弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
ヨーロッパ
2010年3月11日
東欧革命1989
著者 ヴィクター・セベスチェン、 出版 白水社
イギリスのジャーナリストによる、1989年に起きた一連の革命的出来事がよくまとめられています。なるほど、そういうことだったのかと改めて東ヨーロッパの自由化のうねりを実感しました。
東ドイツのベルリンの壁崩壊の直接のきっかけは、広報担当者のちょっとした言い間違いであったこと、ポーランドのワレサ「連帯」の勝利は、望まない即時選挙によるものであったこと、ルーマニアのチャウシェスク大統領は、大群衆を前にした演説でやじに負けて哀れな姿をさらけ出したことで、4日後には銃殺されてしまったことなど、知らなかったことがたくさんありました。
そして、アメリカがこの一連の革命にどう対処したかは面白いものです。CIAはこの大変化を予測できていなかった。ブッシュ大統領は東ヨーロッパの暴走を恐れ、むしろ各国共産党政権を存続させることに必死になっていた。ポーランドのヤルゼルスキは、大統領選挙にあまり勝ち目がないようなので、不出馬を決意していたところ、ブッシュ大統領が強力に出馬をすすめた。うへーっ、なんということでしょう。アメリカのご都合主義がここでも明らかです。ポーランド国民のためになるかとか、民主化を推進するより、アメリカ国益最優先なのです。いつものことですが……。
東ドイツ政権は、ベルリンの壁を建設して3年後から人身売買に着手した。一定の代金と引き換えに、政治犯を釈放するのだ。1週間に2回、10人ずつ西へ渡った。1人あたり当初は4万マルク、あとでは10万マルク。この方法で西に渡った人は3万4千人。この収入は、東ドイツの国家予算として組み込まれていた。総額80億マルクの収入をもたらした。
人口900万人のチェコスロバキアでは、あらゆる職業に45万人もの特権階級のポストがあった。政治が最優先だった。
CIAはワレサの「連帯」を支援するため、大量の資金、印刷、放送機材をポーランドに投入した。お金は、法王庁とつながりのあるカトリック団体を経由して、バチカン銀行などを使って届けられた。バチカンの支援を受けて、CIAが「連帯」に送った資金は6年間で5千万ドルにもなる。
東ドイツの秘密警察(シュタージ)は、常勤職員6万人、そして50万人をこえる積極的情報提供者がいた。
ゴルバチョフはロシアの外では熱狂的に歓迎された。しかし、軍部はゴルバチョフによって痛めつけられたので、仕返しを考えていた。ゴルバチョフは国際社会では有名人の地位をほしいままにしていたが、国内での人気は急落していた。せいぜい無関心、ひどければあからさまの敵意に満ちていた。
実力を持つソ連共産党の重鎮のなかにはゴルバチョフを選んだことを後悔しはじめた者もいた。グロムイコもその一人である。ゴルバチョフは、東ヨーロッパの衛星諸国が独立に突っ走るとは考えていなかった。それは最大の誤算だった。ベルリンやプラハを訪問して「ゴルビー」と叫び、「ペレストロイカ」と書いたプラカードを振る大群衆に迎えられた時、ゴルバチョフは人々がゴルバチョフ流の改革共産主義を支援しているものと思った。ソ連が崩壊するまで、自分の間違いには気がつかなかった。あのデモの群集は、自分たちの支配者に抗議する手段として、ゴルバチョフを隠れ蓑にしているのだということを見抜きそこなっていたのだ。
なーるほど、そういうことだったのですね……。忘れてはいけない貴重な歴史の本です。
(2010年1月刊。4000円+税)
日曜日の朝、庭にツクシがたっているのを見つけました。土筆という名のとおりです。子どものころ、土手で摘んでおひたしにしてもらって食べていました。ちょっぴりほろ苦い、春の味わいです。
ジャーマンアイリスの球根を掘り出して植え替えをしてやりました。これまでとあわせると、数えてみたらなんと150本ほどになっています。6月にはジャーマンアイリス畑になってしまいそうです。青紫の気品ある華麗な花を咲かせてくれることでしょう。白い花、茶色の花も少しだけあります。チューリップのあとの6月の楽しみです。
2010年2月28日
歴史と花を巡る旅
著者 福山 孔市良、 出版 清風堂書店
大阪の先輩弁護士による旅行エッセーですが、なんと『弁護士の散歩道』シリーズの第5弾なのです。実は、私も同じようなものを書いていますが、最近は文章より写真を主体にしています。ちなみに、私の方は、『スイスでバカンスを』(1999年2月)、『北京西安そしてシルクロード』(2004年8月)、『サンテミリオンの風に吹かれて』(2005年12月)、『南フランスの夏』(2008年11月)、『ちょこっとスイス』(2009年12月)です。いずれも16頁の大判で写真を主体とする旅行記です。その前は文章を主体とする新書版の旅行記でしたが、写真で知ってほしいという思いが強くなったのと、文章を短くしたいという手抜き発想から変えています。
著者の福山弁護士は、遺跡をいくつも歩いているようです。私もこのなかの三内円山遺跡(青森)と、菜畑遺跡(佐賀)だけは行ってきました。そして、遠野には花巻に行ったときに出かけたのです。途中で時間がなくなって引き返してしまいました。残念です。日本にも、まだまだ生きたいところはたくさんあります。それにしても、弁護士はその気になれば、いくらでもあちこち全国どこへでも行けるので、本当にいい職業です。ありがたいことです。
著者はスペインの旅に何回も挑戦しています。私はスペインは行ったことがありません。やっぱり少しだけ話せるフランス語を頼りにフランスに行きたいと思います。なんといっても言葉が通じるというのは安心なのです。
奥付を見ると、ちょうど私より10歳だけ年長だと言うことがわかりました。まだまだ大変お元気のようです。今後とも大いに旅行して下さい。
花の名前を実によく知っておられるのにも感心しました。山を歩いていて、咲いている花を見て、ただきれいだねというだけでなく、花の名前を言えて、少しくらい花について開設できること。これが旅行の楽しみを深めるものです。
著者はアルコールを卒業されたようです。私はまだ卒業はしていませんが、美味しい赤ワインを少々飲めればうれしいというところです。ビールのほうは私も卒業しました。ビールはもう2年ほど飲んでいません。
(2010年1月刊。1429円+税)
2010年2月23日
チェチェン
著者 オスネ・セイエルスタッド、 出版 白水社
ロシアでチェチェン人というと、いかにもテロリスト集団というイメージです。
1989年のチェチェン人は人口100万人。戦争が始まって5年間に10万人のチェチェン人が殺された。
1991年12月にソ連が崩壊したとき、チェチェンは自治共和国としてロシアからの離脱が認められなかった。ドゥダーエフ大統領はかつてソ連軍でただ一人のチェチェン人の将校だった。ところがエリツィンとドゥダーエフは憎い敵同士となった。
ロシアからの財政支援が大きく削減されたため、チェチェン国内には混沌と腐敗がはびこった。チェチェンの犯罪者集団はモスクワ銀行を襲撃し、10億ドルを強奪してチェチェンに持ち去った。チェチェンの首都であるグローズヌイは、密輸・詐欺・マネーロンダリングのセンターとなり、共和国における政府の権威は失墜していった。
ドゥダーエフはモスクワに衛星電話をかけていたところ、その信号をキャッチされ、対地ミサイルによって襲撃・暗殺された。ロシア政府が殺したわけです。
やがて紛争はチェチェン化した。粛清する側もされる側も、ともにチェチェン人なのである。ただし、チェチェンで誰が権力を握るのかを決めるのは、クレムリンだ。クレムリンの忠実な僕(しもべ)たちが暗躍している。白昼堂々、活動することもある。
2002年10月、モスクワの劇場で、覆面姿の男女40人がステージに飛び乗り、天井に向けて実弾を打った。この犯人グループに共通していたのは、全員が戦争で身内を亡くしていたこと。16歳の少女も2人いた。劇場には観客として800人がいた。3日目の明け方、ロシア軍がテロリスト制圧のためガスを噴射した。占拠犯は全員殺されたが、200人の人質も、銃撃戦に巻き込まれて死んだ。まさしく凄惨なテロでしたね。
チェチェンのカディロフ大統領は、スタジアムの自分の席で爆殺された。そのスタジアムは、式典のためにつくられたもので、治安部隊が人員と資材のすべてを監視し、エックス線検査もしていた。爆発物は、当日、カディロフが座るはずの席にコンクリートづけされていた。それが出来るのは、防犯手続きを迂回できる人間だけ。つまり、権力当局が容認しなければありえない爆破だった。
ロシアでは、毎年、人種的な動機による襲撃が5万件も発生している。しかし、襲撃された側が通報するケースは少ない。警察が、被害者より襲った側に同情することがよくあるからだ。記録に残るのは、毎年わずか300件ほどで、人種的動機による殺人事件は50件。加害者はめったに起訴されないし、有罪判決が出るのはもっとまれだ。襲撃の大半は若い男性による。外国人嫌悪に関連する事件の2分の1は、被告が18歳未満のため密室審理となっている。
コーカサス出身者は全体としてそうなのだが、とりわけチェチェン人は一般のロシア人の憎悪と軽蔑の対象にされている。チェチェン人は、ロシアの年に住民登録したり、子どもを学校に入れたり、仕事を見つけたり、住居を探すのが難しい。
チェチェン紛争の現地に入りこんでの報告です。まさに憎悪の果てしない連鎖がそこにあります。ぞっとする事態です。チェチェンとロシアの正常化を願うばかりです。
(2009年9月刊。2800円+税)
2010年2月20日
エレーヌ・ベールの日記
著者 エレーヌ・ベール、 出版 岩波書店
『アンネの日記』のフランス版ともいうべき本です。アンネ・フランクと同じころにアウシュヴィッツ強制収容所に入れられ、終戦によって収容所が解放される直前(5日前)に殺されてしまった若いユダヤ人女性の書き遺した日記です。24歳でした。顔写真を見ると、いかにも知的な美人です。日記の内容も実によく考え抜かれていて、驚嘆するばかりでした。
訳者あとがきに、戦争を引き起こし、「愛国心」やら「勇敢」の名のもとに踊らされる人間の愚かさに絶望しつつも、「公正」を求め続ける。身の危険が迫るなか、文学を糧にして哲学的な思索を深めていく精神性の高さに、読者は深い感銘を受けるだろう、と書かれています。まさにそのとおりですが、フランスでは、以外にもかなりのユダヤ人が生き残ったことを知りました。
1940年にフランスに住んでいたユダヤ人35万人のうち、75%が大虐殺のなか生き延びた。ポーランドは8%でしかなく、オランダの生存率は25%だった。
このフランスにおける高い生存率は、国内でユダヤ人をかくまい助けたフランス人(「正義の人」と呼ばれた)のおかげである。そして、ユダヤ人の子どもの85%が生き延びることができた。有名な歌手であるセルジュ・ゲンズブールも、子ども時代にユダヤ人であることを隠して生き延びた。ええっ、そうだったんですか……。ちっとも知りませんでした。
ああ、でも、私はまだ若いのに、自分の生活の透明さが乱れるなんて不当だ。私は「経験豊か」になんてなりたくない。しらけて幻想なんか捨てた年寄りなんかなりたくない。何が私を救ってくれるのだろうか。
私は忘れないために急いで事実を急いで記している。忘れてはならないから。
人々に逃げるように警告した何人かの警官は、銃殺されたという。警官たちは、従わなければ収容所送りだと脅された。
勇気を持って行動すると、生命を失う危険のある日々だったわけです。
結局のところ、書物とは、平凡なものだと理解した。つまり、書物の中にあるのは、現実以外のなにものでもない。書くために人々に欠けているのは、観察眼と広い視野だ。
私が書くことを妨げ、今も心を迷わせている理由は山ほどある。まず、無気力のようなものがあって、これに打ち勝つのはとても大変だ。徹底的に誠実に書くこと、自分の姿勢を曲げないために、他の人が読むなどとは絶対に考えずに、私たちが生きている現実のすべてと悲劇的な事柄を言葉で歪めずに、その赤裸々な重大さのすべてを込めながら書くこと。それは、たえまない努力を要する、とても難しい任務だ。
要するに、この時代がどうであったか、あとで人々に示せるように、私は書かなければならない。もっと重要な教訓、さらに恐ろしい事実を明るみに出す人がたくさん出てくることは分かっている。
私は臆病であってはならない。それぞれ自分の小さな範囲内で、何かできるはず。そして、もし何かできるなら、それをしなくてはならない。私にできることは、ここに事実を記すこと。あとで語ろうとか書こうとか思ったときに、記憶の手掛かりとなる事実を書きとめることだけだ。
人生はあまりに短く、そしてあまりに貴重だ。それなのに今、まわりでは犯罪的に、あるいはムダに、人生が不当に浪費されているのを私は見ている。何をよりどころにしたらいいのだろうか。絶えず死に直面していると、すべては意味を失う。
今、私は、砂漠の中にいる。「ユダヤ人」と書くとき、それは私の考えを表してはいない。私にとって、そんな区別は存在しない。自分が他の人間と違うとは感じない。分離された人間集団に自分が属しているなんて、絶対に考えられない。
人間の悪を見るのは苦しい。人間に悪が降りかかるのがつらい。でも、自分が何かの人種や宗教、あるいは人間集団に属しているとは感じないために、自分の考えを主張するときに、私は自分の議論と反応、そして良心しか持たない。
シオニズムの理想は偏狭すぎると私には思える。
きのう(1944年1月31日)は、ヒトラー政権が出現して11年目の日だった。今では、この体制を支えている主要な装置が強制収容所とゲッシュタポであることが良くわかった。それが11年も…。一体誰が、そんなことを賞賛できるのだろうか。
エレーヌ・ベールの知性のほとばしりを受け止め、私の心の中にある邪心が少しばかり洗い清められる気がしました。一読をおすすめします。
フランス語を勉強している私としては、原書に挑戦しようという気になりましたが……。
(2009年10月刊。2800円+税)
2010年1月22日
シェイクスピア伝
著者 ピーター・アクロイド、 出版 白水社
訳者あとがきによると、本書はシェイクスピア研究者からは酷評されているそうです。というのも、シェイクスピア学者なら犯さないような誤りがあまりにも多いためです。たとえば、エリザベス朝演劇の全体像を理解しないままシェイクスピアを語っていることです。
注は孫引きばかりとのこと。たまたま読んだ研究書を引用するなど、決して許されない。
そんな欠点はあるものの、一般読者には、かなり面白い読み物になっています。
たとえば、当時はエリザベス女王は1603年3月に死んだ。年齢と権力に疲れきって死んだ。人生の最後には、横になって休むことを拒否し、何日もたち続けていた。
多くの人々が、エリザベス女王は権力の座に長くつきすぎた暴君だと考えていた。エリザベス女王が死んだとき、シェイクスピアは女王を称賛する文章を書いていない。
エリザベス女王が死んで、スコットランドから新しい王であるジェイムズがやってきたことから、シェイクスピアたちは国王に認められた。国王一座となり、社会的地位は著しく上昇した。
シェイクスピアは、腸チフスのため53歳で亡くなった。その葬式はとても寂しいものだった。学者も批評家も、シェイクスピアのことを友人か誰かと語ろうとすらしなかった。シェイクスピアは表現力豊かな台詞で登場人物を描くことができ、行動のさまざまな原因を意味深い細部をつかってまとめ、記憶に残る筋書きを創作することができた。しかし、シェイクスピアが人に先駆けて発揮した最大の才能とは、おそらく悲劇的・暴力的なアクションの中休みとして喜劇を取り入れたことだろう。シェイクスピアは、大衆の好みに従った。
シェイクスピアの想像力には、本から生まれたところがあった。種本をすぐ横において、ほぼ一字一句そのままに文章を移しとることもあった。しかし、どういうわけかシェイクスピアの想像力という錬金術を経ると、何もかも変って見えてくる。互いに相いれないような題材からの要素を組み合わせて新しい調を作り出すのが、シェイクスピアの常套手段だった。
シェイクスピアをまた読んでみたくなる本でした。
注釈を入れて、上下2段で600頁近い大部の本です。
毎日曜日の昼下がり、近所の喫茶店でランチをいただきながら、少しずつ読み進めていきました。至福のときでした。
(2008年10月刊。1600円+税)
2010年1月 2日
狙われたキツネ
著者 ヘルタ・ミュラー、 出版 三修社
チャウシェスク独裁政権下のルーマニアを舞台とする小説です。あまりに寓話的なので、ルーマニアの実情を全然知らない私には、読み取り、理解するのが難しい本でした。
ルーマニアという国は、ひところはソ連に追随することなく、自主的な社会主義としてもてはやされていたように思います。ところが、そのルーマニアを戦後ずっと率いていたチャウシェスク大統領夫妻が宮殿の中庭であっけなく銃殺される写真を見て、やっぱりひどい独裁者だったんだろうなと思いました。
著者のヘルタ・ミュラーは、ノーベル文学賞を2009年にもらった人です。秘密警察による国民への迫害をテーマとする長編小説を書いていたそうです。
独裁者(チャウシェスク大統領)は、毎朝下着を新品に取り換えた。背広、シャツ、ネクタイ、ソックス、靴。何から何まで新品だ。その服は、全部が全部、透明な袋に密閉してある。なぜか?毒を撒かれないためだ。冬になると、毎朝、新品の懐炉が用意され、コートや襟巻、それに毛皮の帽子からシルクハットに至るまで、まっさらだ。まるで、前の日に着ていたものがどれもこれも小さくなってしまったみたいに……。まあ、夜、寝ているあいだに権力がどんどん成長するんだから、仕方がないのかも。うーん、なんたる皮肉でしょうか。
独裁者の顔は、年とともに縮んで小さくなっているというのに、写真ではどんどん大きくなっている。それに、白髪まじりのカールした前髪も、写真ではますます黒みを増している。
チャウシェスク大統領夫妻の処刑シーンの映像は、1989年暮れに世界を駆け巡った。
東欧改革の流れの中で唯一、流血の革命を経験したルーマニアには、「革命」という言葉が空虚に響くほど、旧支配層を権力にとどまらせた。1996年11月の大統領選挙で旧共産党支配に終止符が打たれるまで、革命のけりがつくのに7年もかかった。
ルーマニアが今どうなっているのか、日本でニュースになりませんから、まったく分かりませんよね……。
(2009年11月刊。1900円+税)
2009年12月30日
武装親衛隊とジェノサイド
著者 芝 健介、 出版 有志舎
パウル・カレルという有名な戦記作家がいます。『バルバロッサ作戦』などの著者です。このカレルが、元ナチ党員で、親衛隊(SS)の中佐だったということを初めて知り(認識し)ました。
このカレルは独ソ戦を戦い抜いたドイツ国防軍は、戦争犯罪を犯しておらず、軍兵士とまったく変わらなかった武装親衛隊(SS)兵士も同様にユダヤ人大虐殺などの犯罪にコミットしていないという伝説をまき散らした。
この本は、その伝説がまさしくウソであることを克明に明らかにしています。
独ソ戦開始後、ソ連にいたユダヤ人に対してジェノサイドを初めて展開したのは、フューゲライン(ヒトラーの妻となったエーゲ・ブラウンの妹の夫となった。終戦直前にヒトラーを裏切った罪によって銃殺された)麾下の武装親衛隊騎兵旅団だった。文字どおりユダヤ人専門の射殺部隊だった行動部隊の構成員のなかでもっとも多かったのは、武装親衛隊兵士だった。絶滅収容所への強制移送作業の中心を担ったのも、収容所での殺戮に直接関与したのも、圧倒的に武装親衛隊だった。
ツィクロンB(毒ガス)によるアウシュヴィッツ収容所でのユダヤ人などのガス殺作戦も、武装親衛隊が決定的に関わっていた。武装親衛隊は、ユダヤ人ジェノサイド実行部隊の中核をなしていた。これらの事実は打ち消し難い。
アメリカは、初めナチスドイツ軍の戦争犯罪追及に熱心ではなかった。しかし、1949年、ナチスドイツ軍の最後の大反攻中、ベルギーのマルメディで捕らえたアメリカ兵71人を射殺した事件を知って、ナチスドイツ軍のイメージを大転換し、ニュルンベルグ裁判へと進めて行った。そうなんですか……。そういえば、ユダヤ人を絶滅収容所でナチスが大量虐殺しているのを知りながら、アメリカは何の手もうちませんでした。
親衛隊に入るためには、身長170センチ以上、30歳まで、身体適格を証明する医療証明が必要であった。
自らの軟弱さが暴露されるのを恐れ、昇進のチャンスがなくなることを恐れるために、命令を実行し続けるSS隊員は多かった。除名、追放という代価を払ってまで、忠誠義務・服従義務を疑ってみるだけの自発性を持ち合わせた隊員はほとんどいなかった。
1941年6月22日、ナチスドイツ軍は宣戦布告なしにソ連へ攻め込んだ。ドイツ軍の捕虜となったソ連軍兵士350万人の6割が死亡したが、これは異常に高い、高すぎる。
アスファルト兵士という言葉があるそうです。ヒトラーを前にパレードしかやらない。血を流す経験もせず、ただ綺麗な舗装道路を行進するだけの存在。ドイツ国防軍が武装親衛隊を揶揄した言葉のようです。でも、事実はそんなものではなかったのです。ユダヤ人大虐殺の実行犯の集団だったのです。ただ、その点はドイツ国防軍も責任を免れないわけです。
国民大衆に情報が行きとどかないときには、大変な惨禍が生じるものですよね。
(2009年6月刊。2400円+税)
2009年12月13日
エレサレムから来た悪魔(上・下)
著者 アリアナ・フランクリン、 出版 創元推理文庫
最優秀ミステリ賞を受賞したというだけはある本です。作家の想像力の素晴らしさに感嘆しながら読みすすめました。文庫本2冊で、舞台が中世(12世紀)イギリスなので、よく分かっていない社会状況だということもあって、いつもより時間をかけ、じっくり読み耽りました。
舞台は1171年の中世イングランド。ケンブリッジで4人の子どもが惨殺された。その殺され方が磔(はりつけ)のように見えたため、カトリックの町民はユダヤ人のしわざだとして暴徒と化した。そのせいで、ユダヤ人たちからの税金が激減するのを恐れた時の王ヘンリー2世は、騒ぐ群衆からユダヤ人を守るために、王の保護のもとにおき、シチリア王国から解剖学の専門家を派遣してもらうことにした。そして、やってきたのは、なんと若い女医、死因を探る学問を身につけた病理医学者だった。
当時のイングランドでは、女医などとんでもない、女が医療を施そうものなら、魔女のそしりを免れえなかった。
ヘンリー2世の君臨する中世イギリスの世界が細やかに描写され、法医学を扱う検視官の仕事が見事に融和しています。私は、似たようなイメージだろうと勝手に想像して、ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』を想像しながら読みすすめました。
4人の子どもを惨殺した犯人は、最後近くまで明らかにされませんが、十字軍に騎士として従軍したことが想定されています。そのなかで、十字軍のひどい実態が暴かれています。それは、キリスト教の輝かしい精神を具現したというより、犯罪者を寄せ集めたゴロツキ集団と化していた面もあったようなのです。
そして、ユダヤ人へのすさまじいばかりの迫害です。ヘンリー2世も、ユダヤ人を保護していたのは、信教の自由を何人にも保障するというより、そこからあがってくる収入をあてにしていた気配が濃厚です。
いずれにしても、12世紀イギリスの寒々とした雰囲気が実によく伝わってくる本でした。
(2009年9月刊。840円+税)
2009年12月12日
ワルシャワの日本人形
著者 田村 和子、 出版 岩波ジュニア新書
ポーランドの人々は日本に対して親近感を持っているそうです。
第二次大戦前のポーランドで、オペラ『蝶々夫人』が演じられ、プリマドンナをつとめた歌手のテイコ・キワ(喜波貞子)の大ファンとなった女性がナチス・ドイツに捕まり、獄中で可愛らしい日本人形をつくり、今もそれが残っているというのです。不思議ですね。
実は、この女性はナチスに対するレジスタンス運動に加わっていました。レジスタンス組織は後にワルシャワ蜂起に立ちあがったのです。
獄中で親切な女性看守がいて、日本人形をつくるのを援助し、身内に届けてくれました。その看守もレジスタンスの一員でした。あとでつかまりましたが、戦後まで生き抜きました。
ワルシャワ・ゲットーに閉じ込められていたユダヤ人は、1943年4月、3000人の兵士に指令を出して蜂起した。ナチスに包囲攻撃されたからである。1ヶ月後、鎮圧されてしまった。
そして1年後の1944年8月、今度はゲットーの壁の外でワルシャワ市民がドイツ占領軍に対する武力闘争に立ち上がった。ワルシャワ蜂起である。2ヶ月あまりの戦闘の末、蜂起軍は降伏した。ソ連軍は対岸まで進出していにもかかわらず、何の援助もしなかった。
ワルシャワ・ゲットーには、かの有名なコルチャック先生も子どもたちと一緒に生活していた。ゲットー内には14歳未満の子どもが10万人(住民の4分の1)いた。
1942年8月6日朝、ナチスは「孤児たちの家」に押しかけてきて、子どもたちの移送が始まった。200人の子どもはコルチャック先生を先頭にして行進を始めた。
この日、4000人の子どもたちがトレブリンカ絶滅収容所に移送されたのである。
コルチャック先生はナチスによる特赦をはねつけ、子どもたちと運命をともにした。
ワルシャワ蜂起には、大勢の若者そして子どもたちが少年レジスタンス兵として参加した。そのなかに孤児部隊という別名を持つ特別蜂起部隊イエジキがあった。部隊長となったイェジは、当時29歳の青年である。イェジはロシア領内のキエフスに生まれ、シベリアで孤児となった。ポーランド人孤児を救済する組織がつくられ、日本赤十字の協力で375人の子どもたちが日本にやってきた(1920~1921年)。そして、翌年までにアメリカ経由でポーランドに戻っていった。さらに、1922年にも同じように390人の孤児が日本にやってきて、健康を回復してポーランドに戻って行った。そのなかに先ほどのイェジがいた。イェジは、ポーランドに戻ってから日本の交流を目的とした「極東青年会」をつくった(1928年)。
イェジは、失敗したワルシャワ蜂起を生きのび、1991年5月に亡くなるまで、日本の歌を覚えていたそうです。ワルシャワ蜂起と日本とのつながりを、こんな形で知ることができました。
(2009年9月刊。740円+税)
2009年12月10日
「二十歳の戦争」
著者 ミケル・シグアン、 出版 沖積舎
ある知識人のスペイン内戦回想録というサブ・タイトルのついた本です。
私は20歳のとき、東大闘争の渦中にいて、いわゆるゲバルトの最前線に立っていたことがあります。もっとも、相手も私もせいぜい角材しか持っていませんでした(なかには鉄パイプとか、釘のついた角材を手にしていた人もいましたが、幸いなことに私は見かけただけで、直接むかいあうことはありませんでした)。はじめはヘルメットもかぶっていませんでした。飛んできた小石が頭に当たり、真っ赤な血が出て白いワイシャツをダメにしたことがあります。しばらく頭に包帯を巻いていましたので、過激派学生と間違えられていやでした。
この本を読むと、私たちの学園闘争があまりにも子供じみた牧歌的なものであることを自覚させられ、苦笑せざるをえませんでした。それでも、当時、私たちは真剣でしたし、闘争の渦中に過労のため身近なクラスメイトが急性白血病で亡くなったり、精神のバランスを喪って入院したりということは起きていました。
東大闘争では、ともかく学生に死者を出すなということが至上命題だったことをあとで知りました。東大を舞台とした内ゲバ(全共闘内部のセクトの武力抗争)でも、幸いにして東大では死者は出ませんでした。ただし、あとで内ゲバによって多数の死者が出たのはご承知のとおりです。
この本は、学園紛争どころではなく、スペイン内戦です。ナチス・ドイツの後押しを受けたフランコ軍と、ソ連の後押しも受けた共和国政府軍が戦争したのです。戦争ですから、当然のことながら双方大量の兵士が戦死しています。
スペイン内戦は特異な戦争だった。スペイン人がスペイン人を相手に戦った内戦であり、敵味方の陣営が、それぞれ簡単には説明しきれないほど複雑な構成になっていた。
一方の陣営は反乱を起こした軍人たちで、王制にとってかわった共和制政府に対してクーデターを仕掛けた。それを支持したのがカトリック教会や伝統的な保守勢力。そして、当時台頭しつつあったファシスト勢力のファランヘ党であった。
もう一方の陣営は、共和国の合法性を擁護する勢力と社会革命を標榜する勢力だった。その中には、無政府主義者もソ連流の共産主義者もいた。そのほか、カタルーニャとバスクの自治を求める勢力も一員だった。
20歳の著者は、大学生として共和国軍に身を投じた。1937年12月のこと。軍隊に一兵卒として入隊した。著者は学生のとき、カタルーニャ学生連盟の書記長だった。そして、コミュニスト・グループと戦った。しかし、アナキストは知らなかった。マドリッドから敗退してきた共和国軍がテルエルの戦いで激戦のあげくに敗れてしまった。
そのあとの戦線膠着状況で過ごす日々が淡々と描かれています。兵士の辛さが良く分かります。
そして、テルエルの戦いで敗れたけれど激戦を戦い抜いた兵士たちが後方で休息しているとき、直ちに前線復帰命令が出され、それを拒否した兵士50人が銃殺されたという話が紹介されています。指揮官の命令違反は死刑だというわけです。戦争とはこんなにむごいものなのですね。勇敢な兵士を仲間が処刑してしまうというのはやりきれません。
スペイン内戦の内情を20歳の一兵士の目を通して知ることのできる貴重な本です。
著者は今年91歳で、今なお、お元気のようです。
(2009年9月刊。3500円+税)