弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

ヨーロッパ

2016年9月10日

イスラム過激派 二重スパイ

(霧山昴)
著者  モーテン・ストーム 、 出版  亜紀書房

 デンマーク生まれの白人青年が若いころ非行に走ったあげく、ある日突然回心してアッラーの教えに救いを見出し、イスラム教徒になります。そしてアフリカにまで渡ってイスラム過激派の一員として活動していくのですが、その活動にも疑問を感じて再び回心し、今度は捜査機関に協力するようになるのでした。
初めはデンマークの警察、そしてイギリス、最後はアメリカのCIAまで登場してきます。
一匹狼のような危険人物を逮捕するのには役に立つことでしょうね。でも、ウサマ・ビン・ラディンの暗殺が平和をもたらすはずもなく、もたらさなかったのと同じで、たとえアウラキー人を暗殺したところで、イスラム過激派が消えてなくなるわけではありません。
 アメリカもイギリスもお金のつかい方をまったく間違っている、私はそう思います。何人かのスパイを操作するために何千万も何億円も支出するくらいなら、砂漠の緑化作業をすすめたほうが、よほど効果的なお金のつかい方です。
 ところが、そんな大金は実はCIAをはじめとするスパイの秘密捜査に従事する人々の高額の飲み食いにまで使われているようです。なあんだ、「生命をかけて」過激派とたたかっている振りをして、自分たちも甘い汁を吸っていたのか、、、。だから、びっくりするほど高いお金をかけて要人の暗殺ごっこが止められないのですね。
CIAなどの高官も、 たまに自爆犯人に殺られてしまうことがあるわけですが、これも自分たちが無人機をつかって平気で違法な要人暗殺を次々にやっていることへの仕返しなのです。こんな暴力の連鎖こそ一刻も早く打ち切りたいものです。スパイに頼らない、平和維持活動をみんなで模索したいものですよ。
 500貢もの大作です。二重、三重スパイとして活動していた若者の無事を願わずにはいられません。
(2016年7月刊。2700円+税)

2016年9月 7日

ヒトラーの娘たち


(霧山昴)
著者  ウェンディー・ロワー 、 出版  明石書店

 「ヒトラーの娘たち」は、社会の片隅に追いやられた社会病質者(ソシオパス)ではない。彼女たちは、自分の暴力が帝国の敵に対する正当な報復だと信じ、そのような暴力行為も忠誠心の表れだと考えていた。
 数十万人ものドイツ人女性がナチ占領下の東部(ポーランド、ウクライナ、ベラルーシ、リトアニア、ラトヴィア、エストニア)へと移り、ヒトラーの殺人マシンの不可欠なパーツと化していた。
 1939年の時点でドイツ人女性4000万人のうち3分の1の1300万人はナチ党組織に積極的にかかわり、女性ナチ党員の数は終戦まで着実に増えていった。
 ナチスの絶滅収容所の女性看守の平均年齢は26歳で、最少は15歳だった。身の毛のよだつような仕事に志願した女性は、大量殺害の現場を雇用とチャンスをもたらしてくれる場と考えていた。立派な制服、高い給料、そして権力を振るうことに魅力を感じた。収容所に入った囚人に対して人間味のある態度で接していた女性看守はほとんどいなかった。
 多くのドイツ女性は、幼少のころ、日常的にユダヤ人と接触していた。そして、ユダヤ人が迫害されるようになったとき、日をつむる社会規範が生まれた。そして、それは、ドイツ人女性に独自の強さの体現を求める期待と結び付いていた。
 ヒトラーのジェノサイド戦争の日常業務に貢献したのは1万人いる秘書のほか、文書係、電話交換手などの事務補助員だった。
ナチス親衛隊員の花嫁になったドイツ人女性は24万人、社会の新しい人種的エリートとして迎えられた。
 大量殺人にさまざまな方法で加担したドイツ人一般女性の数は、それを阻止しようとした比較的少数のものに比べれば、数えきれないほど多かった。大半は好奇心からだけど、これに物欲も加わり、多くのドイツ人女性が東部に何千とあったゲットーで、ホロコーストに直面していた。
 ゲットーのユダヤ人居住区からユダヤ人が一掃されると、ドイツ人たちが役立ちそうな物を戦利品として持ち帰るために集めてまわった。
大量殺人の経済効果を高めるため、親衛隊、警察指導者、地域の軍司令官そしてナチ党官僚は、ユダヤ人の財産を没収し、再分配する仕組みをつくった。それを知ったドイツ人女性秘書が故郷の母へ、ナチ福祉団から服を受け取らないようにと手紙で知らせた。それは殺されたユダヤ人の物なのだから・・・と。
 ベルリンそしてウィーンのゲシュタポ本部では女性の割合は非常に高く、戦争末期には40%にまで達した。ユダヤ人の誰を殺すかという選択は、実際には受付のドイツ人女性にまかされていた。
ユダヤ人は商品と見なされていた。ゲシュタポ事務所の職員は移送されてきたユダヤ人たちから盗みとった食料を、ユダヤのソーセージと呼んで、たっぷり堪能した。「人間というゴミ」以外は、何も無駄にしてはならないとされていた。
ドイツ人女性秘書は、ナチの殺人マシーンの中心にいた。
ナチ支配下の全ヨーロッパに、実は4万ヶ所ものユダヤ人収容所があった。地域のコミュニティと融合した存在だった。これらの収容所をつくり、運営し、また訪れた加害者、共犯者、目撃者は多かった。想像されてきた以上に多くの人々がユダヤ人の組織的な迫害と殺人に関与し、知っていたのだ。少なくとも50万人のドイツ人女性が東部地域でジェノサイドをともなう戦争を目撃し、その遂行に貢献した。
そして、その暴力行為で罪に問われることのなかった女性たちは、この事実を封印し、否定した。加害者たちは、戦後、死んだ総統ヒトラーに対してではなく、お互いに対して忠誠と守秘の誓いを守り続けた。「密告者」として中傷されることのないよう保身に走った。
そんなわけなので、ホロコーストの罪を問うために一人でも証人を確保できるということ自体が、ごくごく例外的だったのです。
 ナチスの殺人マシーンが、実は、普通の女性で良き母親でもあると同時に、殺人を苦にしない鬼にもなって支えていたということがよく分かる本でした。これも戦争の恐ろしさの一側面なのですね・・・。
(2016年7月刊。3200円+税)

2016年9月 2日

ブラッドランド(下)

(霧山昴)
著者  ディモシー・スナイダー 、 出版  筑摩書房

 ミンスクに住むベラルーシ人やロシア人は、しばしば友人が同僚がユダヤ人かどうか知らなかったり関心がなかった。
森林や湿地に恵まれたベラルーシは、パルチザン戦にはもってこいの土地だった。ヒムラーとヒトラーは、ユダヤ人の脅威とパルチザンの脅威をひと括りにした。ナチス・ドイツは、しばしばユダヤ人男性の妻子を人質にとり、もう一度、家族の顔が見たければ、森へ行って情報を持ち帰れと迫った。だから、ユダヤ人のスパイは少なくはなかった。
パルチザン活動は、しばしば成果をあげたものの、結果として、必然的に民間人の命を奪ってしまうことがあった。
ゲットーに残ってドイツのために働くユダヤ人も、ゲットーを出て自主的に行動できる能力を見せたユダヤ人も、いずれにせよ、スターリンに言わせれば、要注意人物だった。
 1941年から42年にかけて、ナチスの機関に入ってユダヤ人を殺したベラルーシ人が、43年には、ソヴィエト・パルチザンに入った。いずれかの側について戦い、死ぬはめになったベラルーシ人にとって、それはしばしば「運」の問題だった。いずれの陣営も、新入りがその場の成り行きで加入を決めたことを知っていたので、新入りには、敵として戦って捕まった友人や家族を殺すという冷酷きわまる任務を与えて、忠誠心を試した。
ポーランドのパルチザンは、非道で知られるドイツとソ連の武装集団にはさみ撃ちにされる形になってしまった。
ドイツ軍が殺戮ゾーン作戦という手段に出たことは、まもなくソ連がベラルーシに戻ってくることを意味した。ドイツ占領下ソ連のどの地域でも、ナチス・ドイツはほとんどの住民がソ連の復帰を望むように仕向けてしまった。ドイツ人のほうが殺人者としては残忍だったし、ドイツ人による殺戮のほうが記憶に新しかったため、現地住民の目にはソ連政権のほうがまだましに見え、解放者とさえ思えた。
ベラルーシほど、ナチスとソ連のシステムが重なりあい、影響しあった地域はない。そこは、ヨーロッパでもユダヤ人がとくに多かったが、住民の抵抗能力が並外れて高い地域でもあった。ミンスクをはじめとするベラルーシのユダヤ人は、ほかのどの地域のユダヤ人よりも激しくヒトラーに抵抗した。ドイツ国防軍の報告書にパルチザン1万人以上を殺害したと書かれているが、押収した銃は90挺のみ。つまり、殺害された人のほとんどは実際には民間人だった。そして、他方のソヴィエト・パルチザンは、ベラルーシで1万7千人を裏切り者として殺害したと報告している。
ワルシャワ蜂起は、ドイツを負かすことが出来ず、ソ連にとっては、ちょっとした不快の種でしかなかった。赤軍はワルシャワの手前で思いのほか頑強なドイツ軍の反撃にあって足止めを食っていた。ドイツ軍は東部戦線で結束した。ソ連にとって、ワルシャワ蜂起は望ましいことだった。なぜなら、ドイツ人だけではなく、独立のために命がけで戦うポーランド人も大勢が死ぬことになるからだ。スターリンは、アメリカに対して、自分がポーランドを支配するつもりであり、ポーランド人闘士が死んで蜂起が失敗に終わったほうが望ましいと考えていることをアメリカに伝えた。
ヒトラーとスターリンによる大虐殺の真実が繰り返し明らかにされている労作です。上下2巻もあり、実に重たい本ですが、真実から目をそむけるわけにはいきません。戦争というもののむごさをひしひしと感じさせられました。
(2016年2月刊。3000円+税)

2016年8月18日

シンドラーに救われた少年

(霧山昴)
著者  レオン レイソン 、 出版  河井書房新社

 映画「シンドラーのリスト」は感動に震えました。この本は、そのシンドラーのリストに載せられた一家がどうやって生き延びたかを語っています。
 ナチス・ドイツがポーランドを1939年9月に占領したとき、著者は10歳。解放されたときも、まだ15歳だった。
 オスカー・シンドラーが1940年に雇った250人の労働者のうち、ユダヤ人にはわずか7人だけ。残りは全員キリスト教徒のポーランド人だった。
シンドラーはポーランド人低い賃金で雇えたし、ユダヤ人にはただ働きをさせた。人件費を最小にして、軍需品を生産したため、シンドラーは莫大な利益をあげた。
 著者は絶滅収容所に入れられながらもなんとか生きのびていきました。
 そして、シンドラーのリストに載って助けられるはずのところ、その名前が棒線で消されていました。そのとき、少年はどうしたか・・・。
 「ぼくはリストに載っています。それなのに、誰かがぼくの名前を消したんです」
 「母もリストに載っています」
 「父と兄は、もう向こうにいるんです」
ドイツ語で少年が言うと、ナチスの将校は、シンドラーのキャンプに向かう集団に入れるように合図したのです。見かけはドイツ人そっくりの、いかにも賢こそうな10歳ほどの少年が正面からドイツ語で訴えたので、ナチ将校も無視することができなかったのでしょうね・・・。下手すると、その場で射殺されたかもしれない危険な賭けに、少年は勝ったのです。
 シンドラーは、工場に入ると、あちこちで労働者と話した。シンドラーはたくさんの人々の名前を記憶できる不思議な能力があった。ナチスにとって、ユダヤ人は名前をもたない存在に過ぎなかったが、シンドラーは違った。ユダヤ人一人ひとりを気にかけていた。シンドラーは人間としての敬意をもってユダヤ人に接し、ユダヤ人を底辺の存在とする序列を築いたナチスの人種差別イデオロギーに抵抗していた。
 著者は2013年に83歳で亡くなっています。ユダヤ人には賢い人が多いとよく言われますが、イディッシュ語、ポーランド語、ヘブライ語、ドイツ語を自在に操り、ソ連占領下のクラクフで亡命ロシア人かと疑われて逮捕されるほど流暢なロシア語を使い、難民キャンプではハンガリー人から同国人と思われるほど自然なハンガリー語を話し、そのうえチェコ語や日本語(戦後、アメリカ軍の一員として沖縄にもいました)、そしてスペイン語も少し話しました。もちろん英語はアメリカの大学で教員として学生に教えていたほどです。さらに、柔道は黒帯、テニスもうまく、ボウリングも得意でした。
 著者はシンドラーについて、英雄だと断言しています。英雄とは最悪の状況で、最善をなす、ごく普通の人間だという定義にしたがってのことです。
 シンドラーのリストにのった最年少の少年がアメリカで活躍していたことを初めて知りました。読んで元気の湧いてくる本です。
(2016年4月刊。1650円+税)

2016年8月 7日

女騎兵の手記

(霧山昴)
著者 N・A・ドゥーロワ 、 出版 新書館 

ナポレオンのロシア遠征戦争のころ、ロシア軍に従軍した騎兵の手記です。
この本を読みながら、私は前にも紹介しました『戦争は女の顔をしていない』(群像社)を思い出しました。その本をまだ読んでいない人は、ぜひ手にとって読んでみて下さい。戦争の悲惨さが惻々と伝わってくる、心をゆさぶられる忘れえない本です。その本は、ヒトラー・ドイツ軍に抗してソ連軍の一員として戦った女性兵士の話です。
この本の著者は、ナポレオン軍と戦うロシアの騎兵将校の一員として大活躍し、ロシア皇帝から勲章をさずかり、総司令官の伝令までつとめました。
ところが、なんと男装した女性騎兵だったのです。どうして女性が騎兵将校になったのか、また、なれたのか・・・。その生い立ちに理由があります。貴族の家に生まれ、幼いころから父親の影響から乗馬を得意とし、騎兵を志したのでした。ところが、それを母親は認めようとしません。女の子は刺しゅうをして、男性に従属した地位に甘んじるのが幸せだという考えです。母と娘は決定的に対立しました。娘は14歳のときに家を出て、コサック連隊にもぐり込み、ついにロシア正規軍に入るのでした。
やはり、女性でも昔から兵隊に憧れる人はいたのですね・・・。
いま、アメリカでも日本でも、女性兵士、自衛官は少なくないようです。そして、軍隊・自衛隊内のセクハラ・レイプ事件が頻発しています。人間らしさを奪われた存在は、女性を自分と同じ人間とは思わなくなってしまうのですね・・・。
ナポレオン軍は、ロシア遠征のときに家族連れだったことを初めて知りました。そして、ナポレオン軍がロシアから敗走するとき、たくさんの家族が置き去りにされたようです。そのなかで例外的に生命拾いをしてロシア人の家庭で育てられたフランス人の少女の話も登場しています。
本棚の奥にあり、気になっていた未読の本をひっぱり出して読んでみたのです。
(1990年12月刊。2000円+税)

2016年8月 4日

灰色の狼、ムスタファ・ケマル

(霧山昴)
著者  ブノアメシャン   出版  筑摩書房

 トルコの国は、いま大きく揺らいでいるようです。クーデター騒ぎのあと、強権的政治が強まり、EU加盟の条件として廃止された死刑が復活するかもしれないとも報道されています。
 この本は、オスマン・トルコ帝国のあと、苦難の道をたどったトルコの「救世主」と言われているケマル・パシャの一生をたどっています。
 ムスタファ・ケマルが登場したのは、没落がその最低点に達し、オスマン・トルコの最後の足跡が世界地図から抹殺されようとしていたときである。
 トルコのムスタファ・ケマルとサウジアラビアのイワン・サウドは、誕生日がわずか数週間ちがうだけの同世代である。
 ムスタファ・ケマルと呼ぶときのケマルというのは、「満点」を意味する。それだけ優秀な成績をとっていたということ。士官学校の校長は次のようにコメントした。
 「気むずかしく、非常に資質に恵まれた性格の青年。しかし、この性格では、他人と深い交りを、結ぶことは不可能である」
 1905年、ケマル中尉は、陸軍大尉の肩書で陸軍大学を卒業した。24歳のときのこと。
 ムスタファ・ケマルはコーランに基礎を置く司法組織を忌み嫌った。それは邪悪にみち、愚劣きわまる掟という掟をこの世にのさばらしているから。
 1921年8月、トルコ軍はギリシャ軍に攻めたてられた。サカリアの作戦である。両軍は死闘を展開した。最後にトルコ軍が勝利したのは、ムスタファ・ケマルの強力な個性による。彼がそこにいるということで、兵士たちは振い立った。
 ムスタファ・ケマルの意思は、兵士たちに歯を食いしばり、石にしがみつき、ひとかけらの土地も渡すまいとして抵抗する勇気を与えた。
 トルコ軍がついに勝利したあと、トルコ議会はムスタファ・ケマルに対して、「ガージ」つまり「キリスト教徒の破壊者」の称号を授けた。これはイスラム教徒に与えうる最高の栄誉にみちた称号である。
 ムスタファ・ケマルは、民族主義者であるという枠内で、卓絶した反帝国主義者だった。
 戦争に勝利したあと、戦いは軍事面から政治面へ移った。
 1923年10月、トルコは共和国が宣言され、ムスタファ・ケマルは初代大統領となった。
 「独立した、団結した、同質のトルコ国民」。これがムスタファ・ケマルの目指した目標だった。国民の同質性を脅かしていたのは、クルド人、アルメニア人、ギリシャ人という三種の住民集団だった。
 クルド人の虐殺、アルメニア人の絶滅、ギリシャ人の追放は、ムスタファ・ケマルの生涯において、光栄あるものではなかった。
 ムスタファ・ケマルは、こう言った。
 「血は流れた。それは必要なことだった。諸君、革命は流血のなかで、築かなければならない。血のなかにに築かれない革命など、決して長続きはしない」
 ケマル・パシャは独裁者として、自らに反抗する人々を多く死に追いやったようです。同時に、新生トルコのために大変革に取り組んでいます。農業改革、教育改革、女性の解放などなどです。
 ムスタファ・ケマルは、1938年に57歳で亡くなりました。
 新生トルコの再生を閉ざした英雄の光と影を知ることのできる本です。
 四半世紀前に書かれた本ですが、トルコという国の歴史を知ることができました。

(1990年12月刊。2470円+税)

2016年8月 3日

ゲルダ

(霧山昴)
著者  イルメ・シャーバー   出版  祥伝社

 解説を沢木耕太郎が書いていますので、キャパの撮ったとされている例の有名な写真「崩れ落ちる兵士」に至る状況もよく理解できます。その意味では、『キャパの十字架』(文芸春秋)を先に読んでおいたほうがいいと思います。
 この本は、この有名な写真をとったのはキャパではなく、パートナーだったフランス人女性、ゲルダ・タローだとし、その一生を明らかにしています。
 ゲルダ・タローの本名はゲルダ・ポホリレ。オーストリア西部のユダヤ人の娘としてドイツで生まれた。そして、コミュニスト(党員)ではなかったが、そのシンパとして、行動をともにしていた。だから、ゲルダは、女性であり、コミュニストであり、ユダヤ人であるというマイナス三要素をもつ存在だった。そのせいか、ゲルダはキャパの名声の影に埋もれてしまった。
 若く美しく、27歳になる寸前に、スペイン内戦を取材中、戦闘の混乱状況から味方の戦車にひかれて死亡した。
 ユダヤ人であるゲルダの家族はホロコーストによって全滅している。両親や兄弟がどこで亡くなったのかという記録すらない。
 ヒトラーが政情を握った1933年当時のドイツの状況が次のように描写されています。
 「誰かが怯(おび)えると、しだいに皆が怯えるようになった。災難がふりかかるのは自分なのか、それともあの人なのか・・・。社会主義者が知人にいる、親戚が共産主義者だ。そんな理由で、人々は次は自分も何らかの責任を問われるのではないかと思い始めた。そんな不安は新たな状況を生み出した。そのような状況下では、政治的な活動によって自分の存在を示さなくてはいけない・・・。」
 ゲルダはフランスに逃れることが出来た。率直で人なつっこいゲルダの性格は、最大の長所だった。ゲルダは両親に周囲から信頼される人間になるように育てられた。
 ゲルダは子ども時代から、大人の中で定位置を見つけ、自己主張を身につけなくてはならない環境にいた。そこでは自身や適応力が必要とされ、自分は誰と与(くみ)すればよいのかという判断力や、繊細な感受性が表れた。
ゲルダとキャパは、パリで日本人のジャーナリスト(川添浩史、井上清一)や岡本太郎(タロー)と面識があったようです。ゲルダ・タローのタローは岡本太郎に由来するようなのです。
 戦場で、いい写真をとるため、キャパもゲルダも、かなりの無茶をしたようです。
「きみがいい写真を撮れないのは、十分に近づいていないからだ」
これはキャパの言葉です。
 戦争(戦場)写真を撮るには、かなりの無謀さが求められるのです。
 キャパも戦争写真家として世界的に有名になりましたが、1954年5月、ベトナムで地雷に触れて亡くなりました。
 ゲルダ・タローは、戦場ではかなり無謀な行動をとっていたようですが、それも、いい写真を撮りたかったからなのでしょう。
 27歳の誕生日の寸前に事故死してしまい、ずっとキャパの名声に隠れてきましたが、こうやって少しずつ再評価されるのは、うれしいことです。美人であり、愛想もよかったゲルダは自由奔放に生きた女性でもあったことを知り、より一層の親近感を与えました。
(2016年6月刊。1300円+税)

2016年7月28日

エンゲルス

(霧山昴)
著者  トリストラム・ハント 、 出版  筑摩書房

 大学生のころ、マルクスやエンゲルスの本をむさぼるように読みました。そして、ぐいぐいと目を開かせてもらったものです。
この本は、生身のエンゲルスをたっぷり紹介しています。理想像ではなく、等身大の人間として、紹介されています。エンゲルスだって、生身の人間ですから、いろいろ問題はあったのです。それでも、彼がなしとげた理論的功績が、そのことによって帳消しになるわけでは決してありません。
エンゲルスは、自らはイギリス産業革命の揺籃地であるマンチェスターで家業の綿工場を経営していた。そのお金で、40年にわたって友人のカール・マルクスとその家族の生活を支えた。マルクスが亡くなったあと、その生前に刊行できなかった『資本論』の2巻と3巻を完成し、刊行した。
エンゲルスはヴィクトリア朝中期にマンチェスターで綿企業を経営し、南アメリカの大農園からランカシャー州の工場やイギリス支配下のインドにまでおよぶ世界貿易の経済連鎖に日々たずさわっていたため、グローバル資本主義の仕組みに関する経験をもった。それが、マルクスの『資本論』に盛り込まれた。
エンゲルスは、マンチェスターではチャーチスト運動に関与し、1848年から49年にかけてドイツでバリケードによる市街戦に加わり、1871年にはパリ・コミューン支持者たちを鼓舞し、1890年のロンドンではイギリスの労働運動の難度を目の当たりにした。
人生の盛りの20年という長い年月にわたって、エンゲルスはマンチェスターの工場経営者としての自己嫌悪に陥る立場に耐え、マルクスが『資本論』を書きあげるための資金と自由を保障した。
エンゲルスは、プロイセン(ドイツ)の裕福なカルヴァン派貿易高の御曹司として生まれ育った。軍人であると同時に、知識人でもあったエンゲルスは、まさに将軍だった。
資本主義の最大の罪は、それが人間の楽しみを否定することによって、人の魂を傷つけたことだった。より具体的にいうと、快楽が金持ちだけのものとなった。
エンゲルスが24歳のときに書いた『イギリスにおける労働者階級の状態』は、20世紀になって都市化するイギリスの恐怖、搾取、それに階級闘争を簡潔に記した読み物となっている。この本は、共産主義理論の草分けとなる文献だった。
マルクスとエンゲルスは、プロイセン(ドイツ)のライン地方出身という同じ背景をもち、ひどく異なる点はあるものの、二人は相互に補いあう性格として認めあった。エンゲルスのほうが明るく、歪みの少ない、協調性のある気質であり、身体的にも知的にも、エンゲルスのほうが利いて回復力に富んでいた。
1848年2月の『共産党宣言』は、発刊された当時は、なんの衝撃ももたらさなかった。
エンゲルスが最後にいちばん期待をかけていたのは1861年のアメリカ南北戦争だった。
マルクスとエンゲルスは手紙をやりとりしていた。その手紙から、マルクスが『資本論』に関する考えを、エンゲルスと相談しながら発展させていったことが分かる。『資本論』の初期の推進力の多くは、エンゲルス自身によるものだった。
久しぶりにマルクス・エンゲルスの本を読み直してみようと思ったことでした。
(2016年3月刊。3900円+税)

2016年6月30日

アウシュヴィッツの囚人写真家

(霧山昴)
著者 ルーカ・クリッパ 、マウリツィオ・オンニス  出版 河出書房新社  

アウシュヴィッツ強制(絶滅)収容所で、収容者の顔写真を撮り続けていたポーランド人がいたのです。幸い戦後まで生き延び、撮った写真も全部ではないようですが、残りました。
悪魔の医師・メンゲレの顔写真もあります。そして、収容所内で結婚式をあげたカップルの写真まであるのです。もちろん、絶滅収容所へ連行され、ガス室へ送られる直前の人々も撮っています。
人々の顔写真は3枚組です。横から、正面、そして斜め上を見上げています。本の表紙にもなっている少女はポーランド人政治犯ということですが、いかにも聡明です。こんな女の子を無残にもナチスは殺してしまったのでした。
主人公(ヴィルヘルム・ブラッセ)はポーランド人の政治犯。ユダヤ人ではない。写真館で働いていた経験とドイツ語が話せることから、ドイツ兵(ワルター曹長)の下で名簿記載犯に入って働くことになった。
撮影室に入ってきた中年のユダヤ人女性。ウェーブのかかったブロンドの髪に、カメラのレンズまで明るく照らしそうな眼差しをしている。いかなる困難に遭おうとしても決してへこたれない母親の眼差しだ。絶対にあきらめるわけにはいかないという、ただそれだけの理由ですべてを耐え抜くのだ。圧倒的な力に屈する前に、息子や娘、兄弟姉妹、そして夫や両親を救わなければならない。母親たちは、そんな思いにすがりつくようにしてアウシュヴィッツを生き抜いていた。
このような貴重な人材がみすみすナチス・ヒトラーによって惨殺されていったのですね・・・。本当に許せません。残念です。
収容所に到着した人々の残した荷物から、まず現金と貴金属をより分ける。そして、その残りを洋服、洗面用具、食器、新聞雑誌などに分類する。これらを写真に撮る。
一連の写真は、アウシュビッツで日々くり広げられている収容所風景をありのまま物語っている。
収容所の副所長・カール・フリッチェは、次のように訓示した。
「諸君、ここは保養所ではない。強制収容所だ。ここでは、ユダヤ人の命は2週間、聖職者は3週間、一般の囚人は3ヶ月。全員がいずれ死ぬことになる。それをしっかり頭に叩き込んでおくのだ。それさえ忘れなければ、苦しみも少なくてすむ」
アウシュヴィッツ収容所の中にも抵抗するグループが存在していました。すごいことです。焼却炉で働いている囚人の協力を得て、ポータブルカメラを名簿記載犯から借り受け、収容棟の窓から秘密裏に写真を撮った。この写真によって、進行中の惨劇を世界に伝える。アウシュヴィッツの内部にも、抵抗をあきらめていない者がいた。誰もが生き延びることだけを考えているわけではなかった。
アウシュヴィッツにも愛があった。さまざな形の愛があった。男と女が恋に落ちることもあったし、他の収容者を救うために自らを犠牲にする者もいた。誠実な友情もあったし、祖国愛もあった。
1917年に生れた主人公は2012年まで生きていました。アウシュヴィッツから解放されたあとは、写真を撮ろうとすると、ナチスの犠牲者の亡霊が脇に立っていて、とても写真は撮れないと悟り、カメラは置いたとのこと。
この本を読み終わった日に、天神で映画『アイヒマン・ショー』をみました。ユダヤ人大虐殺を推進したナチ親衛隊の将校アイヒマンをアルゼンチンから連行してきてイスラエルで裁判にかけたとき、全世界に向けてテレビで放映した実話を映画化したものです。前にこの裁判をずっと傍聴していたアンナ・ハーレントを主人公とする映画もみましたので、アイヒマン裁判の状況をさらに認識することができました。
アイヒマンは、被告人席でほとんど表情を変えることもなく、証人や実写フィルムなどを見続けていくのです。この部分は実写フィルムですので、迫力が違います。
自分は他人よりも優秀だと考えるフツーの人間は、どんな残酷なことでも平気でするということを実感させてくれる映画でした。

(2016年2月刊。2600円+税)

2016年5月31日

ブラッドランド(上)

(霧山昴)
著者  ティモシー・スナイダー 、 出版  筑摩書房

20世紀の半ば、ナチスとソ連の政権は、ヨーロッパの中央部で1400万人を殺害した。その犠牲者は、ポーランド、ウクライナ、ベラルーシ、バルト諸国、ロシア西部、すなわちブラッドランド(流血地帯)に居住していた。
この1400万人もの人々が殺されたのは、ヒトラーとスターリンの双方が政権を握っていた1933年から1945年までの、わずか12年という短期間のこと。彼らは、戦争ではなく、殺害政策の犠牲者である。この1400万人には、戦闘任務についていた兵士は含まれていない。そのほとんどが女性か、子どもか高齢者だった。誰も武器をもっておらず、多くの人が所持品や衣類を奪われた。
ヒトラーが排除したがっていたのは、ユダヤ人だけではなかった。ヒトラーは、国家としてのポーランドとソ連を抹殺し、この二つの国の支配層を消滅させ、何千万人ものスラヴ民族、つまりロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人、ポーランド人を抹殺したいと願っていた。
戦時中、ドイツ人は、ユダヤ人と同数の非ユダヤ人を殺した。ロシア人捕虜300万人以上、占領した都市の住民100万人以上を餓死させ、「報復」と称して、民間人(ベラルーシ人、ポーランド人)50万人以上を銃殺した。ナチス・ドイツがユダヤ人の殺害政策を実行していた地域は、戦後、ソ連に占領された。アウシュヴィッツ、トレブリンカ、ソビブル、ベウジェツ、ヘウムノ、マイダネクの収容所を解放したのは、ソ連赤軍だった。
1933年から1945年までに流血地帯で殺された1400万人のうち3分の1は、ソ連によって命を奪われた。
流血地帯(ブラッドランド)とは、ヨーロッパ・ユダヤ人の大半が暮らしていた土地であり、ヒトラーとスターリンの覇権主義政策が重複した領域である。そこは、ドイツ国防軍とソ連赤軍がたたかった戦場であり、ソ連の秘密警察NKVDとナチス親衛隊が集中的に活動していた地域でもあった。
餓死が一番多く、次に銃殺、そしてガス殺が続く。1937年から38年にかけてのスターリンの大テロルでは、70万人ものソ連国民が銃殺された。
ポーランドの独ソ分割統治の時代には、30万人ものポーランド人が両国によって銃殺された。
スターリンが行動家であったのに対し、ヒトラーは扇動家だった。スターリンは革命を組織し、一党独裁国家の指導者として不動の地位を築いた。それに対して、ヒトラーは周囲の組織を拒絶することにより、政治家としての実績を積んでいった。
ヒトラーにとってもスターリンにとっても、ウクライナは食糧生産地以上の意味を持っていた。伝統的な経済原則をうちこわし、自分の国を貧困と孤立から救い、ヨーロッパ大陸を思いどおりのイメージにつくり変えることのできる土地だった。
ヒトラーとスターリンの政策と権力は、ウクライナの肥沃な土壌と数百万人もの農業労働者を支配できるか否かにかかっていた。
 1933年の大量餓死を引き起こしたのは、1928年から32年にかけて実行されたスターリンの第一次5ヶ年計画である。この政策によって、数万人が処刑され、数十万人が疲労による衰弱死をとげ、数百万人が餓死の危険にさらされた。
ウクライナでは、思春期前の子供や十代の少年少女50万人が監視塔から大人たちを見張っていた。親が不正を働いたときにも、報告しなければいけなかった。
 ソ連の飢饉は、1934年に終息した。ヒトラーの台頭は、むしろソ連をヨーロッパ文明の守護者のように見せる好機でもあった。
ヒトラーは、自分の敵を「マルキスト」と呼び、スターリンは「ファシスト」と呼んだ。どちらにも中間がないという点で同じだった。
 1941年末までに捕虜となったソ連人は300万人にのぼった。ドイツ軍は戦争捕虜について準備していなかった。
ヒトラーとスターリンの方針は、捕虜になったソ連兵を本国に連れ戻っても、人間以下の存在に突き落とすだけだった。
ドイツ軍は、50万人ものソ連人を銃殺した。餓死等で死なせたのは260万人。
ヒトラーとスターリンって、20世紀の二大巨悪として名を残したのは当然のことです。
(2016年2月刊。2800円+税)

前の10件 24  25  26  27  28  29  30  31  32  33  34

カテゴリー

Backnumber

最近のエントリー