弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
ヨーロッパ
2011年2月19日
聖灰の暗号
著者 帚木 蓮生、 出版 新潮社
いやはや、なんと・・・。すごいんですよ、巻来の主要参考文献はフランス語の原書のオンパレードです。さすが仏文科卒だけはあります。私もフランス語を長らくかじっていますが、残念ながら日常会話に毛のはえた程度のレベルでしかありません。著者はフランス語で書かれたカタリ派についての専門書を読み尽くして、この本を書きあげたようです。
主人公はフランス語だけでなく、方言のオクシタン語まで読み書き、そして話せる日本人です。著者もひょっとしてオクシタン語までできるのでしょうか・・・。
14世紀のフランス。スペインに近い南フランスにはカタリ派が流行していました。宗教的権威をひけらかすローマ・カトリック教会に楯ついたため、大弾圧を受けることになります。
私が3年前に行った南仏のツールーズやアルビなどがカタリ派の拠点となっていました。今も原型をそっくり残っているカルカッソンヌ城もカタリ派の拠点でした。ロートレックの生地であり、立派な美術館のあるアルビでもカタリ派が繁栄していました。カトリック教会が形式に流れていたのを、信仰の原点に立ち戻って信仰していた人々がいたわけです。
この本は、日本人の研究者がカタリ派の弾圧を目撃した修道士の手記を偶然に発見して学会で発表したところ、そんなことは隠しておきたいカトリック教会側から迫害を受けるというストーリーです。 さすがに、生々しい迫力があるタッチで展開していきます。次はどうなるのか、手に汗を握る場面の連続です。1年に1作という著者の小説づくりは、いつ読んでも驚嘆するばかりの見事さです。
カタリ派の興亡は、天草の乱、そして日本の隠れ切支丹を連想させるものがあります。
我が身がどんなに拷問されても、神のもとに近づけると思って喜んで死んでいくという点では、まったくうりふたつです。
上下巻2冊を、時間を惜しんで読みふけってしまいました。
(2007年7月刊。1500円+税)
2011年2月12日
モスクワ防衛戦
著者 マクシム・コロミーエツ、 大日本絵画 出版
ナチス・ドイツ軍がスターリンを不意打ちにして電撃的に侵攻して、モスクワまであと一歩のところまで迫りました。このモスクワ防衛戦はロシア大祖国戦争のなかで格別の位置を占めています。
1941年9月30日から翌1942年4月20日までの6ヶ月以上にわたって展開したモスクワをめぐる戦争である。そこに投入された独ソ両軍兵力は、将兵300万人、大砲と迫撃砲2万2000門、戦車3000両、航密機2000機。戦線は1000キロメートルをこえて広がった。この本は、1941年までの初期の戦闘状況のなかで戦車戦に焦点をあて、写真とともに紹介しています。
赤軍の戦車部隊がモスクワ防衛戦で演じた役割はきわめて大きい。ドイツ軍攻撃部隊に相当の損害を与えた。しかし、ソ連軍の戦車部隊の活動には多くの否定的な側面もあった。戦車部隊の司令官は配下部隊を指揮する経験が浅く、熟練した人材が不足していた。そのため、戦車は練度の低い戦車兵が操作・操縦し、戦車の回収と修理部隊の作業も十分に効率的とは言えなかった。
また、上級司令部が偵察も砲兵や歩兵の支援もなしに戦車を戦闘に投入することも少なくなかった。これは人員の兵器の損害をいたずらに増やすことにつながった。
ドイツ軍の司令部の報告書にも同旨の指摘がなされている。
「戦車搭乗員は、士気のたかい選抜された者からなっている。だが、このところ良く教育された、戦車を熟知している人材が不足しているようである。戦車自体は優秀である。装甲もドイツ製のものを上回っていて、良質な近代兵器と特徴づけられる。ドイツの対戦車兵器はロシアの戦車に対して十分効果的ではない。
兵器・装備が優秀で、数量も優勢であるにもかかわらず、ロシア人はそれを有効に活用できていない。部隊指揮の訓練を受けた士官の不足に起因するようである」
指揮官の不足はスターリンによる軍の粛清の影響が大きかったのでした。まったくスターリンは罪つくりな人間です。
赤軍のT-34戦車、そして戦車兵の顔がよく分かる写真に見とれてしまいました。
先に紹介しました『モスクワ攻防戦』(作品社)が全体状況は詳しいのですが、視覚的にも捉えたいと思ってこの本を読んでみました。
(2004年4月刊。2000円+税)
2011年2月 3日
帝国の落日(上巻)
著者 ジャン・モリス、 講談社 出版
大英帝国の繁栄から衰退までを描いた帝国史です。
1897年6月、ヴィクトリア女王は即位60周年記念式典を心豊かに祝うことができた。
19世紀末の時点で、英国民は帝国民としてふるまうのが習い性になっていた。世界の4分の1を統治する技量からいっても他国に負けない力を持っていた。
この時期、ヨーロッパ各国の野望が集中したのはアフリカである。そこではアフリカ争奪戦と呼ばれる取りあいと自己弁護の醜い争いが繰り広げられていた。やりたい放題だった。当時のヨーロッパ人にとって、アフリカ先住の黒人は、ほとんど人の数にも入らない存在で、アフリカの土地をヨーロッパ人が占領し、思うままに支配し、改善し、搾取するのは当然とみなされていた。
南アフリカにおいて、英国人とボーア人は長年の仇敵同士だった。ボーア人は容易に融和しなかった。ボーア人は生まれながらの非正規兵で、世界でもっとも優れたゲリラ兵といってもよかった。武器はヨーロッパの国々から入手した最新のものであり、生まれ育った土地を知り尽くしていた。
1902年5月、ボーア人はついに降伏した。しかし、英国兵の戦死者は2万2,000.その3分の2がコレラと腸チフスの犠牲者だった。ボーア人の死者2万4,000人、そのうち2万人が婦女子だった。すぐに戦闘は終わると思ってイギリスと出た派遣軍は8万5,000人。しかし、戦争終結時には、45万人となっていた。英国の首相は、戦費がかさみすぎて英国は三等国に成り下がったと公言した。
ヴィクトリア女王が亡くなり、あとを継いだエドワード7世は大英帝国にあまり関心がなかった。第一次大戦が始まった。
英国にとって、トルコ軍とのガリポリの戦いは、アメリカ独立戦争以来、最大の敗北となった。帝国特有の虚勢が再燃するなかで作戦が開始され、最終的には帝国の伝統に押しつぶされるようにして敗北した。英国軍の将軍たちは、兵と距離を置くことが多すぎた。
英国は大戦によって決定的に変化した。70万人もの若者が死んだのだから、当然といえば当然だった。
英国は第一次大戦への参戦諸国のなかで、もっとも強大なまま終戦を迎えたように見えた。工業はまったく被害を受けず、財政も大打撃を受けたというのにはほど遠かった。軍事力も、世界最強の空軍、最強の海軍と、世界有数の強力な陸軍を有していた。しかし、多くの悲哀を経験するなかで、成功に伴うはずの生気を失って、革命に揺れるロシアが発する共産主義の狼煙(のろし)や米国が提案するウィルソン流のリベラリズムに対抗する壮大な理念も、希望や変化を思わせるメッセージも提示することはできなかった。ドイツとの講和条約が調印され、戦後世界の運命が決定されるヴェルサイユ会議にあって、英国は決定的役割が果たせなかった。
英国にとって、アジアやアフリカでも悩みは尽きなかったが、何にも増して悩ませたのは、帝国領土のなかで、もっとも地理的に近く、もっとも古く、もっとも不満の大きい場所、アイルランドだった。たしかに、アイルランド紛争はごく最近まで続いていましたね。このあと、インドの独立に至るガンジーの活躍が記述されています。パックス・ブリタニカの実情を知ることのできる本格的な歴史概説書です。
(2010年9月刊。2400円+税)
2011年1月30日
大祖国戦争のソ連戦車
著者 古是 三春 、 カマド 出版
1941年、ナチス・ドイツ軍がソ連に電撃的に侵攻していったとき、モスクワ攻防戦で大活躍したソ連赤軍のT-34戦車というのはどんなものなのか前から関心がありました。この本は、このT-34戦車の生いたちと活躍の状況を紹介しています。
スターリンの重大な誤りによって大損害を蒙っていたソ連ですが、T―34戦車の必死の大増産によってなんとか挽回することが出来たのでした。
ドイツ軍のグデーリアン将軍はT-34戦車の威力に脅威を感じたといいます。
ソ連は、ドイツ軍の侵攻を受けて、レニングラードやハリコフなどの西欧地区の工業都市にあった軍需企業をウラル山脈以東へ疎開させた。1500以上の工場を解体して東部へ移動させたが、その規模は鉄道貨車に換算して150万輌にもなる。T-34戦車の大増産が始まり、1942年には1万2千両を戦場へ送り出した。
T-34戦車の製造工場では、全設備の70%が流れ作業方式でつくられた。スターリングラードも後に1942年9月には戦場になったが、同年8月まではT-34戦車の生産を続けていた。しかし、1943年7月のクルスク大戦車戦では、T-34戦車を主力とするソ連軍はドイツ軍のティーガー重戦車などの前に大損害を蒙ってしまった。このとき、T-34戦車の8割以上が喪われてしまった。
それでも、T-34戦車はドイツ側からすると、「洪水のようにあふれる戦車の波」がソ連側の戦場に出現したわけです。
T-34戦車の優れた点は、量産を考えて信頼性を重視し、極力単純に設計されていること。ロシアのぬかるみの大地や豪雪地帯でも行動できた。ディーゼルエンジンは燃費に優れ、耐久性に富む。最大速度は時速51.5キロ。ドイツ軍の対戦車砲もはね返す車体となっていた。
ソ連の大祖国戦争の実際を知るうえでは、前に紹介しました『戦争は女の顔をしていない』(群像社)をぜひ読んでみてくださいね。
(2010年2月刊。1600円+税)
2011年1月29日
世界一空が美しい大陸・南極の図鑑
著者 武田 康男、 出版 草思社
楽しい、不思議な気持ちにさせる写真集です。南極大陸なんて、行こうと思っても簡単に行けるところではありませんが、そこで撮られた美しい写真を眺めていると、なんだか心が落ち着いてきます。なぜでしょうか・・・?
オーロラは本当は昼間にも起きているが、人間は暗い夜しか見られない。南極の夏は白夜なので、オーロラは見られない。オーロラは太陽活動が激しいときに多く見られる。オーロラの緑色も赤色も、空気中の酸素原子が出す色である。
オーロラは、太陽圏のプラズマ粒子(空気を帯びた粒子)が地球磁気圏のなかに入り込むことで起きる現象だ。高さ100キロメートルの空気分子にぶつかって発光している。
さまざまな色と形のオーロラが紹介されています。
オーロラは空気が光っているので透き通り、オーロラのうしろにも星が見える。
南極の夕焼け、そして朝焼けも素晴らしい。絶景です。
南極の夜にダイヤモンドダストが漂う。ダイヤモンドダストの正体は、六角形の柱状の形をした雪の結晶である。表面で光を反射したり、内部で屈折したりして、さまざまな光の現象をつくる。
一度はぜひ見てみたい、夢幻的な現象です。
南極の夜空には、たくさんの人工衛星が見える。衛星の集合場所のようになっているからだ。しかも、南極では高い空に太陽光が当たりやすいために、よく見える。
南極には、地球上の淡水の7割、氷の9割が存在している。南極大陸の氷が全部溶けて海に流れ出したら、世界の海水面は60メートルも上昇する。
うひょーっ、そうなれば、東京なんて、ほとんどが海面下ですね。まさに「日本沈没」です。といっても、すぐのことでありません。
南極大陸に生活する人々の大変さはともかくとして、そこで撮られた写真の美しさ、不思議さに驚嘆してしまいました。ありがとうございます。著者に心よりお礼を申し上げます。
(2010年8月刊。1600円+税)
2011年1月11日
中世ヨーロッパ、武器・防具・戦術百科
著者 マーティン・J・ドアティ、 原書房 出版
南フランスのカルカッソンヌにいった事があります。二重になった城壁がそっくり残っています。真夏でしたが、ちょうど雨が降り出し、膚寒さを感じるほどでした。やがて雨がやんで青空も見えてきて、いい写真が撮れました。場内のレストランで温かいカスレ(豆入りのシチューみたいなもの)を食べて身体を暖めました。もちろんワインも飲んで・・・・。この古城も、中世には騎士たちの攻防戦の舞台になったわけです。
シェイクスピアのヘンリー5世で有名なアジャンクールの戦いなど、ヨーロッパ中世の有名な戦場が図解されていて、大変分かりやすく、楽しめます。
フランスは、勝てた戦闘を騎士たちの性急さで戦いをダメにした。一国一城の主から成る騎士たちを統率するのは王国といえども大変だった。
その点、12世紀のイングランド王リチャード獅子心王は中世の指揮官としてはかなり異色の存在で、規律を重んじ、兵士たちに徹底させた。騎士たちは、近隣の領主より勇敢さに欠けると世間に思われるのは社会的破滅を意味していたから、彼らはみな恐ろしく向こう見ずだった。
なーるほど、騎士が規律を守らなかったのには理由があるのですね。世間の目って、今も恐ろしいものです。
馬はラクダの臭いや奇妙な姿におびえ、なかなか慣れることが出来なかった。ラクダに乗った兵士がいるのを見ただけで、騎兵部隊は逃げ出し、その戦闘力は落ちた。ラクダを馬が怖がったというのを初めて知りました。
戦場での戦いの推移が図示され、その当時の武器や武装が写真とともに図解されていますので、大変イメージが湧いてきます。
騎士の多くは、自分たちが守るべきは貴族階級だけだと考えていたので、貴婦人に対しては親切で態度も丁寧だったが、農民に対しては、殴ったり、一般の女性を強姦しても、それが不適切だったという認識はなかった。
負けた敵に慈悲をかけるか。 その対象は貴族のみであり、それも思いやりというより、むしろ生け捕りして身代金目当てというのが多かった。
モンゴルの弓騎兵は、中世を通してもっとも強力な戦闘部隊だった。替えのポニーを引き連れ、効率的に移動することができたので、かなりの距離を短時間でカバーすることができた。この戦略的な機動力のために神出鬼没の攻撃が可能だった。
真に有能な弓兵を養成するのは非常に難しく、その能力は高く評価された。弓兵は、ずっと希少価値のある存在だった。したがって報酬も良く、周囲から尊敬され、戦場でも指揮官から大切に扱われた。イングランドの弓兵は、だいたいヨーマン、つまり小規模な農場を所有する自由人だった。
アジャンクールの戦いで、ヘンリー5世の弓兵隊は、持ち場の前に鋭い杭を打ち立てた。その杭を前へ移動させながら、軍をゆっくり進め、フランス軍に向かって攻撃を開始した。フランス軍の騎兵部隊は、イングランド投射兵部隊の前に、敗れ去った。フランス軍は100人の大貴族と諸候、1500人をこえるマン・アット・アームを失い、200人が捕虜にとられた。これに対して、イングランド側の死者は400人にすぎなかった。
ヨーロッパ中世の戦闘の実情を知ることのできる便利な百科事典です。
(2010年7月刊。4200円+税)
2011年1月 9日
ふたつの戦争を生きて
著者 ヌート・レヴェッリ、 岩波書店 出版
この本は、イタリアにおける第二次大戦での二つの戦争、ファシズムの戦争とパルチザンの戦争についての体験記です。歴史は風化させてはいけない。そう思わせる重味のある証言になっています。
軍の側の歴史書では、人間は常に単なる員数でしかなく、兵士は人的資源とされるだけ。しかし、それは魂のない歴史、価値の低いというより、まったく無価値の歴史、もっと言えば偽りの、誤った歴史でしかない。
私は、あるとき、軍隊では動員された兵士の人数を数えるとき、決して○○人とか、○○○名とは言わない。あくまでも、○○とか○○○といった数字のみであらわす。そこには、「人」も「名」もない。このことに気がついて愕然としたことがあります。
この本は、そうではなく、あくまで軍人も一個の人格ある人間としての動きが如実に描かれています。著者は、そのころ20歳だったのでした。私の20歳のころと言えば、東大闘争の真最中であり、無期限ストライキのなかで授業はなく、毎日毎日、集会とデモに明け暮れていました。全共闘の暴力と対峙してヘルメットをかぶり、スクラムを組んでいました。生命の危険を感じたことはありませんでしたが、同じクラスの友人(内山田明くんと言って純朴な好青年でした)が過労から急性白血病で病死することがありました。このほかにも精神的におかしくなって入院した学友もいました。
イタリアの田舎で生まれ育った著者にとってファシズムとスポーツは同じものだった。ファシズムは枠組みと組織と競技に勝つ機会を提供してくれた。お祭気分に浸っていた。イタリア中が制服だらけだった。リボン、メダル、バッジをつけた制服があふれていた。
農村社会にファシズムは容易に浸透しなかった。山の民はファシズムになじみが薄く、政治に無関心だった。戦争になってはじめて、目を開いた。
戦争に入って、企業は大儲けした。収賄罪が横行し、腐敗が目にあまった。
イタリアの軍部はファシズムとは距離をおいていたようです。ドイツ国防軍にナチスと距離を置く高級軍人がいたのと似ています。
将軍は、軍の準備不足はファシズムに責任があるのであって、軍にはないと将兵に告げた。イタリア軍に入った著者は、ソ連に侵入したドイツ軍の友邦軍としてソ連に侵入していったのでした。しかし、そこは零下20度から40度という酷寒の地でした。
イタリア軍は8万5000人がそこから帰国できなかった。ソ連の捕虜となった1万人は還ってきた。戦死したと確認されたのは1万1000人。6万4000人は行方不明者となった。退却中の死か捕囚のなかで死んだのかは不明。これに対して、ドイツ軍は300万人のソ連軍捕虜を飢えと苦役で死なせた。ソ連はドイツとの戦争で2000万人の死者を出した。
イタリアのファシスト党幹部はロシア戦線に身を投じることもなく、戦後まで多くが生きのびた。
イタリアに帰還してから、著者はナチスドイツ軍と戦うパルチザンとなったのでした。
パルチザンの多くは、軍隊経験がなく、銃を撃ったこともなかった。その手ほどきから始めた。ナチスとの戦いもすさまじいものがあったようです。
イタリアにおいても戦争の記憶の風化は深刻であり、レジスタンスの精神は忘れ去られ、反ファシズムの危機が叫ばれて久しい。そうなんですね・・・・。大切なことは後世にきちんと語り伝えられていく必要がありますよね。
(2010年7月刊。2800円+税)
2011年1月 3日
ヴェルサイユ宮殿に暮らす
著者:ウィリアム・リッチー・ニュートン、出版社:白水社
ヴェルサイユ宮殿には私も2度ほど出かけたことがあります。まさしく豪華絢爛たる玉の宮殿です。しかし、実際にそこに住む人々にとっては、とても快適とは言いがたいところだったようです。
太陽王と言われたルイ14世の公式な食事はいかにも豪華である。ポタージュ8種、アントレ10種、ロティ4種、アルトルメ8種、サラダ2種、果物4種、コンポート6種。うむむ、なんという種類の多さでしょう。いかにルイ14世が大食漢といえども、この全部を食べきれるはずはありません。食卓の残りは、官僚から下っ端の雇われ人にまで順々に回されていった。
ルイ13世の狩猟用の館を、国王と宮廷の宮殿へと変貌させるには、7000万リーヴルがかかった。そのうち3900万リーヴルは城館と庭、そして、ヴェルサイユの町への水利のために費やされた。
入浴は、衛生のためというより官能的な行為と思われており、ルイ14世が「国家の広間」の下に豪華な湯殿をつくらせたのも、寵愛する女性たちとの生活のためだった。
お風呂はあまりなかったようです。
ルイ14世時代のヴェルサイユには274個の椅子型便器があった。問題は排泄物の処理だった。「母なる自然の汚物」を処分する場所は、ほとんどなかった。トイレの数は、そもそも宮廷に出仕している者とその召使いたちを含め、城館の人数に見あったものとはほど遠かった。
1780年には、城館の区域に29の汲み取り槽があり、その悪臭はひどいものがあった。年に一度の大掃除が、城館からネズミを一掃するチャンスだった。
ルイ15世の時代になって、国王の私的な居室の中に水洗式のトイレが設置された。
照明は、ろうそくの明かりによる。ろうそくには2種類あった。白ろうそくは、食卓や寝室用で、黄ろうそくは、質の劣るろうで出来ていた。黄ろうそくは、牛脂や羊脂の燭台のような臭いや煙は出さなかったが、白ろうそくよりも早く燃え尽き、溶け崩れも多かった。1739年に開かれた大舞踏会で使われたろうそくは、2万4千本以上だった。
マリー・アントワネットの居室の照明予算は、冬が1日あたり200リーヴル、夏が1日あたり150リーヴルだった。年額では20万リーヴルをこえる。そして、その大部分は王妃付きの2人の女官頭が懐に入れていた。
宮殿では、使用人が何でも窓から捨てていた。それは、不潔さとひどい臭気のもとになっていて、あまりの悪臭に我慢ならず、住居を出ようとする公爵夫人たちがいた。
王族たちも、宮殿の不潔さに不満を口にしていた。
うへーっ、なんということでしょうか・・・。
ヴェルサイユ宮殿には226の居室があり、そこに1000人以上もの人々が詰め込まれていた。なんということでしょう。広大な庭に比して、宮殿のほうには1000人もの人々が生活できるとは、とても思えません・・・。
ヴェルサイユ宮殿を生活の視点から眺めてみると、こうなります。
(2010年7月刊。2400円+税)
2011年1月 2日
マダガスカルがこわれる
著者:藤原幸一、出版社:ポプラ社
アイアイのいる島、マダガスカルの原生林が消滅寸前だというのです。もちろん、犯人は人間です。現地の人々が生きていくために、森を切り開いています。その結果、野性の動物も植物も生息地を奪われてしまいます。そうなんです。あのバオバブの木も次々に立ち枯れていき、また、種子が発芽して子孫を増やしていくことが出来ません。
マダガスカルの豊富な自然な写真によくうつっているだけに、その深刻さも、ひしひしと伝わってきます。
バオバブが本来生息する乾燥した生態系に水が引かれたことから根腐れが起きて、バオバブの木が立ち枯れている。
マダガスカルの主食は日本と同じ米。ここにも棚田がたくさんある。しかし、森林破壊によって水田の維持が難しくなっている。マダガスカルはずっと米と輸出国だったのに、1970年以降は米の輸入国である。
マダガスカルの人口は1999年に1572万人だったのが、2009年には、2075万人にまで激増した。10年間で人口が1.3倍に増えた。世界最貧国の一つであり、国民の60%が1日1ドル以下の生活費で暮らしている。
こんなマダガスカルの貴重な自然をぜひとも保存・維持してほしいと思わせる本です。
(2010年5月刊。1800円+税)
2010年12月29日
葡萄酒の戦略
著者 前田 琢磨 、 東洋経済新報社 出版
驚きのワイン試飲会が紹介されています。ときは1976年5月、ところはパリ。
フランスのワインスクール主催でワイン試飲会が開かれた。審査員は全員フランス人で、ワイン業界で名の知れた大御所ぞろい。フランス赤ワイン4本、白ワイン4本。カリフォルニアワインが赤6本、白 6本。これをボトルのラベルを隠して銘柄が分からない状態で試飲して20点満点で評価する。結果は・・・・。白ワインの審査結果は、アメリカワインが1、3、4、6、9、10位を占めた。フランスワインは2番手でしかない。そして、次に赤ワインです。これでもアメリカワインが、1、5、7、8、9、10位を占めた。つまり、赤白ともにアメリカワインが1位、金メダルを獲得した。フランスの名士たちにとって、きわめてショッキングな出来事であった。
著者は、この結果について、1000年以上の伝統をもつテロワール主義ワインに対して、数十年間、科学的研鑽を行いながら技術を進化させてきた「セパージュ主義」ワインが勝利をおさめたのだと解説しています。
審査員は、ワインを目、鼻、口、バランスの4つの観点で評価する。目とは、ワインの外観。ワインの清澄度や色の具合で、その健全性を確認する。鼻とは、香りのこと。一般的にブドウ由来の第一アロマ、発酵由来の第二アロマ、熟成由来の第三アロマといった、さまざまな香りとその強さを確認する。口は味わいのこと。風味、酸味、苦味、甘味、タンニン、アルコール度などが確認ポイント。バランスとは、個別に目、鼻、口でとらえたことを全体的な印象で総合評価する。うむむ、これって簡単なようで、とても難しいことですよね。
「セパージュ主義」的ワイン造りは、科学技術による。いい苗木を手に入れたら、その苗木にあったテロワールを選択し、できるだけブドウ本来の美味しさを引き出す生産技術によって、質の高いワインをつくりあげる。
世界のワイン生産量は284億リットル。その内訳はフランス53億リットル、イタリア47億リットル、スペイン40億リットル、アメリカ23億リットル。そしてアルゼンチン15億リットル。これら上位5ヶ国で、全世界のワイン生産量の6割を占める。
2006年の統計によると、日本人は一人あたり年間3本のワインを飲み、フランス人は
73本を飲む。
さあ、今夜も赤ワインを飲みたくなってきました。ブルゴーニュのぶどう畑を思い出しながら飲むことにしましょう。
(2010年10月刊。2400円+税)