弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

ヨーロッパ

2014年5月30日

ジューコフ


著者  ジェフリー・ロバーツ 、 出版  白水社

 ノモンハンの戦いでソ連軍の指導者として登場したジューコフ将軍の一生を明らかにした本です。日本の関東軍がみじめに敗退していったノモンハンの戦いで、ジューコフは情け容赦ない戦争指導者としてムチをふるったと思っていましたが、それなりの戦争理論家であったようです。
 ジューコフ将軍は、ノモンハンの戦いに勝利した後、対ナチス・ドイツ戦でスターリンに抜擢されて活躍し、ついにベルリン攻略戦の勝利者たる栄誉を勝ちとったのです。
 ところが、そのあまりの勝利のため、スターリンが疎ましく思って失脚させられてしまいます。
 そして、スターリンの死後に復活し、フルシチョフの失脚によって、再び脚光を浴びるのでした。いずれにしても、スターリン時代に生きのびた将軍として、ジューコフは有名です。
 スターリンが嫌ったのは、ジューコフの自立心と、信念を率直に語るところだった。この資質が戦争中にはスターリンを大いに救った。しかし、戦争が終わり、スターリンが助言を必要としなくなると、目障りな存在となった。ジューコフもスターリンも虚栄心が強かった。スターリンは、自分の副官が人気を集めるのがねたましかった。
 1953年3月にスターリンが死んだとき、独裁者の国葬でジューコフは、葬儀委員の筆頭格として遺体を付き添った。フルシチョフは、ジューコフを国防相に任命した。
 そしてフルシチョフは、自分を脅かす政治家として認識し、国防相から解任した。フルシチョフの失脚(1964年10月)のあと、ジューコフは再び脚光を浴びるようになった。
 ジューコフには規律ただしい学習の習慣があった。家にいるときのジューコフは、本の虫だった。死んだとき、別荘には2万冊の蔵書があった。ジェーコフの家庭生活の中心は読書だった。
 ジューコフは、1920年5月、晴れて共産党員になった。ジューコフは、忠実な共産主義者として、熱狂的とはいえないまでもスターリン個人を崇拝していた。ジューコフは26歳にして連隊長となり、西側の軍隊では中佐に相当地する地位についた。
 ジューコフは、自分にも部下にも厳しかった。それは、功名心につかれた男の生きざまでもあった。
 スターリンによる赤軍粛清の嵐が吹き荒れた1937年から38年にかけては、ジューコフも不安にさいなまれ、いつも逮捕にそなえてカバンを用意していた。
 1935年5月、ジューコフはモンゴルに派遣された。ノモンハン事件の渦中に、ソ連赤軍の戦闘態勢の調査だった。そして、ついには指揮をまかされた。
 ジューコフは、ソ連軍の総攻撃を準備しつつ、それを欺瞞し、隠蔽する工作に成功した。ノモンハンの戦いで勝利したジューコフはスターリンに呼び戻され、対ナチス・ドイツ戦に従事した。
 1940年1月、スターリンは、ジューコフを参謀総長に指名した。
 1941年夏のソ連赤軍は大敗北を重ね、スターリンは、ジューコフを参謀総長から解任した。
 1942年8月、スターリングラードの戦いで、ジューコフは最高総司令官代理に就任した。
 スターリンは、断固かつ非情で不動の信念をもつ男を求めていた。ジューコフは、スターリングラードを救う切り札だった。
 ジューコフの名誉を不朽としたのは、1945年4月のベルリン攻略戦だった。ベルリン攻略戦で、ソ連赤軍は30万人の人的損失を出した。うち死者は8万人にのぼる。
 1944年12月、ヒトラーのナチス・ドイツ軍はバルジの戦いに成功した。ドイツの敗北が目に見えていたのに、ドイツ軍が戦い続けたのは、ソ連軍の報復が怖かったからだ。戦い続けて時間をかせげば、ソ連赤軍より先に西側の連合国軍がベルリンに到達するのではないかと期待していた。
 戦争を通じてドイツ軍は600万人のソ連兵を捕虜にした。その半数は飢えや病気、虐待のために死んだ。報復するなとソ連兵に言うほうが無理だった。しかし、ドイツ女性のレイプに限って言えば、タガの外れた暴虐は報復の範囲をこえていた。ソ連兵にレイプされたドイツ女性は数万人から数百万人と推定されている。その中間くらいだろう。
このとき、ジューコフは、「人殺しの故郷に苦しみを与えよ。目の前のすべてに容赦のない報復をするのだ」と指示した。
 ジューコフ将軍とソ連赤軍について、実際を知ることができました。
(2013年12月刊。3600円+税)

2014年5月17日

英国二重スパイ・システム


著者  ベン・マッキンタイアー 、 出版  中央公論新社

 1944年6月のノルマンディー上陸作戦は、それを成功させるために大がかりな欺瞞作戦が展開されたのでした。
 まず、英米連合軍が上陸するのはノルマンディーではなくて、パドカレー地方だとドイツ側に思い込ませました。そして、ノルマンディー上陸は、あくまで本命のパドカレー上陸作戦を隠すための陽動作戦だと思わせたのです。というのも、パドカレー地方には精鋭のナチス軍隊がいたので、それがノルマンディーの方に移動してこないように足止めしておく必要があったのでした。
 パドカレー上陸作戦が準備されるとヒトラーに思わせるには、実在しない軍隊が集結しているように思わせる必要があります。無線をたくさん流し、張り子戦車や飛行機を置き、さらには指揮するパットン将軍までパドカレー上陸作戦に備えているように見せかけたのでした。総勢350人で10万人の軍隊がいるように見せかけたというのですから、たいしたものです。
 対するナチスの方では、スパイ作戦の元締めは、実は反ヒトラー勢力の拠点だったというのです。ですから、英米連合軍を実態以上に質量ともに強力だとヒトラーに報告していました。ある意味では、ヒトラー欺瞞作戦の片棒をかついでいたと言えそうです。そして、反ヒトラーの行動がバレて処刑されたり、左遷されたりしてしまったのでした。
 イギリスの諜報部の中枢にはソ連のスパイが何人もいて、スターリンに筒抜けになってしまいました。有名なキム・フィルビーなどのインテリたち(ケンブリッジ・ファイブ)です。ところが、スターリンは全部を知りつつ、果たしてスパイによる情報を信用して良いのか疑っていたというのです。これらの事実を、この本はあらゆる角度から解明していきます。
 イギリス軍参謀総長はノルマンディー上陸作戦が重大な失敗に終わるかもしれないと危惧していた。日記に次のように書いた。
 「戦争全体で、もっともひどい惨事になるかもしれない」
 スパイの送る情報がどこまで信用できるものなのか・・・。たとえば、ナチスのスパイがイギリスに潜入して送っていた情報は、実はポルトガルにいてあたかもイギリスへの潜入に成功したかのような嘘の情報に過ぎなかった。リスボンの図書館に行き、またニュース映画などで見たものをもっともらしくしたものだった。
 ドイツ軍の一大情報機関であるアプヴェーアは、国防軍最高司令部の指示によらず動いていた。その高級将校の多くがヒトラー政権に積極的に反対していた。
 ドイツはイギリスにスパイを多数送り込んだが、大半は無能で、職務を忠実に遂行する気がなく、その多くがドイツを裏切って二重スパイとして活動した。
二重スパイは非常に気まぐれで、問題を起こすこともあるが、使い方によっては利用価値が高い。気まぐれな性格の人間は、恐ろしいことに寝返ろうとする傾向を示す。
 ノルマンディー上陸作戦に関心のある人に一読をおすすめします。
(2013年10月刊。2700円+税)

2014年5月14日

戦火のシンフォニー


著者  ひの まどか 、 出版  新潮社

 ナチス・ドイツによってソ連の主要都市であるレニングラードは陥落寸前までいきましたが、なんとかもちこたえたものの、900日間も封鎖されてしまったのでした。食糧が尽きてしまい、何十万人もの市民が餓死しました。ところが、なんと、その最中にオーケストラを復活させ、演奏していたというのです。しかも、ショスタコヴィッチの交響曲第7番を「初演」したのでした。
 ええーっ、という、信じられない実話を関係者に丹念に取材して再現した本です。
 大阪の尊敬する大先輩である石川元也弁護士のすすめで本を読みました。石川先生、ありがとうございました。引き続きご活躍ください。
 ソ連では、スターリンの圧制下で理不尽な粛清の嵐が吹き荒れた。ショコスタコヴィッチも、若手作曲家の頂点に輝く星だったのが、その作品がスターリンの不興を買い、一転して奈落の底に突き落とされた。そのとき、救いの手を差しのべてくれたのが、トハチェフスキー元師だった。ところが、その元師が、なんとスターリンによって銃殺されてしまったのです。再びショスタコヴィッチは危機に陥ります。ところが、やがて交響曲第5番が成功して、辛じて名誉を回復しました。
 レニングラードの最高指導者はジダーノフ(当時45歳)。ジダーノフは、スターリンの最側近の3人のうちの1人。残る二人、(マレンコフとベリカ)から、絶えず足を引っぱられていた。
 ナチス・ドイツによってレニングラードは直接の攻撃にさらされるようになった。ところが、ドイツ軍による大空襲があっても、ミュージカル・コメディ劇場は公演を続け、観客で満員だった。これって、信じられませんよね・・・。
 レニングラードでは、ナチス・ドイツ軍の包囲下にあっても、普通の生活を続けていたし、それを外の世界に伝達しようとした。
 ヒトラーは、一気にレニングラードを陥落させるつもりだった。ところが、包囲が長引くなかで気が変わり、モスクワ攻防戦へ戦力を引き抜いていった。これによって、レニングラードは陥落するのを免れた。
 ミュージカル・コメディ劇場は連日公演を開くだけでなく、日曜日には2回公演さえ行った。
 音楽家たちも食糧不足のため、腹が減って、力が入らなかった。それでも、楽器をもったら、力が戻ってきた。音楽は、最高の食糧だ。
 栄養失調は怖いが、それ以上に怖いのは精神失調だ。
芸術家はパンだけでなく精神力で支えられている。精神力が弱ると意気も落ちて、死んでしまう。
 コンサートはイギリス向けだけではなく、レニングラードを包囲する塹壕に潜っているドイツ軍にも開かせた。
 1942年3月、ジェダーノフは自ら電話をかけて「何か音楽をやらんか!」と指示した。
 そこで、音楽家が呼び集められ、一定の食事が与えられた。死の寸前にあった音楽家たちが再びよみがえった。このとき、オーケストラの団員50人のうち、ほぼ半数がまだ生きのびていた。特別食堂では、朝10時と昼2時に「強化食」が出た。ふだんなら、口に入らないものが提供された。
 今一番大切なことは、飢えのことを忘れる。夢中で働くこと。精神力と信念が今こそ必要である。芸術家を動かすのは精神力。食事をして体力をつけ、精神力を高めることが何より大切。
 観客となった市民は、少なくとも舞台を見ているあいだだけは飢えのことを忘れられている。劇場に行くのは、飢饉と死んだ人のことを考えないため。
コンサートの指揮者は、糊のきいた真っ白なシャツに燕尾服を着て登場した。その姿に、観客は、どよめいた。
 「こんなとき、どうやって、あの服を用意できたの!」
 「万事、順調ってわけ?」
 1942年8月9日、レニングラードでショコスタコヴィッチの交響曲第7番が初演された。
 レニングラードは、依然としてナチス・ドイツ軍に包囲され、危機的状況のさなかにあった。
 ソ連赤軍の捕虜となったドイツ兵は異口同音に語った。
 「我々は、塹壕のなかで、いつもレニングラードの放送を聞いていたが、いちばん驚き、戸惑ったのは、このとてつもない状況のなかで、クラシック音楽のコンサートがやられているということ。いったい、ロシア人はどれだけ強いのか、そんな敵をやっつけることなんて、とうてい出来ない。恐ろしかった」
 そうですよね、よく分かる気がします。
 この本の最後に交響曲7番を演奏した音楽家の顔写真が紹介されています。男性が大半ですが、女性も何人かいます。みなさん、餓死寸前までいきながら、なんとか演奏を成功させた人々です。
 とても感動的な、心温まる本でした。石川先生ご夫妻、ご紹介ありがとうございました。
(2014年3月刊。1800円+税)

2014年4月27日

つるにのってフランスへ


著者  美帆 シボ 、 出版  本の泉社

 フランス人男性と結婚した日本人女性による、元気のでる話が満載の本です。
 著者は、反核・平和運動に取り組んでいることでも有名です。フランスの国防大臣をつとめた人が、今では反核運動に参加して、声をあげているそうです。その人は、アメリカのスターウォーズ計画は実現性がないと批判していました。すると、フランスの兵器産業界の大物が次のように言って批判した。
 「大もうけできる良い機会なのに、反対するなんて、とんでもない」
 そうなんです。兵器(軍需)産業にとって、世界の平和は望ましくないのです。危機をあおり、戦争を仕掛けることで、肥え太っていく死の商人が世界中に、もちろん日本にもいるのです。たとえば、それは三菱工業であり、コマツであり、IHIなのです・・・。
 フランスでは核兵器は生命保険なのかどうか、論争があった。
 「核抑止は生命保険である。だから、保険の節約はできない」
 「核兵器は死亡保険だ。本当に生命保険なら、なぜ他の国に核保有を禁じるのか。核兵器をもつことで国を敵から守れるのなら、なぜ高額な対ミサイル防衛が必要なのか。これは、核抑止が成り立たないことを証明している」
 本当にそうですよね.核抑止論なんて、インチキそのものです。
フランスは出生率が高い。それは、子育てがしやすいように国が手厚くしているから。
 フランスでは、出産はタダ。教育費も、大学まで公立、国立はタダ。授業料はなく、奨学金は返済する必要がない。 三人以上の子どもを産んだ母親には優遇策がある。
育児支援が充実しており、母親でも安心して働ける環境がある。
 フランスは農業国です。また、食を大切にしている国です。
大学生のときから、今なおフランス語を勉強していますので、フランス大好き人間として、一度は著者に会ってみたいものだと思いました。
(2014年2月刊。1600円+税)

2014年4月19日

40年パリに生きる


著者  小沢 君江 、 出版  綜風出版社

 私がフランス語を勉強するようになった40年以上になります。正確には大学1年生のとき、第二外国語として選択したのでした。
 初めてフランスに行ったのは今から30年ほども前のことになりますが、そのころはフランス語の単語に聞きとれるものがある程度でした。ですから先輩弁護士がフランス語でフランスの弁護士と話しているのがうらやましいというより、アナザーワールドの住人という感じがしていました。今でも話すのはうまくありませんが、耳のほうは、さすがに文章レベルでかなり分かるようになりました。それでも、哲学的表現の多いフランス語の文章は理解に苦しんでいます。
 この本はパリで発行されている日本語の無料誌「オヴニー」の創刊者の苦労話が語られているものです。もちろん日本人です。フランスの男性と結婚して、単身パリに渡ったのでした。
 「オヴニー」の前身「いりふね、でふね」が発刊したのは1974年5月のこと。A4サイズ8頁。今では6万部発行され、うち2万部は日本人に搬入されている。無料誌なので、広告料が発行を支えている。長年の下支えがある。
 全共闘とか、新左翼そして日本赤軍、ひいてはテロリストとの関連を疑われて、警察の探索、差押を受けた。
 「オヴニー」創刊号が出たのは1979年4月のこと。1981年にエスパス・ジャポンを開館した。「日本空間」ということで、日本の文化を披露する場である。
フランスに滞在する日本人3万人の3分の1は官庁・企業関係者とその家族。あと3分の1は留学生・研究者。残る3分の1は永住者(12%)、芸術家など(9%)、その他(7%)からなる。
著者も70歳を迎え、フランスに日本人が住むことの意味をしみじみ考察しています。
 フランス語には、日本語のあうん呼吸、以心伝心の感覚はない。すべてが目には目を式に言葉対言葉の対話文化であり、男女関係でも最後は言葉が支配する。
 日仏カップルの大半は、離婚か離別に終わっている。
 一般にフランス人は言葉を操り、楽しむ習性をもっている。
 言葉の裏や抑揚にニュアンスを込められている日本語。ピンポンのように言葉と言葉でやりとりするフランス語。
 うーん、そう言われても・・・。まあ、ともかくボケ防止に、毎朝、NHKのラジオ講座を聴き、CDでフランス語の書き取りをしましょう。きっと、何かいいことがあるでしょう。
(2013年12月刊。2000円+税)

2014年2月20日

夜の記憶


著者  澤田 愛子 、 出版  創元社

 私は残念なことにアウシュビッツに行ったことがありません。一度はナチス・ドイツの狂気の現場にたって実感したいと思っているのですが、その機会がありませんでした。
 この本は、日本人の女性教授がホロコースト生還者に体当たり取材した証言録を集めたものです。
 サイバー12人が、決して忘れてはならないとして、自分の体験を語っていますので、重味があります。ホロコーストとは、ユダヤ人の大虐殺を示す言葉です。イスラエルではホロコーストよりも、ヘブライ語で絶滅を意味するショアーが使われているそうです。私はみていませんが、記録映画『ショアー』がありました。
 ホロコースト・サバイバーとは、ホロコーストで生き残ったユダヤ人を指し示す言葉。収容所を生き残った人、ゲットーを生き延びた者、森林でパルチザン活動をしながら隠れていた者、あるいは民家に匿われたり、納屋など場所を転々と移動して逃げていた者、あるいはキリスト教徒になりすましながら生活して難を逃れた者、さらには地下組織に加わって反ナチ抵抗運動をして生き延びた者など、実に多様な人々がサバイバーにふくまれる。
有名なアンネ・フランクと幼稚園も小学校も一緒だったという人もサバイバーとして取材に応じています。
 アンネの最後の声は、本当に崩れきってしまった声だった。
 死の医師として有名なメンゲレの選別から逃れた体験談が次のように語られています。
 メンゲレがやってきたとき、心の中で絶対死なないぞと念じながらメンゲレをぐっと睨み返した。するとメンゲレは私と目が合ったにもかかわらず、私を選ぶことなく通り過ぎていった。
 メンゲレはいろんな基準で選別した。たとえば、やせすぎている人、傷のある人は、たいていガス室送りになった。そして、びくびくしている人もときどき選ばれた。
 収容所の中で生き延びるために大切だったことの一つに、シャワーを浴びるというのがあった。身の清潔を守るために、どんなに寒くてもシャワーを浴びるということはとても大切なことだった。
 収容所では伝染病や皮膚病に冒され得た者はまっ先にメンゲレに選別され、ガス室に送られた。収容所では皮膚病が流行っていた。その皮膚病に効く薬を手に入れるために、マーガリンやパンを交換に出した。二日間、何も食べなくても薬を手に入れるのを優先させた。
 収容所のなかで歌姫として有名になって生き延びた女性もいました。
みんなで歌っていたときに感じたのは、自分は親を奪われたけど、歌だけは奪われなかったという思いだった。そのとき、歌をうたったことによって、自分はまだ人間として生きているんだという気持ち、そして希望を持とうという意思が湧いてきた。そのときから、歌が私の希望になった。私は歌うまで、みんなの眼差しは死んだ人のようだった。でも、私が歌いはじめるとその眼がどんどん輝きを増していく。それをみて、私は歌がどれほど人々に希望を与えるのか、つくづく感じた。ゲットー、そして収容所と、私はずっと歌い続けた。
 本当に、決して忘れてはいけない歴史だと思いました。
(2005年5月刊。3200円+税)
 朝、さわやかなウグイスの鳴き声を聞きました。いよいよ春到来です。初めのうちは下手な歌ですが、そのうち、長く、ホーホケキョと澄んだ声を聞かせてくれます。
 まだまだ寒い日が続きますが、チューリップのつぼみが庭のあちこちに頭をのぞかせています。
 春到来で困るのは、花粉症です。、目が痛痒くて、鼻が詰まり、ティッシュを手離せません。夜、寝ているときに口をあけているので、ノドがやられてしまいます。

2014年2月19日

「イエルサレムのマイヒマン」


著者  ハンナ・アーレント 、 出版  みすず書房

 映画『ハンナ・アーレント』をみました。冒頭のマイヒマンが拉致され、トラックに連れ込まれるシーンは史実に即しています。
 アイヒマン逮捕には、有名なヴィーゼンタールは関わっていないようです。『ナチス戦争犯罪人を追え』(ガイ・ウォルターズ。白水社)はアインヒマンがイスラエルのモサド(秘密諜報機関)に拉致されるまでの苦労話を明らかにしています。
 アインヒマンは1960年5月11日、アルゼンチンで捕まり、1961年4月からイスラエルで裁判が始まり、1961年12月15日に終わった。そして1962年5月31日に絞首刑が執行され、6月1日には死体が焼かれて、その灰は地中海にまかれた。
 先の本では、ハンナ・アーレントとは違った評価がなされています。アインヒマンは優秀なオルガナイザーであり、決して凡庸ではなかった。アインヒマンは自慢屋だった。アインヒマンのナチズムは苛烈なものだった。
 モサドの人間も、アルゼンチンから連れ去るのを大変心配していたようで、やはり鉄の男たちも人間だったんだと思います。
 また、アインヒマンがイスラエルに連行されてからイスラエル警察による尋問調書が本になっています(『アインヒマンの調書』、岩波書店、2009年3月)。その本によると、アインヒマンは凡人と関わらない人物だった。
 アインヒマンは他人が苦しむのを見て快楽を覚えるサディストではなかった。
 アインヒマンは、ほとんど事務所のなかで自らの仕事に専念し、結果として数百万人の人間を死に追いやった。一官僚として、アインヒマンは死に追いやられる人間の苦痛に対し、何の感情も想像力も有してはいなかった。
 ハンナ・アーレントによる、この本は、初めアメリカの雑誌『ザ・ニューヨーカー』に5回連載され、大反響を呼びました。それは映画をみた人はお分かりのとおり、強い否定的な反応だったのです。
 まだ出版されないうちから、この本は論争の焦点となり、組織的な抗議運動の対象となった。
 著者のハンナ・アーレント自身もユダヤ人であることを表明しています。そして、ユダヤ人組織から強く批判され、抗議が集中したのでした。なぜか・・・。
 ナチスのユダヤ人絶滅作戦にユダヤ人指導者が協力したことを明らかにし、それを問題にしたからです。
 もし、ユダヤ民族が組織されず、指導者を持っていなかったとしたら、その犠牲者が600万人にのぼるようなことは、まずなかっただろう。ユダヤ人評議会の指示に服さなかったなら、およそ半数のユダヤ人が助かっただろう。
 ただし、アンナ・ハーレントは、ユダヤ人指導者のナチスへの協力の事実をあげることで、アインヒマンを許したり、その罪責を緩和させているわけではありません。
検事のあらゆる努力にかかわらず、アインヒマンが「怪物」でないことは誰の目にも明らかだった。検事も判事も、アインヒマンは執行権力をもつ地位に昇進してから、まったく性格を変えたとする点では一致していた。アインヒマンが大量虐殺の政策を実行し、積極的に支持したという事実は変わらない。政治とは子どもの遊び場ではない。政治においては、服従と指示は同じものなのだ。
 アインヒマンは、自分の昇進にはおそろしく熱心だったということのほかに何の動機もなかった。アインヒマンは、自分のしていることがどういうことなのか、全然わかっていなかった。まさに、想像力が欠如していた。
 自分の頭で考えることの大切さを強く印象づける映画でした。
(2013年12月刊。3800円+税)

2014年2月 1日

三秒間の死角


著者  アンデシュ・ルースルンド 、 出版  角川文庫

 スウェーデンのミステリー小説です。
 刑事マルティン・ベッグシリーズは読んだことがあります。『笑う警官』など、スウェーデン社会を背景とした警察小説はとても読みごたえがありました。
 解説には、これは警察小説であって、警察小説ではない、と書かれています。難しい表現ですが、この本を読むと、なんとなくうなずけるものがあります。
 共作者は、自らも犯罪をおかして服役した経験があるというのです。ですから、刑務所のなかの描写は真に迫っています。
ストーリーを小説にするわけには生きませんので、スウェーデンの刑務所を描写したところを紹介してみます。日本とは違った問題点があることが分かります。
 東欧マフィアの事情分野は三つ。銃の取引、売春、クスリ。スウェーデンには刑務所が56ある。それをマフィアが掌握する。おおぜいのヤクザものに借金を負わせて、意のままに操る。
 刑務所のなかには、クスリや酒に支配されている。クスリや酒の持ち主が、すべてを意のままに動かしている。刑務所のなかに大量のクスリを持ち込み、まずは値段を落とし、先行している連中を蹴落とす。そして、取引を独占してしまえば、値段を一気につり上げる。クスリが欲しいのなら、その値段で買え、いやなら注射を辞めればいいと客に言い渡す。
どの刑務所でも、毎日、毎時間、目覚めている時間のすべてが、クスリを中心に回っている。定期的な尿検査をかいくぐってクスリを持ち込み、使うこと。それがすべてだ。面会に来る家族に、尿を、検査しても陰性を示す尿を持ち込ませることもある。持ち込んだ尿が高値で売買されることもある。そして、尿検査で妊娠しているという反応が出てしまったことさえある。
 靴下を買うお金にも困っている連中にクスリを売りつける。彼らは借金を抱え、塀の外に出てもなお、借金を返すために働くしかない。彼らこそ、資本であり、犯罪のための労働力である。
ポーランド国内では、500もの犯罪組織が日々、国内資本をめぐって争いを繰り広げている。国をまたいで暗躍する、さらに大きな犯罪組織の数も、85に及ぶ。
警察が武装して戦闘に入ることも珍しくはない。毎年5000億クローナ以上に相当する価値の合成麻薬が製造されている現実を前にして、国民はひたすら首をすくめている。
 毎朝、看守のあける開錠からの20分間、午前7時から7時20分までの20分間に、すべてがかかっている。この20分間を生きのびることができれば、その一日は安泰だ。鍵が開き、「おはよう」の声がかかってからの20分間は生と死の分かれ目だ。計画的な襲撃は、必ず、看守たちが警備室に引っ込んでコーヒーを入れ、休憩しているあいだに行われる。区画に職員の姿がなくなる20分間。刑務所内で近年おきた殺人事件は、まさにこの20分の時間帯に起きていることが多い。
 規則でがんじがらめの日本の刑務所では、あまり収容者同士の殺人事件を起きているという話は聞きません。そこが、北欧と日本の大きな遠いように思われます。
 スウェーデンの刑務所と警察組織の一端に触れた気になる文庫本でした(上・下の2冊)。
(2013年10月刊。840円+税×2冊)

2014年1月 2日

HHhH

著者  ローラン・ビネ 、 出版  東京創元社

チェコのプラハでナチスの最高級指導者の一人が暗殺された事件を扱った小説です。
 暗殺されたハイドリヒの生い立ちが語られています。
 ハイドリヒは、ナチスのエリート部隊である親衛隊(SS)の指導者になります。
 ハイドリヒは、陸軍中将に相当する親衛隊の集団的指導者に任命されたとき、まだ30歳だった。ハイドリヒが創設した組織のうち、もっとも悪魔的な「特別行動隊」は、特攻隊やゲシュタポのメンバーからなる親衛隊の特別部隊で、「敵性分子」を始末する任務をになう。共産主義者は言うに及ばず、あらゆる改草の有力者、反体制分子・・・。そして、すべてのユダヤ人。
 そして、このハイドリヒを暗殺するため、ロンドンから二人のパラシュート部隊員が送り込まれた。そして、それを支援する人々。さらに、仲間を裏切る人間もいた。
 この暗殺作戦に賛同しないレジスタンス指導者もいた。成功しても、その報酬が恐ろしいことになるからだ。
ハイドリヒの乗る車が市内にやって来た。暗殺犯が銃を撃つ。しかし、不発だ。別の男が爆弾を車に投げつけ、爆発する。しかし、ハイドリヒはケガをしただけ。
 やがて病院に運び込まれ、見かけ以上に傷は深刻だということが判明する。そして、容態が急激に悪化して、死に至った。
 その報復としてヒトラーは、リディツェ村を地国から消し去ることを命令し、大虐殺が始まった。
 しかし、このリディツェの虐殺によって、ヒトラーはもっとも得意とする分野で、惨憺たる敗北を喫した。国際レベルの宣伝戦争において、とり返しのつかない失敗を犯した。1942年6月のこと。
 緊張感あふれる小説です。少し、変わった構成で話は進行していきます。
(2013年8月刊。2600円+税)

2013年12月30日

ガガーリン

著者  ジェイミー・ドーラン、ピアーズ・ビゾニー 、 出版  河出書房新社

1961年3月12日、ソ連の宇宙飛行士ガガーリン少佐は初めて地球の大気圏を離れ、無事に地球に帰還しました。
 私は小学生だったでしょうか・・・。ともかく、ガガーリン少佐の名前は、はっきり記憶しています。なにしろ、アメリカより早かったのです。ケネディ大統領はソ連に先をこされた悔しさで、この日は眠れなかったとのことです。
この本は、ガガーリンの生い立ち、そして宇宙飛行に成功し、その後、34歳の若さで飛行機事故で亡くなるまでを明らかにしています。とても読みごたえのある本でした。
 ガガーリンは、戦前の1934年3月生まれ。ドイツ軍のバルバロッサ作戦でソ連が攻めこまれたとき、ガガーリンの住む村もドイツ軍に占領されたのでした。スターリンの致命的な誤りによる悲劇です。
 農民の子、ガガーリンは、戦争が終わったあと、技術学校に入り、飛行訓練学校に入った。そして、秘密のうちに面接試験を受け、1960年1月に設立された宇宙飛行士訓練センターに入ったのです。
 大変な試練のときでした。たとえば、隔離部屋に入れられて監視者のほか会話ができず、本も雑誌もない生活を過ごすのです。目的を告げられずに、そんな生活を10日もしたら、頭が変になってしまうでしょう。
 この実験(テスト)の目的は、宇宙船での退屈で寂しい生活にどれだけ耐えられるかというのを見るものでした。ええーっ・・・、ひどい実験(テスト)ですね。
 宇宙船は、常に地球上空の同じ場所を飛ぶわけではない。だから、地球に帰還したとき、カプセルが船に落ちたり、外国領内に落下する恐れが十分にある。
このころの宇宙飛行士は、脱出シートのサイズの都合上、身長の低いほうが有利だった。
 宇宙服を明るい色にしたのは、雪原に降りたったときにも、見つけられやすいようにしたため。
ケネディ大統領は、ソ連が宇宙飛行士を打ち上げるのを知らないふりをしていたが、実はよく知っていた。しかし、宇宙への打ち上げが成功したあとのアメリカ政府スポークスマンは、次のように叫んだ。
 「いま、みんな寝てるんだよ。まったく、いったいなんだ!」
 ケネディ大統領は、宇宙分野を重視していなかったが、世界の反応をみて、考え直した。
 この3日後、ケネディは、キューバのピッグス湾への侵攻作戦の失敗も聞かされた。
 ソ連の宇宙ロケットの誕生いきさつとガガーリン少佐の個人的体験記の双方がミックスされて、大変読みやすくなっていると思いました。
(2013年7月刊。2400円+税)

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