弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
ヨーロッパ
2016年2月 2日
クルスクの戦い.1943
(霧山昴)
著者 デニス・ショウォルター 、 出版 白水社
独ソ「史上最大の戦車戦」の実相というのがサブ・タイトルです。1943年の7月から8月にかけて、独ソ両軍あわせて将兵200万人以上、戦車と突撃砲が6000両以上、航空機も4000機以上が激突していますから、史上最大の戦車戦というのは誇大でもなんでもありません。そして、この本では、そのうちの狭義の「クルスクの戦い」を主として扱っています。7月5日から12日までの「プロポフカの戦い」です。このとき、ドイツ軍は兵員7万、戦車・突撃砲300両で攻め、守るソ連軍は兵員13万、戦車・突撃砲600両でした。
ヒトラー・ドイツ軍はその前の1943年2月までにスターリングラードでソ連軍によって壊滅的敗北を喫しています。ですから、一挙にドイツ軍が敗退していくかというと、そうではありません。高度に発達した戦車(パンター、ティーグル)や飛行機そして、練度と士気の高い軍人集団だったのです。
ドイツ軍はスターリングラード敗戦の雪辱と失地回復を狙って乾坤一擲のツィタデレ作戦を展開します。クルスク突出部にいるソ連軍をドイツ軍が北と南の二方向から攻めて包囲殲滅しようとしたのです。結局、このドイツ軍の作戦は失敗し、ドイツ軍は退却していきます。ソ連軍は冬だけでなく、夏でもドイツ軍に勝てることを証明したのでした。
でも、そのために払ったソ連軍の犠牲は、ドイツ軍のそれをはるかに上回っていました。
クルスク戦における損害は、ドイツ軍が戦車などの装甲戦闘車両250両、兵員5万5000に対して、ソ連軍の犠牲は装甲戦闘車両2000両、兵員32万となっている。数字だけをみればドイツ軍が戦術的には勝っていた。しかし、敵の6倍の人的損害、8倍の装甲戦闘車両の損害を出しても変わることのなかったソ連軍の数量的優勢がクルスクの戦いの帰趨を決定した。
これほどの犠牲を出してまでも、ソ連軍は戦い続けることができた。それはなぜなのか・・・。これは今もまだ完全に解明しつくされたとは言えない問題である。
この本は、この狭義の「クルスクの戦い」の状況を、詳細に語り尽くしていて、その疑問を解明しようと試みています。
ソ連では、戦争中に40万人もの戦車兵が養成された。そのうち30万人以上が戦闘で死んだ。これは、ナチのUボート乗組員の戦死率に匹敵する。しかし、その数は10倍も多い。
ソ連軍の戦車兵は「どうせ死ぬなら、なるだけ多くのヒトラー主義者を道連れにしてやろう」と決意していた。
ソ連軍は戦争をサイエンス(科学)として見たが、ドイツ軍はそれをアート(技芸)として解釈した。
1942年に、ドイツ軍は東部戦線だけで、毎月平均10万以上の戦死者を出していた。そして、戦車5500両、火砲8000両、25万両の自動車を失った。さらに損失処理された2万機の航空機の3分の2はソ連で失われた。
ドイツ軍の戦車設計は、防護と加力と対照的に機動性と信頼性を重視していた。ソ連軍のT-34戦車は、ドイツ軍の戦車のできることは何でもできるうえに、装甲が優れ、さらに強力な76ミリ砲を搭載していた。これに対して、ドイツ軍のパンター戦車は、納入台数250両と少ないうえに、重量45トンを支えるエンジンに問題があった。
ティーガー戦車は航続距離が200キロ、時速32キロでしかなかった。しかも、ツィタデレ作戦の開始時には128両しか配備されていない。
ドイツ軍の戦闘機訓練生は飛行時間の70時間で現場の部隊に配属された。それに対してソ連軍はわずか18時間にすぎなかった。
ヒトラー以下のドイツ軍首脳部において、ツィタデレ作戦は、ギャンブルだという認識で一致していた。
ティーガー戦車をやっつけるには、洗練された技能が必要だった。射程の近くに引き寄せて、その車体ではなく無限軌道に砲火を集中する、冷静な頭と確実に狙いを定めることが決め手となる。ソ連軍は、その両方を兼ね備えていた。
ドイツ軍は戦闘開始初日の7月5日に装甲戦闘車両を500両以上も投入したが、その半数がその日の終わりまでに動けなくなっていた。
クルスク戦のソ連軍戦車兵のなかには女性兵士も少なくなかった。T-34戦車の窮屈な操縦室に比較的らくに収まり、そしてそこから出るのも容易だった。操縦手だけでなく、車長や砲手にも女性兵士がいた。ソ連のT-34戦車の34両のうち、26両が撃破された。ドイツ軍は、ツィタデレ作戦の過程で38人の連隊長と252人の大隊長を失った。
いやはや、実にすさまじい凄惨きわまりない戦場の実相が詳細に発掘・紹介されています。
クルスク戦車戦に関心のある人には必読の本だと思いました。
(2015年5月刊。3900円+税)
2016年1月29日
第二次世界大戦 1939-45(中)
(霧山昴)
著者 アントニー・ビーヴァ― 、 出版 白水社
第二次世界大戦が進行していくなかで、ヨーロッパ戦線と日本を取り巻く太平洋戦線とが結びついていて、独ソ戦と独英戦も連結していたことを改めて認識しました。
よくぞここまで調べあげたものだと驚嘆するばかりです。世界大戦の激戦が、双方の陣営の動きに細かく目配りされていますので、総合的な視野でとらえることが出来ます。
1940年夏に起きた中国の百団大戦は、日本軍を震えあがらせた。それまで中共軍を見くびっていた日本軍は考えを改めされられた。
ところが、この百団大戦について、毛沢東は心中ひそかに恨んでいたというのです。日本側の支配する鉄道や鉱山に相当の打撃を与えたけれど、共産党側にも多大の犠牲を強いた作戦であり、結局、国民党に漁夫の利を得させたから。
スターリンは、毛沢東とは、日本軍という眼前の敵と戦うことより、国民党から支配する地域への蚕食にむしろ関心を示す男だと悟った。
そして毛沢東は、党内に残るソ連の影響の残滓を払拭するのに努めていた。
共産党は阿片の製造・販売に手を染めていた。1943年にソ連は、中国共産党がアヘン販売した量は4万5千キロ、6000万ドルに達するとみた。
1939年8月のノモンハン事件におけるソ連軍の勝利は、日本に「南進」政策への転換をうながし、結果的にアメリカを捲き込むうえで、一定の役割を果たしただけでなく、スターリンが在シベリアの各師団を西方に移動させ、モスクワ攻略というヒトラーの企図を挫くことにもつながった。
独ソ不可侵条約の締結は、日本に激震を走らせ、その戦略観に多大の影響を及ぼした。日独間の相互連絡は欠如していた。日本は、ヒトラーがソ連侵攻を開始するわずか2ヶ月間に、当のスターリンと日ソ中立条約を結んだのである。
日本は1941年12月の真珠湾攻撃を事前にドイツに伝えてはいなかった。ゲッペルス宣伝相によれば晴天の霹靂であった。ところが、この知らせを受けたヒトラーは至福の歓喜に包まれた。アメリカが日本軍の対応に忙殺されたら、太平洋戦争のせいでソ連とイギリスに送られるべき軍需物資が先細りなると期待したからだ。
しかし、米英軍のトップは、「ジャーマン・ファースト」(まずはドイツを叩く)方針が合意されていた。これをヒトラーは知らなかった。
1941年12月11日、ヒトラーはアメリカに宣戦布告した。ただし、ドイツ国民の多くは、宣戦布告したのはアメリカであって、ドイツではないと考えていた。ヒトラーのアメリカに対する宣戦布告は、ドイツ国防軍のトップに何ら助言を求めることなくヒトラーの独断でなされた。
しかし、当時、ヒトラー・ドイツ軍はモスクワを目前にしながら一時的撤退を余儀なくされていた。この時期にあえてアメリカ相手の戦争を始めるというヒトラーの判断は、軽率のそしりを免れない。アメリカの工業力の凄みを一顧だにしない総統閣下に、ドイツの将軍たちはみな狼狽した。
ヒトラーはいきなり対米戦争を決断した。おかげでドイツ海軍は、いくら攻撃をしたくても、肝心のUボートが当該海域に一隻もいないという状況に陥った。
ヒトラーの反ユダヤ主義は、もはや強迫観念の域に達していた。ヒトラーは、真珠湾攻撃がアメリカの国民感情に与えた衝撃の大きさを見誤った。
アメリカで自動車を大量生産していたフォードは、1920年以降、極端な反ユダヤ主義を信奉し、ヒトラーは、フォードに勲章を贈りその肖像画を飾っていた。
ユダヤ人がガス室で流れ作業のように陸続と殺されているなんて話をドイツ市民の大半は当初信じなかった。しかし、いわゆる「最終的解決」のさまざまな局面において、多くのドイツ人が関与し、また産業界や住宅供給面で、ユダヤ人資産の没収の役得にあずかった人々があまりにも多かったため、ドイツ国民の半数には至らぬまでも、かなりの数のドイツ人が実際には今、何か進行しているのか、相当正確に把握していたことは確かである。
衣服に必ず黄色い星印のワッペンを付けることが義務化されたときには、ユダヤ人に対してかなりの同情が寄せられた。ところが、ひとたび強制収容が始まると、ユダヤ人たちは、仲間であるはずの市民から、人間と見なされなくなっていく。ドイツ人たちは、ユダヤ人の運命をくよくよ考えなくなった。これは単に目をつぶるというより、事実の否定によほど近い行為だった。
ドイツ人の医師たちが、ユダヤ人の死体に加工処理を施して、石鹼や皮革に再生させようとした。身の毛もよだつ真実でも、それを語るのは作家の義務である。そして、それを学ぶのは、市民たる読者の義務なのだ。
日本軍がインドネシアを占領すると、オランダ人とジャワ人の女性は日本軍のつくった慰安所に無理やり放り込まれた。慰安所での一日あたりのノルマは午前が兵士20人、午後が下土官2人、そして夜は上級将校の相手をさせられた。そうした行為を無理強いされた若い慰安婦が脱出を測ったり、非協力的だったりすると、当人はもとより両親や家族にも累が及んだ。
日本軍が強制的に性奴隷とした少女や若い女性は10万人に達すると推計されている。
占領国の女性を日本軍将兵のための資源とする政策には、日本政府の最上層部の明確な承認があったはずである。
アメリカ陸軍は、ヨーロッパ本土でドイツ国防軍を相手として、いきなり頂上決戦にのぞむ前に、どこかで実戦経験を積んでおく必要があった。連合軍総体としても、海峡越えの侵攻をいきなり試みる前に、敵前強襲上陸作戦にどのような危険がともなうか、アフリカで具体的に学べてよかった。
1942年11月のガダルカナル島の戦いで日本軍がアメリカ軍に惨敗した。気象条件は天と地ほども違うが、ちょうどスターリングラードの戦いと同時期だった。日本軍の無敗神話につい終焉が訪れた。太平洋戦争に心理的転換点をもたらした。
スターリングラードの戦いにおいて勇敢なソ連軍兵士のなかでも、もっとも勇敢だったのは、若き女性のパイロットたちも若い女性兵士たちだった。彼女らは夜の魔女と呼ばれた。そして、狙撃兵にも女性兵士が活躍した。
第二次大戦の実際を知るには必読の本だと思いながら、520頁もの大部の本を読み進めました。
(2015年7月刊。3300円+税)
2015年12月29日
ムシェ、小さな英雄の物語
(霧山昴)
著者 キルメン・ウリベ 、 出版 白水社
1937年、スペインのバスクから2万人の子どもたちが海路、フランス、ソ連、イギリスそしてベルギーへ旅だった。スペイン内戦からの疎開だ。この2万人のバスクの疎開児童は、その後、どうなったのか・・・。
この本は、バスクの少女・カルメンチュのベルギーにおける里親となったロベール・ムシェの人生を追跡しています。
ロベールは、より良い世界のためにすべてを捧げた。当時は、そういう人間が必要とされた。戦争のなかで、もっとも人格に優れた人たち、心優しい人たちが命を落とした。
ところが、英雄であることは、裏の、陰の側面をもっている。それは、後に残された者の苦しみ。夫と父親を亡くした苦しみを、生き残った人々に残した。そして、その後の社会の担い手になるのは、その生き残った人々なのである。
ロベールはレジスタンス活動をしていくなかで、ついにナチスに捕まり強制収容所に入れられた。そして、強制収容所のなかで、ロベールは若い弁護士と知りあった。収容所内でもレジスタンス活動はあり、政治犯たちは囚人たちを目立たないようにして保護していた。
ロベールの収容所での役割は、希望を広めること。この地獄も終わりが近いことを伝えることだった。
ナチスの目的は、囚人たちに死の脅威のほかには何も考えられなくなるように仕向けること、苦悶と屈辱を味わわせることだった。それに対して、レジスタンス運動のグループは、言葉を用いて、口伝えで情報を広め、士気を高め、希望をよみがえらせることでナチスと闘った。言葉こそがささやかな武器のなかで、もっとも強力なものだった。この秘密裡の活動を通じて、ロベールは生き返った。人々に勇気を与える役目をこなしながら、愛する妻子のもとに帰れると知ったことで、生きる喜びがふたたび湧きあがってきた。
ロベールには、人生で何より大切なことが二つあった。それは、愛と正義。この二つの目標を持つことで、ロベールはその長く厳しい冬を耐え抜いた。
著者は1970年にバスクで生まれています。親の世代に何がバスクで起きたのかを調べて小説風の読み物に仕立てたのです。
バスクを旅だった2万人の子どもたちの多くが再びバスクに戻ることはなかったようです。
有名なゲルニカの虐殺が起きたころのスペイン内戦にからんだ話でした。まったく知らなかった話です。
(2015年10月刊。2300円+税)
今年は国際的にも、日本でも大変な年でした。フランス大好きな私にとって、パリの同時多発テロはショックでした。空爆でISを「退治」できるはずがありません。暴力の連鎖がひどくなるばかりです。アベ首相の安保法によって自衛隊が海外へ戦争しに出かけることが可能となり、日本の平和が危なくなってしまいました。安保法を運用させない、その廃止を目ざして新年もがんばります。
今年よんだ本は540冊になりました。そして、40年前の修習生活をようやく小説化することができました。春までの出版を目ざしています。私がこの本で訴えたいことは、裁判官にもっと勇気をもってもらいたいということです。夫婦別姓の最高裁判決は自民党への気がねのしすぎです。福井地裁の原発容認は電力会社に屈服してしまっています。残念です。
新年もどうぞ、ご愛読ください。
2015年12月15日
FIFA、腐敗の全内幕
(霧山昴)
著者 アンドリュー・ジェニングス 、 出版 文芸春秋
71歳の調査報道記者が世界サッカーを統括する国際サッカー連盟(FIFA)を食い物にする、汚いヤミ取引の内幕を暴露しています。
スイス警察がFIFAの最高幹部7人を逮捕した。その容疑は、1億5000万ドルの横領。
著者のジェニングスは、1980年代には汚職警察、タイの麻薬取引そして、イタリアのマフィアを調べ上げた。そして、ここ15年は、国際サッカー連盟(FIFA)に焦点を絞っていた。
FIFAをマフィアと呼ぶのは冗談ではない。FIFAを牛耳るブラッター会長のグループは、組織犯罪シンジケートを共通する要素をすべてそなえている。強くて冷酷なリーダー、序列、メンバーに対する厳しい掟、権力と金という目標、入り組んだ違法で不道徳な活動内容。
ブラッター会長は6つのサッカー連盟を支配している。
ブラッター会長は、ワールドカップが稼ぎ出す何十億ドルもの大金を背景に、巨大な権力を握っている。その権力をつかって209の国と地域を買収する。そして、相手は彼が権力の座を確保できるように喜んで投票する。潤滑油となっているのは、ほとんど無審査の「開発育成交付金」であり、現金で売られる莫大な数のワールドカップ・チケットだ。
チケットは闇マーケットに流れ、表に出ない無税の利益になる。ブラッターが見返りに求めるのは、投票場での忠誠と会議での沈黙だけ。
連盟や協会の多くの代表にとって、ブラッター会長は自分たちのお金で買うことのできる最高の会長だ。そんなブラッターを交代させる手はない。ブラッターよ。永遠なれ!
こんな巨大な国際組織の中で反対意見はめったに聞こえてこない。FIFAは本質的に反民主主義の組織なのである。
FIFAは2010年に2018年と2022年の開催地を同時投票で決定した。大会の開催地を一度に2回分決めたことは、かつてないこと。10年先のスポンサー権やテレビ放送権の価値を正確に予測することは誰もできないのに・・・。
ブラッター会長の世界では、「沈黙の掟」を破ることこそ、組織犯罪で最大の罪である。
この「掟」を破った理事は永久追放される。
ブラッター会長は、役員会の内容をすべて規則によって「極秘」とした。それによって、FIFAのお金を自由に使える。最高級のホテルで贅沢三昧をし、チャーター機で王様のような旅をした。給料、ボーナス、必要経費、車、住宅手当など、あらゆる項目で、自分と家族そして愛人のためにFIFAからお金を絞りとった。
ブラッター会長は、ほかの役員の同意を要せず、自由に小切手を切ることができた。
そして、FIFAのお金を、どんな相手にも渡せた。FIFAの規約では、ブラッター会長は、世界のいかなる国の法律の制約も受けないと定められている。
この本を読むと、サッカー試合って、まるで汚物まみれにしか見えなくなります。スポーツによって健全な精神が養われ、育つどころではありません。早くなんとかしてほしいものです。
(2015年10月刊。1600円+税)
2015年12月10日
医系技官がみたフランスのエリート教育
(霧山昴)
著者 入江芙美 、 出版 NTT出版
九大医学部を卒業したあと、医師として活動するのではなく厚生労働省に入り、フランスに留学します。留学先はフランスのエリート養成機関であるENA(国立行政学院)です。
日本の官僚は、毎年100人が2年間の海外留学に出かけます。私は、これはとてもいい仕組みだと思うのですが、残念なことに、その行く先80%がアメリカです。いつも戦争ばかりしているアメリカに日本の官僚が行っても、ろくなことを学んでこないように思います。そして15%がイギリスです。残る5%をフランスやカナダの国に行く。
私は、もっとヨーロッパ各国に日本の官僚は行って学んでくるべきだと思います。とくにスカンジナビア三国なんて、必須ではないでしょうか・・・。
フランス語を学んでいた著者は迷わずフランスを選択して出かけました。フランスと日本の一番の大きな共通項は、世界トップクラスの医療制度。いま、これを自民・公明の安倍政権が少しずつ壊しています。とんでもないことです。国民皆保険は、日本が豊かで安全・平和な国であるための前提条件です。アメリカは、これがなかなか実現できません。国民皆保険を提唱すると「アカ」呼ばわりされるとのこと。時代錯誤としか思えません。
ENAは、フランスのグランゼコールというエリート校。グランゼコールの教育目標は、国のために働く優秀な人材を育てること。そこでは実践的な問題解決能力を養うことに重点が置かれている。
ENAの創立は戦後の1945年10月。その卒業生には、オランド大統領をはじめ、ジスカール・デスタンやシラク元大統領、ジュペ・ジョスパン、ヴ・ヴィルパン元首相などがいる。
ENAの学生には、給料が支給されている。ENAの授業料は無料。給料をもらうくらいですから、当然です。
ENAの受験生の8割はシアンスポ(パリ政治学院)出身者。
ENAの卒業生は、卒業して10年間は行政で働く義務が課せられている。これは、民間への流出を防ぐための措置。
ENAには外国人学生も多く、3分の1を占める。アフリカ出身も多い。逆に、アメリカやイギリスの学生は入っていない。
今は違いますけれど、私も40年以上前の司法修習生のときには授業料がいらず、給料をもらっていました。これが廃止されたのは政策として、まったく間違っています。今では、借金して司法修習するしかありません。一刻も早く給費制を復活したいものです。
ENAで鍛えられたのは、① 文書作成能力、②コミュニケーション能力、③交渉力、④国際性と幅広い視野、⑤人間力すなわち忍耐力や環境への適応力。
なるほど、これらは必要な能力ですよね。
ENA在学中の成績順に卒業時に入省先を選ぶ。これって、能力主義のフランスらしいやり方です。人気の高いポストは、国務院や会計院の監査官、財務監査官。
フランスの試験はエンピツはダメで、万年筆かボールペン。なぜか?エンピツだと採点する試験官が改ざんできるから。
ENAの女子学生は3割ほど。女性会社進出では、フランスはヨーッロッパのなかで後進国。ENAはパリではなく、ストラスブールにある。
フランスの医師は1970年に6万人だったのが、年々増加し、2014年には22万人。人口10万人当たり330人。これは日本の240人を大きく上回っている。
フランスでも医療の偏在は深刻。南高北低。年中、太陽の光が降り注ぐ地中海沿岸にすみたいというのがフランス人の一般的な願望。
ENAでフランス人と対等にわたりあった日本人女性です。何年やってもうまくフランス語を話せない私からすると、うらやましい限りとしか言いようがありません。
(2015年9月刊。2800円+税)
2015年12月 5日
狙撃兵、ローザ・シャニーナ
(霧山昴)
著者 秋元健治 、 出版 現代書館
ナチス・ドイツ軍と果敢に戦うソ連赤軍の女性狙撃兵の活躍ぶりを紹介したドキュメンタリーノベルです。史実にもとづき、兵士の書いていた日記も紹介していますから、迫真の描写です。なにより驚くのは、これがソ連の従軍記者(グロスマン)によるものと思わせるほどの描写で一貫していることです。日本人が翻訳したのではなく、執筆した本なのです。
私は、ソ連軍の女性兵士の活躍ぶりを描いた『戦争は女の顔をしていない』(群像社)、そしてベトナム戦争のときに最前線で戦っていた女医の日記を再現した『トゥイーの日記』を思い出しました。まだ読んでいないという人には、ぜひとも本書とあわせて、この2冊も読んでほしいと思います。戦争の非情さ、二度と戦争なんかしてはいけないということが、惻々と伝わってきます。
独ソ戦時の1943年、ソ連赤軍には、2000人以上の女性襲撃兵がいた。
狙撃兵は、歩兵部隊の戦術において効果的に運用された。狙撃の標的となるのは、第一に指揮官。次に機関銃射撃兵、そして狙撃兵自身の最大の脅威となる敵の狙撃兵である。
1944年5月、東欧戦線においてドイツ軍の劣勢は確実になっていた。しかし、装備や練度でまさるドイツ軍の反抗戦はすさまじく、ソ連赤軍は戦線維持や攻略戦に勝利したとしても、その戦死者はドイツ軍よりも多かった。
ソ連赤軍では、2000人以上の女性狙撃兵が任務についた。そのうち戦後まで生きのびたのは500人だけ。従軍した女性狙撃兵の7割以上が戦死した。
ソ連の記録によれば、大戦中の赤軍に49万人の女性兵士がいて、そのうち9万5千人が戦死した。
劣勢となったドイツ軍は、ソ連赤軍の制圧地域に狙撃兵を送り込み、赤軍の将校やその他の兵士に対する狙撃を活発化させた。広範な地域に潜伏する敵の狙撃兵に対する有効は手段は狙撃兵しかない。カッコーと呼ばれたドイツ軍の狙撃兵は、よく訓練されていて、優秀だった。ドイツ軍の狙撃銃は、命中精度や耐久性が高かった。
本書の主人公は、3冊の日記を残しました。当時のソ連赤軍は、兵士が日記をつけるのを厳しく禁止していたにもかかわらず・・・。よくも、そんな日記が残っていたものです。
日本軍は、兵士が日記をつけるのを禁止していませんでした。それで、戦闘で倒れた日本兵の日記をもとにアメリカ軍は情報分析することができました。
ソ連赤軍が日記を禁止していたのは、なぜでしょうか。文字の読み書きができない兵士が多かったということもあるのでしょうか・・・。
日本人にしては、よく調べて小説になっていると、驚嘆しました。
それにしても、ヒトラーもスターリンも、人間の生命をなんとも思っていなかったことに改めて怒りを覚えてしましました。日本のアベ首相も勇ましいことを言っていますが、本当に私たち国民の生命を尊重しているとは思えません。
(2015年10月刊。2500円+税)
2015年11月20日
トレブリンカ叛乱
(霧山昴)
著者 サムエル・ヴィレンベルク 、 出版 みすず書房
ナチス・ドイツの絶滅収容所の一つであるトレンブリンカ収容所で1943年8月2日に叛乱が起き、100人ほどが収容所からの脱走に成功した。その一人が語った内容が本書になっています。よくぞ生きのびたものです。
ここは効率よく、よどみなく動く最高級の死の工場なんだ。衣服を脱ぐと、男たちは隣接する収容所に連れていかれる。砂の土手を走り抜く。そこはもうすでに、死の収容所だ。そこで彼らはガス室に詰め込まれる。ガスで息絶えると、屍体は深く掘った窪みに投げ込まれる。そこがいっぱいになるとすぐ、次の窪みを掘る。屍体は、町ごとに一緒に埋められていく。
著者は他の囚人から次のように言われた。
「おまえはアーリア人に見える。話し方も大丈夫だ。絶対にユダヤ人らしくない。ここから逃亡し、おまえが見たこと、まだ見てはいないことを世界に知らせなければけない。それが、おまえの務めだ」
この言葉を著者は実行したのです。
「身体検査をするので、服を脱ぐように」、「野戦病院」という標識こそが、トレブリンカの謀略に抵抗しようとする人々を欺く仕掛けなのである。
収容所一帯には、腐敗した屍体から出る、きつい刺激的な吐き気をもようしそうな臭いが漂っており、それが鼻孔から浸透し、肺を満たし、唇をつつむように広がっていく。
歯医者と呼ばれる囚人たちは、屍体の口をあけ、金歯を引き抜く。
ユダヤ人の最後の家財を整理する仕事がある限り、担当する囚人の生命を延ばす。
そして、カポは、ドイツ兵に仕事を急いでやっているように思わせた。囚人たちは、SSがいなければ、どんな場合も、過度にスピードを出して働こうとはしなかった。カポは耳をそばだてて、SSが近づいてくるのをいつも注意していた。
20歳くらいの可愛い女性がいた。名前は、ルート・ドルフマン。大学の入学許可を得たばかり。自分を待ち受けていることが何か、ちゃんと気がついていて、隠そうともしない。彼女の美しい目は、恐怖も、苦悩も一切、示していない。ただ悲嘆、無限の悲哀を表していた。
「どのくらい苦しまなければいけないの?」
「ほんのちょっと、一瞬だよ」
重たい石が彼女の心からころがり落ちたようだ。われわれ二人の目から涙があふれた。
青酸カリの錠剤をもっていて、いざというときにはそれを使おうと考えている人でも、最後に自分を待ち受けるものが何かを信じようとしなかった人がいることを知らなくてはいけない。素裸になってガス室まで死の道をSSの棒でたたかれ走ってきたとき、青酸カリは衣類の中に入ったまま広場に置かれている。つまり、毒をのみ干そうという精神力も勇気も出せなかったのだ。
うむむ、なんと重い決断でしょうか・・・。
このにおいは、われわれの体、存在そのものの一部になってしまっていた。それは、我々家族、我々の愛した者たちが残したすべてであり、ガス室で虐殺されたユダヤ人の最後の形見である。ひとたび我々の身につくにおいとなると、松の枝のからまった鉄条網を通り、周囲数十キロを流れて、収容所の存在や、そこからもれてくるものを説明していた。
著者はトレブリンカ収容所の脱走に成功したあと、1949年8月のワルシャワ蜂起に参加します。ワルシャワの人々がナチス・ドイツ軍に抵抗して立ちあがったのです。ソ連軍はワルシャワ市の対岸まで来ていたのですが、ポーランド軍を見殺しにしています。
蜂起軍は降伏するのですが、著者は生還してイスラエルに渡ることができたのでした。手に汗を握る話が続いていきます。よくぞ生きのびたものです。
(2015年7月刊。3800円+税)
2015年11月19日
ヴァイマル憲法とヒトラー
(霧山昴)
著者 池田 浩士 、 出版 岩波書店
ヒトラー・ドイツと向きあうことは、「第三帝国」の12年3か月間とだけ向きあうのではなく、そのあとに来た歴史と向きあうことでもある。
ナチス・ドイツが行った残虐行為や侵略戦争は、ヒトラーとナチスという、一人の独裁政治家と一部の「狂信者」たちとによってなされたものというのは、間違った歴史観である。
ヒトラーは、クーデターや暴動によって政権を奪取したのではない。首相を任命する権限を持つヒンデンブルク大統領を威嚇して指名を取り付けたのでも、政界その他の有力者を強制あるいは買収して首相の座に就いたのでもなかった。ヒンデンブルク大統領から合法的に首相として指名を受けた。
ヒトラーは、合法的に、民意によって政権の座に就いた。これは歴史的事実である。
ヴァイマル憲法下のドイツの国会議員選挙は、有権者の意思をできるだけ的確に反映することを重視した仕組みになっていた。20歳以上のすべての国民が有権者で、男女の差別はなかった。ちなみに、日本では女性の参政権は戦後はじめて与えられた。
ヴァイマル時代の国会選挙の投票率は高く、低くても70%台後半、高いときには80%台半ばだった。
1932年3月の大統領選挙では、現職のヒンデンブルクが1865万票、次いでヒトラーが
1134万票、共産党のテールマンは498万票だった。
1928年から1933年までのドイツでは、失業率の上昇とナチ党の得票率の増大はぴったり対応している。1932年の国会選挙では、それまで投票に行かなかった無党派層がナチ党に投票している。失業者の票を吸収したのはナチ党ではなく共産党だった。失業率のむしろ低い地域でナチ党は躍進した。それは自営業の人々が、明日は我が身という心配からだった。いま失業者となって飢えている工業プロレタリアートではなく、同じ道をたどるだろう中間層と職人階層、そして自営農民たちが、迫りくるものについての不安や危機感からナチスを支持して投票した。共和国の民主主義政治そのものへの不信と反感を、この現実にもっとも激しい攻撃を浴びせるナチスへの支持として表現した。
ヒトラーが首相になったとき(1933年1月30日)、7歳から32歳までの世代は、ナチ党の誕生から「第三帝国」の崩壊までの時代に、観客ではなく、もっとも中心的な共演者だった。
1933年3月の国会選挙で、ナチ党は得票率44%、288議席にとどまった。しかし、当選した81人の共産党議員を除外した。そして、社会民主党の120人の議員のうち94人しか国会には出席できなかった。そして、「全権委任法」が成立した。この法律は、国会から立法権を奪い、行政府であるはずの政府が立法権をもつとした。
国会での審議抜きで、すべての法律が政府によって決定された。ヴァイマル憲法の制約からヒトラー政府は解放されてしまった。
ヒトラー政権下では死刑が横行した。1942年から44年までの2年間だけで4951人に死刑判決が下った。軍事裁判によって死刑を執行された人は2万人にのぼる。ナチス・ドイツの死刑は軍国日本のそれより70倍以上も多かった。
ヒトラー時代は良かったという人がいる。しかし、現実にはヒトラーは社会的差別をなくしてはいない。労働者の賃金は下がり、職員の給与は上がっている。
ヴァイマル憲法とヒトラーとの関係について、日本人である我々も正しく認識すべきだと改めて思いました。
(2015年6月刊。2500円+税)
2015年11月12日
イスラーム国
(霧山昴)
著者 アブトルバーリ・アトワーン 、 出版 集英社インターナショナル
「イスラーム国」は、今や単なるテロリスト集団ではなくなってしまいました。
日本人が人質となり殺害されてしまいましたが、今後もありうると本書は日本人に警告しています。
遠く離れた日本にまで、イスラーム国の脅威が及ぶことはないと楽観するのは禁物だ。イスラーム国は、世界でもっとも大きい脅威の一つであり、まったく新しいタイプの脅威である。その理由は、三つある。一つは、イスラーム国が経済的に自立した組織であること。モスルのイラク中央銀行から615億円(5億USドル)を強奪し、石油販売で1日246億円の収入があり、イラクとシリアの半分を占める支配地域の住民1000万人から税金を徴収している。
二つ目は、兵器を自給していること。2700をこえる戦車、装甲車、軍用車両を所有している。三つには、支配地域を統治する能力を有していること。
「イスラーム国」は今や「国家」に近い組織になっている。アルカーイダとは異なるイデオロギーや形成過程と目標をもつ組織である。
「イスラーム国」が他ジハード組織と異なるのは、自らのイデオロギーにもとづき社会を根底から変革すること、変革のためには残忍な行為もいとわず、むしろ敢行すること、西欧による植民地支配を区別して考えないこと、にある。
イラク旧政権の将校たちが、「イスラーム国」の中枢部を担っている。
「イスラーム国」の戦闘員は12万人に達し、さらに増え続けている。
「イスラーム国」は「電子軍」と呼ばれる、高度な技術をもったサイバー集団を有している。イスラーム国は、「身代金ビジネス」をすすめ、2014年の1年間に24億円を上回るお金を手にした。
「イスラーム国」による過剰な暴力は、意図的かつ計画的なものである。残虐行為は、脅迫であると同時に、抑止ともなる。人々への脅迫は、それ自体が武器である。
イスラーム国の戦闘員10万人のうちの30%以上が外国人である。外国人戦闘員の出身国は80ヶ国にものぼる。ヨーロッパ人のなかではフランスが多く6%、次いでイギリス人の4.5%を占めている。
「イスラーム国」がアルカーイダなどの組織と異なるのは、広報宣伝をインターネットのみならず、街頭でも堂々とおこなうこと。人生経験に乏しい若者にとって、その宣伝は、とても魅力的なものにうつった。
「イスラーム国」はインターネットを通じた広報宣伝に加え、モスクの行事やムスリムの移民コミュニティ内のグループを通じてリクルートを行ない、ラディカルな思想を広めている。
「イスラーム国」のメディアは、これまでに例を見ない高いクオリティを斬新さをもっていて、欧米諸国のメディアを圧倒した。この心理戦は、ときに実戦よりも重要な意味をもつ。
「イスラーム国」の実体を知りたいという方は、強く一読をおすすめします。
(2015年8月刊。2400円+税)
2015年10月17日
太陽の草原を駆けぬけて
(霧山昴)
著者 ウーリー・オルレブ 出版 岩波書店
ユダヤ系ポーランド人の子どもが厳しい環境のなかで生きのびていった話です。
1936年生まれですから、ナチス・ドイツがポーランドに侵入してきたときは5歳。そして、ユダヤ人の両親とともに、ソ連の東方へ逃げます。落ち着いた先は、はるか彼方のカザフスタン。キルギスにほど近いジャンブールの郊外です。
きびしい自然環境のなか、快活で知恵のまわる少年らしく、地元の子どもたちとまじわって遊ぶようになり、牛糞を燃料にするやり方、そこで小鳥(カッコウ)を取って料理するやり方、そして凍った湖で魚をとるやり方などを身につけて、母親や姉たちを心配させながらも肉などを持ち帰っては喜ばれるのでした。
そのありさまが実に詳しく生き生きと描かれていて、『二つの名前をもつ少年』のように一人で森で生きるよりは、母親や姉たちとともり一家で住めるだけ救いもある話です。
しかも、音楽の教師をしていた母親は、お祝いの席でバラライカを演奏してお礼として食料をもらったりするのです。まさに芸は身を助ける、というものです。
ユダヤ人の父親は共産主義者であり、スターリンを崇拝していました。ですから、ナチス・ドイツの侵攻を予期していなかったし、すぐに撃退してくれると思っていたのです。ところが、敗退に次ぐ敗退。
そして、ついにはスターリンの粛清にあって父親は生命を落とすのでした。母親は新しい伴侶を見つけますが、主人公の男の子は、それが不満です。
そして、一家は、戦後、ついにイスラエルへ移住するのでした。
冒険話が面白くて、ついつい引き込まれ、一心に読みふけってしまいました。
(2014年12月刊。1700円+税)