奴階層の兵士たちであり、残酷きわまる体罰が横行していた。
ニコライ皇帝がヨーロッパ随一とみなしていたロシア軍はまたたく間に敗北した。なぜなら、ロシア軍はナポレオン1世時代の装備でナポレオン3世の兵士たちと戦わされていたからだ。
ニコライ皇帝が死んだとき、国庫は空っぽ、軍は孤立無援、軍備は時代遅れ、ロシア海軍には蒸気船もない。ヨーロッパでは、どこでも体刑は廃止されていたが、ロシアではいまも容赦ない鞭打ち刑が存在した。どこもかしこも不足と腐敗ばかり。農奴制が残存し、当事者不在のまま裁判が進行し、賄賂がすべてを決していた。
ロシアの皇帝は、何よりもまず厳しい存在でなくてはならなかった。
ロシアの皇帝って、残忍でなければ周囲から皇帝にふさわしいとは認められなかったそうです。そして、スターリンはそれに見習ったというのです。ちっとも知りませんでした。
ロシアの歴代皇帝はみな、農奴制廃止に経済的効果があることを理解しながら、結果としての政治的不利益を恐れていた。専制体制に立脚した帝国には調和が必要であった。
農奴制の存在のおかげで、国家は農民のための裁判所や多数の警察官をもつ必要がなかった。地主が農民の裁判官かつ警察官として、彼らを監督していた。
ロシアでは、すべてが隠されているが、秘密はひとつもない。
1861年3月5日、アレクサンドル?世は奴隷制を廃止した。これはアメリカ合衆国の奴隷解放よりも早かった。おまけに内戦も伴わなかった。ただし、どちらも、その解放者は暗殺された。
1864年、アレクサンドルは法の前で全国民が平等だと宣言した。にわかに出現した弁護士の中から、高名な雄弁家たちが排出し、国中にその演説が引用されるようになった。
1860年代にインテリゲンツィアという言葉が誕生した。この言葉はアレクサンドル皇帝による一連の大改革の産物なのである。
1866年4月4日、アレクサンドル2世は夏の庭園を出ようとしてピストルで撃たれた。しかし、皇帝は無事だった。ところが、ロシア皇帝の不可侵性はこれによって決定的なダメージを受けた。それまでもロシア皇帝は殺されてきた。ただ、それは宮廷の中で、秘密裡になされ、国民向けの公式発表では卒中などによる病死とされていた。ところが、民衆の目の前で銃で撃たれた。神聖なる皇帝の不可侵性というオーラが破壊されてしまった。
ロシア皇帝と、それをとりまくロシアの宮廷のおどろおどろしい内情がよく伝わってくる本です。
(2007年9月刊。2300円+税)
2007年12月28日
兵士・ピースフル
著者:マイケル・モーパーゴ、出版社:評論社
1914年に始まり、1918年まで続いた第一次世界大戦のなかで実際に起きたことをもとにした叙情あふれる反戦小説です。
小説の前半は、まるで童話の世界へ誘われたかのように、ゆったりと時間が流れ、子どもの目から見た村の生活が描かれていきます。いえ、決してバラ色の生活ではありません。森の中で木を切り倒しているうちに父親は大木の下敷きになって死んでしまいます。すると、住んでいる家から追い出されそうになり、食べるものにも困って、子どもたちは雇主の私有地に入って魚などを盗みとるようなこともせざるをえなくなります。
生まれつき発達の遅れた兄がいます。でも、彼を中心に家庭は平和に楽しくまわっているのです。彼をバカにするような人間とは対決し、決して交際なんかしません。
そんな心の狭い人間とは、私だってつきあいたくありません。
ささやかな幸せに満ちた生活をうち破ることになったのは戦争です。ドイツ軍が攻めてくるというのです。
男たちは、敵に背を向けて逃げ出すのかという問いを投げかけられます。恋人を得て妊娠させたばかりで、戦場なんかへ行きたくもない兄が、ついに戦場へ駆り出されてしまいます。そして軍隊で待ちかまえていたのは、情容赦もない鬼軍曹です。ことごとく対立し、徹底的にしごかれます。
ドイツ軍と対峙する苛酷な戦場で、その鬼軍曹は無謀な突撃を命じます。いま身をさらして突撃しても無為のうちに死ぬだけだ。もう少し待ってからにしようと言うと、上官への抗命罪にかけられました。戦場では戦線逃亡と同じく死刑です。とうとう、本当は勇敢で、リーダーシップのある兄は、死刑に処せられます。なんと不合理なことでしょう。戦争の非情さ、不合理さが、大人になる前の少年兵士の目から惻々と語られます。
第一次大戦のとき、290人以上のイギリス兵士が脱走ないし臆病行為により銃殺刑に処せられた。そのうち2人は見張りのとき居眠りしていたことが理由だった。
この本は、「これ以上、砲弾の音に耐えられない」と銃を置いて歩み去ったところを憲兵に捕まり、臆病行為の罪で銃殺刑になった若いイギリス兵の実話をもとにして書かれています。銃殺するのは、その兵士の所属する部隊の兵士たちです。遺体を埋めることまでやらされます。
『西部戦線、異常なし』の部隊となった「マルヌ会戦」以来、数百万人の戦死者が出たという戦場での出来事です。
戦争とは、日常の一切のものを圧しつぶしてしまう非情かつ不合理なものであることが、じんわり切なく伝わってくる本でした。戦争はある日突然はじまるのではなく、小さなことの積み重ねの行き着く先です。だから、福田首相が財界の後押しを受けて今すすめている、福祉を切り捨てて軍需産業をうるおすなんてことを許してはいけないのです。
福岡の小さな映画館で『サルバドールの朝』というスペイン映画を見ました。フランコ独裁政権下でのスペインでアナーキスト・グループの一員として、銀行強盗を働いていた。ある日、警察の待ち伏せにあい、もみあっていたときに警察官を殺してしまいました。警官殺しは文句なしに死刑。必死の嘆願助命活動もむなしく死刑が執行されてしまいます。それに至るまでの息づまるシーンが展開します。いよいよ執行される寸前、同じ部屋で一緒にいた姉たちは、弟に、「じゃあ、あとで、喫茶店で会おうね」と声をかけて立ち去ります。すぐに弟が処刑されることを知っての言葉です。うむむ、泣けてきます。
(2007年8月刊。1500円+税)
株式会社ロシア
著者:栢 俊彦、出版社:日本経済新聞出版社
プーチン大統領の支配するロシアから目を離すことはできません。
ロシアの経済成長を支えているのは、原油高を背景とする個人消費と投資の拡大である。
新生ロシア政府は、1992年、国営企業の民営化にあたって、バウチャー方式という手法を採用した。政府が国民一人一人に一定金額のバウチャー(民営化証券)を無料配布し、国民はこれをつかって民営化企業の株式を取得できるとした。
当初の民営化政策が一段落した1994年から、金銭による民営化が始まった。1995年、それまでとまったく違うタイプの民営化が実施された。後に「担保オークション方式」と呼ばれるトリッキーな手法である。これによって、資源産業を中心とする巨大な資産が一部の資本家に移管された。
ユーコス事件は、現代ロシア最大の疑獄事件である。それは、1990年代前半の民営化以降続いた国家資産の争奪戦が行き着いた結果であり、エリツィン時代に台頭した支配勢力(新興財閥=オリガルヒ)がロシアの伝統的権力機関に屈するプロセスであった。国内の欧米派勢力(とくにユダヤ人)とロシア派勢力との路線対立が、ロシア派勢力の逆転勝利で決着をみたということができる。
ロシアの権力機関内では、このユーコス事件を機に国益第一主義が確立し、1992年以降に欧米諸国が敷いたオービット(軌道)からロシアは離脱しはじめた。
ユーコスは2004年に解体され、ホドルコフスキーは禁錮8年でシベリアに、レベジェフは同じく8年間、北極海に近い監獄に収容された。
ホドルコフスキーは「泥棒貴族」としての出自をロシア国内では拭いきれず、欧米の庇護者をバックにプーチン政権を強引に押さえこもうとしたのがつまづきの始まりだった。ブッシュ政権に気に入られてからは自信過剰に陥り、プーチン政権との衝突を避けられないものとした。
ロシアの大企業が資源系を中心に、政治と深く結びつきながら発展してきたのに対し、中小企業は逆に政府に忘れ去られ、自力で生き残ってきた。それだけに、成長している中小企業の経営者は強烈な個性を持っている。
中小企業の経営者の成長がロシアの民主主義の基礎を生み出しつつある。ロシアの将来は、中小企業の発展が握っている。
ここで紹介されているいくつかのロシアの中小企業が日本の経営論を学び、生かしながら発展しているというのは、日本人の書いた本だからなのでしょうか・・・?
統一ロシアにみられる単独与党のモデルは日本の自民党である。かなり長いあいだ、大統領府内で自民党のモデルを研究した。党派性と安定性の結合がもっとも重要だ。
1990年代以降、ロシア社会では年齢層ごとに意識の断層が生じた。ソ連崩壊時に 10代後半に達し、コムソモールの教育を受けた人と、まだその年齢に達していなかった人では意識は大きく異なる。現在30歳以下の若者は社会主義についての意識はほとんどなく、市場経済の社会を前提として受け入れている。ましてや20歳前後の人生観や価値観となると、おばあちゃんは宇宙人と同じ。何を言っているのか全然分からない、というほど距離がある。
うむむ、なるほど、ロシアにおける世代間の断絶は日本以上でしょうね。
(2007年10月刊。1900円+税)
2007年12月 4日
魅惑する帝国
著者:田野大輔、出版社:名古屋大学出版会
いやあ実に面白い本でした。知的好奇心をしっかり満足させてくれました。多読していると、こんな素晴らしい本にめぐりあることができます。著者はまだ30代後半の若手学者ですが、その問題関心と背景説明には、何度も、なるほど、なるほど、そうだったのかと、うなずいてしまいました。えっ、たとえばどんなことに魅かれたのか、ですか。
ヒトラーは、スターリンや後世代の毛沢東と違って、その第三帝国が存在した12年のあいだ、彫像がまったくなかったというのです。あれほど絶対的に崇拝され、ほとんど救世主の地位にまで高められたドイツの独裁者の彫像が存在しなかったのはなぜか?
著者はこのように問題を設定し、さまざまな角度からアプローチしていきます。
写真集においては、「総統も笑うことがある」というように、制服を着用していないヒトラーが表情もなごやかで、民衆や子どもたちと気さくに談笑している。
しかし、こうした親密な雰囲気は体制が安定期を迎えた1930年代中頃から次第に後退していき、やがてきまりきった儀礼的賛美へ転化する。とくに戦争がはじまると、ヒトラーは総統本営にひきこもって国民の前に姿をあらわさなくなったため、ますます遠い存在となった。
ヒトラー自身、民衆との結びつきが何よりも重要なことを自覚し、独裁者のような印象を与えないよう十分に注意していた。ヒトラーは、民衆の感情に配慮して、ヒトラー自身も質素な服装を着用し、粗末な食事をとり、酒もタバコものまず、妻もめとらなかった。ヒトラーの趣味は、専制君主の権力誇示とは対象的に、謙虚さや質朴さを美徳として強調するものだった。
ヒトラーは、みずからの生を公開し、親密さという価値を政治の中心にすえることで国民の信頼をかちとった。それは、疎遠でない政治、指導者と大衆が同じ目線に立つ政治であり、見とおしのきかない現代社会にあって、人々に政治参加の感覚を与える一種の「民主的」な政治形態だった。
ヒトラーによる「親密さの専制」は、第三帝国においても市民的価値観が連続性を保っていたこと、それどころか、この価値観こそナチズムの基盤にほかならなかった。むしろ、スターリンのほうが例外的だった。
ヒトラーが生前に描かせた肖像画は、つねに無表情で直立し、表情やポーズの硬さは、彼が総統として象徴的な意味を担っていることを示している。
多くの人々は実物のヒトラーを見てぱっとしない印象しか受けず、公式のイメージとの落差に驚きととまどいを覚えた。ヒトラーの目つきには、どこか生気のないところがあり、それが強い印象を与えた。
ヒトラーによって粛清された突撃隊のリーダーであるレームについても、鋭い指摘があり、目を開かされました。この突撃隊には、かつての共産党支持者が大量に鞍がえして入っていたというのです。あの有名なナチ・デマゴーグのゲッペルスは、闘争期には、共産主義への明かな共感を表明し、「私はプロレタリアートの社会主義を信じる」とさえ述べている。
国民の圧倒的多数を占めながら、長らく政治的公益性、公共性から排除されつづけていた労働者に対して、ナチズムは門戸開放を約束することで、大きな原動力を手にした。
しかし、ナチ党が権力を握ったとき、党指導部の統制に従わず、なおも第二革命を要求する突撃隊の急進主義は、国民全体を総合する「民族共同体」の建設にとっても、もはや障害でしかなかった。
このようにしてレームの粛清は必然だったのです。
さらに、ニュルンベルグで開かれていたナチ党全国大会についての実情紹介と、その分析もまた興味深いものがあります。参加者が50万人に達し、一糸乱れぬ統制とれた行進を写真でみると、いかに当時のドイツ国民がナチス・ヒトラーに心酔し、熱狂していたか、よく分かります。ところが、その内情はびっくりするものがありました。
党大会は会場もプログラムも、それぞれの組織ごとに異なり、全体が一同に会することはなかった。独立王国の寄せ集めだった。 第三帝国は決して一枚岩ではなかった。むしろ、激しい権力闘争にひき裂かれた機構的アナーキーというべきものであった。左翼政党や労働組合は破壊されたが、それ以外の大部分の既成集団、とくに官僚機構、軍部、企業などはナチ党の侵入はほとんどなく、自由裁量を維持しており、圧力集団として機能していた。
人々は概してナチ党全国大会に無関心だった。ニュルンベルグ観光ができるということで参加していた。汽車賃も食事も無料で、こずかいまでもらえた。
行進や演説といった公式行事よりも、いろいろの催し・娯楽が人々を惹きつけていた。
泥酔した党員が乱闘騒ぎをおこしたり、制服姿のまま売春宿に殺到したりする事態があり、主催者を悩ましていた。参加者は楽しいお祭りと受けとめていたのだ。
(2007年6月刊。5600円+税)
2007年11月14日
ある日、あなたが陪審員になったら・・・
著者:オリヴィエ・シロンディン、出版社:信山社
フランス重罪院のしくみ、というサブ・タイトルがついています。日本の裁判員制度にフランスの陪審制は参考になるという紹介がありましたので、フランス語が少々できる私としてはぜひ読んでみようと思った次第です。
フランスでは、毎年2万人ほどの市民が陪審員になるべく招集される。1978年以来、選挙人名簿に登録された23歳以上のすべての市民は陪審員に任命される可能性がある。パリだと1800人、その他の県だと人口1300人に1人の割合で選出される。
市長は公衆の面前で、選挙人名簿をもとに23歳以上の人からくじを引いて、定数の3倍までしぼりこむ。そこから、法曹三者などから成る委員会が不適格者を除外する。そして、2度目のくじ引きが裁判の始まる30日前までに行われる。これも公開の法廷でのくじ引き。40人と予備員12人を選び、期日に召喚される。そして、開廷日の初日に3度目のくじ引きとなる。
重罪院は、3ヶ月に一度、2週間の開廷期で開かれる。
陪審員は、5年間のうち一開廷に限られる。
人を裁くなんて、神以外の誰にもできるはずがないと言われた。私が人を裁くなんてできるはずがないと思ったし、自分の意見をもつのも得意ではないので悩んだ。それでも、政治意識から召喚を拒否しなかった。
理由なく陪審員が欠席したら、3750ユーロの罰金が科される。
困難な任務にもかかわらず、いつも陪審員の熱意と真面目さと努力に驚かされる。
もし重罪院が舞台なら、そこで演じられているのは悲劇だ。陪審員のなかには、泣いたり、気を失ったり、部屋を出てもいいかと頼む者がよく出てくる。救急車が重罪院に頻繁にやって来る。
陪審員は、あなたは心底から確信しているか、と自らに問いかける。
評議室は閉ざされ、出入り口は守衛によって警備される。評議室から出ることはできず、トイレに行くときも、警備員が付き添う。外部からの接触は一切排除される。
ここは、人間がふだんの自分以上の、崇高な存在になれる場所なのだ。
陪審員による投票は2回に分けて行われる。まずは有罪か無罪かについて。そして有罪と決まったときには、量刑について投票する。有罪についての評決は12人のうち8票の多数を必要とする。量刑については7票でもいいが、法定刑の最長期の刑を言い渡すときには8票を要する。ちなみに、フランスは死刑判決はない。
フランスの弁護士は3万9000人いるが、刑事弁護士と呼ばれるごく少数が重罪院で活動している。
重罪院にかかった事件のうち無罪になるのは7%。2002年から無罪判決に対して検事長は控訴することができるようになった。控訴率は24%。
2002年に重罪院の判決は2825件だった。17%は故殺、13%は凶器所持強盗、52%が強姦事件。
いろいろ勉強になりました。イラスト入りでかかれた読みやすい本です。
(2005年11月刊、3200円)
2007年11月13日
プーチン政権の闇
著者:林 克明、出版社:高文研
プーチン大統領の支配するロシアって、本当に底知れない恐ろしさをもつ国だとつくづく思いました。もっとも先日みたアメリカ映画『グッド・シェパード』で描かれていたCIAの暗躍ぶりと対比させると、アメリカもロシアと同じような強暴な国だと思いましたが・・・。
邪魔者は消せ。ロシアは、このひと言に言い表せるような、暗殺天国になってしまった。政府・軍・警察・官僚の不正をあばこうとする人物が、次つぎに消えていく。
2006年10月7日、チェチェン戦争報道でプーチン政権を痛烈に批判してきたアンナ・ポリトコフスカヤ記者が自宅アパートエレベーター内で射殺死体となって発見された。
11月23日、ロンドンに亡命していた元FSB中佐のアレクサンドル・リトビネント氏が放射性物質ポロニウム210を盛られて死亡した。
2004年9月、南ロシアで起きた学校人質事件では、武装勢力が子どもたちを人質にとり、特殊部隊の突入で、330人が犠牲となった。この学校占拠グループで指揮していたのはロシア人である可能性が高く、犯人のかなりの部分を地元民が占めている。何らかの謀略の可能性は相当高い。
最初の攻撃がゲリラ側からではなく、ロシア諜報部からのものであった。330人もの人質の死の責任はロシア治安部隊にある。
そうだったのですか。それにしてもむごい事件でした。テロリストが劇場や学校を占拠し、特殊部隊が突撃して「解決」を図るなんて、考えただけでもぞっとします。
第一次チェチェン戦争は、エリツィン大統領再選のために必要だった。第二次チェチェン戦争はエリツィン大統領が自ら選んだ後継者であるプーチン首相が世論調査で順位を上げるために必要とされた。
ロシアでは、もう長いこと公式には死刑が執行されていない。しかし、ロシアの特務機関は、邪魔な人々を裁判後に殺してきた。裁判によらない処刑が行われている。
1994年に戦争が始まって以降の歴代独立派チェチェン大統領は、全員殺害されている。「独立宣言」したドゥダーエフ大統領、あとを継いだヤンダルビーエフ大統領代行、史上初めて民主的な選挙で当選したマスハードフ大統領。さらに、ゲラーエフ国防大臣、有名なバサーエフ野戦司令官。日本の岩手県ほどのチェチェン共和国で、2000年から2004年末までのあいだに、1万8000人が行方不明になっている。
ひゃあ、チェチェン共和国って、岩手県くらいの大きさしかないのですか・・・。そこから「テロリスト」が東京にやって来る構図を描いたら、ぞっとします。まさに、報復の連鎖しかありませんね。
2006年に「国境なき記者団」が発表した報道の自由ランキングでは、168ヶ国中、ロシアは147位。プーチンが権力の座についてからのロシアでは、戦場でなく、平時にジャーナリストが暗殺されている。世界でジャーナリストにとってもっとも危険な国のトップはイラク、2位はアルジェリアで、3位はロシアである。
いやはや、ホント、恐い、怖い、ゾクゾクしてきました。
(2007年9月。1200円+税)
2007年11月 5日
「白バラ」尋問調書
著者:フレート・ブライナースドルファー、出版社:未来社
無責任な暗い衝動に駆り立てられた支配者の徒党に、抵抗もなく「統治」を許すことほど、文化民族の名に値しないことはない。誠実なドイツ人ならば、今や誰でもおのれの政府を恥じているのではないか?
これは「白バラ」が1943年1月にまいたビラの冒頭の文章です。その格調の高さに圧倒されます。20代も前半の学生が中心のグループが書いたのです。
ドイツ民族のこのがん腫瘍が、初期にはそれほど目につかなかったとすれば、それを押さえるのに正義の力がまだ十分に力を発揮していたからに過ぎない。しかし、腫瘍がだんだん大きくなり、ついに忌まわしくも政治を腐敗させて権力を握り、同時にその腫瘍が破裂し、全身に毒が回ると、かつて反対した者の大多数が姿を消し、ドイツの知識人たちは地下の穴蔵に逃げ込んで、闇に生きる植物のように、日の光を浴びぬままやがて息絶えてしまった。今や、我々は終末を目前にしている。
私は諸君に問いたい。もし知っているのなら、なぜ動かないのか。
人間は、おのれの権利を要求する力すら残っていなければ、必然的に破滅してしまう。諸君の臆病さを、賢明さというマントの下に隠してはならない。
これも同じく「白バラ」のビラの文面です。すごい問いかけですよね。
「白バラ」は、ビラを9000部印刷し、計画的に配布した。アレクサンダー・シュモレルは1500通の封筒に入れたビラが入った荷物をもってウィーンに行き、そこから、フランクフルトなどへ発送した。ゾフィー・ショルは2500部のビラをハンス・ヒルチェルに渡した。シュモレルとハンス・ショルは、ミュンヘン市内中心部の路上に、夜間、5000部のビラをまいた。
これらのビラは、大きな動揺をナチ党指導部に引き起こした。
ゲシュタポに依頼された古典文献学者ハルダー教授は、次のように鑑定した。
この作者は天分ある知識人であり、自分のプロパガンダを大学関係者、とくに学生のあいだに広めようとしている。文章にはある程度勢いがあり、政治的な意思による固い決断を感じさせるが、この知的産物は、しょせん机上の空論である。絶望視孤立した者の口調ではなく、背後に一定の仲間はいるようだが、政治的な力を持って活動しているグループから派出したものではない。それには文章が抽象的すぎる。これでは兵士や労働者から幅広い反響を得ようとしているとは、また得られるとは思えない。
さすがに、なかなか鋭い分析で、感心します。
「白バラ」の活動家たちは、仮面をかぶるのではなく、ごく普通に生活していた。それが隠れみのとして有効だった。
「白バラ」はミュンヘン以外の都市にも定着させ、広域で把握しにくい、強力な組織をつくりあげようしていた。それが不首尾に終わったのは、声をかけられた人々の大多数がそれに応じなかったから。「白バラ」の活動がミュンヘン、しかも大学周辺の狭い範囲で行ったため発見される危険がますます大きくなったのは、単に協力者が少なかったからに過ぎない。
うーん、そうなんですか、そうなんですね。まさしく、悲劇ですよね、これって。
「白バラ」グループに関わっていたクルト・フーバー教授は、ドイツ人が犯した戦争の残虐行為の責任はひとえにナチス親衛隊にあると考えていた。しかし、前線での戦争体験をもつ「白バラ」の学生たちは、違った。国防軍は、後方での殺人行為を許し、見て見ぬふりをし、ヒトラーを止めようとはしなかった。国防軍は軍人の礼節のよりどころではなかった。ヒトラーの思いのままに操られる道具だった。やはり、軍隊ってー、どんなに起立がたもたれていたとしても、しょせんは人殺し集団なんですよね。
法廷で「白バラ」のショル兄妹の裁判を目撃した人(司法修習生)は次のように語った。
被告の態度に深い感銘を受けたのは、私だけではないだろう。そこに立っていたのは、まぎれもなく、自分たちの理想に満ちあふれた人物たちだった。被告たちは冷静沈着で、明晰かつ毅然とそれに答えていた。
公判の日程は公表されず、傍聴席は、このために動員されたナチ組織のメンバーで占められていた。昼12時45分に死刑判決が宣告された。宣告後、親との面会が許され、看守は3人に一本のタバコを一緒に吸う機会を与えた。そして、17時、3人はギロチンで処刑された。
「ついさっき、僕にはあと1時間しか残されていないと聞かされました。僕の死は安らかで、喜びに満ちていたと伝えてください」
なんという気高い言葉でしょうか。
ショル家の父親は、はじめからナチに対して非常に批判的でした。しかし、その子どもたち(殺された兄妹のことです)は3年間も、リベラルな父親の意見を聞く耳をもたず、ヒトラーを熱狂的に歓迎し、ヒトラー・ユーゲントに所属して、そのリーダーになっていたというのです。
真実を見抜くには時間がかかる。そして、真実を実現するのは勇気が必要だ。こういうわけです。
(2007年8月刊。3200円+税)
2007年10月10日
イメージ、それでもなお
著者:ジョルジュ・ディディ・ユベルマン、出版社:平凡社
タイトルからは何も分かりませんが、サブ・タイトルに「アウシュヴィッツからもぎ取られた四枚の写真」とあり、これでようやく本の内容が推察されます。
いかにもフランス人の書いたと思われる難解な文章が続きます。著者の言わんとするところは、私には難しすぎてよく分かりませんでした。それでも、いくつか知らなかったことを大発見しました。やはり、人は自分のことを人に伝えようとする存在なのですね。
それは、アウシュヴィッツでユダヤ人の死体処理をしている状況をまさに隠しどりしたユダヤ人がいて、その写真が強制収容所の外へ運び出されていたということ、死体処理の作業にあたらされていたユダヤ人(ゾンダーコマンド)は、いずれ順番に消されていったのですが、その人たちが自分の目撃したことを書いて地中に埋めたりしたものが戦後、何年もたってから掘り起こされているということです。私にとっては、いずれも大きな衝撃を受けました。
最初のゾンダーコマンドがアウシュヴィッツで結成されたのは、1942年7月のこと。この日から、12の部隊があとに続いた。数ヶ月たつと、部隊は潰され、前任者の死体を焼くことが次の部隊にとっての通過儀礼だった。
彼らの恐怖の一部をなしていたのは、彼らの全存在が避けがたい部隊のガス室送りの日まで、完全なる秘密のうちに保たれていたということである。すなわち、ゾンダーコマンドのメンバーたちは、他の囚人といかなる接触も持ってはならず、ましてや、ありとあらゆる外部世界とはおろか、不案内なSSたち、つまり、ガス室や焼却棟の正確な役目を知らない者たちとも接触を断たれている。秘密裡に置かれたこれらの囚人たちは、病気でも収容所の病棟に入ることが許されなかった。彼らは完全なる従属と焼却棟
での仕事に対する感覚麻痺、ー アルコールは禁止されていなかった ー のうちにとどめ置かれていた。
ゾンダーコマンドの仕事は、彼らの同類の死を数千単位で処理すること、最後まで嘘をつきとおすのを強いられること。犠牲者たちに彼らの運命を伝えようとした者は、生きたまま焼却場の火に投げこまれ、他のメンバーは、その執行に立ち会わねばならなかった。
自分自身の運命を知りつつ何も語らないこと。男たち、女たち、子どもたちがガス室へ入るのを見届けること。叫び声や壁を打ち鳴らす音、最期のうめきを耳にすること。続いて、扉を開けると崩れ落ちてくる、筆舌に尽くしがたい人間の山積み。肉でできた、彼らの肉、われわれ自身の肉でできた「玄武岩の柱」を、まるごと引き受けること。死体をひとつひとつ引っぱり出し、服を脱がせること(これはナチスが脱衣所のトリックを思いつく前のこと)。
すべての血と体液、積み重なった血膿を、放水で洗い流すこと、金歯を「帝国」の戦利品として取り外すこと。死体を焼却棟の大かまどにくべること。非人間的なリズムを保ち続けること。コークスを供給すること。冷えるにつれて黒味を帯びる、溝から溢れ出す高熱の白っぽい不定形の物質という姿と化した遺灰をかき集めること。産業的破壊に対する身体の最後の抵抗である、人骨を砕くこと。
これらすべてを山積みにし、近隣の河川に投げ入れるか、収容所近くで建設中の道路の舗装材に用いること。巨大なテーブルで囚人が15人がかりで解きほぐす、150平方メートルの頭髪の上を歩くこと。ときおり脱衣所のペンキを塗り直し、カムフラージュ用の生垣をつくり、想定外のガス殺のために予備の焼却溝を掘ること。焼却棟の大かまどを清掃し、修繕すること。SSに脅かされながら、これらを毎日繰り返すこと。こうして期限の定まらない時間を、酒に酔いつつ、できるだけ早く終わらせようと憑かれたように走り回りながら、昼も夜も働きどおしで生きる続けること。
ゾンダーコマンドを目撃した囚人によると、彼らは人間の顔をしていなかった、あれは憔悴して狂った顔だった、という。
ポーランド・レジスタンスの指導部が1944年に写真を発注した。これを受けて一人の民間労働者が強制収容所にカメラをひそかに持ち込み、ゾンダーコマンドのメンバーに手渡すことに成功した。そして、4枚の写真がとられた。
囚人たちを写したビルケナウの写真を送る。一枚には屋外で死体を焼く火刑場の一つが写っている。焼却棟だけではすべてを焼ききれないのだ。火刑場の前には、これから投げ入れられる死体がある。もう一枚には、シャワーを浴びるためだと言われて、林のなかで囚人たちが服を脱ぐ場所が写っている。その後で彼らはガス室に送り込まれる。
これは1944年8月にとられた4枚の写真に添えられた文章です。
ガス室による死はおよそ10分から15分かかる。
もっとも、おそろしい瞬間は、ガス室を開けるときの、耐えがたい、あの光景だ。
人々の肉体は、玄武岩と言うのか。まるで石の塊のように凝固している。そして、そのまま、ガス室の外に、崩れ落ちてくる。
何度も見たが、これほど、つらいものはない。
これだけは、決して慣れることはない。不可能だった。
そうなのだ。想像しなければならない。
この文章を書き写している私の手は震えがとまりません。想像できない世界です。でも、でも、あえて想像しなければいけないのです。
そして、ビルケナウの地中から、ゾンダーコマンドのメンバー5人の手記が見つかりました。掘り出されたのです。1945年2月、1945年3月、1945年4月、1952年4月、1961年7月、1962年10月、1980年10月にそれぞれ発見されています。フランス語、イデッシュ語、ギリシア語で書かれていました。
実は、終戦後、近くのポーランドの農夫たちが、この死の収容所にユダヤ人の財宝が画されていると思いこみ、収容所を荒らしました。その難を逃れて発見されたものです。
自分が何を見たか、何をしたのか、いずれ殺されることが分かっていたユダヤ人たちは、なんとかして、外の世界へメッセージを送りたいと思い、苦労して、苦心して地中深く穴を掘り、ビンの中にメッセージを入れて埋めていたのです。この状況を今の私たちはしっかり想像すべきだと心の底から思いました。
(2006年8月刊。3800円+税)