弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

ヨーロッパ

2011年6月 7日

スペイン内戦(上)

著者    アントニー・ビーヴァー  、 出版   みすず書房

 第二次大戦直前に起きたスペイン内戦の実情を詳しくたどった大変な労作です。上下2巻の分厚い本を読み通すのに苦労しました。なんといっても、重すぎる内容なのです。
『誰がために鐘は鳴る』など、いくつもの文学作品に登場するスペイン内戦ですが、その内容はあまりにもおぞましいものがあり、人間の理性がもっと働いていれば・・・、と思わせるところが多々ありすぎました。ともかく、たくさんの人が無情に殺されていく記述に出会うたびに、それが頁をめくるたびに出てくるので辟易させられますが、前途ある有為な人々がかくもたやすく抹殺されてしまうのか、涙と怒りが噴出してくるのを抑えることができませんでした。
スペイン内戦は、左翼と右翼の衝突としてさかんに描写されるが、それは割り切りすぎで、誤解を招く。他に二つの対立軸がある。中央集権国家対地方の独立、権威主義対国家の自由である。
共和国政府側の陣営は対立と相互不信のるつぼであり、中央集権主義者と権威主義者、とくに共産主義者と地方主義者と反国家自由主義者とが反目しあっていた。
無政府主義者が早くからスペイン労働者階級の最大多数を獲得したのには、いくつかの理由があった。それは、腐敗した政治制度と偽善的な教会に対する強力な道徳的選択肢を提供していた。
マルクス主義者が他と比べて成功しなかった理由の一つは、中央集権国家を強調しすぎたせいである。スペインでは、工業の大部分はカタルーニャに集中していながら、そこは無政府主義の牙城となっていた。1919年末までに、社会党系UGTの組合員は16万人、無政府労働組合主義系CNTの組合員は70万人までに増えた。
1933年11月、共和国新憲法はスペイン女性に参政権を認めた。
1936年。左翼の革命蜂起と軍・治安警備隊による左翼への残酷な弾圧のせいで、両者に妥協の余地はまったくなかった。どちらの側にも感情の傷が深すぎた。双方とも、終末的な言辞を弄し、どちらの追従者にも政治的結果ではなく、暴力的結果を期待させた。
コミンテルンの幹部たちは、中産階級をひきつけることにほとんど無関心だった。人民戦線は権力の手段にすぎなかった。
1921年に結党したときのスペイン共産党はたった数十人しかいなかったが、その影響は相当なものがあった。そして1936年半ばには、3万の党員が10万に増えていた。
1936年の選挙で、人民戦線は15万票の差で勝利した。1936年初夏、ヨーロッパ情勢は緊張していた。ヒトラーはベルサイユ条約を破ってラインラント地方に軍隊を再配備した。
スペイン軍は、1936年に10万人から成っていた。そのうち4万人がモロッコに駐屯する手強くて有能な部隊だった。本土にいる残りの部分は無能だった。
右翼側が蜂起を準備している証拠がたくさんあるのに、共和国派指導者は恐ろしい真実を信じようとはしなかった。反乱将軍の行動に対して共和国政府はためらい、逡巡して行動せず、それが命とりとなった。共和国の首相は労働組合を武装させる決心がつかなかった。
スペイン軍の将校には自由主義的な思想の持ち主はまずいなかった。それは、植民地に勤務していると、自分たちの信じる国家価値なるものを誇大視しがちだったからだろう。彼らは政治家を軽蔑し、アカを憎悪した。
内戦に入ったとき、地面に潜って戦うなど、スペイン人の戦争哲学から言えば、もってのほかだった。勇猛果敢こそが勝利に導くという確信を持っていた。
国民戦線軍(右翼)の最大の軍事的強みは、実戦経験を積んだモロッコ駐屯軍4万の兵士だった。それに加えて、訓練が乏しく装備も貧弱だが、本土部隊5万の兵士がいた。さらに17人の将軍と1万人の将校が蜂起に参加した。総数で13万人の将兵に達した。
これに対して、共和国は、5万人の兵士、22人の将軍、7000人の将校、などで総勢9万人だった。
フランコ将軍は、内戦が終わったとき、こう言った。
私には敵は一人もいない。私は一人残らず殺した。
国民戦線軍による殺害と処刑は、あわせて20万人にのぼる。
1931年から32年の共和制の最大の成果は教育と非識字退治の面で実現された。共和国の成立する前22年間に、学校はわずか2000校しか建てられなかったのに対し、共和国になってから1700校が建てられた。その結果、非識字率は50%だったのが劇的に減少した。
フランコは、実は非常に月並みの人物だった。労働者民兵は市街戦にあっては、集団でいることの勇気に押されて、向こう見ずな勇敢さを発揮した。しかし、障害物のない開けた場所では、砲撃と爆撃にはかなわないのが普通だった。というのも塹壕掘りを拒否したからだ。スペイン人にとって、地面を掘るなんて沽券にかかわることだった。
民兵制度最大の短所は自己規律の欠如だった。無規律は、それまで外部からの強制と統制にしばられていた工場労働者のような集団でとくに顕著だった。逆に農民や職人のように自営だった人々は、自己規律を失わなかった。
ほとんどの将校は、共産党と協力するほうを選んだ。その理由は、民兵組織に恐れをなしたからだ。一般に政府に忠実な将校は年配者で、本国軍に勤務していた官僚的な人々だった。若い、積極的な将校はフランコ側の反乱軍についた。
共和国軍指揮官には、第一次大戦の時代遅れの理論しか持ち合わせがなかった。コミンテルンは、スペイン内戦中に、国際旅団を組織した。国際旅団の志願兵の動機の無私無欲は疑いようがない。イギリス志願兵の80%が、職を辞めたか失業中の肉体労働者だった。その多くは、戦争とは何を意味するのかほとんど分かっていなかった。その指揮者であるアンドレ・マルティは陰謀強迫観念にとりつかれていた。スターリンによって始まったモスクワの見世物粛清裁判に影響されて、ファシスト=トロツキス=スパイがそこらじゅうにいると信じこみ、このスパイを根絶やしにする義務があると思い込んだ。その結果、マルティは国際旅団兵士の1割にあたる500人もスパイとして射殺した、このことを内戦のあとで認めた。
スペイン内戦に従軍したソ連要員の正確な人数は判明していないが、800人を超えたことはなかった。ソ連軍顧問の多くが、実は指揮経験の乏しい下級将校でしかなかった。
スペイン内戦が始まって1ヵ月ほどしてスターリンによる大粛清裁判が始まった。
スターリンの犯罪的行為と判断の誤りがスペインにも多大の被害をもたらしたことを改めて認識しました。スペイン内戦の恐るべき実情が語られている本です。
(2011年2月刊。3800円+税)

2011年6月 5日

ともしびをかかげて

著者    ローズマリ・サトクリフ  、 出版   岩波少年文庫

 心おどる活劇の本です。
 イギリスはかつてローマ帝国に支配されていました。すごいことですよね。イタリアの首都ローマから発した軍団がフランスを支配し、次いでドーバー海峡を渡ってイギリスまで支配していたのですから・・・。
 2世紀はじめのことです。まだ、イギリスではなく、ブリテンと呼んでいました。ローマの軍団はワシの旗印をかかげています。ブリテンに住むケルト族はブリトン人(ブリテン島の住民という意味です)と呼ばれて、ローマ文明を受け入れ、ローマ化されていきました。征服者のローマ軍団の方は、逆に徐々にブリトン人に同化していました。
 そして、3世紀には、大陸から新たにゲルマン民族の一派であるサクソン族がブリテン島に侵入してくれるようになりました。この物語では「海のオオカミ」と呼ばれています。
 ローマのワシは、400年以上もブリテンを支配したあと、ブリテンから撤退します。そこで、この本の主人公アクイラはブリトン人としてローマから離れて生きるのを決断し、悲劇が始まるのでした。
 じっくり味わい深い、手に汗にぎる展開となって話は進んでいきます。
 子どものころに水滸伝を読んでいたときの胸騒ぎを思い出しました。
 ローマン・ブリテン四部作の一つだということです。
(2008年4月刊。680円+税)

2011年5月27日

マリー・アントワネットの宮廷画家

著者    石井 美樹子 、 出版   河出書房新社

フランス革命の前後を生き抜いた美人の女性画家の生涯を描いた本です。
マリー・アントワネットなど、ヨーロッパの貴人たちの肖像画を数多く描いた画家ですが、この本で紹介されている肖像画も本当によく出来ています。人間の気高さがにじみ出ている見事な肖像画です。美人とはいえ、家庭生活の方は必ずしも幸福一途ではなかったようです。なによりフランス大革命によって、身近な人々が次々にギロチン台へ送られていったとき、どんなにか心細かったことでしょう・・・。自画像を見ると、才能のほとばしりを感じさせる美女だと思わせます。
ルイ16世時代のフランスは、アメリカの独立戦争に肩入れして、軍隊を派遣し、フランスの国庫は破産寸前になった。1788年、つまりフランス大革命の前年には、債務の利息として支払う金額は国庫の42%にもはねあがった。国家破産の大きな理由のひとつは、貴族や聖職者が昔からの特権にしがみつき、税金の支払いを拒否していることにあった。国民は善良な国王を批判するのをためらい、外国人であるマリー・アントワネット王妃に非難の声を向けた。王妃のぜいたくだけで国家が財政難に陥るはずもないが、当時のフランスの国情はスケープゴート(犠牲者)を必要としていた。
マリー・アントワネットの肖像画を見ると、かなりの知性を感じさせる女性として描かれています。その境遇からは、決して庶民の気持ちを理解することはできなかったのでしょう。時代の哀れな犠牲者だったということなんでしょうか・・・。
画家はロシアのエカテリーナ女帝のところにも身を寄せます。
エカテリーナ女帝は若い男性しか相手にしなかった。それには理由があった。年配の愛人を持てば、愛人が女帝を支配しているという印象を世間に与えてしまう。女帝は誰にも支配者の侵害を許さなかった。身体は女性でも、支配者としては男であるとエカテリーナは常に主張した。
エカテリーナは啓蒙主義を信奉する君主として喧伝されたが、その思想には限界があり、農民一揆がうち続くと、反逆農民に対する残虐な報復を許した。エカテリーナは、ウィーンやベルリンに、国結してフランスの王政を復古しようと呼びかけたが、フランス人の亡命がロシアに流入すると、考えを変え、指一本あげようとはしなかった。
フランスの亡命貴族を助けると宣伝しながら、彼らのぜいたくな暮らしぶりを見て、援助する気持ちを失った。なーるほど、やっぱり支配者なんですね。
ルイーズ・ヴィジェ・ルブランは、ついに祖国フランスに戻ることができた。12年ぶりのころだった。そして、1842年、86歳でルイーズは永遠の眠りについた。
ぜひ一度、本物の肖像画を拝みたいと思いました。
(2011年2月刊。2400円+税)

2011年4月30日

パタゴニアを行く

著者   野村 哲也、 出版   中公新書
 
 パタゴニアとは南アメリカ大陸の最南端にある地方です。
 自然の豊かな写真に魅了されますが、住んでいるのはほとんど白人。つまり、先住民は絶滅させられたわけです。虐殺だけでなく、白人が持ち込んだ病気に抵抗力がなかったようです。
背の高い(男性180センチ、女性170センチ)先住民は、巨人伝説を生み出しました。混血によって美人も多いようです。
 それにしても豊かな海産物、そして果物も豊富です。
富士山によく似た山もあります。
 お城の山と呼ばれる山は面白い変わった峰を抱いています。
 海に出ると、クジラ・ウォッチングも出来ます。クジラたちが潮吹きをすると、卵をたくさん食べたあとのオナラの匂いを立てることを知りました。たまらない臭さのようです。
 ペンギンもあちこちいます。ペンギンはリーダーのいない動物。誰が偉いという感覚がない。みんな平等に泳ぎまわる。
 夜になると、満天の星空が手にとれるような近さで迫ってきます。
 15年間にわたって世界中を旅した著者が一番気に入っているというパタゴニアの素晴らしさがよく伝わってくる写真集です。
(2011年1月刊。940円+税)

2011年4月29日

日本のロマネ・コンティはなぜ「まずい」のか

著者   渡辺 順子、 出版   幻冬舎ルネッサンス新書
 
 去年夏にフランスはブルゴーニュ地方へ出かけ、ロマネ・コンティのブドウ畑を見学してきましたので読んだ本です。
 ワインはボトルの大きさに比例して価値も価格も上がっていく。なぜなら、ボトルが大きければ大きいほど、ワインはゆっくり、かつじっくりと熟成し、生命が長くなるからだ。しかも、生産者は、品質のある年にしか大きいボトルを造らない。だから、通常のボトルに比べて味も格別である。ワインの大きいボトルは、希少価値も高いためオークションに出ると、ワインコレクターは競って手に入れたがる。
 ロマネ・コンティを飲むなら、ワインを愛する人たちと喜びを分かちあいながら、最高のシチュエーションで飲みたいもの。どうせ高いだけで、そんなにうまくはないだろうという気持ちで飲むのとでは、当然のことながら味わいもちがってくる。飲む側がワインに敬意を持ち、万全の態勢でのぞんではじめて、その本当の魅力を見せてくれる。
これは、まさしくそのとおりだと私も思います。ロマネ・コンティこそ飲んだことはありません。(ぜひ一度は飲んでみたいと思っています)が、やはり、レストランでこのワインは造り手がこんな人で、いつもの年よりこんなに味わい深いですよという講釈(能書き)を聞いていると、そうか、そんなに美味しいワインなのか、ありがたくいただこうという気になり、いつも以上に美味しくいただけるのです。食べ物も飲み物も、やっぱり雰囲気と、見た目が大切です。
 ロマネ・コンティは1年に6000本しか生産されない。12本入りの箱だと、わずか500ケースでしかない。だから、初めの卸価格が20万円ほどだとしても、流通階段で何倍も値上がりしていく。日本ではネットで買うと1本100万円というのですから、驚きです。
 ところで、ロマネ・コンティはラベルがシンプルで偽造しやすく、高価で売れるため、もっともフェイク(にせもの)がつくられている銘柄である。
 うひゃあ、ロマネ・コンティと思って飲んだら、そうじゃなかったということもあるのですね。そしたら、それを飲んだら当然、まずいと不満を言う人も出てくるでしょうね。
 ワインのオークションに参加できない人が事前に入札するのをアブセンティという。オークションでの売れ行きは、写真の出来ばえに大きく左右される。年代もののワインなら、できるだけホコリを積もらせたまま撮影し、古さが際立つようにするなど、万全の注意を払う。
 プレミアムワインとは、ロマネ・コンティのような高いワインのこと。それに対して、カルトワインとは、主としてアメリカはカリフォルニアのナパ・ヴァレーつくられている高品質かつ高付加価値のワインのこと。カルトワインなるものがあることを私は初めて知りました。
 カリフォルニア・ワインもフランスに負けないような高品質のワインを輩出しているようです。まあ、しかし、なんといっても、ワインは、かの地フランスで、ゆっくり休暇をとって、仕事に追われない日々のなかで味わうのが一番です。日本で、仕事のあいまに、あくせくしながら飲むものではありませんよね。
 それはともかく、日本女性がこの分野でも活躍していることを知って、その姿には頭が下がります。
(2011年2月刊。838円+税)

2011年4月21日

ヘルファイヤー・クラブ

著者   イーヴリン・ロード、 出版   東洋書林
 
 ヘルファイヤー・クラブとは、地獄(ヘル)の業火(ファイアー)という意味です。18世紀のイギリス社会にいくつもあった秘密クラブです。
 ヘルファイヤー・クラブには三つの構成要素があった。すべてのクラブは社会や教会が教える道徳や倫理を否定し、社会に対して集団的に破壊活動をおこなった。彼らは深夜、面白半分に罪のない通行人を襲った。第二に宗教に対する嘲笑的態度であり、第三に、セックスに眈溺した。会員は常に男性であり、若くて有閑階級の出身者だった。
 ロンドンの人口は、1700年に57万5千人(イギリスの総人口の7%)、1750年には67万5千人(同11%)。毎年7千人もの人々がロンドンに流入していた。
ヘルファイヤー・クラブは、宗教に対してますます懐疑的になっていった社会を如実に示すものであった。クラブ会員の多くは、ヨーロッパのグランド・ツアーに行ったことがあった。グランド・ツアーはヨーロッパの宮廷、飾り棚、珍品、結婚式、宴会、葬儀などをできるだけ見ようとするもの。グランド・ツアーは、送り出す一家にとってお金のかかるものだった。たいていの家が望んだのは、教育の仕上げであり、洗練と経験を得させしめることだった。多くの旅先が、ローマ・カトリックの国々という危険があった。ローマ法王に謁見することが普通だったが、カトリック教徒なら法王の履物に接吻しなければいけないところ、お辞儀をするだけで良かった。
 イギリス人は、イタリアでは夫も妻も浮気をすることにひどく驚いた。上流階級では、夫も妻も、愛人をつくっても表向きはプラトニックな関係だとしておけば許されることになっていた。そりゃあ、驚きますよね。でも、これはフランスでも同じでしたよね。
18世紀のイギリスでは、セックスはペンで生計を立てようとする作家やジャーナリストにとって格好の話題であり、性的に露骨な本がますます多く出版されるようになった。
女性は父権制社会がつくった規制によって現状にとめおかれ、その枠組みから外れることは許されなかった。男性は愛人を囲い、売春宿で快楽をむさぼることに呵責を感じなかった。性的に露骨な本を購入できたのは、それらを書斎やクラブに隠しもっていられるきわめて裕福な人々だけだった。「わいせつ本」は、ヘルファイヤー・クラブの会員のように、国会に議席を有しており、国法を制定したり、執行したりする権威ある人々、すなわち上流階級の人々の特権だった。
イギリスの都市における売春は頭痛の種で、街頭で誰の目にもつくものだった。
イギリスでは1837年に住民登録が確立させると、人生の大事な出生、結婚、死亡は、もはや教会の専売事項ではなくなった。
1840年代には国の調査委員会による国勢調査や労働者階級の状況についての調査が繰り返し実施された。これによって労働者の生活はいい方向に変わった。
18世紀のイギリス社会が分析されている本です。宗教のもつマイナス面が指摘されています。先日、アメリカのキリスト教会の牧師がコーランを焼き捨て、それに怒ったイスラム教徒の人々が国連機関を襲撃するという事件が発生しました。この牧師(神父でしたか・・・?)は博愛精神を身につけていないわけですが、アメリカ社会がそんな人を事実上容認しているというのは恐ろしいことです。やはり、世の中にはやってはいけないことが多々あるわけです。みんな違って、みんないいという金子みすずの精神は宗教の世界でも生かされなければ嘘でしょう。
(2010年8月刊。3600円+税)
静岡にある浜岡原発を直ちに廃止すべきだと毎日新聞に大きな見出しのコラム記事がのっていました。たしかにそうですよね。福島原発の大事故でも恐ろしいことですが、東海大地震が予測されているときに、「絶対安全」の神話が崩れてしまったからには即刻、手を打つべきでしょう。無為無策で手をこまねいていて、東京が住めなくなったら、日本はどうなりますか・・・。
日本人は、今もっと怒り、声を上げるべきではないでしょうか。あきらめてはいけません。投票率が5割を切るなんて、子孫のことを考えたら、許されませんよ。声かけあい、励ましあって、政府と電力会社を激しく監視すべきだと思います。

2011年4月19日

暗殺国家ロシア

著者    福田 ますみ 、 出版   新潮社
 
 この本を読むと、アメリカと同じように、ロシアっていう国も人が簡単に殺されてしまう恐ろしい国だとつくづく思います。
 ロシアのテレビは報道統制がすすんで、犯罪を通してロシア社会の病巣を抉り出す報道は、今のテレビ界ではほとんど出来なくなっている。テレビで批判できない組織や人物のリストがどんどん増えていっている。
 ロシアでは、今、ジャーナリストたちが次々に襲われている。ロシアでは、ジャーナリストの身辺を脅かす襲撃事件が年間80~90件起こっている。プーチンが大統領に就任した2000年から2009年までに、120人のジャーナリストが不慮の死を遂げた。このうち70%、84人が殺害された。自分のジャーナリスト活動が原因で、殺されたと推測できるのは、さらにそのうちの48人。この48人の殺害のほとんどは、嘱在殺人と思われるが、首謀者も実行犯も逮捕されたのはほとんどない。
 ソ連時代、いわゆる反体制派は厳しい弾圧に晒された。投獄され、精神病院に放り込まれ、国内流刑や国外追放された。とはいえ、スターリン独裁下は別として、その後、処刑された者はいない。ところが、現代の体制批判者は裁判によらず、白昼の街頭でいきなり射殺される。うひゃあ、こ、こわいですね。
 エリツィンを民主主義者だと信じたのは、どこのどいつだったのだと自己嫌悪に陥るというのか、現在のロシア人の大方の心理である。あの流血騒ぎは、単なる権力闘争でしかなかったことを疑う者もいない。
 地方のローカル紙や全国紙の地方支局のジャーナリストの方が、より危険だ。地方の権力者を批判すれば、狭い限られた地域の中で反響が大きいから、それだけダイレクトにリアクションが返ってくる。ロシアでは、地方の権力者のなかには、自身がマフィアの親玉だったり、そうでなくとも犯罪者集団と密接につながりを持つ人物がうようよいる。彼らは法に訴えるなどという、まどろっこしいことはしない。殺し屋を雇い、記事を書いたジャーナリストの殺害を企てる。
ロシアでは、有力者は政権内部や治安機関に大きなコネクションを持ち、莫大な賄賂を払っているため、めったなことでは逮捕されない。これは公然の秘密だ。
 また、有力なギャング団も、治安機関や有力者と内通していることが多く、組織を一網打尽にするのは至難の業だ。
 ロシアでは、白昼、首都のど真ん中で政治家や実業家などが、車に仕掛けられた爆弾で爆殺されたり、銃弾で体を蜂の巣のように射抜かれて殺されるなどの凄惨な事件が四六時中起きている。莫大な身代金を要求する誘拐団も暗躍しており、不可解な失踪を遂げる者も珍しくない。
そして、社会を覆う、無差別テロに対する恐怖がある。地下鉄を利用するとき、プラスチック爆弾を身につけた自爆テロ犯が一緒に乗り込んでこないかと、常に怯えるような社会において、チェチェン人が一人ぐらい行方不明になったところで、「それがどうした?」という反応しか呼び起こさない。
 ロシアの新聞「ノーバヤガゼータ」は1993年の創刊以来、17年間に2人の記者が殺害され、記者1人が不審死を遂げ、契約記者2人そして顧問弁護士まで殺されている。歴史の浅く、小規模なメディアで起きた、これだけの犠牲は世界的にみても例がない。
 ソ連が崩壊して3年たった1994年のロシアの日刊新聞は17種、3930万部に減った。人口千人あたり267部、4人に1人が購読していた。2004年の日刊新聞は250種、1328万部とさらに大幅にダウンした。人口千人あたり551部、2人に1人は購読している。
 現在のロシアのあまたあるメディアの中で、政権による報道規制がもっとも進んでいるのはテレビである。
 警察官をふくめたロシアの公務員の汚職・贈収賄は今に始まったことではない。プーチン時代に入ると、汚職はもちろんとして、ギャング団顔負けの悪質な犯罪が警察官のあいだに蔓延した。
 ロシアのインターネットは、政権による厳しい報道統制を免れている、ほとんど唯一のメディアである。
 現在のロシアにおいて、リベラル派は圧倒的に少数である。それは、エリツィン時代にリベラル派を自称した政治家たちに国民が煮え湯を飲まされたからだ。自由で平等な社会の実現を約束した彼らが国民にもたらしたものは、混乱と無秩序、そして貧困だった。
 プーチンはこうしたエリツィン流自由主義に懲りた国民の心理を巧みにつかんで国内を引き締め、資源価格の高騰を追い風に経済を立て直し、強いロシアを取り戻した。いま、プーチン・メドべージェフ政権の支持率は70%を下まわらない。
 ロシアの怖い、恐ろしい実情を読んでいて嫌になるほど暴露した本です。私にはアメリカは、同じことをもっとスマートにやっているだけとしか思えません。どうでしょうか・・・。アメリカによるイラク、アフガニスタン侵攻、そしてアメリカ国内の貧困・死亡率の高さは問題ですよね。
(2010年2月刊。1600円+税)

2011年3月30日

ワルシャワ蜂起

著者  尾崎 俊二、    出版  東洋書店
 
 ポーランドのワルシャワで起きた一大事件が紹介されています。
1944年8月1日から10月2日までの63日間続いたワルシャワ蜂起によるポーランド人犠牲者は、民間人18万人、戦闘員2万人、合計20万人をこす。これは広島・長崎への原爆投下による直接的被害者21万人に匹敵する。
ワルシャワ蜂起の主体となった国内軍司令部の判断の誤りを批判する人も少なくないが、果たして簡単に誤りだったと言えるのか。1944年7月の時点で、被占領地の地下国家指導者と国内軍指導者には、他にどんな選択肢があったのか。蜂起直前まで、モスクワからの放送は連日、ワルシャワ市民に決起をあおっていた。そして蜂起のあと、すぐ近くまで来ていたソ連軍が追撃を突如としてストップするなど、誰が予想できたというのか・・・。
 さらに、ナチス・ドイツが叩き出されたあとソ連支配下のポーランドで、国内軍の指導者や蜂起兵は「反ソ」だということから「ナチスの協力者」「ファシスト」「裏切り者」として迫害され、秘密裁判で処刑された人も少なくなかった。
 うむむ、これはこれは、予想以上にワルシャワ市民は難しい局面に立たされていたことを知りました。
 1944年7月、ワルシャワは噴火寸前の火山だった。ワルシャワで4万人の将兵を擁する国内軍が、退却し混乱に陥るドイツ軍を攻撃もせずに傍観しているなどということは考えられなかった。もしポーランド人の支援者なしにソ連がワルシャワを制圧したとき、スターリンはポーランドの地下抵抗運動などなかったと言い通すだろう。そして、首都にいながら、その解放戦に参加できない軍隊とか国家など考えられもしない。
 ワルシャワ蜂起といえば、アンジェイ・ワイダ監督の映画『地下水道』を思い浮かべます。
蜂起で使われた地下水道ルートはいくつもあって、各地区をつなぎ、蜂起部隊の通信、連絡そして武器・弾薬の輸送、さらに脱走ルートとなった。この地下水道の案内人の多くは女性だった。
 カチンの森にポーランド軍の将校の埋葬地が発見されたのは、1943年4月のこと。スターリンの指令の下での大虐殺だったが、ソ連はナチス・ドイツの仕業だと宣伝した。しかし、ポーランド人の多くはナチス・ドイツの仕業だとは思わなかった。ポーランドの人々は、東方から進撃してくるソ連赤軍を単なる「解放軍」とみることはもはやできなかった。ソ連軍によるポーランド占領を危惧していた。実際、ソ連軍はポーランドに入って来ると、ポーランド軍を武装解除し、その司令官を射殺していた。
したがって、ソ連軍が侵入してくる直前に首都ワルシャワを制圧しなければならない。ポーランド国内軍は自分たちの手で、ワルシャワを解放し、ポーランド国家の主権者が誰なのかを明確に示さなければならない。しかし、このワルシャワでの蜂起作戦は、ドイツ軍に対するソ連軍の圧倒的優位に大きく依存するという根本的矛盾もはらんでいた。
 連合国軍は6月6日にノルマンディー上陸を果たしており、7月20日にはヒトラー暗殺未遂事件も起きていた。ワルシャワ蜂起は、早すぎても遅すぎてもいけなかった。
 うむむ、これはこれはきわめて難しい、いや難し過ぎる選択ですね。多くの人命と国家主権の存亡にかかっている選択です。
 国内軍司令部では即時開戦に賛成派と反対もしくは慎重派が5対5に分かれた。しかし、司令官が決断した。8月1日午後5時に蜂起することが伝達された。100万人都市が15分間で戦闘に巻き込まれた。ワルシャワの国内軍勢力は最大で5万人、そのうち銃器で武装していたのは10%に過ぎなかった。
 蜂起後数日間、ワルシャワ市民は5年ぶりに自由の空気を吸って熱狂し、蜂起兵にさまざまな支援を申し出た。しかし、この解放感は1週間も続かなかった。ナチス・ドイツ軍は犯罪者集団をつかって一般市民を組織的に大量虐殺しはじめた。
 映画『戦場のピアニスト』に登場するシュペルマンは、このときワルシャワに実際かくれて生き延びた人物です。ドイツ人将校と出会い、助けてもらいました。
 このドイツ人将校は、シュピルマンの「市街戦になったらどうやって生きのびればいいのか?」という問いに対して、「きみも私も、この5年間、この地獄を生きのびてきたのだから、それは明らかに生きよと言う神の思し召しだろう。とにかく、それを信じようではないか」と答えた。
 このように、ワルシャワ蜂起のあと、市内に隠れ潜んでいた人々は300人ほどで、「ワルシャワのロビンソン」と呼ばれた。
 ワルシャワ蜂起が失敗し、ナチス・ドイツに降伏すると、国内軍兵士はドイツ側の捕虜となり、ワルシャワ市民数十万人は収容所に移送されて、ポーランドの首都はからっぽになった。そして、ヒトラーの命令によってワルシャワは破壊され尽くした。
 チャーチルなど、連合軍はスターリンを怒らせないため、ポーランドの国内軍をあまり積極的に応援しなかったようです。2段組みで440頁もある大部な本ですが、ワルシャワの地域ごとに詳細に蜂起の状況が分かるという大変な労作です。前にも同じ著者の同じテーマの本を紹介しましたが、さらに詳細にワルシャワ蜂起の状況が書き込まれています。
(2011年1月刊。3800円+税)

2011年3月 5日

オルレアン大公暗殺

著者  ベルナール・グネ、  岩波書店  出版 
 
 ジャンヌ・ダルクが活躍する直前の中世フランスの情勢が活写されている本です。
 フランスの政治状況がよく理解できました(実のところ、そんな気にさせられただけということかもしれません・・・・)。
 シャルル6世がフランスの王位についた1380年、フランス王国は平和と繁栄のうちにあった。その前には、飢饉があり、黒死病があり、イングランド王からクレシーとポアティエの二度にわたり、フランス王は屈辱的な敗北を味わせられた。
 1380年、シャルル6世は、弱冠12歳だった。そして1392年、シャルル6世は23歳にして狂人となった。ところが、1422年に死ぬまでの30年間、フランスの王様だった。したがって、その間フランスには導き手がいなかったことになる。
 1407年11月23日、ブルゴーニュ大公は自分の従兄弟(いとこ)にあたるオルレアン大公を暗殺した。その結果、またもや内戦が始まった。イングランド王ヘンリー5世は、この機に乗じてフランスの国土を侵略した。それはフランス軍にとってアザンクールでの壊滅的敗北(1415年)をもたらした。シェイクスピアがアザンクールの戦いを描いていますよね。
 1419年9月、ブルゴーニュ大公が暗殺された。復讐が果たされたのだった。
 フランスで1300年に存在していた名門(旧家)の大部分は、1500年には断絶していた。貴族の割合こそ変動していなかったが、その内実は変動していた。
 戦争だけが貴族の活動ではなかった。実は、貴族は教育を受けていた。大学で学んだ貴族は信じられた以上に多かった。
 乗物は社会的地位を示した。交通手段として欠かせない馬が、社会を対照的に二分していた。貧しい人々は馬を持てず、裕福な人々は馬を所有していた。いやしくも地位のある人物は、一人だけで騎行することはなかった。
 暴力は見世物として喜ばれ、ひとを魅了した。暴力は合法的であり得た。それどころか暴力は高貴でもあり得た。子どものときから武器を操る習慣のある貴族は、それを携帯する権利を持ち、戦闘と同じくらい危険な戦争遊戯に加わったが、貴族にとって武器の使用は自分たちの身分特権であった。殴りあいは平民にまかせておき、貴族は武器をつかった暴力に高貴で騎士らしい何かを認めていた。うへーっ、これって怖いですね。
 1400年には、西洋の多くの国々で、君主の近親者あるいは君主自らがその手を地で汚していた。シャルル6世の時代には、暴力はありふれた現象であった。だが同時にそれは、貴族のものであり、王侯のものであった。王侯貴族の暴力こそ、他にもまして警戒しなければならなかった。その点は、昔も今も変わらない気がしますね。
 国王の第一の義務は、常に裁判によって平和を強制することだった。なーるほど、です。
 宮廷は、あらゆる秩序あらゆる野望、あらゆる敵対関係、あらゆる憎悪、あらゆる危険に満ちた場であり、宮廷人はみなそこを呪ったものの、一方で、人はみな望んでそこで生活し続け、そこで認められようとした。そこで死ぬか、あるいは殺すかという事態も辞さなかった。
当時、ブルゴーニュ大公はフランス筆頭諸侯の称号と権勢を富を有し、年齢と経験において王国の真の主人であった、それに対してオルレアン大公は王国のただ一人の弟である。王国に次ぐ者は彼であった。
アザンクールにおけるフランスの大敗のあと、ブルゴーニュ大公は重みをさらに増大させた。1429年、ジャンヌ・ダルクが登場し、シャルル7世と会見した。
 フランス中世史の分かりやすい概説書です。

(2010年7月刊。4900円+税)

2011年2月23日

現代ロシアの深層

著者: 小田 健、  出版: 日本経済新聞出版社
 
 ロシアが今どうなっているのかを知りたくて読みました。560頁もある、大部で、ずっしり重量感のある本です。ロシアの男性の多くが60歳までに亡くなって年金をもらえないという現実を知りました。そうなんです、ウォッカの飲み過ぎです。エリツィン元大統領も明らかにアル中でしたよね。ロシアの男性には、それだけ社会的ストレスがひどいようです。それでも、ソ連時代には戻りたくないのです。そして、一時はアメリカと資本主義(自由主義)に急接近していましたが、今ではロシア独自の道を自信もって歩いているようです。そして、この本を読んでロシアの軍隊は張り子の虎のような気がしました。初年兵のいじめが横行し、武器は老朽化しているようです。もっとも、今の日本では「ロシアの脅威」なるものは、右翼すらあまり言いたてなくなりましたね。
 プーチン大統領は、憲法の規定どおり2期8年で退任した。健康で支持率の高い最高指導者が憲法を守って任期をまっとうしたのは、ロシア史1000年のなかで初めてのこと。プーチン大統領の最後の記者会見(2008年2月)には内外の記者1364人が出席し、
4時間40分にわたって100問以上の質問にこたえた。うひゃあ、これはすごいですね。アメリカの大統領でも、これほど長くて大衆的なの記者会見はしていないんじゃないでしょうか。
 エリツィン大統領は、地方分権化に配慮して連邦の維持を図った。しかし、地方が連邦を軽視し、勝手気ままに統治したというのが実態だった。地方の首長がときに犯罪組織とつながって、文字どおりボス化し、封建君主のように振るまった。連邦法と地方の法律が相互に矛盾し、法体系が崩れた。
 オリガルヒとは、1992年以来のロシア資本守護の混乱の中で、法の未整備を巧みに利用して巨額の蓄財に成功し、エリツィン政権に癒着して、政治にも口をはさんだ一握りの成り上がりの事業家。オリガルヒが最高に力を持っていたのは、1995年から1998年にかけてのこと。プーチン大統領は、オリガルヒを弾圧し、政治への介入を封じた。次にプーチン大統領はエリツィン前大統領の「家族」の影響力を抑えた。プーチン大統領は、オリガルヒのあからさまな政治介入に歯止めをかけたが、オリガルヒを全滅させるようなことはしなかった。そこで、オリガルヒは富を増やし続けた。ロシアには1998年に10億ドル以上の資産家が4人しかいなかったが、2008年には110人にまで増えた。
今度は、シロビキがプーチン大統領の下で台頭した。シロビキとは、ソ連時代のKGBや今のFSBなどの特殊情報機関、内務省などの法執行機関、そして軍でキャリアを積んだ人たちを指す。なかでも特殊情報機関出身者の存在感が大きい。ロシアの支配層を調査すると、経歴にKGBあるいはFSBにいたことを明記していた人間が26%もいた。メドベージェフ大統領のもとでもシロビキが影響力のある地位に配置されていることに大きな変わりはない。
ロシアのマスコミは、たとえば1996年の大統領選挙で再選を目指すエリツィン大統領の支持率が3から4%と極端に低く、ジュガノフ共産党首に大きく水をあけられていたとき、エリツィン政権と一体となって傘下の報道機関を総動員してエリツィン大統領を盛り立て、逆にジュガノフ党首へのネガティブ・キャンペーンを展開した。このようにロシアの報道機関は報道の一線をこえて選挙運動に直接関与した。しかも、その裏には、ビジネス上の自己の利益を確保しようという意図があった。
2002年夏までに政府が主要な全国でテレビ網を手中に収め、オリガルヒによるテレビ支配は終わった。政府は、世論形成に大きな影響力をもつ全国テレビ放送局を事実上独占し、政府に都合のよい報道を垂れ流している。ええーっ、でも、これって日本でもあまり変わらないんじゃないでしょうか。それもきっと月1億円を自由勝手に使っていいという、例の内閣官房機密費の「有効な」使われ方の「成果」なんでしょうね。
ロシアでは、1992年から2009年4月までに50人もの記者が報道の仕事が理由で亡くなっている。うむむ、これはひどい、すごい現実ですよ。
 ロシアの軍隊では、毎年、暴行によって数十人が死亡し、数千人が肉体的・心理的な後遺症を負い、数百人が自殺を試み、数千人が脱走している。さらに、将校の関与する汚職事件が増えていて、5人以上が懲役刑の判決を受けた。
1990年代には、軍でも給与の未払い、遅配が起きた。軍人世帯の34%が最低生活保障水準を下回っていた。たとえば空軍では、新型機を1990年から一機も調達できていない、海軍の艦船の半分以上が要修理の状態にある。2004年に、バルト海におけるロシア軍の能力は、スウェーデンやフィンランドの2分の1ほどでしかない。ロシア軍は必要兵器の
15%しか保有しておらず、ロシア軍は紙の上だけで仕事をしている。これは、ロシア軍の参謀総長が2009年6月に演説した内容である。うひゃあ、そ、そうなんですか・・・・。
 ゴルバチョフ時代に原油価格が高ければ、ソ連は崩壊しなかったかもしれないし、エリツィン時代に原油高があれば、あの経済混乱はなかったかもしれない。プーチン大統領は幸運だった。原油高が強いプーチン大統領をつくった。
ロシアは世界的にみてきわめて汚職度が高い。ロシア経済の弱点のひとつは、インフラが脆弱なこと。
ロシアの平均的男性は、60歳という年金支給開始年齢まで生きられない。女性のほうは73歳ほど。ロシアの男たちが飲むのは、社会的ストレス、貧困、不安感などの要因が考えられる。しかも、ロシアでは麻薬常習者が急増し、300万人から400万人に達している。そして、その結果、エイズ患者も急増している。
 ロシア社会の大変深刻な状況がよく伝わってくる本でした。
(2010年4月刊。6000円+税)

 自宅に戻ると大型の茶封筒が届いていました。
 あっ、合格したんだ。そう直感しました。不合格のときはハガキで通知されます。封を開けると、真っ先に合格証書が目につきました。フランス語検定(準1級)の合格をフランス語と日本語で証明したものです。合格基準点22点のところ、34点を得点していました。やれやれです。年に2回のフランス語検定試験を受け始めて10数年になります。たどたどしくではありますが、フランス人と臆することなく話せるようにはなりました。引き続き勉強するつもりです。今年もフランスへ旅行したいと思っています。

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