弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
ヨーロッパ
2019年2月16日
あちらこちら文学散歩
(霧山昴)
著者 井本 元義 、 出版 同人誌『海』抜刷
アルチュール・ランボーの足跡をたどった詩人による探訪記であり、随想集です。
19世紀末のフランスで活躍したランボーは、若き詩人として数々の傑作を発表したあと、突如として文壇から姿を消し、アフリカでは武器商人として行動します。そして、37歳で亡くなるのでした。
著者はランボ―に関する本を数十冊読み、フランスでランボーの生まれ育ち、活動した地を訪ね歩きました。ロッシュ村にあるランボーの墓石は何度も撫でたということです。
なぜ、ランボーは詩を書くのを止めたのか。書くことに何の意味も感じなくなったのか。書けなくなったのか。絶望したのか、それともふてぶてしく生きていたのか・・・。
パリのムフタール通りには、「バー・バトーイーヴル」がある。「酔いどれ小船」と訳される詩はランボーの最高傑作の一つ。このとき、ランボーは、まだ16歳だった。
著者は、会社経営を引退すると、年に3ヶ月ずつ、3年間をパンテオンの近くのアパルトマンに居を構えてパリをさまよい歩いたといいます。すばらしいことです。とても真似できません。
ランボーは、ヴェルレーヌと同世代、そして二人ともパリ・コンミューニのころに生きていました。
ランボーは彗星のように出現し、スキャンダルとともに消え去り、その後は居場所も分からない謎の詩人として名声を博しました。もちろん、本人はそんなことは知りません。
フランスを去ってアフリカで武器商人としてもうけようとしてランボーは失敗してしまいます。
著者は私のフランス語仲間です。2015年にはフランス政府観光局主催の「フランス語で俳句」というコンクールに応募して優勝し、フランス旅行に招待されました。すごいです。
著者のあくなき探究心と文筆活動に大いに刺激を受けています。
(2019年1月刊。非売品)
2019年2月 8日
わたしの町は戦場になった
(霧山昴)
著者 ミリアム・ラウィック 、 出版 東京創元社
シリア内戦下を生きた少女の4年間。これがサブタイトルです。オビには、「一人の少女が内戦下の日々を曇りなき目でつづった21世紀版『アンネの日記』」とあります。
少女はシリアのアレッポに生まれ育ち、今もアレッポで両親と妹とともに暮らしているアルメニア系のクリスチャンです。今は15歳になっていますが、この日記では7歳から13歳までの6年間の生活が紹介されています。
戦争が身近にあり、死と隣あわせの生活を過ごしたため、ものすごいスピードで成長した。
銃や大砲の音を聞き分けられるし、爆弾の種類も知っている。避難するタイミングと方法も身についている。なにより、死がどんなものであるかを知っている。大切な人を失った悲しみ、死ぬかもしれないという恐怖、そういったものを経験した。
戦争という泥沼にはまっていた。子どもからすると、チンプンカンプンの、ろくでもない戦争。なんでそんなことになってしまうのか、まるで理解できない。
戦争とは、恐怖、悲しみ、不安以外の何ものでもない。もう二度と戻ることない以前の生活に思いをめぐらせること。それが戦争だ。
ミリアムの日記は、2011年6月、7歳のときから始まる。そして最後は2017年3月。13歳だ。
戦争になる前のアレッポで豊かな色やにおいや味があふれている、天国みたいなところで暮らしていた。アレッポの太陽を浴びて日焼けしていた。夏には、街歩きの最後に、広場のユーカリの木の下で、ピスタチオをトッピングしたアイスクリームを食べるのがおきまりだった。
自宅を出て、避難することになった。みんなにまじって、私たちの家族も歩きだした。まわりの人を見ていると、思わず『ひつじのショーン』に登場するヒツジたちが頭に浮かんだ。だれもが無口になっていた。話をしている人は一人もいなかった。
4歳のときから、ずっとフランス語を習っている。でも、フランスがシリアに戦争をしかけようとしているなんて聞いたら、もうフランス語の授業を受ける気にはならない。
戦争のさなかにも学校があり、少女は皆勤賞をもらうのです。
2014年9月1日。きょうから学校が始まる。5年生になった。私たち姉妹は、一度も授業を欠席したことがない。それがパパとママの自慢だ。
学校の中庭で小さな女の子が一人で遊んでいる。5歳のイバちゃんだ。イバちゃんは、ときどき、ふと遊ぶのをやめ、声をはりあげて「アスマ、おいで、アスマ。一緒に遊ぼう」と言う。アスマはイバちゃんの妹。イバちゃんの目の前で殺された。イバちゃんは、妹が死んでいることが分からなくて、ずっとそばにいて話しかけていた。そのときから、イバちゃんの目には、いつも妹が見えているらしい。
シリアの内戦は、日本では報道されなくなってしまいました。アサド政権がひどいという話もありましたが、反政府軍との武力衝突が早くおさまって、平和のうちに話し合いで解決してほしいと思います。戦争が小さな子どもたちの夢を無惨におしつぶしているのを知ると、耐えられない思いです。
(2018年10月刊。1800円+税)
2019年2月 7日
回想のドストエフスキー2
(霧山昴)
著者 アンナ・ドストエフスカヤ 、 出版 みすず書房
ドストエフスキーが亡くなって30年後に妻のアンナが日記などをもとに書いた回想記です。人間ドッグ(一泊)に持ち込んだ本の一つで、つまらなかったら早送りのように読み飛ばしてしまおうと思っていたのですが、意外や意外、とても面白い読みものでした。
妻のアンナがドストエフスキーと結婚したのは20歳。ドストエフスキーは44歳でした。妻に亡くなられたあと、速記者としてアンナを雇ってから急速に親しくなったのです。
このころのドストエフスキーは、トルストイのような金持ちの作家ではなく、いつも金欠病で借金取りに追われていました。その借金は、自分がつくったものではなく、身内の借金です。
ドストエフスキーが書いて支払われる「印税」が唯一の収入源でした。しかも、ときどきはてんかんの発作におそわれ、また、ギャンブル狂(ルーレット)でもあったようです。ところが、妻のアンナは実務的能力があり、ドストエフスキーの創作活動を速記者として支えただけでなく、莫大な借金を返済してしまったのでした。4人の子どもを生み、夫にあたたかい家庭をもたらしたのです。
ドストエフスキーは、貴族の家柄といっても、貧しい医師の子どもにすぎなかった。
そして、妻のアンナは小官吏の娘だったが、娘時代に速記を習っていた。
ドストエフスキーは、若いときに軍事裁判にかけられ、シベリア徒刑4年、セミパラチンスクでの兵役5年間をつとめている。
ドストエフスキーは、取り立てに来た債権者から、家具を差し押えて、それでも不足したときには債務監獄に入ってもらうと脅された。
債務監獄に入ると、借金は帳消しになった。1200ルーブルの借金のためには9ヶ月ないし14ヵ月は入っていなければならなかった。そして、債務監獄に入った債務者の食費は債権者が払わなければならなかった。
そこで、妻のアンナは、次のように債権者に言い返した。
「住居は妻名義で借りたもの。家具は月賦で支払い中なので差押えは出来ない。債務監獄に夫は期限まで入ってもらって、私は夫の仕事を手伝う。そうすると、あなたには一文だって入らないうえ、夫の食費を払わされる」
いやはや、こんな「反論」が有効だったのですね。驚きました。
ドストエフスキーは、作家としてだけでなく朗読者としても才能があったようです。
『カラマーゾフ兄弟』を、細い声、だが甲高い、はっきりした声で、なんとも言われないほど魅力的に朗読した。何千という聴衆の心が一人の人間の気持ちに完全にひきつけられた・・・。
ドストエフスキーを改めて読んでみようと思ったことでした。
(1999年12月刊。3200円+税)
2019年1月 8日
ヨーゼフ・メンゲレの逃亡
(霧山昴)
著者 オリヴィエ・ゲーズ 、 出版 東京創元社
ナチスの戦犯として、アイヒマンはイスラエルの諜報機関(モサド)に隠れ家から拉致されてイスラエルに連行され、裁判を受けて処刑されました。
ところが、ヨーゼフ・メンゲレのほうはアルゼンチンそしてブラジルで平穏な暮らしのなかで生きのびて、海岸で溺死するまで裁判にかけられることがありませんでした。どうして、そんなことが可能だったのかを小説で再現しています。
アルゼンチンのブエノスアイレスでアイヒマンとメンゲレは互いに面識があったようです。
メンゲレはずっと目立たないように注意してきたのに、アイヒマンは名声を求め、酔いしれて元ナチス親衛隊上級大隊指導者とサインしたりした。
メンゲレはアイヒマンを無教養な元商人として軽蔑した。中等教育も満了しておらず、前線での経験もない会計係の息子。アイヒマンは哀れなやつだ。一級の落ちこぼれだ・・・。
アイヒマンのほうも、メンゲレについて、臆病などら息子、日焼けした下っ端野郎にすぎないとけなした。
メンゲレはフランクフルトとミュンヘンの両大学で医学と人類学で博士号をとっていた。ところが、1964年に、アウシュヴィッツで殺人の罪を犯していたことを理由として、メンゲレの博士号は取り上げられた。これを知ってメンゲレは怒り狂った。
メンゲレはアルゼンチンからパラグアイに移住した。ドイツにいる家族とはずっと連絡をとりあっていた。西ドイツの情報部は、そもそも旧ナチスの息のかかった機関なので、メンゲレの行方を真剣に追跡することはなかった。
そして、次にブラジルに移住した。サンパウロの近くだ。ドイツにいる息子、ロルフ・メンゲレとは盛んに文通した。
1976年5月、メンゲレは脳卒中に襲われた。
息子、ロルフ・メンゲレがブラジルにやって来て、父に問うた。
「パパ、アウシュヴィッツでは何をしたんです?」
メンゲレは答えた。
「ドイツ科学の一兵卒としての私の義務は、生物学からみた有機的共同体を守り、血を浄化し、異物を排除することにあった」
「ユダヤ人は、人類に属していない」
「何千年も前からユダヤ人はアーリア人種の絶滅を望んできたのだから、すべて排除すべきなのだ」
「人民の外科医として、アーリア民族が永遠に栄えるよう、社会の幸福のために努めたのだ」
「私は何も悪いことはしていない」
いやはや、死ぬまでメンゲレはまったく反省せず、罪の意識もなかったというわけです。
1979年2月7日、メンゲレは水着を身につけ、海岸に入った。そして、溺れた。
息子ロルフは、父を助けてきてくれた人々に対する配慮から、父の死亡を公表しなかった。メンゲレの家族は南米における潜伏場所を知っていて、最後まで仕送りしていた。
1992年、DNA検査でメンゲレの遺体であることが確認された。
息子ロルフはミュンヘンに住み、弁護士として活動している。
メンゲレの死に至る状況がノンフィクションとして実に細かく再現されていて、圧倒される思いでした。
(2018年10月刊。1800円+税)
2018年12月18日
ヒトラーとドラッグ
(霧山昴)
著者 ノーマン・オーラ― 、 出版 白水社
ヒトラーという人間をとことん暴き出した画期的な労作です。アメリカのエルヴィス・プレスリーもフランスのエディット・ピアフも、そして日本の美空ひばりも、いずれも残念なことに晩年は薬におぼれて、病気で若死にしました。有名人であり続けることのプレッシャーから逃げたかったのでしょうね。ヒトラーも似たようなものです。
ヒトラーの最後のころの様子が次のように描写されています。
震えがひどくなり、急速に身体の衰えが目立った。高齢者のように背を曲げて涎(よだれ)を垂らしていた。上体を前に投げ出し、両脚を後ろに引きずり、身体を右に傾けたまま、冷たい壁にもたれかかり、居室から会議室への廊下をのろのろ歩いていく。薬物なしでは抜け殻同然で、その抜け殻の制服には米粥のしみがついていた。
ヒトラーは叫び、喚(わめ)き、荒れ狂い、怒りまくった。誰もがヒトラーの変わり果てた姿に不快感を禁じえなかった。ヒトラーの歯はエナメル質が溶け、口腔粘膜は乾き、ボロボロになった歯が何本も抜け落ちていた。
昔からの妄年がヒトラーの頭の中で堂々めぐりを繰り返した。被害妄想と赤い膿疱、ユダヤ人、ボリシェヴィキに対する病的不安である。恐ろしい頭痛も始まった。ヒトラーは黄金製のピンセットで自分の黄ばんだ皮膚をつっつき始めた。攻撃的で神経質な手の動きだった。
ヒトラーは、繰り返し何度も注射を受けていたときに細菌どもが自分の皮膚から体内システムに潜入し、いま内部から自分を破壊しようとしていると思い込んでいて、その細菌たちをピンセットでつまみ出そうとしているのだった。
ヒトラーはつらい離脱症状に見舞われ、苦しそうな息をしていて、見るも哀れな様子だった。頭のてっぺんから足の爪先まで不安におののき、口をパクパクさせて空気を吞み込もうとしていた。体重は減り、腎臓も循環系も、ほとんど機能していなかった。左まぶたは腫れあがり、もう手元しか見えなかった。ヒトラーは、絶えず左眼のあたりを押さえたり、擦ったりしていた。
歯がボロボロなので、甘いケーキをかまずに呑み込む。それで大量の空気がいっしょに腸に取り込まれ、臭気を発するガスになる。
ヒトラーは、1945年4月30日、自殺した。有毒な混合薬の過剰摂取によって破滅したのだ。
この本は、そんなヒトラーの主治医として求められるまま「有毒な混合薬」をヒトラーに投与していた医師テオ・モレルを中心に描いています。
驚くべきことに、ヒトラーが政権を握る前のドイツは、世界に冠たる薬物先進国だったというのです。コカインの世界市場の80%はドイツの製薬会社がつくっていましたし、モルヒネとヘロインの製造・販売もドイツは世界のトップでした。そして、これらの薬物が処方箋なしで入手でき、社会のあらゆる層に浸透していました。ベルリンの医師の4割がモルヒネ中毒だったとのこと。
ナチ・ドイツ軍の兵士たちはべルビチンを服用して戦上に赴いた。べルビチンはメタンフェタミン塩酸塩を成分とする覚せい剤です。日本人の長井長義がつくり出し、結晶化に成功したのも日本人の緒方章でした。そして、ドイツのハウシルトがべルビチンとして開発し、一種の万能薬としてドイツの家庭に常備されていました。
べルビチンは、国民一人一人が独裁制のなかで機能することを可能ならしめた。それは錠剤の形をしたナチズムだった。
兵士たちは、1日に2錠から5錠のべルビチン錠を服用させられていた。兵士たちは興奮状態となり、眠る必要がなく、ひたすら前進する。ドイツ軍による電撃戦はフランス軍をたちまち圧倒してしまった。
ダンケルクでヒトラー・ドイツ軍が空如として前進を停止し、イギリス軍が本土に帰還できたのは、このままドイツ軍が全面的勝利を手にしたとき、その指揮をとった将軍がいずれヒトラーを上まわる世間の評価を得て、ヒトラーに挑戦してきたら、自分(ヒトラー)が戦争を指揮していることをドイツ国民が忘れ、その将軍が戦争全体に対する指揮者として、ライバルとして登場してくることをヒトラーは恐れた。この解釈を読んで、私は思わず、「なるほど!」と心のなかで叫んでしまいました。
300頁もある本ですが、一気読みもできる内容ですので、ヒトラーとは何者なのかを知りたい人には強く一読をおすすめします。
(2018年10月刊。3800円+税)
2018年12月15日
ローズ・アンダーファイア
(霧山昴)
著者 エリザベス・ウェイン 、 出版 創元推理文庫
イギリス空軍(補助航空部隊)に所属するアメリカ人女性飛行士がドイツの上空を飛んでいると、ドイツ空軍機に見つかり、強制着陸を余儀なくされるところから話は始まります。そして、強制収容所に収容されるのです。
収容所のなかの生活、日々の殺人マシーンに慣らされていく様子が描かれます。そして、ついに収容所から再び飛行機に乗って航走するのです。
先日、天神で『ヒトラーと戦った28日間』というロシア映画をみました。ナチスの強制収容所の一つ、ソビヴル収容所からの集団脱走に成功したというすさまじい映画です。実話をもとに状況を再現していましたが、ナチスの大量殺人、非人道的な虐待行為もよく描けていました。やはり、脱走に成功する話という、少しは救いのある話がいいのですよね。
あとがきを読むと、小説ではありますが、本書も実際にラーフェンスブリュック収容所からの脱走に成功し生還した人々への取材にもとづいていることが分かります。
この収容所で人体実験に供されたポーランドじん女性74人全員の名前が「数え唄」として紹介されています。
収容所では、主としてフランス語、ドイツ語、ポーランド語が話されていました。
大勢の罪なき人々が共生収容所で即時に、また徐々に殺されていった事実がありますが、これを直視するためにも、例外的に生還できた人々の話をもとにした小説を読んでその苦しみを想像するのもいいこと、必要なことなのではないでしょうか・・・。
(2018年8月刊。1360円+税)
2018年11月24日
ナポレオン
(霧山昴)
著者 杉本 淑彦 、 出版 岩波新書
ナポレオンが皇帝になったあと、なぜ次々に周囲の国々へ戦争を仕掛けていったのか、この本を読んで初めて理解できました。
国内体制を固めたナポレオンは、対外戦争にのめりこんでいった。海ではイギリス上陸作戦が計画され、英仏海峡にのぞむブーローニュに一大軍事基地が建設された。陸では、総勢50万人に及ぶ大陸軍の編成が企画された。徴兵制度が整備・拡大され兵員適齢男性の30%が軍務に就いた。
ナポレオンを戦争に駆り立した動機の一つは、軍備増強に起因する財政負担の重荷だった。戦争に勝てば、占領地に巨額の賠償金や税金を課すことができる。戦争への備えが、戦争をもたらした。
ナポレオンがロシアへ侵攻していったのは、ロシアに占領地を得て、賠償金をもぎとることが大きな目的だった。しかし、その目論見ははずれ、冬将軍の下で退却するナポレオン軍をロシア軍が追撃してきた。ついに、ナポレオン軍がロシア領から無事に帰還できたのは、1割の3万人にみたなかった。
ナポレオンのアフリカ遠征は、結果としては失敗、敗退したにもかかわらず、当時の新聞等への報告をうまく操作して、フランス軍が連勝していたかのような幻想をフランス本国に与え続けていた。その意味で、ナポレオンのマスコミ操作術は見事としか言いようがない。
その結果、フランス国民はあたかも救世主かのようにナポレオンを熱狂的に迎え入れた。
ナポレオンがセント・ヘレナ島で死んだのは享年51歳のとき。その死因は、胃がんが現在では最有力。
ナポレオンについて、改めて深く認識することができました。
(2018年2月刊。840円+税)
2018年11月 5日
死に山
(霧山昴)
著者 ドニー・アイカー 、 出版 河出書房新社
今から50年以上も前、ロシアの冬山で大学生のグループが遭難し、9人全員が死亡しました。全員が長距離スキーや登山の経験がある大学生とOBたちですし、冬山の装備も当時としては十分でした。
ところが、9人の遺体はテントから1キロ半ほど離れた場所で見つかった。それぞれ別の場所で、氷点下の季節だというのに、ろくに服も着ておらず、全員が靴を履いていなかった。
9人のうち6人は低体温症が死因で、残る3人は頭蓋骨骨折などの重い外傷で亡くなった。女性の1人の遺体には、舌がなかった。さらに、一部の衣服から異常な濃度の放射能が検出された。
いったいなぜ、9人もの若者が、このような異常な状況で死ななければならなかったのか・・・。
アメリカのドキュメンタリー映画作家が50年も前の遭難事故の謎を解くため、現地に出かけるのです。スターリンが死んで、ソ連に少し雪どけが始まっていて、大学生たちは野外活動に熱をあげていた時代に起きた事件です。
大学生たちはカメラをもって、ずっと冬山登山の状況を記録していましたし、そのカメラは回収されていますので、大学生たちのはしゃいでいる様子も写真で紹介されています。
現地の人に襲われたとか、雪崩にあったとか、いろんな説があったようですが、ついに真相が明らかになります。
ネタバレをするのは本意ではありませんが、推理小説ではないので、お許しください。要するに、山の恐ろしさを知り、また、お伝えしたいということです。詳しくは、ぜひ、この本を手にとって、お読みください。結末を知っても、それに至る過程は読みごたえがあります。
要するに、山で発生したカルマン渦列と、それにともなう超低周波音が原因なのです。
強風が丸みを帯びた大きな障害物にぶつかったときに危険な竜巻が発生する。それがカルマン渦列で、そのなかの渦が超低周波音を生み出す。
みんなでテントに入っていると、風音が強くなってくるのに気がつく。そのうち、南のほうから地面の振動が伝わってくる。風の咆哮が西から東にテントを通り抜けていくように聞こえる。地面の振動が伝わり、テントも振動しはじめる。
今度は北から、貨物列車のような轟音が通り抜けていく。より強力な渦が近づいてくるにつれて、その轟音はどんどん恐ろしい音に変わり、と同時に超低周波音が発生するため、自分の胸腔も振動しはじめる。超低周波音の影響で、パニックや恐怖、呼吸困難を感じるようになる。生命体の共振周波数の波が生成されるからだ・・・。
9人は、これ以上ないほど最悪の場所にテントを張ってしまった。本当に耐えがたい恐ろしい状況に置かれた。超低周波音の影響により一時的に理性的な思考能力が奪われ、原始的な逃避反応という本能に支配された。いまはただ、この強烈な不快感を止めたい、逃げだしたい、それだけだった。テントから脱出せずにはいられなかった。どんな犠牲を払ってでも逃げろ、逃げろ、逃げろ、いまはそれしか考えられない。
ろくに服を着ておらず、足には靴下を履いているだけ。わが身に取りついた苦痛から逃れたい一心でテントから脱出したが、外の気温はマイナス30度。そこには別の苦痛が待っていた。
冬の竜巻は、時速60キロの速さで横を駆け抜けていく。周囲は漆黒の闇。テントに戻ることもかなわない。低体温症で身体が思うように動かなくなる・・・。
冬山の恐ろしさを明らかにした貴重な本でもあると思いました。
朝から読みはじめると、次の展開が知りたくて片時も目が離せず、午後、ようやく恐ろしい結末を知り、大自然の驚異を実感しました。9人の大学生たちの冥福を祈るばかりです。冬山に登る趣味がなくても、大自然の驚異を実感させる本として一読の価値があります。
(2018年11月刊。2350円+税)
2018年11月 2日
スペイン内戦(1936~39)と現在
(霧山昴)
著者 川成 洋 ・ 渡辺 雅哉 ほか 、 出版 ぱる出版
スペイン内戦というと、スターリンの責任は重大だと思います。当時、スターリンはソ連国内で大量の粛清をすすめていましたが、スペインでも自分の都合のよいほうに引きまわしたのです。その手先になって踊らされた人々もソ連に戻ったら次々に粛清されていったのでした。
スペイン内戦では、アメリカから渡った日系人(ジャック白井)の活躍も忘れることは出来ません。この本では、ほかにもアナーキストの日本人が2人スペインに渡ったという説も紹介されていますが、当時の日本ではありえないと否定されています。
スペイン内戦について、さまざまな角度から、大勢の人が語り、分析し、紹介している大作です。なにしろ783頁もあるのですから、一度では読み切れず、日曜日ごとに読んで1ヶ月以上も読了するのにかかってしまいました。
国際旅団の活躍も詳しく紹介されています。
国際旅団の義勇兵は世界各地から、50ヶ国から、続々とスペインに入国し、共和国の戦列で戦った。その合計は4万人。このほか、教育・医療・プロパガンダなどに従事する非戦闘員2万人がいた。彼らは、1938年11月の国際旅団の解散まで、激烈な戦場で戦った。
それから、80年がたっているのですね・・・。この本はスペイン内戦の勃発(1938年)から80周年を記念して出版されました。
ピカソの絵「ゲルニカ」で有名なゲルニカはバスク地方にあります。
1937年4月26日午後4時半ころから3時間、ドイツのコンドル兵団を中心にイタリア軍の飛行機も参加し、人口7000人のバスクの町ゲルニカが爆撃された。爆弾と焼夷弾が投下され、中心街の300家屋の建物の71%が破壊された。
この爆撃はドイツ空軍を試す機会だったと、ヘルマン・ゲンリングはニュールンベルグ法廷で証言した。
スペインの内戦に勝利したフランコ独裁政権は、スペイン国民をサッカーと闘牛に熱狂させ、政治に目をさせない、できる限り教育を受けさせず、政府批判の能力を持たせない、そして、外国人観光客による収入に満足し、どこの地方でも「スペイン料理」としてパエリヤをつくることを受け入れさせることにした・・・。
フランコ独裁政権は、戦後の配給制度によって与えられていた。
スペイン内戦において、早い段階からフランコ軍を支援し続けたのは、ヒトラーのナチス・ドイツとムッソリーニのファシスト・イタリアだった。国際旅団のなかでは指導権を握ろうとするソ連への反発も強く、一枚岩ではなかった。ジョージ・オーウェルも国際旅団の民兵組織には加わっていない。
2007年12月、スペイン歴史記憶法が成立した。これはスペイン内戦やフランコ独裁体制時に、政治的・思想的な理由により迫害された人々に対して、その刑罰・人権侵害の不当性を宣言し、名誉回復する権利を承認した。
こんな法律までつくったのですね、えらいですよね。
ジャック白井は1900年ごろ北海道の函館に生まれ、1929年にアメリカ・ニューヨークにたどり着いた。それまでは外国航路の船員(おそらくコック)だった。そして、最前線で銃をもって戦っていたが、1937年7月11日、敵の機関銃弾によって戦死した。
ジャック白井への追悼詩は、次のように書いている(ほんの一部です)。
同志白井は斃れた
彼を知らない者がいただろうか
あのおかしなべらんめい英語
あの微笑の瞳
あの勇敢な心
エイブラハム・リンカン大隊の戦友は彼を兄弟のように愛していた。
函館生まれのジャック白井
日本の大地の息子
故郷で食うことができず
アメリカに渡り
サンフランシスコでコックとなった
彼の腕は町の食通の連中の舌を満足させた・・・
(2018年6月刊。5800円+税)
2018年10月16日
立ち上がる夜
(霧山昴)
著者 村上 良太 、 出版 社会評論社
ずっとフランス語を勉強していますので、フランスの動きについても注視しているつもりなのですが、こんな運動がある(あった)なんて、ちっとも知りませんでした。
いま、フランスの左翼も、かなり低迷していますよね。オランド大統領は、がんばっていると思っていると、労働者の権利を制限する法案を提案するなんて、とんでもありませんでした。ところが、その提案に今のマクロン大統領も関わっていたようなんです。でも、マクロンは無傷のまま、逃げ切りました。日本でいうと、さしづめ民主党政権でしょうか。たしかに、ひどい無責任な政党でした。でも、考えてみれば、今のアベ政治ほど悪いことはしていませんよ。何でも悪いのは民主党政権時代に始まった、このように言いたてるアベ流のごまかしに乗せられてはいけません。
この本は、フランス左翼が今どうなっているのか、どんなことをしているのか、日本のジャーナリストが現地に出かけて取材してきたものです。したがって、ルポタージュといったほうがいいかもしれません。
日本人の父とフランス人の母をもった山本百合というフランス人女性の存在を初めて知りました。左の肩に入れ墨(タトゥー)を入れているところなんて、まるでガイジンです。ところが、彼女はフランスの官僚の一人なんです。驚きました。
パリでは、わずか1部屋のアパートでも、家賃が9万円(700ユーロ)もするそうです。まあ、東京並みの高家賃でしょうか・・・。
いま、フランスには、14万人をこえるホームレスがいる。では、日本には・・・?
いま、パリ市長は、社会党のアンヌ・イダルゴ(女性)。広場を占拠するのではなく、午後4時から午前0時までとし、テントなどは毎晩必ず撤収することを条件として共和国広場の使用を「立ち上がる夜」に許した。
「立ち上がる夜」(Nuit Debout)に、毎晩、数千人の老若男女が集まって議論した。これは、2016年3月31日に始まった。人々が広場に酒を持ち込まないようにチェックしたといいます。暴力行為を防止するためです。何千人もの人々が議論している光景が写真で紹介されていますが、圧巻です。
いったい、なぜ、社会党政権が労働者の権利を制限しようとするのでしょうか、不思議です。いろいろ、それを合理化する口実はあるのでしょうが、目ざす方向がまったく間違っているとしか言いようがありません。それでも救いなのは、フランスでは、まだストライキが生きていることです。日本では、もう久しくストライキなるコトバを聞いたことがありませんよね。40年前に「大失敗」したスト権ストが最後の仇花(あだばな)でした。
しかし、日本でも、もう一度ストライキを復活させる必要がありますよね。だって、カローシとか自死が年に2万5千人なんて、おかしいでしょ・・・。
フランス左翼の活気あふれる動きに大いに刺激されました。
(2018年7月刊。2600円+税)