弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
社会
2014年1月27日
生き延びるための思想
著者 上野 千鶴子 、 出版 岩波現代文庫
女は平和主義だろうか?
歴史は、その問いにノーと答える。日本の女性は「聖戦」の遂行に熱心に協力したし、英米の女性も戦争の「チアガール」をつとめた。女だからというだけで、自動的に平和主義者だということにはならない。
アメリカでは保守派の女性たちと家父長的な女性たちが女性の兵役からの排除を支持し、フェミニストの女性が兵役の男女平等を要求するという、ねじれた構図が生まれた。
軍隊とは国家暴力を組織化したものであり、国防軍とは市民社会で犯せば犯罪になる暴力行為が、非犯罪化される特権をもった集団である。
戦闘訓練とは、より効果的に敵を倒す殺人訓練にほかならない。
1991年の湾岸戦争は、大量のアメリカ軍女性兵士が登場して全世界に大きなショックを与えた。参戦した女性兵士は4万人、全体の12%にあたる。アメリカでは女性の参戦の歴史は長い。1783年の独立戦争において女性は銃をもってたたかい、戦傷者は年金を受けている。
第一次世界大戦は3万4000人、第二次世界大戦は40万人が参戦した。これが兵員不足のせいではなかったことは、日本やドイツが女性の兵力化をすすめなかったことと対照的である。
1972年に、アメリカ軍には4万5000人の女性兵士がいた。全体の2%。これが湾岸戦争直前の1990年には22万人、全体の11%に達した。1997年には33万人、13%。海兵隊にも5%いる。
女性兵士の参戦は、湾岸戦争を「きれいな戦争」とフレームアップするために、象徴的に利用された。女性が軍隊を変えるのか、それとも軍隊が女性を変えるのか。
兵士は、ある程度ゲタモノになる必要がある。なぜなら、戦闘は非人間的なものだから。だから、軍隊が女性を変化させる。
この本は、女性にまつわる視点を根本から問い直そうとするものです。新しい発見というか観点がいくつもありました。
さすがに鋭い分析だと驚嘆しながら、読みすすめていきました。
(2012年10月刊。1300円+税)
2014年1月23日
魂の経営
著者 古森 重隆 、 出版 東洋経済新報社
フジ・フィルムがコダックを抜いたかと思うと、写真の現像はなくなり、コダックはついに倒産してしまいました。そして、富士フィルムとして、見事に経営を立て直した社長が力強く経営哲学を展開しています。その指摘には共感できるところが多く、勉強になりました。ただ、あまりにも自信満々の社長(CEO)のようで、従業員の受けとめはどうなのだろうか、その評価を聞いてみたくなりました。また、日本のTPP参加を当然とし、農業の在り方を変えろという主張は、実は、足が地に着いていない主張なのではないか、メーカー側の経営者として、あまりにも勝手なことを言っているという気がしました。安倍首相のお気に入りの経営者だそうで、少しガッカリもしました。
写真フィルム市場は、10年間で世界の総需要が10分の1以下にまで落ち込んだ。
かつて、カラーフィルムなど写真感光材料は富士フィルムの売上げの6割、利益の3分の2を占めていた。
かつては、2700億円の売上げがあったのが、750億円と4分の1になった(2007年)。印画紙をふくめた写真事業全体で6800億円あったのが、380億円にまで激減した。
そうなんですよね。私はまだフィルムカメラも使うのですが、フィルムが店で買えなくなってしまいました。本当に不便です。でも、安心したのは、富士フィルムはこれからもフィルムは作り続けるということです。よかった、よかった、です。
2012年、長年のライバルであったコダック社は、アメリカ連邦破産法11条の適用を申請した。
世界で最初に、フル・デジタルカメラを開発したのは富士フィルムである。これは知りませんでした・・・。
どれほど業績が良くても、来るべき危険性を予測し、それに備えなければならない。
これは、私にとっても少しばかり耳の痛い話でした。私の事務所も、ひところ過払いバブルで「恩恵」をこうむっていました。ですから、バブルがいずれ終わるのが分かっていたのですが、それなのに何も手をうっていなかったのです。今、大いに反省しています。
富士フィルムは、デジタル・ミニラボを写真店に設置して、デジカメの現像を引き受けている。自宅のプリンターでプリントするよりも、はるかに美しく、ハイクオリティで保存性の高いプリントができる。
3.11の被災地の写真復旧についても、しっかり再生できるのは、水でインクが流れてしまう家庭用インクジェットプリンターで印刷した写真ではなく、表面にコーティングが施されている銀塩写真であり、写真店でプリントされた写真だった。なーるほど、ですね・・・。
富士フィルムは写真文化を守り続けることを宣言した。企業は算盤勘定だけで存在しているわけではない。写真文化を守ることは富士フィルムの便命である。もうかる、もうからないの話ではない。頼もしい宣言です。
経営者が最終的な判断を外部の人材の助言に頼ろうとしているのであれば、そんな経営者はすぐ辞めたほうがいい。
富士フィルムは年間2000億円を研究開発費に充てている。先進研究所には、1000人近い研究者が一堂に会して研究している。
円高がもたらした一番深刻な影響は、大多数の日本人経営者や社員から、仕事に向かう気迫をかなり奪ってしまったことにある。
会社の史上最大の危機に直面したとき、社長が学級委員のように、「多数決で決めましょう」などとやることは、ありえない。悠長に民主的に議論している場合ではない。誰かが皆を引っ張っていくしかない。それがリーダーの役割であり、リーダーシップの本質なのだ。
決断すべきときがきたなら、たとえ、まだ迷っていたとしても、とにかく決断するのだ。そして決断したなら、選んだ道で成功すればいい。たとえ、はっきり答えが見えなくても、決断し、それを成功させるのだと確信し、皆を引っ張っていく。そして実際に成功させる。それがリーダーの力量であり、仕事なのだ。すごい迫力です。
いくら本能、直感が備わっていても、健康でなければ機能しない。いくら体力、気力があっても、精神的に疲れていれば、やはり判断に支障をきたす。
だから、リーダーは、日々、リフレッシュにつとめ、活力を養い続ける必要がある。
基盤になる力とは、人間の根本の力とも言える。物事に誠実に向き合う力であり、感じる力であり、考える力であり、実行する力である。
基盤になる力は、どのようにすれば身につくのか。一つは、社会や会社で体験するあらゆる機会を学びにすることだ。そして、もう一つの方法が、哲学、歴史あるいは文学などの教養書を読むことだ。これらは、歴史観や大局観、価値観を養ってくれる。大事な決断をするときには、これがなければ出来ないのだ。
部下に役割を与え、悪かったときは、「ここが悪かった」と必ず厳しい評価を与えなければならない。そうすることが、人が育つうえでは欠かせない。叱らない上司は無責任なのだ。ほめるところはきちんとほめる。しかし、ほめてばかりでは、やはり成長はない。
著者は、ニーチェの著作をほとんど読んだそうです。これには参りました。降参です・・・。
(2013年11月刊。1600円+税)
2014年1月21日
セブン・アイ9兆円企業の秘密
著者 朝永 久見雄 、 出版 日本経済新聞出版社
私はなるべくコンビニを利用しないようにしています。なるべくなら普通の小売店で買物したいからです。ところが、今は町に出てもコンビニしか店がないところばかりで、やむなくコンビニに入らざるをえません。困ったものです。
この本はコンビニ礼賛で貫かれています。世の中すべてをコンビニが支配してしまったら怖いですよね。そうなったら統制経済みたいなものではありませんか。
季節、天候その他で人間(ひと)の好みを推測して商品を並べて買わせる。食材も調理ずみ料理も、すべてコンビニで買うようになったら、味気ないと言うだけではなく、生産統制にまでつながってしまいかねませんよ。
怖い、こわい、おおコワ・・・、と思いながら読みすすめた本です。セブン・イレブンがロフトや赤ちゃん本舗まで買収していることも知りませんでした。
そして、なによりコンビニ内にATMがあること、セブン銀行設立で利用者が急増したことなど、知らないことばかりでした。
アメリカではリッチ層は高級百貨店をつかい、一般階級の人はショッピングモールを利用する。このショッピングモールにもABCのランク分けがあるというように階層分化がはっきりしている。しかし、日本では高級ブランドを買う人が安い商品も買うというように階層分けがはっきりしていない。
セブン銀行の設立によって、1万8000台もの現金の入出金拠点をもっている。
セブン・アイ・ホールディングはコンビニから百貨店まで幅広い商品を取り扱っている。グローバルで5万2000店、毎日5300万人以上が来店している。年に194億人となり、世界中の人が1年に3回も来店していることになる。
セブン・イレブンの雇用者は14万人。パート・アルバイトをふくめると、50万人以上を雇用している。
セブン銀行は2003年11月、開業2年半で黒字になった。誰も予想しなかったことが起きた。1年間のセブン銀行の利用件数は7億件。1日120件の利用のうち8割100件が出金で、1回あたり4万円。18件が入金(平均5万円)。ATMのなかには2500万円入っていて、毎日150万円ほどしか減らないため、警備会社による現金の補充は2週間に1度で足りる。
セブン・イレブンのお届けサービスである「セブンミール」の利用者(会員)は40万人。65歳以上が45%。80歳以上の会員が全体の2割を占める。年代が上がるほど、利用頻度が高くなる傾向がある。
コンビニの販売管理費の内訳を見ると、人件費が低く、賃借料の比率が高い。セブン・イレブンは1店あたり300万円という広告・宣伝費を投入している。
2000年2月に8153店舗だったのが、2013年2月期には1万5072店と、倍近い6919店の純増となった。
セブン・イレブンの商品を配送するトラックの総数は4300台。かつては客の6割が30歳未満だったが、今や40歳以上が半分になった。
コンビニ、とりわけセブン・イレブンの躍進ぶりには目を見張るばかりです。でも、昔ながら商店街も残しておかないといけないように思うのですが・・・。
(2013年9月刊。1600円+税)
2014年1月 9日
日本人は民主主義を捨てたがっているのか?
著者 想田 和弘 、 出版 岩波ブックレット
とても共感できる指摘ばかりの本でした。
もしかしたら、日本人は民主主義を捨てたがっているのではないか。そのような疑念が頭を支配している。少なくとも、自民党議員やその支援者のなかには、捨てたがっている人が一定数いることは間違いない。一昨年暮れの衆議院総選挙、そして昨年夏の参議院選挙、いずれも6割以下という歴史的な低投票率だった。客観的にみて、民主主義の存続そのものが危機にさらされているにもかかわらず、半分近くの主権者が審判に参加することすら拒んだ。
自民党政権の樹立によって何となく進行するファシズムに、一部のネット右翼は別として、熱狂はない。なにしろ、半分近くの主権者が投票を棄権している。
人々は無関心なまま、しらけムードのなかで、おそらくはそうとは知らずに、ずるずるとファシズムの台頭に手を貸し、参加していく。低温やけどのように、知らぬ間に皮膚がじわじわと焼けていく。
政権を握った自民党は、かつて日本を長らく支配していた老舗政党である。日本人の多くは、「民主党政権以前に戻した」くらいのつもりなのだろう。したがって、危機感の温度も低く、進行しているのがファシズムであると気づく人すらごく少数だ。危機を察知するセンサーが作動せず、警報音が鳴らない。
恐るべきことに、たぶん安倍自民党はこうなることを意識的に狙っている。安倍自民党は、「衆参のねじれ」やら「アベノミクス」とやらを前面に「争点」として押し出し、それにつられて、あるいは共犯的に一部を除いたマスコミもそればかりを論じる。それにつられて、一部を除いて主権者もそればかりを気にする。あるいは、何も気にしない。騒がない。投票にも行かない。半分近くの主権者が棄権する。
その特徴は、真に重要な問題が議論の俎上にのせられないまま選挙が行われ、大量の主権者が棄権するなか、なんとなく結果が決まってしまうというもの。
選挙が、私たちの社会はどういう方向に進むべきか、重要な課題をかかげ、意見をすりあわせ、決定するための機会としてまったく機能していない。それでも、勝負の結果だけは出る。
そして、結果が出た以上、選挙戦でスルーされた重要課題も、あたかも議論され決着がついた事項であるかのように、勝者によって粛々と実行されていく。よって、誰も気づかないうちに、すべてが為政者の望むどおりに何となく決まっていく。「熱狂なきファシズム」とは、このことである。
政治家は政治サービスの提供者で、主権者は投票と税金を対価にしたその消費者であると、政治家も主権者もイメージしている。そういう「消費者民主主義」と呼ぶべき病が、日本の民主主義をむしばみつつある。主権者が自らを政治サービスの消費者としてイメージすると、政治の主体であることをやめ、受け身になる。そして、「不完全なものは買わぬ」という態度になる。それが「賢い消費者」による「あるべき消費行動」だからだ。
最近の選挙での低投票率は、「買いたい商品=候補者がないから投票しないのは当然」だという態度だし、政治に無関心を決め込んでいるのは、「賢い消費者は消費する価値のないつまらぬ分野に関心を払ったり時間を割いてはならない」という決意と努力の結果なのではないか。
投票に行かない人が、テレビの街頭インタビューで、「政治?関心ないね。投票なんて行くわけないじゃん」と妙に勝ち誇ったようにいうのは、自らが「頭の良い消費者」であることを世間にアピールしているのだ。
しかし、消費者と主権者とは、まったく別のもの。決定的に異なる。民主主義では、主権者は国王の代わりに政治を行う主体であって、政治サービスの消費者ではない。消費者には責任はともなわないが、主権者には責任がともなう。
わずか80頁の薄いブックレットですが、とても刺激的で意味深い、考えさせられる文章ばかりで、みるみるうちに本が赤くなってしまいました。赤ペンで至るところに棒線を引いていったからです。
ぜひ、あなたにも一読をおすすめします。
(2013年11月刊。600円+税)
2013年12月28日
死ぬまでに行きたい、世界の絶景
著者 詩歩 、 出版 三才ブックス
世界には、こんなに不思議な場所があるんですね。思わずため息の出る写真が満載の本でした。
きわめつけを三つ紹介します。まずは、なんといってもイタリアのランペドゥーザ島です。なにしろ、なんとも不思議な写真です。水のなかに、というか、船が空中に浮いているとしか見えない写真があります。
地中海に浮かぶ、小さなリゾート島。海水の透明度が高いため、海面を走るボートが空中に浮いているようにしか見えない。これは、どう見ても不思議です。
その二は、トルクメニスタンのダルヴァザ、地獄の門。40年以上も燃え続けている巨大な洞窟。地下に豊富な天然ガスがあるため、消火することができない。
不思議な写真です。40年も燃え続けているなんて、信じられませんよね。
三つ目は、ノルウェーのトロルの舌。1000メートルの高さに、薄い岩盤がペロリと伸びて突き出しています。今にも折れてしまいそうな岩場の上で、人間が飛び跳ねているのです。怖いです。
行ってみたいところには、日本もいくつか紹介されていて、北九州にもあるのです。河内藤園です。北海道の雲海もすごいです。
あちこち、元気なうちに見てまわりたいものですよね。
(2013年11月刊。1300円+税)
2013年12月18日
日本型雇用の真実
著者 石水 喜夫 、 出版 ちくま新書
今や若者が正社員として働くことが大変難しい時代です。非正規雇用。派遣やパート・アルバイトで職を転々としている若者が本当に増えました。そして。財界はそれを当然のこととしています。安倍首相は、若者をつかい捨てをさらに拡大しようとしています。でも、本当にそれでいいのでしょうか?
かつての日本型の終身安定雇用こそが日本の経済成長を支えてきたのではないでしょうか。私たち団塊世代までは確固としてあった日本型雇用の良さは再認識されてよいと私は確信しています。
著者は平成の初めに労働省に入省し、23年のあいだ労働官僚として働き、今は京都大学の教授です。労働経済論、雇用システム論が専門です。
大企業は、一般論として雇用流動化論を言いながら、自社としては中核的な人材の温存は至上命題である。人材ビジネスでは、事業拡張を狙いながら、失業者の職業紹介など、公的、社会的責任を背負い込むことがないように駆け引きする。経済官庁は、労働分野の規模緩和を言いながら、自らの行政分野の拡張を虎視眈々と狙っている。
構造改革とは、新古典派経営学の考え方に立って、市場メカニズムを生かそうと言うことに尽きるのであって、それ以上のものはない。改革の行き尽くした先に何があるのか、その社会ビジョンを語ることができるはずもない。
構造改革を通じて正規労働者と非正規労働者の格差が拡大したことは事実であり、業績・成果主義型賃金は中高年齢層の賃金格差を拡大させた。
労働者への所得分配には、労働組合の団結を基礎においた賃金交渉力が不可欠である。格差問題を甘く見て、市場競争や業績・成果主義を喧伝し、働く人々の連帯を軽視するような社会的風潮が助長されてきた。
そして、社会問題にとりくむ人々の誠意や努力をくじいたという意味で、新古典派経済学、構造改革論、そして格差社会的幻想論は大変に罪深いものであった。業績・成果主義にすることによって自らの能力が正しく評価され、自分の賃金が上がると思い込んだ大衆的な無知もあった。しかし、業績・成果主義は、市場価値に連動させて賃金を決めたというだけで、その人のもつ能力を公正・公平に評価するというのは別問題なのだ。
企業側は、全体として賃金を抑制することを考えていたのだから、業績・成果主義の恩恵を受けられるものがほんの一部に限られたのも当然のこと。
この結果、日本の労使関係は予想以上のダメージを受けた。総額としての人件費は抑制できても、人材が生み出す付加価値・創造能力は落ちてしまった。
いつかは行き詰まる運命にあった自由主義経済が、どうにかここまで生きのびてきたのは、恐るべきことに戦争経済をバネにした均衡回復によるものだった。
雇用の安定と人材育成を大切にし、職能資格制度によって能力の伸長と評価に取り組んできた日本企業は、今までさまざまな困難をのりこえていた。この雇用慣行と労使関係は世界に誇るべきものである。ところが、残念なことにその自尊心は傷つけられ、バブル崩壊以降、多くの日本人は自信を失ってきた。
これからの世界が求めるものは、平和産業のなかに技術進歩の芽を見つけ、人々の多様な価値観を尊重しながら、互いに力を合わせ、新たな社会的価値を創造していくこと。企業は低い利益率のもとでも、息長く人と技術を育て、そのことによって社会からの信頼を獲得していく。ここに日本的雇用慣行の伝統を活かす日本企業の強みがある。
経済学を数式で説明するところは理解できませんので読みとばしましたが、共感できる指摘が満載の本でした。
要するに、企業は何のためにあるのか、ということですよね。社員と社会のため、みんなを幸福にするためのもののはずですよね。それを忘れては存立できませんし、すべきものでもないと思います。
(2013年6月刊。760円+税)
2013年12月10日
集団的自衛権の深層
著者 松竹 伸幸 、 出版 平凡社新書
集団的自衛権に賛成か反対かという角度だけでみていては、深い理解に達することはできない。この本は、そのことがよく分かる内容になっています。
冷戦期には問題にもならなかった集団的自衛権を、冷戦が終了した今になって、なぜ行使できるようにしなければならないのか?
自衛隊の実力は、集団的自衛権を行使できるまでに高まっている.昔は軍事力がなかったが、今は備えたから、集団的自衛権を行使するということ。並大抵の軍事能力では行使できるというものではない集団的自衛権の行使を求めるのは、世界の環境が変わったからではなく、日本の軍事能力が変わったから。なーるほど、そうだったんですね・・・。
ミサイル迎撃は不可能。それは、ピストルを撃たれたとき、こちらもピストルを取り出して発射し、自分に向かって飛んでくる弾にあてるのと同じようなものだから。
アメリカ本土に向かうミサイルを打ち落とすというのは、コトバは勇ましいが不可能なこと。そして、軍事戦略上も無意味なこと。私も、これは本当に、そうだと思います。
政府は集団的自衛権と集団安全保障をわざと混同させようとしている。
集団的自衛権にどう制約をかけるのかが国際社会の努力の中心に座ってきた。
集団的自衛権とは、あくまで実力、武力の行使なのである。国連憲章の重要な特徴は、自衛権(集団的自衛権もふくめて)の発動要件をきびしく制限したことにある。
武力行使は原則として「いかなる」ものも禁止されている。そこに二つの例外がある。国連が制裁を加えるとき、そして、国連が乗り出すまでの間の自衛権の発動。
集団的自衛権をかかげておこなわれた世界で最初の軍事行動はハンガリーへのソ連軍の進入。それは「自衛」とは何の関係もない、干渉行為でしかなかった。
アメリカのベトナム侵略も同じこと。実際に集団的自衛権を行使したのは、米英仏ソという世界のなかの超軍事大国4カ国のみ。集団的自衛権とは、きわめて少数の、しかも超軍事大国だけが行使してきた権利なのだ。別にどの国も「武力攻撃」を受けた訳ではないのに、アメリカやソ連などのほうが攻撃をしかけている。
そして、集団的自衛権とは「同盟国」を助けるものだったはずなのに、その「同盟国」が武力攻撃の対象になっている。
というのも、国連憲章51条が、そのはじめから本音と建前が交錯してつくられたものであるから。集団的自衛権を「固有の」権利とみるには無理がある。むしろ国連憲章によって創設された権利というのが自然。
何が侵略かというのは、「学会的にも国際的にも」明確になっている。安倍首相は真っ赤なウソを高言しているのです。
とても分かりやすい新書本でした。一読を強くおすすめします。
(2013年9月刊。740円+税)
2013年12月 8日
「首相官邸前抗議」
著者 ミサオ・レッドウルフ 、 出版 クレヨンハウス
毎週金曜日夜の首相官邸前抗議は今も続いています。私も一度は参加したいと思うのですが、残念ながら、まだそのチャンスに恵まれません。
夜6時から8時までの2時間の行動です。そのあいだは、チラシ(フライヤー)をまくのも禁止されます。
スピーチは1人1分。反原発・脱原発に関係のないテーマはダメ。政党や団体のアピールもダメ。あくまでコインとしてのアピールのみ。非暴力の直接抗議行動です。
それは、抗議に参加することへの敷居を下げるため。そのためにすべてを安全にやっていく。
規模が重要。規模が大きいことが目に見えるようにして、相手にプレッシャーをかける。
300人から始まり、ピーク時には20万人規模となった。それを、マスコミがピーク時に比べてこんなに減ったという記事を書いたりする。
ネットには一定の効果があるけれど、日本ではまだまだテレビの影響は強い。
警備をする警察官のなかにも、「応援している」という人がいて、警察といっても決して一枚岩ではない。
著者はイラストレーターです。どうやって食べているのでしょうね。彼女の尽きることのないエネルギーが日本の国を大きく動かしていると感じています。
わずか60頁ほどの薄いブックレットですが、首相官邸米抗議行動の熱気がちょっぴり伝わってきました。
それにしても、脱原発の声をさらに盛り上げたいものです。「原発輸出」なんて、とんでもありません。
(2013年10月刊。500円+税)
2013年12月 7日
祈りの幕が下りる時
著者 東野 圭吾 、 出版 講談社
うむむ、うまいですね。いつものことながら、ストーリー展開が実に見事なので、終わりまで次の頁をめくるのがもどかしくなるほど、息を継がせない面白さです。伏線が次々にはられていきます。いったい、この話とあの話は、どうやって結びつくのだろうか、それとも両者は結びつかない話なのだろうか。そんな疑問を抱かせ、いろんなストーリーが順次展開していきます。
推理小説なのでネタ晴らしはルール違反となるので、やめておきます。と言いつつ、少しだけ・・・。
子どもが転校するとき、親が事件を起こしたあとだったら、当然、同じクラスだった人間には、何らかの記憶が残るものだ。
ふむふむ、なるほど、そうなんですよね。
ところが、いつのまにかその子は転校していったという。そして、誰も事件のことを覚えていない。むむむ、なにかおかしいぞ。
こんな仕掛けがあります。言われてみれば、なるほど、そのとおりです。ナゾ解きというのは、いかにもあり得るものでないと納得できませんよね。
もう一つ。実は、この話には原発労働者のことが登場します。福島第一原発事故について、安倍首相は「終息宣言」を撤回するどころか、「完全にコントロールできている」なんて、真っ赤な大嘘を高言して国会を放り出して、トルコまで原発を売り出しに行ってきました。その無責任さもきわまれり、です。しかも、武器の製造・開発まで一緒にしようというのですから許せません。
原発労働の実態については、私も実際に働いていた人から話を聞いたことがありますが、完全装備で雑巾がけをしているようなものなんですね。そして、完全防備で苦しいから、いい加減に扱っていたり、線量計を貸し借りしたり・・・。実に前近代的な労働現場のようです。ですから、そこで働いている人々には早死にする人が多いということです。
話が脇道にそれてしまいましたが、緊迫したストーリーです。読んでいるうちに、松本清張の『砂の器』を思い出してしまいました。
(2013年9月刊。1700円+税)
2013年12月 1日
藤沢周平伝
著者 笹沢 信 、 出版 白水社
山形新聞社で文化欄を長く担当していた著者が藤沢周平を語った本です。読んでいて、とっても心が温まってくる本でした。藤沢周平の本は、それなりに読んでいたつもりでしたが、いやいや、ほんの序の口でしかなかったことを痛感させられました。
私は40年前の司法修習生のころ、いま仙台で活動している同期の庄司捷彦弁護士のすすめで山本周五郎の小説を読みふけっていました。
藤沢周平は、弁護士になってまもなくから読みはじめたと思います。とりわけ山田洋次監督の映画、「たそがれ清兵衛」などを見て、ますます読みすすめていきました。
藤沢周平の小説の最大の特徴は情景描写がこまやかで、何の抵抗もなく、すっと小説に描かれた場面に入っていけることにあると思います。
周平は、教員生活をしていた23歳のとき、肺結核が見つかり、29歳まで6年あまり東京で闘病生活を余儀なくされました。このときの挫折感が、社会と自然に対する観察眼を深め、想像力とあわせて書く力をつけたのでしょうね。若い20歳台のときの6年間というのは、恐らく永遠に感じられるほど長かったと思います。
東京の療養所で、周平は失語症にかかったといいます。東北弁でしか話せず、東京弁ではなおさら話せなかったのです。ただ、そこで俳句、ギター、囲碁、花札を覚えたとのこと。
療養所は周平にとって、一種の大学だった。
そして、退院したあと、周平は業界新聞の記者として働くようになりました。
やがて、短編小説コンクールに応募するようになったのです。やはり、満たされない思いがあったのでしょうね。
周平は、作家になったあと、友人(同級生)である共産党の候補者の応援演説までしています。世捨て人ではなかったのです。
周平は「君が代」について、次のように書かれている。
「私は『君が代』をうたいながら、誰かにだまされていたのだという気が抜けない」
周平の仕事部屋は、とてもつましいものだったようです。自宅とは別にマンションの一室を借りるという作家もいますが、そういうことはしていません。
夜11時に寝て、規則正しい生活をしながら、執筆活動に没頭したようです。
周平は慢性肝炎、自律神経失調症、閉所恐怖症だった。だから、地下鉄に乗れなかった。バス・電車も苦手だった。ところが、タクシーやエレベーターは平気だった。
自宅を出て、電車に乗って都心に出かけるのは月3、4回。このときには家族が同行した。
そんな身体の持ち主だからこそ、作品の登場人物に気のやさしい人が多いのでしょうか。もう一度、藤沢周平の本を読んでみようという気になりました。ありがとうございます。いい本でした。
(2013年10月刊。3000円+税)