弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

ヨーロッパ

2015年10月 9日

チャップリンとヒトラー


(霧山昴)
著者 大 野  裕 之   出版 岩波書店
 
チャップリンとヒトラーは、まったく同世代なのですね。やったことはまるで正反対。一方は人々を大いに笑わせ、そして笑いながらも人生と政治について深く考えされてくれました。もう一方は、多くの人々を騙し、殺してしまいました。
1889年4月、20世紀の世界でもっとも愛された男と、もっとも憎まれた男が、わずか4日違いで誕生した。なんという偶然でしょうか・・・。
チャップリンは極貧の幼少時代を過ごした。チャップリンはユダヤ人ではない。父方の祖父の妻がロマ(ジプシー)なので、チャップリンは、ロマとのクォーターだというのを誇りにしていた。
ヒトラーは中流家庭の出身。ヒトラーは、若いころは「引きこもり」だったが、ドイツ軍に入って、なんとか兵長にまでは昇進した。
チャップリンは、5歳のときミュージック・ホールで芸をするようになり、24歳まで働いた。短時間のうちに少人数の舞台で客の心をつかむ演技術を鍛えあげた。舞台女優だった母親がチャップリンにユーモアにみちた笑いと人間味あふれる愛を与えてくれた。それによって貧苦という現実とチャップリンはたたかうことができた。
ヒトラーは長年にわたって兵役逃れをしていた。チャップリンには兵役のがれをした事実はない。チャップリンは体重不足で兵役不適格となったのである。
二人とも25歳になるころ、お互い知らずに、同じちょび髭をはやした。
1919年10月、30歳のヒトラーが公開の集会で初めて演説した。ドイツ労働者党の集会だった。それまで、人前で話すことはおろか、他人と接触することすら稀だった30歳の男の鬱屈した人生で積りに積もった怨念が、堰を切ってとめどもなくあふれ出し、爆発した。このとき、希代の演説家ヒトラーが誕生した。30歳にして表舞台に躍り出た天才演説家は、当時のドイツの時流に乗った。
ヒトラーは皮肉なことに、東欧移民のユダヤ人4人兄弟の率いるワーナーブラザーズが発明し、ユダヤ人の天才エンターテイナーであるアル・ジョルソンの主演作で初めて導入された技術であるトーキーを駆使して、権力を手に入れた。
チャップリンの長い映画人生を通して、公開時に損失を出したのは『殺人狂時代』(1947年)のみ。株価大暴落の直前にもっていた株式を全部売って利益を確保した。チャップリンは天才的な経済センスの持ち主でもあった。
チャップリンは、こう言った。「わたしは愛国者ではない。・・・600万人のユダヤ人が愛国心の名によって殺されているとき、誰かがそんなものを許せるか」
チャップリンの映画を、ヒトラー政権下のドイツは徹底的に批判し、上演を禁止した。チャップリンは、ナポレオンを主人公とした映画を構想した。しかし、その構想は日の目を見ず、次第にヒトラーをモデルとする『独裁者』のほうへ関心が移っていった。
チャップリンは、どれだけいいギャグであっても、単に世相を反映させただけのギャグや、本筋と関係のないギャグは捨てた。問題の本質に近づいていくためだ。
チャップリンが『独裁者』の制作をすすめている途中、イギリスは、公的機関や政治家などを使って、国をあげて徹底した妨害工作をすすめた。イギリスにとって、当時のドイツは同盟国だったからである。
うむむ、なんということでしょうか・・・。ヒトラーを擁護する立場でイギリスが行動していたとは、許せませんよね。
イギリスのメディアとナチスのメディアは、完全に歩調をあわせていた。1939年5月ころのことである。
そしてアメリカ。アメリカでも『独裁者』の妨害キャンペーンが大々的にすすめられていた。なぜなら、当時のアメリカでは、反ユダヤ主義の風潮が90%をこえ、財界はナチス政権に多額の投資をしていたから。当時のアメリカは親ファシズムとも呼べる国だった。映画づくりを止めさせようとアメリカの一般大衆からチャップリンに対して多くの脅迫の手紙が届いた。
これは、ナチス・ドイツでありアメリカであれ、戦争へと突きすすむなかで、いかに人々が冷静さを失っていくかを如実に指示している。
チャップリンは、手に入る限りのヒトラーのニュース映画をみた。そして、こう言った。
「やつは役者だよ」
チャップリンはヒトラーの演技に心から感心していた。
『独裁者』の最後のシーンでチャップリンは6分間もの長広告をふるう。周囲の人々がそんなことをしたら興行収入が100万ドルは減るから、やめるように忠告した。それに対して、チャップリンはこう言って反論した。
「たとえ500万ドル減ったところで、かまうものか。どうしても私はやるんだ」
ヒトラーがパリに入場したのは1940年6月23日。その翌日、チャップリンは、たった一人でラストの演説の撮影にのぞんだ。この演説の部分だけで、4日間をつかった。
公開の日。1940年10月、ニューヨーク。劇場にはなだれ込む大群衆で、もはや制御不能だった。左派からは共産主義的だと攻撃され、右派からは生温センチメンタリズムと批判された。映画批評家は、キャラクターにあっていないと、この演説は酷評された。しかし、観客は、そのシーンに毎回、耳が聞こえなくなるほどの拍手を送った。演説は大衆の愛する名文句となった。
ヒトラーの恐怖のまっただ中にいるイギリスでは、「ドイツは、これを見ろ!」と。『独裁者』こそ、ナチスへの武器だと国民が待ち望んでいた。
笑いこそヒトラーがもっとも恐れる武器であり、それは一個師団以上の力なのだ。
1941年2月までに世界中で3000万人が見たという世界的大ヒットとなった。しかし、戦前の日本では『独裁者』は公開されていない。
笑いこそ、独裁者とよくたたかう武器になるというのは、本当のことです。例の安倍なんか、笑いでぶっとばしてやりましょう。チャップリンの不屈の戦いがよく分る、興味深い本です。改めて『独裁者』を私もみてみたくなりました。

(2015年6月刊。2200円+税)

2015年10月 8日

国際指名手配


(霧山昴)
著者  ビル・ブラウダー 、 出版  集英社

 プーチン大統領とロシアという国が司法を思うように操っていることがよく分る本です。
 私は、アメリカの民主主義も、口で言うほどすばらしいものではなく、強大資本が国政を思うままに操っていると考えています。それでも、アメリカには、形ばかりになっても民主的手続きというものが厳然とし存在しています。ところが、プーチンのロシアでは、むき出しの暴力、国がからむ詐欺事件が横行しているようです。そのすさまじさには、腰が抜けそうになります。
 共産主義体制の崩壊以降、ロシアでは、20人ほどの寡頭政治家が国の資産の39%を盗み、一夜にして大富豪になった。
 著者の父の父(祖父)アール・ブラウダーは、戦前のアメリカで1936年と1940年の2回、共産党から大統領選に立候補している。戦後は、マッカーシズムにより迫害を受けた。
 著者の父は、16歳でMITに入学し、20歳のとき、プリンストン大学大学院で博士号を取得した。ユダヤ人って、本当に頭の良い人が多いのですね・・・。
 著者の家では、神童でなければ、家族の中に居場所がなかった。凡人に生まれたら、悲劇になるんですね・・・。そこで、著者は、若くしてスーツにネクタイを締めた資本主義者になると決めたのです。
 祖父は、アメリカでもっとも有力な共産主義者だった。東ヨーロッパの混乱している状況を見て、著者は東ヨーロッパでもっとも有力な資本主義になることを心に決めた。要するに、お金もうけに徹底するのを人生の目的にしたのです。
70年にわたってKGB(ソ連国家保安委員会)の支配を経験し、強い疑心暗鬼が今なお消えずに残っているロシア人は、情報を守ることに関して用心深かった。ロシアでは、誰かに真実の情報を伝えると、悪いことしか起こらないというのが、一般通念だ。
 ロシアの行動は、国益で決まるのではなく、金で決まる。それも、役人が犯罪行為で手に入れたお金だ。
 「ソーセージと法律は、その作り方を知らないほうが安心して眠れる」
プーチンはめったに腹の中を見せない。これほど得体の知れない指導者も珍しい。予想させないのが、プーチンの手口なのだ。態度決定を保留しておきながら、戦いから逃れることも、弱みを見せることも決してない。 
 ロシアにおいて政府側の人間が非公式に会いたいと言うときの目的はただ一つ、賄賂の要求だ。それを拒絶したら、どうなるか・・?
 その答えを著者は体験したのです。しかも、それはきわめて過酷な体験でした。警察が会社を捜索し、書類を押収していった。そのとき会社のハンコや書類を使って、契約書がねつ造された。ロシアのどこかの裁判所で、著者は途方もない金額を支払えと命令された。
 なんと恐ろしいことでしょうか・・・。
 モスクワでは、救急車が人を乗せて料金をとるのは珍らしいことではない。通りを走る車は、すべてがタクシー代わりになる。個人の車も、ごみ収集車も、警察の車両も、誰もが少しでも稼ぎを得ることに必死で、何に対しても料金をとる。
 ロシアの人々は、自分を守るために、できるだけ目立った行動を避け、誰にも目を止められないことを願うようになった。
 ロシア人が直接的な質問に対処する最善の方法は、何時間も意味のない話をして、問題をはぐらかすこと。
 ロシアにおけるビジネス文化は刑務所文化と同じだ。刑務所の中では周囲からの評価がものを言う。苦心して手に入れた立ち位置は簡単には手放せない。やられる前に相手をつぶさなくてはいけない。さもないと、たとえ相手の攻撃を切り抜けたとしても、弱いとみなされてしまう。あっという間に敬意は失われ、襲われる。これが、ロシアのオリガルヒ政治家のやり方だ。ロシア政府がいったん攻撃の矛先を向けたら、手加減はしない。徹底的にダメージを与えるまで攻撃する。
著者の弁護をしていたセルゲイはまだ36歳だった。ロシアの現実ではなく、ロシアの理想に目を向けていた。そのためセルゲイは気づかなかった。ロシアは法が支配する国ではない。人が支配する国なのだ。しかもその人とは悪人だった。
 結局、セルゲイ弁護士は警察に捕まり、暴行され、虐待され、ついに死に至った。拘置所で発症した病気すら、意図的に治療しないことで、セルゲイに対する拷問の道具として利用した。さらに、ロシアは、セルゲイの死後、著者とセルゲイに対して脱税の罪で有罪を宣告し、懲役9年を言い渡した。死者に対して、死んでいるのが分かっているのに懲役刑を課すとは、信じられません。
 それは、すべてショーであり、見せかけの裁判でしかなかった。堅苦しい法廷を取り仕切るのは、汚職判事であり、警護する守衛は命令どおりに動くだけの存在でしかない。弁護士は本当の裁判らしく見せかけるためにそこにいるだけで、檻の中には被告人さえいない。そこは嘘が支配する場所だった。
司法の独立なんて、まるで縁遠い世界の話のようです・・・。
(2015年6月刊。2200円+税)

2015年10月 7日

「走れ、走って逃げろ」

(霧山昴)
著者  ウーリー・オルレブ 、 出版  岩波少年文庫

 第二次大戦前、ポーランドに住んでいたユダヤ人の少年が苛酷すぎる状況を生きのびていく実話です。私は、この本を読む前に、映画『ふたつの名前を持つ少年』をみていました。
 ひとつの名前は愛を、もうひとつは勇気をくれた。
 1942年、ポーランドのワルシャワにあったゲットー、ユダヤ人の居住区から8歳の少年が逃げ出した。どこへ行けば安全なのか・・・。
 ユダヤの少年は、本当の名前スルリックからユレク・スタニャックというポーランドの名前に変える。そして、キリスト教徒らしく祈りの作法を教えてもらう。それでも、ユダヤ人の割礼は隠せない。裸になったときに、それを見せられて、通報される。そして、逃げる、逃げる。森へ逃げて、子どもたちの集団に入り、また一人きりで生きのびる。
 わずか8歳か9歳の少年が、森の中で一人きりで過ごすという状況は、信じられません。
 助けると思わせてゲシュタポ(ナチス)に連れ込む農民がいたり、重傷の少年をユダヤ人と知ると手術もせずに放置する医師がいたり、ひどい人間がいるかと思うと、なんとかして少年を助けようとする大勢の善良な人々がいるのでした。そんなこんな状況で、ついにユダヤの少年は戦後まで生きのびることができました。でも、右腕を失っていたのですが・・・。
 少年役が、ときどき表情が違うのに、違和感がありました。あとでパンフレットを買って読むと、なんと性格の異なる一卵性の双子の少年を場面に応じてつかい分けていたというのです。なーるほど、と納得できました。
 いかにも知的で可愛らしい少年ですから、本人の生きようとする努力とあわせて、視た人に助けたいと思わせたのでしょうね・・・。
 逆にそう思われなかったり、チャンスを生かせなかった無数の子どもたちが無惨にも殺されてしまったのでしょう。戦争は、いつだって不合理です。安倍首相による戦争法は本当に許せません。
 この本は、映画の原作本です。もっと詳しいことが判りますし、子ども向けになっています(団塊世代の私が読んでも面白いものですが・・・)。
 なにしろ、森の中で、どうやって生きのびろというのか、私にはとても真似できそうもありません。子どものうちに、こんな本を読んだら今の自分の生活がぜいたくすぎることを少しは反省するのでしょうか・・・?
 でも、戦争を始めるのは、いつだって大人です。子どもは、その犠牲者でしかありません。

(2015年6月刊。720円+税)

2015年10月 6日

ヒトラーとナチ・ドイツ


(霧山昴)
著者 石田 勇治   出版 講談社現代新書
 
日本の国会で、首相が平然とウソをつき、与党が拍手かっさいして、大手マスメディアがそれを無批判にたれ流して、世論を操作しようとしています。
憲法違反の安保法制法が「成立」してしまいました。今の日本では、憲法が改正されてもいないのに、憲法に明らかに反する法律によって安倍政権は世の中を動かしていこうとしてます。 こんなとき、ヒトラーの手口に学べばいいんだという元首相(副首相)のコトバが「生きて」きます。本当にとんでもない世の中になりました。
「おかしいだろう、これ」。新潟県弁護士会会長の一口コメントに、多くの共感の声が上がったのも当然です。
この本は、ヒトラー台頭からナチス・ドイツが残虐の限りを尽くしたうえで自滅していくまでを、とても分かりやすくたどっています。
ヒトラーはオーストリア生まれ。父親は、非嫡出子だった。ヒトラーは、このことを生涯ひた隠しにした。母親は乳がんのため苦しくて亡くなった。
大都会ウィーンでヒトラーは青年時代を過ごしたが、貧しかったわけではない。徴兵検査・兵役を逃れるため、ヒトラーはホームレスの一時収容所に入っていたこともある。 
第一次世界大戦が始まると、25歳でドイツ帝国陸軍に志願兵として入営した。ヒトラーは危険な前線にはいかず、比較的安全な後方勤務に就いた。
ヒトラーの演説は、すべて巧みな時事政談だった。
世界を善悪二項対立のわかりやすい構図におきかえ、情熱的に語る。
聴衆の憤りは、おのずと悪に向かう。その悪の具現者こそ、ユダヤ人、マルクス主義者、そしてワイマール共和国の議会政治家だった。
ヒトラーは、ナチ党の実権を握ると、独裁権力を行使した。
ヒトラーがナチ党の党首となったのは、優れた演説家であり、宣伝家であったから。集会活動に力点をおくナチ党にとって、ヒトラーのたぐいまれな観客=聴衆動員力は、ナチ党を他の急進右派勢力から際立たせると同時に、ヒトラーをカリスマと感じる人々に根拠と確信を与えた。
ナチ党には、党の意思決定の場としての合議機関は存在せず、党首を選出する規則も任期も定められていなかった。入党条件は、ヒトラーに無条件に従うことだった。
ヒトラーの肖像写真を撮ることを許された唯一の写真家がいた。その名は、ハインリヒ・ホママン。
ヒトラーの「我が闘争」(1925年)は、獄中でヒトラー自らタイプライターをたたいて執筆したもの。ヒトラー自身は、「嘘と愚鈍と臆病に対する四年半の戦い」というタイトルを望んでいた。この本は、累計1245万部も売れた。「我が闘争」は、虚実とりまぜて語るヒトラー一流のプロパガンダの書である。
この本が売れたため、首相としての給料はヒトラーにとって不要なほどだった。
ナチ党は、全国進出にあたって弁士不足という問題に直面した。そこで、1929年6月、ヒトラー公認の弁士養成学校を開校した。開校してから1933年までに6000人の全国弁士を送り出した。
ナチ党躍進のカギは、国民政党になったことにある。すべての社会階層にまんべんなく支持される大政党になった。
1933年1月30日に、ヒトラーはヒンデンブルグ大統領によって首相に任命された。このころ、ナチ党は得票数をかなり減らし、党勢は明らかに下降局面に入っていた。
1932年7月の国会選挙で第一党になかったが、同年11月の選挙では200万票も失い、議席数も196と後退していた。このとき、ドイツ共産党は躍進していた。その一審の原因は、ヒトラーのカリスマ性の限界だった。ヒンデンブルグ大統領が1月に成立させたヒトラー政権は、国会に多数派の基盤のない「少数派政権」だった。
ヒトラーは首相になってすぐ、ラジオで演説した。このときは穏やかで信心深い政治家を装った。そして、ヒトラーは3月に選挙を行った。機能不全に陥った国会をよみがえらせるためではなく、終わらせるために・・・。
1933年2月27日夜、国会議事堂が炎上した。翌日には、共産党の国会議員などを一網打尽に逮捕した。非常事態宣言、大統領緊急令によるものだった。
そして、1933年3月、授権法が成立した。これによって、国会は有名無実になった。このとき反対したのは、社会民主党の94人の議員のみ。4年間の時限立法のはずだったのが、1945年9月まで効力があった。授権法は、国会と国会議員だけでなく、政党の存在理由も失わせた。共産党の議員はすでに逮捕されていたが、続いて社会民主党も非合法化された。こうして、14年間続いていたワイマール共和国の議会制民主主義は、わずか半年でしかも合法性の装いを保ちながら、ナチ党の一党独裁体制にとって代わられてしまった。
この本は、なぜ文明国ドイツで、こんなヒトラーのような野蛮な独裁者にみんなが従ってついていったのかと問いかけ、その謎を解明しています。国民の大半が、あきらめ、事態を容認し、目をそらした。様子見を決め込んで動かなかったものが大勢いた。甘い観測と、安易な思い込みがあった。教会も、学者もヒトラー支持をうちだしたことも大きかった。そして、ヒトラーは既成エリートとの融和をすすめた。
いまの日本は安倍政治によって危険な曲がり角に立たされています。このとき、誰かが何かをしてくれるだろう。安倍政治はいずれ行き詰まるだろうから、もう少し様子を見ておこうなんて言っているときではないと私は思います。今こそ私も、あなたも黙っていることなく、声を上げるべきなのではないでしょうか・・・。
この本を読みながら、そのことを私はひしひしと痛感しました。

(2015年6月刊。920円+税)
 

2015年9月25日

独裁者は30日で生まれた


(霧山昴)
著者 H・Aターナー・ジュニア   出版 白水社
 
  ヒトラーが首相になったのは、ヒンデンブルク大統領ほかとの対人関係のなかで生まれたものだということを明らかにした面白い本です。
  ヒトラーは、本人以外は誰も首相になれるとは思っていなかったのに、同じく落ち目だったパーペンと手を組んで、逆転して首相になったのでした。本当に悪運の強い男です。そして、それによって全世界にとんでもない災いをもたらすのでした。
  ヒトラーを嫌っていて、渋々、首相に任命したヒンデンブルク大統領について、次のように評しています。
  ヒンデンブルクには、強靭な独立不羈の精神が欠如しており、自分から滅多なことでは主導権を握らなかった。その全生涯を通じて、ヒンデンブルグは周囲の助言に大いに依存し、その特徴は年とともに一層顕著になった。無感動に見えるその外見とは裏腹に、ヒンデンブルクはストレスがかかると感情の爆発に負け、口ごもり、とめどもなく涙を流した。ヒンデンブルクは、軍事問題以外には知的関心をまったくもたず、政治をふくめて極度に単純化された見解以上のものをめったに持っていなかった。
  ヒトラーのナチスは、通常の意味での政党ではなかった。それは、ヒトラーが繰り返し主張したように、党員に党への全面的かつ無条件の献身を要求する運動だった。ヒトラーはビヤホール一揆が失敗して1年以上も刑務所生活を余儀なくされたが、その後は、武力で共和国を制圧するという希望を捨て、合法的に選挙によって権力を奪取しようとした。
  ドイツにおける大恐慌が数百万人の不安と絶望を引き起こしたとき、ヒトラーは見境のない扇動と計算し尽した嘘八百を並べ立てて、多くの支援者を獲得した。まるでアベですね。
  熟練の写真家に自分の実物以上の、ひたすら自らの大義に殉する人物として撮影してもらうことによって、深遠な思想を伝え、無私の精神によって、困窮した数百万のドイツ人のために尽力するというイメージを作りあげた。
  ヒトラーは、不安感と偏見を巧みに利用した長広舌の情熱的な演説によって、影響を受けやすい聴衆を大衆ヒステリーに近い状態に投げ込み、言葉の奔流で圧倒し、翻弄した。
  ヒンデンブルクは、ヒトラーを非公式には「伍長」と呼び、深い不信感を抱いていた。1931年11月の国会選挙は、ヒトラーとナチスにとって痛撃となった。多くの国民が、とどまることを知らないナチ突撃隊の暴力行為に仰天した。このとき投票所に向かったドイツ人のうちの3分の2以上がナチズムを拒否した。
ヒトラーの狙いは、議会主義にもとづく内閣の首相ではなく、大統領府内閣の首相となること。他党との連合に依存する必要がなく、大統領緊急令によって統治できるもの。
  ナチ突撃隊は40万人。ベルサイユ条約によって制限された小さなドイツ国防軍(10万人)を4対1の割合で上回った。
  1932年暮れ、ナチス党のナンバー2(シュライヒャー)がヒトラーに反対した。このとき、ヒトラーはパニック寸前の状態にあった。
  1933年1月、ヒトラーは43歳だった。ヒトラーは自墜落で、半ボヘミアン的な生活を送っていた。ヒトラーは不況に苦しめられていた多くのドイツ人が夢想すらできないような贅沢三昧の生活を過ごしていた。
  ヒトラーは権力の共有ができない、壮大な使命感に燃えた狂言者だった。
  1933年1月、ヒトラーは小さなリッペ州で大博打に出た。ヒトラーはドイツの苦しみの犯人は、ユダヤ人とマルクス主義者に支配される共産主義的な「体制」にあると非難した。そして、人種的に純血で誇り高い強力なナチ化されたドイツを建設すると公約した。
  ヒトラーは40万人いる突撃隊内部の不満の増大に直面した。党内の士気喪失と対決しなければならなかった。そして、ヒトラーとナチスは、リッペ州で4割の得票を得て、21議席のうち9議席を占めることに成功した。
  1933年1月、ナチ陣営は、まさしく危機に瀕していた。このころ当時のドイツ首相・シュライヒャーは、ヒトラーを飼い慣らせるという幻想を抱いていた。ナチ党が慎重かつ理性的に行動するという幻想だ。しかし、ヒトラーは、尋常な政治家ではない。そして、シュライヒャーはヒトラーが政治的に孤立していると考えていた。
  1933年1月22日、警官隊が共産党本部を襲撃した。ナチスは、法と秩序を維持する警察権力と協力して共産主義者に対抗する、社会的に信用できる党という評判を獲得した。これは、ドイツ左翼への痛撃となった。警察はナチスと暗黙の協定を結んだ。この協定によって、警察は、この数年、首都その他のドイツの都市の街頭で傷害致死事件を引き起こしてきた凶悪犯の保護者となった。
1月30日、ヒンデンブルク大統領はヒトラーをドイツ首相に任命した。いかなる客観的な基準から見ても、偽誓行為であったが、ナチ党指導者・ヒトラーは、長年にわたって粉砕すると誓ってきた共和国の憲法と法律を守り、維持すると宣誓した。これはまるで、アベ首相が明らかに憲法に違反する安全法制法を憲法に違反しないと国会で答弁したのと同じことです。つまり、ヒトラーもアベも二人とも国民をだます点で共通しています。
  民主主義の不倶戴天の敵が首相になったにもかかわらず、共和国の擁護者たちは、ナチ党指導者(ヒトラー)が首相になったことに抵抗したり、示威行動を行ったりしなかった。
  ナチスが暴力に訴えることは前から予想していたが、政治的暴力がこの社会の常態となっていたので、彼らは油断した。多くの政治評論家たちは、内閣においてナチス3人に対して保守派の大臣が数のうえで勝っていることに安堵した。甘かったのです。
  一般のドイツ人がヒトラーの首相任命に対して示した当初の反応は、現実に生起したことのとてつもない重大性を考えてみれば、驚くほどに無関心だった。このころ、次から次への首相交代は珍しいことではなかったので、一般の多くのドイツ人は興味を失っていた。映画館で流されるニュース映画でも、新内閣の発足は6つの出来事の最後だった。
  首相に任命されるほんの1ヶ月前、ヒトラーは終わったと思われていた。ヒトラーの党は最後の選挙で大きな後退を余儀なくされ、3人に2人がヒトラーの党を拒否した。
  そして、経済回復の兆しが、不況以来、ヒトラーが巧みに利用してきた問題を奪おうとした。ところが、それから30日後、ヒトラーを繰り返し非難してきたヒンデンブルク大統領が、正式にヒトラーを首相に任命したのである。ヒトラーは、万事休したと思われた、まさにそのときに自分が救済されたこと自ら驚いた。
  1933年1月30日は、ヒトラーによる権力の掌握だったという見解は見せかけにすぎない。実際には、ヒトラーは権力を掌握したのではなかった。それは当時のドイツ運命を左右した人間によってヒトラーに手渡されたのだ。
  ヒトラーは2月1日、議会を解散した。2月末の国会議事堂放火事件のあと、内閣の権限を大幅に拡大した。それでも、3月の選挙でナチスは過半数はとれなかった。44%の得票率だった。
3月23日、ヒトラーは共産党の国会議員を追放し、脅迫と虚偽によって全権委任法に必要な3分の2の議席を国会に確保した。
  このようにヒトラーは1933年1月、選挙で選ばれて首相になったのではない。ヒンデンブルク大統領が首相その他の大臣の任命権を有していた。
  1933年3月の全権委任法によって、ドイツ・ワイマール共和国憲法は失効した。
  この全権委任法は、市民の基本権を停止するものであり、社会民主党や共産党の国会議員を強制的に排除して、暴力的に成立したものである。
  いいかげんな答弁を繰り返し、自席から品のない汚ない野次を飛ばすアベ首相の姿をテレビで見るたびに、情けないやら、腹だたしいやら、本当に身もだえしてしまいます。
  それにしても、マスコミのひどさはなんとかなりませんか。アベ様のNHKであってよいはずがありません。日本国憲法の持つ力を今こそ生かしたいと思います。
(2015年5月刊。2700円+税)


 シルバーウィークは、ずっと仕事をしていました。人が動くときには、じっとしているのが私の若いころからの習性です。
 たまった書面をやりあげ、排戦中の小説を書き足し、庭の手入れをしてチューリップを植え付けました。
 そして、最終日の23日は北九州まで出かけました。安保法制法を廃止させようという市民集会に参加したのです。
 北九州市役所前の勝山公園には大勢の市民が参加していました。年配の参加者がほとんどでしたが、前の舞台で活躍していたのは若者たちです。私も、若者から元気をもらいました。
 団塊世代の私たちだって、20歳前後は、毎日のように集会やデモ行進をしていましたが、あのころはリーダーに率いられた大衆の一人でしかありませんでした。今日の若者は、みな自分の言葉で語っているところが素晴らしいと思います。
 私は大学生のころ、何百人とか何千人という大勢の前で発言したことはありませんし、考えたこともありません。アジテーターは、いつも決まっていました。そして、私の知る限り、そのアジテーターは、今、ほとんど沈黙してしまっています。残念なことです。
 やはり、みんなで、少しずつでも、自分の言葉で語るのが大切なんだと思います。
 それにしてもアベ政権の強引な安保法制の成立は許せません。憲法違反の法律は、誰がなんと言っても無効です。その無効を国会でも早く表明させたいものです。

2015年9月23日

奴隷のしつけ方


(霧山昴)
著者 マルクス・シドニウス・ファルクス   出版 太田出版
 
ローマには奴隷であふれている。イタリア半島の居住者の3,4人には1人は奴隷だ。ローマ帝国全体では8人に1人が奴隷。首都ローマの人口100万人のうち、少なくとも3分の1は奴隷。
奴隷とは、戦争捕虜か、女奴隷が産んだ子。このほか貧しい者が借金返済のために自らを売ることもあれば、人買いにさらわれてきて奴隷になる者もいる。
ローマという大帝国を支配してきた者の多くは、実は奴隷の子孫なのである。
奴隷は家族をもたず、結婚の権利と義務から切り離され、存在理由そのものを主人から押しつけられ、名前も主人から与えられる。
奴隷は自分の個人財産をもつことが一般的に許されていた。ただし、法律上はあくまで主人の所有者とされた。結婚も、法律上は認められなかったものの、一般的には主人が事実婚を認めていた。
主人の措置に耐えかねたとき、奴隷が神殿に逃げ込むことが許されるようになった。
奴隷による反乱はまれだった。そして、スパルタクスの反乱を例外として、たやすく鎮圧された。スパルタクスたちは、奴隷の大国を目ざしたのではない。できるかぎりの略奪をして、なんとか地方の故郷に帰ろうとしただけ。背景にあったのは、奴隷所有者たちの行きすぎた残 忍性だった。
奴隷の解放は、ただではない。奴隷価値の5%を税金として納めなければならなかった。つまり、多くの奴隷が解放されると、それだけ国の税収も増える仕組みになっていた。
解放奴隷のなかには、人並みはずれた頭脳の持ち主もいて、学術研究に多大の貢献をなした。解放奴隷とは、これ見よがしに富をひけらかすのが好きな連中だ。
ローマ帝国は大量奴隷の存在を抜きにしてありえなかったようです。
(2015年6月刊。1800円+税)

2015年9月22日

古代ローマの庶民たち


(霧山昴)
著者  ロバート・クナップ 、 出版  白水社

 ローマ帝国で庶民がどんな生活をしていたのかについて、多角的に明らかにした本です。
 なにより驚かされたのは、ローマの公衆浴場が、実は不潔だったという記述です。お風呂に入るというと、日本では、かけ流しの温泉のイメージで、清潔そのものというイメージです。ところが、マルクス・アウレリウスは、入浴の汚さを次のように記している。
入浴とは、油、胸の悪くなるような臭いのごみ、汚物まみれの水、吐き気がするようなものすべてある。
 なんだか恐ろしい浴場ですよね・・・。
何もかもが混ざった場が接触感染者を蔓延させていた。病気を治すはずの場から、人々は新しい病気をもらっていた。それでも、ローマにおいて浴場は、貴重な社交の場になっていた。日々の生活の根本的な部分だった。酒と女と浴場こそが人々の楽しみだ。
 ローマには正規の警察組織はなかった。ローマに住む人々にとって、窃盗は重大な関心ごとだった。あらゆる種類の物品が盗まれた。泥棒も多種多様だった。
ローマの女性は、法的な地位がなく、投票できず、高等教育からも排除されていた。
 結婚は、男中心の性質のものだったが、女性は積極的な伴侶だったし、背景に押し込められてはいなかった。
女性は3人か4人の子どもの母親になることで、完全な司法上の人格を獲得することができた。そして、財産の所有権や契約書・遺言状の作成ができた。嫁資をもつことで、結婚したあとで夫の支配力を和らげるのに役立った。
古代ローマだからといって、現代に生きる私たちとまったく別次元で生きていたわけではないということも、よく分かる本となっています。
(2015年6月刊。4800円+税)

2015年9月 5日

フランスの美しい村

(霧山昴)
著者  粟野 真理子 、 出版  集英社

 このところフランスに行っていません。残念です。この夏は、アベ世間の戦争法案をつぶすために汗を流そうと決意しましたから仕方がありませんが、来年は久しぶりに行きたいなと考えています。フランス語も、毎朝、聞きとり、書きとりは欠かしていません。仏検だって6月に受けましたし、11月にも受けるつもりです。語学ほどボケ防止になるものはありません。
 フランスには「もっとも美しい村」に認定された村が156もあるということです。私も、そのうちいくつかは行ったことがあります。この本には、私の行った村も紹介されています。
 アメリカには、もう久しく行っていませんが、まったく行く気がしません。戦争する国・アメリカというイメージというより、「食(しょく)を大切にしない国」というイメージが嫌やなのです。どでか過ぎるステーキ、そして甘ったるくてボリューム満点すぎるアイスクリーム。いずれも私の好みではありません。
 その点、フランスはどんな辺ぴな村に行っても、美味しい郷土料理があり、口当たりのいいワインを堪能できるという楽しみがあります。しかも、安いのですよ・・・。
 ディジョンのマルシェ脇のレストランには、2晩かよいましたが、エスカルゴもフォアグラも天下一品でした。また、ぜひ行きたいものです。
 映画「ショコラ」の舞台になったのはフラヴィニー・シュル・オズランです。私はディジョンからタクシーで行きました。小さな村の真ん中に、いかにも古ぼけた教会があります。映画にも出てきます。8世紀の建立というのですから、古ぼけているのも当然です。ここには昔ながらのアニス・キャンディがあります。そして、教会前の広場に面したレストランでは、地元の人たちが料理を提供してくれます。牛肉赤ワイン煮込みが名物です。
 もう一つ。南仏にあるレ・ボー・ド・プロヴァンスです。「レ・ボー」は、ごつごつした岩山からなる有名な観光地です。松本清張の本の舞台にもなりました。ここにも、私はアヴィニヨンからタクシーで行きました。レンタカーでまわる勇気がなければ、「美しい村」めぐりにタクシーは欠かせません。レ・ボーに行ったときには、迎えのタクシーが時間どおりに来てくれるか、私は心配してしまいました。だって、他には何の選択肢もないのですから・・・。
このレ・ボーは、フランスではモン・サン・ミッシェル、そしてゴルド(私は行ったことがありません)に次いで3番目に観光客が多いそうです。たしかに大平原にぽこっとそそり立つ岩山は奇岩城を思わせます。レ・ボーには中世の吟遊詩人をしのばせるものがあります。
風景写真だけでなく、おいしそうな料理の写真まである、楽しいフランス旅行に誘う本です。

(2015年5月刊。1800円+税)

2015年9月 3日

クリミア戦争(下)

                                                                          (霧山昴)
著者  オーランドー・ファイジズ 、 出版  白水社

 戦場に冬が到来したとき、イギリス軍とフランス軍に差があらわれた。軍隊の経営能力が証明された。フランス軍は辛くも合格したが、イギリス軍は惨めな不合格点をとった。
 両軍ともクリミア半島の冬の気温がどこまで下がるかの認識すらなかった。フランス軍は、兵士に好きなだけ重ね着することを許した。イギリス軍は兵士に常に「紳士らしい」外装を要求した。そして、兵士が風雨をしのぐための居住環境について何ら配慮しなかった。
 フランス軍は、士官と兵士の生活条件にはほとんど差がなかった。これに対して、イギリス軍は高級な将校は快適な生活を送っていたが、兵士たちは悲惨な生活を強いられていた。泥の中で眠っていた。
 フランス軍とちがって、イギリス軍には、組織的にタキギを集めるというシステムがなかった。
 フランス軍には糧食の供給と調理、負傷者の手当てなど、兵士の基本的な需要にこたえる専門家がすべての連隊に随行していた。すべての連隊に一人のパン焼き職人と数人の料理人がいた。酒保と軍隊食堂の経営は女将に任されることが多かった。
 フランス軍の食事は、共同調理と集団給食が普通だった。フランス軍の食事の眼目はスープ。そしてコーヒー豆も十分な量が供給された。フランス人はコーヒーなしでは生きられない。
 フランス軍の兵士に供給される肉はイギリス兵の3分の1でしかなかったが、健康を維持しえた。フランス兵は農村出身者が多く、食べられるものなら、どんなものでもカエルやカメでも捕まえて料理して食べた。
 イギリス兵は、その大半が土地をもたない都市貧困層の出身者だったので、自分の手で食料を調達し、自力で窮状を切りぬけるという習慣がなかった。イギリス軍に随行する女性がフランス軍に比べて多かったのは、この理由による。イギリス兵には肉とラム酒が十分に供給されていた。しかし、イギリス兵の食事は、フランス軍に比べて貧弱だった。
 フランス軍の病院は、清潔さ、快適さ、看護の手厚さで、イギリス軍よりはるかに優れていた。フランス軍の病院には陽気な生命力が感じられた。
 戦場の外科医療システムを世界に先駆けて確立したのはロシア軍だった。手術の緊急性に応じて患者を区分するシステムであるトリアージを始めたのは、ニコライ・ピロゴーフ。
 ピロゴーフは麻酔術を導入し、1日7時間に100件以上の切断手術をこなした。そして、腕の切断手術を受けたロシア兵の生存率は65%にまで向上した。
 クリミア派遣軍には、看護婦が随行していなかった。ナイチンゲールはロンドンの女性のための病院で無給の院長をつとめていた。ナイチンゲールは、優れた管理能力の持ち主だった。ナイチンゲールは、下層階級出身の年若い女性を採用したが、中産階級の善意の女性は採用しなかった。感受性の敏感な中流夫人の「扱いの難しさ」を恐れていたからである。そして、看護の経験をもつカトリックの修道女たちを採用した。
 蒸気船と電信の出現によって、戦争特派員は記事を書いて新聞記事になるまで5日かかっていたのが、ついには、数時間にまで短縮された。人々が最大の関心を寄せたのは、写真と挿絵だった。
インケルマンで敗北してから、ロシア軍の最高指導部は、権威と自信の両方を失くしていた。皇帝ニコライ一世は司令官たちへの信頼を失い、前にもまして意気消沈して陰うつな顔つきになり、戦争に勝利する希望を失ったばかりか、そもそも戦争を始めたこと自体を後悔しはじめていた。
 休戦状態になったとき、イギリス軍とロシア軍の将兵はタバコを分け合い、ラム酒を飲み交わした。気晴らしに射撃ゲームを始める者もあった。
 パリ和平条約によってロシアは領土の一部を失った。しかし、それよりもむしろ重大だったのは国家の威信が失われたことである。クリミア戦争の敗北は、ロシア国内に深刻な影響を残した。軍隊への信頼が揺らぎ、国防を近代化する必要性が痛感された。鉄道の開発、工業化の促進、財政の健全化を求める世論が高まった。
 トルストイも改革を求める人々のひとりだった。そんな人生観と文学観は、クリミア戦争の経験を通じて形成されたトルストイは将校の無能ぶりと腐敗墜落を目撃した。そして、将校は兵士を残忍に虐待していた。一般兵士の勇敢さと粘り強さに心を動かされたトルストイは、農奴出身の兵士たちに親近感をかんじはじめた。
ロシア農民兵士は、ほぼ全員が読み書き能力をもたず、近代的な戦争に適さないことが明らかになった。
 クリミア戦争には、31万人のフランス人が兵士として動員され、そのうち3人に1人が帰らぬ人となった。クリミア戦争に出征したイギリス兵は10万人近く。生きて帰れなかった2万人の80%は傷病死だった。
クリミア戦争は、兵士に対するイギリス国民の見方に大きな変化をもたらした。兵士は国の名誉と権利と自由を守る存在であるという近代的な国民意識の基礎が築かれた。将軍たちの愚かな失態にもかかわらず、一般兵士が英雄として扱われる時代がはじまった。勇敢に戦ってイギリスに勝利をもたらしたのは平凡な兵士であるという伝説はクリミア戦争から始まった。
 貴族階級出身の戦争指導部が犯した過誤は、中流階級が自信を強める契機にもなった。中流階級が新たに獲得した自信をもっともよく体現していたのはナイチンゲールだった。クリミア戦争は、イギリスの国民性に大きな影響を与えた。クリミア戦争についての上下2冊の大部な本ですが、無謀にも戦争を始めてしまった皇帝と将軍たちの戦争遂行上の愚かな過ちの下で悲惨な目にあう兵士たちの苦難がよく紹介されています。教訓としてひき出すべきものも大きいと思いました。ご一読をおすすめしたい本です。

(2015年6月刊。3600円+税)

2015年8月26日

クリミア戦争(上)

(霧山昴)
著者  オーランドー・ファイジズ 、 出版  白水社

 1854年にはじまったクリミア戦争についての詳細な研究書です。
 第一次世界大戦前の時代に生きていた人々にとってはクリミア戦争は19世紀の一大事件だった。損失は膨大だった。少なくとも75万人の兵士が戦死傷者となった。
 ロシア軍は50万人の兵士が亡くなり、フランス軍も10万人の兵士が死んだ。イギリス軍の死者は、2万人だけ。
クリミア戦争は兵代戦の最初の例だった。新型のライフル銃、蒸気船、鉄道、近代的な兵站、電報、革新的な軍事医学など動員された総力戦だった。同時に、クリミア戦争は、古い騎士道精神に則って戦われた最後の戦争でもあった。戦闘の最中に敵味方の話し合いがもたれ、戦場から負傷者と死体を収容するための一時的休戦が頻繁に実現した。
 このクリミア戦争には、ロシアの文豪トルストイが青年士官として従軍している。
 ロシアの正教会の支配するロシアにとって、パレスチナの聖地は、熱烈な宗教的情熱の対象だった。ロシア人とは、すなわちロシア正教の信者だった。
 ロシア帝国は、当時の列強諸国のなかで、もっとも宗教性の強い国家だった。ロシア帝国ツァーリの支配体制は、臣民の信仰を束ねるという形で組織されていた。
 ロシア帝国は、国境問題であれ、外交関係であれ、ほぼすべての問題を宗教のフィルターを通じて解釈する宗教国家だった。
 当時29歳のニコライ一世は、「軍人タイプ」の人物だった。身近なサークルのなかでは礼儀正しく、魅力的な人物だったが、外部の人間に対しては冷淡で峻厳であり、短気で怒りっぽい性格、無分別な行為に走り、怒りから我を失う場面多くなっていった。
 ニコライ一世は、常に暗殺される危険にさらされていた。
 ロシア帝国の軍隊にとって、膨大な損耗率は、決して異常な事態ではなかった。農奴出身の兵士たちの健康や福祉がかえりみられることはなかった。
 ロシア軍は基本的に農民の軍隊だった。兵士の圧倒的多数は農奴が国有地農民の出身だった。ロシア軍は、その規模からいえば、群を抜いて世界最大だった。100万の歩兵、25万の不正規兵(主としてコサック騎兵)を擁している。加えて、75万の予備兵力がある。
 しかし、ロシア軍隊は、他のヨーロッパ諸国に比べて大きく立ち遅れていた。兵士はそのほぼ全員が読み書きの能力をもっていない。貴族出身の士官たちは、わずかな手柄を立てるために膨大な数の兵士の命を惜し気もなく、犠牲にした。
 これに対するトルコ軍は、さまざまな民族からなる混成部隊だった。アラブ人、クルド人、他タール人、エジプト人、アルバニア人、ギリシア人、アルメニア人など、多数の民族が参加していた。
 オスマン帝国の典型的な軍人は、軍事的能力よりも、スルタンの個人的寵遇によって昇進は決まっていた。トルコ軍の指揮官のほとんどは、戦場で役に立つ実践的な指揮能力を備えていなかった。兵士の給与を比較すると、イギリス134ルーブル、フランス85ルーブル、プロイセン18ルーブル、オーストリア兵は53ルーブル、ロシア兵は32ルーブル、プロセインは60ルーブル、フランスは85ルーブル、プロセインは60ルーブルだった。
イギリスのパーマストンは、単純な言葉で大衆に訴えかける必要があり、そのために新聞を活用することを心がけた。
 パーマストンに反対して戦争への流れを押しとどめようとする者は、誰であれ、愛国主義的なジャーナリズムによって袋叩きにあうような社会的雰囲気だった。
 新聞は、販売部数を伸ばすために、戦争へあおりたてた。
まるで、いまの安倍内閣と一部のマスコミの情けない姿そのものですよね。
 クリミア戦争について、イギリスとフランス連合は、それほど目的は明確ではなかった。多くの戦争がそうであったように、今回の東方遠征も、わけが分からないうちに始まってしまった。
 なんとなく戦争ムードがかき立てられ、止められないうちに戦争に至ってしまうのですね。今の日本をみていると、本当に怖いです。
 クリミア戦争の真の目的は英仏両国の利益のためにロシアの領土と影響力を削減することにあると明記されるべきだった。ロシア軍の敗北の最大の原因は兵士が戦意を喪失したことにあった。近代戦において勝敗を分ける決定的な要因は、兵士の士気を維持できるかどうか、だった。
 戦争に至る道筋が解明されている本です。そして、実際に始まった戦争の悲惨な実情も刻明に紹介されています。憲法9条の空文化を目ざす自民・公明のアベ政権は本当に許せません。
(2015年6月刊。3600円+税)

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