弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
ヨーロッパ
2014年9月 2日
ナチ・ドイツの精神構造
著者 宮田 光雄 、 出版 岩波書店
安倍内閣の副首相が日本の政治もナチスに習ってやればいいと放言して顰蹙を買いましたが、この本を読んで、ナチス・ドイツを反面教師とすることが今求められていると痛感しました。
ナチ党は1932年秋の選挙で最初の衰退の徴候をみせ、6月の国会選挙と比較すれば得票率を14.6%も減少させた。党財政は逼迫し、組織の弱体化に直面していた。
ヒトラーが政治取引においてあくまでも固執して譲らなかったのは、独裁的条項の非常大権を行使しうる大統領内閣首相としての地位だった。
1933年1月30日、いわゆる「合法的」路線の上に政権にたどり着いたヒトラーとナチズムにとって、この時点から、ようやく本来の意味での「権力獲得」が始まった。「合法性」戦術を、本来の「反革命」戦略と結合し、政治的・社会的・思想的な対抗勢力を短期間に出し抜き一掃する、独自の権力掌握の技術が編み出されなければならない。ここに、敵をも同盟者をも欺瞞する第二の合い言葉が「国民革命」の観念が登場した。
新たに成立したヒトラー政権は1933年3月の授権法による権力的基礎の確立まで、最初の数週間、「国民革命」「国民的高揚」のスローガンのもとに行動した。ヒトラーは、ナチ政権の首相としてではなく、「国民革命」の連立政権首相として演技してみせた。
ポツダムの日(1933年3月21日)、元帥服をまとった老大統領ヒンデンブルクの前に、ヒトラーは無帽のまま頭を下げ、「旧き偉大さと若き力の婚姻」を宣言した。
ヒトラーは首相就任宣誓後、数時間もしないうちに国会の即時解散を断行した。ヒトラーの計画は、掌中に握った国家戦力の全手段を投入して総選挙を実施することにあった。
2月初頭、新聞・言論の自由を厳しく制限し、2月末の国会炎上事件をきっかけとして憲法の規定する基本権を停止させた。
「国民と国家の防衛のための緊急命令」は、ナチ政権の政治的敵対者に対するテロと迫害の合法的手段を提供した。
3月5日の国会選挙は、政府の弾圧と干渉のもとに左翼政党は必要な広報手段を奪われ、世論は閉塞させられた。他方、ナチ党は、組織的な宣伝戦を展開し、ラジオをはじめとするマス・メディアをほとんど無制限に動員した。それでも、投票の結果、ナチ党は得票率44%で、単独支配できず、他党と同盟せざるをえなかった。左翼も30%以上の支持を得た。
この選挙の得票率は88%にのぼり、1932年秋の国会選挙(得票率80%)に参加しなかった350万人が得票動員された。550万もの新しいヒトラー支持票の半分が従来の棄権者から成り立っていた。
「授権法」は、首相ヒトラーの当初からの目標だった。1933年3月23日、「国民と国家の艱難を除去する法律」が圧倒的多数の賛成(449票対94票)で可決された。この「授権法」によって、ヒトラー政権は、今後4年間にわたって議会の協働なしに、しかも、「憲法と異なった」立法をもなしうる権限を与えられた。
「授権法」の結果、大統領の非常大権は不要となり、大統領の指示に依拠する非ナチ系閣僚の比重は低下した。
「授権法」は、1943年5月の総統布告によって延長され、「第三帝国」全期間を通じて妥当し、事実上、「国会炎上緊急命令」とともに「ナチ憲法」を構成した。
7月の「新政党組織禁止法」、そして12月の「党と国家との一体性の確保に関する法律」によって、ナチ党による一党制国家が布告された。
無制限の権力掌握の過程は、イタリア・ファシズムでは7年を必要としたのに対して、ドイツでは、わずか10ヵ月をもって完了した。
1934年9月のナチ党大会において、ヒトラーは、改めて変革的過程としての「ナチ革命」の終結を宣言した。
1938年以降、政府そのものが指導的機能を失い、閣議が召集されることはなかった。
全将兵から閣僚をふくむ全官僚が、憲法への宣誓の代わりに、「ドイツ国および国民」の指導者ヒトラーに対して忠誠誓約を行うようになった。
1933年から1938年まで、国民投票が5回も実施されたが、それは確実な成功を予見したうえでなされたものであった。
国民投票って、必ずしも民主的意思の発言とか、民主的統制の手段ではなく、独裁者の行為を正当化するものとして多用されるというわけです。恐ろしいことです・・・。
反ユダヤ主義は、現実の支配体制に由来する一切の政治的害悪と大衆的不満を無力な少数者に転嫁し、社会的緊張を解放することに役立った。大衆暗示のもつ魔術的効果こそ、ナチ政治宣伝の最大の関心事であり、一切の思考や個性を殺し巨大な大衆集会や大衆行進は、明らかに人間を画一化する魔術的儀式にほかならない。
収容所を秘密のヴェールにつつみ、テロの噂を断片的に流布させるナチズムの手口がいっそう戦慄すべき未知なるものへの一般的不安を亢進させた。
現実の敵が一掃されたあと、いまや「潜在的」敵に対する追跡が開始され、テロは社会全体に向けられた大衆テロに発展する。いたるところにテロの雰囲気が広がり、全体的不安が全生活を支配した。
テロは、批判的知性を無力感と孤立感に陥れる。それは、集団全体の匿名性のなかへ自己を埋没させようとする避難性向を強めずにはいない。
445頁もの、ずっしりと重い本格的なナチ・ドイツの研究書です。いま、多くの人に一読をおすすめしたい本です。
(1991年4月刊。5631円+税)
2014年8月28日
新・ローマ帝国衰亡史
著者 南川高志 、 出版 岩波新書
ローマ帝国とは何か、改めて認識することが出来ました。
ローマの征服軍が要塞の周辺には、軍に関係する民間人の定住地ができた。これをカナバエという。カナバエは発展して村落となり、軍が移動したあとの要塞敷地も含みこんで拡大した。
境界地帯での移動を前提としていた正規軍団は、次第に一定の基地を得て長く駐屯するようになる。そして、軍を退役した兵士は故郷に戻らず、在勤中に非公式にもうけていた妻子とともに基地の近くに定着し、カナバエから発展した町で暮らし、その有力者となる者も出てきた。
軍隊は新しく「ローマ人」を生み出すうえで大きな役割を果たした。「ローマ人」とは、ローマ市民権をもつ「ローマ市民」のことであり、故地ローマ市と結びついていた。国家が拡大してからは、新市民はローマ市の郊外地区に登録され、政治的な意味はなくなる。それでも、「ローマ人」であるためには、ローマ市民権の取得が前提だった。
皇帝政府は、ローマ市民権をもたないため正規軍団に入れない部族の男性を補助軍として組織した。補助軍といってもローマ人指揮官の下、正規軍団とともにローマ軍の一翼を担ったから、指揮命令系統と訓練は、ローマ式になされる。そして無事に兵役をつとめあげるとローマ市民権が与えられ、その子はローマ市民として正規軍団に入隊して、ローマ社会の階悌を上がっていくことができた。
こうやって、ローマ帝国は辺境において、兵員を確保するだけでなく、ローマ帝国に対する忠誠心を期待できる人材を養成していた。
ローマ社会は、人々やその集団を出自によって固定させてしまうカースト的な社会ではなく、流動性があった。そのため、奴隷に生まれても、主人の遺言などによって奴隷の境遇から解放されて解放奴隷となり、その子孫は都市の有力者となって都市参事会員として活躍し、さらには実力と幸運に恵まれて騎士身分に状況し、元老院議員にまでのぼりつめる可能性があったし、実際にもそうした上昇例は多かった。
属州に生まれてローマ市民でなかった者も、外部世界から属州に入って市民権を得た者も、実力と幸運に恵まれたら、社会の最上層にまで到達できたのだ。
ローマ帝国は、国家として硬直した存在ではなかった。担い手である「ローマ人」は法の民であり、法にもとづく国家の制度をもち、奴隷制と身分制を備えた社会に生きていた。ローマ人とは、きわめて柔軟な存在であって、排他的な生活を有していなかった。
ローマ帝国が「幻想の共同体」でなかった第一の要素は、軍隊の存在である。
次に、「ローマ人」としての生き方である。ラテン語を話し、ローマ人の衣装を身につけ、ローマの神々を崇拝し、イタリア風の生活様式を実践すること。
広大なローマ帝国を統治するうえで中央行政を担当していたのは、わずか300人ほどの「官僚」だった。
ローマ異国を実質化する第三の要素は、外部世界の有力者たちの共犯関係にあった。
今日では、ローマ人対ゲルマン人という二項対立の図式は適切ではないと考えられている。
「ゲルマン人」と呼ばれる集団は、今日、固定的で完成された集団とは考えられていない。非常に流動性の高い集団で、そのときどきの政治的な利害によって離合集散を繰り返し、その構成員や集団のアイデンティティが形づくられていったと理解されている。
古代ローマ帝国が柔構造をもつ社会だったことを初めて知りました。
(2014年5月刊。760円+税)
2014年8月12日
台頭するドイツ左翼
著者 星乃 治彦 、 出版 かもがわ出版
日本の左翼は、少なくとも国会の議席数をみる限り、元気がありません。それでも、国会外の動きでは、それなりに復調傾向にあると思われます。国会の外の世論の動向が国会の議席数に反映するためには、今の小選挙区制を撤廃するしかありません。完全比例代表制にしたらいいと私は思います...。
ドイツでは左翼が、このところ健闘しているようです。この本はその実情と克服すべき問題点を分かりやすく伝えています。2009年の選挙で、ドイツの左翼は515万票、76議席を獲得した。2013年の連邦議会では、若干の後退をしたが、連邦議会内の第三党になった。いくつかの州では、連立政権の一翼を担っている。ドイツ左翼党は、旧東ドイツ地域で25%の得票率を占め、全体としても12%の票を集めた。
ドイツ左翼党は、ドイツにおける五党体制を定着化させている。
ひところは消滅するとまで思われていた東ドイツの政権党が、なぜ生き残ったのか、そして今、躍進しているのか・・・?
1990年~1991年の湾岸戦争のとき、ドイツ左翼党の前身であるPDS(民主的社会主義党)は、緑の党さえ戦争支持に転じるなかで、平和主義の立場から発言する唯一の野党としての顔をもった。
PDSは、1994年の選挙で、政策的に一致できる人を選挙リストに組み入れていくという、オープン・リストで対応し、「左翼ブロック」を模索した。
ドイツ左翼党の党員は7万人前後で推移してきた。東西の比率は、かつて7対3だったが、今では2対1にまで是正された。左翼党は、今や、ドイツ全体における社会的弱者の党へ変貌している。
ドイツ左翼党では、中央集権的構造力がなく、下部組織の自律性が非常に強い。「上」からの指導がないだけに市民の意見をとり入れやすい。
そして、左翼党の指導部は確固として統一性をもっていない。左翼党内には、さまざまな左翼的潮流をかかえこんでいる。現在の左翼党は、自分たちの活動の源泉をレーニンに求めていない。レーニン的前衛党論はとっていないのだ。
近くて遠い、ドイツの政治をのぞいてみた気がしました。
(2014年1月刊。2600円+税)
2014年7月17日
憎むものでもなく、許すものでもなく
著者 ボリス・シリュルニク 、 出版 吉田書店
1944年1月1日、フランスのボルドー地方でユダヤ人の一斉検挙がありました。著者は、このとき6歳でした。
「ユダヤ人の子どもたちには消えてもらう。さもないと、やつらはいずれヒトラーの敵になる」
要するに、大人になったら悪いことをするので、死刑宣告されたのだ。
その晩、第二の私が生まれた。私を殺すための拳銃、夜のサングラス、小銃を肩から下げたドイツ。いずれ、私は犯罪者になるのだという宣告を背景に。
6歳のころの著者の可愛らしく、そして、いかにも聡明な男の子だという写真があります。
両親の死は、私にとって事件ではなかった。父と母は、私の前から急にいなくなったのだ。両親の死に対する感情は残らなかったのに、突然、目の前からいなくなったという事実だけは、心にしっかりと刻印された。
人生は馬鹿げている。でも、だからこそ面白い。平和な暮らしの中で安穏としていれば、試練、危機、トラウマもなく日々の繰り返しだけで、記憶には何も残らないのだろう。自分は何ものなのかを、そう簡単には見いだせない。試練がなければ物語は生まれず、自分自身の役割も見い出せないのではないか。私は逆境をくぐり抜けたからこそ、自分が何者かを心得ることができた。人間の存在は馬鹿げているからこそ、面白いのだ。
トラウマの記憶があると、心が傷ついた子どもは、トラウマの記憶によって絶えず警戒心を抱く。虐待された子どもは冷淡な警戒心を示し、戦時下で育った子どもは、平和が訪れてもほんのちょっとの物音でも飛び上がるほど驚く。自分の記憶に残った恐怖のイメージに怯える人は、自分を取り巻く世界を遠ざける。彼らは、世間の出来事に無関心で、無感動であるように見える。
トラウマの記憶は、対人関係を悪化させる。苦しみを軽減させるために、心が傷ついた者は、自分がトトラウマを被った場所、トラウマを思い出す恐れのある状況、トラウマをひき起こす物を避ける。とくに精神的な痛手を呼び起こすような言葉を避ける傾向がある。
愛情に恵まれ、安心して育ち、他者と会話する能力のある者は、恐ろしい状況に直面した場合であっても、トラウマに悩まされることが少ない。そうは言っても、逆境を生き抜く際には、孤立し、言葉を奪われながら、毎日のように小さなトラウマに悩まされ、克服したはずの脆弱な心が戻ってくる。
発育段階で心がもろい者が、不幸が生じたときにトラウマ症候群に悩まされるのは、トラウマに悩まされる前に、孤独感にさいなまれ、言葉をうまく操ることができなかったから。
幼年期に母親が注いでくれた深い愛情のおかげで、他者との出会いが寛容になり、人間関係を構築しやすくなった私は、援助の手が差しのべられると、すかさず、これに反応するようになった。
戦争中、死と背中あわせだったので、感覚は麻痺していた。悲しみも苦しみも苦悩もなかった。それらは、むしろ死を目前にした非日常的な出来事だった。戦後になって、生きのびていた二人の親族と出会ったとき、私は生まれて初めて孤独と不幸を感じた。
私は一つの教訓を得た。過去を振り返ると、ろくでもないことが起こる。人は涙を流すと塩柱になり、人生はそこで停止するのだ。生きたいのなら、後ろを振り向かず、常に前を見つめよ。前進するのだ。過去を考えれば悲しくなるだけ。未来は希望にみちている。さあ、未来に向かって歩もう。
私の悲惨な子ども時代は、例外的な出来事だったのだ。平和な時代になってからは信じてもらえなかった。自分の物語を語ると、自分が異常な人物であるような気がした。聞き手の視線によって、誇らしい気持ちになったり、不名誉を感じた。包み隠さずしゃべったときには、気持ちが楽になることもあったが、ほとんどの場合、周りの反応は私を沈黙させた。
9歳にして、年寄りのような少年になっていた。私は、かなり前から、すでに子どもではなかった。
安心して暮らしていた子どもは、自分にみあった愛情を注いでくれる人物のもとへ向かう。そうした大人を見つけ、微笑みながらしゃべりかける。
愛情に恵まれなかった子どもは、相手の大人が微笑んでもいないのに、さらには相手が拒絶する場合でさえ、接近していく。大人を必要とするあまり、追い払われても、その人の近くから離れない。このとき、子どもは快適さを感じるが、自律性は失われ、自分に興味のない誰かと暮らすことを受け入れてしまう。自分を不幸にするような親や配偶者から離れられない子どもや若者がいるのは、こういうわけである。
そうした人間関係は、精神的な発育障害を生み出し、彼らを意気消沈させる。自律性を養わなければならない思春期に、自信がもてず、自分に注意を払わない、あるいはひどい扱いをする人々の元に留まろうとする。
フランスでのユダヤ人一斉検挙のときにフランス警察につかまり、強制収容所に送られる寸前に脱走して、逃亡できた6歳の少年が、戦後、孤児院を出て、ついにはパリ大学医学部を出て精神科医になったのです。ベストセラー作家でもあるそうですが、トラウマ分析はさすがです。本当に勉強になりました。
340頁もある本ですが、トラウマとは何かを知りたい人には強くおすすめの本です。
(2014年3月刊。2300円+税)
2014年7月 8日
帰ってきたヒトラー
著者 ティムール・ヴェルメシュ 、 出版 河出書房新社
第二次世界大戦末期、ベルリンの首相官邸(地下壕)でヒトラーは自殺し、遺体は地上で忠実な部下によってガソリンをかけて焼却された。哀れな末路です。ところが、本書ではヒトラーは死んでおらず、現代ドイツにガソリンくさい服を着たまま眠りから覚めて動き出すのです。
戦後60年以上たつわけですから、ヒトラーが復活してきても、周囲が受け入れるはずがない。と思いきや、意外や意外にヒトラーは現代社会にたちまち順応し、人々と会話し、パソコンも駆使してメディアの人気者になっていくのです。それほど復古調が現代社会に満遍なく普及し、充満していることを痛烈に皮肉っているわけです。
かつてのヒトラー演説を、さすがにユダヤ人排斥の部分はカットして、そのままメディアで流したとき、拒絶反応だけでなく、広い共感と支持が集まったというのです。
これが小説だと分かっていても、やはり、その素地があることを認めざるをえないのが怖いですね。それだけ所得の格差が拡大し、人々が強い、はっきりモノを言ってくれる指導者・リーダーを待望しているということなのでしょう。しかし、その結末は恐ろしいことになってしまうのです。多くの人々は毎日の生活にタダ追われているため、ひたすら流されていってしまいます。怖いことですよね。
上下2冊の大作です。ドイツでは130万部も売れたという大ベストセラーですが、本当によく出来た、怖いばかりの展開です。
外交をまかせていたフォン・リッペントロップは容貌だけとれば、どこにも非の打ちどころのない人物だ。しかし、実はどうしようもない俗物だった。結局、見かけがいいだけでは、だれの何の役にも立たない。
アベ首相が集団的自衛権の行使を認める閣議決定を強行し、日本が「戦争するフツーの国」に変貌しつつあるいま、東條英樹が再臨したら、ちょっとばかりの騒動は起きるのでしょう。クーデターを誘発したり、内戦状態になるようなことは絶対にあってはならないこと。知らず識らずのうちに外堀が埋められ、いつのまにか戦争に引きずりこまれて嘆くような事態だけはあっては許せません。
若者よ、反ヒトラー・反東條そして、いまのアベとの戦いに奮起せよ。と叫びたくなりました。
(2014年9月刊。1300円+税)
フランス語検定(1級)の結果が分かりました。もちろん不合格です。最低合格点が87点のところ、53点でした。あと35点もとらなくてはいけません。不可能とまでは言いたくありませんが、至難のレベルであるのは間違いありません。
ちなみに、自己採点では55点でした。仏作文や書きとり試験など、採点の難しいのもありますので、誤差の範囲だと思います。ショックなのは、昨年より10点も落ちていることです。
めげずに、これからも毎日フランス語の聞きとり、書きとりは続けます。語学は最大のボケ防止になります。
2014年7月 7日
ゾウと旅した戦争の冬
著者 マイケル・モーパーゴ 、 出版 徳間書店
ドレスデンに住んでいた少女がゾウとともに苛酷な戦火の日々を生き抜いたという話です。
わずか250頁という薄い児童文学書なのですが、出張の新幹線の車中で夢中になっているうちに途中で降りる駅を乗り過ごさないように注意したほどでした。
ドイツの敗色が濃くなると、ドイツの都市はどこもかしこも英米連合軍から激しい空襲にあうようになった。ところが、ドレスデンの町だけは、不思議なことに、まだ空襲にあっていない。
ドレスデンにある動物園で飼われていた動物、とりわけ猛獣たちは、空襲で逃げ出す前に射殺する方針がうち出された。そこで、ゾウの飼育係である主人公の母親は、親を亡くした4歳の仔ゾウを園長の許可を得て、自宅で飼うことにした。
そして、ついにドレスデンの大空襲が始まった。一家は、ゾウとともに都市を脱出し、森の中を歩いて叔父さんのいる田舎を目ざす。その叔父さんは、ヒトラーを信奉し、主人公の両親とはケンカ別れしていた。しかし、この際、そんなことなんかには、かまっておれない。ひたすら、ゾウとともに森の中を、夜のあいだだけ歩いていく。
ゾウと人間のあたたかい交流を描くシーンがいいですよ。声を出してゆっくり味わいたくなる描写が続きます。
ゾウって、本当に賢いのですね。人間の微妙に揺れ動く気持ちを察知して、しっかり受けとめてくれるのです。そして、人間は、そんなゾウの澄んだ目に励まされ、生きて歩み続けていきます。
途中で、ドイツ語を話せるカナダ人の兵士と一緒になります。空襲してきた飛行機に乗って唯一助かった兵士です。そのカナダ兵を助けたことによって、主人公一家は助けられもします。
最後まで、次の展開が待ち遠しく、どきどきしながら読みふけりました。幸い、降りる駅を乗り過ごすことはありませんでした。やれやれ・・・。
ちょっと疲れたな。なんか、心の休まる手頃な話はないかな・・・。そういう気分の人には、絶対におすすめの本です
(2014年12月刊。1500円+税)
2014年6月20日
トロイアの真実
著者 大村 幸弘 、 出版 山川出版社
シュリーマンがトロイアの遺跡を発掘したというのが定説になっています。
この本は、その定説はきわめて疑わしいことを、豊富な写真と自らの現地での調査(発掘)体験を通じて明らかにしています。私は、なるほどと思いました。
『イリアス』は、前8世紀に活躍したホメロスが連綿と語り伝えられてきた叙事詩をまとめあげたもの。トロイアの待ちが陥落するまでの50日間も描かれている。
19世紀に生きたシュリーマンが、トロイアの遺跡を発掘した話は有名です。
著者は、1972年にトルコのアンカラ大学に留学し、それから43年間もアナトリア高原で考古学の発掘調査と遺跡踏査をおこなってきた。
そして、アナトリアの発掘調査をおこなえばおこなうほど、シュリーマンが発掘したヒサルルック遺跡が本当にトロイアなのか、疑問に思えてきた。
遺跡の写真がありますから、現地に行ってなくても、それなりに理解できます。
考古学とは、自分で追いつめないとだめだ。それも、自分の手で。それができないのであれば、発掘現場なんかに立っている意味はない。
シュリーマンの掘り方は、素人そのものだった。シュリーマンがトロイアとしたヒサルルックについて、その決定的な証拠は何一つない。
シュリーマンは、発掘を間違ったため、トロイアを探し出すことが出来なかった。
シュリーマンは、発掘において、遺跡がどこで出土したか詳細に記述していなかった。
スケッチすることに重点を置いていた。シュリーマンは、層序(地層の重なり)については、まったく無知だった。
ヒサルルックとは、「城塞」という意味だ。
シュリーマンは200人の労働者を3ヵ月のあいだ雇用した。その労賃だけで4800万円かかる。その他の運送費用などを含めると6000万円は使っていた。
シュリーマンは、ヒサルルックをトロイアだとする仮説を最終的には証明できなかった。
外国での遺跡の発掘調査が、いかに難しいことかも伝わってくる本でした。
(2014年3月刊。2500円+税)
ドイツは過去とどう向きあってきたか
著者 熊谷 徹 、 出版 高文研
今の日本では、戦前の日本が海外へ侵略戦争を仕掛けたこと、数多くの残虐な行為をしたことを直視し、なるべきありのまま後世に伝えようとすると、それは「自虐史観」だ、日本人の誇りを持てなくなるから止めろという声がかまびすしく湧きあがってきます。なにしろ、政府が音頭をとって、有力マスコミを使うものですから、声高な潮流になるのも当然です。しかし、ドイツでは、少なくとも政府はそういう態度ではありません。
ブラント元首相は、若者に歴史を語り継ぐ意義を、次のように語った。
若者も歴史の大きな流れのなかに生きているのだから、過去に起きたことが気分を重くするようなものであっても、それを伝えることは重要だ。ドイツは戦前、周辺諸国に大きな被害をもたらした。したがって、今後のドイツ政策が国益だけでなく、道徳をも重視することをはっきり示す必要がある。自国の歴史について、批判的に取り組めば取り組むほど、周辺諸国との間に深い信頼関係を築くことができる。
本当にそうなんですよね。「自虐史観」だという人は、日本は悪いことなんかしていないと開き直るばかりです。そんな反省のない態度では、外国から信用されるはずがありません。
西ベルリンでもっともにぎやかな地区の広場には、「我々が決して忘れてはならない恐怖の場所」として、アウシュヴィッツ、トレブリンカ、マイダネクなどの強制収容所の名前を記した警告番が立てられている。
ドイツの小学生が学ぶ教科書には、ナチスがドイツを支配していた時代に関する記述が細かく、子どもには残酷すぎるのではないかと思われるほど、生々しい写真や証言が載せられている。
そして、高校の歴史の授業は、暗記ではなく、討論を中心としてすすめられる。
ドイツでは、ナチス式敬礼を行うことは禁じられ、アウシュヴィッツを否定すると法律違反になる。最高5年の禁錮刑に処せられる可能性がある。
このところ、ドイツでもヒトラーを信奉する極右が若者のなかに増えているという逆流現象もあるようですが、先ほど紹介した政府の取り組みは日本でも実践すべきものだと思います。そのためには、まずは安倍首相の引退を急ぐ必要があるのでしょうね・・・。
(2007年4月刊。1400円+税)
2014年6月12日
ショアーの歴史
著者 ジョルジュ・ベンスサン 、 出版 白水社
1939年から1945年までに、ヒトラー・ナチスは多くの共犯者の協力を得て600万人ものヨーロッパのユダヤ人を殺戮した。これをあらわす言葉としては、ショアーがふさわしい。
ショアーとは、災厄、破壊、悲嘆を意味するユダヤ教の祭儀用語である。ゲットーという呼び名は、1516年のイタリアはヴェネチアが最初である。
第一次世界大戦が終わったとき、ヨーロッパには900万人から1000万人のユダヤ人が暮らしていた。その中にはポーランドの300万人、ルーマニアの100万人がいた。ソ連にも300万人がいた。
1920年代から30年代にかけて、ヨーロッパ全域で、ユダヤ人排斥の勢いが高まっていた。
ドイツにおける反ユダヤ教主義の伝統は古く、厳しいものがあった。
1933年、ドイツの国会議事堂の火災を口実としてドイツ共産党は禁止となり、4000人の幹部が逮捕され、ダッハウの強制収容所に入れられた。
ドイツのユダヤ系公務員が解雇されるのは1933年4月から。ユダヤ人弁護士は所属する弁護士会から除名された。1934年末、弁護士の7割、公職人の6割が職務遂行不能に陥った。
1939年にはユダヤ人の運転免許証が取りあげられた。
1933年に50万人いたユダヤ系ドイツ人のうち、15万人が1938年までにドイツを出た。
1939年9月、ナチス・ドイツはポーランドを占領した。数ヶ月のあいだは、ユダヤ系住民はまだ一過性の嵐にすぎないと考えていた。
ワルシャワのゲットーには、1941年に47万人のユダヤ人が住んでいた。学校などの教育組織があり、舞台劇が演じられ、地下新聞が47紙も発行された。
ユダヤ人評議会は罠にはまった。自分たちの殺戮までも引き受けることになった。そして、評議会制度は、利権と腐敗の温床ともなった。
「T4作戦」は、1939年1月に占領下のポーランドで始まった。
ポーランドでも、ドイツ本国でも、精神痛者が大量に殺害された。
ヒトラーは、反対勢力の結集を危険とみて、処分目標を達していたこともあり、1941年8月、「T4作戦」の続行を断念した。
アメリカのユダヤ人指導者には、ユダヤ人殺戮の情報は伝えられていた。
1942年に犠牲者は100万人だとされていたとき、実際には300万人が殺されていた。アメリカ政府は、1944年春にはアウシュヴィッツの詳細な航空写真をもっていたのに、収容所への空爆を拒んだ。同じく、イギリスのほうも空爆することはなかった。
それぞれ、国内に反ユダヤ主義があったことと、何十万人という難民が入国するのを危惧したことによる。
ドイツの銀行はユダヤ系市民の口座を閉め、一般市民はユダヤ人の商店や会社、アパート、家財を買いたたいた。
ドイツのデグザ社は、被害者から奪った、死体の歯から搾取した金冠を溶かして純金のインゴットをつくり、ナチスはそれを国家資産とした。
ナチスの犯罪は、ごく少数の酷薄な変質者によるものではない。「勤め人の犯罪」、つまり普通の人間、民間あるいは軍人、ナチス党員などによる犯罪である。
元ナチの大多数は、身元を隠そうともしなかった。戦後のドイツやオーストリアにおいて、隠健な勤め人や企業主として豊かな暮らしを取り戻していた。
法律家で元ナチスの高級官僚であるハンスは、戦後は、アーヘン市財政部長、1953年にはアデナウアー首相の官僚長となった。
ナチス・ドイツを今日なお賛美する人がいるのに驚きます。しかも、ヒトラーが軽蔑していた日本人のなかにヒトラーを賛美する人がいるなんて、まさにマンガ的な状況です。
(2014年1月刊。1600円+税)
2014年6月 4日
ホロコースト・全証言
著者 グイド・クノップ 、 出版 原書房
ドイツのテレビで、ドキュメンタリー番組として放映されたものが本になっています。2000年に放映されました。
はじめに人間狩りがあった。
1941年、ヒトラーがソ連へ侵攻したとき、ナチスの「特別行動隊」3000人の人殺し部隊は、第一の目標がユダヤ=ボルシェヴィキ知識人の完全な根絶だった。
アウシュヴィッツは、何度も連合軍に写真撮影されていたが、決して爆撃を受けることはなかった。なぜなのか・・・。アメリカも、イギリスも、爆撃しなかったことについて、嘘をついた。
1945年春にドイツ国内の強制収容所で連合軍が解放した生存者は5万人にもみたなかった。
ヒトラーのホロコーストを実行したのは、大勢の小さなヒトラーだった。彼らは、やむをえず、命令に従っただけだと言い訳をした。こんな数十万人もの自発的執行者がいた。彼らの多くは精神病質者ではなく、どこにでもいる、ごくフツーの男たちだった。
人間と被人間を分ける壁はいかにも薄い。人間は、同胞の殺戮にも平気で向かう。
そして、数百万人の人間が、この大量虐殺を傍観し、また目を背けていた。数百万の人々がもうこれ以上知りたくないと思うほど、十分に知っていた。
ホロコースト(大虐殺)の推進力はヒトラーだった。ヒトラー、ハイドリヒ、ゲーリングなど、ヒトラーの死刑執行人たちは、自分のなすべき仕事をヒトラーから口頭で伝えられた。それは、明確な命令であったり、暗示であったり、あるいは同意を示すうなずきであったりした。
ホロコーストの責任がヒトラー自身にあること、それを立証する文書が存在してはならなかった。ヒトラーがユダヤ人の銃殺を目のあたりにしたことは、一度もない。抹殺者ヒトラーに進んで手を貸した加害者は数多くいたが、その頂点に君臨したのが、ハインリヒとヒトラーだった。
1941年7月、ヒトラーとドイツ国防軍は対ソ戦の勝利を確信した。
1941年8月、ゆるぎない勝利の確信は消え失せていた。
10月になると、スターリンを打倒するという野心的目標は、もはや実現不能と見えた。
12月、戦況に不満を抱くヒトラーは、みずから陸軍総司令官に就任した。
1942年春、ヒトラーが「決着」と呼んだものが始まった。ゲットーに住むユダヤ人の虐殺が開始した。
孤立をさせること。これこそ、ゲットーを建設した根本的な動機である。外界との個人的な接触は、一夜にして切断された。ワルシャワ・ゲットーに捕らわれた数十万人の人々は、1日に8000人から1万人が犠牲となった。
これほどのユダヤ人絶滅は、当時の外にいる人々の想像力をはるかに超えていた。要するに、現実があまりにひどすぎて、聞いた人々は信じられなかったということです。
「きみたちは、サナトリウムに来たのではない。ここは、ドイツの強制収容所だ。ここからの出口は、たった一つ。煙突だ。それが気に入らなければ、今すぐ、高圧電線に身を投げるがいい。移送されてきたのがユダヤ人なら、2週間以上、生きる権利はない。聖職者なら1ヵ月。あとの者は3ヵ月だ」
強制収容所でも、ユダヤ人による抵抗の戦いがあったことを知ると、なんだか救われた気持ちになります。ナチス・ドイツに、やすやすと殺させるユダヤ人ばかりではなかったということです。
アンネ・フランクの幸せだったころの写真があります。たくさんの写真がヒトラーとナチスの残虐さを紹介してくれます。読みたくないし、見たくありませんが、決して目を背けてはいけない事実と写真が満載の本でした。
(2014年2月刊。3400円+税)