弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

ヨーロッパ

2014年6月20日

トロイアの真実


著者  大村 幸弘 、 出版  山川出版社

 シュリーマンがトロイアの遺跡を発掘したというのが定説になっています。
 この本は、その定説はきわめて疑わしいことを、豊富な写真と自らの現地での調査(発掘)体験を通じて明らかにしています。私は、なるほどと思いました。
 『イリアス』は、前8世紀に活躍したホメロスが連綿と語り伝えられてきた叙事詩をまとめあげたもの。トロイアの待ちが陥落するまでの50日間も描かれている。
 19世紀に生きたシュリーマンが、トロイアの遺跡を発掘した話は有名です。
 著者は、1972年にトルコのアンカラ大学に留学し、それから43年間もアナトリア高原で考古学の発掘調査と遺跡踏査をおこなってきた。
 そして、アナトリアの発掘調査をおこなえばおこなうほど、シュリーマンが発掘したヒサルルック遺跡が本当にトロイアなのか、疑問に思えてきた。
 遺跡の写真がありますから、現地に行ってなくても、それなりに理解できます。
考古学とは、自分で追いつめないとだめだ。それも、自分の手で。それができないのであれば、発掘現場なんかに立っている意味はない。
 シュリーマンの掘り方は、素人そのものだった。シュリーマンがトロイアとしたヒサルルックについて、その決定的な証拠は何一つない。
 シュリーマンは、発掘を間違ったため、トロイアを探し出すことが出来なかった。
 シュリーマンは、発掘において、遺跡がどこで出土したか詳細に記述していなかった。
 スケッチすることに重点を置いていた。シュリーマンは、層序(地層の重なり)については、まったく無知だった。
 ヒサルルックとは、「城塞」という意味だ。
 シュリーマンは200人の労働者を3ヵ月のあいだ雇用した。その労賃だけで4800万円かかる。その他の運送費用などを含めると6000万円は使っていた。
 シュリーマンは、ヒサルルックをトロイアだとする仮説を最終的には証明できなかった。
 外国での遺跡の発掘調査が、いかに難しいことかも伝わってくる本でした。
(2014年3月刊。2500円+税)

ドイツは過去とどう向きあってきたか


著者  熊谷 徹 、 出版  高文研

 今の日本では、戦前の日本が海外へ侵略戦争を仕掛けたこと、数多くの残虐な行為をしたことを直視し、なるべきありのまま後世に伝えようとすると、それは「自虐史観」だ、日本人の誇りを持てなくなるから止めろという声がかまびすしく湧きあがってきます。なにしろ、政府が音頭をとって、有力マスコミを使うものですから、声高な潮流になるのも当然です。しかし、ドイツでは、少なくとも政府はそういう態度ではありません。
 ブラント元首相は、若者に歴史を語り継ぐ意義を、次のように語った。
 若者も歴史の大きな流れのなかに生きているのだから、過去に起きたことが気分を重くするようなものであっても、それを伝えることは重要だ。ドイツは戦前、周辺諸国に大きな被害をもたらした。したがって、今後のドイツ政策が国益だけでなく、道徳をも重視することをはっきり示す必要がある。自国の歴史について、批判的に取り組めば取り組むほど、周辺諸国との間に深い信頼関係を築くことができる。
 本当にそうなんですよね。「自虐史観」だという人は、日本は悪いことなんかしていないと開き直るばかりです。そんな反省のない態度では、外国から信用されるはずがありません。
 西ベルリンでもっともにぎやかな地区の広場には、「我々が決して忘れてはならない恐怖の場所」として、アウシュヴィッツ、トレブリンカ、マイダネクなどの強制収容所の名前を記した警告番が立てられている。
ドイツの小学生が学ぶ教科書には、ナチスがドイツを支配していた時代に関する記述が細かく、子どもには残酷すぎるのではないかと思われるほど、生々しい写真や証言が載せられている。
 そして、高校の歴史の授業は、暗記ではなく、討論を中心としてすすめられる。
 ドイツでは、ナチス式敬礼を行うことは禁じられ、アウシュヴィッツを否定すると法律違反になる。最高5年の禁錮刑に処せられる可能性がある。
 このところ、ドイツでもヒトラーを信奉する極右が若者のなかに増えているという逆流現象もあるようですが、先ほど紹介した政府の取り組みは日本でも実践すべきものだと思います。そのためには、まずは安倍首相の引退を急ぐ必要があるのでしょうね・・・。
(2007年4月刊。1400円+税)

2014年6月12日

ショアーの歴史


著者  ジョルジュ・ベンスサン 、 出版  白水社

 1939年から1945年までに、ヒトラー・ナチスは多くの共犯者の協力を得て600万人ものヨーロッパのユダヤ人を殺戮した。これをあらわす言葉としては、ショアーがふさわしい。
ショアーとは、災厄、破壊、悲嘆を意味するユダヤ教の祭儀用語である。ゲットーという呼び名は、1516年のイタリアはヴェネチアが最初である。
 第一次世界大戦が終わったとき、ヨーロッパには900万人から1000万人のユダヤ人が暮らしていた。その中にはポーランドの300万人、ルーマニアの100万人がいた。ソ連にも300万人がいた。
 1920年代から30年代にかけて、ヨーロッパ全域で、ユダヤ人排斥の勢いが高まっていた。
 ドイツにおける反ユダヤ教主義の伝統は古く、厳しいものがあった。
 1933年、ドイツの国会議事堂の火災を口実としてドイツ共産党は禁止となり、4000人の幹部が逮捕され、ダッハウの強制収容所に入れられた。
ドイツのユダヤ系公務員が解雇されるのは1933年4月から。ユダヤ人弁護士は所属する弁護士会から除名された。1934年末、弁護士の7割、公職人の6割が職務遂行不能に陥った。
 1939年にはユダヤ人の運転免許証が取りあげられた。
 1933年に50万人いたユダヤ系ドイツ人のうち、15万人が1938年までにドイツを出た。
 1939年9月、ナチス・ドイツはポーランドを占領した。数ヶ月のあいだは、ユダヤ系住民はまだ一過性の嵐にすぎないと考えていた。
 ワルシャワのゲットーには、1941年に47万人のユダヤ人が住んでいた。学校などの教育組織があり、舞台劇が演じられ、地下新聞が47紙も発行された。
 ユダヤ人評議会は罠にはまった。自分たちの殺戮までも引き受けることになった。そして、評議会制度は、利権と腐敗の温床ともなった。
 「T4作戦」は、1939年1月に占領下のポーランドで始まった。
 ポーランドでも、ドイツ本国でも、精神痛者が大量に殺害された。
 ヒトラーは、反対勢力の結集を危険とみて、処分目標を達していたこともあり、1941年8月、「T4作戦」の続行を断念した。
 アメリカのユダヤ人指導者には、ユダヤ人殺戮の情報は伝えられていた。
 1942年に犠牲者は100万人だとされていたとき、実際には300万人が殺されていた。アメリカ政府は、1944年春にはアウシュヴィッツの詳細な航空写真をもっていたのに、収容所への空爆を拒んだ。同じく、イギリスのほうも空爆することはなかった。
 それぞれ、国内に反ユダヤ主義があったことと、何十万人という難民が入国するのを危惧したことによる。
 ドイツの銀行はユダヤ系市民の口座を閉め、一般市民はユダヤ人の商店や会社、アパート、家財を買いたたいた。
 ドイツのデグザ社は、被害者から奪った、死体の歯から搾取した金冠を溶かして純金のインゴットをつくり、ナチスはそれを国家資産とした。
 ナチスの犯罪は、ごく少数の酷薄な変質者によるものではない。「勤め人の犯罪」、つまり普通の人間、民間あるいは軍人、ナチス党員などによる犯罪である。
 元ナチの大多数は、身元を隠そうともしなかった。戦後のドイツやオーストリアにおいて、隠健な勤め人や企業主として豊かな暮らしを取り戻していた。
 法律家で元ナチスの高級官僚であるハンスは、戦後は、アーヘン市財政部長、1953年にはアデナウアー首相の官僚長となった。
 ナチス・ドイツを今日なお賛美する人がいるのに驚きます。しかも、ヒトラーが軽蔑していた日本人のなかにヒトラーを賛美する人がいるなんて、まさにマンガ的な状況です。
(2014年1月刊。1600円+税)

2014年6月 4日

ホロコースト・全証言


著者  グイド・クノップ 、 出版  原書房

 ドイツのテレビで、ドキュメンタリー番組として放映されたものが本になっています。2000年に放映されました。
はじめに人間狩りがあった。
1941年、ヒトラーがソ連へ侵攻したとき、ナチスの「特別行動隊」3000人の人殺し部隊は、第一の目標がユダヤ=ボルシェヴィキ知識人の完全な根絶だった。
アウシュヴィッツは、何度も連合軍に写真撮影されていたが、決して爆撃を受けることはなかった。なぜなのか・・・。アメリカも、イギリスも、爆撃しなかったことについて、嘘をついた。
1945年春にドイツ国内の強制収容所で連合軍が解放した生存者は5万人にもみたなかった。
ヒトラーのホロコーストを実行したのは、大勢の小さなヒトラーだった。彼らは、やむをえず、命令に従っただけだと言い訳をした。こんな数十万人もの自発的執行者がいた。彼らの多くは精神病質者ではなく、どこにでもいる、ごくフツーの男たちだった。
人間と被人間を分ける壁はいかにも薄い。人間は、同胞の殺戮にも平気で向かう。
そして、数百万人の人間が、この大量虐殺を傍観し、また目を背けていた。数百万の人々がもうこれ以上知りたくないと思うほど、十分に知っていた。
ホロコースト(大虐殺)の推進力はヒトラーだった。ヒトラー、ハイドリヒ、ゲーリングなど、ヒトラーの死刑執行人たちは、自分のなすべき仕事をヒトラーから口頭で伝えられた。それは、明確な命令であったり、暗示であったり、あるいは同意を示すうなずきであったりした。
ホロコーストの責任がヒトラー自身にあること、それを立証する文書が存在してはならなかった。ヒトラーがユダヤ人の銃殺を目のあたりにしたことは、一度もない。抹殺者ヒトラーに進んで手を貸した加害者は数多くいたが、その頂点に君臨したのが、ハインリヒとヒトラーだった。
1941年7月、ヒトラーとドイツ国防軍は対ソ戦の勝利を確信した。
 1941年8月、ゆるぎない勝利の確信は消え失せていた。
 10月になると、スターリンを打倒するという野心的目標は、もはや実現不能と見えた。
 12月、戦況に不満を抱くヒトラーは、みずから陸軍総司令官に就任した。
 1942年春、ヒトラーが「決着」と呼んだものが始まった。ゲットーに住むユダヤ人の虐殺が開始した。
 孤立をさせること。これこそ、ゲットーを建設した根本的な動機である。外界との個人的な接触は、一夜にして切断された。ワルシャワ・ゲットーに捕らわれた数十万人の人々は、1日に8000人から1万人が犠牲となった。
 これほどのユダヤ人絶滅は、当時の外にいる人々の想像力をはるかに超えていた。要するに、現実があまりにひどすぎて、聞いた人々は信じられなかったということです。
 「きみたちは、サナトリウムに来たのではない。ここは、ドイツの強制収容所だ。ここからの出口は、たった一つ。煙突だ。それが気に入らなければ、今すぐ、高圧電線に身を投げるがいい。移送されてきたのがユダヤ人なら、2週間以上、生きる権利はない。聖職者なら1ヵ月。あとの者は3ヵ月だ」
 強制収容所でも、ユダヤ人による抵抗の戦いがあったことを知ると、なんだか救われた気持ちになります。ナチス・ドイツに、やすやすと殺させるユダヤ人ばかりではなかったということです。
 アンネ・フランクの幸せだったころの写真があります。たくさんの写真がヒトラーとナチスの残虐さを紹介してくれます。読みたくないし、見たくありませんが、決して目を背けてはいけない事実と写真が満載の本でした。
(2014年2月刊。3400円+税)

2014年5月30日

ジューコフ


著者  ジェフリー・ロバーツ 、 出版  白水社

 ノモンハンの戦いでソ連軍の指導者として登場したジューコフ将軍の一生を明らかにした本です。日本の関東軍がみじめに敗退していったノモンハンの戦いで、ジューコフは情け容赦ない戦争指導者としてムチをふるったと思っていましたが、それなりの戦争理論家であったようです。
 ジューコフ将軍は、ノモンハンの戦いに勝利した後、対ナチス・ドイツ戦でスターリンに抜擢されて活躍し、ついにベルリン攻略戦の勝利者たる栄誉を勝ちとったのです。
 ところが、そのあまりの勝利のため、スターリンが疎ましく思って失脚させられてしまいます。
 そして、スターリンの死後に復活し、フルシチョフの失脚によって、再び脚光を浴びるのでした。いずれにしても、スターリン時代に生きのびた将軍として、ジューコフは有名です。
 スターリンが嫌ったのは、ジューコフの自立心と、信念を率直に語るところだった。この資質が戦争中にはスターリンを大いに救った。しかし、戦争が終わり、スターリンが助言を必要としなくなると、目障りな存在となった。ジューコフもスターリンも虚栄心が強かった。スターリンは、自分の副官が人気を集めるのがねたましかった。
 1953年3月にスターリンが死んだとき、独裁者の国葬でジューコフは、葬儀委員の筆頭格として遺体を付き添った。フルシチョフは、ジューコフを国防相に任命した。
 そしてフルシチョフは、自分を脅かす政治家として認識し、国防相から解任した。フルシチョフの失脚(1964年10月)のあと、ジューコフは再び脚光を浴びるようになった。
 ジューコフには規律ただしい学習の習慣があった。家にいるときのジューコフは、本の虫だった。死んだとき、別荘には2万冊の蔵書があった。ジェーコフの家庭生活の中心は読書だった。
 ジューコフは、1920年5月、晴れて共産党員になった。ジューコフは、忠実な共産主義者として、熱狂的とはいえないまでもスターリン個人を崇拝していた。ジューコフは26歳にして連隊長となり、西側の軍隊では中佐に相当地する地位についた。
 ジューコフは、自分にも部下にも厳しかった。それは、功名心につかれた男の生きざまでもあった。
 スターリンによる赤軍粛清の嵐が吹き荒れた1937年から38年にかけては、ジューコフも不安にさいなまれ、いつも逮捕にそなえてカバンを用意していた。
 1935年5月、ジューコフはモンゴルに派遣された。ノモンハン事件の渦中に、ソ連赤軍の戦闘態勢の調査だった。そして、ついには指揮をまかされた。
 ジューコフは、ソ連軍の総攻撃を準備しつつ、それを欺瞞し、隠蔽する工作に成功した。ノモンハンの戦いで勝利したジューコフはスターリンに呼び戻され、対ナチス・ドイツ戦に従事した。
 1940年1月、スターリンは、ジューコフを参謀総長に指名した。
 1941年夏のソ連赤軍は大敗北を重ね、スターリンは、ジューコフを参謀総長から解任した。
 1942年8月、スターリングラードの戦いで、ジューコフは最高総司令官代理に就任した。
 スターリンは、断固かつ非情で不動の信念をもつ男を求めていた。ジューコフは、スターリングラードを救う切り札だった。
 ジューコフの名誉を不朽としたのは、1945年4月のベルリン攻略戦だった。ベルリン攻略戦で、ソ連赤軍は30万人の人的損失を出した。うち死者は8万人にのぼる。
 1944年12月、ヒトラーのナチス・ドイツ軍はバルジの戦いに成功した。ドイツの敗北が目に見えていたのに、ドイツ軍が戦い続けたのは、ソ連軍の報復が怖かったからだ。戦い続けて時間をかせげば、ソ連赤軍より先に西側の連合国軍がベルリンに到達するのではないかと期待していた。
 戦争を通じてドイツ軍は600万人のソ連兵を捕虜にした。その半数は飢えや病気、虐待のために死んだ。報復するなとソ連兵に言うほうが無理だった。しかし、ドイツ女性のレイプに限って言えば、タガの外れた暴虐は報復の範囲をこえていた。ソ連兵にレイプされたドイツ女性は数万人から数百万人と推定されている。その中間くらいだろう。
このとき、ジューコフは、「人殺しの故郷に苦しみを与えよ。目の前のすべてに容赦のない報復をするのだ」と指示した。
 ジューコフ将軍とソ連赤軍について、実際を知ることができました。
(2013年12月刊。3600円+税)

2014年5月17日

英国二重スパイ・システム


著者  ベン・マッキンタイアー 、 出版  中央公論新社

 1944年6月のノルマンディー上陸作戦は、それを成功させるために大がかりな欺瞞作戦が展開されたのでした。
 まず、英米連合軍が上陸するのはノルマンディーではなくて、パドカレー地方だとドイツ側に思い込ませました。そして、ノルマンディー上陸は、あくまで本命のパドカレー上陸作戦を隠すための陽動作戦だと思わせたのです。というのも、パドカレー地方には精鋭のナチス軍隊がいたので、それがノルマンディーの方に移動してこないように足止めしておく必要があったのでした。
 パドカレー上陸作戦が準備されるとヒトラーに思わせるには、実在しない軍隊が集結しているように思わせる必要があります。無線をたくさん流し、張り子戦車や飛行機を置き、さらには指揮するパットン将軍までパドカレー上陸作戦に備えているように見せかけたのでした。総勢350人で10万人の軍隊がいるように見せかけたというのですから、たいしたものです。
 対するナチスの方では、スパイ作戦の元締めは、実は反ヒトラー勢力の拠点だったというのです。ですから、英米連合軍を実態以上に質量ともに強力だとヒトラーに報告していました。ある意味では、ヒトラー欺瞞作戦の片棒をかついでいたと言えそうです。そして、反ヒトラーの行動がバレて処刑されたり、左遷されたりしてしまったのでした。
 イギリスの諜報部の中枢にはソ連のスパイが何人もいて、スターリンに筒抜けになってしまいました。有名なキム・フィルビーなどのインテリたち(ケンブリッジ・ファイブ)です。ところが、スターリンは全部を知りつつ、果たしてスパイによる情報を信用して良いのか疑っていたというのです。これらの事実を、この本はあらゆる角度から解明していきます。
 イギリス軍参謀総長はノルマンディー上陸作戦が重大な失敗に終わるかもしれないと危惧していた。日記に次のように書いた。
 「戦争全体で、もっともひどい惨事になるかもしれない」
 スパイの送る情報がどこまで信用できるものなのか・・・。たとえば、ナチスのスパイがイギリスに潜入して送っていた情報は、実はポルトガルにいてあたかもイギリスへの潜入に成功したかのような嘘の情報に過ぎなかった。リスボンの図書館に行き、またニュース映画などで見たものをもっともらしくしたものだった。
 ドイツ軍の一大情報機関であるアプヴェーアは、国防軍最高司令部の指示によらず動いていた。その高級将校の多くがヒトラー政権に積極的に反対していた。
 ドイツはイギリスにスパイを多数送り込んだが、大半は無能で、職務を忠実に遂行する気がなく、その多くがドイツを裏切って二重スパイとして活動した。
二重スパイは非常に気まぐれで、問題を起こすこともあるが、使い方によっては利用価値が高い。気まぐれな性格の人間は、恐ろしいことに寝返ろうとする傾向を示す。
 ノルマンディー上陸作戦に関心のある人に一読をおすすめします。
(2013年10月刊。2700円+税)

2014年5月14日

戦火のシンフォニー


著者  ひの まどか 、 出版  新潮社

 ナチス・ドイツによってソ連の主要都市であるレニングラードは陥落寸前までいきましたが、なんとかもちこたえたものの、900日間も封鎖されてしまったのでした。食糧が尽きてしまい、何十万人もの市民が餓死しました。ところが、なんと、その最中にオーケストラを復活させ、演奏していたというのです。しかも、ショスタコヴィッチの交響曲第7番を「初演」したのでした。
 ええーっ、という、信じられない実話を関係者に丹念に取材して再現した本です。
 大阪の尊敬する大先輩である石川元也弁護士のすすめで本を読みました。石川先生、ありがとうございました。引き続きご活躍ください。
 ソ連では、スターリンの圧制下で理不尽な粛清の嵐が吹き荒れた。ショコスタコヴィッチも、若手作曲家の頂点に輝く星だったのが、その作品がスターリンの不興を買い、一転して奈落の底に突き落とされた。そのとき、救いの手を差しのべてくれたのが、トハチェフスキー元師だった。ところが、その元師が、なんとスターリンによって銃殺されてしまったのです。再びショスタコヴィッチは危機に陥ります。ところが、やがて交響曲第5番が成功して、辛じて名誉を回復しました。
 レニングラードの最高指導者はジダーノフ(当時45歳)。ジダーノフは、スターリンの最側近の3人のうちの1人。残る二人、(マレンコフとベリカ)から、絶えず足を引っぱられていた。
 ナチス・ドイツによってレニングラードは直接の攻撃にさらされるようになった。ところが、ドイツ軍による大空襲があっても、ミュージカル・コメディ劇場は公演を続け、観客で満員だった。これって、信じられませんよね・・・。
 レニングラードでは、ナチス・ドイツ軍の包囲下にあっても、普通の生活を続けていたし、それを外の世界に伝達しようとした。
 ヒトラーは、一気にレニングラードを陥落させるつもりだった。ところが、包囲が長引くなかで気が変わり、モスクワ攻防戦へ戦力を引き抜いていった。これによって、レニングラードは陥落するのを免れた。
 ミュージカル・コメディ劇場は連日公演を開くだけでなく、日曜日には2回公演さえ行った。
 音楽家たちも食糧不足のため、腹が減って、力が入らなかった。それでも、楽器をもったら、力が戻ってきた。音楽は、最高の食糧だ。
 栄養失調は怖いが、それ以上に怖いのは精神失調だ。
芸術家はパンだけでなく精神力で支えられている。精神力が弱ると意気も落ちて、死んでしまう。
 コンサートはイギリス向けだけではなく、レニングラードを包囲する塹壕に潜っているドイツ軍にも開かせた。
 1942年3月、ジェダーノフは自ら電話をかけて「何か音楽をやらんか!」と指示した。
 そこで、音楽家が呼び集められ、一定の食事が与えられた。死の寸前にあった音楽家たちが再びよみがえった。このとき、オーケストラの団員50人のうち、ほぼ半数がまだ生きのびていた。特別食堂では、朝10時と昼2時に「強化食」が出た。ふだんなら、口に入らないものが提供された。
 今一番大切なことは、飢えのことを忘れる。夢中で働くこと。精神力と信念が今こそ必要である。芸術家を動かすのは精神力。食事をして体力をつけ、精神力を高めることが何より大切。
 観客となった市民は、少なくとも舞台を見ているあいだだけは飢えのことを忘れられている。劇場に行くのは、飢饉と死んだ人のことを考えないため。
コンサートの指揮者は、糊のきいた真っ白なシャツに燕尾服を着て登場した。その姿に、観客は、どよめいた。
 「こんなとき、どうやって、あの服を用意できたの!」
 「万事、順調ってわけ?」
 1942年8月9日、レニングラードでショコスタコヴィッチの交響曲第7番が初演された。
 レニングラードは、依然としてナチス・ドイツ軍に包囲され、危機的状況のさなかにあった。
 ソ連赤軍の捕虜となったドイツ兵は異口同音に語った。
 「我々は、塹壕のなかで、いつもレニングラードの放送を聞いていたが、いちばん驚き、戸惑ったのは、このとてつもない状況のなかで、クラシック音楽のコンサートがやられているということ。いったい、ロシア人はどれだけ強いのか、そんな敵をやっつけることなんて、とうてい出来ない。恐ろしかった」
 そうですよね、よく分かる気がします。
 この本の最後に交響曲7番を演奏した音楽家の顔写真が紹介されています。男性が大半ですが、女性も何人かいます。みなさん、餓死寸前までいきながら、なんとか演奏を成功させた人々です。
 とても感動的な、心温まる本でした。石川先生ご夫妻、ご紹介ありがとうございました。
(2014年3月刊。1800円+税)

2014年4月27日

つるにのってフランスへ


著者  美帆 シボ 、 出版  本の泉社

 フランス人男性と結婚した日本人女性による、元気のでる話が満載の本です。
 著者は、反核・平和運動に取り組んでいることでも有名です。フランスの国防大臣をつとめた人が、今では反核運動に参加して、声をあげているそうです。その人は、アメリカのスターウォーズ計画は実現性がないと批判していました。すると、フランスの兵器産業界の大物が次のように言って批判した。
 「大もうけできる良い機会なのに、反対するなんて、とんでもない」
 そうなんです。兵器(軍需)産業にとって、世界の平和は望ましくないのです。危機をあおり、戦争を仕掛けることで、肥え太っていく死の商人が世界中に、もちろん日本にもいるのです。たとえば、それは三菱工業であり、コマツであり、IHIなのです・・・。
 フランスでは核兵器は生命保険なのかどうか、論争があった。
 「核抑止は生命保険である。だから、保険の節約はできない」
 「核兵器は死亡保険だ。本当に生命保険なら、なぜ他の国に核保有を禁じるのか。核兵器をもつことで国を敵から守れるのなら、なぜ高額な対ミサイル防衛が必要なのか。これは、核抑止が成り立たないことを証明している」
 本当にそうですよね.核抑止論なんて、インチキそのものです。
フランスは出生率が高い。それは、子育てがしやすいように国が手厚くしているから。
 フランスでは、出産はタダ。教育費も、大学まで公立、国立はタダ。授業料はなく、奨学金は返済する必要がない。 三人以上の子どもを産んだ母親には優遇策がある。
育児支援が充実しており、母親でも安心して働ける環境がある。
 フランスは農業国です。また、食を大切にしている国です。
大学生のときから、今なおフランス語を勉強していますので、フランス大好き人間として、一度は著者に会ってみたいものだと思いました。
(2014年2月刊。1600円+税)

2014年4月19日

40年パリに生きる


著者  小沢 君江 、 出版  綜風出版社

 私がフランス語を勉強するようになった40年以上になります。正確には大学1年生のとき、第二外国語として選択したのでした。
 初めてフランスに行ったのは今から30年ほども前のことになりますが、そのころはフランス語の単語に聞きとれるものがある程度でした。ですから先輩弁護士がフランス語でフランスの弁護士と話しているのがうらやましいというより、アナザーワールドの住人という感じがしていました。今でも話すのはうまくありませんが、耳のほうは、さすがに文章レベルでかなり分かるようになりました。それでも、哲学的表現の多いフランス語の文章は理解に苦しんでいます。
 この本はパリで発行されている日本語の無料誌「オヴニー」の創刊者の苦労話が語られているものです。もちろん日本人です。フランスの男性と結婚して、単身パリに渡ったのでした。
 「オヴニー」の前身「いりふね、でふね」が発刊したのは1974年5月のこと。A4サイズ8頁。今では6万部発行され、うち2万部は日本人に搬入されている。無料誌なので、広告料が発行を支えている。長年の下支えがある。
 全共闘とか、新左翼そして日本赤軍、ひいてはテロリストとの関連を疑われて、警察の探索、差押を受けた。
 「オヴニー」創刊号が出たのは1979年4月のこと。1981年にエスパス・ジャポンを開館した。「日本空間」ということで、日本の文化を披露する場である。
フランスに滞在する日本人3万人の3分の1は官庁・企業関係者とその家族。あと3分の1は留学生・研究者。残る3分の1は永住者(12%)、芸術家など(9%)、その他(7%)からなる。
著者も70歳を迎え、フランスに日本人が住むことの意味をしみじみ考察しています。
 フランス語には、日本語のあうん呼吸、以心伝心の感覚はない。すべてが目には目を式に言葉対言葉の対話文化であり、男女関係でも最後は言葉が支配する。
 日仏カップルの大半は、離婚か離別に終わっている。
 一般にフランス人は言葉を操り、楽しむ習性をもっている。
 言葉の裏や抑揚にニュアンスを込められている日本語。ピンポンのように言葉と言葉でやりとりするフランス語。
 うーん、そう言われても・・・。まあ、ともかくボケ防止に、毎朝、NHKのラジオ講座を聴き、CDでフランス語の書き取りをしましょう。きっと、何かいいことがあるでしょう。
(2013年12月刊。2000円+税)

2014年2月20日

夜の記憶


著者  澤田 愛子 、 出版  創元社

 私は残念なことにアウシュビッツに行ったことがありません。一度はナチス・ドイツの狂気の現場にたって実感したいと思っているのですが、その機会がありませんでした。
 この本は、日本人の女性教授がホロコースト生還者に体当たり取材した証言録を集めたものです。
 サイバー12人が、決して忘れてはならないとして、自分の体験を語っていますので、重味があります。ホロコーストとは、ユダヤ人の大虐殺を示す言葉です。イスラエルではホロコーストよりも、ヘブライ語で絶滅を意味するショアーが使われているそうです。私はみていませんが、記録映画『ショアー』がありました。
 ホロコースト・サバイバーとは、ホロコーストで生き残ったユダヤ人を指し示す言葉。収容所を生き残った人、ゲットーを生き延びた者、森林でパルチザン活動をしながら隠れていた者、あるいは民家に匿われたり、納屋など場所を転々と移動して逃げていた者、あるいはキリスト教徒になりすましながら生活して難を逃れた者、さらには地下組織に加わって反ナチ抵抗運動をして生き延びた者など、実に多様な人々がサバイバーにふくまれる。
有名なアンネ・フランクと幼稚園も小学校も一緒だったという人もサバイバーとして取材に応じています。
 アンネの最後の声は、本当に崩れきってしまった声だった。
 死の医師として有名なメンゲレの選別から逃れた体験談が次のように語られています。
 メンゲレがやってきたとき、心の中で絶対死なないぞと念じながらメンゲレをぐっと睨み返した。するとメンゲレは私と目が合ったにもかかわらず、私を選ぶことなく通り過ぎていった。
 メンゲレはいろんな基準で選別した。たとえば、やせすぎている人、傷のある人は、たいていガス室送りになった。そして、びくびくしている人もときどき選ばれた。
 収容所の中で生き延びるために大切だったことの一つに、シャワーを浴びるというのがあった。身の清潔を守るために、どんなに寒くてもシャワーを浴びるということはとても大切なことだった。
 収容所では伝染病や皮膚病に冒され得た者はまっ先にメンゲレに選別され、ガス室に送られた。収容所では皮膚病が流行っていた。その皮膚病に効く薬を手に入れるために、マーガリンやパンを交換に出した。二日間、何も食べなくても薬を手に入れるのを優先させた。
 収容所のなかで歌姫として有名になって生き延びた女性もいました。
みんなで歌っていたときに感じたのは、自分は親を奪われたけど、歌だけは奪われなかったという思いだった。そのとき、歌をうたったことによって、自分はまだ人間として生きているんだという気持ち、そして希望を持とうという意思が湧いてきた。そのときから、歌が私の希望になった。私は歌うまで、みんなの眼差しは死んだ人のようだった。でも、私が歌いはじめるとその眼がどんどん輝きを増していく。それをみて、私は歌がどれほど人々に希望を与えるのか、つくづく感じた。ゲットー、そして収容所と、私はずっと歌い続けた。
 本当に、決して忘れてはいけない歴史だと思いました。
(2005年5月刊。3200円+税)
 朝、さわやかなウグイスの鳴き声を聞きました。いよいよ春到来です。初めのうちは下手な歌ですが、そのうち、長く、ホーホケキョと澄んだ声を聞かせてくれます。
 まだまだ寒い日が続きますが、チューリップのつぼみが庭のあちこちに頭をのぞかせています。
 春到来で困るのは、花粉症です。、目が痛痒くて、鼻が詰まり、ティッシュを手離せません。夜、寝ているときに口をあけているので、ノドがやられてしまいます。

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