弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
ヨーロッパ
2016年10月11日
「イスラム国」の内部へ
(霧山昴)
著者 ユルゲン・トーデンヘーファー 、 出版 白水社
ドイツ人ジャーナリストが「イスラム国」(IS)に潜入したルポルタージュです。潜入といっても、ISの了解を得たうえです。
ISは、2003年のイラク戦争の落とし子である。イラクのサダム・フセインが失脚したあと、アメリカの指導部にとっては、アメリカの有権者に対してイラクにおける先の見えない戦闘を正当化するために、記憶に残りやすい悪逆非道な敵のイメージが不可欠だった。
アサド政権に反対する初期の平和的なデモが無慈悲な内戦に発展する要因は、アメリカの寛大な承認を得て、各種の武器が巨大な貨物コンテナに入れられて船や飛行機でトルコにもたらされたことによる。それらの武器は、シリアに運ばれ、やがて反抗勢力の手に渡った。武器がシリア領内に入ってしまえば、もうアメリカはコントロールできない。
シリアでは、濡れ手に粟で、武器取引が横行した。
この200年間、アラブの国が西側の国を攻撃したことは一度もない。攻撃者は常にヨーロッパの強国であって、何百万人というアラブの一般市民が、そのつど残忍に殺害された。
もしテロリストがいなくなったとしたら、アメリカはそれをつくり出すだろう。アメリカは、何度となく、それをやった。
テロリストたちは、自分たちの国をガソリンタンクと見なして、自分たちから搾取しているアメリカの攻撃的な政治に対するまっとうな返答と考えて攻撃している。
中東におけるテロリストの数は爆発的に増大した。ビンラディンのころの国際テロリストは数百人でしかなかったが、今では10万人をこえている。
イラク国民は宗派をこえて和解したら、ISは決定的に弱体化する。
我々は、虚偽にみちた世界に住んでいる。殺人的な戦争挑発者と殺人的なテロリストに満ちた世界だ。
シリアに向かったドイツ人は300人にのぼるとみられている。ISは、5万人以上もの外国人戦闘員がISに加わっていると高言している。
ISの歳入は、戦利品、石油の販売、そしてザカート。
ザカートとは、税金のこと。戦利品のなかには奴隷がふくまれる。ヤズィード教徒女性1人の値段はカラミニコフ銃1丁と同じ、1500ドルほど。
ISでは煙草は禁止。公の場で吸ったら、30回のむち打ち刑。音楽も禁止。
シリアでは、ISの住民の7割は外国人で、3割がシリア人。女性の戦闘員はいない。
ISが学校で子どもに教えるのは三つ。コーランと法と戦闘。
百万都市モスルをISが支配しているが、その戦闘員は5000人。ISは2コ師団2万人を潰走させた。
ドイツ人の親子がISの内側に入って、その生活の一端を紹介した貴重な本です。日本の大手マスコミにはとても出来そうもないルポライタージュだと思いました。今度、自衛隊と一緒にスーダンの現地取材をするのでしょうが、現地の実情を曇らない目で報道してほしいものです。
(2016年6月刊。2400円+税)
2016年10月 7日
ブラックアース(上)
(霧山昴)
著者 ティモシー・スナイダー 、 出版 慶応義塾大学出版会
歴史の真実とは、ときに目をそむけたくなるものがあることを実感させてくれる本です。
いま、たとえば日本では、中国軍が沖縄に攻めてきたらどうするんだと、真面目に心配している人が少なくありません。決して笑いごとではありません。そして、日本が武力をもつのは当然だ、核武装してもいいんだと高言する恐ろしく強気の発言を繰り返す政治家がいて、それをもてはやす国民がいます。平和を守るためには、武力拡張が必要だと真剣に考えている人もいるのです。
そんな人たちからすると、私なんてまさしく卑怯者、弱虫、泣き虫としか思えないことでしょうね。良くて、せいぜい夢想主義者というところでしょうか・・・。でも、本当に武力さえもてば平和になれるでしょうか。世界一の最強国アメリカは、どこか平和をもたらしましたか。
ユダヤ人のホロコーストを誰が実行したのか・・・。ヒトラーが主導したのは間違いないけれど、ヒトラーはドイツ国内で何百万人ものユダヤ人を殺したのではない。ドイツ国内ではユダヤ人をあまりに虐待すると、ドイツ人からの反発が強く、それを恐れて、あまり(他国ほど)ユダヤ人を手荒く扱っていない。
ホロコーストで殺害されたユダヤ人のほとんどすべては、ドイツ国外に住んでいた。殺戮されたユダヤ人のうち、強制収容所を見たのは、ごく少数だった。
ユダヤ人殺害は、国家制度が破壊された地域でのみ可能だった。その一つがポーランドだった。
ナチスの恐るべき思想を支えていた一つに、アメリカの西部開拓におけるインディアン絶滅があるのを知って驚き、かつ、考えさせられました。もちろん、インディアンの子孫は今もアメリカ大陸に生存していますが、わずかな居留地に押し込められ、「絶滅」が心配されているようです。
アメリカの白人がインディアンに対してしたことをナチスがユダヤ人迫害のときに模範にしたといって、それを誰が「そんな馬鹿なこと...」と否定できるでしょうか...。
ポーランドにヒトラー・ナチス軍が侵攻したとき、最初に粉砕されたのは国家機関だった。そして、ポーランドの法は廃され、ポーランドという国家は存在したことさえなかったとナチス・ドイツは宣言した。
ポーランド人は迫害されたユダヤ人のものを盗み、ユダヤ人を憎んだ。しかし、ドイツ人のポーランド占領は、ポーランド人の社会的向上にはつながらなかった。教育のあるポーランド人は殺害され、残りの人々は、もの言わぬプロレタリアートとして扱われた。
ヒトラー・ドイツのポーランド侵攻は、ポーランドは主権国家として存在していない。存在しえないという理屈にもとづいていた。捕虜にしたポーランド兵は射殺しても構わなかった。というのも、ポーランド国家というのがない以上、ポーランド軍なるものも現実に存在したはずがないからである。
3.11。1938年3月11日、オーストリア国家は崩壊し、一夜にしてユダヤ人は迫害の対象とされた。オーストリアの二大主要政党でユダヤ人は役割を担っていた。ところが、ユダヤ人は「舗道こすりパーティー」という屈辱的な行為をさせられた。医師や弁護士だったユダヤ人が路上でひざまずいて道路をブラシでこすり、それを大勢のオーストリア人が笑って楽しみながら見ていた。
オーストリアは、突然、反ユダヤ主義になり、ドイツ人にユダヤ人の扱い方を逆に教えることになった。ヒトラー・ナチスは、オーストリア人の反応を見て自信をもち、ユダヤ人迫害を先にすすめた。
このとき、多くのオーストリア人が「明日は我が身」と考えて、ユダヤ人を迫害しなかったなら、いかにヒトラー・ナチスといえどもユダヤ人絶滅作戦をそんなにすすめることは出来なかったはずだというのです。この指摘は重いですね。付和雷同して権力の望むように踊っていると、いつのまにか自分の身まで危いということを大衆はなかなか自覚しないというのが歴史の重たく悲しい教訓です。
1938年にオーストリアから6万人のユダヤ人が脱出した。しかし、ドイツを離れたユダヤ人は4万人でしかなかった。ドイツのユダヤ人がドイツを脱出しようとするのは、ナチスがウィーンで学んだ教訓を適用するようになってからだった。
読んでいくにつれ、心の重たさは深まるばかりでしたが、勇気をふるって最後まで読み通しました。いやはや・・・。「自虐史観」なんてネーミングの馬鹿らしさにも改めて気がつかされます。
(2016年7月刊。2800円+税)
2016年9月23日
ぼくは君たちを憎まないことにした
(霧山昴)
著者 アントワーヌ・レリス 、 出版 ポプラ社
ここ数年、フランスに行っていませんが、ひところは毎年フランスに行っていました。
毎日、毎朝、NHKのフランス語ラジオ講座を聴いて、聞きとり、書きとりをしているのもそのためです。英語は全然話せませんが、フランス語なら多少は話せます。駅やレストランでも大丈夫です。そんなフランス大好きな私にとって、パリで無差別テロだなんて、本当に許せませんし、信じられません。
昨年11月13日、パリ中心部で同時多発テロが起きて、130人以上の罪なき市民が亡くなってしまいました。著者の奥様もその一人です。バタクラン劇場にいたのでした。
ジャーナリストの著者は、1歳5ヶ月の長男とアパルトマンで留守番して、妻の帰りを待っていたのです。
憎しみは犯人への罪を重くすることに役立つかもしれない、被害を量る裁判のために。でも、人は涙を数えることはできないし、怒りの袖で涙を拭うこともできない。相手を非難しない人々は、悲しみとだけまっすぐに向き合う。ぼくは自分がそういう人間だと思う。
やがて、あの夜に何が起こったのかを訊いてくるに違いない息子と一緒に、向き合おうと思う。
もし、ぼくたちの物語の責任が他人にあるとしたら、あの子に何と言えばいいのだろう?
あの子は答えを求めて、その他人に、なぜそんなことをしたのはと問い続けなければならないのだろうか?
死は、あの夜、彼女を待っていた。彼らは、その使者でしかなかった。彼らはカラミニコフを撃って、ぼくたちのパズルをめちゃめちゃにした。ぼくたちが、それを一枚ずつ元に戻したとしても、もう前と同じにはならない。パズルボードの上には、もう彼女はいない。ぼくたち二人しかいない。けれどぼくたちは最後まで、ピースを埋めていくだろう。彼女はすぐそばで、見えないけれど、一緒にいてくれるだろう。
人は、ぼくたちの目の中に彼女の存在を感じ、彼女の炎がぼくたちの喜びを輝かせ、彼女の涙がぼくたちの血管の中に流れていることが分かるだろう。
元の暮らしには、もう戻れない。だが、ぼくたちが彼らに敵対した人生を築くことはないだろう。ぼくたちは、自分自身の人生を進んでいく。
金曜日の夜、きみたちはかけがえのない人の命を奪った。その人はぼくの愛する妻であり、ぼくの息子の母親だった。それでも、きみたちがぼくの憎しみを手に入れることはないだろう。きみたちが誰なのか、ぼくは知らないし、知ろうとも思わない。
きみたちは魂を失くしてしまった。きみたちが無分別に人を殺すことまでして敬う神が、自分の姿に似せて人間をつくったのだとしたら、妻の体の中の銃弾の一つ一つが神の心を傷つけるはずだ。だから、ぼくはきみたちに憎しみを贈ることはしない。きみたちは、それが目的なのかもしれないが、憎悪に怒りで応じることは、きみたちと同じ無知に陥ることになるから。
きみたちはぼくが恐怖を抱き、他人を疑いの目で見て、安全のために自由を犠牲にすることを望んでいる。でも、きみたちの負けだ。ぼくたちは、今までどおりの暮らしを続ける。息子とぼくは二人になった。でも、ぼくたちは世界のどんな軍隊より強い。それにもう、きみたちに関わっている時間はない。この幼い子どもが、幸福に、自由に暮らすことで、きみたちは恥じ入るだろう。きみたちは、あの子の憎しみも手に入れることはできない。
幼い子と二人で生きていくという、きっぱりとした行動宣言に、心が揺さぶられます。
日本の若者がアフリカの「戦場」で殺し、殺されたとき、日本全国がテロの現場になっていく危険があります。暴力に暴力で対抗することほど愚かなことはありません。
本当にいい本でした。お二人の今後の平和な生活を心から願っています。
(2016年6月刊。1200円+税)
2016年9月14日
スターリン批判
(霧山昴)
著者 和田 春樹 、 出版 作品社
スターリンは、同時代のヒトラーに次いで悪虐な独裁者だったと私はいま考えています。ヒトラーは根っからの独裁者であり、初めからユダヤ人をはじめ「敵」を虐殺するのにためらいがありませんでした。スターリンのほうは、どうなるのでしょうか・・・。当初は社会主義の理想に燃えていたこともあるでしょうか・・・。これは、引き続きの研究課題とすることにしましょう。
この本は、独裁者スターリンの死の前後のソ連の状況を活写しています。
ソ連が成立したころ、ソ連共産党の幹部にはユダヤ人が大勢いた。ジノヴィエフ、カーメネフ、トロツキー、カガノーヴィチはユダヤ人。モロトフ、ブハーリン、カリーニンの妻はユダヤ人だった。だから、スターリンには、もともとは反ユダヤ主義ではなかった。
スターリンの長男ヤローフは、ユダヤ人女性と再婚した。スターリンの娘スヴェトラーナは、22歳も年上のユダヤ人の映画監督に恋をし、大学2年生のときに、ユダヤ人と学生結婚した。これって、インテリにユダヤ人がいかに多かったか、ということを示していますよね・・・。
1953年3月5日、スターリンが死んだ。スターリンの死にあたって、後継者たちは混乱とパニックを恐れた。絶対的な指導者の死は、ソ連の国家体制にとっては前代未聞の危機だった。
新政権のなかで、もっとも張りきっていたのはベリヤだった。ベリヤが真っ先にやったことは、スターリンの死に関する後始末だった。
100万人の一般囚人が釈放された。これは関係者には大きな喜びを与えたが、犯罪者を社会に送り込むことによって、恐怖をまき散らすことにもなった。囚人が釈放されたシベリアでは、犯罪が多発した。
ベリヤを暴力的に排除しなければならないと最初に判断したのは、フルシチョフだった。
スターリンの死によってソ連国民の誰に期待を与えたかというと、なにより収容所の政治犯だった。1954年の早春から、マレンコフとフルシチョフの対立が顕在化してきた。フルシチョフは、重工業優先政策を強く押し出した。
1956年2月、ソ連共産党の第20回大会が開かれることになった。そこでスターリン問題がどのように扱われるのかが一大焦点だった。
6月4日、アメリカのニューヨークタイムズがフルシチョフ「秘密報告」の全文を公表した。アメリカ共産党はイタリア共産党と同じくスターリン体制を批判した。日本共産党は、フルシチョフ秘密報告の公表を黙殺した。
フルシチョフ秘密報告が当時の世界に与えた衝撃は絶大なるものがあったと思います。なにしろ、「英雄スターリン」が、実は、とんでもない大虐殺をした独裁者だったということが鋭く告発されたのです。スターリンを太陽のようにあがめていた人にとっては暗黒の日々だったのではないでしょうか・・・。
ひるがえって現在の日本では、アベ首相について、よくやっているとみている日本人が少なくないのに私は驚かされます。マスコミというのは、こんなにも人々の意識を簡単に操作してしまうものなのですね・・・。
アベ首相なんて、我が身を安全にしておいて日本を戦争にひきずり込んでひどい状態におとし入れようとしているだけではありませんか。どうしてそんなことも気づかない人がいるのでしょうか・・・。もっと目を見開いていたいものです。
(2016年6月刊。2900円+税)
2016年9月10日
イスラム過激派 二重スパイ
(霧山昴)
著者 モーテン・ストーム 、 出版 亜紀書房
デンマーク生まれの白人青年が若いころ非行に走ったあげく、ある日突然回心してアッラーの教えに救いを見出し、イスラム教徒になります。そしてアフリカにまで渡ってイスラム過激派の一員として活動していくのですが、その活動にも疑問を感じて再び回心し、今度は捜査機関に協力するようになるのでした。
初めはデンマークの警察、そしてイギリス、最後はアメリカのCIAまで登場してきます。
一匹狼のような危険人物を逮捕するのには役に立つことでしょうね。でも、ウサマ・ビン・ラディンの暗殺が平和をもたらすはずもなく、もたらさなかったのと同じで、たとえアウラキー人を暗殺したところで、イスラム過激派が消えてなくなるわけではありません。
アメリカもイギリスもお金のつかい方をまったく間違っている、私はそう思います。何人かのスパイを操作するために何千万も何億円も支出するくらいなら、砂漠の緑化作業をすすめたほうが、よほど効果的なお金のつかい方です。
ところが、そんな大金は実はCIAをはじめとするスパイの秘密捜査に従事する人々の高額の飲み食いにまで使われているようです。なあんだ、「生命をかけて」過激派とたたかっている振りをして、自分たちも甘い汁を吸っていたのか、、、。だから、びっくりするほど高いお金をかけて要人の暗殺ごっこが止められないのですね。
CIAなどの高官も、 たまに自爆犯人に殺られてしまうことがあるわけですが、これも自分たちが無人機をつかって平気で違法な要人暗殺を次々にやっていることへの仕返しなのです。こんな暴力の連鎖こそ一刻も早く打ち切りたいものです。スパイに頼らない、平和維持活動をみんなで模索したいものですよ。
500貢もの大作です。二重、三重スパイとして活動していた若者の無事を願わずにはいられません。
(2016年7月刊。2700円+税)
2016年9月 7日
ヒトラーの娘たち
(霧山昴)
著者 ウェンディー・ロワー 、 出版 明石書店
「ヒトラーの娘たち」は、社会の片隅に追いやられた社会病質者(ソシオパス)ではない。彼女たちは、自分の暴力が帝国の敵に対する正当な報復だと信じ、そのような暴力行為も忠誠心の表れだと考えていた。
数十万人ものドイツ人女性がナチ占領下の東部(ポーランド、ウクライナ、ベラルーシ、リトアニア、ラトヴィア、エストニア)へと移り、ヒトラーの殺人マシンの不可欠なパーツと化していた。
1939年の時点でドイツ人女性4000万人のうち3分の1の1300万人はナチ党組織に積極的にかかわり、女性ナチ党員の数は終戦まで着実に増えていった。
ナチスの絶滅収容所の女性看守の平均年齢は26歳で、最少は15歳だった。身の毛のよだつような仕事に志願した女性は、大量殺害の現場を雇用とチャンスをもたらしてくれる場と考えていた。立派な制服、高い給料、そして権力を振るうことに魅力を感じた。収容所に入った囚人に対して人間味のある態度で接していた女性看守はほとんどいなかった。
多くのドイツ女性は、幼少のころ、日常的にユダヤ人と接触していた。そして、ユダヤ人が迫害されるようになったとき、日をつむる社会規範が生まれた。そして、それは、ドイツ人女性に独自の強さの体現を求める期待と結び付いていた。
ヒトラーのジェノサイド戦争の日常業務に貢献したのは1万人いる秘書のほか、文書係、電話交換手などの事務補助員だった。
ナチス親衛隊員の花嫁になったドイツ人女性は24万人、社会の新しい人種的エリートとして迎えられた。
大量殺人にさまざまな方法で加担したドイツ人一般女性の数は、それを阻止しようとした比較的少数のものに比べれば、数えきれないほど多かった。大半は好奇心からだけど、これに物欲も加わり、多くのドイツ人女性が東部に何千とあったゲットーで、ホロコーストに直面していた。
ゲットーのユダヤ人居住区からユダヤ人が一掃されると、ドイツ人たちが役立ちそうな物を戦利品として持ち帰るために集めてまわった。
大量殺人の経済効果を高めるため、親衛隊、警察指導者、地域の軍司令官そしてナチ党官僚は、ユダヤ人の財産を没収し、再分配する仕組みをつくった。それを知ったドイツ人女性秘書が故郷の母へ、ナチ福祉団から服を受け取らないようにと手紙で知らせた。それは殺されたユダヤ人の物なのだから・・・と。
ベルリンそしてウィーンのゲシュタポ本部では女性の割合は非常に高く、戦争末期には40%にまで達した。ユダヤ人の誰を殺すかという選択は、実際には受付のドイツ人女性にまかされていた。
ユダヤ人は商品と見なされていた。ゲシュタポ事務所の職員は移送されてきたユダヤ人たちから盗みとった食料を、ユダヤのソーセージと呼んで、たっぷり堪能した。「人間というゴミ」以外は、何も無駄にしてはならないとされていた。
ドイツ人女性秘書は、ナチの殺人マシーンの中心にいた。
ナチ支配下の全ヨーロッパに、実は4万ヶ所ものユダヤ人収容所があった。地域のコミュニティと融合した存在だった。これらの収容所をつくり、運営し、また訪れた加害者、共犯者、目撃者は多かった。想像されてきた以上に多くの人々がユダヤ人の組織的な迫害と殺人に関与し、知っていたのだ。少なくとも50万人のドイツ人女性が東部地域でジェノサイドをともなう戦争を目撃し、その遂行に貢献した。
そして、その暴力行為で罪に問われることのなかった女性たちは、この事実を封印し、否定した。加害者たちは、戦後、死んだ総統ヒトラーに対してではなく、お互いに対して忠誠と守秘の誓いを守り続けた。「密告者」として中傷されることのないよう保身に走った。
そんなわけなので、ホロコーストの罪を問うために一人でも証人を確保できるということ自体が、ごくごく例外的だったのです。
ナチスの殺人マシーンが、実は、普通の女性で良き母親でもあると同時に、殺人を苦にしない鬼にもなって支えていたということがよく分かる本でした。これも戦争の恐ろしさの一側面なのですね・・・。
(2016年7月刊。3200円+税)
2016年9月 2日
ブラッドランド(下)
(霧山昴)
著者 ディモシー・スナイダー 、 出版 筑摩書房
ミンスクに住むベラルーシ人やロシア人は、しばしば友人が同僚がユダヤ人かどうか知らなかったり関心がなかった。
森林や湿地に恵まれたベラルーシは、パルチザン戦にはもってこいの土地だった。ヒムラーとヒトラーは、ユダヤ人の脅威とパルチザンの脅威をひと括りにした。ナチス・ドイツは、しばしばユダヤ人男性の妻子を人質にとり、もう一度、家族の顔が見たければ、森へ行って情報を持ち帰れと迫った。だから、ユダヤ人のスパイは少なくはなかった。
パルチザン活動は、しばしば成果をあげたものの、結果として、必然的に民間人の命を奪ってしまうことがあった。
ゲットーに残ってドイツのために働くユダヤ人も、ゲットーを出て自主的に行動できる能力を見せたユダヤ人も、いずれにせよ、スターリンに言わせれば、要注意人物だった。
1941年から42年にかけて、ナチスの機関に入ってユダヤ人を殺したベラルーシ人が、43年には、ソヴィエト・パルチザンに入った。いずれかの側について戦い、死ぬはめになったベラルーシ人にとって、それはしばしば「運」の問題だった。いずれの陣営も、新入りがその場の成り行きで加入を決めたことを知っていたので、新入りには、敵として戦って捕まった友人や家族を殺すという冷酷きわまる任務を与えて、忠誠心を試した。
ポーランドのパルチザンは、非道で知られるドイツとソ連の武装集団にはさみ撃ちにされる形になってしまった。
ドイツ軍が殺戮ゾーン作戦という手段に出たことは、まもなくソ連がベラルーシに戻ってくることを意味した。ドイツ占領下ソ連のどの地域でも、ナチス・ドイツはほとんどの住民がソ連の復帰を望むように仕向けてしまった。ドイツ人のほうが殺人者としては残忍だったし、ドイツ人による殺戮のほうが記憶に新しかったため、現地住民の目にはソ連政権のほうがまだましに見え、解放者とさえ思えた。
ベラルーシほど、ナチスとソ連のシステムが重なりあい、影響しあった地域はない。そこは、ヨーロッパでもユダヤ人がとくに多かったが、住民の抵抗能力が並外れて高い地域でもあった。ミンスクをはじめとするベラルーシのユダヤ人は、ほかのどの地域のユダヤ人よりも激しくヒトラーに抵抗した。ドイツ国防軍の報告書にパルチザン1万人以上を殺害したと書かれているが、押収した銃は90挺のみ。つまり、殺害された人のほとんどは実際には民間人だった。そして、他方のソヴィエト・パルチザンは、ベラルーシで1万7千人を裏切り者として殺害したと報告している。
ワルシャワ蜂起は、ドイツを負かすことが出来ず、ソ連にとっては、ちょっとした不快の種でしかなかった。赤軍はワルシャワの手前で思いのほか頑強なドイツ軍の反撃にあって足止めを食っていた。ドイツ軍は東部戦線で結束した。ソ連にとって、ワルシャワ蜂起は望ましいことだった。なぜなら、ドイツ人だけではなく、独立のために命がけで戦うポーランド人も大勢が死ぬことになるからだ。スターリンは、アメリカに対して、自分がポーランドを支配するつもりであり、ポーランド人闘士が死んで蜂起が失敗に終わったほうが望ましいと考えていることをアメリカに伝えた。
ヒトラーとスターリンによる大虐殺の真実が繰り返し明らかにされている労作です。上下2巻もあり、実に重たい本ですが、真実から目をそむけるわけにはいきません。戦争というもののむごさをひしひしと感じさせられました。
(2016年2月刊。3000円+税)
2016年8月18日
シンドラーに救われた少年
(霧山昴)
著者 レオン レイソン 、 出版 河井書房新社
映画「シンドラーのリスト」は感動に震えました。この本は、そのシンドラーのリストに載せられた一家がどうやって生き延びたかを語っています。
ナチス・ドイツがポーランドを1939年9月に占領したとき、著者は10歳。解放されたときも、まだ15歳だった。
オスカー・シンドラーが1940年に雇った250人の労働者のうち、ユダヤ人にはわずか7人だけ。残りは全員キリスト教徒のポーランド人だった。
シンドラーはポーランド人低い賃金で雇えたし、ユダヤ人にはただ働きをさせた。人件費を最小にして、軍需品を生産したため、シンドラーは莫大な利益をあげた。
著者は絶滅収容所に入れられながらもなんとか生きのびていきました。
そして、シンドラーのリストに載って助けられるはずのところ、その名前が棒線で消されていました。そのとき、少年はどうしたか・・・。
「ぼくはリストに載っています。それなのに、誰かがぼくの名前を消したんです」
「母もリストに載っています」
「父と兄は、もう向こうにいるんです」
ドイツ語で少年が言うと、ナチスの将校は、シンドラーのキャンプに向かう集団に入れるように合図したのです。見かけはドイツ人そっくりの、いかにも賢こそうな10歳ほどの少年が正面からドイツ語で訴えたので、ナチ将校も無視することができなかったのでしょうね・・・。下手すると、その場で射殺されたかもしれない危険な賭けに、少年は勝ったのです。
シンドラーは、工場に入ると、あちこちで労働者と話した。シンドラーはたくさんの人々の名前を記憶できる不思議な能力があった。ナチスにとって、ユダヤ人は名前をもたない存在に過ぎなかったが、シンドラーは違った。ユダヤ人一人ひとりを気にかけていた。シンドラーは人間としての敬意をもってユダヤ人に接し、ユダヤ人を底辺の存在とする序列を築いたナチスの人種差別イデオロギーに抵抗していた。
著者は2013年に83歳で亡くなっています。ユダヤ人には賢い人が多いとよく言われますが、イディッシュ語、ポーランド語、ヘブライ語、ドイツ語を自在に操り、ソ連占領下のクラクフで亡命ロシア人かと疑われて逮捕されるほど流暢なロシア語を使い、難民キャンプではハンガリー人から同国人と思われるほど自然なハンガリー語を話し、そのうえチェコ語や日本語(戦後、アメリカ軍の一員として沖縄にもいました)、そしてスペイン語も少し話しました。もちろん英語はアメリカの大学で教員として学生に教えていたほどです。さらに、柔道は黒帯、テニスもうまく、ボウリングも得意でした。
著者はシンドラーについて、英雄だと断言しています。英雄とは最悪の状況で、最善をなす、ごく普通の人間だという定義にしたがってのことです。
シンドラーのリストにのった最年少の少年がアメリカで活躍していたことを初めて知りました。読んで元気の湧いてくる本です。
(2016年4月刊。1650円+税)
2016年8月 7日
女騎兵の手記
(霧山昴)
著者 N・A・ドゥーロワ 、 出版 新書館
ナポレオンのロシア遠征戦争のころ、ロシア軍に従軍した騎兵の手記です。
この本を読みながら、私は前にも紹介しました『戦争は女の顔をしていない』(群像社)を思い出しました。その本をまだ読んでいない人は、ぜひ手にとって読んでみて下さい。戦争の悲惨さが惻々と伝わってくる、心をゆさぶられる忘れえない本です。その本は、ヒトラー・ドイツ軍に抗してソ連軍の一員として戦った女性兵士の話です。
この本の著者は、ナポレオン軍と戦うロシアの騎兵将校の一員として大活躍し、ロシア皇帝から勲章をさずかり、総司令官の伝令までつとめました。
ところが、なんと男装した女性騎兵だったのです。どうして女性が騎兵将校になったのか、また、なれたのか・・・。その生い立ちに理由があります。貴族の家に生まれ、幼いころから父親の影響から乗馬を得意とし、騎兵を志したのでした。ところが、それを母親は認めようとしません。女の子は刺しゅうをして、男性に従属した地位に甘んじるのが幸せだという考えです。母と娘は決定的に対立しました。娘は14歳のときに家を出て、コサック連隊にもぐり込み、ついにロシア正規軍に入るのでした。
やはり、女性でも昔から兵隊に憧れる人はいたのですね・・・。
いま、アメリカでも日本でも、女性兵士、自衛官は少なくないようです。そして、軍隊・自衛隊内のセクハラ・レイプ事件が頻発しています。人間らしさを奪われた存在は、女性を自分と同じ人間とは思わなくなってしまうのですね・・・。
ナポレオン軍は、ロシア遠征のときに家族連れだったことを初めて知りました。そして、ナポレオン軍がロシアから敗走するとき、たくさんの家族が置き去りにされたようです。そのなかで例外的に生命拾いをしてロシア人の家庭で育てられたフランス人の少女の話も登場しています。
本棚の奥にあり、気になっていた未読の本をひっぱり出して読んでみたのです。
(1990年12月刊。2000円+税)
2016年8月 4日
灰色の狼、ムスタファ・ケマル
(霧山昴)
著者 ブノアメシャン 出版 筑摩書房
トルコの国は、いま大きく揺らいでいるようです。クーデター騒ぎのあと、強権的政治が強まり、EU加盟の条件として廃止された死刑が復活するかもしれないとも報道されています。
この本は、オスマン・トルコ帝国のあと、苦難の道をたどったトルコの「救世主」と言われているケマル・パシャの一生をたどっています。
ムスタファ・ケマルが登場したのは、没落がその最低点に達し、オスマン・トルコの最後の足跡が世界地図から抹殺されようとしていたときである。
トルコのムスタファ・ケマルとサウジアラビアのイワン・サウドは、誕生日がわずか数週間ちがうだけの同世代である。
ムスタファ・ケマルと呼ぶときのケマルというのは、「満点」を意味する。それだけ優秀な成績をとっていたということ。士官学校の校長は次のようにコメントした。
「気むずかしく、非常に資質に恵まれた性格の青年。しかし、この性格では、他人と深い交りを、結ぶことは不可能である」
1905年、ケマル中尉は、陸軍大尉の肩書で陸軍大学を卒業した。24歳のときのこと。
ムスタファ・ケマルはコーランに基礎を置く司法組織を忌み嫌った。それは邪悪にみち、愚劣きわまる掟という掟をこの世にのさばらしているから。
1921年8月、トルコ軍はギリシャ軍に攻めたてられた。サカリアの作戦である。両軍は死闘を展開した。最後にトルコ軍が勝利したのは、ムスタファ・ケマルの強力な個性による。彼がそこにいるということで、兵士たちは振い立った。
ムスタファ・ケマルの意思は、兵士たちに歯を食いしばり、石にしがみつき、ひとかけらの土地も渡すまいとして抵抗する勇気を与えた。
トルコ軍がついに勝利したあと、トルコ議会はムスタファ・ケマルに対して、「ガージ」つまり「キリスト教徒の破壊者」の称号を授けた。これはイスラム教徒に与えうる最高の栄誉にみちた称号である。
ムスタファ・ケマルは、民族主義者であるという枠内で、卓絶した反帝国主義者だった。
戦争に勝利したあと、戦いは軍事面から政治面へ移った。
1923年10月、トルコは共和国が宣言され、ムスタファ・ケマルは初代大統領となった。
「独立した、団結した、同質のトルコ国民」。これがムスタファ・ケマルの目指した目標だった。国民の同質性を脅かしていたのは、クルド人、アルメニア人、ギリシャ人という三種の住民集団だった。
クルド人の虐殺、アルメニア人の絶滅、ギリシャ人の追放は、ムスタファ・ケマルの生涯において、光栄あるものではなかった。
ムスタファ・ケマルは、こう言った。
「血は流れた。それは必要なことだった。諸君、革命は流血のなかで、築かなければならない。血のなかにに築かれない革命など、決して長続きはしない」
ケマル・パシャは独裁者として、自らに反抗する人々を多く死に追いやったようです。同時に、新生トルコのために大変革に取り組んでいます。農業改革、教育改革、女性の解放などなどです。
ムスタファ・ケマルは、1938年に57歳で亡くなりました。
新生トルコの再生を閉ざした英雄の光と影を知ることのできる本です。
四半世紀前に書かれた本ですが、トルコという国の歴史を知ることができました。
(1990年12月刊。2470円+税)