弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

ヨーロッパ

2009年11月19日

映画大臣

著者 フェーリクス・メラー、 出版 白水社

 ナチスのゲッベルスは、毎日詳しい日記をつけていたのですね。それも、他人に読まれることを意識していたとは驚きです。秘書に口述筆記させたり、また、出版社に専属契約して多額の印税をせしめたり……。日記の持つ私的なイメージとは、かなり異なります。
 それでもゲッペルスの書いたものである以上、そこには真実が反映しているのでしょう。その膨大な日記を全部読んで分析したというのですから、たいしたものです。
 この本は、ナチスの宣伝大臣ゲッペルスと映画との関連に焦点をあてています。ヒトラーもゲッペルスも映画が大好きでした。アメリカ映画の大ファンだったようです。そして、ナチス・ドイツの考え方を映画に反映したかったのです。
 ヒトラーが好んでいたアメリカ映画が、なんとウォルト・ディズニーのアニメ作品だったというのです。とんでもない、信じがたい話です。かの『白雪姫』まで、アメリカから輸入していたようです。
 ところが、映画界は、アメリカ(ハリウッド)だけでなく、ドイツでも、あの「いまいましい」ユダヤ人がその才能で「牛耳っていた」のでした。そこで、ヒトラーもゲッペルスもユダヤ人絶滅政策を映画界では緩和せざるを得なかったのでした。だって、そうしないと、ドイツの一般大衆からソッポを向かれてしまい、映画館に人々が足を運んでくれないのですから、仕方ありません……。ナチスのいいかげんさは、ここにも表れています。
 映画館の観客、つまりドイツ国民は、ナチズム色が強いほど信用しなかった。
 ユダヤ人を映画界から追放したため、ドイツ映画のレベルが低下し、ヒトラーが皮肉を言ってゲッペルスが弁解に追われるという状況だったようです。とんだ歴史の皮肉ですね。
 ヒトラーと同じく、ゲッペルスも、ドイツ国民に絶望することがたびたびだった。
 ゲッペルスは、ソ連の「戦艦ポチョムキン」を評価しつつ、ドイツ映画の不出来を嘆いた。
 ゲッペルスは、1945年4月22日、妻マグダと5人の子どもたちと一緒にドイツ帝国宰相官房の地下にしつらえてあった「総統」防空壕に引っ越した。そして、ゲッペルスはヒトラーが自殺した翌日、家族を道連れに命を絶った。
 このあたりは、『ヒトラー最期の10日間』という最近の映画に描かれていました。
 ゲッペルスは、20年以上ものあいだ、毎日1時間以上日記をつけていた。ゲッペルスは自筆で20冊の日記をつけ、口述筆記でタイプ打ちされた3万5000枚の日記を残した。その大部分は、戦後、ソ連に持ち去られた。
 ゲッペルスの日記は、熱狂的で大仰な文章が大変多い。しまりのない、乏しいキーワードだけで綴られた貧弱な言葉の日記である。
 ゲッペルスの日記には、ヒトラーに対するグロテスクなほどの賛歌が目立つ。
 ゲッペルスの妻マグダは、夫の浮気を止めさせようと、上司であるヒトラーに仲介を依頼した。しかし、その妻も秘書官と浮気していたのでした。
 ナチスのユダヤ人絶滅政策が、映画製作の分野でも、実は破綻していたことを示す本でもあると思いました。
 
(2009年6月刊。4500円+税)

2009年10月28日

公平・無料・国営を貫く英国の医療改革

著者 武内 和久・竹之下 泰志、 出版 集英社新書

 イギリスといえば、ゆりかごから墓場まで、福祉を大切にする国と学校で教わったことを思い出します。それでも、鉄の女サッチャーが福祉をメチャクチャにしたというイメージが強くありますし、なにしろ、いつもアメリカに追随して海外派兵する国だと思っていましたので、映画『シッコ』(マイケル・ムーア監督)を見たときは大変おどろきました。
 ええっ、イギリスって医療費がタダなの……?この本は、イギリスにおける公平・無料・国営の医療制度の現状を知らせ、その動向を分析しています。
 日本は、低医療費国家である。先進国のなかで、日本は30カ国のうち21位、G7のうちで最下位。
 無料で公平な医療を全国民に、これがイギリスの医療制度の理想だ。ただ、発足して60年がたち、非効率、悪平等、画一的という欠点も目立つ。
 イギリスの医療制度は、社会保険によらず、税方式で運営されている。治療には患者負担がなく、無料でサービスが受けられる。イギリスでは、出産も無料である。いざというとき、病院に無料でかかれるというのは何より安心だ。国民の絶大な支持がある。
国民はまず、地元からの診療所で、かかりつけ医(GP)の診察を受けなければならない。GPは、住民1500人~2000人に対して1人の割合で、全国的にほぼ平均に配置されている。医療費全体の3分の1がGPで使われる。
 イギリス医療システム(NHS)は、150万人を傘下に収める世界最大級の雇用主だ。サービスや医師の水準は、他の先進国と遜色ないと評価されている。
 イギリスも社会階層間の平均寿命の格差が拡大し続けている。1971年時点で、死亡率は最大2倍の差があり、1998年時点では、さらに3倍に拡大していた。
 医師は完全な公務員ではなく、意欲的な医師は自分で収入を増やす選択肢が残されている。NHSで働く医師は、ある程度の生活と労働環境は保障されているが、大きな収入を得る可能性は低い。そして、イギリスの医師には国家試験がない。
イギリスの医療制度に日本は学ぶべきところが大きいと思いました。オバマさんが苦労しているアメリカなんか、手本にしてはいけません。


 雲仙で久しぶりに地獄を見て廻りました。朝早かったのでまだ誰もいませんでした。空漠として白いゴツゴツした岩肌がむき出しです。硫黄臭い白煙があちこちから噴き出しています。白い濃霧に包まれて一寸先も見えなくなることがあり、しっかり地獄を体験しました。
 可愛いキビタキを見かけたのが救いでした。地獄に仏のような、救われた気がしました。

(2009年7月刊。680円+税)

2009年10月24日

縞模様のパジャマの少年

著者 ジョン・ボイン、 出版 岩波書店

 映画を見損なったので、せめて本を読もうと思ったのでした。ナチスがつくったユダヤ人の強制収容所には、いくつかの種類があったようです。選別して殺すだけの絶滅収容所。働かせられる労働者を選別して働かせていた強制労働所です。
 この本は、恐らく絶滅収容所を舞台にしているのでしょうか、実際にはあり得ない、収容所内外の子どもの交流を描いています。収容所の責任者として家族連れで着任してきたナチス親衛隊の高官には、9歳の息子と12歳の娘がいたのです。その9歳の男の子が、友達ほしさに収容所周辺をうろうろしているうちに、縞(しま)模様のパジャマを着た少年と仲良くなってしまうのです。
 実際、収容所の周辺にいた人々との交流が皆無ではなかったようです。でも、子どもが1対1で話し込む状況というのは、いくらなんでもありえなかったのではないでしょうか……。
 しかし、あり得ないことを本の中では可能として、それを通じていろんなことを考えさせるのが作家の腕前です。この本を書いた著者は、なんと1971年にイギリスで生まれています。やはり、想像力が豊かなのです。
 ありえないことを、ありえることとして、ナチス高官の息子が収容所に入れられて死を待つユダヤ人の子どもと交流したらどういう展開になるのか、それを考えさせてくれるのです。やはり、映画そのものを見たかったものだと思ったことでした。
 
(2009年5月刊。1800円+税)

2009年10月13日

アウシュヴィッツでおきたこと

著者 マックス・マンハイマー 、 出版 角川学芸出版

 1920年にチェコスロヴァキアで生まれたユダヤ人が生き延びた体験を語った本です。著者は1943年にアウシュヴィッツへ入れられ、労働用ユダヤ人としてワルシャワ、そしてダッハウ収容所に入れられました。家族は8人いましたが、弟を除いて全員が収容所で死亡しています。
 殴打、下痢、高熱……。死人、死人、死人、死人、死人、死人、死人、死人、死人、死人、死人、死人、死人、死人、死人、死人、死人……。
 この本で著者が書いただけ書き写しました。収容所のなかが少しでもイメージできるようにと思って書いたのです。
 飢餓と汚水が私たちの隊列のメンバーをひとりまたひとりと、どんどん減らしていった。
 一番抵抗力の強かったのは、ポーランドから移送されてきたユダヤ人たちだった。彼らは、もともと職人や作業員だったから、肉体的にもはるかに優れていた。オランダ人やチェコスロヴァキア人のような軟弱体質ではなかった。
 収容所の一日は、何もせずにバラックの前にただ立っていることと、シラミ検査、ほんの一握りの配給食をむさぼり食うことで過ぎていった。
 この本には、まさに奇跡そのものの話が紹介されています。
 ナチスは、収容所についたユダヤ人からすべてを奪います。持っていたトランクの中身全部です。ところが、トランクのなかを点検したユダヤ人が、一枚の写真を見つけました。なんと、友人の家族がうつっていた写真なのでした。そして、その写真を友人に渡すことができたのです。その写真がこの本の表紙を飾っています。いかにも裕福で賢そうな家族です。この人たちが、ユダヤ人だというだけで人間扱いされずに虐殺されたなんて、信じられません。
 ユダヤ人大虐殺は嘘だったなどと言う人が今もいることに私は驚き、かつ、呆れます。真実に目をふさいでしまったら、この世は終わりではないでしょうか。
 著者は収容所で病気で倒れたあと、ナチスの医師の選別の前に立たされます。労働不能と判定されるとガス室行きです。医師によって労働不能と判定された直後、著者は恐る恐る、「話があります。仕事させてください」と申し出たのです。その医師は、疑わしそうな目で著者を見たあと、「まあ、いいでしょう」と言ってくれたのでした。これで助かったのです。最後の最後まで、あきらめてはいけないということなんですね。大変な教訓です。
 この本の救いは、大虐殺のなかを生き延びた人がいて、今もそのことを語り続けているという事実です。いやはや、たいしたものです。すごいです。

 土曜日に鹿児島に行ってきました。弁護士会の主催する憲法シンポに参加しました。東京新聞の半田滋記者のスライドをつかいながらの講演は、日本の自衛隊の実情を知ることが出来て、大変勉強になりました。
 半田記者によると、北朝鮮は日本に侵攻する能力はまったくないし、防衛省もそんな想定はしていないということです。空軍のパイロットはジェット燃料がないので訓練飛行もろくにしていない。ロケットも目標にあてる精度は高くない。海軍の艦船は弱体であり、海上自衛隊は演習したらたちまち大勝利してしまい、今では演習もしていない。陸軍は人数こそ多いが、日本に攻めて行くことは想定していない。
 ただ、朝鮮半島有事のとき、人口の1%が難民化すると言われていて、20万人の難民の多くが日本にやってきたとき、そのなかに特殊部隊員が混じっていたら厄介になる。といっても、それは北朝鮮が攻めてくるという話ではない。
 なるほど、北朝鮮の脅威をあおるのは一部の政治家がためにするものなんですね。
 このシンポジウムのとき、オバマ大統領へのノーベル平和賞について、まだ実績をあげていないから辞退すべきだったという話が出ました。しかし、核問題では下手な「実績」は怖いことを意味しかねません。なるほど、アメリカはイラクやアフガニスタンで侵略戦争をしています。しかし、核廃絶を呼びかけたオバマ大統領はえらいし、みんなで後押しする必要があると私は考えています。その意味で、ノーベル賞委員会も偉いと思います。


(2009年7月刊。1500円+税)

2009年10月 7日

通訳ダニエル・シュタイン(上)

著者 リュドミラ・ウリツカヤ、 出版 新潮クレスト・ブック

 ユダヤ人であることを隠して、ゲシュタポに勤め、秘書として働いていたという実在の人物について書かれた本です。
 人間の心理にはびっくりするほどの不可解な側面がある。ユダヤの老人たちは、一生のあいだに数多くのポグロムや広場での集団銃殺を経験してきたのに、ナチスがユダヤ人絶滅作戦を計画的に組織していることを信じようとはしなかった。彼らは、あくまで一縷の望みにすがりつき続けた。
 ゲシュタポで仕事をするとき、ヒトラー総統への忠誠を誓った。そして、著者はゲットー絶滅作戦の決行日を知って、ゲットーに漏らしたのです。ところが、それを通報したユダヤ人がいました。その裏切りによって著者はナチスの少佐の前にひっぱり出されます。
 「なぜこんなことをしたのか。きっとポーランドの愛国主義者としてしたのだろう?」
著者は答えました。
 「私は本当のことを申し上げます。私はユダヤ人なのです」
少佐は頭を抱えてしまいます。
「署員たちの言っていたことは、本当だったのか。なんということだ…」ところが、この少佐は、続けてこうも言ったのです。
「君は勇敢で頭の良い青年だ。二度も死の危険を免れることが出来たじゃないか。もしかすると、今回も運に恵まれるかもしれない」
そして、著者を拘束した憲兵たちは、一緒に食事までしたのでした。そのあと、警察署内から見て見ぬふりをしてもらっているうちに逃走したのでした。ええーっ、本当なのかしらん…。びっくりするような話です。でも、恐らく本当のことでしょう。その上司はナチス党員でしたが、一番まともで、仕事ぶりも誠実だった。この少佐は、ユダヤ人を自らは一人も殺さなかったし、そのことを自慢げに著者に話していたのです。ナチス党員といっても、人間性を喪ってない人もいたのですね。ゲットーにいたユダヤ人500人が広場で銃殺されたとき、いったい神はどこにいたのか?
神は苦しむ人々と共にあった。決して殺人者たちと一緒にいることはなかった。
しかし、神が本当にいるのなら、そもそも、人間がそんなにひどいことをするのを許すはずはない。それ以来、シナゴーグへ一度たりとも足を踏み入れたことはない、というユダヤ人もいます。
ユダヤ人アイデンティティーの核心とは、脳の練磨を生きる意味とし、常に思考を発展させようと努力することである。それこそが、マルクス、フロイト、アインシュタインのような人々を生み出す原動力となった。こうした頭脳たちは、宗教的土壌から離れたほうが、もっと集中して良質な仕事をすることができた。
ユダヤ人自身が自分たちのことをどう定義しようと、実際には、彼らは外から定義される。ユダヤ人とは、非ユダヤ人が、「あれはユダヤ人だ」と考える者のことである。だから、キリスト教の洗礼を受けたユダヤ人も大目には見てはもらえない。彼らもまた虐殺の犠牲者となった。
そして、奇跡的に生き延びた著者は戦後、イスラエルの地でなんとなんとカトリック神父として活動したのです。いかにも不可解なことが連続して展開していきます。やや読みにくいのですが、書かれている内容に強くひかれて読み通しました。

日曜日の午後からチューリップ畑づくりに精を出しました。畳2枚分を掘り下げ、そこに枯草を入れ、EMボカシで処理した生ゴミをかぶせて、その上を土で覆います。
これまで晴天続きで地面がコチコチに固まっていてできなかったのですが、先週やっと恵みの雨が降ってくれました。来週チューリップの球根を植えます。


(2009年8月刊。2000円+税)

2009年10月 6日

アルバニア・インターナショナル

著者 井浦 伊知郎、 出版 社会評論社

 アルバニアって変な国だという印象があります。ソ連にたてつき、毛沢東主義に心酔した孤高を守る国だったのではないでしょうか。その実体はどんなものなのか知りたいと思って、この本を手に取りました。写真付きですから、イメージが持てます。
 人口は350万人。住民のほとんどはアルバニア人。言語はアルバニア語。
 ホヂャ独裁が40年近くも続いた。ホヂャというのは、聖職者とか教師を意味する姓であり、アルバニアではありふれた名前である。長く独自路線を取ってきたアルバニアも、今では左右を問わず「親米」路線をとる。9.11後はさらに対米協調路線を深め、イラクとアフガニスタンへアルバニア軍を派遣した。2007年にブッシュ大統領が訪問したとき、アルバニアだけは与野党を問わず国民的に大歓迎した。
アルバニアは2009年春、悲願のNATO加盟も実現した。
イタリア共産党の創設者であり、理論家として有名なアントニオ・グラシムは父親がアルバニア人である。
 一般にアルバニア社会では日常生活において宗教の相違が表に出ることはほとんど無い。見た目や言動だけでは、ムリスリかクリスチャンかすら、よく分からない。ムリスムが人口の6~7割を占めているが、人々は酒を普通に飲んでいる。また、レストランでも豚肉料理が普通に出ている。
 アルバニアは1992年に民主党政権が誕生して、急激な市場経済の導入によって首都ティラナの国景は一変した。自動車は急増し、カオス的状況となった。男性の多くはヒゲがなく、女性はスカーフもベールも身につけず肌を露出して歩いている。
  アルバニアと日本とのつながりと言えば、日本共産党から出て行った毛沢東主義派の人々がアルバニアと一時的に友好関係にあったようです。もちろん、親米路線をとるようになったアルバニアとは絶縁したわけですが…。
 アルバニア人が、世界中に結構ちらばって活躍していることも知ることが出来ました。
 それにしても、アルバニア語を専攻する学者が日本にはいるんですね。もっとも、大学ではドイツ語を教えているそうですが…。
 アルバニアを知る貴重な本だと思いました。

 北九州では、皿倉山へケーブルカーで登りました。上にあがると風も強くて寒いほどでした。ちょうどハングライダーの大会があっていて、大空を5人ほど気持よさそうに飛んでいました。
 ところが、ハングライダーって、着地するのが大変なんですね。風に流されてなかなか戻ってこれないのです。ずっと眺めていたら、2人が戻って来ました。ずしんと着地するのを見ました。
 命がけの滑空だなと思って眺めていると、よそでハングライダーの人が死んだり、空中で衝突してケガをしたという記事が出ていました。うひゃ、やっぱり怖い、と思いました。

(2009年8月刊。2200円+税)

2009年9月27日

ユダヤ人を救った動物園

著者 ダイアン・アッカーマン、 出版 亜紀書房

 ポーランドの話です。ユダヤ人を絶滅しようとしたナチスに抗して、ユダヤ人を助けていたポーランド人は多かったのでした。
 1944年の時点で、まだ1万5千人から2万人のユダヤ人が隠れ住んでいた。最高時は2万8千人いた。2万8千人のユダヤ人と、それを助ける7~9万人の市民、3~4千人の恐喝屋その他の悪党がいた。
 潜伏しているユダヤ人は「猫」、その隠れ場は「メリナ」(泥棒の巣)と呼ばれた。メリナが暴かれるのは、「焼かれる」と言った。
 1942年、ゲットーに残された3万5千人のユダヤ人は、商店街のそばの居住区に移され、警備員に見張られて工場へ行き来した。ゲットーのなかには、まだ2~3万人の野生の」(ワイルド)ユダヤ人が隠れ住んでいた。畑を避け、迷路のようなトンネルをくぐって建物から建物へ移動しながら、迷宮のように入り組んだ地下経済を生きていた。
 ポーランドのレジスタンスは、勇気と知恵を奮ってドイツの設備に破壊工作を仕掛け、列車を脱線させ、橋を爆破し、千百種類もの定期刊行物を刷り、ラジオ放送を流し、秘密の高校・大学を開き、10万人の生徒が授業を受けた。ユダヤ人が隠れるのを助け、武器を供給し、爆弾をつくり、ゲシュタポの諜報部員を暗殺し、囚人を救出し、地下演劇を上演し、本を出版し、市民の巧みな抵抗運動を率い、独自の法廷を開き、ロンドンを拠点とする亡命政府との間で伝令をやりとりした。レジスタンスの軍事部門は国内軍と呼ばれ、最多38万人いた。国土は分断され、ポーランドの地下政府は国民生活と同様、混乱してはいたけれども、6年間、立ち止まることなく闘い続けた。
 ポーランドの地下組織の強みは、下意上達しない運営方針と、徹底して仮名・匿名を貫く点にあった。上官の名前を誰も知らなければ、たとえ部下が捕まっても中枢までは危険が及ばない。伝令部隊と非合法の印刷所が皆に情報を流しつづけた。1日に50枚から100枚の偽造文書をつくっていた。出生証明、死亡証明、ナチ親衛隊の下級将校やゲシュタポ士官の証明書まで作った。結局、身分証明書の15%、労働証明書の25%は偽造と思われていた。
 ナチス・ドイツは、ポーランド語を公の場で話すことを禁止した。
 シルクロード探検で名高く、ナチの擁護者でもあったスウェーデン人のスヴェン・ヘデインは、1936年のベルリン・オリンピックではヒトラーと並んで演台に立つほど気に入られていたが、実は曾祖父はユダヤ教のラビだった。これはヒトラーの側近たちも知っていたが、不問に付されている。うひゃあ、ちっとも知りませんでした。
 ワルシャワ市内外の孤児院では、尼僧がユダヤ人の子どもたちを匿っていた。いかにもユダヤ人らしい顔つきの男の子専門の場所もあり、そんな子は頭と顔を包帯でぐるぐる巻きにして、けがをしているように装わせた。
 すごいですね。動物園もユダヤ人を救う地下組織の一つとして機能していたのです。
 
(2009年7月刊。2500円+税)

2009年8月22日

カラシニコフ銃 AK47の歴史

著者 マイケル・ホッジズ、 出版 河出書房新社
 ロシアで開発されたAK47を「世界でもっとも愛された民衆の武器」と言っていいものかどうか、私には疑問ですし、ためらいがあります。いわゆる大量破壊兵器ではありませんが、大量殺戮兵器であることには間違いないからです。
 AK47の特徴は、ずば抜けた単純さにある。取り外しのできる部分は8つしかなく、つくるのにも安上がりで、使うのも簡単。あまりに簡単なので、大人だろうと子どもだろうと、非常に基礎的な訓練を受けただけで、毎分600発という膨大な弾丸を発射できるようになる。ほとんどどんな気象条件でも、ものの1分もあれば分解掃除ができる。どんな銃よりも故障が少ない。
 いま全世界に7000万挺のカラシニコフ(AK47)が存在し、使われている。実は、それよりさらに数百万挺が存在する。
 ロシア製の最新型カラシニコフは1挺500USドルする。ブルガリアでは、それが1挺100USドルで売っている。
ドイツの突撃ライフルとソ連のAK47は、外見こそよく似ているが内部はまったく異なっている。カラシニコフの発射メカニズムは、ドイツよりもアメリカに多くを負っていた。その発射メカニズムは、アメリカのMIライフルに似通っていた。カラシニコフがもっとも重要視したのは、簡単さと頑丈さだった。
 ベトナム戦争において、アメリカ軍兵士はM16よりAK47を好んで使った。だから、同士撃ちすることすらあった。
 1960年代を通じて、中国は数100万挺のカラシニコフを製造してベトナムに与え続けた。1970年代、パレスチナの戦闘的グループが、AK47をつかって、テロリズムを印象付けた。1980年代になると、アフリカなどで少年兵士がAK47をつかっていることが大々的に報道され、AK47のイメージがさらに歪められた。
 カラシニコフは、何百万もの人々に解放ではなく流血をもたらし、1990年代になると、絶望の叫びとなった。
 日本でもAK47が氾濫する時代が到来しないことを願うばかりです。
(2009年2月刊。1600円+税)

2009年8月16日

北欧、考える旅

著者 薗部 英夫、 出版 全障研出版部

 私もスウェーデンとデンマークには一度だけ行ったことがあります。言葉の問題がなければ、今度はツアーの一員ではなく、ゆっくり訪問してみたい国々です。
 デンマークのある市では、1.5万人の地区ごとに275人の福祉スタッフ(公務員)が配置され、高齢者住宅が206箇所もある。そのうち105箇所は、特別養護老人ホーム。そして、医療費も介護料も、なんとすべてタダなのである。
 むひょう、そ、それは暮らしやすいですよ。老後の心配をしなくていいのですから……。これって、日本人がもっと知って良い事実です。
 フィンランドの学力は世界一。フィンランドではテストがない。高校受験も大学受験もない。あるのは大学進学資格試験のみ。大学進学率は40%。なりたい職業の1位は教師だ。教師が社会から尊敬されているって、本当に大切なことですよね。
 すべての子どもが大学まで無償で教育を受けることができる。教員の専門的知識や技量のレベルは高く、研修が充実している。遅れた子を置いていかない教育がなされているため、平均点は高い。学校現場に裁量が与えられ、力を出し切れる環境が整っている。カリキュラムは、教員が父母と協議して、学校独自に決める。国の決めたものが押し付けられることはない。これって、すごく大切なことだと思います。
 義務教育のときには、教科書も文房具も、もちろん給食も無償である。
 消費税は25%と高いが、日常生活費は除外されている。所得税も50%と高い。しかし、老後の生活費や医療・介護費の心配はまったくしなくていいので、そのための保険や貯金の必要はない。
 これを支えているのが、80%前後の高い投票率。そうなんです。日本も現状を変えるためには、皆が投票所に足を運ぶしかありません。いえ、みんなが、8割の人が投票所へ足を運ぶようになれば、日本も、世の中が劇的に変化すると思います。
 日本では投票に行かないこと、棄権を勧めるマスコミや文化人が目立ちます。でも、それは結局、現体制を黙って支持しろ、文句も言わずに現体制に従えということなのです。世の中を良い方向に変えるためには、投票所に足を運ぶ手間を惜しんではいけません。
 ただ、今のように政権交代、政権交代と中身抜きに叫ばれると、いったい中身の方はどうなってんの、と叫びたくなります。高速道路料金をタダにするとか、1000円にするとかだけが争点ではないはずです。アメリカとの関係をどうするのか、憲法をどうするのか、国の根本についての議論が抜け落ちている気がしてなりません。
写真付きの楽しく分かりやすい旅行記でもあります。

(2009年5月刊。1700円+税)

2009年8月12日

憎悪の世紀(上巻)

著者 ニーアル・ファーガン、 出版 早川書房

 1925年ころのドイツでは、人口はドイツの100に対してユダヤ人は1にも満たなかったが、医師の9人に1人、弁護士の6人に1人がユダヤ人だった。富裕層の31%もユダヤ人だ。ユダヤ人が少ないのは、軍の将校団のみ。
 ロシアの革命運動においてユダヤ人は存在感があった。ボルシェヴィキの11%、メンシェヴィキの23%をユダヤ人が占めていた。ロシアの総人口に占めるユダヤ人の割合は4%だったが、国会議員の29%がユダヤ人だった。そして、ロシア社会主義者のうち、9割近くはユダヤ人だった。ただし、ボルシェヴィキ指導者のうち、トロツキーとジェルジンスキーの2人だけがユダヤ人だった。
 1900年から1913年にかけて、ヨーロッパでは40人もの国家元首、政治家、外交官が殺された。国王4人、首相6人、大統領3人。うへーっ、そうだったんですか……。
 19世紀、ヨーロッパの王室は、みな互いに親戚関係にあった。ヨーロッパの王室は、すべて純粋のヨーロッパ人である。新しい血が時折入らなければ、一族の血統は、身体的にも道徳的にも変質してしまう。現に血友病が発生した。しかし、ナショナリズムに対抗するため、大陸の支配層は意図的に近親結婚を繰り返していた。
 王室外交は、まぎれもなく親族の集まりであり、拡散したメンバーは、互いに愛情をこめてニックネームで呼び合った。このシステムは、各王朝のメンバーが互いに結婚し続けることによってのみ存続できる。結婚は、同族である王室メンバーとのものであることが原則であり、その例外は非常に限られていた。
 スターリンの統治下で、あわせて1800万人もの老若男女が収容所に送り込まれた。流刑になった600~700万人のソ連市民をふくめると、労働の使役に駆り出された国民は全体の15%にも上った。この収容所の本来の目的は、囚人を始末することではなかった。ソ連の収容所は、囚人を労働力として利用するためのものであって、殺すことが目的ではなかった。その意味でナチスの収容所のような絶滅収容所ではなかった。
 1935年1月から1941年6月までに、2000万人が逮捕され、少なくとも700万人が処刑された。1936年1月の時点で、コミンテルンの執行委員は394人いた。うち223人が1938年4月までにスターリンの大粛清の犠牲になった。
 ヒトラーは、チャップリンが演じた人物より、ずっと複雑怪奇な人物だった。ヒトラーは憎しみのかたまりで、愛を知らなかった。
 ヒトラーは救世主の生まれ変わりであり、マレーネ・ディートリッヒと同類だとドイツの民衆に印象付けられた。
 ナチスはドイツのあらゆる地域で広範な支持を集めた。地方の共産党のなかには、資本主義と社会民主党を打倒するためと称して、公然とナチスと手を結ぶグループさえあった。
 ナチスは弁護士や医師などの知識人たちも入党した。ヒトラーはビスマルクの後継者にうつったからである。
 ヒトラーが首相になったころ、ドイツに600万人もの失業者がいた。ところが、1935年6月には失業者は200万人弱になり、1937年4月には100万人を割り、1939年8月にはわずか3万人ほどになってしまった。1935年から39年にかけては、強制収容所より休暇を楽しむ施設のほうがずっと多く、ドイツは好景気にわいていた。
 1939年の時点で16万4000人のユダヤ人がドイツにいたが、うち1万5000人は異民族の相手と結婚していた。ドイツ系ユダヤ人はドイツ社会に同化していたのである。
 世界史を理解するために知っておくべき基本的な知識が次々に語られています。
 上巻だけで500頁近い大作で、いかにも読み応えがありました。
 スイスのサンモリッツからポストバスに乗ってイタリアのルガーノまで行きました。バスで4時間の旅です。途中の休憩は1回だけです。急峻な山道を九十九折で降りて行くのは怖いほどでした。山の中の小さい村の中をいくつも通過します。狭い路地を走りました。湖が見えます。阿蘇の外輪山のように屹立した山々を横目で見ながら走ります。湖畔の狭い道を離合するときには、車体をこすり合うほどでした。4時間以上たっぷりバスに乗って、自信をつけることもできました。

 
(2007年12月刊。2800円+税)

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