弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

ヨーロッパ

2015年6月27日

革命前夜

                               (霧山昴)
著者  須賀 しのぶ 、 出版  文芸春秋

 冷戦下のドイツが舞台です。
 いったい、誰を信用していいのか。誰は信頼できるのか、疑心暗鬼になってしまいます。主人公は、ドレスデンの音楽大学でピアノを学ぶ日本人留学生です。
 私は、久しくコンサートに行ったことはありませんし、自宅でクラシック音楽を聞くことも滅多にありませんので、バッハ平均律に深い思い入れをもつと紹介されても、さっぱり何のことやら分かりません。
 そこへ、ベトナムや北朝鮮からの留学生が登場し、ハンガリーからの留学生もいます。
 ヴァイオリン、オルガン、ピアノの奏者たちです。
 音楽のことは、正直いってよく分かりませんが、その雰囲気はよく描写されていると思います。なんとなく、オーケストラや室内音奏団のかなでる音楽を聞いている気分になってくるのが不思議です。
 でも、話のほうはシビアです。東ドイツが崩壊する前、ベルリンの壁が健在だったのに、それが、今にもこわれてしまいそうになっていく様子が小説としてよくとらえられています。
(2015年3月刊。1850円+税)

2015年6月18日

アウシュヴィッツを志願した男

                              (霧山昴)
著者  小林 公二 、 出版  講談社

 アウシュヴィッツ収容所に自らすすんで入り、そこを脱走したポーランド軍大尉がいたなんて、信じられません。そんなこと、まったく知りませんでした。
 そして、収容所内で抵抗組織をつくりあげ、脱走に成功してからもナチス・ドイツ軍と戦ったのです。ところが、戦争後、ポーランドがソ連の支配下にあるなかで、今度はポーランド政府から反逆罪で死刑を宣告され、銃殺されて歴史から抹殺されたのでした。幸い、今は名誉を回復しているのですが、その子どもたちは苦難の戦後を歩かされたのです。いやはや、本当に歴史の現実は苛酷です。
 アウシュヴィッツ収容所に1940年9月21日、自ら志願して潜入し、あげく948日後の1943年4月27日、脱走に成功したポーランド軍大尉がいた。ヴィトルト・ピレツキという生粋のポーランド人である。3年近くもアウシュヴッツ収容所で生活していたピレツキは、その収容所内の様子を生々しく語っている。
 収容所には、家族からの送金も認められていて、それは月30マルクだった。あとでは40マルク。収容所内には売店があり、タバコ、サッカリン、マスタード、ピクルスなども買うことができた。家族からの小包は衣料品ははじめから認められていたが、食料小包も1942年のクリスマス以後は解禁されていた。そうだったんですね・・・。
 はじめ、アウシュヴィッツ収容所はポーランド軍捕虜の収容所だった。そこで、収容所内の実態を探るために、誰かが潜り込む必要があるということになり、マッチ棒を使って、くじ引きで人選が決まった。それを引き当てたのがピレツキだった。
 ナチスは、知識人を毛嫌いした。だから、収容者が教師だとか弁護士だと名乗ったら、死へ直行させられた。カンボジアでも、そうでしたね・・・。
 手先の器用なピレツキは、木工職人と自称した。1940年9月当時は、ユダヤ人はアウシュヴィッツに送り込まれていなかった。
 収容者をふくめて収容所を実際的に管理していたのは、実は収容者自身だった、常時10万人以上の収容者を管理・行政部門をふくめて8000人のSS(ナチス・ドイツ)でコントロールするのは不可能だった。もちろん、管理体制のピラミッドの上部にSSが君臨していた。
 ピレツキがアウシュヴィッツ収容所に潜入した目的は四つ。
第一に、収容所内に地下組織をつくること。
 第二に、収容所内の情報をワルシャワにある抵抗勢力(ZWZ)司令部に届けること。
 第三に、収容所内の不足物資を外から調達すること。
 第四に、ロンドンのポーランド亡命政府を通じてイギリス政府を動かし、アウシュヴィッツを解放すること。
 強制収容所で生き残ろうと思えば、いい人間なら友人になること。どんな親切も受けとり、そして、それを次の機会に返すこと。利己主義では、命をつなぐことができない。利己主義にこり固まった収容者は、間違いなく死んだ。相互の友情の絆ができれば、互いに助けあい、生きる確立は格段に高まる。
収容所の家族から送られてくる小包は、1人週5キロまで1個と決められていた。大きいものは没収され、250キログラムまでだと、個数制限がなかった。食料に関しては月1個だった。昼夜交代24時間体制で「小包班」の収容者が分別作業にあたった。死亡した収容者あての小包は生きている仲間へと名札をつけ換えられて渡された。
 ピレツキの地下組織は脱走を禁じていた。脱走者が出たら、10人が連帯責任で殺されたから。コルベ神父の死も、脱走者の身代わりだった。
 収容所の所長であるヘスは家庭では子煩悩だった。殺して奪った子どもの着ていた上等な服を我が家に持って帰り、子どもたちを喜ばせた。
 こうなると、人間の残酷な心理の奥深さに、ぞぞっとしてきますよね・・・。
 アウシュヴィッツ収容所から802人が脱走し、300人が成功した。なかには、所長ヘスの車を奪って、SSの制服を着用した四人組が成功したというのもある。1942年6月29日のこと。
 ピレツキの場合には1943年4月に脱走に成功した。小包部門から、パン工房に移ってからの脱走だった。
 ピレツキはナチス・ドイツ軍に対するワルシャワ蜂起に参加します。敗北した蜂起ですが、生き延びることができました。そして、ナチス、ドイツが敗北したあと、ソ連軍の占領下のポーランドで、今度は国家叛逆罪で逮捕され、拷問にかけられ、裁判で死刑を宣告されるのです。死刑の執行は、1948年5月25日夜9時30分。
 ピレツキの名誉が回復されたのは、1990年10月1日のこと。なんと40年以上もたっていました。まだ、ピレツキの奥さんが存命していたのが救いです。二人の子どもは、今も生きているとのことです。
 知らないことって、本当に多いですよね。それにしても、ポーランドって、大変な歴史を背負っているのですね・・・。
(2015年5月刊。1700円+税)

2015年6月14日

『サウンド・オブ・ミュージック』の秘密

                               (霧山昴)
著者  瀬川 裕司 、 出版  平凡社新書

 映画『サウンド・オブ・ミュージック』をもう一度ぜひみてみたいと思わせる本です。
 この映画の出だしは素晴らしいですよね。森のあいだに平らな草原が開けている風景。そして木々に囲まれた平地に、小さな人影が見える。そして、ジュリー・アンドリュースが登場し、両手をあげて歌いはじめる。
 この本によると、ヘリコプターからカメラをまわして映像をとったそうですが、十数回もとり直しがあり、そのたびにプロペラの強風を受けてジェリーは、地面に倒れていたとのこと。
 たしかに、それだけの圧倒的な迫力がある冒頭シーンです。
 このとき、ジュリーは、白樺のなかで歌をうたう。ところが、この白樺は、映画のために一時的に植えられたものだった。歌詞にあわせるために・・・。
 小川が見え、ジュリーが小川に沿った走る場面がある。この小川も、映画制作スタッフが牧草地を掘り、シートを敷いて水を入れたもの。水の表面のさざ波も、人工的なもの。
 いやはや、映画人は細かいところまで苦労しているのですね・・・。
映画では少女のように見えるジュリーは、実年齢は28歳。モデルになった女性は21歳だった。
 ジュリーがギターをかかえて、丘の上にある広い草原で子どもたちと一緒に歌うシーンがある。実際の場所は、急斜面のなかの、そこだけが平らな場所になっているところに、カメラを低い位置にすえてとっている。まさしく映画の魔術だ。
 オーストラリア人は、映画『サウンド・オブ・ミュージック』を嫌っているそうです。というのは、映画のなかでうたわれる「エーデルワイス」という曲が、本当のオーストラリア愛唱歌ではないから。
 ジュリーは、実母が夫以外の男性との不倫によって生んだ娘だった。母が離婚した相手の義父からジュリーは性的虐待を受けていた。このことは本人が告白している。
 それでも、ジュリーの、圧倒的な歌唱力、演技力、そしてなにより愛らしさに、心底から惹かれてしまいます。
 トラップ一家は、実際には、鉄道でイタリアに行き、ロンドンからアメリカに行った。つまり、山ごえなどしていない。それでも、トラップ・ファミリーとしてアメリカでコンサート活動をしたのは事実でした。
 この映画の魅力を解説し、ロケ地に実際に行ってみるなど、映画の登場人物の紹介など、ワクワクさせられます。この本を読んで映画をみると、面白さが倍増します。
(2014年12月刊。780円+税)

2015年6月12日

大脱走

                               (霧山昴)
著者  サイモン・ピアソン 、 出版  小学館文庫

 1963年の映画『大脱走』は、私の若いころにみた忘れられない映画の一つです。スティーブ・マックィーンの格好いいオートバイ姿を思い出します。
 この本は、3度目の大脱走を敢行したロジャー・ブッシェルの実像を紹介したものです。実話だったのですね。しかも、捕虜収容所からの3度目の脱走だったとは、驚いてしまいます。
 映画の主人公でもあるロジャー・ブッシェルは、イギリスの空軍少佐でしたが、イギリスの弁護士でもありました。
ロジャー・ブッシェルは、ケンブリッジ大学卒の法廷弁護士だった。ロジャーたちは、11ヶ月かけて、収容所から外へ通じる3つの地下トンネルを掘りあげた。
 このとき、200人の捕虜が脱走する計画だった。そのため、偽造パスポート、コンパス、地図、食料、民間人の服、ドイツ軍の軍服を身につけていた。
 ロジャーは、9カ国語を話せた。フランス語も、ドイツ語も得意だった。すごーい、ですね。
 イギリス軍では、脱走マインドが軍隊のなかに植えつけ、育てられていた。脱走は将兵の義務である。軍人は、捕虜となっても、現役の戦力であり続けるのだ。日本とは、大変な違いですね。
トンネルの立坑は、振動音を記録するマイク音を拾えない深さまで掘られ、寝台や羽目板からはずしてきた木の板を支柱にして、頑丈にし、電灯で照らされ、換気システムも取りつけられていた。
 掘削はチームでおこない、安全と思われたときだけ作業することになっていた。安全が最優先だった。
 トンネルは、三つ。三つあれば、一つが発見されても、残りの二つに頼ることが出来る。
 トンネルを照らすための電力は、建物の二重壁のあいだを通っているドイツ軍の配線を分岐させることによって得られた。リード線は、二重壁の中を通り、そのあと床下から立坑へと通っていた。昼は電気が止められ、その代わりにマーガリンに詰めたランプが使われた。それは1回に1時間だけ灯り、毎夜、点検のために携行された。
 立坑が完成してからは、作業は朝の点呼のあとに始まり、夕方の点呼の数分前まで続けられ、そのあとトンネル掘削者の二番目の交代組が地下にもぐり、門限の直前まで作業した。この作業は三交代制だった。各作業員は6人だった。
 立坑と三つの部屋を掘るために3つのトンネルから、それぞれ12トンずつの砂が出た。さらに、トンネルを3フィート掘るたびに1トンの砂が出た。これを「ペンギン」となって、散布場所までもっていく。
この脱走プロジェクトに何らかの役割で参加していた600人のうち500人が脱走への参加を希望したが、定員は200人だった。最初の30人は、ドイツ語を自由に話せるなど、脱走成功が高いと脱走委員会が認定した人たち。残りは、さまざまな投票によって決められた。
 「みんなを国に帰すだけが目的じゃない。ドイツ兵のとんまどもの顔に泥をぬるうことにもなるし、脱走兵の捜索にドイツ軍の兵力を使わせることにもなるんだ」
 実際にトンネルから脱走したのは76人だった。それでも大戦中の脱走としては最大規模のものとなった。そして、大半のものが捕まり、銃殺された。それでも、3人の航空兵はイギリスに帰還することができた。
33歳で生涯を閉じたビッグXの壮絶な人生を知ることができました。
(2014年2月刊。924円+税)

 明日(13日)の土曜日は、午後2時から福岡市民会館(大ホール)で、弁護士会主催の安保法制に反対する市民集会とパレードが企画されています。雨は降らないようですので、ぜひ近くの方はお出かけください。
 それにしても、安倍政権の暴走ぶりはひどいものです。3人の憲法学者が国会で一致して違憲と明言したのは当然ですが、これを安倍政権は無視して強行採決にもち込もうとしています。こんな憲法違反は許せません。

2015年6月 6日

エディット・ピアフという生き方

                              (霧山昴)
著者  山口 路子 、 出版  角川・新人物文庫

 映画『エディット・ピアフ、愛の賛歌』は、本当にいい映画でした。最後に歌われる歌は、日本語は「水に流して」ですが、ちょっと違います。「いいえ、私は後悔しない」です。
 私も50年近くフランス語を勉強していますので、相変わらずうまく話せませんが、聞く方だけは、それなりに出来るのです。ですから、つとめてフランス映画をみて、シャンソンを聞くようにしています。少しでも分かれば、とてもうれしいのです。
 ピアフの歌声は、少し暗い感じがします。私の一番好きなシャンソン歌手は、パトリシア・カースです。ニュー・アルバムが出ているのか知りませんので、以前のCDを繰り返し聞いています。
ピアフが亡くなったのは、1963年。47歳の若さだった。ペール・ラシェーズ基地にお墓がある。お葬式には万人以上のパリ市民が殺到し、パリ市内は大渋滞になったそうです。
 ピアフが死んだとき、借金だらけだった。最後の夫は、莫大な借金を相続した。
 ピアフは、とにかく愛し愛されている実感がほしかった。愛の実感がなければ、生きている実感が得られない。歌手には、聴衆、ファンの存在は不可欠だ。歌が命であるピアフにとって、聴衆はその命を育んでくれる存在だった。だから、ピアフは聴衆を大切にした。一つ一つの舞台に全力を投じるだけではない。彼らが喜ぶような人生を全力で生きた。
 恋に溺れ、破天荒な生活を送り、身体を壊し、傷つけば傷つくほどに、彼女が不幸を味わえば味わうほどに、ピアフの歌は凄みと切実さをまし、ファンはピアフへの愛情を募らせ熱狂し、その熱狂を受けてピアフは満たされた。
 ピアフの人生は凄絶だった。生い立ちも幼少時代も悲劇で、病気も多く、自動車事故に何度もあい、恋人を飛行機事故でうしない、アルコールや薬におぼれ、最後はまだ40代なのに老婆のような容貌になってしまった。それでも、そんな大変な人生なのに、ピアフは、「人生をやり直せるとしたら、もう一度、同じ人生を望む」と言った。
 ピアフの人生は品行方正ではないから、道徳の教科書にのることはないだろう。
 ピアフの歌も人生も、熱くて思いから、人生をただ軽やかに行きたいと願う人にとっては、少しうっとうしいかも知れない。
 私は、「水に流して」の歌声を聞くと、胸があつくなります。私も弁護士になったことを、ちっとも後悔していません。少しばかり、世のため、人のために生きてきたと思っているからです。
 エディット・ピアフの母親はストリート・シンガーで、当時20歳。父親は34歳の曲芸師。
 母親に捨てられ、ピアフは父親と友に町から町へと渡り歩いた。それでも、父親は、できる限り、娘(ピアフ)を学校に通わせた。
 ピアフ10歳のとき、父親が病気になった。ピアフは街頭で「ラ・マルセイエーズ」を歌った。
 それで、お金を稼ぐことができた。
 よほど、うまかったのでしょうね。すごいですね。録音したものがあれば(もちろん、そんなものはありませんが)、ぜひ聞いてみたいものです。
 ピアフの恋愛と歌はほとんどいつも一緒。だから、ピアフが歌った歌をたどれば、誰と恋愛関係にあったのかが分かる。
 ピアフによって才能を見出された男たちは、ピアフが次の恋に落ちても、彼女から去ることはなく、友人関係を続け、ピアフのためノンシャンソンを提要し続けた。だから、その人数は減ることはなく、増える一方だった。
 「シャンソンって、作り話なのよね。でも、聴衆には、それを実際の話のように思わせないといけないの」
 「信念をもつのよ。信念がないとダメ。聴衆を騙してはいけないの」
 いい本でした。またまたエディット・ピアフを聞きたくなります。
(2015年3月刊。750円+税)

2015年5月30日

フランソワ一世

                                 (霧山昴)
著者  ルネ・ゲルダン 、 出版  国書刊行会

 フランス語を毎日、毎朝、NHKラジオ講座を聴いて勉強しています。大学で第二外国語としてフランス語を選択しました。フランス料理を食べたい、フランス美人と親しくなりたいの二つが動機です。18歳のときでした。フランス料理の方は、メニューを読め、注文できるようになりましたが、フランス美人とは残念ながら、まったく縁がないまま今日に至っています。本当に残念です。それでも、めげずくじけず、40年以上フランス語を勉強しています。毎週土曜日の午前中はフランス人と会話し(相変わらず、うまく話せません)、自分で運転する車のなかではフランス語講座のCDかシャンソンを聴いています。頭の老化防止に語学は最適です。そして、年に2回はフランス語検定試験を受け、できないものの悲哀をたっぷり味わいます。仏検準一級には何回か合格しましたが、挑戦中の一級にはまるで歯が立ちません。それでもフランス語を勉強していると、世界が広がる楽しさがあります。つとめてフランス映画をみるようにしていますが、セリフが聞きとれて分かるときは、うれしいものです。
 そんなわけで、フランス・ルネサンスの王として有名なフランソワ一世の評伝を読みました。500頁もの大作ですので、骨が折れました。レオナルド・ダ・ヴィンチを招来したフランス王です。ドイツ皇帝カール五世と何度となくたたかった国王でもあります。
 フランソワ一世は、絶対王制の基礎を築き、宗教戦争の種をまいた。ルネサンス文化への道を開き、女性の地位を復権させた。16世紀前半である。
 1547年1月末、フランソワ一世は52歳の若さで亡くなった。梅毒ではなく、淋病による死と思われる。
 フランスは当時2000万人の人口を擁していた。18世紀のフランス大革命時には2500万人の人口だった。ヨーロッパでは群を抜いて人口の多い国だった。
 フランソワ一世の前国王はルイ12世。即位するには、同輩衆の同意が必要だった、封建制の王国なのである。
 フランスでは、ただ一人の人物(国王)の統治にしたがっている。スペインやドイツでは、封建的であって、直接税は当事者の合意がなければ徴収されなかった。そして、常に当事者は不平を鳴らした。
 フランスの貴族階級は、外国人からみて驚嘆するほど真の尊敬の念をもって国王を取り巻き、華やかに王の供をし、立派に王に仕えることだけに心を砕く。ところが、ドイツの諸侯にとって、カール皇帝は外国人であった。スペインの貴族階級も自分たちの特権に執着していた。尊大で、疑い深く、激しくやすく、古い偏見の持ち主だったので、王から延臣服を受けとるのを潔しとしなかった。おまけに地方主義者だったので、国王や皇帝の世界的な企てを渋々としか支援しなかった。うひゃあ、これは、かなり違いますね・・・。
フランソワ一世はドイツ皇帝カール五世とは何回も戦争します。負けて捕虜になったこともあります。
 戦争に明け暮れた国王ですが、部下の掌握は、今ひとつでしょうか・・・。
フランソワ一世は、活力旺盛で幸福な君主であり、いつでも笑うことのできる君主である。生きる喜びで、すべてを明るくする王なのだ。
 フランソワ一世は、いつでも陽気であり、だからといって威厳を少しも損なわなかった。
 食事のとき、ナイフはあったけれど、フォークはまだ普及していない。スプーンもほとんどつかわれていない。要するに、指で食べていた。
 16世紀のフランスについて実情を知ることができました。
(2014年12月刊。6000円+税)

2015年5月 7日

ベルリンに一人死す

                                (霧山昴)
著者  ハンス・ファラダ 、 出版  みすず書房

 ナチスドイツに抵抗したドイツの大学生たちは、白バラ・グループと呼ばれました。大学の内外でナチスへの抵抗を呼びかけたビラをまいたのです。ところが、そのビラを読んで決起した学生・市民はほとんどいませんでした。そして、大学生の兄妹は死刑となってギロチン台で処刑されてしまいました。
 戦後になって、その行為は高く評価されたわけですが、残念ながら、同時代のドイツ人を立ち上がらせることは出来ませんでした。
 この本の主人公は、一人息子をドイツ兵として戦死させてしまった中年の夫婦です。夫は、まだ現役の労働者でした。ヒトラーを批判し、反戦を呼びかけるハガキをベルリンの町のあちこちに置いていったのです。
 ところが、そのハガキを手にした人は、恐怖のあまりほとんどが警察へすぐに届け出てしまいます。その限りでは、反戦ハガキは何の効果もありませんでした。しかし、本当に効果がなかったのかどうかは、本書のような存在が証明していることになります。
 この小説のモデルとなった実在の人物は1940年から2年にわたって、公共の建物にナチスへの抵抗を呼びかける文章をハガキに書いてベルリンの町のあちこちに置いていった。
 ベルリン中からハガキが発見されたため、ゲシュタポ(ナチスの秘密警察)は、大がかりな地下組織の存在を疑っていた。実際には、夫婦二人だけの「犯行」だった。1942年に逮捕され、形だけの裁判で死刑判決を受け、1943年にギロチンで処刑された。
 あらゆる意味で平凡な一般市民の中に、こんな絶望的とも言える勇気をもった人々がいたことに驚かされる。
 でも、よく考えてみれば、ベルリン市内には戦後までユダヤ人を隠して守り抜いた人々が少なからずいたのです。守った人々も、普通の一般市民だったのです。
 ハガキを書いて町のあちこちに置いていたオットーは、政治的信条のためではなく、「まっとうな人間」でいるためにハガキを書いたのだ。本書に登場する人物のうち、ナチスへの抵抗を試みるのは、ほとんど全員が確固たる政治的信条をもたない平凡な人物ばかり。彼らは、ただ単に「まっとうな人間」でありたいという願いから、ナチスに抵抗し、迫害を受ける。その抵抗が何の役に立ったのかと問われたとき、オットーは次のように答えた。
 「自分のためになります。死の瞬間まで、自分はまっとうな人間として行動したのだと感じることができますからね。そして、ドイツ国民の役にも立ちます。聖書に書かれているとおり、正しき者ゆえに救われるだろうからです」
 この本は、1946年に出版されています。まさに終戦直後に書かれたのです。平凡なドイツ市民、はじめはヒトラー・ナチスを賛美していた夫婦がヒトラー批判のハガキを書いて町じゅうにばらまくようになるのです。その心理的変遷を行き詰まるタッチで描き出しています。
 600頁もの分厚い本です。そのうえ上下2段組です。戦時下のドイツ、首都ベルリンの行き詰まる市民生活が丹念に再現されていて、読ませます。
(2014年10月刊。780円+税)

 次のような詩があるそうです。

 批判ばかりされた子どもは、非難することを覚える
 殴られて大きくなった子どもは、力に頼ることを覚える
 笑いものにされた子どもは、もの言わずにいることを覚える
 皮肉にさらされた子どもは、醜い良心の持ち主となる
 しかし、激励を受けた子どもは、自信を覚える
 寛容に出会った子どもは、忍耐を覚える
 賞賛を受けた子どもは、評価することを覚える
 フェアプレーを経験した子どもは、公正を覚える
 友情を知る子どもは、親切を覚える
 安心を経験した子どもは、信頼を覚える
 かわいがられ抱きしめられた子どもは、世界中の愛情を感じることを覚える

 これはスウェーデンの中学校の教科書に載っているそうです。ドロシーロー・ノルトの「子ども」という詩です。長瀬文雄氏が紹介していました。弁護士生活40年以上となった私の実感にもぴったりあいます。やはり、人間同士も国同士も信頼しあうことが大切です。安倍政権のようなあちこちに「敵」をつくり、武力によって「敵」を抑えこもうというのではいけません。

2015年4月16日

ヒトラー・ランド

                               (霧山昴)
著者  アンドリュー・ナゴルスキ 、 出版  作品社

 ドイツにいたアメリカ人の見たヒトラーの印象が紹介されています。
「人を惹きつける力のある弁舌家で、組織をまとめあげる類いまれな能力に恵まれた人物だ」
 「キリスト教の使徒を思わせる熱心さと、説得力のある弁舌、人を惹きつける魅力に恵まれ、共産主義および社会主義団体の中枢からも支持者を引き寄せるなど、ヒトラーは指導者としてのあきらかな資質を持っている。ヒトラーが、いつの日か、バイエルン州の専制君主として名乗りをあげるという恐れもある」
 「とてつもない扇動政治家だ。あれほど論理的かつ狂信的な男の話は、めったに聞けたものではない。ヒトラーが民衆に与える影響ははかり知れない」
 ヒトラーは、議会も議会政治も廃止すべきだ。今日のドイツを議会が統治できるはずがない。独裁政治だけがドイツを再び立ち上がらせることができると主張する。
 他方、ヒトラーに対しては、次のような冷ややかな見方もありました。結局、間違ったわけですが・・・。
 「ドイツには、すぐれた知性がある。あんな、ごろつきに騙されやしないさ」
 そうなんです。日本人に比べて格別に「民度」の高いはずのドイツ人の圧倒的な多数が単なる「ごろつき」にころっと騙され、とんでもない蛮行を犯してしまったのです。そこから、今日の日本でも、安倍首相のとんでもない大嘘に騙されないようにという教訓を生かし、実行しないといけません。
 「ドイツは、一時的におかしくなっているだけ。誇り高いドイツ人が、あんな田舎者に我慢していられるはずがない」
 こう言っていたユダヤ人は、強制収容所で生命を落としてしまいました。安倍首相の悪だくみを黙過していると、大変なことになること、これに日本人はもっと真剣に自覚すべきだと思います。まさか、まさかが、自分たちの首を絞めてしまうのです。
 「ヒトラーは、労働者に向けてドイツ人の名誉と権利や新しい社会について、じつに説得力のある話をする男だ」
 「ヒトラーは、声や言い回しとその効果を自在にあやつる術に長けており、あんな芸当ができる人間は、ほかにいない。ヒトラーは、はじめ軽いおしゃべりのような調子で話しはじめた。やがて、本題に入るにつれ、その弁舌は鋭さを増していった。ヒトラーは、ユダヤ人が暴利をむさぼり、周囲の人間を惨めな状況に陥れていると糾弾した。
 目を釘付けにされたようにヒトラーを見つめる若い女性がいる。彼女らは、まるで宗教的な恍惚感に包まれているように、我を忘れている。
 被告人とされたヒトラーの法廷での話は、ユーモア、皮肉、情熱がこもっていた。きびきびと動く小柄な男で、新兵を訓練するドイツ軍の軍曹のようでもあり、ウィーンの百貨店の売り場の監督のようでもあった。
 「ヒトラーは、まるでコルクだ。国民感情という名の波があれば、やつは必ずその上にぷかぷかと浮かんでいる。ヒトラーほど大衆の心理をうまく嗅ぎ分け、それに対処できる人物はいない」
 「大衆をペテンにかける大がかりなゲームにおいて、ヒトラーは並ぶ者のいない達人だ」
 ヒトラーの統治を受け入れ、ヒトラーとその運動に完全な忠誠を誓わなかった者たちは、ただ消し去られただけではない。そんな人間は、もともと存在していなかったことにされる。
 レームらSA幹部に対する殺害は非常に大規模になされ、また犠牲者の背景がそれぞれことなっていたという事実は、ヒトラーとSSが、かつて敵対した者も全員を抹殺するつもりだということを示唆した。
ユダヤ人に対する凄まじいまでの暴力を誰も止めようとしなかった理由は二つ。一つは、ドイツは、このころ、ナチ党のやることであれば「何であれ信じる」ようになっていたから。もう一つは、怖くて何も言えなかったから。
 アメリカとドイツは、1935年に、お互いの士官訓練校の交換留学生を受け入れることを合意した。そして、この合意は実行された。
 ドイツが緒戦で立て続けに勝利とおさめたことで、それまでナチスに対して懐疑的だった人々までは、ナチスへの熱狂的な信者になっていった。
 同時代のアメリカ人のヒトラーに対する好意的、あるいは軽視する見方が紹介されて、興味深い内容がありました。
(2014年12月刊。2800円+税)

2015年4月 1日

第一次世界大戦


著者  マイケル・ハワード 、 出版  法政大学出版局

 1914年に始まり、1918年まで続いた第一次世界大戦は、最初の世界戦争ではない。ヨーロッパ諸国は、過去300年にわたって地球規模でずっと戦ってきたからだ。
 ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が生まれたことは、ドイツだけでなく世界全体にとっても不幸だった。ヴィルヘルム2世は当時のドイツ支配エリートを特徴づけた三つの属性をもっていた。古めかしい軍国主義、とてつもなく大きな野心、そして神経症的な不安感。
 ドイツの軍指導者たちは、戦争をするならば、早い方が好ましいと判断した。今ならロシアは1905年の日露戦争の敗北からまだ完全には回復しきれてはいない。むしろ、3年後だとロシアがフランスの資金を使って巨大な鉄道建設を完了させ、またロシアをまったく新しい軍事同盟国に変化させうる動員計画を完成させてしまうだろう。
 この当時、鉄道網と電信の発達があった。また、平時における一般徴兵制度の導入があった。さらに、長距離兵器の発達があった。
 日露戦争の教訓はヨーロッパ諸国で丹念に研究された。最新鋭の武器を整備し、死ぬことを恐れない兵士からなる軍隊であれば、勝利は可能だ。そして、スピードが勝利をもたらす。短期間で戦争に決着をつける唯一の方法は、攻撃すること。
 第一次世界大戦の勃発は、すべての交戦国の主要都市で熱狂的に迎えられた。いたるところで、人々は自分たちの政府を支持した。戦争は、甘ったるい都市生活がもはや与えることのない「男らしさ」を試すものとみなされた。
 イギリスとドイツにとって、戦争はもはや単なるパワーをめぐる伝統的な闘争ではなく。イデオロギー闘争の度を深めていった。
 6ヶ月で終わると一般的に予想されていた戦争は、1915年末時点で1年半も続き、すぐに終了するとは、もはやだれも思わなかった。
 そのような戦争の長期化を可能にしたのは何だったのか。ひとつは、すべての交戦国の国民の断続的な支持だった。
1916年末まで、アメリカのウィルソン大統領の主要な関心事は、アメリカを戦争から遠ざけておくことだった。
1918年、ドイツ軍最高司令部が断念したのは、西方からの脅威ではなかった。ドイツ国内の動きこそ、不安にさせるものだった。民衆が暴動とストライキを起こし、兵士が堂々と反乱していた。
 ドイツ国民は、自分たちの軍隊がいたるところで勝利していると信じていたからこそ、耐えきれないほどの困難に耐えていた。ところが、自分たちの軍隊が崩壊寸前の状態にあることを知り、政府に対する信頼は完全に消滅した。
戦場で何十万人もの将兵が死んでいく悲惨な戦争が起きたのです。
 戦争の始まりを民衆は熱狂的に支持しました。そして多大の犠牲を払わされたのでした。なぜ、かくも悲惨な戦争を人類は止められないのか、歴史に大いに学ぶことが必要です。
 1月1日の天皇の言葉も、同じことを指摘しています。第一次世界大戦の全体をざっと見ることのできる本でした。

(2014年9月刊。2800円+税)

2015年3月24日

フランスの肖像、歴史・政治・思想

著者  ミシェル・ヴィノック 、 出版  吉田書店

 フランスを知ると、日本という国もよく知ることが出来ます。
 フランス国民とは、まず時系列的には、長い政治的中央集権化の成果である。最初に国家があった。そこからすべてが出発した。封建制度化での分裂状況から、カペー王朝の辛抱強い努力によって、国家が形成されてきた。
 イル・ド・フランス地方の小さな領地から始まって、この王朝は代々やがてフランスになるべき土地を少しずつ領地に加えていった。そのために武器を用いて血を流し、また政略結婚も活用した。彼らの王杖のもとに服従した住民たちは、さまざまな言語を話し、その生活習慣も多様だった。徴税を通じて(しばしば反乱を起きたが)、地元の領主よりも上位に位置する君主の支配下にあることを知った。
 信心深き国王、これこそが「さまざまな人種」すべてを統合する第一の存在だった。国王は、あるいは愛され、あるいは憎まれ、また恐れられたが、いずれにせよフランス人の頭と心のなかでますます大きな位置を占めるようになった。国王は一人で国民を体現し、フランスを具現化する存在だった。
 フランス人同士は決して愛し合ってはいないが、フランス人はフランスを愛している。
 フランス人の5人のうち4人が、自分はカトリックだとしている(1988年までの世論調査の結果)。大多数のフランス人が自らをカトリック信者だとしつつも、神の存在については大きな疑問をもっている。
 フランスには、中央集権的機構に対して、二つの感情が存在している。一方は、やむことのない不平不満があり、他方には同様に際限のない国家に対する要求がある。
 フランス人は、国家が好きではないが、国家に対してすべてを求める。そして、官僚に対する警戒感と、その仲間に加わりたいという、アンビバレントな感情がある。
 フランスでは、まずストライキを決行し、それから交渉に入る。それは、フランスの労働組合に力があることを意味しない。組合の組織率はヨーロッパで最低レベル(10%未満)でしかない。
 フランスでは、対話の重要性は強調されるが、実際に対話しようとする人は、ほとんどいない。
 フランスでは、庶民はブルジョワをまね、ブルジョワは貴族を模倣する。
 歴史的な貴族は、3500家族40万人。このほか偽貴族が1万5000、貴族の作法をまねようとする平民が何千万人といる。
 革命の国であるにもかかわらず、いまもなお貴族階級が公的な性格を帯びている。爵位を戸籍、身分証明書、パスポートに記載することができる。
フランス人の王政のノスタルジーには、政治が汚いものだという認識と結びついている。
 シャルル・ド・ゴールは、エッフェル塔に似ている。建てられたときには、誰からも好かれなかった。しかし、今では高さ300メートルの塔のないパリなど考えられない。ド・ゴール将軍も同じだ。
知識人の任務は間違いなく存在する。それは、民主主義の擁護者であること。有機的かつ批判的に、民主主義の擁護者であること。民主主義は非常に脆弱で、未完成で改良の余地のある体制だが、これが唯一の人間的な体制なのである。知識人は民主主義を否定し、掘り崩し、打倒しようとする反対者に対抗して、その原理を再確認しなければならない。
 フランス人の学者による知的刺激にあふれた本です。このところ何年もフランスに行っていませんが、また行きたいと思わせる本でもありました。毎日のNHKフランス語と、毎週のフランス語レッスンは相変わらず続けています。ちっともうまく話せないのですが・・・。
(2014年3月刊。3200円+税)
 チューリップが一斉に花開きました。これから4月中旬までチューリップ祭りを楽しむことができます。そばに濃い赤紫色したクリスマスローズの花も今ごろ咲いています。よく見ると、今年も土筆(ツクシ)が立っています。日が長くなって、夕方6時半ころまで庭に出て、あちこち手入れをしていました。さすがにジョウビタキは現れませんでした。もう北国に帰っていったのでしょうね。私の個人ブログでチューリップの写真を楽しんでください。

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