弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
ヨーロッパ
2017年6月30日
ファニア、歌いなさい
(霧山昴)
著者 ファニア・フェヌロン 、 出版 文芸春秋
アウシュヴィッツにあった女性だけのオーケストラで奇跡的に生き残った女性音楽家の手記です。電車のなかで読むのに夢中になっていて、危く乗り過ごしてしまうところでした。
2年間の強制収容所生活で、歌手だった著者は、身長150センチ、体重はなんと28キロだった。それでも、1945年4月に解放されたとき、歌をうたうことが出来たのです。気力のおかげでした。
著者はユダヤ人の父とカトリック教徒の母のあいだに生まれ、22歳からモンマルトルのクラブでシャンソンを歌っていた。パリ音楽院のピアノ科を優等で卒業していて、歌だけでなくオーケストラ用の編曲ができた。
女性だけのオーケストラの平均年齢は20歳そこそこ。年ごろの娘たちが集まっていた。国籍も宗教も違っていた。ユダヤ人だけでなくポーランド人もいたり、共産主義者もいて、内部では反目、いさかいは絶えなかった。
オーケストラは、朝、労働行進曲を演奏しはじめる。勇ましく、明るく、まるで楽しい一日の始まりを告げるように。しかし、その音楽を聞きながら死んでいく人たちがいた。辛い労働に駆り立てられていった。
憎しみと侮辱のまなざしが刺すほど痛い。「裏切り者」、「売女」。そして、死の選別を終えてきたばかりのナチス親衛隊員を歌と音楽で慰める。
アウシェビッツ暮らしのなかのもっとも苦しい一瞬だった。ナチスに気に入られつづけるかどうか、それがオーケストラのメンバーが生存できるカギだった。
シューマンのトロイメライを聞いて収容所の所長は涙を流した。音楽を聞くことによって、選別の苦労を忘れようとしているのだ。
分割して統治することのうまいナチは、よくユダヤ人同士を反目させた。収容者代表、棟代表、労働班長、補助事務員、給食係などの特権的ポストは、ナチスから命令されたことを全力でやりぬくユダヤ人だけに与えられた。親衛隊員からみて熱意に欠けるものは、容赦なくポストを剥奪されるか、ガス室へ送られた。
強制収容所で出産した赤ん坊と母親が無事に生きのびたことも紹介されています。
『チェロを弾く少女アニタ』(原書房)にも、この本の著者ファニアが重要なメンバーとして紹介されています。
実は、この本の著者は『強制収容所のバイオリニスト』(新日本出版社)の著者と同じオーケストラにいました。後者はポーランド人女性で、ファニアがポーランド人を侮辱していると非難しています。民族と宗教の違いは当時も今も大変な反目を生んでいるようです。これが世界の現実なのですが、お互いにそれを乗りこえていく努力をするしかありませんよね。
「私が日本人であってよかった」という日本会議系のポスターが貼り出されて、ひんしゅくを買っていますが、実は、その「日本人」女性が、実は中国人だったとのこと。日本民族の「優秀性」を誇るのも、ほどほどにしたいものです。
それはともかく、この本は批判される弱点もあるとは思いますが、読みものとしては最近の本よりは断然迫力がありました。ネットで注文して読みました。
(1981年11月刊。1300円+税)
2017年6月25日
フランスの美しい村・愛らしい町
(霧山昴)
著者 上野 美千代 、 出版 米村推古書院
フランスには、「もっとも美しい村」と認定された村々があります。私も、そのうちのいくつかに行ったことがありますが、たしかに「もっとも美しい村」だと名乗っていいところだと思いました。
フランスが日本と違うところは(私がそう思うのは)、日本のように派手な広告・看板・ネオンサインがなく(少なく)、昔の外観を残して(内装は近代化しても)いることです。ですから、そこに行くと、心が本当に落ち着くのです。
そして、人々はテラス席、つまり店内よりも店の外のテーブルで飲食し、談笑し、のんびりと時を過ごしています。それは、、なぜか不思議なのですが、蚊やハエがいない(少ない)ことにもよります。日本だったら、蚊取り線香やらハエ取り紙をそこらじゅうに置いておかなければいけないのに、フランスは夜になっても外で食事をしても虫が寄ってこないのです。本当に不思議です。
そして、南フランスだと、夏に雨が降ることはなく、夜の8時まで昼間のように明るいのです。ああ、こんなことを思い出すと、またぜひフランスに行ってみたくなります・・・。
毎年のようにフランスに行っていたのですが、このところ残念なことにフランスに行っていません。それでも、フランス語のほうは日夜話せるように勉強し、努力しています。
この本の著者は英語オンリーでフランス中をまわったようですが、やはりフランスではフランス語を話せるのにこしたことはありません。私のフランス語力はたいしたことはありません(残念なことに・・・)が、それでもフランスで旅行するのには困らない程度のレベルではあるのです。なにしろ、弁護士になって以来、つまり40年以上、NHKのラジオ講座を聞き、仏検を受験しているのですから・・・。
フランスの美しい村、愛らしい町として本書に登場してくる場所のいくつかは、私も訪れたことがあります。南フランスのエクサンプロヴァンスには2回も行ってきました。初めは40代のとき、「独身」と詐称して妻子を置いて4週間も学生寮に入り、外国人向けの夏期集中講座に参加したのです。私は、これでフランスで暮らしていけるという自信がつきました。
日本にも、たくさんの美しい村や愛らしい町があります。いま私は、そんな町や村になんとかして残らず行ってみたいという「野望」に燃えています。
フランスの地方の良さがコンパクトに凝集された写真で、一見の価値があります。お値段も手頃です。著者の女性は、なんと福岡県は門司港近くでカフェを営んでいるとのこと。ぜひ、ご挨拶したいものです。
(2017年3月刊。1780円+税)
2017年6月23日
灰緑色の戦史
(霧山昴)
著者 大木 毅 、 出版 作品社
ドイツ国防軍の実体に迫った本です。ドイツ国防軍神話が見事なまでに覆されています。
そして、ロンメル将軍が等身大で描かれているところも、私にとっては新鮮な衝撃でした。
ドイツ国防軍の神話とは、ヒトラーの無知と無謀な戦争指導が、伝統あるドイツ国防軍参謀本部の優れた作戦を台無しにしてしまったのだというもの。それは、ヒトラーの妨害さえなければ、ドイツ国防軍は戦争に勝っていたというイメージを広めている。その神話をつくったのは、戦略をめぐってヒトラーと対立し、参謀総長の職を逐(お)われたフランツ・ハルダー上級大将たちのグループ。
冷戦に直面し、ドイツ軍が豊富に有していたソ連軍との戦闘体験を活用したいというアメリカ陸軍がハルダー将軍たちの研究報告書を普及した。ハルダー史観によって、神話が定着した。しかし、冷戦の終結によって、ソ連が押収していたドイツ軍の文書が明るみに出たことによって、このハルダー史観ドイツ国防軍神話は覆されていった。たとえば、ダンケルク撤退を止められなかったのはヒトラーにのみ責任があったのではない・・・。
イギリス上空の制空権をめぐる一連の空中戦(バトル・オブ・ブリテン)において、見かけほどには、ドイツ空軍は無敵の存在ではなかった。ドイツ空軍は陸軍への支援を第一目的としてつくられた戦術空軍だった。主力のメッサーシュミットは、航続距離が短く、イギリス本土空襲にあたっては南イングランドをカバーできるだけ。戦闘機の航続距離が足りないため、爆撃隊が単独で侵攻しなければならない。この裸の爆撃隊にレーダー管制を受けたイギリス戦闘機隊が襲いかかる。したがって、ドイツ空軍の損害は甚大だった。
そして、ヒトラーが爆撃目標を空軍基地から都市に変えたことによって、民間人の被害が増大して戦意が高揚し、イギリス空軍は一息ついて、戦闘機隊を再編することができた。その結果、ますますドイツ空軍にとっての脅威が増大した。
ロンメル将軍は、貴族ではない、プロイセンのユンカー出身でもない。軍人の家庭に生まれておらず、幼年学校を出ていない。
ドイツ将校団では貴族が圧倒的に有利だった。貴族、それもユンカー、軍人の家柄で、幼年学校を出ていることが出世の条件だった。ロンメルは、この4つのどれも満たしていない。ロンメルが昇進するには、実戦で手腕を見せるしかなかった。
ヒトラーは、ロンメルを総統護衛部隊の長に任命した。しかし、ロンメルには、戦略的な能力がなかった。戦術的に有利な情勢だけに気をとられ、それが戦略的にどのような影響を支えるかを配慮できない人物だった。
ロンメル将軍の長所とされているものの多くは、下級司令官の美徳である。前線を恐れない、陣頭に立つ・・・。しかし、軍司令官が前線視察に出かけて行方不明になってしまったら、軍はどうするのか・・・。
陸上自衛隊幹部学校で講師をつとめているだけあって、大変専門的で詳しく、並みの軍事史にはない深さに感銘を受けました。
(2017年5月刊。2800円+税)
2017年6月20日
トリノの軌跡
(霧山昴)
著者 脱工業化都市研究会 、 出版 藤原書店
私は、イタリアにはミラノに行ったことがあるくらいで、残念なことにローマにもポンペイにも行ったことがありません。ミラノにはスイスから特急列車に乗って行ったのですが、すべてフランス語が通用して安心でした。
トリノというと、イタリア車のフィアットの街ですよね。ところが、そのフィアットが落ち目になったあと、トリノをどう再生させるか、というのが大問題になりました。
本書はトリノ再生計画がかなりうまく進んでいることを具体的に紹介していて、日本人の私たちにも参考になります。トリノは、ミラノより西側、フランス側に近いところにあります。
トリノはイタリア北西部に位置する。晴れた日にはアルプス連峰の雄姿を眺めることができる。トリノでは、19世紀後半に、市域を南北に貫く鉄道が開発された。20世紀になると、フィアットのワン・カンパニ・タウン化が急進展し、鉄道の西側に自動車工場、その部品工場、手製鉄所などが連棟した。労働者向けの陣腐な集合住宅が立ち並び、街は灰色になった。市域は鉄道によって真っ二つに分断された。
トリノの人口は、1970年代半ばに120万人をこえたが、その後は人口減少を続け、現在は95万人。イタリア第四位の都市。
1950年代には、市内の労働者の80%以上がフィアットとその関連企業で働いていた。戦後のフィアットの急成長を支えたのは、国内移民労働者、とくにイタリア南部からの移民だった。フィアットの企業城下町だったが、巨大工場が1982年に閉鎖されると、建築家の手で商業文化複合施設にリノベーション(再生)された。
トリノでは食文化産業も注目されている。スローフードの聖地もトリノの近くにある。
トリノでは、自転車道路や遊歩道の整備といった小さなプロジェクトを結びつけて全体の改善が図られている。
2011年にトリノに居住する外国人は12.9万人。ルーマニア人が40%、モロッコ人が15%を占めている。1990年より前は南米やアフリカからの移民が多かった。しかし、今ではアルバニアやルーマニアなどの東欧からの移民が目立つ。
失業者・無業者の起業・自立を実践的に支援する取り組みがなされている。若年層や女性への支援も目立つ。
単一用途のゾーニングは、まちを単調にし、活力のない、つまらない街区にしてしまう。
市内中心部にある路上駐車場や歩道を活用(バールナイゼーション)するには、業者はその広さに相応した利用料をトリノ市に支払う。
60%の飲食店が路上駐車場・歩道をバールナイゼーションしている。
日本の都市再生にもぜひ生かしたいと思わせる具体的な提言がなされています。政権与党は共謀罪の成立を目論んだり、リニア新幹線のようなゼネコン本位の超大型プロジェクトに狂奔するばかりで、身近な町づくりのような本当に国民を守る力を育てようとしているとは、とても思えません。もっと庶民の力を育てる政治であってほしいものです。
(2017年2月刊。3300円+税)
日曜日に仏検(一級)を受けました。いやはや難しいです。いつものことながら、知らない単語がたくさん登場してきます。動詞を名詞に変えて同旨の文章につくり直せと言われても、まるで歯が立ちません。年に2度、3時間、じっくり出来ない生徒の悲哀を味わいます。自己採点で53点(150点満)でした。
この2週間ほど、20年に及び過去問を繰り返し復習し、NHKラジオ講座のCDを聞いて書き取り練習もしてみたのですが、いかんせん頭の劣化現象のほうが進んでいるようで、いつも単語が新鮮です(要するに忘れている)。
まあ、それでも、フランス映画(なるべくみるようにしています)は、かなり聞きとれますし、字幕と見比べて、そういうことなのかと、一人納得したりしています。これはこれでうれしいのです。
2017年6月 9日
強制収容所のバイオリニスト
(霧山昴)
著者 ヘレナ・ドゥニチ・ニヴィンスカ 、 出版 新日本出版社
アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所に入れられたポーランド人女性がバイオリニストとして生き延びた体験記です。なにより驚くのは、95歳になって書いた回想記で、100歳になって日本語訳が刊行されることについてメッセージを日本人読者に向けて送ってくれていることです。まさに奇跡としか言いようがありません。
ポーランドはショパンの祖国であり、ショパンの祖国がポーランドである。日本人は、ショパンの音楽を愛していることを知っている。
著者のメッセージには、そのように書かれていますが、まさしくそのとおりですよね。
著者が生まれたのは、1915年7月。ウィーンだった。音楽好きの父親のもとで、著者はバイオリンを学びはじめ、結局、それが身を助けることになります。
著者は強制収容所に入れられ、裸にされ、男性囚人の前に立たされます。そして、囚人生活が始まるのです。
1943年秋、ドイツは東部戦線の戦況悪化により節約を強いられていた。強制収容所で殺害されたユダヤ人の衣類の良い物は列車でドイツ本国へ送られ、ドイツ市民の需要を満たした。
レンガ造りのブロックの建物の最下段で寝る。湿気を含んだレンガが地面にじかに並べられているだけで、寝具は何もない。頭と足の位置を交互にして横たわるのみ。二枚の灰色の毛布は、汚れでべとべとし、シラミがたかっている。とても寒いので夜は衣類を全部身に着けたまま眠った。横になるとすぐに、寝棚の板や毛布に群らがっていた南京虫と衣ジラミがすぐに這い寄ってくる。そのうえ、寝ている身体の上をハツカネズミやドブネズミがはね回る。
ユダヤ人は人間以下の存在と考えたナチスにとって、トイレットペーパーは与えられるものではなかった。
ビルケナウで著者が生きのびられたのは、労働隊そして音楽隊に入ることができたから。女性音楽隊は、1943年春に、親衛隊女性司令官マリア・マンデルが設立した。このとき女性囚人は、1万数千人いた。
マンデルは、男性収容所に音楽隊が存在しているのに対抗して、同じような女性音楽隊をつくった。これには、アウシュヴィツ総司令官アドルフ・ヘスの好意も、うまく重なった。
女性音楽隊の監督(カポ)には、戦前は小学校で音楽教師をしていたゾフィア・チャイコフスカが就任した。チャイコフスカは、さまざまな国籍の、統制のとれない若い音楽家たちをまとめ、秩序ある状態に導いていった。
強制収容所に設置された死体焼却炉から昼夜を問わず、もうもうと上がる炎と黒い煙を背にして、娯楽のためにの音楽を演奏していたのです。
これは、どういうことなのか、考えてみれば、深刻なフラストレーションとなった。それは、そうでしょうね・・・。本来、同じ境遇のはずなのに、私は安全で、あなたは安らかに殺されてこいという音楽を演奏するなんて、耐えられませんよね。
音楽隊は、見かけのうえでは楽なコマンドという印象を与えていたかもしれないが、実際には、非常な骨折りと精神的緊張という対価を支払っていた。恐ろしい悪が凝集する場所で音楽を演奏するという道徳的な苦しみに襲われていた。
理不尽があたりまえという極限状態で楽しい音楽を演奏していたという若い女性集団のなかで生きのびたという貴重な体験記です。心して読みつがれるべきものだと思いました。
(2016年12月刊。2300円+税)
山田洋次監督の映画「家族はつらいよ」パートⅡをみてきました。
土曜日午後、博多駅にある映画館は「昔青年」の観客で満足でした。なかなかシリアスな話が笑わせながら進行していきます。さすがは山田監督です。山田監督も85歳だそうですから、もちろん他人事ではないことでしょう。私にしても同じことです。
「この国は70歳を過ぎても道路で旗振りさせている」というセリフがあります。弁護士の私としては70歳すぎても働けるとのは大変ありがたいことなのですが、一般には年金で悠々自適の生活が保障されるべきですよね。
2017年5月25日
いのちの証言
(霧山昴)
著者 六草 いちか 、 出版 晶文社
ナチスの時代をドイツ国内で生きのびたユダヤ人、それを支えた日本人がいた、この二つをドイツに住む日本人女性が実例をあげて紹介した本です。
ベルリンには、かつて16万人以上のユダヤ人が暮らしていた。たとえば電話帳にユダヤ人特有の名前であるコーン姓の人は、1925年版では5頁、1300世帯がのっていた。ところが、1943年版には、わずか28世帯でしかなかった。
終戦まで生き残ったユダヤ人は、わずか6千人だった。そのうち2千人は、ドイツ人の妻や夫や親をもっていた人たち。ゲッペルスのユダヤ人一掃作戦に抗議したドイツ人女性たちによって救われた。残る4千人は、市民が個人的に隠し通した人たちだった。
そして、実は、ベルリンにあった在独日本大使館にもユダヤ人女性がいて、大使館が守っていたというのです。
ドイツ人の女性タイピスト2人は実はユダヤ人だ。あえて日本大使館は、彼女らを雇用していた。ドイツ人が日本大使館に雇われていたら安全だと承知して頼み込んできた。そういうドイツ人は、反ナチ、反ヒトラーの感情をもっていた。
近衛文麿の弟である近衛秀麿は、オーケストラの指揮者としてドイツでも活躍していた。その近藤秀麿は、ユダヤ人家族の少なくとも10家族の国外脱出を助けた。優秀、有能な人を輩出したユダヤ人をヒトラー・ドイツは抹殺しようとしていたわけですが、日本が何人も身を挺してその救出にあたっていたことを知ると、身体が震えるほど、うれしくなります。
ところが、最近、日本のなかで「日本人で良かった」とかいう変なポスターを貼り出す日本人がいるというので、呆れて反吐が出そうです。中国人や韓国人を見下して、日本民族は優秀だ。なんて、まるで馬鹿げた考えです。その心の狭さには開いた口がふさがりません。
弱者いじめをする人は、幼いころから親と周囲から大切に育てられてこなかった、愛情たっぷりのふりかけごはんを食べられなかった気の毒な人たちだという分析がありますが、私もそうだと思います。でも、気の毒な人たちだと哀れんでいるだけではすみません。彼らが害毒をたれ流すのは止める必要があります。
「みんな違ってみんないい」(金子みすず)
「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」(日本国憲法前文)
日本国憲法って、ホント、格調高いですよね。それに比べて、自民党の改憲草案は信じがたいほど下劣です。
(2017年1月刊。1900円+税)
2017年5月20日
写真家ナダール
(霧山昴)
著者 小倉 孝誠 、 出版 中央公論新社
この本で、アレクサンドル・デュマ、ヴィクトル・マゴー、ジョルジュ・サンドなどのくっきりした肖像写真に接し、彼らの人柄を初めて具体的にイメージすることができました。
詩集『悪の華』で有名な詩人ボート・レールが、「ナダールは生命力のもっとも驚くべき表現である」と高く評価したという写真家ナダールを紹介した本です。豊富な写真のあるのがうれしい限りです。
ナダールは1820年に生まれ、第一次世界大戦の始まる前の1910年に亡くなっていますので、19世紀フランスに生きた人だと言えます。
ナダールはボヘミアン的作家、ジャーナリスト、風刺画家、そして写真家であり、気球冒険家でした。1857年に初めて気球に乗ったナダールは気球から地上の写真も撮っています。そして、写真家としては、パリの地下水路やカタコンベ(地下墓地)まで撮影しているのです。
アレクサンドル・デュマは『三銃士』や『モンテ・クリスト伯』で名高い作家ですが、その肖像写真は、「根拠ある自信にあふれた表情」というキャプションがついています。なるほど、今にも何か話しかけてきそうな顔写真です。
シャルル・ボードレールはナダールの親しい友だちでしたが、何かもの言いたげな表情をしています。
パリ・コミューンを圧殺した政治家であるティエールは、権力欲に取りつかれた野心たっぷりの表情です。そのほか、エミール・ゾラ、ギ・ド・モーパッサン、オーギュスト・ロダン、クロード・モネなど、当時のフランスを代表する著名人の顔写真がたくさん紹介されていて飽かせません。
(2016年9月刊。2600円+税)
2017年5月14日
ヤズディの祈り
(霧山昴)
著者 林 典子 、 出版 赤々舎
イラクの少数民族ヤズディをイスラム過激派のISI(イスラム国)が攻撃していることを知った日本人カメラマンが現地に出かけて撮った貴重な写真集です。
ISIの拠点となっているモスルからわずか直線距離で80キロしか離れていない、クルド人自治区の中心都市エルビルにたどり着きます。そして、そこから、イラクにあるシンガル山の頂上にあるヤズディたちが避難生活を過ごしている場所に出向くのです。なんと勇気ある女性でしょう。おかげで、こうやって写真を通してその悲惨な状況をいくらか想像できるわけです。
ISI(この本ではダーシュと呼ばれています)は、ヤズディの男たちは皆殺しにて、女性は暴行し、奴隷として売り飛ばすのです。
生きのび、被害にあった女性たちの話は、どれも同じパターンです。男たちはどこかへ連れ去られて、銃声がして、もう戻ってこないのです。そして、女性は一ケ所に集められ、シャワーを使わせられて、一人ひとり売られていくのです。そして、この本に登場するのは、それでも脱出できた人たちだということでした。
この写真集に救いがあるのは、生き残った女性の表情が絶望に沈んではいないということです。美容師になるつもりだった女性が、今では、カラシニコフ(ロシア製の銃)を抱いて戦う兵士になったのです。
日本人の私たちの知らないヤズディの女性たちの気高さを知ることも出来る写真集でもあります。最初は写真だけ。キャプションもありません。後半に解説というか、自己紹介の文章があり、写真の意味が分かります。ぼやけた顔写真は、わざと識別できにくいようにしてあるわけですので、文句は言えません。
(2016年12月刊。2800円+税)
2017年4月30日
小説・ライムライト
(霧山昴)
著者 チャールズ・チャップリン 、 出版 集英社
チャップリンって小説も書いていたのですね。まさしく天才って、何でも出来るという見本のようなものです。
この本は映画「ライムライト」の制作過程も丹念に明らかにしていて、興味深いものがあります。チャップリンが打合せのときに言った言葉もちゃんと記録され、ペーパーとして残っているようです。
チャップリンは、推敲に推敲を重ねていて、その手書きの校正の過程も紹介されます。
異常なほどのこだわりがあったようです。そのおかげで私たちは超一流の芸術作品を今日も楽しむことができるわけです。
映画「ライムライト」の先行試写会が催されたのは1952年8月2日。その翌月の9月17日、チャップリンはイギリスへの船旅に出た。ところが、アメリカ司法長官はチャップリンの再入国許可を取り消した。FBIのフーバー長官と共謀して、チャップリンを「アカ」と決めつけての措置だった。
当時、アメリカでは「アカ狩り」旋風が吹いていたのですね。今でも、アメリカではその偏見がひどいようです。なにしろ、国民皆保険を主張すると、そんな人には、みな「アカ」というレッテルを貼られるというのですから、狂っています。それだったら、ヨーロッパなんて、オール「アカ」になってしまいます。とんでもないことです。
チャップリンがアメリカに渡ったのは、20年後の1972年。このとき、アカデミー特別名誉賞が贈られ、チャップリンはようやくアメリカと「和解」した。
トランプ大統領に象徴されるような、アメリカの「影」の部分ですね。
1936年、チャップリンは、ジャン・コクトーに、映画は木のようなものだと語った。
揺さぶれば、しっかりと技についていないもの、不必要なものは落ち、本質的な形のみが残る。
チャップリンが家で新しいアイデアを考えているあいだ、撮影が中断されることはよくあった。それができたのは、プレッシャーがなかったからだ。スタジオはチャップリンの持ち物であり、スタッフは常駐していたし、未使用の映画フィルムは廉価だった。
『黄金狂時代』は撮影に170日、全体で405日かかった。『街の灯』は撮影に179日、全体で683日だった。そして、『殺人狂時代』は80日、『ライムライト』は59日で撮影された。
チャップリンが延々と書きものを続ける形でアイデアを発展させ、磨きあげ、記録していく。実際には、秘書に対して長時間口述するという作業があり、そのあと出来あがったタイプ原稿に対して、チャップリンが改訂を加え、それがまた新しいタイプ原稿とさらなる改訂につながる。このプロセスが問題なく続いていく。チャップリンは、なかなか満足しない性質だった。
チャップリンのこだわりぶりは際だっていた。
チャップリンは気の利いたフレーズを手放しで喜んだし、それがとりわけ自分の創作したものであったときには、なおさらだった。
チャップリンは映画に自分の子どもたちや、妻、兄などの家族も登場させていたのですね。知りませんでした。スイスにチャップリンの邸宅だったところが博物館になっているそうですね。ぜひぜひ一度みてみたいと思います。
映画「ライムライト」は忘れていますので、DVDを借りてみてみたいと思いました。
(2017年1月刊。3500円+税)
2017年4月22日
わたしは、こうして執事になった
(霧山昴)
著者 ロジー・ハリソン 、 出版 白水社
『おだまり、ローズ』というイギリスの貴族にメイドとして仕えていた女性の回想記を前に紹介したと思いますが、同じ著者が同業の執事たちの話をまとめた本です。イギリスの貴族たちの日常生活を垣間見ることができる点という点で面白い内容です。
貴族は、朝は使用人が運んでくる紅茶をベッドの中で飲み、着替えやヒゲソリさえも使用人の助けを借りる。
華やかなディナー・パーティーでは、すべての参加者は会話を絶やしてはいけない。右側に座っている人とひととおり会話をしたら、ころあいを見はからって左の人とも会話をしなくてはいけないのだが、そのタイミングはなかなか難しい。
これって、貴族じゃなくても日本の食事会でも共通する課題ですよね・・・。
食事が終わると、女主人は食卓を囲んでいる女性たちに視線を送り、女性は全員すっと立って食堂から応接間に移る。言葉を使わず、目線だけで退場のメッセージを送り、女性の客も、「そろそろだな」と思うと、女主人を注目しなければいけない。残った男性たちは、ポートの瓶を回し、政治や「淑女には聞かせられない」話をひとしきりしてから、応接間に向かう。こうしたしきたりを知らない客は恥をかくことになる。
夜食つきのパーティーが開かれるときには、使用人は午前2時前にベッドに入れる見込みはまったくなく、朝は遅くとも7時には起きなくてはならない。
イギリスのご婦人は、旦那様はしょっちゅう替えるけれど、執事は絶対に替えない。
金持ちや貴族のモラルを批判する世の人々は、彼らが常に誘惑にさらされていることを忘れている。ストレスを受けて心が乱れた雇い主は、ときに立場を忘れ、身近に仕える使用人の意見や助言を求めることがある。しかし、従僕にとって、見ざる、聞かざる、言わざるが一番よいこと。
秘密を守れない人物とみなされた従僕は、どこでも雇ってもらえない。
上の人も、下の人も、それぞれ苦労は尽きないということのようです。
(2016年12月刊。2600円+税)