弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

ヨーロッパ

2015年7月25日

「イタリアの最も美しい村」全踏破の旅

                            (霧山昴)
著者  吉村 和敏 、 出版  講談社

 イタリアの「美しい村」234村を4年半もかけて全部まわり、紹介した写真集です。
 すごいです。立派です。楽しい写真集です。そして、いかにも美味しそうなスパゲッティがひそかに紹介されていて、ああっ、これ食べたいと思わせます。さすがプロの写真家による写真集です。そして、それぞれの村の故事来歴がよく調べてあるのにも驚嘆しました。
 私はフランス語なら、なんとか話せますので、フランスの「美しい村」めぐりはしたいと思いますが、イタリアは言葉の障害があるので、行く気にはなれません。この写真集で、しっかり行ったつもりになりました。
 「美しい村」というだけあって、すごい写真が満載です。チヴィタ・ディ・バンニョレジョという村は、まさしく「天空の城」です。一本の狭い橋が小高い山にある村を結んでいます。ただし、この村の住人は、今や8人という寂しさです。
モラーノ・カラブロという村は、小高い丘に至るまで、ぎっしりと家が建ち並んでいて壮観です。
 トスカーナ州にあるピティリアーノという村も、緑の樹海の上にそそり立つ岩全体が村になっています。フランスで私も行ったことのあるレ・ボーのような村です。ちなみに、レ・ボーは、松本清張の本の舞台にもなっています。
 このピティリアーノ村は、まったく観光地化されておらず(レ・ボーは完全な観光地です)、三毛猫がけだるそうに寝そべっています。
 2009年に出版された「フランスの美しい村」に続く、イタリア版の写真集です。
 この本には、強く心が惹かれるのですが、私は一人旅はしたくありません。安全面という理由もありますが、なんといっても一人で食事をしたくないというのが最大の理由です。
 おいしい料理を、これは美味しいねと言いながら、その日の感想を気楽に心を許して話せる人と旅行したいのです。
 それにしても、著者の敢闘精神には深く感謝します。まだ50歳にもならない、なかなかのイケ面の著者であることに気がつきました。いつも、ありがとうございます。
(2015年3月刊。3800円+税)

2015年7月17日

スペイン無敵艦隊の悲劇

                               (霧山昴)
著者  岩根 圀和 、 出版  彩流社

 エリザベス女王の統治するイギリス艦隊がスペインの無敵艦隊を完膚なきまでに撃滅した「史実」は世界史を学んだものの一人として、忘れることができません。
 ところが、この本によれば、スペイン「無敵」艦隊なるものは自称でも、他称でもなかったというのです。イギリス軍がスペインから来た艦隊に勝利したあとの本で、「無敵」のスペイン艦隊をやっつけたと書いたところ、それが、あたかも自称ないし他称として広まったというだけだというのです。知りませんでした・・・。
 スペイン艦隊は、実際には、イギリス軍の艦船に初戦から敗退しているから、その意味でも、ちっとも「無敵」ではなかった。
 1588年のこの戦争で、スペイン王国フェリペ2世は、イングランドのエリザベス女王に宣戦布告していない。当時、スペインのリスボン港に大艦隊を終結させながらも、それをひた隠しにして出撃した。艦隊に乗船する兵士たちに目的地は知らされなかった。イギリスへ戦争しに行くと布告したら兵士を確保できないので、新大陸へ向かうという嘘の布令が出された。
 この海上戦において、イギリスは自力で勝ってはいない。むしろ、戦闘らしき戦闘は、ほとんどなかった。スペイン艦隊は、イギリスから打撃を被ったのではなく、飢え渇きと病気、そして悪天候による強風と嵐による難破のせいで、大損害を被った。
 スペインには、どうしてもイングランドへ艦隊を派遣せざるを得ない国内事情があった。その一つが、ドレイクをはじめとするイギリス海賊による傍若無人な掠奪行為が横行していたこと。
 イギリス女王の許可を得てスペイン船を掠奪しているイギリス海賊船が200隻をこしていた。
 スペインは、ドレイクなどの海賊船の出現で大あわて・・・。掠奪金の分け前にあずかって大いに国庫をうるおしているエリザベスとすれば、ドレイクにいい顔をしたくなるのも無理ないところだ・・・。
イギリスとスペインの艦船の大砲の威力を発揮していない。5時間かかって、500発の砲弾を打ち出した。イギリス艦隊は、ほとんどがカルバリン砲だった。
 カルバリン砲は、カノン砲よりも射程距離が長い。それでも600メートル。カノン砲は、砲弾を1500メートルも飛ばすけれど、有効な射程距離は、せいぜい450メートルだった。
 当時の鉄砲や大砲は、すべて滑空砲なので、命中率は悪い。
 お互い波動に揺れる船同士なので、照準器もないから、砲撃の命中率は0%に近い。
 この本を読むと、スペイン国王フェリペ2世がスペイン艦隊を派遣しようと熱心だったこと、スペイン「無敵」艦隊は出発当初から、いいかげんすぎる部隊として悪名高いものがあったことが分かります。
 1588年の戦闘について、7月22日に出港したスペイン軍艦船は、130隻、2万6千人だったところ、同年9月から帰ってきたのは、そのうちの半分の65隻、1万3千人ほどだった。
 イングランド艦船による「火船」攻撃は、スペイン艦船に被害をもたらすことはなかった。
スペイン「無敵」艦隊の実際を知り、驚き、かつ呆れました。まるで、戦前の帝国陸軍のように、現実に立脚せず、スペイン国王の頭のなかにある空理空論のみに頼っていたのです。これって、まるで、現代日本・・・?
(2015年3月刊。3500円+税)

2015年7月16日

キム・フィルビー

                                (霧山昴)
著者  ベン・マッキンタイアー 、 出版  中央公論新社

 イギリスの市場もっとも有名なスパイの一生を明らかにした本です。
ケンブリッジ5人組として、良家の育ちなのに共産主義を信奉し、スパイ・マスターの世界に入り、ソ連へ情報を売り渡していたのです。
 ところが、あまりにも最良の情報だったため、逆にソ連の情報当局が疑ったのでした。
 ちょうど、日本からのゾルゲ情報をスターリンが疑ったのと同じです。
 スパイが送ってくる情報は「ニセモノ」かもしれない。味方を撹乱させるためのものかもしれないというのです。生命を賭けて送った最良の情報がたやすく信じてもらえないというのは、笑えないパラドックスです。
 キム・フィルビーは、崇拝者を勝ちとる類の人間だ。フィルビーは、相手の心に愛情を、いとも簡単に吹き込んだり、伝えたりでき、そのため相手は、自分が魅力のとりこになっているとは、ほとんど気がつかないほどだった。男性も女性も、老いも若きも、誰もがキムに取り込まれた。キム・フィルビーの父親は著名なアラブ学者で探検家で作家だった。
 キム・フィルビーは、上司として最高だった。ほかの誰よりも熱心に働きながら、苦労しているそぶりは一向に見せなかった。
 1930年代にイギリスのケンブリッジ大学を猛烈なイデオロギーの潮流が襲った。
 ナチズムの残虐性を目にした友人の多くは共産党に入ったが、フィルビーは入党はしなかった。
 ソ連の諜報組織は、異常なほどの不信感にみちており、フィルビーら5人の情報が大量で、質もよく、矛盾した点のないことを、かえって疑わしく思った。5人全員がイギリス側の二重スパイに違いないと考えたのだ。
 フィルビーがモスクワに真実を告げても、その真実がモスクワの期待に反しているため、フィルビーの報告は信用されないという、とんでもない状況が生まれた。フィルビーは、おとりであり、ペテン師であり、裏切り者であって、実に傲慢な態度で我々(ソ連側)に嘘をついていると見られていた。
 そして、ソ連側のスパイ・マスターたちが次々に黙々とスターリンによって粛清されていった。フィルビーは、これを黙って受け入れた。
 キム・フィルビーは、国民戦線派(フランコ派)のスペインから、共産主義国家ソ連から、イギリスから、三つの異なる勲章をもらった。
 キム・フィルビーは、イギリス情報機関からアメリカに派遣されています。アメリカでも、もちろん有能なスパイに徹したのです。
 フィルビーにとっては、欺瞞が楽しかった。他人に話のことをできない情報を保持し、そのことから得られるひそかな優越感に喜びを見出す。フィルビーは、もっとも近しい人々にさえ真実を知らせずにいることを楽しんでいた。
 キム・フィルビーの流した情報によって、どれだけの人々が殺されたかは不明だと何度も強調されています。
 ソ連側のもとスパイの告発によってキム・フィルビーは一度こけてしまいましたが、証拠不十分だったので、再起することができたのです。そして、二度目は、ついにソ連へ亡命してしまいます。1988年5月にキム・フィルビーはモスクワの病院で亡くなりました。
 イギリスの上流階級に育った子弟が、死ぬまで二重スパイであり続けたという驚異的な事実には、言葉が出ない思いがしました。
(2015年5月刊。2700円+税)

2015年7月10日

ニュルンベルク裁判

                               (霧山昴)
著者  芝 健介 、 出版  岩波書店
 
 日本の戦犯を裁いたのは極東国際軍事裁判(東京裁判)です。安倍首相は戦前の日本がした侵略戦争を間違った裁判と認めようとはしません。国際的にみて、とりわけアメリカが許すはずのない特異な歴史観です。「間違っていない」のだから、反省しないし、謝罪もしないのです。本当に狂っているとしかいいようのない日本の首相です。これでは真の平和友好外交など、できるわけがありません。
 この東京裁判と対比されるのがドイツの戦犯を裁いたニュルンベルグ裁判です。
 300頁もの大部な本書を読んで、初めて裁判の実際を私は知りました。
 終戦前の1944年9月の時点で、アメリカとイギリスのトップレベルでは、主要戦犯については、裁判なしで即決処刑という見解が有力だった。1943年11月のテヘラン会談で、スターリンは、ドイツ国防軍のランク上位の将校5万人を銃殺したらいいと発言した。
 1945年2月のヤルタ会談において、戦争犯罪の法的追及という大筋が決定された。
 ヒトラーたちが裁きの論理をひっくり返してしまうのではないかと連合国側は心配した。
 ソ連もフランスも、自国の国民がこうむった厖大な塗炭の苦しみの経験をふまえ、他の戦争犯罪のカテゴリーでは規定できない犯罪行為として、「人道に対する罪」をもって裁くことに異議を唱えなかった。
 ニュルンベルグ裁判は、1945年10月18日、起訴状が提出されて始まった。11月20日に被告人がほぼそろって開廷された。
 誰を被告とするかについて、アメリカ案は、軍・経済界の指導者も加えることにしており、これにソ連とフランスが賛同した。
 「人道に対する罪」としては、ユダヤ人絶滅対策と並んで、オーストリア首相ドルフス、社会民主党指導者ブライトシャイト、共産党指導者テールマンの虐殺もあげられている。
起訴状の読み上げだけで2日を要した。
 開廷して10日目の11月29日、強制収容所の解放時の状況をうつしたフィルムを法廷で上映した。この映画のとき、かのゲーリングは両肘をついたままあくびをした。
 1946年3月から、ゲーリングは満を持して被告人弁論にのぞんだ。弁護人の質問とゲーリングの長広舌は、3日間も続いた。したたかなゲーリングは、戦後ドイツで実施・展開されている、ナチに対する予防検束の途方もない規模は、ナチ時代のそれどころではないと、法廷をまぜ返した。
 1945年11月から始まり、9ヶ月間続いた審理は、1946年8月末にようやく終了した。
 裁判所は、ヒトラーはひとりでは侵略戦争を遂行できなかった。諸大臣、軍幹部、外交官、企業人の協力・協働を必要としたのであって、彼らが目的を知り協力を申し出た事実が存在する以上、ヒトラーの立てた計画に自らを関与させたものである。
 このように、しごくもっとも論理で裁判所は判断しています。
 1946年10月1日、判決文の朗読は終了した。ゲーングなど12人(1人は欠席)に絞首刑を宣告した。3人については無罪判決を下した。死刑執行は2週間後の10月15日深夜だった。ゲーリングは、執行直前に自殺した。
 その後、継続裁判が続いた。たとえば、法律家裁判がある。ナチ司法体系において高位を保護した裁判官・検事・法務官僚たちが被告とされた。
 ヒトラーの命令は、国際共同体の法に違反したのだから、総統みずからも、ヒトラーの部下たちも保護しえない。このように書かれている。
 行動部隊裁判は注目すべきものであった。ドイツ軍支配下のソ連地域で100万人が行動部隊の犠牲になった。この被告たちは、ありふれた意味での悪漢・無頼漢の類ではなかった。文明の恩返しに浴さない野蛮人ではなかった。むしろ、十分な教育を享受していた。オペラ歌手としてコンサートを開いていたり、聖職者だった者もいる。よき出自をもち、教養ある被告が多かった。そして、被告のほとんどは、「上からの命令」という弁明をくり返した。14人の被告に対して死刑が宣告された。
 これらの裁判で有罪とされた被告は5~6万人に上る。西側で有罪とされた被告5025人のうち806人に死刑が宣告され、486人が処刑された。
 ソ連占領区では、有罪宣告された4万5000人の3分の1がシベリアへ強制労働へ移送された。死刑宣告数は不明。
 ところで、歴代の西ドイツ政府は、ニュルンベルクの裁判の判決を公式には受け入れなかった。国連安保理によるボスニア法廷、ルワンダ法廷が開かれ、ニュルンベルク原則が再び脚光を浴びるようになって、ニュルンベルク裁判が戦勝国による裁きだったという議論が根拠を失った。
 1945年秋、敗戦の衝撃がまだ生々しかったときのドイツでは、ナチ犯罪を訴追することは政党とする人が8割近かった。しかし、1950年には、38%にまで下落した。やがて、過去の「忘却」ないし「駆逐」への願望が圧倒的になった。しかし、1950年代後半に、過去は清算されていないという批判も芽生えてきて、過去に向きあうドイツ人が増えていった。
 ドイツでも、ニュルンベルク裁判に対する見方がいろいろ揺れ動いていたことを今回、初めて知りました。それだけ重たい負の遺産であるわけです。それでも、しっかりそれを見つめることからしか、将来は開けません。これは「自虐史観」というものではありません。しっかり未来を見すえるために必要なことなのです。
(2015年3月刊。3200円+税)

2015年7月 8日

三重スパイ

                                (霧山昴)
著者  小倉 孝保 、 出版  講談社

 新幹線内でガソリンをかぶって焼身自殺した71歳の男性がいました。51歳の女性がそのあおりをくらって亡くなられました。本当に痛ましい話です。
 私は安倍内閣が強引に成立させようとする安保法制法案が成立したら、日本国内の至るところで、自爆テロの危険があるようになることを今から心配しています。
 イギリスでもフランスでも地下鉄や新聞社などで自爆テロが発生しました。
 アメリカと一緒になってイラクやアフガニスタンへ日本の自衛隊が出かけていったとき、その報復として日本が自爆テロ攻撃の対象とされないなんて考えるのは甘すぎるでしょう。身内が理不尽に殺されたら、仕返しをしたくなるのが人情というものです。
 政治は、そんなことを防ぐためにあるはずなのですが、自民・公明の安倍内閣は戦争してこそ平和が得られるというのです。まるで間違っています。
 この本は、アルジェリアでイスラム原理主義勢力がはびこるのを嫌って、イギリスへ渡った男性が無意味な殺し合いをやめさせるためにフランス、そしてイギリスの諜報機関のスパイになったという実話を紹介しています。このアルジェリア人の男性は何回も殺されかかっていますが、テレビで顔を出していますから、今も生きているのが不思議なほどです。
 モスクでは、ビデオを見せられる。激しい戦闘の様子や、イスラム戦闘員の遺体が写っている。
 「こうやって殉職者になって天国に行くんだ。きみたちも、欧米の不信心者と戦えば、天国が拘束されている」
 「きみたちの今ある生命は本当の命ではない。ジハードで死んだあとに、きみたちの本当の命が息を吹き返し、そこから人生が始まるのだ」
 「殺せ、不信心者を殺せ。アルジェリア兵を殺せ。アフリカ人を殺せ。殺せば、おまえたちは天国に行ける」
 メッセージは明確だ。生き方に迷っている若いイスラム教徒にとって、「おまえの進むべき道はこっちだ」とはっきり指示してくれる人間が必要だった。言い切ってくれることで、迷いが吹き飛ぶ。
 モスクは、ありあまるエネルギーに火をつけてくれる刺激的な場所だ。イスラム信仰心にあつい者は酒も麻薬にも手を出さない。恋人をつくったり、酒に酔って夜のパーティーに出かけることもしない。ひたすらコーランを読んで、それを実践しようと心がける。
酒に酔って、パーティーに明け暮れる西洋文明は、腐り切った汚れた社会だ。
 ビデオを見て、洗脳されて若者の心を「戦って天国に行け」という訴えが射貫いた。若者は、やがて自分も欧米人を相手に実践に参加して、殉職者になることを夢見るのだ。
 これは、戦前の日本の軍国少年育成と同じ話ですね・・・。
 宗教を盲信してしまうことによる恐ろしさ、殺し合いが日常化してしまったときの怖さが、じわじわと身に迫ってきました。そんな世の中にならないように、日本はもっと恒久平和主義を世界にアピールすべきなのです。
 安倍政権の積極的「戦争」主義は根本的に間違いです。この本を読んで、ますます私は確信しました。
(2015年5月刊。1800円+税)

2015年6月28日

驚くべき乳幼児の心の世界

                              (霧山昴)
著者  ヴァスデヴィ・レディ 、 出版  ミネルヴァ書房

 人間の赤ちゃんを観察する学問があるのです。それによって、人間とは、どういう存在なのかを知ることができます。私は赤ちゃんが大好きです。生命(いのち)の輝きをみていると、心が浮き浮きしてきます。
 赤ちゃんは、生まれてすぐからよそ見している顔より、自分を直接見つめる顔を好んで見たがる。赤ちゃんは相手が反応しないと、苦痛に感じる。
 母親がうつ状態で、反応が乏しいと赤ちゃんも、より起伏のない感情を示し、ひっこみがちな状態になる。そのとき、赤ちゃんは「無力感」を学習している。
 赤ちゃんは、予期できないこと、驚くことを必要としている。すべてが予測できるのは、赤ちゃんにとって退屈なのである。
 赤ちゃんは、他者のフンイキや表現におけるちょっとした変化に非常に敏感である。
 人間の赤ちゃんは、生後9ヶ月から12ヶ月で、他者から注目されていることに気がつくようになる。
 問題のある環境で育てられた子どもは、日常生活で笑いがほとんどない。
 1歳未満でも、赤ちゃんは他者との非言語的交流のなかで、ものを隠したり、だましたり、人の気をそらしたり、何かのふりをしたりする。
 だましのコミュニケーションは、最初の、またすべてに先行するコミュニケーションであり、他のすべての社会的コミュニケーションと同様に、基本的に対話的な過程を通じてあらわれるはずのものである。
 「赤ちゃん学」の今日における到達点を知った気がしました。
(2015年4月刊。3800円+税)

2015年6月27日

革命前夜

                               (霧山昴)
著者  須賀 しのぶ 、 出版  文芸春秋

 冷戦下のドイツが舞台です。
 いったい、誰を信用していいのか。誰は信頼できるのか、疑心暗鬼になってしまいます。主人公は、ドレスデンの音楽大学でピアノを学ぶ日本人留学生です。
 私は、久しくコンサートに行ったことはありませんし、自宅でクラシック音楽を聞くことも滅多にありませんので、バッハ平均律に深い思い入れをもつと紹介されても、さっぱり何のことやら分かりません。
 そこへ、ベトナムや北朝鮮からの留学生が登場し、ハンガリーからの留学生もいます。
 ヴァイオリン、オルガン、ピアノの奏者たちです。
 音楽のことは、正直いってよく分かりませんが、その雰囲気はよく描写されていると思います。なんとなく、オーケストラや室内音奏団のかなでる音楽を聞いている気分になってくるのが不思議です。
 でも、話のほうはシビアです。東ドイツが崩壊する前、ベルリンの壁が健在だったのに、それが、今にもこわれてしまいそうになっていく様子が小説としてよくとらえられています。
(2015年3月刊。1850円+税)

2015年6月18日

アウシュヴィッツを志願した男

                              (霧山昴)
著者  小林 公二 、 出版  講談社

 アウシュヴィッツ収容所に自らすすんで入り、そこを脱走したポーランド軍大尉がいたなんて、信じられません。そんなこと、まったく知りませんでした。
 そして、収容所内で抵抗組織をつくりあげ、脱走に成功してからもナチス・ドイツ軍と戦ったのです。ところが、戦争後、ポーランドがソ連の支配下にあるなかで、今度はポーランド政府から反逆罪で死刑を宣告され、銃殺されて歴史から抹殺されたのでした。幸い、今は名誉を回復しているのですが、その子どもたちは苦難の戦後を歩かされたのです。いやはや、本当に歴史の現実は苛酷です。
 アウシュヴィッツ収容所に1940年9月21日、自ら志願して潜入し、あげく948日後の1943年4月27日、脱走に成功したポーランド軍大尉がいた。ヴィトルト・ピレツキという生粋のポーランド人である。3年近くもアウシュヴッツ収容所で生活していたピレツキは、その収容所内の様子を生々しく語っている。
 収容所には、家族からの送金も認められていて、それは月30マルクだった。あとでは40マルク。収容所内には売店があり、タバコ、サッカリン、マスタード、ピクルスなども買うことができた。家族からの小包は衣料品ははじめから認められていたが、食料小包も1942年のクリスマス以後は解禁されていた。そうだったんですね・・・。
 はじめ、アウシュヴィッツ収容所はポーランド軍捕虜の収容所だった。そこで、収容所内の実態を探るために、誰かが潜り込む必要があるということになり、マッチ棒を使って、くじ引きで人選が決まった。それを引き当てたのがピレツキだった。
 ナチスは、知識人を毛嫌いした。だから、収容者が教師だとか弁護士だと名乗ったら、死へ直行させられた。カンボジアでも、そうでしたね・・・。
 手先の器用なピレツキは、木工職人と自称した。1940年9月当時は、ユダヤ人はアウシュヴィッツに送り込まれていなかった。
 収容者をふくめて収容所を実際的に管理していたのは、実は収容者自身だった、常時10万人以上の収容者を管理・行政部門をふくめて8000人のSS(ナチス・ドイツ)でコントロールするのは不可能だった。もちろん、管理体制のピラミッドの上部にSSが君臨していた。
 ピレツキがアウシュヴィッツ収容所に潜入した目的は四つ。
第一に、収容所内に地下組織をつくること。
 第二に、収容所内の情報をワルシャワにある抵抗勢力(ZWZ)司令部に届けること。
 第三に、収容所内の不足物資を外から調達すること。
 第四に、ロンドンのポーランド亡命政府を通じてイギリス政府を動かし、アウシュヴィッツを解放すること。
 強制収容所で生き残ろうと思えば、いい人間なら友人になること。どんな親切も受けとり、そして、それを次の機会に返すこと。利己主義では、命をつなぐことができない。利己主義にこり固まった収容者は、間違いなく死んだ。相互の友情の絆ができれば、互いに助けあい、生きる確立は格段に高まる。
収容所の家族から送られてくる小包は、1人週5キロまで1個と決められていた。大きいものは没収され、250キログラムまでだと、個数制限がなかった。食料に関しては月1個だった。昼夜交代24時間体制で「小包班」の収容者が分別作業にあたった。死亡した収容者あての小包は生きている仲間へと名札をつけ換えられて渡された。
 ピレツキの地下組織は脱走を禁じていた。脱走者が出たら、10人が連帯責任で殺されたから。コルベ神父の死も、脱走者の身代わりだった。
 収容所の所長であるヘスは家庭では子煩悩だった。殺して奪った子どもの着ていた上等な服を我が家に持って帰り、子どもたちを喜ばせた。
 こうなると、人間の残酷な心理の奥深さに、ぞぞっとしてきますよね・・・。
 アウシュヴィッツ収容所から802人が脱走し、300人が成功した。なかには、所長ヘスの車を奪って、SSの制服を着用した四人組が成功したというのもある。1942年6月29日のこと。
 ピレツキの場合には1943年4月に脱走に成功した。小包部門から、パン工房に移ってからの脱走だった。
 ピレツキはナチス・ドイツ軍に対するワルシャワ蜂起に参加します。敗北した蜂起ですが、生き延びることができました。そして、ナチス、ドイツが敗北したあと、ソ連軍の占領下のポーランドで、今度は国家叛逆罪で逮捕され、拷問にかけられ、裁判で死刑を宣告されるのです。死刑の執行は、1948年5月25日夜9時30分。
 ピレツキの名誉が回復されたのは、1990年10月1日のこと。なんと40年以上もたっていました。まだ、ピレツキの奥さんが存命していたのが救いです。二人の子どもは、今も生きているとのことです。
 知らないことって、本当に多いですよね。それにしても、ポーランドって、大変な歴史を背負っているのですね・・・。
(2015年5月刊。1700円+税)

2015年6月14日

『サウンド・オブ・ミュージック』の秘密

                               (霧山昴)
著者  瀬川 裕司 、 出版  平凡社新書

 映画『サウンド・オブ・ミュージック』をもう一度ぜひみてみたいと思わせる本です。
 この映画の出だしは素晴らしいですよね。森のあいだに平らな草原が開けている風景。そして木々に囲まれた平地に、小さな人影が見える。そして、ジュリー・アンドリュースが登場し、両手をあげて歌いはじめる。
 この本によると、ヘリコプターからカメラをまわして映像をとったそうですが、十数回もとり直しがあり、そのたびにプロペラの強風を受けてジェリーは、地面に倒れていたとのこと。
 たしかに、それだけの圧倒的な迫力がある冒頭シーンです。
 このとき、ジュリーは、白樺のなかで歌をうたう。ところが、この白樺は、映画のために一時的に植えられたものだった。歌詞にあわせるために・・・。
 小川が見え、ジュリーが小川に沿った走る場面がある。この小川も、映画制作スタッフが牧草地を掘り、シートを敷いて水を入れたもの。水の表面のさざ波も、人工的なもの。
 いやはや、映画人は細かいところまで苦労しているのですね・・・。
映画では少女のように見えるジュリーは、実年齢は28歳。モデルになった女性は21歳だった。
 ジュリーがギターをかかえて、丘の上にある広い草原で子どもたちと一緒に歌うシーンがある。実際の場所は、急斜面のなかの、そこだけが平らな場所になっているところに、カメラを低い位置にすえてとっている。まさしく映画の魔術だ。
 オーストラリア人は、映画『サウンド・オブ・ミュージック』を嫌っているそうです。というのは、映画のなかでうたわれる「エーデルワイス」という曲が、本当のオーストラリア愛唱歌ではないから。
 ジュリーは、実母が夫以外の男性との不倫によって生んだ娘だった。母が離婚した相手の義父からジュリーは性的虐待を受けていた。このことは本人が告白している。
 それでも、ジュリーの、圧倒的な歌唱力、演技力、そしてなにより愛らしさに、心底から惹かれてしまいます。
 トラップ一家は、実際には、鉄道でイタリアに行き、ロンドンからアメリカに行った。つまり、山ごえなどしていない。それでも、トラップ・ファミリーとしてアメリカでコンサート活動をしたのは事実でした。
 この映画の魅力を解説し、ロケ地に実際に行ってみるなど、映画の登場人物の紹介など、ワクワクさせられます。この本を読んで映画をみると、面白さが倍増します。
(2014年12月刊。780円+税)

2015年6月12日

大脱走

                               (霧山昴)
著者  サイモン・ピアソン 、 出版  小学館文庫

 1963年の映画『大脱走』は、私の若いころにみた忘れられない映画の一つです。スティーブ・マックィーンの格好いいオートバイ姿を思い出します。
 この本は、3度目の大脱走を敢行したロジャー・ブッシェルの実像を紹介したものです。実話だったのですね。しかも、捕虜収容所からの3度目の脱走だったとは、驚いてしまいます。
 映画の主人公でもあるロジャー・ブッシェルは、イギリスの空軍少佐でしたが、イギリスの弁護士でもありました。
ロジャー・ブッシェルは、ケンブリッジ大学卒の法廷弁護士だった。ロジャーたちは、11ヶ月かけて、収容所から外へ通じる3つの地下トンネルを掘りあげた。
 このとき、200人の捕虜が脱走する計画だった。そのため、偽造パスポート、コンパス、地図、食料、民間人の服、ドイツ軍の軍服を身につけていた。
 ロジャーは、9カ国語を話せた。フランス語も、ドイツ語も得意だった。すごーい、ですね。
 イギリス軍では、脱走マインドが軍隊のなかに植えつけ、育てられていた。脱走は将兵の義務である。軍人は、捕虜となっても、現役の戦力であり続けるのだ。日本とは、大変な違いですね。
トンネルの立坑は、振動音を記録するマイク音を拾えない深さまで掘られ、寝台や羽目板からはずしてきた木の板を支柱にして、頑丈にし、電灯で照らされ、換気システムも取りつけられていた。
 掘削はチームでおこない、安全と思われたときだけ作業することになっていた。安全が最優先だった。
 トンネルは、三つ。三つあれば、一つが発見されても、残りの二つに頼ることが出来る。
 トンネルを照らすための電力は、建物の二重壁のあいだを通っているドイツ軍の配線を分岐させることによって得られた。リード線は、二重壁の中を通り、そのあと床下から立坑へと通っていた。昼は電気が止められ、その代わりにマーガリンに詰めたランプが使われた。それは1回に1時間だけ灯り、毎夜、点検のために携行された。
 立坑が完成してからは、作業は朝の点呼のあとに始まり、夕方の点呼の数分前まで続けられ、そのあとトンネル掘削者の二番目の交代組が地下にもぐり、門限の直前まで作業した。この作業は三交代制だった。各作業員は6人だった。
 立坑と三つの部屋を掘るために3つのトンネルから、それぞれ12トンずつの砂が出た。さらに、トンネルを3フィート掘るたびに1トンの砂が出た。これを「ペンギン」となって、散布場所までもっていく。
この脱走プロジェクトに何らかの役割で参加していた600人のうち500人が脱走への参加を希望したが、定員は200人だった。最初の30人は、ドイツ語を自由に話せるなど、脱走成功が高いと脱走委員会が認定した人たち。残りは、さまざまな投票によって決められた。
 「みんなを国に帰すだけが目的じゃない。ドイツ兵のとんまどもの顔に泥をぬるうことにもなるし、脱走兵の捜索にドイツ軍の兵力を使わせることにもなるんだ」
 実際にトンネルから脱走したのは76人だった。それでも大戦中の脱走としては最大規模のものとなった。そして、大半のものが捕まり、銃殺された。それでも、3人の航空兵はイギリスに帰還することができた。
33歳で生涯を閉じたビッグXの壮絶な人生を知ることができました。
(2014年2月刊。924円+税)

 明日(13日)の土曜日は、午後2時から福岡市民会館(大ホール)で、弁護士会主催の安保法制に反対する市民集会とパレードが企画されています。雨は降らないようですので、ぜひ近くの方はお出かけください。
 それにしても、安倍政権の暴走ぶりはひどいものです。3人の憲法学者が国会で一致して違憲と明言したのは当然ですが、これを安倍政権は無視して強行採決にもち込もうとしています。こんな憲法違反は許せません。

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