弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

ヨーロッパ

2015年4月 1日

第一次世界大戦


著者  マイケル・ハワード 、 出版  法政大学出版局

 1914年に始まり、1918年まで続いた第一次世界大戦は、最初の世界戦争ではない。ヨーロッパ諸国は、過去300年にわたって地球規模でずっと戦ってきたからだ。
 ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が生まれたことは、ドイツだけでなく世界全体にとっても不幸だった。ヴィルヘルム2世は当時のドイツ支配エリートを特徴づけた三つの属性をもっていた。古めかしい軍国主義、とてつもなく大きな野心、そして神経症的な不安感。
 ドイツの軍指導者たちは、戦争をするならば、早い方が好ましいと判断した。今ならロシアは1905年の日露戦争の敗北からまだ完全には回復しきれてはいない。むしろ、3年後だとロシアがフランスの資金を使って巨大な鉄道建設を完了させ、またロシアをまったく新しい軍事同盟国に変化させうる動員計画を完成させてしまうだろう。
 この当時、鉄道網と電信の発達があった。また、平時における一般徴兵制度の導入があった。さらに、長距離兵器の発達があった。
 日露戦争の教訓はヨーロッパ諸国で丹念に研究された。最新鋭の武器を整備し、死ぬことを恐れない兵士からなる軍隊であれば、勝利は可能だ。そして、スピードが勝利をもたらす。短期間で戦争に決着をつける唯一の方法は、攻撃すること。
 第一次世界大戦の勃発は、すべての交戦国の主要都市で熱狂的に迎えられた。いたるところで、人々は自分たちの政府を支持した。戦争は、甘ったるい都市生活がもはや与えることのない「男らしさ」を試すものとみなされた。
 イギリスとドイツにとって、戦争はもはや単なるパワーをめぐる伝統的な闘争ではなく。イデオロギー闘争の度を深めていった。
 6ヶ月で終わると一般的に予想されていた戦争は、1915年末時点で1年半も続き、すぐに終了するとは、もはやだれも思わなかった。
 そのような戦争の長期化を可能にしたのは何だったのか。ひとつは、すべての交戦国の国民の断続的な支持だった。
1916年末まで、アメリカのウィルソン大統領の主要な関心事は、アメリカを戦争から遠ざけておくことだった。
1918年、ドイツ軍最高司令部が断念したのは、西方からの脅威ではなかった。ドイツ国内の動きこそ、不安にさせるものだった。民衆が暴動とストライキを起こし、兵士が堂々と反乱していた。
 ドイツ国民は、自分たちの軍隊がいたるところで勝利していると信じていたからこそ、耐えきれないほどの困難に耐えていた。ところが、自分たちの軍隊が崩壊寸前の状態にあることを知り、政府に対する信頼は完全に消滅した。
戦場で何十万人もの将兵が死んでいく悲惨な戦争が起きたのです。
 戦争の始まりを民衆は熱狂的に支持しました。そして多大の犠牲を払わされたのでした。なぜ、かくも悲惨な戦争を人類は止められないのか、歴史に大いに学ぶことが必要です。
 1月1日の天皇の言葉も、同じことを指摘しています。第一次世界大戦の全体をざっと見ることのできる本でした。

(2014年9月刊。2800円+税)

2015年3月24日

フランスの肖像、歴史・政治・思想

著者  ミシェル・ヴィノック 、 出版  吉田書店

 フランスを知ると、日本という国もよく知ることが出来ます。
 フランス国民とは、まず時系列的には、長い政治的中央集権化の成果である。最初に国家があった。そこからすべてが出発した。封建制度化での分裂状況から、カペー王朝の辛抱強い努力によって、国家が形成されてきた。
 イル・ド・フランス地方の小さな領地から始まって、この王朝は代々やがてフランスになるべき土地を少しずつ領地に加えていった。そのために武器を用いて血を流し、また政略結婚も活用した。彼らの王杖のもとに服従した住民たちは、さまざまな言語を話し、その生活習慣も多様だった。徴税を通じて(しばしば反乱を起きたが)、地元の領主よりも上位に位置する君主の支配下にあることを知った。
 信心深き国王、これこそが「さまざまな人種」すべてを統合する第一の存在だった。国王は、あるいは愛され、あるいは憎まれ、また恐れられたが、いずれにせよフランス人の頭と心のなかでますます大きな位置を占めるようになった。国王は一人で国民を体現し、フランスを具現化する存在だった。
 フランス人同士は決して愛し合ってはいないが、フランス人はフランスを愛している。
 フランス人の5人のうち4人が、自分はカトリックだとしている(1988年までの世論調査の結果)。大多数のフランス人が自らをカトリック信者だとしつつも、神の存在については大きな疑問をもっている。
 フランスには、中央集権的機構に対して、二つの感情が存在している。一方は、やむことのない不平不満があり、他方には同様に際限のない国家に対する要求がある。
 フランス人は、国家が好きではないが、国家に対してすべてを求める。そして、官僚に対する警戒感と、その仲間に加わりたいという、アンビバレントな感情がある。
 フランスでは、まずストライキを決行し、それから交渉に入る。それは、フランスの労働組合に力があることを意味しない。組合の組織率はヨーロッパで最低レベル(10%未満)でしかない。
 フランスでは、対話の重要性は強調されるが、実際に対話しようとする人は、ほとんどいない。
 フランスでは、庶民はブルジョワをまね、ブルジョワは貴族を模倣する。
 歴史的な貴族は、3500家族40万人。このほか偽貴族が1万5000、貴族の作法をまねようとする平民が何千万人といる。
 革命の国であるにもかかわらず、いまもなお貴族階級が公的な性格を帯びている。爵位を戸籍、身分証明書、パスポートに記載することができる。
フランス人の王政のノスタルジーには、政治が汚いものだという認識と結びついている。
 シャルル・ド・ゴールは、エッフェル塔に似ている。建てられたときには、誰からも好かれなかった。しかし、今では高さ300メートルの塔のないパリなど考えられない。ド・ゴール将軍も同じだ。
知識人の任務は間違いなく存在する。それは、民主主義の擁護者であること。有機的かつ批判的に、民主主義の擁護者であること。民主主義は非常に脆弱で、未完成で改良の余地のある体制だが、これが唯一の人間的な体制なのである。知識人は民主主義を否定し、掘り崩し、打倒しようとする反対者に対抗して、その原理を再確認しなければならない。
 フランス人の学者による知的刺激にあふれた本です。このところ何年もフランスに行っていませんが、また行きたいと思わせる本でもありました。毎日のNHKフランス語と、毎週のフランス語レッスンは相変わらず続けています。ちっともうまく話せないのですが・・・。
(2014年3月刊。3200円+税)
 チューリップが一斉に花開きました。これから4月中旬までチューリップ祭りを楽しむことができます。そばに濃い赤紫色したクリスマスローズの花も今ごろ咲いています。よく見ると、今年も土筆(ツクシ)が立っています。日が長くなって、夕方6時半ころまで庭に出て、あちこち手入れをしていました。さすがにジョウビタキは現れませんでした。もう北国に帰っていったのでしょうね。私の個人ブログでチューリップの写真を楽しんでください。

2015年3月 2日

1941年。パリの尋ね人


著者  パトリック・モディアノ 、 出版  作品社

 ノーベル文学賞を受賞したフランス人による本です。
 著者の父親はギリシャ系のユダヤ人ですが、ドイツ占領下のパリで、偽名をつかって闇ブローカーで生きていた謎多き人物でした。
 そして、この父親は息子(著者)や家族を迷惑視し、結局、捨ててしまったのです。母親は女優でしたが、旅に出ることも多く、子どもを放ったらかしにしようとしたのです。
 結局、著者と弟の二人は両親にかまってもらえず、友人宅に預けられたり、早々に寄宿学校に入れられてしまうのでした。このような不幸な親子関係の下で成長した著者は、孤独感、生のはかなさの意識の濃い作品を生み出していったのです。
 モディアノは、ドイツ軍占領下のユダヤ人弾圧という悲劇の責任の多くがフランス人側にあることを自覚し、これを小説の形で暴き出した。
 フランス人におけるゲシュタポ(ナチスの組織)といっても、ゲシュタポの組織で働いている怪しげなフランスが描かれた。4万人のフランス人がゲシュタポの下で働いていた。
戦後のフランスでは、復興のために必要だった国民の団結意識育成のため、フランス人はド・ゴールを先頭にしてレジスタンスで一致していたのだという神話が、神話と意識されながらも長く暗黙裡に受け入れられてきた。
フランス社会は、1970年代以降から、占領下におけるヴィシー政府の対独協力政策の解明に乗り出しており、ユダヤ人の絶滅収容所送りにフランス当局が積極的に参与した事実が明らかにされた。このことは、現在ではフランスの学校教育の現場でもはっきり教えられている。
 これって、日本の政府・文科省とはまるで違いますね。真実に向きあうことを自虐史観と決めつけ、真実に目を閉ざす教育を日本の学校当局は子どもたちに押しつけようとしています。とんでもないことです。
1941年12月31日付け「パリ・ソワール」という新聞に、15歳の少女、ドラ・ブリュデールを「尋ね人」として探しているという小さな案内広告が掲載された。ユダヤ人の少女である。
 著者は、このユダヤ人少女の行方を探しまわったのです。このドラ・ブリュデールは、ドランシー収容所に入れられ、1942月9月18日、アウシュヴィッツ向けの列車に乗せられた。父親と一緒だった。この1000人は9月20日、アウシュヴィッツ収容所に到着した。859人は直ちにガス室に送られた。1945年時点の生存者は21人だった。
 ドラの住んでいたパリの風景は、実は、今もほとんど当時のままです。これが、日本とはまったく違うところです。昔の景観を大切に残すのがフランス風です。日本では、ごく一部を除いて、みんな近代的に変えてしまいます。昔の景観を保存しようというのは、ごくごく一部でしかありません。
 このようにして、アウシュヴィッツに消えていった600万人の人々には、それぞれの人生があったことを想起することが出来るのは、本の力です。大切な本だと思いました。
「自虐史観」攻撃なんかに惑わされず、歴史としっかり向きあう勇気、そして、間違った歴史を克服する力を身につけたいものだと痛感します。
(2014年12月刊。1800円+税)
 アメリカ映画「アメリカン・スナイパー」をみてきました。イラクにおいてアメリカ軍が侵略軍でしかなかったことがよく分かる映画だと思いました。小さい子どもたちもアメリカ軍を敵とみなしているのです。
 イラクの人々を160人も殺した狙撃兵(スナイパー)は自らの心を深く傷つけてもいたのです。そして、同じように、この戦争の大義がどこにあるのか、多くのアメリカ兵が現地で疑問を持っていた様子がうかがえました。なにしろ、実際にやっていることは民衆を敵として兵器を向けた戦闘活動なのですから、疑問を感じるのも当然です。
 ベトナム侵略戦争のときも、最盛時50万人のアメリカ軍はベトナム民衆を敵としてたたかい、結局、惨敗してしまったのでした。
 やはり、武力だけで民衆を制圧、支配することはできないのです。
 前にみたデンマーク映画「アルマジロ」を思い出しました。出撃基地内に縮こまっている点がそっくりです。

2015年3月 1日

窓から逃げた100歳老人

著者  ヨナス・ヨナソン 、 出版  西村書店

 スウェーデン発の奇想天外なストーリーです。
この100年間に世界で何が起きているのかをおさらいすることのできる痛快本でもあります。ありえない、こんなこと絶対にありえない、なんて思っていたらダメなんです。ふむふむ、なるほど、そう来たか。では、この次はどんな展開になるのだろうか・・・。
 その発想の奇抜さには、何度となく腰を抜かしそうになりました。400頁の本ですが、私にしては珍しく、3時間もかけて読みふけってしまいました。
 話は100歳の老人の脱走劇に始まるのですが、このストーリーは、老人の青年時代の回顧談というか、世界の超有名人と交わって活躍する話が盛り込まれているので、面白いのです。
 スペインのフランコ将軍、アメリカではロスアラモスの原爆製造会議に参加して、トルーマン副大統領と仲良しになる。中国に渡ると、毛沢東夫人の江青の生命を助ける。
 イランでは、秘密警察に捕まって処刑される寸前にまでなってしまう。しかし、結局、ウィンストン・チャーチル首相の危機を救って、本人も無事に脱出できる。
 次には、ソ連に渡って、ベリヤやスターリンと一緒に食事をする。しかし、ついには、強制収容所に送られてしまう。そこを何とか脱出して、金日成と金正日に面会する。まあ、よくも、こんなストーリーを考えついたものです。
 一応の史実を下敷きにしていますので、次の展開を知りたくなって、ついつい読みすすめてしまったのでした。
 映画はみていませんが、スェーデン初の喜劇作品として読むと、気持ちが軽くなります。
(2014年10月刊。1500円+税)

2015年1月10日

ぼくはナチにさらわれた

著者  アロイズィ・トヴァルデッキ 、 出版  平凡社ライブラリー

 ポーランド人の子どもが、幼いうちにナチス・ドイツにさらわれて、ドイツ人の子どもとして育てられたのです。そして、そのことを成人してから知りました。いったい、その子どもはどうなるのでしょうか・・・。ヒトラー・ナチスは本当に罪深いことをしたものです。
 第二次大戦中、ドイツに占領されたポーランド西部の町でナチスによって、2歳から14歳までの少年少女が大勢さらわれた。青い目で金髪の子どもたちである。その数は20万人以上。
 著者も4歳の時に母親から引き離され、ドイツに連れ去られた。孤児院に入れられ、ドイツ人の名前をつけられ、子どものいないドイツの家庭にもらわれた。そして、ポーランド語も、母親のことも忘れ去った。
 ヒトラーが考え、ヒトラーが具体化させた「レーベンスボルン」という1936年に設立された秘密組織があった。「生命の泉」という意味で優秀な子どもを増やすための組織だった。表向きは、子どもと母親を守る社会福祉の「活動」をしていた。
 表の顔は二つあり、その一は、優秀なドイツを数多く、自然の出生を待たずに産ませること。大切なのは目の色と髪の色、そして、とりわけ頭の形。丸い頭のもなはまったくチャンスがなかった。
 ドイツ人の名前に変えるときには、できるだけ本名のほうがいい。新しい名前と前の名前とが似ているほうが子どもの記憶のなかで混合しやすいから。工夫のしようがないときには、新しいドイツ名は、できるだけ平凡な、どこにでもある名前にする。特徴的な名前を付けるのは厳禁された。
 「レーベンボルン」で生まれた子どもはエリートになるはず。果たして、そうなったのか・・・。
 戦後の調査では、そうはなっていなかった。知能でも体力でも後退が認められた。
 幼いときにドイツ語に無理やりに変わらされ、そのため思考に困難を生ずることがあった。
 また、大きくなって、本当は自分はドイツ人ではなかったと分かった子どもたちは、また母国語の勉強をし直した。だから、大学まで行けた子どもは少なかった。みな、心に深い傷を負っていた。
 4歳の子どもは、悲しみも早く癒え、忘れてしまう。それに大人は驚いてしまう。
 子どもは、速く言葉を覚え、速く忘れもする。 はじめに子どもに希望を与え、あとで残酷に断って、いいようのない絶望に突き落とすぐらいの野蛮なことはない。孤児院にいた子どもは、終生、愛への飢えを抱き続ける。
著者は高校生の年頃で、ポーランドに戻ったのですが、ドイツ人だった頭のなかをポーランド人に切り替えるのに実に苦労したようです。
 それでもポーランドの大学に入って勉強するのでした。そしてドイツ人の育ての親と再会するのです。思春期という、ただでさえ難しい年頃に、ドイツ人からポーランド人に戻るのは、本当に大変だったと思います。
 全遍が手紙で語る形式となっていて、その心理描写がよく出来ている手記です。
(2014年9月刊1400円+税)

2014年12月23日

おだまり、ローズ


著者  ロジーナ・ハリソン 、 出版  白水社

 イギリスの上流階級の生態がよく分かる本です。
 じつは、私の家にも若い女性がお手伝いとして同居していたことがあります。私が小学生のころです。小売酒店で、子どもが5人もいて(私は末っ子です)。ちっとも広くない家に住み込みの女性がいたなんて、今ではとても信じられません。要するに裕福ではない家にも、ほんの少しでも余裕があれば(実際には、そんな余裕というかスペースはなかったと思うのですが・・・)、かつては行儀見習いと口減らしを兼ねて住み込みで働く人がいたのです。
 同じように、ノリ作業のシーズンには長崎県の生月島から大量の出稼ぎ人が有明沿岸には住み込みで働いていました。もっとも、これは、後で聞いただけで、そんな光景を見たわけではありません。要するに、少し前、つまり50年も前の日本では、住み込みの奉公人というのは、ちっとも珍しいことではなかったのです。今では、そんな光景は、どこにも見あたりません(と、思いますが、どこか、まだありますか・・・?)。
 この本のオビには、「型破りな貴婦人と型破りなメイドの35年間」と書かれています。
 貴婦人は、イギリス初の女性国会議員です。もちろん、スーパーリッチ層で、お金の苦労などしたこともありません。それに仕えたプライドの高いメイドの語る体験記ですから、面白くないはずがありません。
 ふむふむ、そうなのかと、ついつい深くうなずきながら、往復の電車の2時間の車中で364ページの本を満足感に浸って読了しました。
 イギリスには厳然たる階級社会が今もあるようです(フランスにも・・・)。著者が仕えた家では、娘たちとも、あくまで主人とメイドの関係だった。友人ではなく、単なる知人でもなかった。
 上流階級では、子どもたちは、母親から目に見える形の愛情が与えられることはなかった。しかし、本当は、愛は目に見える形で子どもに与えられなくてはならないものだ。
 主人の家族とメイドとの間には、はっきりした境界線がある。自分の地位や期待されている役割、許される言動と許されない言動を正確に判別する必要があった。
 メイドは、真珠かビーズのネックレスは許容範囲内で、腕時計もかまわない。しかし、それ以外の装飾具をつけるのは、顰蹙を買う。化粧もしないほうがいいとされ、口紅をつけても、とがめられた。だから、外出中に、主人(奥様や娘も)とメイドとが主従を取り違えられることはなかった。
 レディー・アスターは、淑女ではなかった。ころりと気を変えて、メイドにも頭を切り換えることを要求する。メイドとして、1日18時間、年中無休で集中力を切らさずにいることを求められた。奥様は、イギリス初の国会議員として活動した。
 一度つかった服を洗濯せずに身につけることは決してしない。
 ボタンホールの花も、香りの高い花が、毎日、新しく届けられた。クチナシ、チューベローズ、マダガスカル・ジャスミン、スズラン、そしてラン。香りの高い花ばかり。
メイドとして物を言うと、返ってくるのは、「おだまり、ローズ」のひとことだけ・・・。
 奥様は感情が顔に出る。化粧はほとんどしない。香水はシャネルの五番のみ・・・。
メイドとしての著者にとって、睡眠は貴重なものだった。夜9時から朝6時までは、何があっても自分の時間として確保し、10時過ぎまでで起きることは、めったになかった。仕事をきちんとこなそうと思えば、心身ともに健康でなくてはならず、そのためには毎晩しっかり睡眠をとる必要があった。
イギリスの貴婦人は、丹那様は、はっちゅう替えるけれど、執事は絶対に替えない。
 奥様が旦那様と子どもを連れて旅行するときには、雌牛を1頭と牧夫を同行させた。子どもたちに飲ませる牛乳の質にこだわったからだ・・・。
これには、腰を抜かすほど驚いてしまいました。スーパーリッチって、そこまでするのですね・・・。
 よくぞ、ここまでことこまかく書いてくれたかと思うほど、詳細な上流階級の生態です。「私は見た」という家政婦の話以上に面白い本だと思いました。
(2014年10月刊。2400円+税)

2014年12月19日

祖父はアーモン・ゲート


著者  ジェニファー・テーゲ 、 出版  原書房

 知的な黒人女性の顔が表紙になっています。憂いを秘めたまなざしが印象的です。
 本のタイトルだけではピンとくる人は少ないでしょう。でも、かのナチ強制収容所の所長の孫というサブタイトルをみると、まさかと思います。ナチの所長の孫が黒人のはずはない・・・、と思うのは誤った先入観なのです。
 あの有名な映画『シンドラーのリスト』に登場する残虐なナチ収容所長こそ、著者の祖父アーモン・ゲートなのです。
 アーモン・ゲートは、映画『シンドラーのリスト』のなかで収容所内の罪なきユダヤ人を面白半分に射殺していた冷血なナチス親衛隊指揮官でした。そして、映画で描かれていたとおりの事実があったのです。
シンドラーとアーモン・ゲートの二人は同い年で、酒、パーティー、女性に目がなかった。二人ともユダヤ人迫害によって富を得ていた。ゲートは、ユダヤ人を殺害してすべてを取り上げたことによって、シンドラーはユダヤ人が所有していた工場を受け継ぎ、ユダヤ人を低賃金の労働者として働かせることによって富を得た。
 ドイツ特務機関のスパイとしてポーランドで活動していたシンドラーは、金もうけのためにクラクフへ来た男だった。後に、稼いだ財産の大部分をユダヤ人救出にあてているが、最初は戦争成り金だった。
 アーモン・ゲートとオスカー・シンドラーは、どちらも権力をもっていた。一方は、それを救うために使った。シンドラーは、その従業員1100人を最後まで守ったのでした。
 アーモン・ゲートがライフルを手にもって、短パンをはいてバルコニーに立っている写真があります。このようにして、罪ないユダヤ人を勝手気ままに殺したのでしょう。まさしく、おぞましい殺人鬼です。
 アーモン・ゲートは、17才で右翼思想に傾倒し、ヒトラー・ユーゲンに入会した。1931年にナチ党員となり、やがてナチ親衛隊員となった。幼少時に両親から世話してもらえず、ほったらかしにされたと語っていた。
 気に入らない者がいれば、髪のあたりをわしづかみにして、その場で撃ち殺した。この残酷な人殺しの化け物は、美的な柔らかさを帯びた面持ちで、しかも温和な目つきをもち、巨体で逞しく堂々とした風貌に見えた。
 これは、アーモン・ゲートに仕えていたユダヤ人書記の証言です。
 また、アーモン・ゲートには、ユダヤ人のメイドもいたのです。
 この二人は、結局、殺されずに生きのびていますが、いつ殺されるか分からないという状況がずっと続いていました。恐るべき状況です。
 アーモン・ゲートはドイツの敗戦後に発見・逮捕され、裁判にかけられました。1946年にクラクフで絞首刑に処せられ、遺骨はヴィスワ川に流された。
 長身だったアーモン・ゲートは絞首刑がうまくいかず、二度目になってやっと刑死した。
愛人のルート・イレーネ・ジェニファーはアーモン・ゲートのやったことは何も知らなかったと言いはり、1983年に睡眠薬を飲んで自殺した。
 著者の母は、ナイジェリア人との間に著者を生んだ。生後4週間でカトリック系の養護施設に預けられ、3歳で里親のところに行き、7歳で養子縁組した。実母の写真は出てきません。著者は38歳のとき図書館で、たまたまアーモン・ゲートが祖父であることを知ったのでした。母について書かれた本を偶然に手にしたのです。
 ナチ高官の子や孫たちの人生はさまざまのようです。
 ヒムラーの娘は、ネオナチとして活動している。しかし、たいていは、父親への賛美と、実父への憎しみの間を、いったり来たり、揺れ動いている。すべての子どもに共通していることは、過去から逃れられないということ。ナチの子孫で、不妊手術を受けたとか、自分の意思で子どもをつくらないことにしたという男女も少なくない。自殺者もいる。
 大変重たい内容の本でした。ナチスの影響は、今なお、こういう形でも残っているのですね・・・。
(2014年8月刊。2500円+税)
 一昨日(17日)朝おきて外を見ると、白くなっていました。霜でも降ったのかと思うと、ホラホラ雪が降っているのが見えました。うっすらと積もっているのでした。この冬、初めての雪です。私の娘は「ゆき」と言いますが、前日に戻ってきましたので、「ゆき」を連れて来たね笑ったことでした。
 衆議院の総選挙で投票率52%というのは低すぎます。もっと投票所に足を運んでほしいものです。
 自民党が「大勝」したとマスコミは言っていますが、実際には、得票数も得票率も減らしています(議席も)。小選挙区のマジックで、自民党が議席を維持しただけなのです。民意を反映しない小選挙区はやめてほしいです。
 選挙が終わったら、原発再稼働を次々に認め、武器輸出に国が補助金を出すなんて、恐ろしい話が着々と進行しています。大変な世の中です。

2014年12月11日

ヒトラー演説


著者  高田 博行 、 出版  中公新書

 ヒトラーの演説の移り変わりを丹念に分析した本です。大変興味深い内容でした。
 1913年、ヒトラーは、ウィーン時代と同じくミュンヘンでも絵を売って生計を立てていた。そして、マルクス主義に関する本を読みあさった。信奉していたのではなく、「破壊の教義」と考えていたのです。
 1920年ころ、ヒトラーの演説は夜の8時半に始まって、11時ころに終わった。ふつう2時間は演説した。このころ、1年半前には民主主義と社会主義の夢にとりつかれていた民衆が、今や国粋主義に熱狂している。
 ミュンヘンのビアホールには、面白い見世物があるのを楽しもうという人々が集まった。そこでは、大げさぶりが一番通用する場所だった。ヒトラーは、きちんとした演説原稿を用意することはなかった。その代わり、演説で扱うテーマについて、扱う順番にキーワードもしくはキーセンテンスを書いてまとめたメモを作成した。そのメモを手元に置いて、演説をはじめ、演説を終わることができた。
 1923年11月のミュンヘン一揆の失敗でヒトラーは刑務所に収監されたが、その獄中生活は待遇が良く、『我が闘争』の原稿をつくった。ヘスに自分の考えを口述筆記させた。
 大衆の受容能力は非常に限定的で、理解力は小さく、その分、忘却力は大きい。
 大衆は、頭の回転が遅いため、一つのことについて知識を持とうという気になるまでに、常に一定の時間を要する。したがって、もっとも単純な概念を1000回くり返して初めて、大衆はその概念を記憶することができる。多くを理解することができない大衆の心のなかに入り込むには、ごくわずかなポイントだけに絞り、そのポイントをスローガンのように利用する。
 演説家は、その時々の聴衆の心に話しかけることが大切だ。
 聴衆の反応をフィードバックしながら演説を修正していくことが必要だ。
 同じ演説するにしても、どの時間帯でするかによって、効果に決定的な違いがある。
 朝10時では、さんざんだった。晩の方が午前より印象が大きい。晩には、人間の意思力はより強い意思に支配されやすい。
 ヒトラーは、敵対的なあり方をユダヤ人に代表させて、唯物主義、金銭至上主義として表現している。聞き手は、共通の敵が設定されていることによって、集団としての一体感を獲得する。ヒトラーは、演説のとき、「わたし」ではなく、「われわれ」をもちいる。
 知識層を好まないヒトラーは、初めは大学生をナチ運動に取り込むことに積極的ではなかった。しかし、合法政権を掌握したあと、考えを改め、ナチス学生同盟を重視するようになった。
 1930年、ヒトラーの演説を聞いた人は、次のように報告した。
 「彼はタキシードに身を包んでいた。ヒトラーは生まれながらの弁士だ。徐々に高い熱狂へと上りつめ、声は次第に大きくなる。大事なところは、両手をあげて繰り返して言う。その後すぐに、牧師のように両手を胸に当てて語る」
 聴衆の期待感、切望感を高めるため、ヒトラーは演説会場に意図的に遅れて到着した。
 1932年、ヒトラーは、オペラ歌手から発声法の個人レッスンを受けた。
 「最初はできる限り低い声で語る。そして、あとで高めていく。それまで大きな溜ができる。静寂と劇場のちょうど間に、弾劾する声を置く」
 「前列に目をやるのではなく、常に後ろのほうに目を向けておかないといけない」
 ヒトラーが政権を握る前のナチ運動期の演説でよく出てきた名詞は「人間」そして「運動」だった。それが、ナチ政権期には、「国防軍」「兵士」「戦争」などに変わった。
 ヒトラーが公共の場で演説することが少なくなったことから、人々はヒトラーとのつながりが減り、溝が広がっていった。大きな演説は、1940年に9回、41年に7回、42年に5回、43年は2回のみ。
 ヒトラーの演説に力があったのは、聴衆からの信頼、聴衆との一体感があったから。ラジオを通してヒトラー演説を聴く国民には、今や信頼感が全く欠けていた。この現実を前にして、弁論術はそれ自体いくら巧みで高度なものであったにしても機能せず、国民のなかに入っていくことはできなくなっていた。演説内容と現実とが極限にまで大きく乖離し、弁論術は現実をせいぜい一瞬しか包み隠すことができないでいた。
マイクとラウドスピーカー、そしてラジオという新しいメディアを駆使したヒトラー演説は、政権獲得の1年半後には、すでに国民から飽きられはじめていた。
 ヒトラー演説は、常にドイツ国民の士気を高揚させたわけではない。
 ヒトラー演説の絶頂期は政権獲得前の1932年7月の全国53カ所での演説だった。
 恐るべき狂気の天才的扇動家であるヒトラー演説がよくよく分析されていると思いました。ポーズだけで騙されてはいけないということですよね。安倍首相には、要注意です。
(2014年6月刊。880円+税)

2014年11月 8日

クルクス対戦車戦


著者  山崎 雅弘 、 出版  光人社NF文庫

 ナチス・ドイツとソ連が太平洋が激突したことで、有名なクルクス対戦車戦を再評価した本です。
 本のオビを紹介します。
 「ドイツ軍2800輌、68万5000人。ソ連軍3000輌、125万8000人。空前絶後の兵力の相まみえた大会戦の全貌をソ連崩壊後に明らかになった史料をもとに描く決定版。独ソ最大の地上戦」
 1943年7月のクルクスの戦いは、史上最大の戦車戦と称される。
 1943年2月、スターリングラードの戦いが終わり、ドイツ軍が降伏した。スターリングラードでの大敗北のあと、ヒトラーは資源の確保、そしてイタリアやルーマニア・ハンガリーなどの同盟国をいかにしてつなぎとめるかという政治問題に心を奪われていた。スターリングラードの勝利のあと、西方への攻勢を強めようとしたソ連に対して、ナチス・ドイツのマンシュタインの大反撃が功を奏した。ソ連軍は、補給体制を整備しないままに攻勢を継続していた弱点をつかれてしまった。
ドイツ軍のもつティーガー戦車は1942年秋から生産開始となった頑強な重戦車である。旋回砲塔に搭載する8.8センチ砲と分厚い装甲は、ソ連軍のT34戦車や対戦車砲では太刀打ちできなかった。ソ連側の強味は、敵(ドイツ側)の攻勢計画に関する詳細な情報と、それにもとづく兵力の集中だった。そして、別働隊のパルチザンが活躍した。
 ソ連空軍機は、ドイツ側のレーダー装置によって探知され、その多くが撃墜された。その結果、ドイツ空軍が制空権を握り、多くのソ連軍T34戦車が空からの攻撃によって撃破されてしまった。
 1943年5月から8月にかけてのクルクス決戦において、敵に先手をとらせたりソ連側が戦略的に勝利した。しかし、ソ連側は途方もない損害を蒙った。戦死者が7万人、負傷者が11万人の18万人。これはドイツ軍の3倍。投入兵力の14%に及ぶ。
 ソ連軍がクルクス会戦で喪失した戦車は1614輌。それでも、ソ連軍の軍事組織としての土台は揺らぐことなく、すぐに体勢を立て直して新たな攻勢に取りかかった。
一般に、ドイツ軍はクルクス会戦で回復不能なほどの大損害を蒙り、それが第二次世界大戦におけるドイツの敗北を決定づける要因になったとされている。しかし、それは正しくない。クルクス会戦におけるドイツ軍の戦死者は1万人(投入兵力の2%)、負傷者は5万人(同7%)。損害合計は6万人ほど。ドイツ軍は、「戦略的大戦を喫した」というほどのことではない。ドイツ軍の戦争遂行能力を根底から揺るがすほどの決定的なダメージをドイツ軍の組織にもたらしたわけではなかった。
 東部戦線のドイツ軍装甲部隊は、クルクス会戦によって部分的に「非稼働状態」にはなったが、「全損」させられたわけではない。ドイツ軍の戦車は、ソ連軍の砲弾よりも、むしろ連日にわたる苛酷な対戦車戦闘の繰り返しで消耗し、戦闘力を減衰させられた。
 戦略的情勢がドイツ軍の退潮へと転じるなかでも、ドイツ軍装甲部隊は、攻撃的な「電撃戦」に代わる「機動防御」を展開し、ベルリン陥落までの2年間にわたって、ソ連軍に多大の出血を強いることができた。
そうだったんですね・・・。クルクス会戦でナチス・ドイツ軍は再起不能の状態に陥ったのかと思っていました。
 この本を読むと、ソ連軍が大変な人的・物的損害を蒙りながらも、必死に歯をくいしばって耐えてドイツ軍に頑強に抵抗していた状況がよく分かります。
 ここでは、他の場面で頻出するスターリンの戦略指導の誤りはなかったようです。本当でしょうか・・・。クルクス会戦、戦車戦に関心をもつ人には必読だと思いました。
(2014年8月刊。900円+税)

2014年11月 5日

軍服を着た救済者たち


著者  ヴォルフラム・ヴェッテ 、 出版  白水社

 「ドイツ国防軍とユダヤ人救出工作」というサブタイトルのついた本です。
 ユダヤ人の絶滅を図ったナチス・ドイツですが、ドイツ国防軍とは一定の緊張関係があったようです。その典型が、ヒトラー暗殺を計画して未遂に終わった7月20日事件(ワルキューレ作戦)でした。
 この本に登場してくるドイツ国防軍の兵士は、そんなトップ将官ではなく、一般兵士たちのなかで、ユダヤ人救出を図った人たちがいることを掘り起こしています。
 順応した人たち、臆病から、あるいは喜んで勇んで「共犯者」となった人がいた一方、いずれかの時点で、不安や恐怖にうちかつ勇気、積極的な抵抗姿勢をとる勇気を示した人たちがいた。
 アントーン・シュミット軍曹は、リトリアのヴェルナで敗走兵集合所の主任だった。そして、ユダヤ人抵抗組織と接触をもち、武器と数十名の抵抗運動の兵士を他のゲットーに送り込んだ。
 アントーン・シュミットは1942年1月に逮捕され、軍事法廷で死刑が宣告された。このとき、シュミットは、自分はユダヤ人を死から救助するために移送したと確信をもって陳述した。そして、1942年4月13日、銃殺された。
 刑場に向かう直前に書いた妻と娘への遺書には、次のように書かれている。
 「愛する妻たちよ、気を落とさないでくれ。私はそれと折りあいをつけたし、運命もそう望んだのだ。われらが愛する神によって天上から決定されたのだ、そのことは変更のしようがない。今日、私の心は平静で、自分自身がそれを信じられないくらいだ。
 ここでは絶えず、2~3000人のユダヤ人が銃殺された。
 敗走兵集合所には140人のユダヤ人が働いていて、彼らは、私にここから連れて逃げてほしいと要請した。そして、私は説得に負けた。どうか、どうか私を許してほしい。私は人間として行動したまでで、実際、誰にも苦痛を与えたくはなかったのだ」
 映画「戦場のピアニスト」で有名になったシュピルマンを救ったヴィルム・ホーゼンフェルト大尉の場合は、同僚が「ドイツ人であることを恥ずかしく思う」と語る状況にいた。そして、言う。
 「なぜ、人々は沈黙して抗議しないのだろうか。われわれは、皆、臆病で怠情であり、あまりにも不実で堕落している。そのため、われわれも全員、奈落に落ちなければならない」
 1942年、20歳のラインホルト・ロフィ少佐は、上官からユダヤ人の老人を銃殺せよという命令を受けたとき、これを拒絶し、「自分はキリスト教徒であり、それは出来ない」と答えた。
 ヴィリ・シュルツ大尉は、1943年3月、ドイツ国防軍の貨物自動車に25人の若いユダヤ人(13人の女性と12人の男性)を乗せて逃亡することに成功した。
 ナチス・ドイツの体制のなかで上官の命令は絶対的で、それに抵抗することは不可能だったという定説を打ち破る本でもあります。でも、それは口で言うほど簡単なことではありませんよね。文字どおり、命がけの行為なのですから・・・。
(2014年6月刊。2400円+税)

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