弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

社会

2014年4月 3日

氷川下セツルメント史


著者  氷川下セツルメント編纂委員会 、 出版  エイデル研究所

 私は、大学1年生から3年余りセツルメント活動に全身全霊で打ち込んでいました。18歳から21歳までのことです。まさしく多感な学生時代というか、青春まっさかりのころでした。それだけ私を魅きつけるものがあったということです。
 1967年4月に18歳で上京し、意気高く大学生活を始めたものの、バラ色の学生生活が始まったなんていう気分ではありませんでした。それほど得意でもない英語の授業のレベルは高度すぎてついていけませんでした。なにしろ、ギリシャ悲劇がテキストなのです。高校までの英語とはレベルが違いすぎて、途方に暮れました。第2外国語として選択したフランス語も、初めこそ入門編でしたが、すぐに応用編になったのには驚きました。あまりの急テンポに、とまどうばかりだったのです。そして、法学概論の講義を大教室で受けましたが、教授は、はるか彼方の演壇です。いやはや、とんだところに来たものだと思いました。
 そのうえ、クラスでは、自家用車で登校してくる学生がいて、いかにも格好のいいブレザーを着こなしています。私といえば、詰め襟の学生服で入学したのです。学生気分で自家用車を運転するなんて、考えたこともありません。
 そんな私にとって、救いは6人部屋の寮生活でした。さすがに九州弁丸出しは出来ませんでした。関西弁は臆することなく丸出しです。東北弁はおずおずと話している感じでした。でも、みんな真面目でしたから、お互いの方言をけなすなんていうことはありませんでした。
 そんな屈折した思いに沈んでいるとき、私の目の前に出現したのがセツルメント・サークルだったのです。
 そこには、なにより生きのいい女の子があふれていました。まばゆいばかりの光を発散しています。たちまち私は、そのとりこになってしまいました。そして、司法試験の受験勉強を始めるまで、大学の授業そっちのけでセツルメント活動にいそしんだのでした。まさに、人生にとって大切なことはすべてセツルメントで学んだと言い切ることができます。それほど、ショッキングなサークル活動でした。正直いうと、今ではもっと大学で授業に出ていれば良かったと思うことが、実はあるのです。でも、かと言って、後悔しているわけではありません。
 セツルメントって、いったい何なのですか。このように問われると、実は、答えるのに窮するのです。
 セツルで何を学んだのか?
何も知らないことを・・・。これ以上の大きな収穫があるだろうか。
本当に、そうなのです。何でも知っているようで、実は何も知らないことをしっかり体験させてくれる場でした。自分という存在が、他人とは大きく異なることがあること、そして、それは親と地域の影響による違いが大きいことを認識させられました。それまで親に頼って生きてきたのに、その親を小馬鹿にしていた自分という人間の愚かさも認識させられました。さらに、物事の本質をしっかり認識するためには、自分自身が、自分の問題意識をもって変革しようと働きかけて、その結果の体験を経る必要があることも体得しました。じっと、受け身でいても、何も分からないのです。
 セツルメントが最盛期を迎えたのは、私が大学生のころではありません。実は、もっと後なのでした。
 1970年代には、全国に4000人というセツラーがいて、全セツ連大会には、1100人もの参加者があった。全セツ連には全国66のセツルが加盟していた。
 ところが、1980年代に入ると、セツルメント活動は、時代の変化に応じて急速に消滅してしまった。まさしく、時代の変化なのです。でも、どんな変化があったのか、十分に分析しきれているわけではありません。
 私は川崎セツルメント、幸区古市場にあったセツルメントです。そこで青年部に所属し、若者サークル(山彦)で活動していました。フォークダンスをしたり、キャンプをしたり、何という活動をしていたわけでもありません。でも、世の中の仕組みをじっくり考えさせられる契機とはなりました。ほかに、子ども会があり、栄養部や保健部、もちろん法律相談部もありました。
全国から1000人以上もの学生セツラーが年に2回集まって、交流する全セツ連大会は本当に活気あふれるものでした。新鮮な刺激を大いに受けたものです。語り明かすことが楽しい日々でした。そして、大いに歌もうたいました。音痴の私ですが、声をはりあげたものです。
 我妻栄や穂積重遠などの著名人たちが、戦前・戦後のセツルメント活動を支えてくれました。
 氷川下セツルメントの活動の歴史を通じて、日本史の一断面を知ることのできる貴重な歴史書になっています。セツルメント活動に関心のある人には、ぜひ読んでほしい本です。
(2014年3月刊。3500円+税)

2014年3月25日

マンション再生


著者  増永 理彦 、 出版  クリエイツかもがわ

 私は幸いにして庭付きの一戸建てに住んでいます。これまで、マンションに住んだことはありません。
 弁護士として、隣人とか、上や下の階の住人とのトラブルの相談を受けたことが何回もありましたので、マンション生活って、案外、大変なんだなと思っています。そして、マンションの管理組合の運営も大変そうです。
 この本は、老朽化したマンションを建て直すのか、修理・修繕でなんとかなるのかという切実な問題を扱っていて、とても実践的な、役に立つ本だと思いました。
 著者自身が私と同じ団塊世代なのですが、団塊世代は、もっとマンション再生のためにがんばるべきだと、強いエールを送っています。
 日本のマンションは590万戸、居住者は1450万人(2012年末)。全国の住宅総戸数と総人口の10%をこえる。とりわけ、東京・大阪ではマンションは住宅戸数の過半数を占めている。
 公共・民間の賃貸集合住宅までふくめると、全国の低・中・高層の集合住宅は2000万戸をこえ、4000万人以上の人が集合住宅に居住している。建設後30年以上の年月を経たマンションを「高経年マンション」と呼ぶ。全国に100万戸ある。
 マンション再生の一つとしての建て替えは、全国で129件、1万戸程度でしかない。これから、建設後30年をこえる高経年マンションは、毎年10万戸以上ずつ増えていく。
 15階以上ある超高層マンションは1980年代以降、急増している。2001年からは、年間3万戸以上が供給されている。日本のマンションの平均床面積は70㎡ほど。1970年ころまでは40~60㎡。1990年ころに60~80㎡、2000年には70~90㎡と拡大傾向にある。
 マンションにおける居住者の高齢化がすすんでいる。65歳代以上が25%、31%、39%と増えている。高経年マンションの居住者の半分が65歳以上である。マンションに永住したいという人が着実に増加しており、半分ほどになっている。
 もはや建て替え一辺倒ではなく、リニューアルを中心とする再生へ舵(かじ)を切らなければならない時代になっている。
 鉄筋コンクリート造(RC造)について、建築学会は、一般論としてRC造集合住宅の総合的耐久性について、大規模補修の不要期間を65~100年としている。100年もつのでしょうか・・・。
リニューアルだと、同じマンションに住み続けることができる。
 老後に、慣れない土地で、友だちもいないというのでは、寂しいですよね。
マンションの自治がどれだけ機能しているのかを見きわめるためには、自転車置き場の整理整頓状態をみるとよい。その状態を見れば、マンション居住者のマンションへの思いやりや、関わり具合が判明する。
 マンションを建て替えではなく、リニューアルによって、みんなで住み続けられるようにするためには、日頃の管理組合の運営や自治会のつきあいが大切のようです。
 とても参考になりました。
(2013年10月刊。1600円+税)

2014年3月22日

反原発へのいやがらせ全記録


著者  海渡 雄一 、 出版  明石書店

 事故から丸3年がたちましたが、今なお、福島第一原発事故は「収束」していないどころか、大量の放射能が空中に、海中に広く拡散し続けています。マスコミのとりあげ方が弱くなって、なんとなく「おさまっている」かのように錯覚させられているだけなのです。
 それにもかかわらず、政府は着々と原発再稼働に向けて手続を進めていますし、海外へ原発を輸出しようとしています。まさに、日本が「死の商人」になろうとしているのです。
 この本は、これまで原発にかかわる関連事業者などが、反原発運動を押さえ込むために、いかに卑劣な手口をつかって嫌がらせをしてきたか、具体的に暴いています。本当に貴重な記録集です。
 いやがらせの手紙は、集めただけでも4000通にのぼる。全体では、数十万の手紙が投函されたと考えられる。
 高木仁三郎氏など、著名な反原発の活動家について、本人の名をかたって、「死んだ」とか「逮捕された」と書いたり、反原発運動の内部に混乱をひき起こすような内容の書面を大量にばらまいた。
 また、子どもが公園で遊んでいる写真を同封し、「危害を加えるぞ」と脅すケースもあった。
 いやはや、なんとも卑劣です。
これらは、警察の公安か電力会社内の住民運動対策部局の追尾作業の「成果」と思われる。
 高木仁三郎氏は、道を歩いていて車にひかれそうになったり、高価な宝石が届いたり、その名前で下品な内容の手紙を出したり、集中的に狙われた。
 真夜中に無言電話がかかってきたり、集会に公安が潜り込んで参加者の顔写真をとったり、いろんなことが紹介されています。本当に許せない話ばかりです。
 著者の一人である中川亮弁護士が久留米の出身なので、贈呈を受けました。朝日新聞の記者だったこともある人です。元気にがんばっているようです。これからも、ぜひ大いに情報を発信してください。
(2014年1月刊。1000円+税)

2014年3月15日

国家のシロアリ

著者  福場 ひとみ 、 出版  小学館

 『週刊ポスト』で連載した記事を本にしたもののようです。
 復興予算と称して、まったく3.11復興とは関係ない人件費や公共工事に莫大な公金が費消されている事実を暴露し、糾弾しています。
 国会議事堂の改修費にも復興予算が投入されている。照明のLED化に1億2000万円。耐震補強のために7億円。中央合同庁舎4号館の改修のために12億円。
 19兆円という莫大な復興予算の大半が被災地とは無関係の事業に使われている。
 復活した自民党政権は、民主党政権よりもさらに大々的に復興、防災を名目として公共事業を推進している。
 復興予算書のなかには、法務省の検察運営費2500万円も入っている。
これにも、私は驚きました・・・。
 会計検査院の調査によると、被災者や復興のために必要と思われる予算の執行率は低く、せいぜい6割くらいなのに対して、復興と関係の薄いほうは100%に近い執行率だった。
そして、新聞・テレビそして雑誌にまで、「政府公報予算」として復興特需が流れていた。
これでは、「復興予算」の「流用」をマスメディアが取りあげるはずもありませんね・・・。
 この復興予算の流用を主導した犯人は民主党政権だった。そして、それを強く推進したのが自民党と公明党であり、深く加担した。さらに、その背後には流用を先導した官僚がいた。
 復興予算の流用のひどさを知り、むらむらと怒りが沸きあがってきました。
(2013年12月刊。1300円+税)

2014年3月 9日

混浴と日本史


著者  下川 耿史 、 出版  筑摩書房

 日本では混浴風景は当たり前のことでした。いえ、戦前の話ではありません。少し前のことですが、二日市温泉で旅館の内湯に入ると、脱衣場こそ男女別でしたが、湯舟は区別がありませんでした。残念ながら、私たち以外は誰もいませんでした・・・。
 40年前、司法試験受験のあと東北一人旅をしたとき、山上の露天風呂に入っていると、隣に女子校のワンゲル部員がどやどやと入ってきたので、あわてて湯から上がった記憶もあります。
 もっと前、私が小学校低学年のとき、大川の農村部にある親戚宅に毎年行っていましたが、そこは部落の共同風呂があり、夕方になると入っていました。そこも男女共同でした。家には五右衛門風呂がありましたが、みんなでワイワイ楽しそうに世間話をしながら入っていました。
 この本は、日本人にとって混浴というのが戦後にいたるまで、なじんだ風景であったことを写真とともに明らかにしています。
 『伊豆の踊子』(川端康成)や『しろばんば』(井上靖)にもその情景が描かれているそうです。すっかり忘れていました。
 ところが、実は、昔から当局は混浴を禁止しようとしていたのでした。
奈良から平安時代にかけても混浴が流行していました。奈良の街には坊さんが1万5000人、尼さんが1万人もいた。当時の奈良の人口が10万人と推定されているので、4人に1人は僧尼が占めていた。そして、朝廷は大和守・藤原園人を検察使として奈良に派遣した。藤原園人は混浴禁止令を発した(797年)。
 鎌倉時代に入り、有馬温泉には「湯女」(ゆな)というサービスガールが登場した。そして、源頼朝は「1万人施浴」を実施した(1192年)。うひゃ、知りませんでした。
 江戸時代の銭湯は混浴だった。江戸の女性の多くは田舎から出てきていたが、田舎では混浴があたりまえだったから、江戸の街でも男性との混浴に抵抗がなかった。
 明治になって、外国人が日本の混浴風景に驚いているのを知り、あわてた日本政府は混浴禁止令を出した。
老若男女は、まるで市場や街角で出会うように気兼ねなく挨拶する。初めて目にする外国人は、この驚くべき素朴さにびっくり仰天だったのです。
今も全国には混浴温泉は、実のところ、少なからずあるようです。
(2013年7月刊。1900円+税)

2014年3月 7日

基地で働く


著者  沖縄タイムス編集部 、 出版  沖縄タイムス社

 沖縄にある米軍基地は、かつてアメリカのベトナム侵略戦争の前線基地でした。また、米軍基地には、かつての731部隊のような化学兵器を扱う部隊だけでなく、核攻撃の部隊も常駐していました。
 この本は、そんな米軍基地で働いていた日本人従業員に取材し、その実態を暴いています。大変な労作だと思いました。
 沖縄の米軍基地で働く従業員数のピークは6万7800人(1952年)。
 明らかな人種差別があった。上からアメリカ人、フィリピン人、ジャパニーズ。一番下が琉球人。トイレも、琉球人だけが別だった。
 アメリカ軍の高等弁務官6人のなかで、キャラウェーは強烈だった。ありとあらゆる面で琉球政府に口出しした。
 1969年、ベトナム戦争が泥沼化していたとき,米軍は沖縄の大型クダボートをベトナムに派遣しようとした。全軍労(全沖縄軍労働組合)は、戦地への派遣反対闘争に取り組んだ。しかし、24人の日本人労働者をこっそりベトナムへ連れていった。3ヵ月後、全員が無事に日本へ帰ってきた。良かったですね・・・。
 アメリカ軍は,北部訓練場内にベトナムの現地集落を再現し、ベトコン(南ベトナム解放民族戦線)兵の制圧を想定した訓練をした。そのとき、日本人住民が現地人役として訓練に呼ばれ、中学生まで参加した。ベトナム人の代役をすると、大人は1日1ドルの日当がもらえた。
 知花弾薬庫には、267化学中隊という部隊があった。69年に毒ガスが漏れる事故が起きた。ベトナム戦のまっただ中、弾薬庫は24時間フル稼働した。倉庫に弾が入りきらず、道の両脇に弾薬箱をずらっと並べて、ほろをかけた。あれだけの弾をつかっても、アメリカはベトナムに負けた。
 ベトナム戦争が始まったころは、アメリカ兵は「正義の戦争だ」と自信満々、意気揚々としていた。しかし、1970年ころには、兵隊の目が暗かった。ベトナムでは、子どもさえ信用できない、怖い、と兵隊が言っていた。
 基地で働く人々は、沖縄戦を生きのびたのに、またまた人殺しの手伝いをしていていいのかという意識にさいなまれるようになった。
 復帰直前まで、沖縄の基地には核兵器が大量に貯蔵されていた。1960年代後半には、千数百発にのぼった。1967年1月、核地雷の操作訓練中に放射性物質がもれ、アメリカ兵1人が被爆した。
 アメリカ兵がPXで万引きするのは、捕まって刑務所に入れば、ベトナムに行かずにすむから・・・。アメリカ兵にとって安心なのは、沖縄と海の上だけだった。アメリカ兵はベトナム戦争に行く前は紳士的だけど、帰ってくると、人が変わったように乱暴な言葉づかいになった。
 人を殺しているから、普通の精神状態ではなかったのだろう。ベトナム戦争へ出撃が決まったパイロットの壮行会は、明日は死ぬ身だから浴びるほど飲んでめちゃくちゃになる。
 その多くが二度と戻って来なかった。翌日は死出の旅路だから、ホンモノの送別会だった・・・。
ベトナム戦争と結びつきの深かった沖縄の米軍基地の実際を、改めて知ることのできる貴重な本です。
(2013年11月刊。1905円+税)

2014年3月 5日

世界を動かす海賊


著者  竹田 いさみ 、 出版  ちくま新書

 古くはマラッカ海峡、そして今はソマリア沖の日本関連の船舶を守ることは大切です。
 しかし、だからといって、自衛隊を軍隊にして重武装し、それらの海へ派遣すべきだということにはなりません。そんなことで守られるのなら、アメリカ海軍が世界中にいるわけですから海賊なんていないはずなのです。
 海賊行為とは、国際法にしたがえば「公海」において、「私的目的」のために行う「他の船舶」に対する「暴力行為」や「略奪行為」を示す用語として明確に定義されている。
インド洋を航行する船舶は1ヵ月に4000隻、1年では5万隻にのぼる。日本関係の商船は、そのうち1割の5000隻とみられる。
 また、スエズ運河とアデン湾を航行する船舶は1年間で2万隻、日本関係は1割の2000隻ほど。武装して海賊の出没する海域で、これだけの民間商船が危険に直面している。そのため、大半の民間商船は、武装した海賊グループから身を守るため、MSCHOAと
UKMTOという二つの海洋安保保障のネットワークに登録し、情報交換を緊密にしている。
 海賊の発生件数は1991年の107件が2012年には297件と、3倍に増加した。
 ソマリア海賊は、チーム制を導入し、母船と小型ボートを組み合わせている。一つのチームの基本単位は3隻からなる。司令塔となる母船が1隻と、小型ボート2隻の3隻だ。一つの海賊チームには、10~20人の海賊で編成される。ソマリア社会の基本単位である血縁集団(クラン民族)ごとに編成される。
 ソマリア海賊は、ロシア・モデルの自動小銃とロケット砲を標準装備している。いまでは、中国のGPSと衛星電話を所持している。小型ボートは、ヤマハ発電機の船外機を2機設置している。
ソマリア海賊が獲得した身代金は1年間に1億ドル、100億円ほどと推定されている。そして、身代金としては、2008年以降に印刷された新券の米国100ドル紙幣が指定される。これは、北朝鮮が密造する米国ドルの偽造紙幣をつかまされないための用心でもある。この身代金のおかげで、ソマリアの集落には、トヨタのラドクルーザーが走り、レンガとセメント造りの1戸建て住宅が建設ラッシュとなり、衛星放送を受信できるパラボラアンテナが林立している。
 身代金の大半は、ドバイやケニアなどのソマリア周辺国から英国や欧州に還されているとみられている。
このソマリア海賊は、ソマリアのクラン(民族)社会が独自に創設したコーストガード(沿岸警備隊)の出身者とみられている。コーストガードの人材研修プログラムは、米英欧の大手民間セキュリティー企業によって担われたが、それによって養成された人間が海賊に変身していった可能性がある。
日本は海上自衛隊の護衛艦をアデン湾に派遣している。そして、アフリカのジプチに活動拠点を設置し、活動を続けている。そして、2011年3月11日、日本の海上保安官8人がソマリア沖の海賊を逮捕し、日本へ護送した。
このソマリア海賊の裁判は東京地裁でおこなわれていましたが、通訳の確保は大変だったようです。何しろ、ソマリア語の話せる人が、日本にそんなにいるとは思われませんから・・・。
 この本は、海賊処理の難しさを現場取材を通じて明らかにしています。関心のある人には必読の書だと思いました。
(2013年5月刊。760円+税)

2014年3月 4日

「在日特権」の虚構


著者  野間 易通 、 出版  河出書房新社

 「ウソも十分に繰り返せば、人は信じる」
 これはナチス・ドイツの宣伝相ゲッベルスの言葉。
たしかにデマ宣伝も繰り返していると、なんとなくもっともらしくなり、特定集団に負のイメージを定着させ、それを前提として物事がすすんでいくことになります。ですから、「在日特権」なるものの嘘は、徹底的に、しかも何度となく繰り返し暴いてしまうことが大切です。なんとなく人々の身体に嘘が染みついてしまわないようにする必要があります。
 憎悪を煽動する側は、その憎悪煽動そのものが目的であり、ときには楽しい趣味ですらあったりする。
「在特会」(在日特権を許さない市民の会)が問題としている「在日特権」とは、①特別永住資格、②朝鮮学校への補助金の交付、③生活保護の優遇、④通名制度、の四つ。
 宝島社と別冊宝島が、「在日特権」というコトバの流布に加担した責任は大きい。売らんかなで本をつくり、「在日特権」デマを利用して在日コリアン一般に対する憎悪を煽った主体である。うむむ、許せませんね、これって・・・。
 特別永住資格は、日本人より有利な権利をもつという意味ではない。日本人とほぼ変わらぬというだけのこと。
 終戦の時点で、在日朝鮮人や台湾人は日本国籍を有していた。なぜなら、朝鮮も台湾も「帝国日本」が領土として支配していたのだから。終戦によって、その資格や法的地位を他の外国人と同じに扱うことができるはずもない。このような歴史的経緯が立法に反映されるのも当然のこと。
 また、「在日」であっても犯罪をおかせば国外撤去になるし、その実例もあるのに、「在特会」は、「在日」は絶対に国外退去にならないなどという嘘を言いたてている。
 年金については、日本が国民年金に在日外国人を加えるようになったのは、1981年に難民条約を批准したことによる。1982年、国民年金から国籍条項が撤廃され、外国人も加入できるようになった。国民年金への加入が認められるまで、「在日」の多くは無年金で放置されていた。
 仮名口座の開設が違法になったのは、2003年に施行された口座の開設を禁じる本人確認法による。
 生活保護受給者のなかで外国人の占める割合は3%でしかない。そのうち「在日」は2%でしかない。
在日に「特権」があるかのように思い込んでいる人が残念ながら少ないようです。私たちは、きちんと事実を知り、デマを見抜く力を養わなければいけません。
 それにしても、「在特会」って、いじましい団体ですね。他人を蹴り落として何が楽しいのでしょうか・・・。本人たちが、きっと、現実の日本社会で大いなる疎外感を味わっているのでしょうね。そして、その本当の加害者を見抜くことなく、同じ「被害者」たる弱者同士でたたきあっているのです。本当に残念な状況です。
(2013年11月刊。1600円+税)

2014年3月 3日

ロング・グッバイのあとで

著者  瞳 みのる 、 出版  集英社

 ザ・タイガースは、私の青春時代と深く結びついています。
 4年間、ステージに立ってスポットライトを浴びていた著者が40年刊の沈黙を破って語った本です。読みながら、私の来し方も振り返ることのできた本でした。
 たくさん心に残ることが書かれていましたが、なんといっても、次のフレーズが最高です。
 自分たちの老化をあらゆる面で認めざるをえない年齢になって、なるほど僕らは団塊の世代なんだと思うようになった。
 同世代から元気をもらおう。そして、同世代に人に元気を返そう。そんな元気が僕らのなかにぐるぐると回り、それが上下の世代の刺激になって、もっと活気、元気、楽しみ、喜びにあふれた社会になれば、こんなに素晴らしいことはない。
 「団塊の世代と共に生きていくことが大事だよ。僕は団塊の世代から離れないよ」
 これはザ・フォーク・クルセイダーズの北山修の言葉です。本当に、そのとおりだと思います。
 私が大学生時代の学園闘争(東大闘争)の1年間を「小説」として再現した(『清冽の炎』1~7巻。花伝社)のも、そのつもりでした。とても残念なことに、ほとんど反響がなく、売れませんでした。でも、後悔はしていません。あの1968年当時の熱気をいつかは追体験してみたいと思う若者があらわれる。そのときには、私の本が必ず役に立つと確信しています。
著者は、ザ・タイガースの一員として脚光を浴びながら、さめた思いをしていたようです。だからこそ、きっぱり芸能界から足を洗ったわけです。
 僕はドラム演奏をしながら、青春の貴重な時間を売っているだけなのだと思うようになっていた。いつまでもアイドル路線を強いられ、いい年齢(とし)をして、いつまでも可愛い子路線の歌ばかりうたわされる。バラエティー番組にだされて、ふざけさせられる。だけど、やせても枯れてもミュージシャンなのだというほこりがあった。ベトナム戦争や時代や社会の流れに無関心ではいられなかった。
 著者は定時制高校生のとき、民青(日本共産党の青年組織のようなもの)に加入しています。ですから、社会に関心があったのも当然です。
 ザ・タイガースを解散し、芸能界を去る直前、1971年1月24日、有楽町のちゃんこ料理店で送別の宴が開かれ、著者も参加しています。私は、司法試験受験勉強の真最中です。当時の日記が残っていますが、1日中、私は勉強していました。
そして、著者は有楽町から京都へトラックで京都に戻っていたのです。1年間で貯めたお金1000万円を軍事資金として、大学受験勉強に打ち込むのでした。著者は見事に慶応大学に合格しています。えらいですね。
 当時の1000万円は、まさに大金です。私は、月3万円ほどで寮生活を過ごしていました。
 著者は、ザ・タイガース時代にフランス人の彼女がいたとのこと。フランス語が少し話せる私としては、かなわぬ夢を先に実現した著者を少しうらやましく思いました。
 とても赤裸々に自分を語っていて、ますます著者が好きになりました。本当に、いい本でした。ありがとうございます。
(2011年8月刊。1200円+税)
 きのうの日曜日、夜のうちに雨もやみ、朝からのやわらかい陽差しになってくれました。白梅にメジロが8羽、無心に花の蜜を吸っていました。愛敬たっぷりの小鳥です。
 庭のあちこちに黄水仙が咲いて、なんだか心が浮き浮きしてきます。チューリップもぐんぐん伸びています。もう少しで、ツボミになりそうです。
 花粉症さえなければ、春が一番好きな季節なのですが・・・。

2014年2月28日

天皇と葬儀


著者  井上 亮 、 出版  新潮選書

 今の天皇は、安倍首相とはまるで違って、本当に真剣に日本国憲法を忠実に実践しようとしています。その点について、私は深い感銘を受けています。ただし、だからといって、天皇制度なるものを私が支持しているわけではありません・・・・。
そして、自分が死んだら火葬にすると天皇が言ったのにも、好感がもてます。
 この本によると、過去の天皇に葬儀もさまざまなものがあったようです。
かつて天皇も火葬されていた。この400年間は土葬されていたが、それが復活するだけのこと。持統天皇から昭和天皇までの88人の天皇のうち、半数の44人は火葬されている。土葬が慣例となったのは江戸時代以降のこと。
天皇陵にしても、「墓はいらない」といって、陵をつくらせなかった天皇もいる。
天皇の葬儀については、中世から江戸時代末期までは、天皇家の菩提寺といえる泉涌寺(せんにゅうじ・京都市東山区)で、仏像が専業的に行っていた。
 昭和天皇の葬儀は、古代から連綿と続いてきた儀式でやられたというのはまったくの誤解である。それは、明治になって創られた儀式でしかない。
 日本の天皇が「万世一系」というのは、歴史的事実に反している。たとえば、継体天皇のとき、皇統は断絶し、新しい王朝がうちたてられたというのが定説。
今の天皇も、自分たちの先祖は朝鮮半島と近い関係にあったと言ったことがあります。たとえば、恒武天皇の生母(高野新笠)は、朝鮮半島からの渡来人でした。
 「日本書記」は、雄略天皇を「大悪天皇」としている。皇位継承のライバルである皇族や臣下などを残虐な方法で殺したから。
 火葬は仏教思想によもので、平安時代に始まる。淳和天皇は840年に55歳で亡くなったが、火葬のうえ、山中に散骨させた。これは、生前の本人の言葉に従ったもの。陵もつくられなかった。
 古代から日本の喪服は天皇をはじめとして白だった。ところが、白は神事の際に着用する神聖な色だったので、奈良時代から、天皇だけは墨色の喪服を着用するようになった。
 承久の乱(1221年)のとき、北条政子が檄を飛ばし、北条泰時を先頭とした鎌倉幕府軍が後鳥羽上皇側を圧倒した。「賊軍」が天皇に勝ったのは、この承久の乱ただ一度だけ。
 私は先ほど申し上げたように、天皇個人については大いに敬意を払っていますが、制度として存続させるかどうかについては消極的です。その最大の理由は、天皇を口実に政治を牛耳る勢力が昔も今も存在するからです。そのような人々にとって、天皇は操作すべき玉(ぎょく)でしかありません。上辺では天皇尊重と言いつつ、内心は天皇を自分の意に従わせようとする、邪(よこし)まな連中の存在(介入)を認めるわけにはいきません。
天皇制について、改めて考えさせられる好著です。

(2013年12月刊。1600円+税)

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