弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
ヨーロッパ
2013年9月10日
目撃者
著者 エルンスト・ヴァイス 、 出版 草思社
麻生元首相が、ナチスがワイマール憲法を静かにナチス憲法に変えていった教訓に日本も学べと講話したことが大きく報道されました。
ヨーロッパをはじめ世界からはなんて非常識な発言だと糾弾されましたが、安倍内閣は本人がすぐ撤回したので問題なしとし、日本のマスコミもあまり騒ぐことはありませんでした。こうやって改憲への足慣らしがされていくのか思うと、寒気すら炎暑のなかで覚えてしまいます。この本は、まさしくヒトラーが政権を握るまでに起きたことがテーマとなっています。
この小説のすごいところは、ヒトラーが第一次世界大戦で負傷し、失明した兵士となり、精神科医による治療によって再び目が見えるようになったという実話をもとにしているところです。
1918年10月、ベルギー戦線でイギリス軍のガス攻撃を受けて負傷したヒトラー上等兵は、北ドイツの野戦病院に運び込まれた。患者をみたフォルスター医師は「ヒステリー症状を伴う精神病質者(いわゆる性格異常者)」と診断した。フォルスターは、ヒトラーに睡眠治療を施して、眼が見えるようにしたばかりか、「君は救世主キリストだ。ドイツを救うのは君しかない」と強烈な暗示かけて娑婆に戻した。そのあと、ヒトラーは、それまでとはまったく別人のようになって強烈なカリスマ性を発揮し、誰もが知るような独裁者への階段を駆け上がっていく。そして、ヒトラーの過去の秘密を知るフォルスターは1933年にナチスが政権をにぎると、ゲシュタポに狙われ、同年9月、追いつめられて自殺した。ところが、フォルスターは、自殺する前、パリに逃れ、そこでユダヤ系亡命作家サークルにヒトラーの診断書を託した。
この小説は、このときのヒトラー・カルテをもとにしているのです。
彼にとって、この戦争は大歓迎だった。彼自身を救うばかりか、世界を救うことでもあった。彼は、ウィーンで貧しい画家志望の学生だった。食い詰めたときには、建築現場でペンキ屋の仕事をした。彼は、路上生活者となり、ときどき「気のいいヤクザのあんちゃん」や、住む家のないさすらい人から、わずかばかりの小銭やパイのかけらを恵んでもらっていた。
ヒステリー性の失明に見舞われた人間の運命は、常に過酷きわまるものである。ひとに認められたいと望む、この男の自己顕示欲、自分は上だと思い込む自己陶酔、そして過激なエネルギー、こうした要素とこの男がかかえる苦しみをつなぎ合わせて、一筋の道を見つけ出し、それによってこの男を病気から救い出してやろう。運命をあやつり、神を演じ、そうして一人の眠れない失明者に再び視力と眠りを取り戻してやった。
悲しいかな、このころワイマール政府の頼みの綱は将校団しかなかった。というのも、本来、共和制を支えるべき労働者たちが、かたや保守・自由・ブルジョア派に、かたや革命・プロレタリアアート・インターナショナル派に分裂してしまい、一致団結して政府を支えようとしなかった。
この将校団のうながしにより、軍隊に所属する者たちには選挙権が与えられず、共和制党および革命政党の党員になることも禁じられた。あの偉大なる11月の無血革命は、将校団のあいだでは、ただの屈辱、敵前逃亡、敗れざるドイツの背筋に突き刺された亡者でしかなかった。
ひとは、容易にだまされてしまうものだ。
1923年11月の一揆が勃発した。国防軍は、Hの組織するこの反乱は、自分たちに有利に展開するだろうと信じていた。また、保守的なブルジョア層やフォン・カールのような高級官吏たちは、Hに資金援助してこれを影で支えていたが、彼らは能天気にも、この反乱が反革命を呼びおこし、古きなつかしき王家が復活するだろうくらいに思っていた。だが、Hの思惑は、まったく自分本位のものだった。だれもHは、そこまでやるとは思っていなかったし、恐らくH本人もそこまでやれるとは思っていなかっただろう。二度までも軌跡を起こすことになろうとは・・・。
ヒトラーの権力掌握の愚を日本でくり返しては絶対にいけません。その意味で、麻生元首相の講話は反面教師とすべきものと考えます。
(2013年5月刊。2800円+税)
2013年8月18日
暮らしのイギリス史
著者 ルーシー・ワースリー 、 出版 NTT出版
イギリスにはまだ行ったことがありません。大英博物館には、ぜひ行ってみたいのですが・・・。
かつて寝室は雑魚寝(ざこね)状態でやすむ、半ば他人との公共の場であった。睡眠とセックスだけに特化するようになったのは、たかだか19世紀になってからにすぎない。同じように、浴室も19世紀末まで、独立した部屋として存在すらしなかった。
その昔、人生最大の悩みと言えば腹を満たせるものがあるか、あたたかい寝床で眠れるか、結局、この二つの問題に尽きていた。
何百年にもわたり、国王や貴族は寝室では肌着姿で通した。下着姿の王は、召使の注視に慣れる必要があった。もともと下着は、あえて人目を意識して、垣間見せるようにもできていた。
王の衣服を暖炉の前で温め、王が袖を通すまで暖かい状態に保っておくのは、信頼あつく地位の高い召使のみに任された仕事だった。
女王は、他人の助力なしに服を着ることができなかった。中世の騎士は、下着としてのパンツを着用しなかった。チューダー朝の宮廷人は、下剤を偏愛していた。
中世は男性が不能になれば、離婚もやむなしという時代だった。国王や貴族の子づくりは、国事行為に似て、きわめて重要であり、半ば公的性格も帯びていた。
公共浴場は男女「混浴」であり、中世の人々は、大挙して同時に入浴していた。ひとりで入浴する習慣はなかった。
16世紀になると、浴場の評判はかげり出し、浴場という言葉は売春宿と同義になっていた。そして、18世紀になって入浴は徐々に復活してきた。
18世紀まで、歯医者という職業はこの世に存在しなかった。チューダー朝の理髪師は外科医を兼ね、散髪、抜歯そして手足切断まで行っていた。
王が臣下とはいえ人前で用足しをするものだから、貴族も人前で何らはばかることなく用を足した。
17世紀になると、豪邸・宮廷には水洗便所が四方八方に設けられていた。チューダー朝からスチュアート朝を通じて、イギリス人口の30%が人生の一時期に召使として働いていた。召使として働くことは何ら恥ずべきことではなかった。主人との縁故は、社会的特権をうみ出し、生活の庇護にもつながった。主人と召使は生活全般にわたって文字どおり一体であり、中世の居間では寝食を共にするのが常態だった。
結婚は万人の義務だった。17世紀末、イギリスは結婚を通じて国家財政を潤すため、婚姻税が導入された。
中世の農民は、鹿などの狩猟を法律で禁じられていた。こうした動物は、地主や王侯貴族の楽しみのためにとっておかれた。農夫にとって、牛や羊肉などの赤身の肉は夢でもおがむことのできない贅沢品だった。
果物は、生野菜と同じく、卑賤な食べ物と考えられていた。
中世イギリスの人々の生活の実態を教えてくれる本です。意外なこともたくさんありました。
(2013年1月刊。3600円+税)
2013年8月15日
ヴェルサイユの女たち
著者 アラン・バラトン 、 出版 原書房
ヴェルサイユ宮殿には2回行ったことがあります。もう20年も前のことです。電車を降りて歩いていくと、平地の向こうに大宮殿らしきものが見えます。ともかく広大な宮殿です。鏡の間などを見学したあと、広い庭に出て、それからずっと右奥のほうにあるプチ・トリアノンにまわりました。マリー・アントワネットが農村ごっこをしたという場所です。
この本では、ヴェルサイユ宮殿で活躍した女性たちが主役です。
ヴェルサイユの利点は、パリからブルターニュに抜ける最初の拠点だった。未開発でじめじめした沼地が多かった。そして、野生動物が豊で、狩りにうってつけだった。
パリの中心地からヴェルサイユまでは、わずか20キロしか離れていないが、都とは別世界が広がっていた。当時、ヴェルサイユに行くのは、ちょっとした旅行だった。
ルイ13世の幼少期は幸せとは言い難かった。9歳のときに王位を継いだが、母のマリー・ド・メディシスは摂政として、「身体的にも精神的にも弱すぎる」との烙印を押して、政権から遠ざけた。
当時のフランスでは、修道院に入らない大人の女性が独身でいるのは、非常に珍しいことだった。
ルイ14世は、道路を整備して、パリとヴェルサイユ間を6時間で行けるほどに近代的な道にした。
当時は、太っていることは健康の印、やせているのは貧乏人の印だった。
この当時、男性を夢中にさせるのには、ふくらはぎをちらっと見せるだけで足りた。女性は胸であわば惜しげなく乳首近くまで見せたが、足は夫か愛人にしか見せなかった。乳首を両方とも見せるのは、売春婦だった。
王とベッドを共にすることは、どんな結婚よりもその後の安定した生活を保証してくれた。王の肝入りで、そっと資産家に嫁いだ例も珍しくはない。だから、上陸階級は率先して体を売る商売に励んだ。ルイ14世の治世は、この商売を花開かせた。宮殿を囲む森は、さながら野外の売春宿の風を呈していた。
ヴェルサイユ宮殿には、ふたつの空間がある。式典のための広間や「鏡の間」のような絢爛豪華な外向きの空間と、もうひとつ、実際にはだれも知らない、迷宮のような私的な空間だ。
ポンパドール夫人は20年以上にわたってルイ15世の宮廷に君臨し続けた。その秘密は、王を満足させるためならどんな犠牲も払ったからだ。うつ気質のルイ15世をリラックスさせるため、小部屋の劇場で演劇を催し、自ら舞台に上がって見事に役を演じ、歌劇を演出し、バレエやコンサートも企画した。
ポンパドール夫人が亡くなったとき、残されたのは涙にくれる王と空っぽの金庫だった。プチ・トリアノンはポンパドール夫人の希望でつくられたが、彼女が感性を見ずに他界してしまったため、そのままになっていた。
庭師として、ヴェルサイユを知り尽くしている著者による、宮廷で活躍した女性の話でした。
(2013年3月刊。2600円+税)
2013年7月28日
ワニの黄色い目
著者 カトリーヌ・パンコール 、 出版 早川書房
いかにもフランスの小説だな、そう思いつつ上下2巻の本を読みすすめていきました。大人の男女の絡み合いが複雑なうえに、若い男女もからんできてストーリーはややこしく展開していきます。
しかも、そのときどきで語り手が代わり、その視点で物語がすすんでいきますので、ますます、ややこしくなります。
一般に、小説は読み手が本の登場人物に感情移入することが大切だといわれていて、モノ書き志向の私もそれを心がけているのですが、この本は、そんなルールなどお構いなしに、目まぐるしく視点が変転しながら、どんどん話が展開していき、ついていくのが大変です。上下2巻からなるこの本はフランス人の女性作家の手になるもので、フランスの女性に大受けして、3部作シリーズはなんと400万部を突破したというのです。これはすごいことですよね。
監訳者のあとがきを紹介します。まさしく、そのとおりの本なのです。
恋愛あり、不倫あり、夫の家出や、ねじれた母親との関係あり、娘との葛藤あり、はては殺人事件までありと、登場人物のさまざまな女性が経験する人生のドラマを、ときには深刻に、ときにはユーモアをまじえながら、軽妙に描いた三部作の一作目。
ロイヤルファミリーの大変さが語られるかと思うと、小説を書くことの大変さまで、そしてゴーストライターやら、本の販促など、さまざまなテーマが怒濤のように進行していくので、しまいには何がなにやら理解するのも困難になるうちに大団円を迎えてしまうのでした。
私には、とてもこんなマネは出来ないなと思いつつ、著者に敬意を表して紹介してみました。
(2011年10月刊。1600円+税)
2013年7月23日
レニングラード封鎮
著者 マイケル・ジョーンズ 、 出版 白水社
思わず涙が出てくる、つらい話が続く本です。スターリンの非道さにも怒りが湧きあがってきます。
3年ものあいだ(900日間)、ナチス・ドイツ軍に包囲されたレニングラード攻防戦の顛末が語られています。なにしろ市民の犠牲者100万人のうち餓死者が80万人というのです。半端な数字ではありません。これはヒトラーが力攻めをあきらめたこと、スターリンの作戦指導が間違っていたことによります。
人口250万人のレニングラードを包囲したナチス・ドイツ軍は意図的に市民を餓死に追い込んだ。1941年冬までにレニングラード市民のパン配給量は1日125グラムでしかなかった。略奪と人肉食(カニバリズム)が蔓延した。封鎮中に、少なくとも300人がカニバリズムのかどで処刑され、1400人以上がこの罪名で投獄された。しかし、レニングラードは、驚くべきことに崩壊はしなかった。
恐怖のただなかで、他人を助けることが生き残る鍵となった。人々は親戚や友人達と一緒に住み、互いに助けあった。もっとも絶望的な状況のなかで、士気とやる気がとても重要だった。市民たちの挑戦の最大のシンボルが驚くべきオーケストラ演奏会だった。このコンサートの象徴的な意義は絶大だった。ショスタコーヴィチの交響曲第7番が演奏された。ホールは、いつも満員だった。この演奏を包囲していたナチス・ドイツ軍の将兵も聞いていた。この音楽を聞いて、彼らはレニングラードを決して落とせないだろうという実感を抱いた。
レニングラードは、ヒトラーにとって主要な目標だった。
レニングラードの陥落は、ソビエト国家から、その革命のシンボルを奪うことになる。
ヒトラーはこのように語った。実は、ドイツ軍兵士がレニングラードを占領したときには、疫病の深刻な危険があると、ヒトラーは警告されていた。
ソ連軍の総司令官ヴォロシーロフは無能だった。61歳という老齢の元帥は、赤軍随一の脳なしと後年にフルシチョフが評した。それでもスターリンは、ヴォロシーロフを、その地位に留めおいたのは、信頼できる男だったからである。ここにレニングラード市民にとっての悲劇が始まるのです・・・・。
トハチェフスキー将軍は、ヴォロシーロフを軽蔑していたが、その政治的陰険さを見くびっていた。スターリンは、トハチェフスキーなど、有能な元帥を次々に銃殺していった。
1937年から、1938年にかけて、3万人をこすレニングラード市民が逮捕され、処刑あるいはシベリアの強制収容所へ送られた。これがナチス・ドイツ軍によるレニングラード包囲戦を戦うのに困難をもたらした。
レニングラードの司令官としてジューコフが派遣されてきた。このジューコフは、人命損失をまったく気にかけることがなかった。人命の犠牲を度外視して、敵のドイツ軍への攻撃を次々に命令し続けた。
ジューコフ将軍は、ノモンハンで日本軍(関東軍)とたたかいますが、このときも同じ人命軽視の戦術を強行したようです。
レニングラード図書館はずっと開館していた。
新任の司令官はドイツ軍前線にむけてスピーカーで、オーケストラの演奏するショスタコーヴィチの交響曲第7番が容易に聴けるように手配した。演奏会の前には、ドイツ軍砲台に向けて集中砲火を浴びせて沈黙を強いていた。
飢餓のなかでも、人間は気高く生きることができるのですね・・・・。
もっと知られていい歴史だと思いました。しっかり読みごたえのある本です。
(2013年2月刊。3800円+税)
2013年7月12日
チャーチル
著者 ポール・ジョンソン 、 出版 日経BP社
チャーチルの伝記です。実は、あまり期待せずに読みはじめたのでした。ところが、意外に面白くて、つい一気に読み終えました。
チャーチルが人生で何度も失敗したことも、率直に語られています。そして、チャーチルが両親に愛されずに育ったこと、それをカバーしてくれる女性(乳母)がいたことは驚きでした。父親はチャーチルをこの子は頭が悪いと決めつけ、母親は社交界に忙しかったのです。
チャーチルの顕著な特徴は、精神的で、冒険好きで、野心的で、複雑な知性をもち、情に厚く、勇気があり、打たれ強く、人生のあらゆる側面に強い情熱をもつといった点は、どちらかといえば母親から受け継いでいる。
母親は社交界一の華でありたいという強い欲求を実現した。母親は、この地位を10年以上にわたって維持した。
イギリスの政治家のなかで、英語をチャーチルほど愛した人はいない。またキャリアを築くため、キャリアが傷ついたときに名誉を回復するために英語の言葉の力をここまで一貫して利用した人もいない。チャーチルは生涯にわたって原稿料が主な収入源になった。
言葉をお金に変える点で、決定的な役割を果たしたのは母親だった。
若きチャーチルは戦争を探した。特別許可を得て、記者として、あるいは兵士として戦場に赴く。新聞記事を書き、本を執筆する、これがチャーチルの行動パターンになった。チャーチルは26歳で国会議員に当選した(1900年)。急速に名誉と地位を獲得したが、他方で数多くの批判者や敵もつくった。軽率で傲慢で生意気で反抗的で自慢げな跳ね返りものだと言われた。
チャーチルは下院議員になった。出世が目的であったことは間違いない。チャーチルは、当時もその後も、矛盾の塊だった。
戦場にいたチャーチルは、捕虜収容所に入れられ、脱走した体験をもっていたので、機会あるごとに戦争の恐ろしさを同僚の下院議員に警告した。
チャーチルは下院の選挙で6つもの肩書きを変えた。保守党、自由党、連立派、立憲派、挙国一致派、国民保守党。
チャーチルは、演説原稿を用意し、すべて暗記し、練習し、間合いを計算して、何ごとも偶然には任せないようにした。原稿なしに話していて、突然、次の言葉が出てこなくなるという大失態を演じたからである。これって、よくあるんですよね。いきなり頭のなかが真っ白になってしまうのです・・・・。
海軍の高級将官はチャーチルをとんでもない政治家だと嫌った。しかし、士官や下士官、水兵たちはチャーチルを英雄として歓迎し、給与・待遇を改善したあとは、とくに信奉した。
チャーチルは生涯にわたってフランスびいきだった。しかし、ドイツ軍の演習を視察すると、フランスよりドイツ軍の方が比べものにならないほど良いことを理解した。
チャーチルは、ユダヤ社会と密接な関係を築いた。一貫して、ユダヤ人寄りだった。イスラエルの建国にチャーチルは貢献した。
チャーチルはシャンパンを好んだ。そして、いつも葉巻を手にしていた。吸っていたわけではない。喫煙までの所作が好きだったのだ。
チャーチルは演説の前に酸素を2缶用意して吸入し、気分を高めた。
1925年、チャーチルは財務相になったとき、予算演説をするときは、公邸から下院まで歩いた。山高帽をかぶり、襟が毛皮の大きなコートを着て、蝶ネクタイをつけ、家族をしたがえ、笑みを浮かべ、手を振って、自信と成功を発散させる。
チャーチルは日本がイギリスに敵対することはないと信じ込んでいた。チャーチルのこの間違いはイギリスに悲劇をもたらした。
日本がイギリスと戦う理由はない。日本との戦争の可能性は、理性的なイギリス政府が考慮しなければならないことではない。
これは、チャーチルの残念ながら間違った言葉です。日本人として複雑な気持ちです。
1929年のアメリカ・ウォール街の大暴落によって、チャーチルも元手の大金を失っただけでなく、巨額の借金を負うことになった。そこで、チャーチルは、執筆料を2倍に増やし、新しい契約を交渉し、演説旅行した。
インドのガンジーについて、重要な人物であることを見抜けず、チャーチルはガンジーを「半裸の乞食僧」にすぎないと切り捨ててしまった。
そして、1932年12月、チャーチルは交通事故で重傷を負った。
交通事故によって精神的、肉体的な激しい苦痛を味わった。だが、どれも耐えられないものではない。自分を哀れむ時間はないし、力もない。後悔したり、恐れたりする余地はない。自然は慈悲深く、人間にしろ獣にしろ、その子どもたちにそれぞれの力を超えるような試練を与えることはない。危険な人生を歩み、起こることを受け入れるべきだ。何も恐れることはない。すべてはうまくいくのだ。
1935年。チャーチルは、午前中を執筆と自宅(別宅)の煉瓦積みですごした。1日に200個の煉瓦を積み、2000語の文章を書いた。チャーチルはヒトラーの『我が闘争』を読み、そこに書かれていることはヒトラーの明確な意図だとみた。
1930年代のイギリスは、平和主義が大流行していた。武装解除に多くの国民が賛同していた。だからチェンバレン首相は、ヒトラーにころりとだまされたのでした。
チャーチルは独裁者ではなかった。その命令は一つの例外もなく、文書で行い、明快に指示した。口頭の命令も、すぐに文書で確認した。これに対して、ヒトラーはすべて口頭で命令した。
チャーチルは第二次大戦が始まったとき65歳。終わったとき70歳。1日16時間はたらいた。チャーチルには、優先順位を正しくつかむ特異な能力があった。
チャーチルの生涯で、絵を描く以上の楽しみはなかった。チャーチルの絵は素人離れしているとのことです。ぜひみてみたいものだと思いました。
チャーチルは人に対する憎しみをもたなかった。そのため、生涯を通して、大きな喜びを手にすることができた。
私も、人を憎まないようにすることを心がけています。大切な教訓がたくさん盛り込まれている興味深い本でした。
(2013年4月刊。1800円+税)
2013年6月16日
古代ローマ帝国1万5000キロの旅
著者 アルベルト・アンジェラ 、 出版 河出書房新社
古代ローマ帝国の実態を克明に紹介した画期的な本です。この本によっていくつも新しい知見を得ました。なかでも怖いなと思ったのは、古代ローマでは誘拐が頻繁だったということです。
ローマ人の誘拐の主な目的は、さらった相手を奴隷にすることにあった。奴隷は毎年50万人も新しく加えられていた。どうやってか・・・。第一に戦争によって、第二に国境の外での人間狩り、第三に誘拐によって。
誘拐はどこでも起きる可能性があり、安全な場所などなかった。パン屋のあるじがお客を、宿屋が泊まり客を誘拐して奴隷として売り飛ばすことさえあった。路上も危ない。帰宅の途中、仕事への途中で誘拐されることさえあった。そして大農園のなかで、劣悪な労働環境の下で、死ぬまで働かされた。誘拐は、手っとり早く、ただ奴隷を手に入れる手段になっていた。誘拐犯が好む相手は子どもだった。古代ローマでは、出かけるときには誰もが外で誘拐にあうという危険な認識をしていなければならなかった。うへーっ、こ、これは怖いことですね。
話は変わりますが、私はフランスのポン・デュ・ガールに行ったことがあります。南フランスのアヴィンヨンからバスで1時間ほどのところにありました。古代ローマの水道橋なのですが、実に状観です。三段になったアーチ型の優美かつ壮大な水道橋です。本当に圧倒されます。高さ48メートル、長さ370メートルというものです。2000年前のものが今もそのまま残っているなんて、すごいことですよね。
水道橋ですから、要するに水を流していたわけです。どうやってか・・・。勾配をつけていたのです。水源から町までの50キロメートルを、山あり、谷あり、川ありの所を一定の勾配で水を通したのです。その勾配は1キロメートルあたり25センチというのです。1センチの誤差もなく、50キロにわたって導水管を通していたというのですから、古代ローマ人の土木技術の水準の高さには開いた口がふさがりません。それをわずか15年で完成したというのです。ここまでくると、いやはや、何とも言いようがありません。
古代ローマ人の造ったもっとも偉大な建造物は、何か・・・。それは、道路である。全長8万キロ以上になる。地球を2周できる計算だ。
そして、これは軍事目的でつくられた道路だ。古代ローマの道路は、水はけがよく、水がたまらない。道幅は4メートルあって、2台の馬車が行き違えるようになっていた。
古代ローマの女性は、法律上夫や兄弟に干渉されることなく、家族の遺産や財産を自由に使うことができた。女性も男性と同じように寝そべって食事するし、公共浴場に行くし、飲酒もする。そして、容易に離婚できたので、次から次に離婚した女性も少なくなかった。
古代ローマの女性は、大きな権力と夫からの自立を得ていた。離婚も、数人の証人の前で宣言するだけでよかった。離婚するときには、基本的に持参金の金額が女性に返還された。
古代ローマのスタジアムには15万人も収容できるものがあった。現代のスタジアムでも、その規模のものはない。映画『ベン・ハー』は、古代ローマの競技用戦車そのものを再現しているのではない。あれでは、あまり重すぎて、レースに参加することはできない。
古代ローマ人の生活をまざまざと再現してくれる面白い本です。
(2013年2月刊。3200円+税)
2013年6月15日
コリーニ事件
著者 フェルディナント・フォン・シーラッハ 、 出版 東京創元社
日本とはかなり異なる弁護士事情です。私は弁護士生活40年になりますが、刑事裁判で無罪判決をもらったのは、たったの2件しかありません。うち1件は検事控訴されることなく一審で無罪が確定した詐欺事件でした。もう一件は検事控訴されて二審は逆転有罪となり、最高裁で有罪が確定した公選挙違反事件(演説会の案内ビラを配布したのが戸別訪問とみなされた事件です。こんなのが罪になるなんて、公選法のほうが間違っていると、今も考えています)です。残る事件は、いわゆる情状弁論を主とするものばかりです。したがって、ドイツ流に言うと、私は「勝てない弁護士」ということになりそうです。でも、本人も周囲もそんなふうには思っていません。
この本は、ドイツの現職弁護士が書いた殺人事件の顛末を描いた推理小説です。ですから、ネタバレは禁物です。とは言っても、少しだけ紹介します。
弁護士は新米で、法廷での手続もよく分かっていません。
経済界の大物経営者が突然、見知らぬ男に殺害されてしまいます。男は殺害後、すみやかに自首します。そうすると、弁護人として一体何ができる、何をするのでしょうか・・・。
この本のオビによると、「ドイツでは35万部突破!」ということです。
殺人行為を被告人が否定せず否定する意欲もないとき、そのとき、弁護人は何をしたらよいのか・・・。
実は、被害者は元ナチスの高官だったのです。そして、この本の著者も有名なナチス高官のシーラッハの3世です。そうなんですね。ナチス高官の3世たちが今のドイツで活躍しているというわけです。ヒトラー暗殺未遂で首謀者だったドイツ国防軍の高官の3世も紹介されています。
ドイツでこの本が35万部売れたというのは、それだけナチス・ドイツが単なる過去の問題ではないことを意味しています。ひるがえって、日本ではどうなんでしょうか、過去への反省があまりにも足りないように思います。安倍さんのように開き直りが目立ちすぎますよね。これでは国際社会に受け入れられません。日本が侵略戦争したことをきちんと反省してこそ、日本の生きる道はあるのです。それは自虐史観などと言うものでは決してありません。加害者は忘れても被害者は忘れないのです。
(2013年4月刊。1600円+税)
2013年6月 7日
消えた将校たち
著者 J・K・ザヴォドニー 、 出版 みすず書房
カチンの森虐殺事件について書かれた本です。その残虐さでは、ヒトラーに匹敵するスターリンによる大虐殺事件が起きました。そして、ソ連はナチス・ドイツによるものだと言い張ったのです。驚くべきことに、アメリカもイギリスも、スターリンの機嫌を損ねたくないため、そのソ連の詭弁を受け入れ、真相究明をしませんでした。
なぜスターリンは、カチンの森虐殺事件を起こしたのか?
その答えが本書で明らかにされています。要するに、スターリンはポーランドをソ連の支配下に置きたかった。それを邪魔するようなポーランドの知識階級(指導階級)を地上から抹殺しようと考えたということです。
ソ連軍に捕らわれたポーランド軍1万5000人が行方不明となった。そのうち8000人以上が将校だった。
ナチス・ドイツは1943年4月、多数のポーランド軍将校がソ連に殺害されているのを発見したと発表した。これに対して、ソ連側は、直ちにポーランド軍捕虜を殺したのはナチス・ドイツだと反論した。
カチンの森には、死体でいっぱいの、深さ3メートルほどの集団墓穴が8つ発見された。死体は顔を下に、両手は両脇にそってか、背中でしばりあげられ、足はまっすぐに伸び、9層から12層に重なりあって積み上げられていた。そして、後頭部を銃で撃ち抜かれていた。その銃弾はドイツ製だった。
ポーランド将校は丈長の長靴をはいていた。それは威信や地位の象徴だった。
墓穴の上には、わざわざトウヒの若木が植えてあった。
ソ連は逮捕したポーランド軍将兵を共産主義者に転向させるべく、思想強化に努めた。しかし、この思想強化は全体として失敗に終わった。ポーランド人は、共産主義教義を公然と拒否した。そこでソ連(NKVD)は、まだ可能性があると判断した448人を選び出し、あとは抹殺することにした。
しかし、この448人も大多数はソ連の強化に応じなかった。50人だけが応じたが、彼らは村八分にあった。残りは、結局、強制収容所へ送られた。
1940年当時、NKVDと呼ばれたソ連秘密警察は、ソ連国家が内部の敵と戦うための楯であり、剣であった。スターリン時代、その警戒行動には限界がなかった。
スターリンの支配するソ連共産党政治局は、ソ連秘密警察NKVDに命じて、ポーランドの将校と知識階級2万2000人(2万5000人)をロシア、ウクライナ、白ロシア(ベラルーシ)の各地で1940年4月から7月にかけて組織的に一斉に殺害した。
カチンの森虐殺事件と呼ばれていますが、虐殺現場はカチンだけではなかったということです。スターリンの犯罪は本当に信じられないほどひどいものです。絶対に許せません。
(2012年12月刊。3400円+税)
土曜日から日曜日にかけて、久留米で九州のクレジット・サラ金被害者交流集会があり、参加してきました。270人もの参加があり、盛況で、内容としても大変勉強になりました。
私は、この交流集会の原始メンバーの一人ですが、各地のクレサラ被害者の会は、いま相談者が激減して活動を停止している状況にあります。
これも貸金業法が改正されて、規制が厳しくなったことの成果という面もあります。それでも、ヤミ金をはじめ、まだまだ借金をかかえて泣いている人、困った人はたくさんいます。そのような人に、家計管理をきちんとして、生活を立て直してもらえる場として被害者の会は有効な場でした。なんとか代わりを考える必要があります。
2013年5月31日
トロツキー(下)
著者 ロバート・サーヴィス 、 出版 白水社
レーニンは、死ぬ前に「スターリンはあまりに粗暴である」という遺言を書いて、書記局から排除することを提言した。レーニンは、自分が死んだあとは、集団指導体制をとることを願った。スターリンは、レーニンの遺言を無視し、公開しなかった。
トロツキーは、スターリンをあまりに軽視しすぎていたようです。
スターリンは、トロツキーからみて、常に政治的に凡庸で、知的にはとるに足らない人物だった。
ところが、レーニンの死後に開かれた1924年5月の党大会のときは、トロツキーは分派主義に走っていて、スターリンは現状の指導部のためにしっかり忠実に働いていて文句のつけようがなかった。この党大会で、トロツキーは、投票権すらなかった。
スターリンとブハーリンはトロツキーを追い落とすべく密接に協力していた。
1926年10月、トロツキーは政治局を解任された。ジノヴィエノは前に解任されていた。
トロツキーは、個人としての他人を思いやる気持ちが基本的に欠けていた。トロツキーには人間性がない。トロツキーをよく知る人は、このように言っていた。
これではトロツキストが盛況になるはずはありませんよね。
トロツキーは、公的にも私的にも、頭の悪い人物には冷たいどころか、一切容赦がなかった。
1927年から28年の冬、ソ連は政治的に緊急事態にあって、経済が崩壊しつつあった。都市の倉庫の小麦・ライ麦の備蓄は危険なまでに少なくなっていた。
1928年1月、トロツキーはカザフスタン(アルマ・アタ)へ送られた。
1929年1月、トロツキーを国外へ追放することが決定された。トルコ当局は、トロツキーの亡命を認めるにあたって、ソ連に極秘の条件を課した。それは、トルコでトロツキーを暗殺しないということだった。そして、トルコは、トロツキー本人にも、トルコの地元政治に干渉しないこと、トルコ国内で出版しないことを求めた。
この本を読んでいると、トロツキーは、自己の安全について、あまりに楽観視していたようです。これも過剰な自己過信のあられなのでしょうか・・・。
トロツキーによると、各国の共産党の指導部は絶望的だった。トロツキーはドイツのエルンスト・テールマンとフランスのモーリス・トレーズは愚の化身としていた。
1937年からトロツキーはメキシコに居住した。メキシコ警察はトロツキーに24時間体制で警護をつけ、その動向を定期的に政府に報告した。アメリカも同じように情報を収集していた。メキシコ共産党はトロツキーを監視し、モスクワに情報を提供していた。
1936年当時、世界のトロツキズムは、ソ連のスターリンが想像していたよりも、はるかに規模は小さかった。トロツキストは、構成員の統計の公開を嫌った。オランダ2500人、アメリカ1000人、ドイツは150人。ヒトラーが政権を握る前には750人。フランスは分裂を重ねて不明。イギリスも3つの小集団に分かれていた。
トロツキーは他人の気持ちに配慮する性質ではなかったが、妻に対しては例外で、夕食の席で妻の望みや要求にいつもこたえた。
スターリンによる1936~38年のモスクワ裁判は、茶番だったが、トロツキーには試練となった。被告人は拷問を受けていた。スターリンにあくまで抵抗した人は証言台に姿をあらわすことなく処刑されていた。
1940年8月、暗殺犯によってトロツキーの生命は奪われました。トロツキーは、いつものとおり、あきれるほどめでたく、何の疑念も抱かなかったというのです。暗殺犯はトロツキーの臨時秘書の恋人でした。トロツキーの頭にレインコートに隠しもっていたピッケルを手早く打ち込んだのです。そして、この暗殺犯は1960年に20年の懲役刑を終えて、モスクワに英雄として迎えられ、ついにはキューバに渡って、1978年に死亡したとのことです。
対立の絶えないトロツキストたちは、モスクワの指導部に従った共産党と戦うより、仲間内で議論するほうが多かった。モスクワにおけるトロツキーの立場を回復したのは、第四インターナショナルではなく、ゴルバチョフだった。
トロツキーは、スターリンとの政治闘争で究極の犠牲をはらったが、その前にトロツキー自身も高い地位について血なまぐさい弾圧をしている。肉親のほとんどはトロツキーのせいで死に追いやられた。娘のニーナは結核で亡くなり、ジーナは自殺した。息子のリョーヴァは医療ミスで死んだ可能性がある。
等身大のトロツキーを知ることのできる本でした。それにしても、今でも、昔ながらの過激派はいるようです。驚きます。でも、もう誰もトロツキストとは呼ばないのでしょうね・・・。
(2013年4月刊。4000円+税)