弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

社会

2014年8月12日

官房長官、側近の政治学


著者 星 浩、出版 朝日新聞出版
内閣総理大臣(首相)が「主任」であるのが内閣官房であり、その内閣官房の「事務を統轄する」のが官房長官である。
 官房長官は、首相の「補佐役」「女房役」といわれる。
 首相という強大な権力を支え、時には利用していくのが、官房長官の役割であり、力の源だ。
 では、なぜ首相は強いのか?
 第一に解散権をもっている。衆議院を解散する権限を有している。
 第二に、多くの人事権をもっている。大臣、最高裁長官、日銀総裁、東電会長、NHK会長も首相が決定する。
 第三に、予算編成権をもつ。
 官房長官は、明治憲法下では「内閣書記官長」と呼ばれていた。
 現憲法下では、はじめは天皇の認証の対象ではなかった。1963年の池田内閣から認証官となった。それまでは大臣よりも格下のポストだったが、大臣待遇となった。
 官房長官の仕事は、三つある。
 第一に、記者会見。実質的に権力の中枢にいて、実際の政策決定にも関与している政府首脳が、定例で記者会見しているところが、諸外国とは異なる。
 第二に、霞が関全体の調整役という役割を果たしている。そして、いわゆる危機管理の中心になる。
 第三に、政権与党との調整をしている。
 子分型の官房長官は、大先輩である首相から宰相学を学び、その経験をステップにして幹事長などの実力者を目指す。
 毎日、首相を近くから見ていて、「俺もいつかは首相に」「このくらいの首相なら、俺にだってつとまる」と考えるようになる。
 しかし、首相と官房長官との間には目に見える距離からは考えもつかない「大きな距離」がある。
 官房機密費というものがある。領収書なしで内閣が支出できる14億円もの予算だ。正式には、「内閣官房報償費」という。この官房機密費の支出は、官房長官の専権事項だ。
 かつては、外務省分の20億円とあわせて、総額30億円もの官房機密費があった。毎月1億円が野党などへの国会対策費につかわれている。要するに、野党を買収・接待する費用だ。もちろん、税金である。
 もう一つ政権中枢に対する批判的コメントが欲しいところだと思いました。
(2014年7月刊。1200円+税)

2014年8月 9日

黒部の山賊


著者  伊藤 正一 、 出版  山と渓谷社

 昭和39年(1964年)に刊行された本の復刻本です。ですから、この本で最近とか現在とあるのは、1960年代前半のことになります。つまり、今から50年も前の日本アルプスの山々の情景が描かれているのです。
 山小屋をつくり、道をつくり、熊に出会い、山賊のような人々がアルプスの山々を歩いている時代です。大勢の凍死者も出しています。救援活動も命がけでした(これは今も同じなんでしょうが・・・)。
 そして、モノノケに驚き、脅かされます。死んだ人が山小屋に顔を出すのです。
 北アルプスの尾根筋は、真夏でも最高14~18度。朝には氷が張ることがある。高度3000メートル。晴れた日でも秒速30メートルの風が吹く。荒れると秒速70メートルにもなって、小屋が土台ごと舞い上がって空中分解してしまう。
 人体の感じる温度は、風速1メートルにつき、1度下がったのと同じ。雨で身体が濡れていると、気化熱のために体温が奪われるので、その何倍にもなる。こうして、体温が28度ほど下がって、真夏でも簡単に凍死してしまう。
 凍傷の場合は急激に温めてはいけない。しかし、凍死寸前の場合には、一刻も早く温めるのがよい。温まると、忘れたように治ってしまう。
 ゴアテックスが発明される前は、山で雨が降ると、凍死寸前の人々が2~30人も山小屋に飛び込んできた。うへーっ、こ、こわいですね。
 熊は耳と鼻は非常に敏感だが、目はあまりよくない。したがって、風下から、音を立てないようにして近づくのが熊狩りのコツである。熊を殺して、大きな鍋で肉を煮て食べる。熊の腸を鍋の中に入れる。腸の中には、排泄寸前の糞がぎっしり詰まっている。これを入れなければ味が出ない。これが山賊たちの食事だ。うへーっ、こ、これはなんとも食べたくありませんよね・・・。最後に、熊の足の裏を薄く切って焼いたのを食べる。どんな味がするのでしょうか。
 健全な者でも、山小屋に入って20日間もすると、ぐっと能率が低下する。忘れっぽくなり、計算も出来なくなる。最盛期を過ぎてひまになってくると、ボケかたがひどくなり、しまいには気力がおとろえてくる。そして、山々が新雪におおわれることになると、底知れない孤独感と人間社会に対する限りない郷愁におそわれる。これは、奥地の小屋ほど、人数が少ないほど、そして未経験者ほど、強くあらわれる。
 山で熊に出会ったら、恐れずににらみあっていること。背中を見せて逃げてはいけない。背中を見せたら、飛びかかってこられる。ピッケルで殴ったりしても熊に致命傷を与えられず、かえって熊を怒らせてしまう。身をかわしているうちに、熊のほうがやめてしまうだろう。
戦後まもなくの、のどかな時代でもあったようです。写真もあって、当時の雰囲気をよく忍ぶことができます。貴重な山の本だと思いました。
(2014年4月刊。1200円+税)

2014年8月 8日

校閲ガール


著者  宮本 あや子 、 出版  メディアファクトリー

 とても面白い本でした。『舟を編む』のパロディー本かと錯覚してしまいました。あちらは辞書を編集する現場の変人たちの話でしたが、こちらは編集の下に位置づけられる校閲部の変人たちのオンパレードです。
 校閲(こうえつ)とは、文書や原稿などの誤りや不備な点を調べ、検討し、訂正したり、構成したりすること。
 私はモノ書きを自称すると同時に、編集も業としてきました。他人の書いた文章を反復継続して手直ししてきたということです。ほとんどペイしていませんので、「対価」がなければ「業」とは言えない・・・。それでも他人の変な文章を見ると、すぐに赤ペンを入れたくなります。
カギカッコの直前に句読点はつけないという不文律があります。しかし、このことは意外に、多くの人が知りません。そして、エッセーの小見出しに数字を付すのもやめてほしいです。
 まあ、それはともかくとして、好きでもない校閲部にまわされ、泣く泣く嫌な校閲の仕事をしている独身女性の悦子が主人公です。
 平凡でお気楽な女子大生だった悦子は、気合いと根性だけで難関の景凡社の入社試験を乗り切った。ファッション雑誌の編集者になることを夢見て入社した悦子が配属されたのは、地味な裏方仕事の校閲部。がーん。・・・・。
通常、仕事に慣れた校閲者が一日で完璧にできるのは、1日25頁ほどだとされている。
 私も、他人のあらを探すのは得意なのですが、自分の書いた準備書面を裁判所に提出したあとに読み返すと、たくさんのボロを見つけてしまい、赤面の至りです。そうなんです。思い込んでしまうと、あらは見えなくなるものなのです。
 表に出ないはずの閲覧部の悦子がなぜか作家本人と直接話すようになり、果てはその作家が「逃亡」すると、その所在探しにまで駆り出されるのでした。そのあたりには謎解きも入って、ちょっとしたミステリー小説の気分を味わうことが出来ます。
 今どきの女性の乱暴な男言葉が、話の展開を軽快なものにしています。
 軽いタッチでテンポよく話が展開していきますから、ふむふむ、この次はどうなるのかなと、おもわず話に引きずりこまれてしまいました。軽い気持ちで読める、うさ晴らしにもってこいの本です。
(2014年3月刊。1200円+税)

2014年8月 5日

集団的自衛権の何が問題か


著者  奥平 康弘  、  山口 二郎  、 出版   岩波書店

集団的自衛権の問題点について、いろんな人が多角的に明らかにした本です。とても時宜にかなった内容です。
 個人を離れた実体としての国家の権威を個人の上に置きたいと考える国家主義者にとって、国民に死を強いることのできない国家は、欠陥国家である。
 日本をそのような欠陥国家にした最大の元凶は、敗戦後に押し付けられた憲法9条であり、これを改正することによって日本はまともな国家に復権できる。安倍首相は、このように考えている。
 安倍は、政治家の名門であるが、祖父や父と違って、学歴エリートではない。だから、若いころから、祖父や父に対して劣等感を持っていたに違いない。
 安倍とその取り巻きの政治家は、「つよい劣等感をもった少年兵」である。彼らは、実際の戦争も戦闘も知らないゆえに、戦争を封印してきた政治体制に対して過剰に暴力的になっている。
  安倍首相は、1990年代以来の日本民主化の試みから生まれた鬼子である。安倍や橋下にとって、民主主義とは「決める人を決める」手続に矮小化されている。
 民意の絶対化、政治主導の絶対化は自分自身が要するに民意そのものであるから、自分に反対するものは民意に反するという権力の絶対化につながる。
 安倍首相の手法は、「必要は法を知らない」、目的を達成するためにはルールにかまっていられないという国際法の発想である。
 安倍首相の言葉の裏に、「戦争の火種」を小さく生んで大きく育てようという騙しの手口が見える。
 防衛省には、1993年につくられた、朝鮮半島有事に際して、日本人を救出する極秘計画がある。自衛隊は、米軍には一切頼ることなく、自衛隊だけで海外邦人を救出できることになっている。
 集団的自衛権とは、自衛ではなく、「他衛」を指している。売られていないケンカを買ってでる。そうなんです。自衛ではないんです。
 安倍首相の記者会見における発言は、
①戦争は突然に起きると思い込んでいる。
 ②日米の権力が同等だという前提に立っている。
 ③軍事技術の限界を無視している。
 まさに、安倍首相は軍事オンチである。安倍首相のいう「限定」容認論とは、結局のところ、日本が本格的な戦争に巻き込まれる入口に過ぎない。
 いま、日本人は、保守政治を自認する安倍首相の憲法破壊によって戦場に駆り立てられようとしている。「国民の戦死」と「戦費の増大」という巨大な負担は、日本人に重くのしかかる。21世紀の日本は、狂信的な首相の登場によって、世界が注視するなか不幸のどん底に転げ落ちようとしている。
 安倍首相は、いまが千載一遇のチャンスだと考えている。彼は、自分が自民党の中で、多数派でないことを自覚している。
 今の天皇は、戦後デモクラシーを全面的に容認している。
安倍首相は、集団的自衛権を本来の目的にそくして行使したとき、日本が戦争当事国となることにともなうリスクをまったく説明していない。
 抑止力というのは、相手より強いことが前提となって成り立つ概念である。相手国だって、抑止されまいと強くなるはずで、安全保障のジレンマに陥る危険がある。
 日本が攻められていないときに、集団的自衛権を行使すれば、日本が先に戦争の火ぶたを切ることになる。
 今の日本社会には漠然とした「脅威」を共有する空気ができつつあるのではないか・・・・。陸海空すべての司令部レベルで米軍との一体化がなされることになった。
 もし日本政府が歯止めを設けられないとなると、自衛隊を用いるにあたっての歯止めが国内には存在しない。それは、文民統制がきかないことを意味している。
 安倍首相は、集団的自衛権を行使した「後」のことについてはまったく言及しない。日本が攻撃すれば、日本本土への報復攻撃を行われるだろう。
 国の安全保障中心は、「攻められない」ようにする条件をいかにしてつくりあげるか、にある。
 「怖いのか、臆病者め」と言われたとき、「はい、怖いです」と答えられる社会は健全だ。「平和ボケ」より、「軍事中毒」のほうが、はるかに有害だ。
 憲法9条を集団的自衛権を認める意味に解釈変更することは、解釈の限界をこえ、立憲主義に対する挑戦である。
何度も、そうだ、そのとおりだと叫んでしまいました。
(2014年7月刊。1900円+税)

2014年7月25日

夜間保育と子どもたち


著者  櫻井 慶一 、 出版  北大路書房

 夜間保育と聞くと、なんとなくマイナス・イメージがありますよね。でも、この本を読むと、これがすっかりプラスイメージに変わってしまいます。やっぱり、体験者の話には耳を傾けるだけの価値があります。
 「夜間保育は、子どもの成長・発達に悪影響を及ぼすだろう」
 この予言が、実はあたっていないことが、長年にわたる調査・研究によって明らかにされた。夜間保育は、現実には、決して子どもの成長・発達に悪影響を及ぼすものではない。むしろ、こどもの成長・発達に悪影響を及ぼす環境を改善し、子どもの健全育成に資するものである。
 夜間保育が望ましくないのではなく、夜間保育を必要とする子どもの置かれた環境が望ましくないのであり、その厳しい環境に置かれた子どもを夜間保育によって、少しでも望ましい状態に替えることが児童福祉の精神なのである。まことにそのとおりだと思いました。
 全国にある認可保育園は2万3700カ所。そのなかで認可された夜間保育園は、なんとわずか80カ所。全国のベビーホテルは1830カ所、3万3000人ほど。
 夜間保育園は、夜間のみではなく、夜間まで開いている保育園。24時間いつでも預かれる保育態勢にあるということ。
夜間保育で育った子どもたちは社会のために役立ちたい、人とのつながりを大切にしたい、前向きに一生けん命努力したい、誠実で人から信頼される人になりたいと思う子が全国平均よりも高くなっている。
これには理由がある。子どもたちは、乳幼児期に保護者のがんばっている姿を見て育ち、夜中まで保育士が自分を支えてくれたという体験をしていることが大きい。
 夜間保育園で、子どもが昼夜二食、安全でバランスがとれ、おいしい食事をとっていること、園によっては、入浴・寝かしつけも担っていることが、親の安心とストレス解消につながり、逆に短くても子どもとの時間を満喫し、楽しめるようになっている。
 入眠時に、深い安心のなかで眠りにつける、そのためのゆとりある体制が必要。
 眠りの途中で目覚めた子どもが、そのときいつでも大人がいることを感じて安心し、再び眠りにつくことのできる体制を確保する。
 あわせて、仕事が終わってホッとしている、お迎えの保護者から雑談的に子育てや生活の悩みが聞ける体制が必要。
 そうなんですよね。そこまでゆとりある夜間保育園なら、かえって安心ですよね。イライラするばかりの親と一緒よりも・・・。
 福岡の宇都宮英人弁護士からすすめられて読みました。生活が困難ななかで、子どもと一緒にがんばっている親をしっかり支えている夜間保育所について、認識を改めることができました。全国夜間保育園連盟の創立30周年記念の本です。
 子どもの福祉行政の貧困さを告発する本でもあります。読んでいて、なんだかうれしくなる、心が温まる体験記がたくさんある、いい本です。ぜひ、ご一読ください。
(2014年3月刊。2000円+税)

2014年7月24日

「新富裕層」が日本を滅ぼす

著者  武田 知弘 、 出版  中公新書ラクレ

 いつのまにか、日本という国は中身がすっかり変わってしまったのですね。
 この本を読むと、アベノミクスを手放しで礼讃する人々がたくさんいる理由がよく分かります。私のまわりには不景気な話ばかりなのですが、世の中には、もうかって仕方がない人、ありあまったお金の使いみちが分からずに困っている人が、なんとたくさんいることでしょう・・・。信じられない思いです。
 日本には、世界的に見ても巨額の資産がある。個人金融資産は1500兆円に達している(2006年)。バブル末期の1990年には1017兆円だったから、わずか16年で50%増となった。「失われた20年」のあいだに、潤っている人間は、しっかり潤ってきたのだ。
 今の日本は億万長者が激増している。2004年に134万人だったのが、2011年には182万人になった。これは、世界全体の富裕層の17%を占める。世界の人口の2%でしかない日本人が、世界の富裕層の17%も占めている。アメリカの307万人に次いで世界第2位である。7人口比率から言えば、日本のほうが富裕層が多い。
 ところが、大金持ちへの減税が進んでいる。所得税率は、1980年に75%、1986年に70%、1987年に60%、1989年に50%、そして2010年には40%にまで下げられた。住民税のほうも、18%だったのが10%になっている。このため、最高時に27兆円近くあった所得税収入が、2009年には13兆円にまで激減している。
金持ちは、元からいい生活をしているので、収入が増えても消費はあまり増えない。結局、貯蓄にまわってしまう。
日本の金持ちの所得税には、いろいろな抜け穴があり、名目税率は高いけれど、実質的な負担税率は驚くほど安い。アメリカ、ドイツ、フランスは、どこもGDP比で10%以上の負担率であり、イギリスは13.5%なのに、日本はわずかに7.2%でしかない。アメリカの所得税の税収は、日本の7倍もある。
 つまり、日本の貧乏人はアメリカの貧乏人よりも多くの税負担をしている。
日本の相続税は大幅に減税された。1988年までに最高税率は75%だったが、2003年には50%に下がった。この結果、相続税は税収としての機能をまったく失った。
 ピーク時には3兆円あった相続税の税収は、いまでは1兆円となって、2兆円も減収した。
 しかも、この55%というのは名目上のことで、実際には、驚くほど税金は安い。
 今の日本では、富裕層とともに、大企業もお金をため込みすぎている。日本の企業の業績は、バブルの崩壊後も、決して悪くはなかった。バブルの崩壊後、国民の多くは、日本経済は低迷していると思い込まされ、低賃金や増税に耐えてきた。しかし、その前提条件は、実は間違いなのである。
日本の法人税は、たしかに名目上は非常に高い。しかし、いろいろ抜け穴があり、実際の税負担は、まったく大したことがない。総合的に考えると、日本企業の社会的負担は先進国のなかでは低いほうであり、もっと負担すべきだ。
法人税が減税されたら、サラリーマンの給料は下がる。だから、サラリーマンは、間違っても法人税の減税に賛成などしてはならない。
 企業は人件費を削って、配当にまわすという愚を普通に犯してきた。大企業は、この20年間で人件費を20%もカットし、内部留保金を100兆円以上、ふやしてきた。そんなことをすれば、お金の流れが滞るのはあたりまえだし、景気が低迷するのも必然だ。
賃金が上がっていないのは、主要先進国では、日本だけ。政府が最低賃金を上げてこなかったのは、財界の反発が強かったからだ。
 週40時間まともに働いても家庭を養っていけないような国で、まともな人材が育つわけがない。
 先進国のなかで、これほど非正規雇用がふえているのは、日本以外にはアメリカだけ。日本は非正規雇用の言い合いが35%にもなっている。
 日本で生活保護レベル以下の生活をしている人は1000万人以上いると推定されている。実際に保護を受けている人は、200万人なので800万人が生活保護の受給からもれている。
 人件費を削減すれば、短期的には企業の実績は上がるだろう。しかし、長期的に見れば、日本企業の破滅を招くことになる。日本の消費税は、経済を停滞させ、格差社会を助長する最悪の税金である。
 日本社会構造、そして、日本人の意識を根本的に変革する必要があると思いました。
 とても分かりやすい本です。ご一読を強くおすすめします。
(2014年2月刊。780円+税)

2014年7月23日

日本は戦争をするのか


著者  半田 滋 、 出版  岩波新書

 安倍内閣がついに閣議決定を強行して、集団的自衛権の行使を容認しました。本当に、とんでもない暴走内閣です。安倍首相は、外遊したときには日本は一変した(一新した)と言い、日本人向けには、いや前どおりです、戦争をするわけではありません、などと、まさしく二枚舌を「器用に」使い分けています。その点の追及がマスコミに弱いのが、もどかしくてなりません。とりわけ、NHKはひどいですよね。まるで政府広報番組のオンパレードです。
 ジャーナリストきっての軍事通である著者の本です。サブタイトルは、まさしく集団的自衛権と自衛隊です。私たちの知りたいことが満載の本です。いま必読の新書ですよ。
 国民の疑問に丁寧にこたえ、不安を解消して行くのが政治家の務めのはずだが、安倍首相は違う。国内においては、「わが国を取り巻く安全保障環境がいっそう悪化している」と繰り返して国民の不安をあおり、だから憲法解釈を変更して集団的自衛権の行使を容認しなければならないと声をはり上げる。
 だから、国民の中にも、アジアの危機的状況に立ち向かうためには憲法改正手続なんか、やってられないという焦った声があがるのです・・・。
 アメリカの「行くべきではない」というメッセージを無視して、安倍首相は靖国神社への参拝を強行した。外交においては、中国、韓国ばかりでなく、アメリカまでも刺激し続け、安全保障環境を自ら悪化させている。靖国神社には、東條英樹元首相らA級戦犯14人が合祀されている。そして、そのことから昭和天皇は参拝をやめた。いまの平成天皇も、もちろん一度も行っていません。
 安倍首相が靖国神社を参拝すると、アメリカ政府は失望しているとのコメント発表した。
 アメリカは、「靖国神社」参拝は見送るべきだという考え方で一貫していた。安倍首相と、その取り巻き連中は、アメリカの考えを知っていながら、これをあえて無視した。
 4月に来日したオバマ大統領は、国賓にもかかわらず、赤坂の迎賓館には宿泊せず、都内のホテルに泊まった。
 安倍首相がアメリカに行ったとき、韓国の朴大統領とは扱いに大きな差があった。共同記者会見はなく、アメリカ議会での演説もない。明らかに冷遇されたのですよね。
いま、アメリカにとって最大の輸出相手国は日本ではなく、中国である。
 安倍首相は、立憲主義を時代錯誤だと考えています。
 「最高の責任者は私です」
 「政府の方針に私が責任を負って、そのうえで選挙で国民の審判を受ける。審判を受けるのは法制局長官ではない。私なんですよ・・・」
 安倍首相の強気を支えるのは、高い内閣支持率だ。就任から1年を経過しても50%の支持率を維持する政権は珍しい。安倍首相は危機意識をあおり、国民の不安に乗じて、憲法解釈を変えようというのだ。
興味深いことに、集団的自衛権を行使して戦争に介入した国々は「勝利」していない。
 「北朝鮮から攻撃されたら、どうする?」
 「中国に尖閣諸島を奪われるかもしれない」
 これらを根拠に集団的自衛権の行使を容認してはならない。いずれも個別的自衛権で対処できないはずはない。
年間に30~40回もあった日中交流が、第二次安倍政権ではゼロになった。
 日本が中国と競い合って軍事費を増やし、自衛隊の出動規定をゆるめたら、アジア全体の軍拡競争につながり、地域情勢は不安定化するだろう。
 北朝鮮がアメリカを攻撃するより、アメリカによる北朝鮮攻撃のほうが、はるかに可能性が高い。いずれにせよ、アメリカと北朝鮮が戦争すれれば、全国にアメリカ軍基地をかかえる日本は必然的に戦争に巻き込まれるだろう。
 安倍首相のいう「積極的平和主義」とは、日本国憲法の柱のひとつである平和主義とはまるで違うものである。
現代の戦争に、戦場そのものの「戦闘正面」と、補給したり、休養したりする「後方地域」を区別することに意味はない。燃料、弾薬、食糧の補給なしに戦争を継続するのは不可能だ。
日本には、使用済み核燃料棒を補完する原発や関連施設が55カ所もある。その一つでもテロ攻撃されたら、日本という国は破壊してしまうのです。それを考えただけでも身震いします。
 自衛隊には「人助け」を目的として入隊してくる若者が少なくない。初任給は16万円。2年任期までまわっていく。一佐(47歳)は1243万円の年収がある。
 自衛隊がどう変わっていくのか。そのとき、大半の自衛隊員にとっては、単なる内輪ゲンカのレベルではありません。生か死の瀬戸際に立たされるのです。
いま、自衛隊から目を離せません。ぜひとも広く読まれてほしい本です。
(2014年5月刊。740円+税)

2014年7月21日

藤子・F・不二雄の発想術


著者  藤子・F・不二雄  、 出版  小学館新書

 オバケのQ太郎、そしてドラエモンときたら、日本人で知らない人はいないと思います。そんな国民的マンガのキャラクターを生み出したマンガ家のコトバですから、とても重みがあります。読んでいて、つい、うんうんとうなずいてしまいました。
 小学校のころは、ひどく人見知りする子だった。カケッコもできず、教室の前に立って話すことができない。そのうえ、なんと、絵が嫌いだった。いじめられっ子だった。
ところが、手塚治虫のマンガに出会って、大きなショックを受けたのです。そのため、マンガを卒業できなかった。ファンレターを書いたところ、手塚治虫から返事が来た。
 昭和27年に高校の電気科を卒業して会社に就職した。ところが、マンガを書きつづけたい。そこへ、手塚先生から、「君たち、上京してきなさい。二人でも十分やっていけるから」という手紙が飛び込んできた。
なんということでしょう。おどろきの手紙ですよね。それほど、才能を見込まれたということでしょうね。
 母親は、息子から上京すると告げられたとき、「そうけ」と平然として答えた。これまた、大した母親ですね。今どき、考えられませんよね。よほど、息子を信頼していたのですね。
 初めは、両国の2畳一間の下宿。押入れもない。半年たって、トキワ壮に移った。4畳半。敷金3万円は不要だった。2年後に、手塚先生に返した。
 マンガを描く意欲をずっと持ち続けられたのは、仲間がいたこと。気が多いというか、好奇心は旺盛だった。
 「オバケのQ太郎」を連載していたときには、それほど人気がなかった。ところが、やめたら抗議のハガキが来た。それで、再開することになった。
 なんとなくわかりますよね。その時時代に生きていた私としては・・・・。
 若いころは、絵もアイデアも早くて、3時間もあれば13頁分を考えついていた。
「キミたちの絵は古い。こんな丸い線は、もうはやらない」
 新人のとき、古くてダメだと言われた。だから、もうこれ以上古くなりようがない。それで、強くなった。
 独創力のための条件は、第一に、数多くの断片をもつこと、第二に、その断片を組み合わせる能力をもつこと。
 人間は本当に複雑ないきものだから、マンガ家は、キャラクターを枠にはめてしまうのではなく、柔軟な目をもってキャラクターの個性を生かし、ある程度自由に行動できるゆとりを持たせていくべきだ。
 思いついたときに、手帳にすぐメモしておく。このとき、タネをふくらませずに書いておくことが大切。自分のスタイルに絶えず挑戦していくことが重要な課題となる。
 結局、自分自身を自作に登場させている。遠い少年の日の記憶を呼び起こし、体験したこと、考えたこと、喜び悲しみ悩みなど・・・。それを核とし、肉づけし、外見だけを現代風によそわせて登場人物にしている。
なーるほど、なるほど、と納得のいく本でした。それにしても、すごいマンガ家です。

(2014年2月刊。700円+税)

2014年7月19日

ちばてつやが語る「ちばてつや」


著者  ちば てつや 、 出版  集英社新書

 「ちばてつや」というと、『あしたのジョー』です。「週刊少年マガジン」で連載が始まったのは、私が東京に出て1年たとうとした1968年1月のことです。6人部屋の大学の寮に入って楽しい日々を過ごしていました。誰かが買ってくる週刊誌を、みんなでまわし読みしていたのです。矢吹丈と力石徹のリング上の決戦に夢中になっていました。毎週の発売日が待ち遠しかったものです。
 私は、「ちばてつや」の絵が大好きです。登場人物の顔が丸顔で、なんだか、ほのぼのしているところがいいのです。
「ちばてつや」は、実は、終戦時に6歳で、生命からがら満州から引き揚げてきたという体験の持ち主です。ですから、筋金入りの反戦・平和主義者なのです。それを知って、私は、「ちばてつや」がますます好きになりました。だから、私は戦争大好き人間の安倍首相にとりいる百田尚樹が大嫌いです。
 子どもの読む戦記ものマンガでは、どれも主人公が格好いいヒーロー漫画になっている。それが少し心配だ。こんな描き方をしたら、読んだ子どもが「戦争は格好いい」と思い込んでしまうのではないか。戦争をスポーツのように描いていいものだろうか・・・。
 私のなかには、戦争で無残に死んでいった若者たちへの追悼の思いが深くあった。そんな戦争とは一体何なのかと、リアルに問いかけたかった。戦争というものは、絶対にやってはいけないと少しでも伝えたくて、体験記を描いた。そう言う気持ちを忘れてはいけないと、私は、今でも毎朝、水を一杯コップに入れて追悼している。
 著者が『あしたのジョー』を描きはじめたのは28歳のとき。私が読みはじめたのは18歳ですから、なんと、10歳しか年齢は違わなかったのですね。そして、5年間の連載が終わったとき、著者は34歳になっていた。
 プロの漫画家になるには、読む人をワクワク、ドキドキさせるにはどうしたらよいか、そこで苦労しなくてはいけない。とても苦しい作業だが、それこそが漫画家という仕事なのだ。
読者をワクワクドキドキさせるためには、何が一番重要か。まず、描く人が「根」を張ること。「根」というのは、漫画という花を咲かせるために必要な感性やアイデア、知識、教養のこと。その根を自分という土壌の中にいかに、張りめぐらせるか。それが創作の根幹である。
 いろいろな本を読み、映画をみ、伝記や資料を調べて読み解く。それからドラマを見つけ、人生や哲学を感じとる心を養うこと。文学も美術も音楽も、ときに思いもよらない創作のヒントを与えてくれる。
 詩情あふれる、さまざまな名曲を聴いて感動する気持ちが持てなければ、漫画においても情景描写はできない。あるいは好きな詩の一節に思いを馳せ、心に残る名画をイメージしてみる。そうした作者の心の軌跡が、漫画の線の一本一本を生き生きとさせ、読者の心にも響いていく。
 こんなことは漫画とは関係ないとは思わずに、好奇心のままにいろんな分野に耽溺(たんでき)してみることだ。
 味わい深いコトバが満載の、すばらしい「ちばてつや」の本です。
(2014年5月刊。760円+税)

2014年7月18日

いま、ほんとうの教育を求めて


著者  三上 満 、 出版  新日本出版社

 東京の下町で熱血・中学校教師として活躍した著者の体験にもとづく教育論ですから、読んでいるだけで心打たれるものがあります。さすが、です。
教育とは、希望をはぐくむ営みにほかならない。この座標軸から離れて、他の何かを別のことを軸にするようになると、教育は必ず歪む。
 希望とは、三つのものへの信頼から生まれる。一つは、人間に対する信頼。人間って、いいものだ。ああいう人に、私もなりたい。そう思わせる人が、子どもの周りにいなくてはいけない。教師こそ、そんな魅力ある人でなければならない。
 その二は、自分に対する信頼。子どもが自分のいいところをたくさん見つけ、それが回りから認められ、自分を好きになっていく共同体。それが学校だ。
 その三は、明日に対する信頼。平和や人権が輝く、明日への信頼が育まれる心に、希望は生まれる。
 教育とは、希望の糧となる、この三つのものへの信頼を、子ども、教職員、父母、地域一体となってはぐくむ営みなのだ。
学力世界一のフィンランドでは、基礎教育(7~16歳の9年間)では、いっさいの競争そしてランク付けがない。
日本では、教育の政治支配をすすめようとするものには、もはや教育委員会さえ邪魔者になっている。
 子どもたちが、「ヤッター」という声をあげるのは、自分を乗りこえられたとき、新しい自分と出会えたとき。それは、人の上に立てたときとか、人を出し抜いたときなんかではない。
 人間は弱さを支えあい、辛さを分かちあって生きるもの。だから、互いに優しさを必要とする。教室とは、間違えることによって、いっそう賢くなるという不思議なことが起こるところ。
ある中学校の修学旅行に向けての話し合いのとき。みんなで、ガイドさんを泣かせようという目標を立てた。困らせて泣かせようというのではない。それなら簡単だけど、楽しいことでもない。そうではなくて、別れのときに別れを惜しんでガイドさんを泣かせようというもの。
 いやあ、これはすごい目標です。ガイドさんの説明をよく聞き、親しみ、楽しい旅にしなければいけない。そのうえで、もうひとつ何かが必要です。
この目標をやり切ったクラスは、とてつもない達成感があったことでしょう。すばらしいことですね。なによりの修学旅行の思い出となったことでしょう。
 しばし、学生のころに戻った気分に浸ることができました。みんなに読んでほしい、いい本です。
(2014年4月刊。1600円+税)

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