弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

ヨーロッパ

2007年6月15日

フランス父親事情

著者:浅野素女、出版社:築地書館
 フランスは日本と違って出生率を回復しています。EU諸国の平均が1.5に対して、フランスは2.0です。いろんな出産優遇措置の成果だとされています。
 たとえば、2002年から、父親手帳なるものが誕生し、父親にも2週間の出産休暇が認められました。先の大統領選挙で惜敗した社会党のセゴレーヌ・ロワイヤルが家族・児童担当大臣だったときにスタートした制度です。父親学級だってあります。妻の出産に立ち会うのも、今や普通のことです。私は3人の子どもたちの出産に一度も立ち会ったことがありません。いつも、部屋の外で待っていました。
 フランスでは、2人に1人の子どもが婚姻関係にない父親から生まれる。フランスでは、生まれたときの名前が生涯を通じての正式名であり、日本のように結婚して名前が変わるという制度はない。
 2006年には、100組のカップルのうち42組が離婚する計算となる。カップルの寿命はますます短くなる傾向にある。1990年に共同生活を始めたカップルの15%が5年後に別れ、10年後には30%が別れている。
 中絶権は、女性たちの手にあり、父親の意思が反映される余地はまったくない。
 いまや、世界の真理は女性たちの手に握られている。そして、男たちは表面上は女性に対する理解にあふれている。だが内心、男たちは、戦々恐々、強くなった女性たちに畏れをなしている。
 父親の2週間の出産休暇は、3人に2人が活用している。このとき、給料の8割が保証される。これって、いい制度ですよね。うらやましいですね。
 父親は、子どもの前に、「他者」として立ちはだかる最初の人間だ。一方的に、母親の伴侶としての現実の父親の存在があって、もう一方に、頭の中につくられる父親像がある。むしろ、頭の中でつくりあげられた父親のイメージを通して、息子たちは、今度は自分が父親になるのである。なーるほど、ですね。
 フランスには、パクス(市民連帯契約)という制度があります。
 同性カップル、男女のカップルでも結婚したくないけれど、ある程度の社会的認知や保護がほしいときに有効です。これは結婚とちがって、市役所を通さず、裁判所の書記官を通すこと、ひとりの一方的な決断だけで契約解消できること、双方が自動的な遺産相続人とはならないことが大きな違いです。健康保険や税金面では、婚姻関係にあるカップルと同じ優遇措置が受けられます。
 うむむ、これはすごいですね。日本ではまったく考えられませんよね。日本の少子化を政府が本気で心配するのなら、若い人たちが安心して子どもを産んで育てられる環境をととのえるべきだと思います。その点が今の日本にはまったく欠けています。

2007年5月23日

シュメル人たちの物語、5000年前の日常

著者:小林登志子、出版社:新潮選書
 シュメル人とは、どこからやって来たのか分からない民族系統不詳の人々である。シュメル語は、日本語と同じように、「てにをは」のような接辞をもつ言語だった。
 石碑に書かれたシュメル語の碑文が解読されています。学者ってホント、たいしたものですね。
 碑文は神に読んでもらうためのもの。当時の民衆の識字率は低く、民衆のほとんどが碑文を読めなかった。王自身も文字の読み書きができるとは限らなかった。
 シュメル人の衣服は縫わなかった。シーツのようなたっぷりした布を身体に巻きつけて、ピンでとめていた。
 王や王子たちは文字の読み書きができなくても差し支えなかった。そのかわり、王に仕える書記、つまり役人は文字の読み書きができなくては仕事にならない。書記になろうとする男の子たちは学校へ通わされた。シュメルの父親は教育熱心だった。
 シュメルは文明社会であり、法によって治められる社会だった。殺人は死刑と定められていた。
 シュメル人の庶民の結婚には父親の同意が不可欠だった。婚姻契約を結び、王の名にかけて証人の前で婚姻締結を宣言した。女性の処女性は重視されており、妻は夫に貞操義務があった。契約書なしの内縁関係では、離婚するとき慰謝料を支払う必要はなかった。夫婦は同居の義務があったが、財産は別だった。
 夫の家庭内暴力から逃げ出した妻がいるという話も紹介されます。
 シュメルで女性は、いくつかの重要な法的権利をもっていて、財産を所有できたし、証人として出廷できた。
 シュメル人の死生観には地獄がない一方で、天国や極楽もない。一度だけの生をよく生きると定めざるをえない。あの世よりも、この世を大切に生きた。死者は生前のおこないの善悪にかかわらず、死ねば一律にクルヌギに行き、飲食物に不自由するので、生きている者は死者のために供養する義務があると考えられていた。
 5000年前、古代メソポタミアの人々の生活が案外、今の私たちと同じようなものであることに驚いてしまいました。古代の文字が解読されるって、ホントすごいことです。

2007年5月 7日

IKEA、超巨大小売業、成功の秘訣

著者:リュディガー・マングブルート、出版社:日本経済新聞出版社
 北欧デザイン、垢抜けたセンスの安い家具として、世界中で売り出しているIKEA躍進の秘密を探った本です。
 創業者は若いころナチス・ヒトラーの信奉者でした。それはヒトラー死亡まで続きました。祖母の影響だったようです。11歳のときから商売をしていたというのも驚きです。種物商から種を買い付けて、近辺の農民に売って歩き、本当にお金をもうけたというのです。信じられませんが、どうやら本当の話のようです。
 IKEAは、世界33ヶ国に230店を展開する。多国籍企業なのだ。2005年度のイケアの総売上高は148億ユーロ。イケアのカタログは1億6000万部。世界一だ。創業者イングヴァル・カンプラードは世界屈指の億万長者の一人であり、総資産は230億ドル。
 祖父母はドイツのザクセン地方からスウェーデンに移住した。祖父はやがてスウェーデンへの移住が失敗だったと絶望し、銃で自殺した。しかし、祖母は開き直ってがんばった。
 カンプラートは高等商業学校に在学中のころ商売を始めた。万年筆をつくっているパリの会社に500本を注文して、スウェーデン中を売り歩いて成功した。
 28歳のとき、大きな家具展示場を開設して家具を売り出し、大あたりした。初日に 1000人のお客が行列して並んでいた。
 カンプラートは、カタログのテキストを自分で書いた。マーケティングのプロだった。なにより人心掌握にたけていた。売れはじめると、イケアは、ポーランドで家具製造をはじめた。
 カンプラート自身には、美的感覚はまったくなかった。自分で無粋な人間だと言った。いくらデザインが最高でも、人々がそれを買えなければ、何にもならないじゃないか。
 イケアは家具販売にキャッシュ・アンド・キャリーの原則をもち込んだ。お客は商品を買って、お金を払い、すぐ自分で持ち帰る。そして自分で組み立てる。
 イケアの家具は、明るい自然な色。イケアの戸棚は開け広げで、実に軽やか。イケアは生意気な若者のイメージをまとうようになった。
 スウェーデンの人々は、長くて暗い冬を家の中にしばりつけられて過ごすから、明るく優しい感じの材質を好み、シンプルで直線的なデザインを求めた。壁や天井に明るい色調を用いることで、光を最大限にとり入れる。鮮やかな色彩の家具に接すると、人は自分は若くてエキサイティングな人生を過ごしているような気分になるものだ。
 ところが、アメリカでイケアは苦戦した。イケアのヒット商品は、アメリカ人の生活習慣にあわなかった。
 イケアは原則として品質第一とは考えていない。日常の要求に数年こたえればそれでいいというのがイケアの基本方針。それ以上の耐用性は求めない。大事なのは使い勝手がいいということ。だから書棚の表面は、台所の調理台のように頑強である必要はなく、質もほどほどでいい。人目につかない部分には安い材料をつかう。家具を頻繁に取り替えましょうとイケアは宣伝する。
 値段の安さがイケア成功の第一要因だとすると、第二の要因はデザインである。文句なく魅力的なデザインだ。イケアはただの家具店ではない。ここはライフスタイルを学ぶ場所でもある。
 なーるほど、一度、イケアの家具を見てみたい、使ってみたいものだと思わせる本でした。
 大型連休はじっとおとなしく庭の手入れなどをして過ごしました。枯れたチューリップの地上部を刈り取り、雑草を抜いて、初夏にそなえました。今は、アイリスから濃紫色のアヤメそして黄色いカキツバタの花が咲いています。アクロステンマの白にピンクの筋の入った花に目が魅かれます。クレマチスは相変わらず次々と咲いてくれています。濃紫色の花弁が見事です。赤紫色の金魚草もいいですね。サクランボの実を食べにヒヨドリがやってきます。庭にヒマワリのタネを置く台をつくってみました。どんな小鳥が来てくれるか楽しみです。

2007年4月25日

チャップリン、未公開NGフィルムの全貌

著者:大野裕之、出版社:NHK出版
 大変な労作です。なにしろチャップリンの映画でNGになったフィルムを全部をみた人は世界に3人しかいないというのに、33歳の日本人がその一人だというのです。たいしたものです。この若さで日本チャップリン協会の会長だというのも当然の偉業です。2年間にわたってロンドンでNGフィルムを見たというのです。
 チャップリンは台本なしに映画をとっていたといいます。台本を書くようになっても、現場でのひらめきや即興演技を何度もやり直すことによって作品を完成させていった。一人で監督・脚本・主演を兼ねていたチャップリンは、自らの演技をフィルムに収めて吟味し、何度も撮影をやり直した。
 チャップリンは、あくまでギャグの論理性、必然性にこだわった。だから脈絡のないシーンは大胆にカットされていった。膨大なNGフィルムが残されていたわけです。
 チャップリンはNGフィルムを焼却処分するように命じていた。しかし、スタッフがチャップリンの命令に反してスタジオに保管していた。良かったですね。今となっては大変貴重なフィルムですよ。
 チャップリンは両親ともミュージック・ホールの歌手だった家庭に生まれた。だから、5歳のときに初舞台をふんでいる。その後、ずっと舞台芸人としてのキャリアを積んでいる。チャップリンの生まれたのは貧しい労働者街。そこでチャップリンは極貧の幼少時代を送った。弱者の味方チャーリーの原点は、この幼少期の体験にある。
 労働者向けの娯楽として、ミュージック・ホールは、豪華絢爛な建築物だった。そこでは大英帝国の一員であることを自覚させられるような催し物が演じられていた。
 なーるほど、そういうことだったんですか・・・。まるで、今の日本のテレビ番組ですよね。馬鹿馬鹿しいお笑い番組を見ているうちに、知らず知らずのうちに自民党政権の体質に同化させられ、反抗の牙が抜かれていくようなものですね。
 チャップリンは、ちょっとしたレストランで演奏できるほどうまく楽器を弾けた。ピアノ、ヴァイオリン、アコーディオン、そしてチェロなど。
 チャップリンの運転手に日本人がいて(高野虎市)、その誠実さからチャップリンは部下としてではなく、友だちとみていたといいます。すごいですね。
 チャップリンはテニスを好んでいて、そのテニスコートはハリウッドの社交場だった。
 チャップリンの最高傑作「街の灯」は600日間、4571テイクにわたって撮り直しが続けられた壮絶な撮影の成果なのだ。
 うーん、さすがです。すごいですね。たしかに「街の灯」は空前絶後の最高傑作だと私も思います。
 第二次大戦で戦勝国となったアメリカで、チャップリンの平和思想が問題とされ、反共主義のマッカーシー旋風が吹き荒れるなか、チャップリンは共産党シンパとして危険視された。
 チャップリンを共産党だというなら、共産党のほうが断然正しいし、優れていることになりますよね。みなさん、そう思いませんか。少なくとも私は、そう思います。
 素顔のチャップリンは、なかなかの美男子です。女性にもてたのも当然です。
 それにしてもチャップリンの映画って、何度みても素晴らしいですよね。古臭さが全然ありません。いつ見ても新鮮で飽きがきません。至高の芸術作品を見せていただいているという気がします。
 チャップリンは、あくまで万人が心から共感できる笑いを得るために苦闘を続けた。
 そうなんです。あの天才チャップリンも、スランプに陥って兄にSOSを発したりしているのです。天才にも凡才のようなところもあったというわけです。でも、そんなことがあったことを知れば、ますますチャップリンに対する敬愛の念が湧いてきます。

2007年4月20日

ブラックブック

著者:ポール・バーホーベン、出版社:エンターブレイン
 例年、裁判所の人事異動にあわせて何日間かの春休みをとるのですが、今年は残念なことに一日もとれませんでした。そのかわりに、平日の朝から、福岡の小さな映画館で見たのが、この映画「ブラック・ブック」でした。2時間あまりの大作なのですが、緊迫した場面が続き、身じろぎもせず、あっという間に見終わってしまいました。正直言って、深い疲労感が残りました。投げかけられた問題提起があまりに重いのです。美貌のユダヤ人歌手ラヘルを襲う悲劇とサスペンスは息つぐひまもありませんでした。
 時代は第二次大戦末期のオランダです。ナチスに占領されています。アンネ・フランクが隠れていたのと同じ時期です。裕福なユダヤ人家族を国外へ逃亡させるレジスタンス組織があります。ところが、船に乗って逃亡する途中、突然ナチス・ドイツ軍に襲われ皆殺しにあいます。せっかくの貴金属類などが全部ナチスの手に渡ってしまいます。命からがら救われたラヘルは、レジスタンス組織に匿われ、オランダ人になりすまします。そして、ナチス・ドイツの情報部の将校に近づいていきます。
 サスペンスたっぷりの映画でもありますから、これ以上は書きません。ぜひ映画を見てください。やっぱり、お茶の間ではなくて映画館に足を運んでほしいと思います。
 主人公のラヘルを演じる女性の毅然とした知的な美しさ、その裸体の神々しさは目が魅きつけられてしまいます。女性のたくましさをよく演じています。
 この本は、この映画が決して単なるフィクションではなく、あくまで事実をもとに組み立てたものだということを明らかにしています。
 ユダヤ人にも同胞をナチス・ドイツに売り渡した人間がいました。レジスタンスにも、多くのスパイが潜入していたのです。誰がナチスのスパイか分からないうちに、次々にワナにかかっていく状況が描かれ、誰を信じていいのかゾクゾクしてきます。終戦後、みんながレジスタンスを英雄だとしてもてはやすようになった。しかし、そのレジスタンスにも、さまざまな人物がもぐりこんでいた歴史的事実が描かれています。スパイだった疑いをかけられたとき、そのぬれ衣を晴らす大変さもありました。
 ナチスの本部にラヘルが盗聴器を仕掛けるシーンが出て来ますが、これも実話にもとづく話だそうです。ナチス・ドイツが降伏したあとも、ドイツ軍法会議によって裏切り者として銃殺刑を宣告されていた者について、銃殺刑の執行がなされた事実があるというのも驚きでした。本当に、事実は小説より奇なり、です。
 この本の最後に、次のような言葉があります。本作におけるまことに信じがたい詳細な記述は、想像が介入する余地のない現実からきたものである。
 まあ、それにしても、映画をみると、想像を豊かにかきたててはくれるものです。

2007年4月 2日

マイナス50℃の世界

著者:米原万里、出版社:清流出版
 江戸時代、大黒屋光太夫は伊勢の港から江戸へ向かう途中、嵐にあってアリューシャン列島に流されてしまいました。そこからカムチャッカにわたり、当時のロシアのペテルブルグ(今のサンクトペテルブルグ)に向かい、そこで女帝エカテリーナに会って帰国の許可を得ました。大黒屋光太夫が大変難儀した冬の旅程をTBSが再現しようとしたのに著者が通訳として同行したのです。
 ヤクーツクの冬は、日照時間が一日4時間ほど。太陽は午前11時に顔を出したかと思うと、午後2時には隠れてしまう。18時間の夜と6時間のたそがれ時からなっている。
 マイナス40度になると居住霧が発生する。人間や動物の吐く息、車の排気ガス、工場の煙、家庭で煮炊きする湯気などの水分が、ことごとく凍ってしまってできる霧のこと。冬には風は吹かない。この霧が出ていると、視界はせいぜい4メートルほどになってしまう。前を走る車の排気ガスのため、1メートル先が見えなくなる。怖いですね。
 地表面は凍土が凍ったり溶けたりするので、建物は土台からねじれひん曲がり、どんな建物でも50年ともたない。
 しかし、最近のビルは4〜5階建てのコンクリート住宅。凍解をくり返す層よりさらに深い15メートルほど杭をうちこみ、地表面から2メートルほどの高さの杭にビル本体の基礎を置く。つまり高床式のビルをつくるわけ。基礎の杭を固定するには、塩水を隙間に流すだけ。すぐに凍って杭をしっかり支える。
 マイナス50度の戸外で働く労働者は40分間、外で作業すると、20分間はあたたかい室内に戻って身体を温めるというサイクルで仕事をする。
 ヤクートは、世界有数の鉱物資源大国。トンネルや鉱山などの坑道は、掘るのは大変だが、ひとたび出来たら凍結しているので、支えは不要。落盤事故もない。
 氷上で釣りをする。魚がかかったら引きあげる。ピクッピクッ。そして三度目にピクッとする前に魚は凍ってしまう。10秒で天然瞬間冷凍になる。
 マイナス50度の野外ではスキーやスケートはできない。寒いと氷はすべらない。あまりに寒いと、まさつ熱では氷がとけないので水の膜もできないから、スケートもスキーもできない。
 現地の人の家は三重窓の木造平屋。マイナス50度でも、洗濯物は外に干す。トイレは室内になく、すべてこちこちに凍るので臭気はまったくない。うーん、困っちゃいますよね。お尻をマイナス70度にさらすなんて・・・。
 ビニール、プラスチック、ナイロンなどの石油製品はマイナス40度以下の世界では通用しない。ひび割れ破れ、パラパラと粉状になってしまう。現地の人は人工繊維は一切着ない。帽子も手袋もオーバーもブーツも、全部毛皮。下に身につけるのも純毛と純綿。毛皮はぜいたく品ではなく、生活必需品。酷寒のヤクートで育った獣たちの毛皮は、毛並がたっぷり豊かで、密。現地の人がはいている膝まである毛皮のブーツは、トナカイの足の毛皮で作るに限る。
 こんな寒い国に生きている人々なのにロシア第二の長寿国だ。不思議なことですね。
 著者は昨年5月、がんのため亡くなられました。愛読者の一人として、その早すぎた死が惜しまれてなりません。この本は、著者がまだ30代の元気ハツラツな女性だったころに小学生向けに書かれた紀行文をまとめたものです。文才があることがよく分かります。おかげでマイナス50度の驚異の世界を知ることができました。

2007年3月26日

ブドウ畑で長靴をはいて

著者:新井順子、出版社:集英社インターナショナル
 ロワール地方にはたくさんのシャトーがあります。ブロワ城や有名なシュノンソー城もロワール河の支流シェール川沿いにあります。そのシェール河近くに日本人女性がワイン畑のオーナーとなり、無農薬でブドウを栽培してワインをつくっているのです。すごーい。日本女性をまたまた見直しました。
 1ヘクタールに6000本のブドウの樹が植わり、8ヘクタールのうち2ヘクタールは休耕地になっているから、6ヘクタールだと3万6000本。これを一本一本、手で剪定していく。一本の樹に5分から15分かかる。
 ブドウの赤ちゃんに「元気に育ってね。たくさんお世話するからね」と話しかける。ブドウの樹は人間よりずっと頭がいいから、フランス語でも日本語でも分かる。
 ブドウの樹は6月ころ花を咲かせ始める。気がつかないほど小さな白い花がプチプチ咲く。とても愛らしい。花が咲いて100日後にブドウの収穫が始まる。花が咲くと、その年の収量を調整するため芽かき作業をする。一本の樹から多くて10房までとした。ゴメンナサイネと謝りながら、残酷にもブドウの芽を摘んでいく。
 ワイン用の樹は小さく育て、皮を厚く実を小粒にして糖度を上げていく。
 8月は放っておいてもブドウが熟成するので、ワイナリーはバカンスをとる。
 ブドウジュースを樽に移し替えるとすぐに発酵が始まる。
 「チチチチ・・・・」
 木樽に耳を当てていると、発酵の始まった音が聞こえてきた。ワインが息をしはじめ、発酵が健全に動き出した証拠だ。音で確認できる。
 足踏み作業は醸造の大切な過程だ。水着の上にTシャツを着て、素足で開放桶に飛びこむ。ズボボボーと足がブドウの粒の中に沈んでいく。踏むというより、まるで底なし沼でもがいているようだ。それも酸欠状態で。笑いごとではない。桶の中にいる人間は要注意だ。ときどき桶から顔を出して息継ぎする。
 著者はスポーツ・ウーマンでもあります。19歳から29歳までの10年間、空手にいそしみ、3段をとっています。お稽古事にもいろいろ手を出しました。料理、華道、茶道、着付け教室、そしてワインスクールに通うようになったのが、彼女の運命を決めたのです。
 一級テイスターに合格第1号でした。なにしろ、1時間で15アイテムのワインをブラインド・テイスティングで14アイテム以上の銘柄を正解しないと合格できないというのです。よほど繊細な舌をもっているのでしょうね。私などは、これがまったくダメです。コンビニの安ワインの方を高級ワインよりおいしいと思ってしまうほどの舌でしかありません。残念です。年に4000本から6000本のワインをテイスティングしたというのですから、さすがプロを目ざす人は違います。
 彼女は、ワインは自分でお金を出して飲みなさいとすすめています。
 生徒の前に3つのコップがおかれる。どれも一見すると、タダの水。一杯を飲む。なんともない。2杯目、うむ、なんかある。3杯目、いよいよ何かある。3杯目のコップに何も感じなかったら鑑定家のプロになる資格はない。2番目のコップには、1リットルあたり1ミリグラムの砂糖が入っており、3番目のコップには3ミリグラムの砂糖が入っていた。これが分からないような舌では、まるでつかいものにならない。うーむ、厳しいんですね。恐らく私はダメでしょうね。
 丹精こめてブドウの樹を育て、心をこめてワインをつくっている姿が写真と文章でしっかり伝わってきます。実にうらやましい。生き生きした笑顔が輝いています。一度、彼女のワインを飲んでみたくなりました。
 庭にチューリップの花が50本ほど咲いています。まだまだ、これからが本番です。ピンクに白いふちどりのあるチューリップの花に気品を感じます。クロッカスの白い花、青紫色のムスカリの花が並んで咲いてくれました。お互いにひきたてあっています。まさに春到来です。雨戸を開けて庭を見るのが毎朝、楽しみです。

2007年3月14日

モーツアルトの手紙

著者:高橋英郎、出版社:小学館
 モーツアルトが肉親に対して茶目っ気たっぷりのスカトロジックな手紙を書いていたのは、前にも本を読んで、少しは知っていました。この本は、モーツアルトの手紙を父親のものを含めて系統的に並べていますので、その人間性と心理状況がよく分かります。写真や図版もありますので、500頁で大判の本ですが、すらすらと読みすすめることができました。
 モーツアルトは、幼いころから、誰からも愛される性格だった。親しい人たちに、「ぼく好き?」と質問を連発したのも、ぼくはきみを好きなんだから、きみだってぼくを好きだよね、という愛の相互確認だった。
 父親は手紙にこう書いています。
 坊主は誰とでも、とくにお役人たちと大変うちとけてしまい、まるでもう生まれたときからの知りあいのようだ。
 文豪ゲーテは14歳のとき、7歳のモーツアルトの演奏を聞いて強い印象を受けたそうです。同時代の人たちなんですね。
 啓蒙派学者のヴォルテールは10歳のモーツアルトに会えなかったのを残念がった。
 モーツアルトは、姉ナンネルと、ふだん口笛で応答していた。
 激しい仕事に没頭するほど、遊び心を求めるのは、晩年に三大シンフォニーを書きながら、奔放卑猥なカノンを乱発したことから明らかである。モーツアルトは、常にバランスをとっていた。
 そうなんですよね。天才じゃなくても、常に精神のバランスをどうとるか、考えておく必要がありますね。私は、読書に没頭することと、土いじり(ガーデニング)です。花を育てて、咲くのを見てると、心が洗われます。
 モーツアルトは、マリア・テレジア女帝からは冷遇された。わざわざ、無用な人間を雇うなという回状までまわされた。うむむ、いつの世にも反対派はいるものなんですね。
 恋はモーツアルトにとって生きる原動力だった。作品と並ぶ、最優先事項なのだ。
 モーツアルトの母親までもが、夫に対して、息子顔負けのスカトロジーたっぷりの手紙を書いていたなんて知りませんでした。ここでは、その引用はやめておきます。
 南チロル出身のきわどいジョーク好きの母親の血を、息子であるモーツアルトが受けついだのだ。著者は、このように分析しています。なーるほど、ですね。日本人には、とても考えられません。
 モーツアルトはある人を訪ねたとき、モーツアルトではないかと訊かれて、いえ、トラツォームと言いますと答えた。これはモーツアルトを逆に呼んだ名前ふざけたわけだ。私も、子どものころ、自分の名前を友だち同士で逆さ読みしていたことを思い出しました。
 モーツアルトは大きくなると、大事なことは父親に相談せず、父親の意見に逆らっても独断でことをすすめた。息子として、父親に見切りをつけていた。
 モーツアルトのスカトロジックな手紙文から、フロイドを引用して、いい年をして、幼児性があるなどと論評する人がいるが、それは間違っている。モーツアルトには、感性の無限の開放があった。類い稀な人間が存在していることに気づくべきだ。
 この著者は、そのように主張しています。なるほど、そういうことなんでしょうね。それにしても、とても引用できない内容ではあります。一言でいうと、ウンコとオナラのオンパレードなのです。
 モーツアルトは父親に対して、次のような手紙も書きました。
 ぼくの色恋沙汰については、もう忘れてください。もうだいぶ以前に心から後悔しました。傷ついてこそ叡智が生まれます。ぼくはまだ若い。でも、若い歳月を、乞食のような境遇で無為に過ごすとすれば、とても悲しいことであり、損失でもあります。
 モーツアルトの音楽が心打つのは、その生活の不安定感からくる真情がある。
 モーツアルトは一日、せいぜい3〜4時間しか作曲していない。モーツアルトは、推敲にこだわるタイプではなかった。
 モーツアルトは秘密結社フリーメイソンに加入した。フリーメイソンの盟友が、モーツアルトにお金を貸して、その生活を支えた。モーツアルトの遺体はフリーメイソンの黒の装束に包まれた。ミサもあげられることなく、共同墓地に埋葬された。25年ごとに掘り返される貧民墓地だった。
 この本を読んで、私はモーツアルトは、短いけれど豊かな人生を送ったのだと思いました。

2007年2月21日

プーチンのロシア

著者:ロデリック・ライン、出版社:日本経済新聞出版社
 エリツィンは共産主義打倒に全身全霊で打ち込んだ。そしてある程度の成功を収めた。その後も共産党はロシアの政界で相当の組織力を維持している。しかし、1996年の大統領選挙でエリツィンがジュガーノフに勝ってからは、ロシアが共産主義イデオロギーや計画経済に復帰する可能性はなくなったようだ。
 共産党の幹部や議員は、政権を黙認することで特典にありつける現状に満足しているようだ。
 エリツィンが共産主義に対する勝利を得た代償として、民主主義と経済は犠牲にされた。1996年にエリツィンが再選されたのは、ごく少数の財界人たち、のちに新興財閥(オリガルヒと呼ばれる)による資金援助とテレビ支配のおかげだった。
 プーチンはチェチェンに対するロシアの反撃を指揮した。それは長い屈辱の日々の終わりかと思え、その効果によって、国民のあいだにプーチンについて、強固な意志と実行力を兼ね備えた人物だというイメージが生まれた。
 プーチンの個人的人気こそ、プーチンの二大資産の一つだ。もうひとつは、大統領という地位そのものにある。
 ロシアでは、下院の議席は多くの議会人にとって実入りのいい収入源と化していた。下院の独立性は次第に失われていった。
 ロシアは理想にはほど遠い状態にある。今なお組織犯罪や契約殺人が頻発している。それでも、他の過渡期にある国や新興国に比べると、公正で迅速な裁判が受けられると考えられるようになった。
 ユコス事件で経営者が逮捕されたことから、プーチンに対して本気で挑戦する者は容赦されないことが明らかになった。見せしめとして狙い撃ちされたのだ。
 プーチンの「統一ロシア」は3000万人の党員確保を目ざしている。旧ソ連の共産党員は2200万人だった。
 男女あわせると100万人をこす軍人がいるし、退役軍人も数百万人いる。
 かつて軍は権力装置のひとつであり、国の誇りであり、社会の中心的な支柱だった。しかし、現在の軍には、その面影はない。徴兵者の大部分は入隊を拒み、実際に入隊した若者はひどい虐待を受け、軍とは関係のない建設現場で働かされたりする。
 ロシア国内には400をこえる大規模犯罪グループが存在し、およそ1万人が関わっており、国家的脅威となっている。
 実際の法執行はきわめて弱く、末端レベルでは贈収賄が横行している。
 ロシアの人口は1億4300万人。1993年から500万人も減った。今も、毎年 70万人ずつ減り続けている。2010年からは年に100万人ずつ減っていくと予測されている。えーっ、それはすさまじいことです。
 男性の平均寿命は59歳となった。1980年代初めは65歳だったのに・・・。自殺は5万9000人。殺人による死は4万7000人。アル中による中毒死は6万7000人。
 ロシアの軍需生産の5割以上が輸出向けで、年平均10億ドルもの兵器を購入する中国が最大の輸出国。
 ロシアでは政治的自由がしだいに制限されていっている。KGBの後継機関(FSB)が息を吹き返し、法と説明責任をこえて活動している。
 私は、もともと旧ソ連に社会主義なるものがあったとは思いません。そこには社会主義に名を借りた封建主義があったと思います。そして、今は、資本主義の名のもとにとんでもない自由放任主義、すなわちお金と力(暴力)をもつものが社会にのさばっている現実があるとしか言いようがありません。
 ロシアの現実を知ると、「社会主義はダメだ。資本主義、万歳」だなどと叫ぶ人の気がしれません。

2007年2月13日

救出への道

著者:ミーテク・ペンパー、出版社:大月書店
 シンドラーのリスト・真実の歴史という副題がついています。あの有名な映画「シンドラーのリスト」は実話を素材としていますが、映画化のとき、多少は脚色されています。この本は、シンドラーと相協力した収容所所長書記(速記者)をつとめた囚人によって書かれた本です。
 当時24歳だったユダヤ人青年のあくまで沈着・冷静な勇気ある行動が、シンドラーの大胆なユダヤ人1000人の救出作戦を可能にしたことが手にとるように分かります。映画「シンドラーのリスト」を見て感動した人に、その舞台裏を知るうえで必読の本として、おすすめします。
 剣をもって戦う者は、剣をもって滅びる。ドイツ占領者に対して抵抗する途は、武器を取る以外にもあるかもしれない。著者は、このように考えました。もちろん、むざむざ死んでいくつもりもない。ほかの人々のためになることだけが大切だ。それ以外のことは、とるに足りない。著者の考えはすごいですね。
 著者は、自分が晴れて自由の身になれようとは思っていなかった。所長のゲートは収容所が解放されそうになったら、その直前に口封じのため射殺するだろうと思っていた。
 著者は、出来る限り透明人間のようになっていた。だから、いつもごく普通の縞模様の囚人服を着ていた。
 収容所内で親衛隊と内通していたユダヤ人は、遅かれ早かれ、手の内を知った厄介者として親衛隊に始末されてしまった。本人は自分たちだけが戦争を生き延びると信じこんでいたのだが・・・。
 ユダヤ人囚人が強制収容所司令官の速記者だったというのは明らかにナチスの規則に反していた。
 所長のゲートは、あるとき、収容所の警報・防衛計画すら著者に立案するように命じた。極秘中の極秘のはずなのに・・・。それほどまで著者は信用もされ、かつ、有能だったわけです。所長のゲートとシンドラーは、同じ1908年生まれ。シンドラーは、限りなく楽天的な人生観、自由を求める意志、回転の速い知性をもっていた。
 シンドラーは、誰とでも知りあいになりたい、誰からもすばらしいと思われたいという人だった。恐ろしく自信たっぷりだった。決して聖人ではない。とても人間味があり、軽はずみなところも多々あった。しかし、シンドラーは、決してユダヤ人を見捨てることはしなかった。
 シンドラーは、カナリス提督のもとで、数年間、スパイとして働いたこともあった。
 シンドラーは著者と会うと必ず握手した。これはドイツ人とユダヤ人囚人との間では異常なこと、いや処罰の対象となりうることだった。
 シンドラーは、非凡な人間だったが、非凡な時代にしか通用しない人だった。波風たたない日常のなかで、シンドラーは挫折し、再起することなく、1974年にひっそりと死んでいった。生前に別れた妻も2001年に死んだ。しかし、シンドラー夫妻のおかげで助かったユダヤ人とその子孫が今では6000人もいる。
 著者が助かった一つの原因として、所長のゲートが横領罪でナチス親衛隊予審判事に逮捕されたことがある。ユダヤ人のゲットーを解体したとき、勝手に私腹を肥やしたことが職権濫用とされたのです。これで、収容所が解体されたときに著者はゲートから射殺されなくてすみました。
 もう一つの収容所では、シンドラーがその所長(ライポルト)をあおりたて、前線へ志願させて追い払いました。すごい策略です。シンドラーは、お金もつかいましたが、頭も相当につかったことが、この本を読むとよく分かります。
 ポーランドのクラクフには、戦前、ユダヤ人が5万6000人住んでいました。戦後、戻ってきたのは、そのうち4000人のみ。そして、21世紀の今、200人しか住んでいないそうです。
 シンドラーのリストがつくられていった過程も説明されています。ともかく、軍事上の重要性を強調し、この人たちでなければ優秀な砲弾はできない、シンドラーはそういった嘘をついて守り抜いたわけです。ところが、実は、つくった砲弾はナチス軍の役に立たない欠陥品だったのです。なんという離れ技でしょうか。
 絶望は勇気を与え、希望は臆病にする。なんという文章でしょうか。普通に考えると、これは正反対だと思います。まさに極限の状況に置かれていたことがよく分かります。
 ナチスのやることは完璧に近いが、それでも、ある程度の食い違い、不手際はいつもある。この悪魔のような絶滅のための万全の組織のなかにさえも、ある種の隙間と抜け穴がある。これをどうやって見つけるか、それが問題だった。うむむ、なるほど、すごい。
 ユダヤ人は人の形をした劣等な生きものだと考え、気の向くままにすぐ殺してしまうような狂暴な所長のすぐそばに2年ほどもいて、それでもこれだけの冷静さを失わずに、所長をたぶらかし続けたというのです。理性の勝利とはいえ、たいしたものです。こんなことを考えつき、それを実行できるとは・・・。
 写真でみる当時の著者の凛々しさは、神々しいほどです。
 ポカポカ陽気の三連休でした。澄み切った青空の下で庭仕事に精出しました。いまは水仙畑のように庭のあちこちに白い水仙が咲いています。黄色の水仙も一群れだけあります。春のような陽気のせいでしょうか、クロッカスが黄色い小さな花を咲かせはじめました。ちょっと早過ぎる気がします。アネモネの橙色の花もふくらんでいます。驚きました。
 紅梅・白梅は、今年はなぜかほとんど花を咲かせません。紅と白と一つずつ花が咲いているだけで、つぼみもチラホラしかありません。昨年は見事に咲いて、たくさんとれた梅の実で梅ジュースをつくったのですが・・・。どうしたのでしょう。今年は梅の花はお休みのようです。
 夕方6時まで明るいので、花壇づくりがはかどりました。がんばり過ぎて右腕が痛くなってしまいました。何ごともやり過ぎはいけませんね。

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