弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

ヨーロッパ

2015年6月 6日

エディット・ピアフという生き方

                              (霧山昴)
著者  山口 路子 、 出版  角川・新人物文庫

 映画『エディット・ピアフ、愛の賛歌』は、本当にいい映画でした。最後に歌われる歌は、日本語は「水に流して」ですが、ちょっと違います。「いいえ、私は後悔しない」です。
 私も50年近くフランス語を勉強していますので、相変わらずうまく話せませんが、聞く方だけは、それなりに出来るのです。ですから、つとめてフランス映画をみて、シャンソンを聞くようにしています。少しでも分かれば、とてもうれしいのです。
 ピアフの歌声は、少し暗い感じがします。私の一番好きなシャンソン歌手は、パトリシア・カースです。ニュー・アルバムが出ているのか知りませんので、以前のCDを繰り返し聞いています。
ピアフが亡くなったのは、1963年。47歳の若さだった。ペール・ラシェーズ基地にお墓がある。お葬式には万人以上のパリ市民が殺到し、パリ市内は大渋滞になったそうです。
 ピアフが死んだとき、借金だらけだった。最後の夫は、莫大な借金を相続した。
 ピアフは、とにかく愛し愛されている実感がほしかった。愛の実感がなければ、生きている実感が得られない。歌手には、聴衆、ファンの存在は不可欠だ。歌が命であるピアフにとって、聴衆はその命を育んでくれる存在だった。だから、ピアフは聴衆を大切にした。一つ一つの舞台に全力を投じるだけではない。彼らが喜ぶような人生を全力で生きた。
 恋に溺れ、破天荒な生活を送り、身体を壊し、傷つけば傷つくほどに、彼女が不幸を味わえば味わうほどに、ピアフの歌は凄みと切実さをまし、ファンはピアフへの愛情を募らせ熱狂し、その熱狂を受けてピアフは満たされた。
 ピアフの人生は凄絶だった。生い立ちも幼少時代も悲劇で、病気も多く、自動車事故に何度もあい、恋人を飛行機事故でうしない、アルコールや薬におぼれ、最後はまだ40代なのに老婆のような容貌になってしまった。それでも、そんな大変な人生なのに、ピアフは、「人生をやり直せるとしたら、もう一度、同じ人生を望む」と言った。
 ピアフの人生は品行方正ではないから、道徳の教科書にのることはないだろう。
 ピアフの歌も人生も、熱くて思いから、人生をただ軽やかに行きたいと願う人にとっては、少しうっとうしいかも知れない。
 私は、「水に流して」の歌声を聞くと、胸があつくなります。私も弁護士になったことを、ちっとも後悔していません。少しばかり、世のため、人のために生きてきたと思っているからです。
 エディット・ピアフの母親はストリート・シンガーで、当時20歳。父親は34歳の曲芸師。
 母親に捨てられ、ピアフは父親と友に町から町へと渡り歩いた。それでも、父親は、できる限り、娘(ピアフ)を学校に通わせた。
 ピアフ10歳のとき、父親が病気になった。ピアフは街頭で「ラ・マルセイエーズ」を歌った。
 それで、お金を稼ぐことができた。
 よほど、うまかったのでしょうね。すごいですね。録音したものがあれば(もちろん、そんなものはありませんが)、ぜひ聞いてみたいものです。
 ピアフの恋愛と歌はほとんどいつも一緒。だから、ピアフが歌った歌をたどれば、誰と恋愛関係にあったのかが分かる。
 ピアフによって才能を見出された男たちは、ピアフが次の恋に落ちても、彼女から去ることはなく、友人関係を続け、ピアフのためノンシャンソンを提要し続けた。だから、その人数は減ることはなく、増える一方だった。
 「シャンソンって、作り話なのよね。でも、聴衆には、それを実際の話のように思わせないといけないの」
 「信念をもつのよ。信念がないとダメ。聴衆を騙してはいけないの」
 いい本でした。またまたエディット・ピアフを聞きたくなります。
(2015年3月刊。750円+税)

2015年5月30日

フランソワ一世

                                 (霧山昴)
著者  ルネ・ゲルダン 、 出版  国書刊行会

 フランス語を毎日、毎朝、NHKラジオ講座を聴いて勉強しています。大学で第二外国語としてフランス語を選択しました。フランス料理を食べたい、フランス美人と親しくなりたいの二つが動機です。18歳のときでした。フランス料理の方は、メニューを読め、注文できるようになりましたが、フランス美人とは残念ながら、まったく縁がないまま今日に至っています。本当に残念です。それでも、めげずくじけず、40年以上フランス語を勉強しています。毎週土曜日の午前中はフランス人と会話し(相変わらず、うまく話せません)、自分で運転する車のなかではフランス語講座のCDかシャンソンを聴いています。頭の老化防止に語学は最適です。そして、年に2回はフランス語検定試験を受け、できないものの悲哀をたっぷり味わいます。仏検準一級には何回か合格しましたが、挑戦中の一級にはまるで歯が立ちません。それでもフランス語を勉強していると、世界が広がる楽しさがあります。つとめてフランス映画をみるようにしていますが、セリフが聞きとれて分かるときは、うれしいものです。
 そんなわけで、フランス・ルネサンスの王として有名なフランソワ一世の評伝を読みました。500頁もの大作ですので、骨が折れました。レオナルド・ダ・ヴィンチを招来したフランス王です。ドイツ皇帝カール五世と何度となくたたかった国王でもあります。
 フランソワ一世は、絶対王制の基礎を築き、宗教戦争の種をまいた。ルネサンス文化への道を開き、女性の地位を復権させた。16世紀前半である。
 1547年1月末、フランソワ一世は52歳の若さで亡くなった。梅毒ではなく、淋病による死と思われる。
 フランスは当時2000万人の人口を擁していた。18世紀のフランス大革命時には2500万人の人口だった。ヨーロッパでは群を抜いて人口の多い国だった。
 フランソワ一世の前国王はルイ12世。即位するには、同輩衆の同意が必要だった、封建制の王国なのである。
 フランスでは、ただ一人の人物(国王)の統治にしたがっている。スペインやドイツでは、封建的であって、直接税は当事者の合意がなければ徴収されなかった。そして、常に当事者は不平を鳴らした。
 フランスの貴族階級は、外国人からみて驚嘆するほど真の尊敬の念をもって国王を取り巻き、華やかに王の供をし、立派に王に仕えることだけに心を砕く。ところが、ドイツの諸侯にとって、カール皇帝は外国人であった。スペインの貴族階級も自分たちの特権に執着していた。尊大で、疑い深く、激しくやすく、古い偏見の持ち主だったので、王から延臣服を受けとるのを潔しとしなかった。おまけに地方主義者だったので、国王や皇帝の世界的な企てを渋々としか支援しなかった。うひゃあ、これは、かなり違いますね・・・。
フランソワ一世はドイツ皇帝カール五世とは何回も戦争します。負けて捕虜になったこともあります。
 戦争に明け暮れた国王ですが、部下の掌握は、今ひとつでしょうか・・・。
フランソワ一世は、活力旺盛で幸福な君主であり、いつでも笑うことのできる君主である。生きる喜びで、すべてを明るくする王なのだ。
 フランソワ一世は、いつでも陽気であり、だからといって威厳を少しも損なわなかった。
 食事のとき、ナイフはあったけれど、フォークはまだ普及していない。スプーンもほとんどつかわれていない。要するに、指で食べていた。
 16世紀のフランスについて実情を知ることができました。
(2014年12月刊。6000円+税)

2015年5月 7日

ベルリンに一人死す

                                (霧山昴)
著者  ハンス・ファラダ 、 出版  みすず書房

 ナチスドイツに抵抗したドイツの大学生たちは、白バラ・グループと呼ばれました。大学の内外でナチスへの抵抗を呼びかけたビラをまいたのです。ところが、そのビラを読んで決起した学生・市民はほとんどいませんでした。そして、大学生の兄妹は死刑となってギロチン台で処刑されてしまいました。
 戦後になって、その行為は高く評価されたわけですが、残念ながら、同時代のドイツ人を立ち上がらせることは出来ませんでした。
 この本の主人公は、一人息子をドイツ兵として戦死させてしまった中年の夫婦です。夫は、まだ現役の労働者でした。ヒトラーを批判し、反戦を呼びかけるハガキをベルリンの町のあちこちに置いていったのです。
 ところが、そのハガキを手にした人は、恐怖のあまりほとんどが警察へすぐに届け出てしまいます。その限りでは、反戦ハガキは何の効果もありませんでした。しかし、本当に効果がなかったのかどうかは、本書のような存在が証明していることになります。
 この小説のモデルとなった実在の人物は1940年から2年にわたって、公共の建物にナチスへの抵抗を呼びかける文章をハガキに書いてベルリンの町のあちこちに置いていった。
 ベルリン中からハガキが発見されたため、ゲシュタポ(ナチスの秘密警察)は、大がかりな地下組織の存在を疑っていた。実際には、夫婦二人だけの「犯行」だった。1942年に逮捕され、形だけの裁判で死刑判決を受け、1943年にギロチンで処刑された。
 あらゆる意味で平凡な一般市民の中に、こんな絶望的とも言える勇気をもった人々がいたことに驚かされる。
 でも、よく考えてみれば、ベルリン市内には戦後までユダヤ人を隠して守り抜いた人々が少なからずいたのです。守った人々も、普通の一般市民だったのです。
 ハガキを書いて町のあちこちに置いていたオットーは、政治的信条のためではなく、「まっとうな人間」でいるためにハガキを書いたのだ。本書に登場する人物のうち、ナチスへの抵抗を試みるのは、ほとんど全員が確固たる政治的信条をもたない平凡な人物ばかり。彼らは、ただ単に「まっとうな人間」でありたいという願いから、ナチスに抵抗し、迫害を受ける。その抵抗が何の役に立ったのかと問われたとき、オットーは次のように答えた。
 「自分のためになります。死の瞬間まで、自分はまっとうな人間として行動したのだと感じることができますからね。そして、ドイツ国民の役にも立ちます。聖書に書かれているとおり、正しき者ゆえに救われるだろうからです」
 この本は、1946年に出版されています。まさに終戦直後に書かれたのです。平凡なドイツ市民、はじめはヒトラー・ナチスを賛美していた夫婦がヒトラー批判のハガキを書いて町じゅうにばらまくようになるのです。その心理的変遷を行き詰まるタッチで描き出しています。
 600頁もの分厚い本です。そのうえ上下2段組です。戦時下のドイツ、首都ベルリンの行き詰まる市民生活が丹念に再現されていて、読ませます。
(2014年10月刊。780円+税)

 次のような詩があるそうです。

 批判ばかりされた子どもは、非難することを覚える
 殴られて大きくなった子どもは、力に頼ることを覚える
 笑いものにされた子どもは、もの言わずにいることを覚える
 皮肉にさらされた子どもは、醜い良心の持ち主となる
 しかし、激励を受けた子どもは、自信を覚える
 寛容に出会った子どもは、忍耐を覚える
 賞賛を受けた子どもは、評価することを覚える
 フェアプレーを経験した子どもは、公正を覚える
 友情を知る子どもは、親切を覚える
 安心を経験した子どもは、信頼を覚える
 かわいがられ抱きしめられた子どもは、世界中の愛情を感じることを覚える

 これはスウェーデンの中学校の教科書に載っているそうです。ドロシーロー・ノルトの「子ども」という詩です。長瀬文雄氏が紹介していました。弁護士生活40年以上となった私の実感にもぴったりあいます。やはり、人間同士も国同士も信頼しあうことが大切です。安倍政権のようなあちこちに「敵」をつくり、武力によって「敵」を抑えこもうというのではいけません。

2015年4月16日

ヒトラー・ランド

                               (霧山昴)
著者  アンドリュー・ナゴルスキ 、 出版  作品社

 ドイツにいたアメリカ人の見たヒトラーの印象が紹介されています。
「人を惹きつける力のある弁舌家で、組織をまとめあげる類いまれな能力に恵まれた人物だ」
 「キリスト教の使徒を思わせる熱心さと、説得力のある弁舌、人を惹きつける魅力に恵まれ、共産主義および社会主義団体の中枢からも支持者を引き寄せるなど、ヒトラーは指導者としてのあきらかな資質を持っている。ヒトラーが、いつの日か、バイエルン州の専制君主として名乗りをあげるという恐れもある」
 「とてつもない扇動政治家だ。あれほど論理的かつ狂信的な男の話は、めったに聞けたものではない。ヒトラーが民衆に与える影響ははかり知れない」
 ヒトラーは、議会も議会政治も廃止すべきだ。今日のドイツを議会が統治できるはずがない。独裁政治だけがドイツを再び立ち上がらせることができると主張する。
 他方、ヒトラーに対しては、次のような冷ややかな見方もありました。結局、間違ったわけですが・・・。
 「ドイツには、すぐれた知性がある。あんな、ごろつきに騙されやしないさ」
 そうなんです。日本人に比べて格別に「民度」の高いはずのドイツ人の圧倒的な多数が単なる「ごろつき」にころっと騙され、とんでもない蛮行を犯してしまったのです。そこから、今日の日本でも、安倍首相のとんでもない大嘘に騙されないようにという教訓を生かし、実行しないといけません。
 「ドイツは、一時的におかしくなっているだけ。誇り高いドイツ人が、あんな田舎者に我慢していられるはずがない」
 こう言っていたユダヤ人は、強制収容所で生命を落としてしまいました。安倍首相の悪だくみを黙過していると、大変なことになること、これに日本人はもっと真剣に自覚すべきだと思います。まさか、まさかが、自分たちの首を絞めてしまうのです。
 「ヒトラーは、労働者に向けてドイツ人の名誉と権利や新しい社会について、じつに説得力のある話をする男だ」
 「ヒトラーは、声や言い回しとその効果を自在にあやつる術に長けており、あんな芸当ができる人間は、ほかにいない。ヒトラーは、はじめ軽いおしゃべりのような調子で話しはじめた。やがて、本題に入るにつれ、その弁舌は鋭さを増していった。ヒトラーは、ユダヤ人が暴利をむさぼり、周囲の人間を惨めな状況に陥れていると糾弾した。
 目を釘付けにされたようにヒトラーを見つめる若い女性がいる。彼女らは、まるで宗教的な恍惚感に包まれているように、我を忘れている。
 被告人とされたヒトラーの法廷での話は、ユーモア、皮肉、情熱がこもっていた。きびきびと動く小柄な男で、新兵を訓練するドイツ軍の軍曹のようでもあり、ウィーンの百貨店の売り場の監督のようでもあった。
 「ヒトラーは、まるでコルクだ。国民感情という名の波があれば、やつは必ずその上にぷかぷかと浮かんでいる。ヒトラーほど大衆の心理をうまく嗅ぎ分け、それに対処できる人物はいない」
 「大衆をペテンにかける大がかりなゲームにおいて、ヒトラーは並ぶ者のいない達人だ」
 ヒトラーの統治を受け入れ、ヒトラーとその運動に完全な忠誠を誓わなかった者たちは、ただ消し去られただけではない。そんな人間は、もともと存在していなかったことにされる。
 レームらSA幹部に対する殺害は非常に大規模になされ、また犠牲者の背景がそれぞれことなっていたという事実は、ヒトラーとSSが、かつて敵対した者も全員を抹殺するつもりだということを示唆した。
ユダヤ人に対する凄まじいまでの暴力を誰も止めようとしなかった理由は二つ。一つは、ドイツは、このころ、ナチ党のやることであれば「何であれ信じる」ようになっていたから。もう一つは、怖くて何も言えなかったから。
 アメリカとドイツは、1935年に、お互いの士官訓練校の交換留学生を受け入れることを合意した。そして、この合意は実行された。
 ドイツが緒戦で立て続けに勝利とおさめたことで、それまでナチスに対して懐疑的だった人々までは、ナチスへの熱狂的な信者になっていった。
 同時代のアメリカ人のヒトラーに対する好意的、あるいは軽視する見方が紹介されて、興味深い内容がありました。
(2014年12月刊。2800円+税)

2015年4月 1日

第一次世界大戦


著者  マイケル・ハワード 、 出版  法政大学出版局

 1914年に始まり、1918年まで続いた第一次世界大戦は、最初の世界戦争ではない。ヨーロッパ諸国は、過去300年にわたって地球規模でずっと戦ってきたからだ。
 ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が生まれたことは、ドイツだけでなく世界全体にとっても不幸だった。ヴィルヘルム2世は当時のドイツ支配エリートを特徴づけた三つの属性をもっていた。古めかしい軍国主義、とてつもなく大きな野心、そして神経症的な不安感。
 ドイツの軍指導者たちは、戦争をするならば、早い方が好ましいと判断した。今ならロシアは1905年の日露戦争の敗北からまだ完全には回復しきれてはいない。むしろ、3年後だとロシアがフランスの資金を使って巨大な鉄道建設を完了させ、またロシアをまったく新しい軍事同盟国に変化させうる動員計画を完成させてしまうだろう。
 この当時、鉄道網と電信の発達があった。また、平時における一般徴兵制度の導入があった。さらに、長距離兵器の発達があった。
 日露戦争の教訓はヨーロッパ諸国で丹念に研究された。最新鋭の武器を整備し、死ぬことを恐れない兵士からなる軍隊であれば、勝利は可能だ。そして、スピードが勝利をもたらす。短期間で戦争に決着をつける唯一の方法は、攻撃すること。
 第一次世界大戦の勃発は、すべての交戦国の主要都市で熱狂的に迎えられた。いたるところで、人々は自分たちの政府を支持した。戦争は、甘ったるい都市生活がもはや与えることのない「男らしさ」を試すものとみなされた。
 イギリスとドイツにとって、戦争はもはや単なるパワーをめぐる伝統的な闘争ではなく。イデオロギー闘争の度を深めていった。
 6ヶ月で終わると一般的に予想されていた戦争は、1915年末時点で1年半も続き、すぐに終了するとは、もはやだれも思わなかった。
 そのような戦争の長期化を可能にしたのは何だったのか。ひとつは、すべての交戦国の国民の断続的な支持だった。
1916年末まで、アメリカのウィルソン大統領の主要な関心事は、アメリカを戦争から遠ざけておくことだった。
1918年、ドイツ軍最高司令部が断念したのは、西方からの脅威ではなかった。ドイツ国内の動きこそ、不安にさせるものだった。民衆が暴動とストライキを起こし、兵士が堂々と反乱していた。
 ドイツ国民は、自分たちの軍隊がいたるところで勝利していると信じていたからこそ、耐えきれないほどの困難に耐えていた。ところが、自分たちの軍隊が崩壊寸前の状態にあることを知り、政府に対する信頼は完全に消滅した。
戦場で何十万人もの将兵が死んでいく悲惨な戦争が起きたのです。
 戦争の始まりを民衆は熱狂的に支持しました。そして多大の犠牲を払わされたのでした。なぜ、かくも悲惨な戦争を人類は止められないのか、歴史に大いに学ぶことが必要です。
 1月1日の天皇の言葉も、同じことを指摘しています。第一次世界大戦の全体をざっと見ることのできる本でした。

(2014年9月刊。2800円+税)

2015年3月24日

フランスの肖像、歴史・政治・思想

著者  ミシェル・ヴィノック 、 出版  吉田書店

 フランスを知ると、日本という国もよく知ることが出来ます。
 フランス国民とは、まず時系列的には、長い政治的中央集権化の成果である。最初に国家があった。そこからすべてが出発した。封建制度化での分裂状況から、カペー王朝の辛抱強い努力によって、国家が形成されてきた。
 イル・ド・フランス地方の小さな領地から始まって、この王朝は代々やがてフランスになるべき土地を少しずつ領地に加えていった。そのために武器を用いて血を流し、また政略結婚も活用した。彼らの王杖のもとに服従した住民たちは、さまざまな言語を話し、その生活習慣も多様だった。徴税を通じて(しばしば反乱を起きたが)、地元の領主よりも上位に位置する君主の支配下にあることを知った。
 信心深き国王、これこそが「さまざまな人種」すべてを統合する第一の存在だった。国王は、あるいは愛され、あるいは憎まれ、また恐れられたが、いずれにせよフランス人の頭と心のなかでますます大きな位置を占めるようになった。国王は一人で国民を体現し、フランスを具現化する存在だった。
 フランス人同士は決して愛し合ってはいないが、フランス人はフランスを愛している。
 フランス人の5人のうち4人が、自分はカトリックだとしている(1988年までの世論調査の結果)。大多数のフランス人が自らをカトリック信者だとしつつも、神の存在については大きな疑問をもっている。
 フランスには、中央集権的機構に対して、二つの感情が存在している。一方は、やむことのない不平不満があり、他方には同様に際限のない国家に対する要求がある。
 フランス人は、国家が好きではないが、国家に対してすべてを求める。そして、官僚に対する警戒感と、その仲間に加わりたいという、アンビバレントな感情がある。
 フランスでは、まずストライキを決行し、それから交渉に入る。それは、フランスの労働組合に力があることを意味しない。組合の組織率はヨーロッパで最低レベル(10%未満)でしかない。
 フランスでは、対話の重要性は強調されるが、実際に対話しようとする人は、ほとんどいない。
 フランスでは、庶民はブルジョワをまね、ブルジョワは貴族を模倣する。
 歴史的な貴族は、3500家族40万人。このほか偽貴族が1万5000、貴族の作法をまねようとする平民が何千万人といる。
 革命の国であるにもかかわらず、いまもなお貴族階級が公的な性格を帯びている。爵位を戸籍、身分証明書、パスポートに記載することができる。
フランス人の王政のノスタルジーには、政治が汚いものだという認識と結びついている。
 シャルル・ド・ゴールは、エッフェル塔に似ている。建てられたときには、誰からも好かれなかった。しかし、今では高さ300メートルの塔のないパリなど考えられない。ド・ゴール将軍も同じだ。
知識人の任務は間違いなく存在する。それは、民主主義の擁護者であること。有機的かつ批判的に、民主主義の擁護者であること。民主主義は非常に脆弱で、未完成で改良の余地のある体制だが、これが唯一の人間的な体制なのである。知識人は民主主義を否定し、掘り崩し、打倒しようとする反対者に対抗して、その原理を再確認しなければならない。
 フランス人の学者による知的刺激にあふれた本です。このところ何年もフランスに行っていませんが、また行きたいと思わせる本でもありました。毎日のNHKフランス語と、毎週のフランス語レッスンは相変わらず続けています。ちっともうまく話せないのですが・・・。
(2014年3月刊。3200円+税)
 チューリップが一斉に花開きました。これから4月中旬までチューリップ祭りを楽しむことができます。そばに濃い赤紫色したクリスマスローズの花も今ごろ咲いています。よく見ると、今年も土筆(ツクシ)が立っています。日が長くなって、夕方6時半ころまで庭に出て、あちこち手入れをしていました。さすがにジョウビタキは現れませんでした。もう北国に帰っていったのでしょうね。私の個人ブログでチューリップの写真を楽しんでください。

2015年3月 2日

1941年。パリの尋ね人


著者  パトリック・モディアノ 、 出版  作品社

 ノーベル文学賞を受賞したフランス人による本です。
 著者の父親はギリシャ系のユダヤ人ですが、ドイツ占領下のパリで、偽名をつかって闇ブローカーで生きていた謎多き人物でした。
 そして、この父親は息子(著者)や家族を迷惑視し、結局、捨ててしまったのです。母親は女優でしたが、旅に出ることも多く、子どもを放ったらかしにしようとしたのです。
 結局、著者と弟の二人は両親にかまってもらえず、友人宅に預けられたり、早々に寄宿学校に入れられてしまうのでした。このような不幸な親子関係の下で成長した著者は、孤独感、生のはかなさの意識の濃い作品を生み出していったのです。
 モディアノは、ドイツ軍占領下のユダヤ人弾圧という悲劇の責任の多くがフランス人側にあることを自覚し、これを小説の形で暴き出した。
 フランス人におけるゲシュタポ(ナチスの組織)といっても、ゲシュタポの組織で働いている怪しげなフランスが描かれた。4万人のフランス人がゲシュタポの下で働いていた。
戦後のフランスでは、復興のために必要だった国民の団結意識育成のため、フランス人はド・ゴールを先頭にしてレジスタンスで一致していたのだという神話が、神話と意識されながらも長く暗黙裡に受け入れられてきた。
フランス社会は、1970年代以降から、占領下におけるヴィシー政府の対独協力政策の解明に乗り出しており、ユダヤ人の絶滅収容所送りにフランス当局が積極的に参与した事実が明らかにされた。このことは、現在ではフランスの学校教育の現場でもはっきり教えられている。
 これって、日本の政府・文科省とはまるで違いますね。真実に向きあうことを自虐史観と決めつけ、真実に目を閉ざす教育を日本の学校当局は子どもたちに押しつけようとしています。とんでもないことです。
1941年12月31日付け「パリ・ソワール」という新聞に、15歳の少女、ドラ・ブリュデールを「尋ね人」として探しているという小さな案内広告が掲載された。ユダヤ人の少女である。
 著者は、このユダヤ人少女の行方を探しまわったのです。このドラ・ブリュデールは、ドランシー収容所に入れられ、1942月9月18日、アウシュヴィッツ向けの列車に乗せられた。父親と一緒だった。この1000人は9月20日、アウシュヴィッツ収容所に到着した。859人は直ちにガス室に送られた。1945年時点の生存者は21人だった。
 ドラの住んでいたパリの風景は、実は、今もほとんど当時のままです。これが、日本とはまったく違うところです。昔の景観を大切に残すのがフランス風です。日本では、ごく一部を除いて、みんな近代的に変えてしまいます。昔の景観を保存しようというのは、ごくごく一部でしかありません。
 このようにして、アウシュヴィッツに消えていった600万人の人々には、それぞれの人生があったことを想起することが出来るのは、本の力です。大切な本だと思いました。
「自虐史観」攻撃なんかに惑わされず、歴史としっかり向きあう勇気、そして、間違った歴史を克服する力を身につけたいものだと痛感します。
(2014年12月刊。1800円+税)
 アメリカ映画「アメリカン・スナイパー」をみてきました。イラクにおいてアメリカ軍が侵略軍でしかなかったことがよく分かる映画だと思いました。小さい子どもたちもアメリカ軍を敵とみなしているのです。
 イラクの人々を160人も殺した狙撃兵(スナイパー)は自らの心を深く傷つけてもいたのです。そして、同じように、この戦争の大義がどこにあるのか、多くのアメリカ兵が現地で疑問を持っていた様子がうかがえました。なにしろ、実際にやっていることは民衆を敵として兵器を向けた戦闘活動なのですから、疑問を感じるのも当然です。
 ベトナム侵略戦争のときも、最盛時50万人のアメリカ軍はベトナム民衆を敵としてたたかい、結局、惨敗してしまったのでした。
 やはり、武力だけで民衆を制圧、支配することはできないのです。
 前にみたデンマーク映画「アルマジロ」を思い出しました。出撃基地内に縮こまっている点がそっくりです。

2015年3月 1日

窓から逃げた100歳老人

著者  ヨナス・ヨナソン 、 出版  西村書店

 スウェーデン発の奇想天外なストーリーです。
この100年間に世界で何が起きているのかをおさらいすることのできる痛快本でもあります。ありえない、こんなこと絶対にありえない、なんて思っていたらダメなんです。ふむふむ、なるほど、そう来たか。では、この次はどんな展開になるのだろうか・・・。
 その発想の奇抜さには、何度となく腰を抜かしそうになりました。400頁の本ですが、私にしては珍しく、3時間もかけて読みふけってしまいました。
 話は100歳の老人の脱走劇に始まるのですが、このストーリーは、老人の青年時代の回顧談というか、世界の超有名人と交わって活躍する話が盛り込まれているので、面白いのです。
 スペインのフランコ将軍、アメリカではロスアラモスの原爆製造会議に参加して、トルーマン副大統領と仲良しになる。中国に渡ると、毛沢東夫人の江青の生命を助ける。
 イランでは、秘密警察に捕まって処刑される寸前にまでなってしまう。しかし、結局、ウィンストン・チャーチル首相の危機を救って、本人も無事に脱出できる。
 次には、ソ連に渡って、ベリヤやスターリンと一緒に食事をする。しかし、ついには、強制収容所に送られてしまう。そこを何とか脱出して、金日成と金正日に面会する。まあ、よくも、こんなストーリーを考えついたものです。
 一応の史実を下敷きにしていますので、次の展開を知りたくなって、ついつい読みすすめてしまったのでした。
 映画はみていませんが、スェーデン初の喜劇作品として読むと、気持ちが軽くなります。
(2014年10月刊。1500円+税)

2015年1月10日

ぼくはナチにさらわれた

著者  アロイズィ・トヴァルデッキ 、 出版  平凡社ライブラリー

 ポーランド人の子どもが、幼いうちにナチス・ドイツにさらわれて、ドイツ人の子どもとして育てられたのです。そして、そのことを成人してから知りました。いったい、その子どもはどうなるのでしょうか・・・。ヒトラー・ナチスは本当に罪深いことをしたものです。
 第二次大戦中、ドイツに占領されたポーランド西部の町でナチスによって、2歳から14歳までの少年少女が大勢さらわれた。青い目で金髪の子どもたちである。その数は20万人以上。
 著者も4歳の時に母親から引き離され、ドイツに連れ去られた。孤児院に入れられ、ドイツ人の名前をつけられ、子どものいないドイツの家庭にもらわれた。そして、ポーランド語も、母親のことも忘れ去った。
 ヒトラーが考え、ヒトラーが具体化させた「レーベンスボルン」という1936年に設立された秘密組織があった。「生命の泉」という意味で優秀な子どもを増やすための組織だった。表向きは、子どもと母親を守る社会福祉の「活動」をしていた。
 表の顔は二つあり、その一は、優秀なドイツを数多く、自然の出生を待たずに産ませること。大切なのは目の色と髪の色、そして、とりわけ頭の形。丸い頭のもなはまったくチャンスがなかった。
 ドイツ人の名前に変えるときには、できるだけ本名のほうがいい。新しい名前と前の名前とが似ているほうが子どもの記憶のなかで混合しやすいから。工夫のしようがないときには、新しいドイツ名は、できるだけ平凡な、どこにでもある名前にする。特徴的な名前を付けるのは厳禁された。
 「レーベンボルン」で生まれた子どもはエリートになるはず。果たして、そうなったのか・・・。
 戦後の調査では、そうはなっていなかった。知能でも体力でも後退が認められた。
 幼いときにドイツ語に無理やりに変わらされ、そのため思考に困難を生ずることがあった。
 また、大きくなって、本当は自分はドイツ人ではなかったと分かった子どもたちは、また母国語の勉強をし直した。だから、大学まで行けた子どもは少なかった。みな、心に深い傷を負っていた。
 4歳の子どもは、悲しみも早く癒え、忘れてしまう。それに大人は驚いてしまう。
 子どもは、速く言葉を覚え、速く忘れもする。 はじめに子どもに希望を与え、あとで残酷に断って、いいようのない絶望に突き落とすぐらいの野蛮なことはない。孤児院にいた子どもは、終生、愛への飢えを抱き続ける。
著者は高校生の年頃で、ポーランドに戻ったのですが、ドイツ人だった頭のなかをポーランド人に切り替えるのに実に苦労したようです。
 それでもポーランドの大学に入って勉強するのでした。そしてドイツ人の育ての親と再会するのです。思春期という、ただでさえ難しい年頃に、ドイツ人からポーランド人に戻るのは、本当に大変だったと思います。
 全遍が手紙で語る形式となっていて、その心理描写がよく出来ている手記です。
(2014年9月刊1400円+税)

2014年12月23日

おだまり、ローズ


著者  ロジーナ・ハリソン 、 出版  白水社

 イギリスの上流階級の生態がよく分かる本です。
 じつは、私の家にも若い女性がお手伝いとして同居していたことがあります。私が小学生のころです。小売酒店で、子どもが5人もいて(私は末っ子です)。ちっとも広くない家に住み込みの女性がいたなんて、今ではとても信じられません。要するに裕福ではない家にも、ほんの少しでも余裕があれば(実際には、そんな余裕というかスペースはなかったと思うのですが・・・)、かつては行儀見習いと口減らしを兼ねて住み込みで働く人がいたのです。
 同じように、ノリ作業のシーズンには長崎県の生月島から大量の出稼ぎ人が有明沿岸には住み込みで働いていました。もっとも、これは、後で聞いただけで、そんな光景を見たわけではありません。要するに、少し前、つまり50年も前の日本では、住み込みの奉公人というのは、ちっとも珍しいことではなかったのです。今では、そんな光景は、どこにも見あたりません(と、思いますが、どこか、まだありますか・・・?)。
 この本のオビには、「型破りな貴婦人と型破りなメイドの35年間」と書かれています。
 貴婦人は、イギリス初の女性国会議員です。もちろん、スーパーリッチ層で、お金の苦労などしたこともありません。それに仕えたプライドの高いメイドの語る体験記ですから、面白くないはずがありません。
 ふむふむ、そうなのかと、ついつい深くうなずきながら、往復の電車の2時間の車中で364ページの本を満足感に浸って読了しました。
 イギリスには厳然たる階級社会が今もあるようです(フランスにも・・・)。著者が仕えた家では、娘たちとも、あくまで主人とメイドの関係だった。友人ではなく、単なる知人でもなかった。
 上流階級では、子どもたちは、母親から目に見える形の愛情が与えられることはなかった。しかし、本当は、愛は目に見える形で子どもに与えられなくてはならないものだ。
 主人の家族とメイドとの間には、はっきりした境界線がある。自分の地位や期待されている役割、許される言動と許されない言動を正確に判別する必要があった。
 メイドは、真珠かビーズのネックレスは許容範囲内で、腕時計もかまわない。しかし、それ以外の装飾具をつけるのは、顰蹙を買う。化粧もしないほうがいいとされ、口紅をつけても、とがめられた。だから、外出中に、主人(奥様や娘も)とメイドとが主従を取り違えられることはなかった。
 レディー・アスターは、淑女ではなかった。ころりと気を変えて、メイドにも頭を切り換えることを要求する。メイドとして、1日18時間、年中無休で集中力を切らさずにいることを求められた。奥様は、イギリス初の国会議員として活動した。
 一度つかった服を洗濯せずに身につけることは決してしない。
 ボタンホールの花も、香りの高い花が、毎日、新しく届けられた。クチナシ、チューベローズ、マダガスカル・ジャスミン、スズラン、そしてラン。香りの高い花ばかり。
メイドとして物を言うと、返ってくるのは、「おだまり、ローズ」のひとことだけ・・・。
 奥様は感情が顔に出る。化粧はほとんどしない。香水はシャネルの五番のみ・・・。
メイドとしての著者にとって、睡眠は貴重なものだった。夜9時から朝6時までは、何があっても自分の時間として確保し、10時過ぎまでで起きることは、めったになかった。仕事をきちんとこなそうと思えば、心身ともに健康でなくてはならず、そのためには毎晩しっかり睡眠をとる必要があった。
イギリスの貴婦人は、丹那様は、はっちゅう替えるけれど、執事は絶対に替えない。
 奥様が旦那様と子どもを連れて旅行するときには、雌牛を1頭と牧夫を同行させた。子どもたちに飲ませる牛乳の質にこだわったからだ・・・。
これには、腰を抜かすほど驚いてしまいました。スーパーリッチって、そこまでするのですね・・・。
 よくぞ、ここまでことこまかく書いてくれたかと思うほど、詳細な上流階級の生態です。「私は見た」という家政婦の話以上に面白い本だと思いました。
(2014年10月刊。2400円+税)

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