弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

ヨーロッパ

2015年9月 3日

クリミア戦争(下)

                                                                          (霧山昴)
著者  オーランドー・ファイジズ 、 出版  白水社

 戦場に冬が到来したとき、イギリス軍とフランス軍に差があらわれた。軍隊の経営能力が証明された。フランス軍は辛くも合格したが、イギリス軍は惨めな不合格点をとった。
 両軍ともクリミア半島の冬の気温がどこまで下がるかの認識すらなかった。フランス軍は、兵士に好きなだけ重ね着することを許した。イギリス軍は兵士に常に「紳士らしい」外装を要求した。そして、兵士が風雨をしのぐための居住環境について何ら配慮しなかった。
 フランス軍は、士官と兵士の生活条件にはほとんど差がなかった。これに対して、イギリス軍は高級な将校は快適な生活を送っていたが、兵士たちは悲惨な生活を強いられていた。泥の中で眠っていた。
 フランス軍とちがって、イギリス軍には、組織的にタキギを集めるというシステムがなかった。
 フランス軍には糧食の供給と調理、負傷者の手当てなど、兵士の基本的な需要にこたえる専門家がすべての連隊に随行していた。すべての連隊に一人のパン焼き職人と数人の料理人がいた。酒保と軍隊食堂の経営は女将に任されることが多かった。
 フランス軍の食事は、共同調理と集団給食が普通だった。フランス軍の食事の眼目はスープ。そしてコーヒー豆も十分な量が供給された。フランス人はコーヒーなしでは生きられない。
 フランス軍の兵士に供給される肉はイギリス兵の3分の1でしかなかったが、健康を維持しえた。フランス兵は農村出身者が多く、食べられるものなら、どんなものでもカエルやカメでも捕まえて料理して食べた。
 イギリス兵は、その大半が土地をもたない都市貧困層の出身者だったので、自分の手で食料を調達し、自力で窮状を切りぬけるという習慣がなかった。イギリス軍に随行する女性がフランス軍に比べて多かったのは、この理由による。イギリス兵には肉とラム酒が十分に供給されていた。しかし、イギリス兵の食事は、フランス軍に比べて貧弱だった。
 フランス軍の病院は、清潔さ、快適さ、看護の手厚さで、イギリス軍よりはるかに優れていた。フランス軍の病院には陽気な生命力が感じられた。
 戦場の外科医療システムを世界に先駆けて確立したのはロシア軍だった。手術の緊急性に応じて患者を区分するシステムであるトリアージを始めたのは、ニコライ・ピロゴーフ。
 ピロゴーフは麻酔術を導入し、1日7時間に100件以上の切断手術をこなした。そして、腕の切断手術を受けたロシア兵の生存率は65%にまで向上した。
 クリミア派遣軍には、看護婦が随行していなかった。ナイチンゲールはロンドンの女性のための病院で無給の院長をつとめていた。ナイチンゲールは、優れた管理能力の持ち主だった。ナイチンゲールは、下層階級出身の年若い女性を採用したが、中産階級の善意の女性は採用しなかった。感受性の敏感な中流夫人の「扱いの難しさ」を恐れていたからである。そして、看護の経験をもつカトリックの修道女たちを採用した。
 蒸気船と電信の出現によって、戦争特派員は記事を書いて新聞記事になるまで5日かかっていたのが、ついには、数時間にまで短縮された。人々が最大の関心を寄せたのは、写真と挿絵だった。
インケルマンで敗北してから、ロシア軍の最高指導部は、権威と自信の両方を失くしていた。皇帝ニコライ一世は司令官たちへの信頼を失い、前にもまして意気消沈して陰うつな顔つきになり、戦争に勝利する希望を失ったばかりか、そもそも戦争を始めたこと自体を後悔しはじめていた。
 休戦状態になったとき、イギリス軍とロシア軍の将兵はタバコを分け合い、ラム酒を飲み交わした。気晴らしに射撃ゲームを始める者もあった。
 パリ和平条約によってロシアは領土の一部を失った。しかし、それよりもむしろ重大だったのは国家の威信が失われたことである。クリミア戦争の敗北は、ロシア国内に深刻な影響を残した。軍隊への信頼が揺らぎ、国防を近代化する必要性が痛感された。鉄道の開発、工業化の促進、財政の健全化を求める世論が高まった。
 トルストイも改革を求める人々のひとりだった。そんな人生観と文学観は、クリミア戦争の経験を通じて形成されたトルストイは将校の無能ぶりと腐敗墜落を目撃した。そして、将校は兵士を残忍に虐待していた。一般兵士の勇敢さと粘り強さに心を動かされたトルストイは、農奴出身の兵士たちに親近感をかんじはじめた。
ロシア農民兵士は、ほぼ全員が読み書き能力をもたず、近代的な戦争に適さないことが明らかになった。
 クリミア戦争には、31万人のフランス人が兵士として動員され、そのうち3人に1人が帰らぬ人となった。クリミア戦争に出征したイギリス兵は10万人近く。生きて帰れなかった2万人の80%は傷病死だった。
クリミア戦争は、兵士に対するイギリス国民の見方に大きな変化をもたらした。兵士は国の名誉と権利と自由を守る存在であるという近代的な国民意識の基礎が築かれた。将軍たちの愚かな失態にもかかわらず、一般兵士が英雄として扱われる時代がはじまった。勇敢に戦ってイギリスに勝利をもたらしたのは平凡な兵士であるという伝説はクリミア戦争から始まった。
 貴族階級出身の戦争指導部が犯した過誤は、中流階級が自信を強める契機にもなった。中流階級が新たに獲得した自信をもっともよく体現していたのはナイチンゲールだった。クリミア戦争は、イギリスの国民性に大きな影響を与えた。クリミア戦争についての上下2冊の大部な本ですが、無謀にも戦争を始めてしまった皇帝と将軍たちの戦争遂行上の愚かな過ちの下で悲惨な目にあう兵士たちの苦難がよく紹介されています。教訓としてひき出すべきものも大きいと思いました。ご一読をおすすめしたい本です。

(2015年6月刊。3600円+税)

2015年8月26日

クリミア戦争(上)

(霧山昴)
著者  オーランドー・ファイジズ 、 出版  白水社

 1854年にはじまったクリミア戦争についての詳細な研究書です。
 第一次世界大戦前の時代に生きていた人々にとってはクリミア戦争は19世紀の一大事件だった。損失は膨大だった。少なくとも75万人の兵士が戦死傷者となった。
 ロシア軍は50万人の兵士が亡くなり、フランス軍も10万人の兵士が死んだ。イギリス軍の死者は、2万人だけ。
クリミア戦争は兵代戦の最初の例だった。新型のライフル銃、蒸気船、鉄道、近代的な兵站、電報、革新的な軍事医学など動員された総力戦だった。同時に、クリミア戦争は、古い騎士道精神に則って戦われた最後の戦争でもあった。戦闘の最中に敵味方の話し合いがもたれ、戦場から負傷者と死体を収容するための一時的休戦が頻繁に実現した。
 このクリミア戦争には、ロシアの文豪トルストイが青年士官として従軍している。
 ロシアの正教会の支配するロシアにとって、パレスチナの聖地は、熱烈な宗教的情熱の対象だった。ロシア人とは、すなわちロシア正教の信者だった。
 ロシア帝国は、当時の列強諸国のなかで、もっとも宗教性の強い国家だった。ロシア帝国ツァーリの支配体制は、臣民の信仰を束ねるという形で組織されていた。
 ロシア帝国は、国境問題であれ、外交関係であれ、ほぼすべての問題を宗教のフィルターを通じて解釈する宗教国家だった。
 当時29歳のニコライ一世は、「軍人タイプ」の人物だった。身近なサークルのなかでは礼儀正しく、魅力的な人物だったが、外部の人間に対しては冷淡で峻厳であり、短気で怒りっぽい性格、無分別な行為に走り、怒りから我を失う場面多くなっていった。
 ニコライ一世は、常に暗殺される危険にさらされていた。
 ロシア帝国の軍隊にとって、膨大な損耗率は、決して異常な事態ではなかった。農奴出身の兵士たちの健康や福祉がかえりみられることはなかった。
 ロシア軍は基本的に農民の軍隊だった。兵士の圧倒的多数は農奴が国有地農民の出身だった。ロシア軍は、その規模からいえば、群を抜いて世界最大だった。100万の歩兵、25万の不正規兵(主としてコサック騎兵)を擁している。加えて、75万の予備兵力がある。
 しかし、ロシア軍隊は、他のヨーロッパ諸国に比べて大きく立ち遅れていた。兵士はそのほぼ全員が読み書きの能力をもっていない。貴族出身の士官たちは、わずかな手柄を立てるために膨大な数の兵士の命を惜し気もなく、犠牲にした。
 これに対するトルコ軍は、さまざまな民族からなる混成部隊だった。アラブ人、クルド人、他タール人、エジプト人、アルバニア人、ギリシア人、アルメニア人など、多数の民族が参加していた。
 オスマン帝国の典型的な軍人は、軍事的能力よりも、スルタンの個人的寵遇によって昇進は決まっていた。トルコ軍の指揮官のほとんどは、戦場で役に立つ実践的な指揮能力を備えていなかった。兵士の給与を比較すると、イギリス134ルーブル、フランス85ルーブル、プロイセン18ルーブル、オーストリア兵は53ルーブル、ロシア兵は32ルーブル、プロセインは60ルーブル、フランスは85ルーブル、プロセインは60ルーブルだった。
イギリスのパーマストンは、単純な言葉で大衆に訴えかける必要があり、そのために新聞を活用することを心がけた。
 パーマストンに反対して戦争への流れを押しとどめようとする者は、誰であれ、愛国主義的なジャーナリズムによって袋叩きにあうような社会的雰囲気だった。
 新聞は、販売部数を伸ばすために、戦争へあおりたてた。
まるで、いまの安倍内閣と一部のマスコミの情けない姿そのものですよね。
 クリミア戦争について、イギリスとフランス連合は、それほど目的は明確ではなかった。多くの戦争がそうであったように、今回の東方遠征も、わけが分からないうちに始まってしまった。
 なんとなく戦争ムードがかき立てられ、止められないうちに戦争に至ってしまうのですね。今の日本をみていると、本当に怖いです。
 クリミア戦争の真の目的は英仏両国の利益のためにロシアの領土と影響力を削減することにあると明記されるべきだった。ロシア軍の敗北の最大の原因は兵士が戦意を喪失したことにあった。近代戦において勝敗を分ける決定的な要因は、兵士の士気を維持できるかどうか、だった。
 戦争に至る道筋が解明されている本です。そして、実際に始まった戦争の悲惨な実情も刻明に紹介されています。憲法9条の空文化を目ざす自民・公明のアベ政権は本当に許せません。
(2015年6月刊。3600円+税)

2015年8月16日

吾輩は猫画家である

(霧山昴)
著者  南條 竹則 、 出版  集英社新書

 夏目漱石の「吾輩は猫である」は、この猫マンガを見て着想を得たと指摘されています。なーるほど、なるほど、と納得できました。
 イギリスのルイス・ウェインという猫画家について、その描いた猫の絵とともに紹介されている本です。
 夏目漱石がロンドンに留学したのは、1900年から1902年にかけてのこと。当時、イギリスではルイス・ウェインが人気絶頂で、その人間的でユーモラスな猫たちは、本や雑誌そして絵葉書にあふれかえっていた。
 猫たちが、人間そのものの動作をしていて、ついくすっと笑ってしまいそうになる楽しい絵のオンパレードです。
 絵は独立独歩を好むように見えながらも、その実、社会的な動物でもある。屋根の上だの原っぱだのに集まって、人知れず集会をしている。猫の夜の集会を撮った写真をのせた本を、このコーナーでも前に紹介しましたが、なんだか不気味な集まりです。
 ルイス・ウェインは、たくさんの猫の絵を描いたものの、絵を売るごとにその版権まで売り渡したため、膨大に増刷された絵葉書から、ほとんど収入を得ることができなかった。まったく利に疎かったのです。おかげで、老後は最貧の生活を余儀なくされていました。それを知った人々がカンパを募って、なんとか救われたようですが・・・。
 猫派の人にとっては、たまらない猫の絵尽くしの本です。
(2015年6月刊。1200円+税)

2015年8月 1日

銀幕の村

                               (霧山昴)
著者  西田 真一郎 、 出版  作品社

 フランス映画は、フランス語を長らく勉強している身として、つとめてみるようにしています。もちろん、みたいと思っても見逃してしまう映画も多くて、残念に思うのが、しばしばなのです。
 この本は、フランス映画の舞台となった田舎町(村)を探し歩いた体験記です。私が行ったことのある映画の舞台も登場しています。2000年公開のアメリカ映画「ショコラ」です。この映画の舞台は、ブルゴーニュの山間にあるフラヴィーニ・シュル・オズランです。私はディジョンから観光タクシーに乗って行き、映画に出てくる古ぼけた教会にたどり着きました。そのすぐ近くにあるレストランで美味しい昼食をとり、少し離れたカフェで赤ワインを一杯のんだのでした。至福のひとときでした。
そして、「プロヴァンス物語・マルセイユの夏」に登場してくるプロヴァンスです。
 私は、エクサン・プロヴァンスに4週間いて、外国人向けのフランス語集中夏期講座を受講したことがあります。「独身」を謳歌したのです。40代前半だったと思います。本当にいい思い出となりました。そして、このエクサン・プロヴァンスには還暦前旅行と称して、それから20年たった59歳のとき妻と2人で再訪し、妻への罪滅ぼしをしました。
 私より一まわり以上年長の著者は、永年、国語科の高校教師をつとめたあと、フランス各地に徒歩の旅を続けているとのこと。なかなか真似できないことです。
フランス映画に関心のある人にはおすすめのオタク本です。
(2015年2月刊。1800円+税)

2015年7月29日

ヒトラーと哲学者

                            (霧山昴)
著者  イヴォンヌ・シェラット 、 出版  白水社

 ヒトラーは、1923年11月、ミュンヘン一揆に失敗し、逮捕・投獄される。国家反逆罪で有罪となり、1924年の春からバイエルン州にあるランツベルク刑務所で過ごす。
 ところが、ヒトラーの部屋は高級食料品店の様相を呈していた。ドイツ中の支持者が貢ぎ物を送りつけていた。そして、看守からも優遇されていた。
 ある女性からのプラムケーキの差入れに対するヒトラーのお礼状が紹介されています。
 ヒトラーは学校時代の後半には、際立って能力に欠けると見なされ落第していた。ヒトラーは、学業に何の興味も示さない怠惰な生徒と思われた。
 ヒトラーは、行動の人として刑務所に入ったが、出るときには「哲人指導者」だったと自分では考えていた。
 ヒトラーは遅くに起床し、いつも怠けたり、うつらうつらして過ごした。集中して本を読むことが嫌いで、本一冊を読み通すのはまれだった。たいていは、本の出だしの部分を読むだけだった。
 ヒトラーは貪欲で、意地汚いところがあった。むら気をおこさずに働くことができない。実際に、彼は仕事ができない。アイデアが浮かんだり、衝撃を受けたりはする。熱に浮かされたように、それを実地に移すことを命じるが、あっという間に取りやめにされた。ヒトラーには、持続的に辛抱強く仕事することが、何なのか分からなかった。
 ヒトラーのやること、なすことは「発作」だった。ヒトラーの言う、子ども好き、動物好きは、ポーズにすぎなかった。
 1933年に、ユダヤ系知識人を学問の世界から追放する布告が実行されたとき、ヒトラーたちはほとんど抵抗を受けなかった。抗議行動は、まったく起きなかった。なぜか?
 多くのユダヤ人が追放されると、そのポストが空く、そこへアーリア系の大学人たちが、ハゲワシよろしく割り込んできたのだ。
 ナチは、比較的少人数のはぐれ者集団から始まったが、ほどなく普通の学歴をもった人間がどんどんメンバーに加わるようになった。ときがたつと、大学人のほとんどがナチ化された人間になっていた。
 ハイデガーのナチスに対する協力は、ヨーロッパ中の崇拝者たちを戸惑わせた。そして、ドイツ国内では、大きな影響力を発揮した。
 カール・ヤスパースがハイデガーに「あんな無教養な人間にドイツを統治させていいものかどうか」と問いかけると、ハイデガーは、「教養など、どうでもいい。あの人物の素晴らしい手を一度見たまえ」と答えた。なんと非論理的な答えか・・・。
 このハイデガーに、ユダヤ人の若き女子学生、アンナ・ハーレントも強く心が惹かれ、秘密の愛人となったのでした。
ハイデガーは、ヒトラーを礼賛した。ナチズム支持大会にハイデガーは出席して演説もしているのです。信じられない哲学者の堕落です。
 ミュンヘン大学の哲学教授クルト・フーバーは1943年7月、ギロチンで処刑された。
 学生を感化させることにかけては、フーバーに及ぶ者はいなかった。その一人がトップクラスの才媛ゾフィー・ショルだった。白バラ兄妹を感化した教授もまた、ナチスによってギロチンで処刑されたのです。
 フーバーは、左翼でもなければ、ユダヤ人でもなかった。保守的なナショナリストだった。フーバーは、いかなる類の暴力も激しく嫌っていたし、ヒトラーをドイツ社会の価値観を破壊する者だととらえていた。
 ハイデガーとは異なり、フーバーは、ヒトラーの話しぶりに惑わされることなく、そして大学にいる多くの同僚とは逆に、声を出した。フーバーがカントの講義をするのは、ヒトラーに抵抗せよと言う本当のメッセージを学生に伝えたかったからだ。
 白バラは、哲学に強い関心をもった学生活動家が主体となった、結束の固い小グループである。白バラは勇敢であるとともに、非暴力を貫き、自分たちにできる唯一の手段は言葉でもって抵抗した。
 クルト・フーバーが処刑されたあと、家族は遺族年金の支払いを拒否された。学生や友人たちが遺族へのカンパを募ったところ、ナチスは没収し、現行犯で逮捕した。そして、ギロチン使用料として、給与2ヶ月分に相当するお金の支払いを命じた。
 ハイデガーは、戦後、サルトルの後援で返り咲いたが、戦前のナチス礼賛について、まったく反省を示さなかった。
 ユダヤ人である、アンナ・ハーレントの葬儀は無宗教で行われた。
 いろいろ、深く考えさせられる本でした。
(2015年4月刊。3800円+税)

2015年7月28日

シハーディストのベールをかぶった私

                              (霧山昴)
著者  アンナ・エレル 、 出版  日経BP社

 「イスラム国」にヨーロッパの若い男女が吸い込まれているのはショッキングな出来事です。
 インターネットをつかった勧誘がすすみ、現実世界とはかけ離れた仮想社会の空理空論に青年男女が惑われているのです。日本でいうと、かつての(今も?)オウム真理教のようなものなのでしょう・・・。
 インターネットばかり見ていると、その仮想社会が現実のように見えてしまい、ひとたびシリアに入国したら、もう逃れる術はないのです。なにしろ、自爆テロが推奨される「社会」なのですから・・・。その要員に、おだてられて、なりかねません。
ノルマンディー出身の女の子は、たった一人でインターネットを見ているうちに、人生すべての答えを見つけたと思った。数週間後、キリスト教からイスラム教へ改宗し、イスラム過激派の部隊に参加するために旅立った。
「資本主義っていうのは、この世の堕落の源なんだ。キミがテレビを見ながらお菓子を食べ、CDを買い、店のショーウィンドーを眺めているとき、イスラム教徒だけの国を建てて幸せに暮らすというささやかな夢を抱いた仲間たちが、毎日たくさん死んでいる。オレたちが命をかけているというのに、キミたちは一日中、どうでもいいことばかりに時間を費やしている。キミは、美しい心の持ち主なのに、不信心者の世界で生きている。そのままだと、キミは地獄で焼かれてしまうんだ」
女性は誰にも1センチであっても肌を見られてはいけない。ベールは顔を見せてしまうから不十分だ。だから、ブルカを着て、その上にベールをかぶらなければならない。
 「自爆戦士は、もっとも有能な連中だ。信仰心があり、勇気がある。アッラーのために自爆できる人間は、栄誉とともに天国へ旅立つ。
 自爆戦士は、自分の命を犠牲にする覚悟のある戦闘員である。ISでは、もっとも弱いものは物資補給などの兵站業務を担当し、『その次に弱い者たち』が自分自身を吹き飛ばす。その仲間は、日に日に増えている」
 フランス人の若い女性ジャーナリストが、年齢を20歳と偽って、「イスラム国」の幹部(フランス人)とスカイプで会話して、侵入しようとした顚末が記されています。
 インターネットだけの接触なのですが、身元がバレないように気をつけながらスカイプで会話していく様子がリアルに伝わってきます。そして、その身に危険が迫ってくるのにハラハラドキドキさせられるのです。そこには、バーチャルではない、怖い現実があります。
(2015年5月刊。1800円+税)

2015年7月25日

「イタリアの最も美しい村」全踏破の旅

                            (霧山昴)
著者  吉村 和敏 、 出版  講談社

 イタリアの「美しい村」234村を4年半もかけて全部まわり、紹介した写真集です。
 すごいです。立派です。楽しい写真集です。そして、いかにも美味しそうなスパゲッティがひそかに紹介されていて、ああっ、これ食べたいと思わせます。さすがプロの写真家による写真集です。そして、それぞれの村の故事来歴がよく調べてあるのにも驚嘆しました。
 私はフランス語なら、なんとか話せますので、フランスの「美しい村」めぐりはしたいと思いますが、イタリアは言葉の障害があるので、行く気にはなれません。この写真集で、しっかり行ったつもりになりました。
 「美しい村」というだけあって、すごい写真が満載です。チヴィタ・ディ・バンニョレジョという村は、まさしく「天空の城」です。一本の狭い橋が小高い山にある村を結んでいます。ただし、この村の住人は、今や8人という寂しさです。
モラーノ・カラブロという村は、小高い丘に至るまで、ぎっしりと家が建ち並んでいて壮観です。
 トスカーナ州にあるピティリアーノという村も、緑の樹海の上にそそり立つ岩全体が村になっています。フランスで私も行ったことのあるレ・ボーのような村です。ちなみに、レ・ボーは、松本清張の本の舞台にもなっています。
 このピティリアーノ村は、まったく観光地化されておらず(レ・ボーは完全な観光地です)、三毛猫がけだるそうに寝そべっています。
 2009年に出版された「フランスの美しい村」に続く、イタリア版の写真集です。
 この本には、強く心が惹かれるのですが、私は一人旅はしたくありません。安全面という理由もありますが、なんといっても一人で食事をしたくないというのが最大の理由です。
 おいしい料理を、これは美味しいねと言いながら、その日の感想を気楽に心を許して話せる人と旅行したいのです。
 それにしても、著者の敢闘精神には深く感謝します。まだ50歳にもならない、なかなかのイケ面の著者であることに気がつきました。いつも、ありがとうございます。
(2015年3月刊。3800円+税)

2015年7月17日

スペイン無敵艦隊の悲劇

                               (霧山昴)
著者  岩根 圀和 、 出版  彩流社

 エリザベス女王の統治するイギリス艦隊がスペインの無敵艦隊を完膚なきまでに撃滅した「史実」は世界史を学んだものの一人として、忘れることができません。
 ところが、この本によれば、スペイン「無敵」艦隊なるものは自称でも、他称でもなかったというのです。イギリス軍がスペインから来た艦隊に勝利したあとの本で、「無敵」のスペイン艦隊をやっつけたと書いたところ、それが、あたかも自称ないし他称として広まったというだけだというのです。知りませんでした・・・。
 スペイン艦隊は、実際には、イギリス軍の艦船に初戦から敗退しているから、その意味でも、ちっとも「無敵」ではなかった。
 1588年のこの戦争で、スペイン王国フェリペ2世は、イングランドのエリザベス女王に宣戦布告していない。当時、スペインのリスボン港に大艦隊を終結させながらも、それをひた隠しにして出撃した。艦隊に乗船する兵士たちに目的地は知らされなかった。イギリスへ戦争しに行くと布告したら兵士を確保できないので、新大陸へ向かうという嘘の布令が出された。
 この海上戦において、イギリスは自力で勝ってはいない。むしろ、戦闘らしき戦闘は、ほとんどなかった。スペイン艦隊は、イギリスから打撃を被ったのではなく、飢え渇きと病気、そして悪天候による強風と嵐による難破のせいで、大損害を被った。
 スペインには、どうしてもイングランドへ艦隊を派遣せざるを得ない国内事情があった。その一つが、ドレイクをはじめとするイギリス海賊による傍若無人な掠奪行為が横行していたこと。
 イギリス女王の許可を得てスペイン船を掠奪しているイギリス海賊船が200隻をこしていた。
 スペインは、ドレイクなどの海賊船の出現で大あわて・・・。掠奪金の分け前にあずかって大いに国庫をうるおしているエリザベスとすれば、ドレイクにいい顔をしたくなるのも無理ないところだ・・・。
イギリスとスペインの艦船の大砲の威力を発揮していない。5時間かかって、500発の砲弾を打ち出した。イギリス艦隊は、ほとんどがカルバリン砲だった。
 カルバリン砲は、カノン砲よりも射程距離が長い。それでも600メートル。カノン砲は、砲弾を1500メートルも飛ばすけれど、有効な射程距離は、せいぜい450メートルだった。
 当時の鉄砲や大砲は、すべて滑空砲なので、命中率は悪い。
 お互い波動に揺れる船同士なので、照準器もないから、砲撃の命中率は0%に近い。
 この本を読むと、スペイン国王フェリペ2世がスペイン艦隊を派遣しようと熱心だったこと、スペイン「無敵」艦隊は出発当初から、いいかげんすぎる部隊として悪名高いものがあったことが分かります。
 1588年の戦闘について、7月22日に出港したスペイン軍艦船は、130隻、2万6千人だったところ、同年9月から帰ってきたのは、そのうちの半分の65隻、1万3千人ほどだった。
 イングランド艦船による「火船」攻撃は、スペイン艦船に被害をもたらすことはなかった。
スペイン「無敵」艦隊の実際を知り、驚き、かつ呆れました。まるで、戦前の帝国陸軍のように、現実に立脚せず、スペイン国王の頭のなかにある空理空論のみに頼っていたのです。これって、まるで、現代日本・・・?
(2015年3月刊。3500円+税)

2015年7月16日

キム・フィルビー

                                (霧山昴)
著者  ベン・マッキンタイアー 、 出版  中央公論新社

 イギリスの市場もっとも有名なスパイの一生を明らかにした本です。
ケンブリッジ5人組として、良家の育ちなのに共産主義を信奉し、スパイ・マスターの世界に入り、ソ連へ情報を売り渡していたのです。
 ところが、あまりにも最良の情報だったため、逆にソ連の情報当局が疑ったのでした。
 ちょうど、日本からのゾルゲ情報をスターリンが疑ったのと同じです。
 スパイが送ってくる情報は「ニセモノ」かもしれない。味方を撹乱させるためのものかもしれないというのです。生命を賭けて送った最良の情報がたやすく信じてもらえないというのは、笑えないパラドックスです。
 キム・フィルビーは、崇拝者を勝ちとる類の人間だ。フィルビーは、相手の心に愛情を、いとも簡単に吹き込んだり、伝えたりでき、そのため相手は、自分が魅力のとりこになっているとは、ほとんど気がつかないほどだった。男性も女性も、老いも若きも、誰もがキムに取り込まれた。キム・フィルビーの父親は著名なアラブ学者で探検家で作家だった。
 キム・フィルビーは、上司として最高だった。ほかの誰よりも熱心に働きながら、苦労しているそぶりは一向に見せなかった。
 1930年代にイギリスのケンブリッジ大学を猛烈なイデオロギーの潮流が襲った。
 ナチズムの残虐性を目にした友人の多くは共産党に入ったが、フィルビーは入党はしなかった。
 ソ連の諜報組織は、異常なほどの不信感にみちており、フィルビーら5人の情報が大量で、質もよく、矛盾した点のないことを、かえって疑わしく思った。5人全員がイギリス側の二重スパイに違いないと考えたのだ。
 フィルビーがモスクワに真実を告げても、その真実がモスクワの期待に反しているため、フィルビーの報告は信用されないという、とんでもない状況が生まれた。フィルビーは、おとりであり、ペテン師であり、裏切り者であって、実に傲慢な態度で我々(ソ連側)に嘘をついていると見られていた。
 そして、ソ連側のスパイ・マスターたちが次々に黙々とスターリンによって粛清されていった。フィルビーは、これを黙って受け入れた。
 キム・フィルビーは、国民戦線派(フランコ派)のスペインから、共産主義国家ソ連から、イギリスから、三つの異なる勲章をもらった。
 キム・フィルビーは、イギリス情報機関からアメリカに派遣されています。アメリカでも、もちろん有能なスパイに徹したのです。
 フィルビーにとっては、欺瞞が楽しかった。他人に話のことをできない情報を保持し、そのことから得られるひそかな優越感に喜びを見出す。フィルビーは、もっとも近しい人々にさえ真実を知らせずにいることを楽しんでいた。
 キム・フィルビーの流した情報によって、どれだけの人々が殺されたかは不明だと何度も強調されています。
 ソ連側のもとスパイの告発によってキム・フィルビーは一度こけてしまいましたが、証拠不十分だったので、再起することができたのです。そして、二度目は、ついにソ連へ亡命してしまいます。1988年5月にキム・フィルビーはモスクワの病院で亡くなりました。
 イギリスの上流階級に育った子弟が、死ぬまで二重スパイであり続けたという驚異的な事実には、言葉が出ない思いがしました。
(2015年5月刊。2700円+税)

2015年7月10日

ニュルンベルク裁判

                               (霧山昴)
著者  芝 健介 、 出版  岩波書店
 
 日本の戦犯を裁いたのは極東国際軍事裁判(東京裁判)です。安倍首相は戦前の日本がした侵略戦争を間違った裁判と認めようとはしません。国際的にみて、とりわけアメリカが許すはずのない特異な歴史観です。「間違っていない」のだから、反省しないし、謝罪もしないのです。本当に狂っているとしかいいようのない日本の首相です。これでは真の平和友好外交など、できるわけがありません。
 この東京裁判と対比されるのがドイツの戦犯を裁いたニュルンベルグ裁判です。
 300頁もの大部な本書を読んで、初めて裁判の実際を私は知りました。
 終戦前の1944年9月の時点で、アメリカとイギリスのトップレベルでは、主要戦犯については、裁判なしで即決処刑という見解が有力だった。1943年11月のテヘラン会談で、スターリンは、ドイツ国防軍のランク上位の将校5万人を銃殺したらいいと発言した。
 1945年2月のヤルタ会談において、戦争犯罪の法的追及という大筋が決定された。
 ヒトラーたちが裁きの論理をひっくり返してしまうのではないかと連合国側は心配した。
 ソ連もフランスも、自国の国民がこうむった厖大な塗炭の苦しみの経験をふまえ、他の戦争犯罪のカテゴリーでは規定できない犯罪行為として、「人道に対する罪」をもって裁くことに異議を唱えなかった。
 ニュルンベルグ裁判は、1945年10月18日、起訴状が提出されて始まった。11月20日に被告人がほぼそろって開廷された。
 誰を被告とするかについて、アメリカ案は、軍・経済界の指導者も加えることにしており、これにソ連とフランスが賛同した。
 「人道に対する罪」としては、ユダヤ人絶滅対策と並んで、オーストリア首相ドルフス、社会民主党指導者ブライトシャイト、共産党指導者テールマンの虐殺もあげられている。
起訴状の読み上げだけで2日を要した。
 開廷して10日目の11月29日、強制収容所の解放時の状況をうつしたフィルムを法廷で上映した。この映画のとき、かのゲーリングは両肘をついたままあくびをした。
 1946年3月から、ゲーリングは満を持して被告人弁論にのぞんだ。弁護人の質問とゲーリングの長広舌は、3日間も続いた。したたかなゲーリングは、戦後ドイツで実施・展開されている、ナチに対する予防検束の途方もない規模は、ナチ時代のそれどころではないと、法廷をまぜ返した。
 1945年11月から始まり、9ヶ月間続いた審理は、1946年8月末にようやく終了した。
 裁判所は、ヒトラーはひとりでは侵略戦争を遂行できなかった。諸大臣、軍幹部、外交官、企業人の協力・協働を必要としたのであって、彼らが目的を知り協力を申し出た事実が存在する以上、ヒトラーの立てた計画に自らを関与させたものである。
 このように、しごくもっとも論理で裁判所は判断しています。
 1946年10月1日、判決文の朗読は終了した。ゲーングなど12人(1人は欠席)に絞首刑を宣告した。3人については無罪判決を下した。死刑執行は2週間後の10月15日深夜だった。ゲーリングは、執行直前に自殺した。
 その後、継続裁判が続いた。たとえば、法律家裁判がある。ナチ司法体系において高位を保護した裁判官・検事・法務官僚たちが被告とされた。
 ヒトラーの命令は、国際共同体の法に違反したのだから、総統みずからも、ヒトラーの部下たちも保護しえない。このように書かれている。
 行動部隊裁判は注目すべきものであった。ドイツ軍支配下のソ連地域で100万人が行動部隊の犠牲になった。この被告たちは、ありふれた意味での悪漢・無頼漢の類ではなかった。文明の恩返しに浴さない野蛮人ではなかった。むしろ、十分な教育を享受していた。オペラ歌手としてコンサートを開いていたり、聖職者だった者もいる。よき出自をもち、教養ある被告が多かった。そして、被告のほとんどは、「上からの命令」という弁明をくり返した。14人の被告に対して死刑が宣告された。
 これらの裁判で有罪とされた被告は5~6万人に上る。西側で有罪とされた被告5025人のうち806人に死刑が宣告され、486人が処刑された。
 ソ連占領区では、有罪宣告された4万5000人の3分の1がシベリアへ強制労働へ移送された。死刑宣告数は不明。
 ところで、歴代の西ドイツ政府は、ニュルンベルクの裁判の判決を公式には受け入れなかった。国連安保理によるボスニア法廷、ルワンダ法廷が開かれ、ニュルンベルク原則が再び脚光を浴びるようになって、ニュルンベルク裁判が戦勝国による裁きだったという議論が根拠を失った。
 1945年秋、敗戦の衝撃がまだ生々しかったときのドイツでは、ナチ犯罪を訴追することは政党とする人が8割近かった。しかし、1950年には、38%にまで下落した。やがて、過去の「忘却」ないし「駆逐」への願望が圧倒的になった。しかし、1950年代後半に、過去は清算されていないという批判も芽生えてきて、過去に向きあうドイツ人が増えていった。
 ドイツでも、ニュルンベルク裁判に対する見方がいろいろ揺れ動いていたことを今回、初めて知りました。それだけ重たい負の遺産であるわけです。それでも、しっかりそれを見つめることからしか、将来は開けません。これは「自虐史観」というものではありません。しっかり未来を見すえるために必要なことなのです。
(2015年3月刊。3200円+税)

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