弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

ヨーロッパ

2013年5月11日

成功する人の「語る力」

著者  フィリップ・コリンズ 、 出版  東洋経済新報社

イギリスのブレア元首相のスピーチライターによるスピーチ原稿のつくり方を紹介する手引書です。
 優れたスピーチを書く技術を身につけたければ、書く内容が定まっていなのに書きはじめたり、内容そのものよりも耳に心地よいスピーチをすることは避けなければならない。
 いいスピーチは、骨組みがしっかりしている。
 スピーチは、いちばん核となるテーマを一行で表してみること。もし、一行でまとめられないのなら、自分のテーマがまだ分かっていないということ。
スピーチが果たす基本的な機能は、情報性、説得力と刺激の三つである。
 スピーチとは、一度マイクの前に立ったら、誰かに邪魔されることなく、20分は話ができる素晴らしい機会である。
 スピーチでは、できるだけわかりやすく明確に話すことが必要だ。
スピーチに最適なのは午前11時ころ、最悪なのは昼食直前だ。聴衆は、まだ話をきく態勢になっていない。
効果的に説得するにはコツがある。まずは寛大な態度を示す。そのうえで、論理立てて相手の意見を切り崩していくこと。初めから反対論者を叩きのめそうとしてはいけない。
 スピーチするとき、あなたという人格が伝わることが大切だ。そして、聴衆が遠くからでもわかるように、あなたの個性をわざと目立たせる工夫も必要だ。
 ひとたびステージにあがったら、ゆったりとふるまう。前口上は短く終わらせ、やや長めの間を取って、これからスピーチを始めるのだと聴衆に知らせよう。
 ステージ上では、少々大げさに話す。いつもの調子で話してしまうと、迫力に欠け、あまりやる気ないように見えてしまう。そして、話すペースに変化をつける。
オバマ大統領の秘密は、すべてその声にある。オバマは歌うように言葉を発する。オバマの原稿を読んでも、それほどの感動はない。
とても実践的なスピーチ原稿のつくり方の本でした。
(2013年4月刊。1500円+税)

2013年5月10日

トロツキー(上)

著者  ロバート・サーヴィス 、 出版  白水社

大学生時代、私にとってトロツキストというのは暴力学生であり、権力と通じて街頭で派手に暴れまわり、心ある人々を困らせる存在というイメージでした。この本は、トロツキーの素顔に迫っています。大変興味深く読みました。ただし、上巻だけで400頁もの大作です。
 トロツキーは、政治の空を駆け抜けるまばゆい彗星のようだった。誰が見ても、トロツキーはロシア革命でもっとも弁舌の立つ人物だった。トロツキーは10月に臨時政府を打倒した軍事革命委員会を率いた。赤軍の創設に誰よりも貢献した。トロツキーは、レーニンとお互いに反目もした。
 トロツキーは1929年にソ連を追放され、ソビエト国家のどこがおかしくなったのか、というトロツキーの分析は外国では影響力を持ち続けた。トロツキストは、政治状況が許せば、どこでも登場した。
 スターリンは、トロツキーを十月革命の敵として描き、1936~38年の見世物裁判で有罪宣告をし、ソビエト諜報機関に暗殺を命じた。そして1940年、暗殺に成功した。
存命中のトロツキスト集団は政治的にはごくわずかな影響力しか及ばさなかった。そして、トロツキーの死後、運動はジリ貧となった。
1968年にヨーロッパとアメリカの学生運動が起きて、一瞬だけトロツキーは復権したが、年末には沈静化した。これが私の大学生のころのことです。一瞬だけ、だったんですね・・・。
ソ連では嫌悪され続けたが、1988年にゴルバジョフがトロツキーの政治的な名誉を回復した。西側のトロツキストは、相変わらず従党を組んで遁走に明け暮れ、しばしばトロツキーなら飛びあがったはずの思想を喧伝した。トロツキーは、暗殺されたことによって政治的な殉教者となり、おかげで通常なら疑問を抱いたはずの著述家も好意的に解釈してくれた。
 スターリン、トロツキー、レーニンは、反目する部分より、共通する部分のほうが多かった。スターリンではなく、トロツキーがソビエトの至高の指導者になっていたとしたら、ヨーロッパにおける大流血のリスクは大幅に高まっただろう。
トロツキーの傑出した能力には疑問の余地はない。見事な演出家で、オルグ家としても指導者としてもすばらしかった。だがトロツキーだって聖人君子などではない。独裁権力と恐怖政治への指向は、内戦時代には露骨なほどだった。
 トロツキーは、23歳までレイバ・ブロンシュテインだった。自分がユダヤ人の出身なのを否定はしなかった。両親は、その地方で有数の農民だった。
 ブロンシュテイン家は、近所でもっとも豊かなユダヤ人だった。父親は、あまり熱心なユダヤ教徒ではなかったので、子どもをキリスト教の学校に平気で通わせた。
 レイバは、いったん教わったことは、ほとんど忘れなかった。
 トロツキーは、1902年、パリに到着した。そこでトロツキーは演説し、華々しい大成功をおさめた。聴衆を魅了する才能を示した。そして、人もうらやむ速筆ぶりだった。
 どこへ行っても、トロツキーは大成功をおさめた。
 プレハーノフは、心底からトロツキーを嫌った。老いたプリマドンナは頭角をあらわし始めた新しいプリマドンナを嫌うものだ。
 1904年に日露戦争が始まると、トロツキーは、日本との戦争は国益全般に被害を与えたと主張した。トロツキーは、日露戦争は革命の見通しを高めたと判断した。トロツキーはレーニンに刃向かい、そのことによってボリシェヴィキの敵対者たちからの評価を高めた。
 1908年、ロンドンにいたトロツキーは、どの派閥にも属さないと宣言し、メンシェヴィキとボリシェヴィキの双方の戦略を糾弾した。だから、トロツキーは、党中央委員に選出されなかったが、それも当然だった。それでもトロツキーは、党内に居場所を失ってはいなかった。相変わらず、党全体の融和を主張していた。だが、党内の多くの人にとって、トロツキーは、日和見主義に見えた。どちら側の意見もオープンに聞くトロツキーは、多くの敵をつくり、信用できない人物とされた。
 1917年、トロツキーは、ニューヨークに着いた。演壇に上ると、そこにいるのが天才弁士だと言うことは誰の目にも明らかだった。
 1917年、ロシアにトロツキーは戻った。トロツキーの話し方は、文法どおりだった。その流暢さは非凡だった。冷笑的で、説得力があり、情熱的だった。もじゃもじゃの赤褐色の髪が風にそよぐ。スリーピースのスーツを着て、いつもこざっぱりとしていた。聴衆のほとんどよりも背が高く、聴衆を揺り動かすための言葉やテーマを選び出しつつ、しなやかに動いた。トロツキーは身振りを多用した。そして、論点を強調したいときは、右腕を前にはねあげて、人差し指で聴衆を指さした。トロツキーは、ロシアの新しい「政治」を明らかに楽しんでいた。
 「レーニンはどんなに賢くても、トロツキーの天才と並ぶと、かすんで見える」
 これは当時の評である。しかし、レーニンのほうは急進左派に自分のライバルがいるなどと心配はしていなかった。
 1915年5月。トロツキーは、デマゴギー的な戦術をためらったことはなかった。
 9月。主要なボリシェヴィキが党代表として登場するとき、みんなが見聞したいのは、トロツキーだった。ボリシェヴィキのなかで、カーメネフも、大衆的な人気の点では、トロツキーの足元にも及ばなかった。このころレーニンはヘルシンキに隠れており、新聞論説でしか影響力を行使できなかったが、ほとんどの人は新聞など読まない。
 トロツキーは執筆し、演説し、議論した。組織をまとめた。革命ロシアで最高の万能活動家だった。レーニンとトロツキーはロシアの政治における不可分の存在となった。一心同体で、敵に対しては国家テロルを含む容赦ない手段を使う決意だった。
 トロツキーは、レーニンとのパートナーシップを楽しんでいたため、党の指導部内でどれほどの恨みを買っているか、気がついていなかった。
 今や、レーニンが統治問題のあらゆる重要な点の相談相手はトロツキーだった。
 世間的な名声でトロツキーはいい気になってしまった。トロツキーは、もともと組織への忠誠などで動く人間ではなかった。
 1918年2月、トロツキーは、自分の信念のために戦い、そして闘争に負けた。トロツキーは、ロシアがもはやまともな軍隊を持っていないと知っていたくせに、みんなに「革命戦争」が可能だと思わせようとした。
 1918年8月、トロツキーは、いやいや戦っていたのではない。人道的な面などまったく考慮せず、政治革命を暴力的手段で嬉々として深めていった。
 1918年12月、赤軍が総崩れとなった。白衛軍がロシア中心を目ざした。モスクワへの進路を防衛する軍をまとめられるのはトロツキーしかいなかった。スターリンですら、これは否定しようがなかった。
十月革命と内戦で世間の賞賛を集めつつ、トロツキーは党内で、かなりの嫉妬と疑惑を引き起こしていた。そしてトロツキー本人は、これにほとんど気をつかわなかった。
 ありとあらゆる問題について、正しいのは自分だと思っていたトロツキーは、党を自分の見方に無理矢理従わせるのが義務だと考えていた。トロツキーは自分の地位を当然のものと思っていた。
 トロツキーがレーニンと反目しあっていたこと、そしてレーニンと一緒に内戦を乗り切ったこと、スターリンがそれを若々しく思っていたことなどが上巻で紹介されています。下巻が楽しみです。
(2012年4月刊。4000円+税)

2013年4月28日

バルザックと19世紀パリの食卓

著者  アンカ・シュルシュタイン 、 出版  白水社

フランス大革命はレストランを流行させたのですね。
 「食卓」の重要性を意識していたバルサックは、偉大なる食通ではなかった。エキセントリックな「食べる人」だった。バルサックは、ほとんど食事をとらずに長時間にわたって執筆に没頭した。そして原稿を書き終えると、そのお祝いに、はかり知れぬほどのワインやカキ、肉料理やヴォライユの料理に身をゆだねた。
 バルサックは、8歳から6年間を寄宿舎で過ごした。幼い生徒にとって、食事は喜びではなく、屈辱だった。バルサックは親からプレゼントをもらえず、孤独を感じていた。寄宿舎で過ごした数年間、バルサック少年は食事のかわりに読書に情熱を傾けていた。
 バルサックは17歳で代訴人(弁護士)事務所の見習いとなった。この事務所で、バルサックは家庭内の悲喜こもごもに出会い、それが、あとで小説のネタとなった。
バルサックにとって不幸なことに、使う金額以上に稼げたことが一度もなかった。この大作家は最期まで、借金のために牢屋に入れられるのではないかと心配しながら生活していた。
バルサックは書くのが早かった。債務者たちにせつかれ、豊かな想像力に駆り立てられ、仕事に取りかかるやいなや扉を閉ざす。日に18時間も働き、2ヶ月には名作の原稿が完成していた。
創作に打ち込んでいるあいだは水しか飲まず、果物で栄養をとっていた。バルサックは、かなり濃いコーヒーを大量に飲んでいた。眠気を追い払い、自身を興奮状態に保ち想像力を増すためだった。
 バルサックは借金のためではなく、国民衛兵として使えるという義務を何度も繰り返し怠ったため、牢獄生活を余儀なくされた。
フランス大革命の前、上流階級の人々は1日に3回の食事をしていた。朝6時から8時のあいだに何か詰め込み、午後2時にディネをとり、夜9時以降に夜食をとっていた。
 これに対して、農民や職人は一日2回の食事ですませていた。夜食は、夜会や感激に行く特権階級に限られたものだった。
当時の人々は膨大な量の酒を飲み、水を飲むのはまれであった。
 夕食会は3時間をこえてはならなかった。さっさと片づけることがとても重要だった。
 フランスでシャンパンへの趣向が高まったのは非常に遅い。イギリスよりも、はるかに後のこと。ポンパードール夫人はシャンパンを高くし評価した女性の一人であり、彼女がワインを流行らせた。
夕食のとき、料理を次から次に給仕するのを、バルサックは好まなかった。というのも、この方式だと食べることが大好きな人々にとって、ものすごく食べることを強いるし、最初の料理で食欲が収まってしまう小食の人たちには、もっとよいものをなおざりにさせてしまう欠点があった。
 フランス大革命のころの食習慣を知ることができました。バルサックの奔放な生き方には圧倒されます。
  (2013年2月刊。2200円+税)

2013年4月25日

アフガン侵攻 1979-89

著者  ロドリク・ブレースウェート 、 出版  白水社

ソ連のアフガニスタン侵攻の始まりから撤退までを詳細に明らかにした本です。ベトナム侵略戦争におけるアメリカのみじめな敗退と同じことをソ連もやったわけです。
アフガニスタンには、機能する統一国家を築くための土台となる国家的組織体という観念はなきに等しい。地方から中央まで、あらゆるレベルの政治と忠誠は、各集団間の対立と取引によって規定される。それは末端の一族同士でも同じである。
 アフガニスタンは、世界でもっとも古くから人々が暮らしてきた地域の一つである。アレクサンドロス大王が支配し、ペルシア帝国の支配を受けたあと、13世紀にチンギス・ハン、
14世紀にティムールによって完全に征服された。この二人の子孫であるバーブルが16世紀にムガール帝国を築きあげた。
 アフガニスタンの国民はパシュトン人、タジク人、ウズベク人、ハザラ人、その他の弱小民族集団に分かれ、さらにいくつもの部族に細分化する。そして、アフガニスタン人の大部分はスンニー派のイスラム教徒である。
アフガニスタンで史上初の政治運動を生み出したのは大学だった。1965年に創設された共産主義政党であるアフガニスタン人民民主党の創設メンバーである、ヌール・ムハンマド・タラキ、バフラク・カルマル、ハフィズラ・アミンの3人もそうである。そして、ラバニ、ヘクマティアル、サヤフ、マスードは、全員がカブール大学で学んでいる。
 1978年4月、ダウド大統領はアフガニスタンの共産主義勢力に打倒され、無残な最期を遂げた。4月のクーデターは悲劇の始まりだった。
ソ連にとって、アフガニスタンの共産主義勢力は、はじめから悪夢だった。1968年、人民民主党(PDPA)の党員はわずか1500人だったが、ソ連は彼らを無視できなかった。PDPAは理論を一掃し、権力の奪取と行使に専心した。さらに悪いことに、PDPAは、はじめから分裂状態にあり、パルチャム派とハルク派に分かれ、ときに血の闘争をくり広げていた。パルチャム派のリーダーはカルマル。パシュトン人で、陸軍の将軍の息子だ。ハルク派は、地方やパシュトン人部族から支援を集めた。リーダーは、タラキとアミン。
 狂信に支配されていたアフガニスタンの共産主義者たちは、いかに保守的で、誇り高い独立国であっても、銃を突きつけて無理やり言うことを聞かせれば近代化させることが出来ると確信していた。カンボジアのポルポト政権とよく似ている。しかし、カンボジアとは異なり、アフガニスタンの国民は、政府のそのような扱いを耐え忍ぶつもりはなかった。アフガニスタンの共産主義政権は、イスラム教の力と国民への影響力を過小評価するという致命的なミスを犯した。
 1979年3月、アフガニスタン政府からの軍事介入要請は、考えれば考えるほど、ソ連指導部にとっては望ましくないように思えた。しかし、完全に排除しようとする者はいなかった。そこで、最終的には結論として、軍需品といくつかの小部隊を送ることにした。
 1979年、アフガニスタン全土で、情勢が悪化し、共産主義政権に対する武力抵抗が拡大を続けるなか、主流派であるハルク派の内部抗争が激化していた。
 ソ連のKGBは、パルチャム派に巨額の資金を提供し、自分達の意見を反映させようとした。しかし、パルチャム派は、PDPAの党員1万5000人のうち、わずか1500人でしかなかった。それ以外は全てハルク派だった。ハルク派は陸軍の共産主義将校の大多数が所属する派閥であり、アミンは特別の努力を払って、この将校たちとの関係を築き上げていた。
 タラキ殺害で重要な役割を演じたのは大統領警護隊だった。アミンの指示によるタラキ殺害は、ソ連の意見決定プロセスにおいて決定的な転換点となった。とくにブレジネフは、そのニュースに衝撃を受けた。タラキを守ると約束していたからである。
 ソ連のカブール駐在の主席軍事顧問は、アミンを高く評価していた。アミンは、強固な意志をもち、非常に勤勉で、その組織化の手腕は並外れており、ソ連の友人を自称しているが、狡猾なウソつきで、血も涙もない弾圧者である。それでも、ソ連が手を組むとしたら、アミンしかないという結論だった。
 軍事介入に懐疑的なソ連の幹部たちは、わきに押しやられるか、無視された。アフガニスタンの首都に駐在するソ連幹部の大半は、この国で過ごしたことがほとんどないものばかりになっていた。アミンの支配下にあったのは国土のわずか20%にすぎず、しかも、その割合は徐々に縮小しつつあった。
 アフガニスタン人は、国内に外国人が駐留することを許容したことがない。ソ連軍部隊は否応なしに軍事活動に引きすりこまれるだろう。
 ソ連軍参謀長は、このようにブレジネフに進言したが、聞きいれられなかった。
 ソ連は、武力介入によって生じる不利をすべて予見していた。激しい内戦に巻き込まれ、多くの血が流され、巨額の費用がかかり、国際的に孤立することは分かっていた。
 1979年12月、アフガニスタンへの介入は最終決定が下されたとき、すでに介入は避けがたい状況になっていた。それは重大な政策ミスであったが、決して不合理な決断ではなかった。
 ソ連の軍事専門家は、アフガニスタンの安定化を図るためには、30~35個師団が必要だとみた。ソ連軍がカブールを制圧したとき、カルマル本人は、KGBの保護下にあった。
 カブール在住の多くのソ連民間人は、何が起きているかまったく知らなかった。アミン殺害作戦のなかで、民間人の犠牲者は一人も出さなかった。ソ連軍は航空兵力を使わなかったから。
 このころ、アメリカは、テヘランでアメリカ大使館員が人質にとられるという事件が起こった、ばかりだった。カーター大統領は、ソ連のアフガニスタン侵攻を公然と非難した。
 ソ連の武力介入の目的はPDPA内の残虐な抗争に終止符を打ち、共産政権による、恐ろしい逆効果を招いた極端な政策を根本的に変えさせることにあった。つまり、アフガニスタンを征服あるいは占領することが目的ではなかった。アフガニスタン政府が責任を引継げる状態になったらすぐにでも撤退するつもりだった。しかし、これは非現実的な願望にすぎなかった。アフガニスタンの問題は、政治的な手段で解決できないことを、ソ連は十分理解していた。ソ連は、その武力で体制を維持できないと思っていた。それでもソ連は、安定した政府、法と秩序などをアフガニスタン国民が最終的には歓迎してくれるだろうと期待していた。
 だが、やがてソ連は、アフガン人の大多数が己の道を行くことを望んでいて、神を認めぬ外国人や国内の異教徒どもに何か言われて気が変わることはないのだと悟った。ソ連は、この根本的な戦略問題に対処せず、また対処できなかった。
ソ連が目の当たりにした残虐な内戦は、侵攻のはるか以前に始まり、撤退後も7年間続き、1996年、タリバンの勝利でやっと終結した。
 ソ連軍は、いつかは国に帰る。そのことは、ソ連側もアフガニスタン側も分かっていた。
 ソ連政府の内外で失望が広がるにつれ、この残虐で犠牲の大きい、無意味な戦争を続けようという指導部の意思は後退していった。
 ソ連軍とソ連国家が受けた屈辱は大きく、将軍たちは愕然とした。それが、ソ連崩壊と新ロシア誕生の政治的動きのなかで重要な役割を演じた。
 ソ連軍のアフガニスタン侵攻を検証した画期的な本です。アフガニスタン政府の要請によってソ連軍は進駐したのだ、なんていう嘘が見事に暴露されています。また、ソ連軍とソ連の人々の受けた打撃の大きさもよく記述されていて、大変興味深く読み通しました。
(2012年1月刊。4,000円+税)

2013年4月18日

メドベージェフvsプーチン

著者  木村 汎 、 出版  藤原書店

現代ロシアの政治がどう動いているのかを知りたくて読みました。450頁もある大作ですが、とてもスッキリ明快な語り口なので、よく理解できました。
タンデムのハンドルを握っているのはプーチンであり、メドベージェフは子ども席に座らされている。この実情がよく分かります。
 プーチンが2012年5月に大統領に返り咲くまでに、ロシア政治の基本やその行方を左右する最高指導者をめぐる人事は、一人の人間によって決定された。与党の「統一ロシア」は次期大統領の候補者選びにまったく関与しなかった。同党は討論も票決も一切行うことなく、まるで盲印を捺すかのようにプーチンの決定を承認した。
 ロシアでは、法や制度などフォーマルな取極めが物事を決めているのではない。その代わりに、特定の人間がもっとも重要な決定を行う。別の言葉で言えば、地位(椅子)そのものよりも、そのポスト(椅子)に一体誰が座っているか、このことがロシアではより一層重要な意味をもつ。すなわち、一握りの少数指導者が強力な権力を握る。彼らは、非公式の場(密室)で、彼ら相互間の力関係にしたがい、いわば臨機応変のやり方で決定をくだす。彼ら指導者、とりわけ最高権力指導者がおこった決定は絶対で、「垂直権力」の原則にしたがい、下部へと伝達される。ロシアでは、法律よりも個人による統治がおこなわれている。
メドベージェフは、歴代指導者のなかにあって、けっしてナンバー1と呼べる指導者ではなかった。実質上はナンバー2でしかなかった。しかし、メドベージェフは、プーチン首相のたんなる操り人形に終始することをいさぎよしとしなかった。
メドベージェフはプーチンより13歳も若い、大統領になったとき42歳、辞職時に46歳だった。メドベージェフとは、熊を意味する。身長は162センチしかない。プーチンは168センチである。
 メドベージェフはユダヤ系とみられるが、そのことについて一切口をつぐんでいる。メドベージェフは、両親ともに教授という知識人の家庭に生まれた。プーチンは下層労働者階級の出身者。メドベージェフとプーチンは、ともにレニングラード国立大学法学部を卒業している。プーチンは正真正銘のシロビキ。KGBなど、治安関係の出身者。メドベージェフは、母校で民法を高ずる大学助手だった。
 プーチン首相は2010年10月、若返り効果を狙って顔面の整形手術を受けた。しかし、これは逆効果だった。ロシア人が嫌うアジア人(中国人)のように釣りあがった孤眼になったから。メドベージェフはインターネットが大好き。プーチンは、ケータイさえもっていないテレビ党。
プーチンがメドベージェフを選んだのは、自分と対蹠的なタイプの人間だから。
 メドベージェフは権力基盤、その他の点で脆弱な人物である。だからこそ、プーチンによって便利な中継ぎとして選抜された。メドベージェフの弱みこそ、彼の力になっている。
 プーチン自身がエリツィン前大統領の政策の多くを変更し、また反古にした人物である。だから、メドベージェフが大統領になって同じことをする危険を心配した。
プーチンは、ロシア首相と「統一ロシア」党首という二つの重要ポストを兼任することによってメドベージェフ大統領の行動様式を監視し、操作できる立場にたった。
メドベージェフには側近や部下がいない。メドベージェフは、周囲にいる優秀な同僚や仲間を内閣はもちろん大統領府内にすら登用しえなかった。その人事を主導したのがボスのプーチンだったから。プーチンの作成した人事案を丸呑みする以外の選択肢は与えられなかった。
 メドベージェフは4年間の大統領在任中、最後まで、マスメディアを掌握できなかった、プーチンがマスメディアを独占的に支配していた。テレビで報道されるときのプーチンとメドベージェフの座る位置は、プーチン大統領のときと同じだった。テレビ対話は、大統領との対話から首相との対話に名前を変えただけで、プーチンが4年間そのまま続けた。
 ロシア、グルジア「5日間戦争」はメドベージェフがプーチンと変わらぬ対外強硬論者であることを証明した。「リベラル」というイメージを完全に打ち砕いた。
ロシア・グルジア戦争は、CIS諸国にロシアに対する恐怖感をもたらし、異質感を増大させた。ロシアに逆らうと、深刻なマイナスをこうむる。しかし、だからといってロシアの言いなりになれば、別のマイナスを覚悟せねばならない。
ロシアのグルジア軍事侵攻によって驚かされた欧米諸企業は、ロシア市場へ投下していた資本を一斉に引き揚げた。そのことによってロシア経済がこうむったダメージは、予想外に大きかった。
ロシアはエネルギー資源大国である。石油、天然ガス、金、ダイヤモンド、鉄鉱石などの埋蔵量で世界第一位。
 ロシアは世界規模の経済危機に無関係どころか、そのもっとも深刻な犠牲者だった。なぜか。それはロシア経済がもっぱらエネルギー資源の輸出の大きく依存する事実上の「モノカルチャー経済」であることによる。ロシア経済の国際競争力は、上昇しないどころか復退した。航空機事故が多発し、ロシアはコンゴよりも「世界でもっとも危険な国」となっている。
年金生活者は、民主主義的指権利の保障よりも、社会の安定や秩序を望む。プーチン支持層の中核をなしている。
 プーチン主義は、政治や経済の運営を下からの国民のイニシアティブに委ねることなく、「権力の垂直支配」の名のもとに国家による上からの指導でおこなう。とりわけ、ロシアが豊富に所有するエネルギー資源を、軍需産業同様、重要な国の基幹産業とみなして、政府の厳格な監督、管理下におく。そして、その余剰利益(レント)を側近間で分配する。
 現ロシアでは汚職は歴然として存在している。いや、それどころか、ソビエト時代に比べてさらに増大する勢いである。
 プーチンは、KGB勤務によってつちかったフレキシブルな思考法のおかげで、数々の難局や危機を乗りこえてきた。
 大変わかりやすく、ロシアの現状を鋭く分析した本でした。
(2012年12月刊。6500円+税)

2013年4月 6日

深い疵(きず)

著者  ネレ・ノイハウス 、 出版  創元推理文庫

本の扉にあらすじが紹介されています。推理小説ですから、ネタバレは許されませんが、以下は扉にあるものですから許されるでしょう。
 ドイツ、2007年春、ホロコーストを生き残り、アメリカで大統領顧問をつとめた著名なユダヤ人の老人が射殺された。凶器は第二次大戦記の拳銃で、現場に「16145」という数字が残されていた。しかし、司法解剖の結果、遺体の入れずみから、被害者がナチスの武装親衛隊員だったという驚愕の事実が判明する。そして、第二、第三の殺人が発生、被害者らの隠された過去を探り、犯行に及んだのは何者なのか。
刑事オリヴァーとピアは幾多の難局に直面しつつも、凄然な連続殺人の真相を追い続ける。ドイツ本国で累計200万部を突破した警察小説シリーズ・開幕!
 ドイツには今もネオ・ナチがうごめいているようです。でも、日本だって同じようなものですよね。安倍首相なんて、戦前の日本への回帰を臆面もなく言いたてていますので、ドイツを批判する資格もありません。
 それにしても、ナチス親衛隊員が戦後、ユダヤ人になりすましていたなんて、信じられません。そして、残虐な殺人劇が続いていくのです。
 警察内部の人間模様も描かれていますが、やはり本筋はナチス・ドイツの残党が今なおドイツ国内でうごめいていることにあります。
 読ませるドイツの推理小説でした。
(2012年7月刊。1200円+税)

2013年4月 4日

ワルシャワ・ゲットー日記

著者  ハイム・A・カプラン 、 出版  風行社

ナチス・ドイツ軍が1939年9月、ポーランドに侵攻し、ワルシャワにゲットーをつくって大勢のユダヤ人を狭い地域に押し込めました。そのなかに生きていた教師がつけていた3年間(1942年8月)の日記が紹介された本です。
 著者は、強制収容所で亡くなっていますが、この日記は奇跡的に他人の手に渡って保存されたのでした。その後、ゲットー蜂起があり、またワルシャワ蜂起もあるわけですが狭いゲットーに押し込められ、ナチスから残虐な仕打ちを受けている日々の様子が刻明に紹介されています。
 全能の神よ、あなたは、ポーランド、ユダヤ民族の末裔を死滅させようとされているのですか?
 この問いに神は、どう答えたのでしょうか。私には、とうてい理解できません。
 純朴な老婆が毎日私に尋ねる。「どうして世界は黙しているのか。もうイスラエルに神はいないのか」
 ユダヤ人の逮捕が止むことなく続く。いつ自分の番が来るのか、誰にも分からない。そのため、誰の心の中も恐怖でいっぱいだ。
 逮捕されるのは、とりわけ知識人であるが、必ずしも有名人とは限らない。むしろ、誰であれ歓迎される。監獄の檻は、罪もなく捕まえられた若い弁護士や医師であふれている。
 ナチズムは、二つの顔をもっている。彼らは、誰かから利益を引き出すことが必要なときには、従順さを装い、偽善的に振る舞う。しかし、その一方で、人間性を踏みにじる強靱な残忍さを持ち、もっとも基本的な人間的感情に対して無情に徹することができる。
 従服者どもがポーランドのユダヤ人の本性と強靱さを見誤ったのは幸運だった。彼らのこの間違いが、我々を今日まで生き延びさせてきた。我々は論理的に考えれば、すでに死に絶え、自然の法則によれば完全に絶滅しているはずだった。
 我々の間から自殺者がほとんどでないというのは、とりわけ注目に値する。誰が何と言おうと、恐ろしい惨禍の中で生き続けようとする、この生への意志は、何かは分からないが、ある隠された力の発露であろう。これは、驚くべき無情の力であり、我々ユダヤ民族のなかでも、もっともよく組織された共同体だけに恵みを与えられたものである。
 我々は裸のまま取り残された。しかし、この秘密の力がある限り、我々は希望を捨てない。この強靱な力は、ポーランドのユダヤ人に固有のものであり、生きることを命じる永遠の伝統に根ざしている。
50万人もの大集団が狭い地域に押し込められ、詰め込まれた。
 かつての平和な時代には、ポテトは貧乏人の食べ物だった。今はどうか。地下室にポテトを貯め込んでいる者は、誰もがうらやむ幸福者なのである。ゲットーには、この食べ物のほかになにもない。
ゲットーの境界を越えて密輸は日に日に増加する。これは、ユダヤ人とアーリア人の双方にとって、何千人もの人々の職業になった。そして、両者は協力関係を結び、アーリア人地区からユダヤ人のゲットーへと食料を密輸する。ナチスでさえも、これに関与することがある。総統の兵士は、主人の言葉には従わず、金銭を懐に収めて、見て見ぬふりをする。
密輸は、壁にできたあらゆる穴や裂け目を使って行われる。あるいは境界線上の建物の地下にトンネルを掘って・・・。アーリア人専用の市街電車に乗務する車掌は、密輸品がいっぱい詰めこまれた袋を車両の中に隠しもって稼ぐ。
 ユダヤ人の子弟は、ナチの目を盗みながら学んでいる。奥まった部屋にテーブルを置き、子どもたちはその周りに座って学んでいる。
我々は生き延びられるだろうか。あらゆる者の心を占めているのは、このことである。そして、信仰深き者の答えは、決まって「神のみぞ知る」である。このような時代には、信じることに優る救済の道はない。
奇妙なことに、病弱な者は健康を回復し、頑健な者は病気に倒れ、死んでいく。とりわけ天が味方するのは女性である。連れ合いがなくなった後も彼女らは生き延びる。
 この日記は、私の命であり、友人、盟友である。この日記がなければ、私は死んだも同然だ。私は、その中にもっとも心の奥底にある思いと感情を注ぎ込み、日記は私に慰めを与えてくれる。この日記を書き続けることで、精神的安らぎが得られる。
 ゲットーの中には、遊興の施設があり、毎晩、入りきれないほどの賑わいである。
 豪華なカフェに入り込んだ者は、驚きのあまり息を呑むことだろう。ぜいたくな衣服に身を包み、音楽を楽しみ、パイやコーヒーを味わう大勢の者がいる。奥の部屋ではオーケストラが音楽を奏で、さらに奥まった部屋では、トランプの遊技場がある。ゲットーには少なからぬ劇場があり、連日満員の盛況である。陳腐な寄席演芸が演じられている。
 ゲットーでは、餓死は日常茶飯事である。生と死を分かつのは、髪の毛一本ほどの違いでしかない。
ユダヤ人教師の思索の深さを如実に示している本です。同時にゲットー生活の様々な状況も伝えてくれます。オーケストラとか満員の劇場とか、ゲットーのなかにそんなものがあったなど、驚かされますね。
(2007年6月刊。2300円+税)

2013年3月 1日

ワルシャワ蜂起

著者  梅本 浩志・松本 照男 、 出版  社会評論社

1944年8月、ポーランドの首都ワルシャワでナチス・ドイツ軍に対して決起したポーランド蜂起軍の63日間の死闘を紹介した本です。
 本の巻頭に当時の写真もたくさんあって、激戦をしのぶことができます。
 有名なショパンもポーランド国民なのですね。1931年にロシアのツァーリ・ニコライ皇帝に対してワルシャワが蜂起したのに同感の思いで「革命」を作曲しています。ショパンは同じく「軍隊」とか「英雄」も作曲しているそうです。
 1944年のワルシャワ蜂起において、地元レジスタンスが放送したのはショパンの「革命」だったのも当然のこと、
 ヒトラーは次のように言った。ひどいものです。信じられません。
 「ポーランド人は、とくに下級な労働者として生まれついている。ポーランドの生活水準は低く保つことが必要で、引き上げさせてはならない。ポーランド人は怠け者で、働かせるには強制を必要とする」
 「ポーランド知識階級の代表者たちは、ことごとく絶滅しなければならない」
 「ポーランドは植民地として扱う。ポーランド人は大ドイツ国の奴隷とする」
 モスクワ放送はワルシャワ市民に蜂起を呼びかけていた。ソ連軍は1日15キロの猛スピードでワルシャワに迫っていた。ポーランド国内軍の指導者たちはモスクワ放送を信じていなかったが、一般のパルチザン兵士や市民は、蜂起して1週間以内にはソ連軍が助けてくれるものと信じ込んでしまっていた。
 強力な火力をもつ敵(ナチス・ドイツ軍)との戦いで勝敗を決するのは、十分な士気だけでは足りない。武器・弾薬が必要。しかし、それが極度に不足していた。蜂起したとき国内軍(AK)が保有していた武器・弾薬は、3500人の兵士が3日も戦えば払底するほどのものだった。あとは、火焔ビンを頼りに戦わざるをえなかった。
 7月21日、ヒトラー暗殺未遂事件(ワルキューレ)を知ったAK総司令官・参謀長・参謀次長の3人はトップ会議を開き、原則としてワルシャワ市内で武装蜂起することを決定した。
ワルシャワ蜂起は、地下水道の戦いでもあった。地下水道を利用しての本格的都市ゲリラ戦である。ワルシャワ市の下水道管理担当職員が先導した。だから、犠牲者が128人にものぼった。
ワルシャワ市内では蜂起前から、亡命政権の行政活動が展開していた。少年・少女による郵便配達が始まり、スープ配給所や映画館も活動した。短波放送も始まった。
 実は、このワルシャワ蜂起軍に日本もいくらか関わっている。ポーランド人孤児救済の一環で日本にやってきたポーランド人孤児たちがいた。1回目は1920年7月20日、375人。2回目は1922年8月に390人。彼らが22年後、ワルシャワ蜂起の中核的存在になった。イエジを隊長とするイエジキ部隊(孤児部隊)である。最大1万5000人、ワルシャワ地区だけで3000人を正規戦闘員として登録していた。そして、このイエジキ部隊を日本大使館が守っていたというのです。ドイツと同盟関係にあった日本がポーランド・レジスタンスを守っていたなんて、信じられません。
 ワルシャワ蜂起に参加した人たちの個人的な思いで話も収録されていて、その状況が生々しく、よく伝わってくる本でもありました。
(1991年8月刊。4000円+税)

 自宅に戻ったら、仏検の協会から大型封筒が届いていました。娘が近寄ってきて、「フェリシタション」(おめでとう)と言ってくれました。そうなんです。先日うけた仏検(準一級)の合格証書が送られてきたのでした。口頭試問は基準点21点に対して得点33点でした。美容整形に賛成か反対かというテーマでしたので、3分間スピーチは初めてちゃんとやれました。準一級の合格は、これで、4回目です。
 毎朝、NHKラジオ講座を聞き、CDで書き取りをしています。いまはフランス映画の監督や女優さんなどのインタビューですから、とても楽しいですよ。有名なトリュフォー監督の声も聞けました。
 フランス語をずっと続けているおかげで、世の中が少し広がったと実感しています。これからもボケ防止で続けるつもりです。

2013年2月20日

ヒトラーの国民国家

著者  ゲッツ・アリー 、 出版  岩波書店

経済的側面からみた、ヒトラーとドイツ国民の「共犯関係」の歴史、というサブタイトルがついています。
 この本を読むと、ヒトラー・ドイツが多くの国民の支持を集めていた理由がよく分かります。ユダヤ人の財産を奪って国家の収入とし、それを一般国民に還元していたのです。そして、対外侵略戦争によって獲得した資産もドイツ兵士が故郷の自宅へ送り、多くのドイツ国民がそれを受けとり、楽しみにしていたというのです。
 1933年にナチスが政権を掌握したとき、ヨーゼフ・ゲッペルスは35歳、ラインハルト・ハイドリヒは28歳、アルベルト・シュペーアは27歳、アードルフ・アイヒマンは26歳、ヨーゼフ・メンゲレは21歳、ハインリヒ・ヒムラーとハンス・フランクは同い年の32歳だった。ヘルマン・ゲーリンクが40歳だ。
戦争の最中、ゲッペルスは、指導的面々の平均年齢はナチ党の中堅層で34歳、国家中枢で44歳。ドイツは、今日まさに、若い人々によって指導されていると言えると断言した。
 多くの若いドイツ人にとって、国民社会主義・ナチズムとは、独裁、言論封殺・抑圧を意味したのではなく、解放と冒険を意味していた。若い人々は、ナチズムを青年運動の延長とみなし、肉体的・精神的な反エイジング(老化対抗)を進めるものとみていた。
 1935年、ナチス党のなかで指導的な役割をしていた20代、30代は、石橋を叩いても渡らないような慎重な人間を軽蔑しながら、自らを近代的・反個人主義的な行動型人間とみなしていた。「偉大な明日は我々のもの」と信じていた。
 ヒトラーは、以前から侵犯を「たいした問題ではない」としていた。たちまち、あらゆる犯罪を受け入れさせてしまう原則、すなわち、「勝ってしまえば誰もそれを問題にしない」という原則を、ヒトラーは腹心の部下から次第に国民へと拡大浸透させていった。
 ナチ指導部は、国民のあいだでの自動車の普及にはじめて手をつけた。そして、それまでなじみのなかった「休暇」概念を導入して休日を倍に増やし、さらに大衆観光旅行熱の発展の先鞭をつけた。
 ユダヤ人などを除く、人種的に一体と定義された大集団に数えられたドイツ人の95%の人々にとって、国内をみる限り差別は減少していった。
 ナチス・ドイツの宣伝において、戦争は攻撃を続ける「世界ユダヤ人」に対する「アーリア人の抵抗」として一貫して示された。「世界ユダヤ人」とは、まず第一にユダヤ人、第二にユダヤ人の縁戚者たる金権政治家、第三にユダヤ・ボルシエヴイキという、三重の姿形をとって世界支配を追求している。
 1933年、失業者600万人という状況に直面したヒトラーがドイツ国民に約束したのは、一にも二にも「職」であり、とにかく働ける場の確保ということであった。
 ドイツの税収は1933年から1935年に25%、金額にして20億マルク増加した。それと並行して失業対策支出が18億マルクも減少した。このとき、軍備景気でもうけた会社を対象とする税率が20%から40%に引き上げられた。
 ナチス・ドイツ国家の崩壊瀬戸際の国家財政状態を、ユダヤ人の財産没収、強制移送、大量虐殺が支えた。ユダヤ人財産の正式な国有化は1938年からであった。
 ドイツの国庫は、お金を必要としていた。政府はいかなる犠牲を払ってでも、国家の破産を国民に見透かされないように躍起になった。少しでも立ち止まったら、たちまち問題は顕わになったに違いない。
 ドイツの大銀行の幹部たちは、強盗の主犯として働いていたわけではない。しかし、もっとも効果的な没収手続を保障する契約者、不可欠のオルガナイザーとして機能し、さらには隠匿犯にもなった。
 ドイツ軍将兵は、ヨーロッパ占領地から、何百万という小包を故郷に送った。荷受人は女性である。北アフリカ産の靴、フランス産のビロードと絹製品、ギリシア産のリキュール、コーヒー、タバコ、ロシア産の蜂蜜とベーコン、ノルウェー産の大量のにしん、ルーマニア・ハンガリーそしてイタリアからの豊かな贈り物がドイツ国内に送られてきた。ドイツの食生活の高水準で維持するため、ユダヤ人の大量殺戮が促進していった。国家の収入となった家財道具とは、絶滅収容所へ強制移送されたユダヤ人のものだった。
 ナチ政権は、最初はいかがわしく、やがて犯罪的になっていく手口の財政政策を展開することによって内政への支持を獲得した。1935年、ヒトラーは国家予算を公にするのを禁止した。
 恐るべき真実だと思いました。しかし、この真実から目をそらすわけにはいきません。
(2012年6月刊。8000円+税)

2013年2月18日

カエサル(下)

著者  エイドリアン・ゴールズワーシー 、 出版  白水社

下巻では、いよいよ『ガリア戦記』のクライマックスであるウェルキンゲトリクスとの戦いに入ります。そして、ガリアを平定したあと、カエサルはローマに勝利者として凱旋したかと思うと、敵対する有力者ばかりだったのでした。そんななかで、「ブルータス、おまえもか」というシーンに至るわけです。でも、この本では、そんなセリフではなかったといいます。
 お正月休み、朝早く起きて昼過ぎまで一心不乱に読みふけり、380頁もの大作を4時間かけて読了しました。
 カエサルはイギリス(ブリテン島)に2度も渡っています。当時のローマ人にとって、ブリテン島は、後のジパングと同じように魅きつけられる島だったようです。
 ブリテン島は天然資源が豊富、しかも素晴らしい真珠の産地だ。さらに魅力的だったのは、ブリテン島は海の向こう、人間が住む地上を取り囲んでいると信じられていた広大な海洋の端にあったから。
まだ、地球が丸くなく、平板な土地からなっていると考えられていたわけですね。
 結局、カエサルはブリテン島を征服することはできませんでした。ローマ軍団がブリテン島を征服したのは、それから100年後のこと。しかし、ブリテン島への遠征によってカエサルは、ローマの人々から非常に好意的な注目を浴び、興奮を引き起こした。
 ガリアに戻ったカエサルを待っていたのは、大規模な反乱。アルウェニ族の若き貴族、ウェルキンゲトリクスがその中心にいた。ウェルキンゲトリクスはローマ軍との大規模な会戦を避け、ローマ軍を尾行し、小規模な部隊を奇襲していった。ローマ軍の補給路を断とうとした。
 ウェルキンゲトリクスの焦土作戦はローマ軍を痛めつけた。カエサルの『ガリア戦記』は、ガリア人の勇気を、ローマ軍の規模のとれた勇敢さよりは劣るものとしたが、決して否定はしなかった。
 ウェルキンゲトリクスの軍勢は、これを打ち破れば、全軍を降伏に追いつめるような、単一の本拠地も統一された軍勢すらも有していなかった。ウェルキンゲトリクスは、そのカリスマ性にもかかわらず、依然として数多くの荒い独立した諸部族を率いていた。
 カエサルとその軍隊に、正面から挑むのではなく、嫌がらせを続けること、これより多くの族長と部隊を説得してウェルキンゲトリクスの大義に賛同させなければならなかった。
 ウェルキンゲトリクスは状況判断を誤り、カエサルは退却しつつあるとみて、結局、アレシアに立てこもることにした。そして、カエサルは途方もなく巨大な包囲施設の建設作業に着手した。この包囲陣の外から救援部隊が入りこもうとしたが、いずれもローマ軍に敗退させられた。
 ついにウェルキンゲトリクスは族長たちを招集した。降伏を提案し、自分をローマ軍に引き渡すようにと言った。カエサルは降伏の申し入れを受けて、武装解除と指導者の引き渡しを要求した。
 ウェルキンゲトリクスはもっとも美しい鎧を身につけ、最上の軍馬に乗って町を後にした。壇上で公職者の椅子に腰掛けているカエサルに近づくと、アルウェルニ族の長は馬に乗ったまま対戦相手の周囲を一巡りし、馬から下りて武器を地面に置き、跪いて連行されるのを待った。
 ウェルキンゲトリクスはローマまで捕虜として連行され、儀式的に絞殺された。それ以外の数多くの捕虜は奴隷として売られ、その収益は軍内部で配分された。
 このようにしてガリアはカエサルに栄光と富をもたらした。しかし、ローマに戻ったときに、カエサルは謀反人だった。ローマの有力な元老院議員たちの中核をなす人々はカエサルを嫌っていた。ローマの元老院議員は誰もが、栄光や影響力の点で、他人が自分を上回るのを見たいとは思っていなかった。
 ルビコン川が属州とイタリアとの国境線を画していた。このルビコン川というのは小さな川で、今では当時どこを流れていたのか分からなくなっている。
 カエサルは、ついにルビコン川を渡った。
 「賽は投げられた」
 ひとりの男(カエサル)が自分の威厳を守ろうと決意し、多のものたち(元老院議員たち)は、それを破壊しようと決意した。カエサル指揮下の10個軍団は、全員がガリアでの軍事行動で鍛えられた古強者であった。そして、カエサル軍の忠誠心の高さは、内戦を通じて誠に驚くべきものだった。
 たちまちカエサルはイタリア全土を軍事的に支配した。逃げたポンペイウス軍を追って打ち負かし、カエサルはエジプトに上陸した。そこで、プトレマイオス朝エジプトの女王クレオパトラと出会った。
 やがてカエサルはローマに勝利者として帰還し、10年間の独裁官として君臨することになった。象牙で作られたカエサルの立像は神々の像の間に置かれた。多くの元老院議員たちがカエサルの例外的な権力に我慢しようと考えたのは新たな内戦の危機と脅威とが続いていた限りで、それが取り除かれるや否や、彼らは正常な状態への回帰と自分たちの階層の優越性を熱心に求めるようになった。
 結局のところ、カエサルの立場は軍事力によって獲得された。カエサルは同胞市民に、とりわけ貴族層のエリートに自分の支配を受け入れるほうが、それに歯向かうよりもましだと納得させなければならなかった。
 カエサルは65歳になった。カエサルは事実上の君主であった。しかし、その権力は表面的には元老院と国民によって与えられていた。カエサルは、その死後は神とされたが、生前の神格化されることはなかった。
最終的には、60名の元老院議員がカエサル暗殺の陰謀に加担した。そして、この陰謀は、カエサルの長年にわたる支援者たちの多くが参加していた。しかし、中心的な指導者となった2人は、どちらもかつてのポンペイウス派だった。カエサルのもっとも親密な協力者たちでさえ、ほとんどが、共和制がいまや事実上ひとりの人物によって支配されているという事実を嫌悪していた。
 ブルートゥスが最終的に行動に踏み切ったのは自由な共和制があまりにも大きな権力を有する一人の人物を内包することは不適切だと考えたからだ。
 暗殺者たちは、カエサルを排除することによって自由を回復することができると信じていた。おそらく全員が、自分たちは共和制全体にとって有益なことを行っていると考えていた。カエサルの死によって、国家の通常の諸制度は再び適切に機能し始めるはずであり、ローマは元老院と自由な選挙によって選ばれた公職者によって指導されるはずだった。暗殺の現場でカエサルを助けようとした元老議員はわずか二人だけ。カエサルは、ブルートゥスを見ると、戦うのをやめて最後に一言、「おまえもか、わが子よ」と言った。シェークスピアの「おまえもか、ブルータス」というのではない。
 カエサル暗殺から3年内に暗殺者たち全員が打ち負かされ落命した。そして元老院議員階層と騎士階層は、粛清されてしまった。そしてオクタヴィアヌスが弱冠32歳にしてローマ世界の並ぶものない支配者、皇帝となった。
 カエサルは暴力的で危険な時代に生きていた。紀元前1世紀のローマの世界はおよそ安定しているとは言えなかった。暴力は日常的ではなかったが、常にその危険性はあり、板子一枚下は地獄だった。
 カエサルのことをしっかり学べる本でした。
(2012年9月刊。4400円+税)

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