弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
社会
2015年4月18日
プラチナタウン
(霧山昴)
著者 楡 周平 、 出版 祥伝社
舞台は東北のさびれゆく町です。冬に雪に埋もれてしまうという点こそ違いますが、東北も九州も、田舎に残っているのは年寄りばっかりという点では、まったく同じです。
そんな町が、ハコモノだけはどんどん造ってしまうのです。もちろん、その利用者なんかいなくて、宝の持ち腐れ、町は大赤字を抱え込んでしまいます。それでも、公共工事を請け負った土建業者と政治家は大もうけするのです。この本に欠けているのは、公共工事を取り仕切っている暴力団が登場しないという点です。そして、悪役として、古狸の町会議員はいるのですが・・・。
主人公は大手総合商社の部長にまで登りつめているサラリーマンです。ところが、実力ある取締役ににらまれて、子会社へはじき飛ばされようとするのです。そこへ、故郷の町をよみがえらせる救世主になってほしいという話が飛び込んできたのでした。
なんとかマッケンジーといったコンサルタント会社への、次のような痛烈な皮肉もあります。まったく同感至極です。
コンサルタントの話をまともに受けて事業が成功するのなら、苦労はしない。連中の能力がそれほど高いというのなら、世の中につぶれる会社なんて、ありやしない。世の中に存在する会社で、少なくとも一流と目される企業でコンサルタント出身の社長なんて、ただの一人も存在しない。それが何よりの証拠だ。
真の公共事業とは、一時のカンフル剤であってはならない。恒久的に利益を生み、雇用を確保するものでなければならない。
この本では、工場を誘致しようとして整備した3万坪の土地に定年退職後の人たちの住める町づくりをしようという企画が進行していきます。たしかに、私たち団塊世代が引退後の生活を、どこで、いかに過ごすかは、国家的な関心事のはずなのです。ところが、いま十分な対策がとられているとは、とても思えません。
この本では、赤字再建団体寸前の田舎を、外国に住んだこともある総合商社の部長が町長になって、町の特産を生かしつつ、高齢者本位の町づくりに成功したというストーリーです。現実には、それほどうまく行かないように思いますが、こんな取り組みが本当にあってほしいものだと思いました。介護施設というのは、若者の働く場でもあるのですから・・・。ご一読をおすすめします。
(2008年7月刊。1800円+税)
2015年4月17日
ギャンブル依存国家、日本
(霧山昴)
著者 帚木 蓬生 、 出版 光文社新書
病的ギャンブリングは、患者の病態や治療の面で依存症と瓜二つ。
いずれにも、離脱症状と耐性がある今では、ギャンブル依存症ではなく、ギャンブル障害といい、病的ギャンブラーのことをギャンブル症者という。
ギャンブルは、ひとつの産業であり、ギャンブルをする人は、その消費者といえる。
ギャンブルには悲劇が必然的に付随しているのだから、ギャンブル企業側には、危険性を警告する義務がある。それは、消費者の権利として、その傾向を受ける権利として存在するはずだ・・・。
ギャンブル症者は、日本人男性の8.7%、女性の1.8%にのぼる。
ギャンブルの開始年齢は平均して20.2歳。そして、借金の開始年齢は27.8歳。精神科に相談に来る平均年齢は39.0歳。ギャンブルに手を染めて7年後には、借金を始め、借金し始めて11年後にはニッチもサッチもいかなくなり、助けを求めて精神科診療所を訪れる。
ギャンブル症者のはまっていた元凶はパチンコ・スロット。それは、8割強を占める。
ギャンブル症者の頭を占めているのは、こうなったらいいなという希望的見通し、都合のよい考え。限りなく空想に近く、既に妄想の領域に片足をつっこんでいる思考法である。
パチンコ店の年商は20兆円ほど。公営ギャンブルと宝くじの2倍半から4倍の規模を誇る。カジノで有名なマカオの年間売上げは4兆700億円。つまり、日本には、マカオが5カ所もある。ところが、日本ではパチンコ・スロットはギャンブルとされていない。
パチンコは警察が指導監督する許認可業種であり、警察OBの天下り先。
パチンコ・スロット業界には、1県あたり1000人もの警察OBが職を得ている。パチンコ業界の用心棒として警察は存在している。
人がギャンブルにはまり込むのは、何も一攫千金の夢を満たすばかりが理由ではない。一攫千金の前に、ハラハラドキドキの期待感、そして危機感がある。これが、刺激のない平凡な日常から抜け出す、非日常的な瞬間を与えてくれる。
ハラハラドキドキは、一種の戦闘状態であり、このときの脳を司る神経伝達物質は、ドーパミンである。
日本で最初のギャンブル禁止令があるのは、『日本書紀』。689年、持統天皇のとき、双六(すごろく)禁止令が出ている。さらに、『続(しょく)日本紀(にほんぎ)』で孝謙天皇の天平勝宝、6年(754年)にも双六禁断例が出された。
この年は、唐から鑑真和尚が日本に着いた年であり、東大寺の大仏の開眼(かいげん)供養から2年後のこと。
外国には、パチンコも競輪も競艇もオートレースもない。あるのは、競馬とカジノやスロット、ビンゴ、ロトくらい。
外国の多くのカジノは、ギャンブルの敷居を高めるため、入場料をとり、身分証明書の提示を求めている。イギリスのカジノは、一般市民への宣伝は禁止、建物の外での広告も禁止されている。ギャンブル中の判断力を損なわないため、アルコールも禁止されている。そして、クレジットカードでの支払いも禁じられている。ところが、アメリカのカジノは正反対。
日本では、パチンコ・スロットは、全国津々浦々にあり、コンビニなみだ。
日本人の500万人以上がギャンブル障害をもっているというのに、厚労省は実効性のある措置をしていない。ギャンブル障害の3割にアルコール症が合併している。
日本は既にギャンブル王国なのだから、これ以上カジノをつくれば、文字どおりギャンブル地獄となってしまう。
ギャンブルとは、所詮、他人のポケットに手をつっこんで、自分のポケットにお金を移すような行為である。
ギャンブルは幸せを生まない。ギャンブルでえたお金で幸せになった人がいるのなら、胴元であるパチンコ業界や公営ギャンブルを運営している役所が大宣伝しているはず。
ギャンブルは幸せをこわし、犯罪を誘発する。ギャンブルがはびこれば、はびこるほど、国という器にひびがはいり、国も国民もつぶれていく。日本を、これ以上、重篤なギャンブル依存症国家にしてはいけない。
安倍政権はカジノで日本経済の向上を図るとしていますが、実は、そんなことにはならないことは、この本でも強調されています。パチンコ依存、ギャンブル依存とは何かを知りたい人、カジノに頼る日本経済振興というのはおかしいと感じている人には絶対おすすめの本です。
著者は北九州の精神科医であるのと同時に、たくさんの傑作を書いている文学者でもあります。
(2014年12月刊。740円+税)
2015年4月 9日
ユニクロ対ZARA
著者 斉藤 孝浩 、 出版 日本経済新聞出版社
ユニクロもZARAも有名な衣料品メーカーです。といっても、私自身は、どちらの店も入ったことはありません。とりわけ、ユニクロは世にも名高いブラック企業ですので、買うつもりはありません。若者を使い捨てにして、企業だけもうかるなんていう仕組みは間違っています。
まあ、それはともかくとして、世界的な衣料品店の販売戦略の違いがどこにあるのか、それを知りたくて読んでみたのです。
ユニクロが短期間に多店舗展開できたのは、店舗の標準化をすすめて、ローコストで出店できるようにしたこと、作業の徹底的なマニュアル化により、とくに洋服が好きな人でなくても、接客力の身についていない新人でも、誰でもできる店舗運営にしたから。
ユニクロは、購買客層が広がるユニセックス、ノンエイジ向けのベーシックに力を入れた。学生でも主婦でも、誰でも気軽に買える1000円や1900円の低価格にしぼったことから、客数が大幅に増えた。この二つの要素が掛け算となって集客力を高め、キャッシュフローが生まれ、店舗投資の回収スピードも加速した。
ユニクロは客数の多さが生み出してくれる商品回転の高さとキャッシュフロー、また販売数の増加によって信頼できる統計データとなった売れ筋情報をつかんだ。
ユニクロは、商品企画は1年がかり、しかし、週単位できめ細かく製造販売調節と原価管理を行う。つまり、製造と販売については、毎週、意思決定し、調節している。
1990年代にユニクロが一気に多店舗化を果たせたのは、店舗の業務マニュアル化のおかげだった。しかし、その反面、過度のマニュアル化によって、指示待ちの店長や良識・常識に欠けるスタッフが増えた。そのことに限界と危機感を覚えたユニクロは、個別店舗の成長に向けて、運営方針を180度変えた。それは、自店にどうして集客して、どんな商品を売り込むかを自ら考える「商売人としての店長」の育成だった。その店を生かすも殺すも、主(あるじ)である店長にすべてがかかっているのだ。
ZARAは、トレンドファッションに興味はありながら、高価なため百貨店では気軽に変えないという女性の、ドレスアップに対する欲求を満たすことを目ざしている。
ZARAの中心顧客は、世のなかでもっともファッションに気をつかい、お金もかける客層であるワーキング・ウーマン(働く女性)である。
ユニクロのコンセプトは、年齢を問わず、誰もが着用できるカジュアルウェアやインナーウェアであるので、求められるのは体にフィットしすぎず、窮屈でない着心地、機能性、申し分のない品質と洗濯耐久性。そのため、ユニクロの服は、多くの人が着用できるように、サイズは大きめにつくられている。
ZARAは、着る人を美しく見せるために、体に合わせ、ほどよくフィットする。
ユニクロもZARAも、1店舗あたりの売り場面積が大きく、店内では顧客が気に入った商品を自由に手にとり、試着して購入できる「セルフ販売」方式を採用している。
ユニクロは、ジーンズの標準販売期間を12週間に設定している。その期間中に、ベーシック商品を欠品させないため、安定供給のための選択と集中を実施する。
ユニクロは、厳選した工場で専用の縫製ラインを確保し、同じ商品を数十万枚規模で計画大量生産することで商品品質の向上と供給の安定を目ざしている。
売上げにバラつきの出るカラーやサイズについては、できるだけ直前に意思決定を行い、リスクを回避している。
ZARAも、ユニクロと同じく、春夏秋冬それぞれ1シーズンの販売期間を12週に設置している。そして、最初の時点では、用意される商品はシーズン販売予定の4分の1、3週間分の販売量だけ。
トレンドファッションを扱っているZARAでは、売れ筋商品を欠品させないように補充する考え方はない。ZARAは、出店国の百貨店価格のおよそ半額あたりを狙っている。なぜか?
消費者の購買心理である。50%オフ(半額)となると、興味のある商品なら、いま買わないと後悔すると迷わず購入してしまう。絶対的な安さを感じさせる値段だから・・・。
ユニクロは、年間52週、毎週金曜日に、金曜から月曜日までの4日間限定特別価格のチラシを新聞に折り込んでいる。ユニクロのプロモーションの根幹をなしているのは、今でも新聞の折り込みチラシだ。毎週のチラシに掲載する商品ラインナップと、その価格を決定することが、週間業務のなかでもっとも重要なことのひとつになっている。毎週金曜日に欠かさずチラシが届き、週末にユニクロに行けば、季節にあったお買い得商品が必ずある。この約束を果たす。チラシは、お客様へのラブレターだ。チラシの本質は号外。チラシで商品や店舗のイメージアップは無理。毎週のチラシで読み手を飽きさせないようにするのがコツ。
ZARAは、広告宣伝をほとんどしない。ZARAは店舗こそ、最大の広告宣伝と考えている。買い物体験が口コミで広がることを期待している。
ZARAが集客のためにこだわっているのは、週に2回、月曜日と金曜日に欠かすことなく新製品を投入し、同時に店舗の商品配置を替えること。
ユニクロは、都心部の駅ビルに進出するとき、家賃の高い下層階ではなく、大きな売り場面積のある上層部のフロアーを狙う。そして、1店舗あたりの売上げをあげるため、大型化、売り場面積の拡大をすすめた。
ユニクロの製品が中国で生産され、日本へ届くまで、ほとんどの商品の段ボール箱が一切開かれない。
ZARAでは、世界各地でつくられた商品は、いったんスペインに集め、そこから店舗ごとにまとめて世界87ヶ国へ配送される。すごいですね、信じられません。
ユニクロとZARAの商品の共通点と相違点とが、具体的に語られていて、本当によく分かる本でした。
(2014年12月刊。1500円+税)
2015年4月 5日
女たちの審判
著者 紺野 仲右工門 、 出版 日本経済新聞出版社
死刑囚を収容するのは刑務所ではなく拘置所。拘置所の職員が死刑執行を担当する。死刑を宣告される被告人だから何も本人に言い分がないかというと、そうとは限らない。そして、確定した死刑囚となったとしても、親兄弟そして妻や子などの関係者はいる。
この本は、刑務所・拘置所の現場を知った人(元職員)によるものだけに、臨場感にあふれています。
それにしても、熊本や福岡が舞台になっているのには、驚かされました。
たしかに、熊本県北部を舞台として凶悪な殺人事件が起きたことがあり、犯人は死刑が宣告されて確定したと思います。
そして、大牟田市が登場し、福岡拘置所が舞台となるのです。博多拘置所として登場します。
大牟田弁、博多弁が出て来ますので、私にはとてもなじみやすい本でもありました。福岡県南部の暴力団抗争事件も背景事情として描かれていますが、実際、少なくとも十数人が抗争によって殺されたと思います。
拘置所や刑務所の職員の派閥抗争も問題となってますし、名古屋であったような刑務官による被収容者(囚人)暴行事件も登場します。
そして、職員が被収容者の秘密通信を手伝う行為があることも描かれています。このハト行為は、結局、発覚してしまうのですが・・・。
私も20年以上も前、福岡刑務所内で銃の密造事件が発覚したとき、刑務所内でひそかにタバコを吸っていたことがあるという体験を聞かされ、驚いたことがあります。
ともかく、とりわけ弁護士には読んでほしい本だと思いました。
(2015年2月刊。1600円+税)
2015年4月 4日
日本語の科学が世界を変える
著者 松尾 義之 、 出版 筑摩選書
私をふくめて、英文は読めても英語で話すことはできないという日本人がなんと多いことでしょう。もちろん、みんな漢字かなまじりの日本語のほうは縦横無尽に使っているわけなんですが・・・。
幼児から英語を話せるようにすべきだ。大学での授業はオール英語にしよう、なんて言われると、英語を話せない私にとっては、とんでもなく怖い話にしか思えません。そんなに英会話ができる必要があるのでしょうか・・・。
ノーベル賞を受賞した益川さんは、授賞式のスピーチで英語は話せませんと宣言して、日本語で話したのでした。英会話のできない科学者でもノーベル賞をもらっているという事実を、どう考えたらいいのでしょうか・・・。
本書は、そのことについて大胆に答えています。日ごろの私の実感にもぴったり来る主張です。ぜひ、幼児英語教室万歳の人に考え直してほしいと思います。
日本人科学者の英語の話し下手は、広く知られている。しかし、その理解力には定評があるし、超一流の英語論文を書く。
日本人は英語ではなく、日本語で科学や技術の研究成果を展開している。
日本人のつかう日本語には、科学を自由自在に理解し、創造するための用語、概念、知識、思考法まで、十二分に用意されている。
なぜ日本人は日本語で科学するのか。それは英語で科学する必要がないからだ。日本語で最先端のところまで勉強できる。自国語で深く考えることができる。実は、これって、すごいことなのである。
母国語が日本語の人で、きちんと日本語で文章表現できない人が、英語できちんと科学を表現できるはずはない。日本語で論理的に考えられない人は、英語でも論理的に考えられない。
日本人科学者は、英語によるつまらない論文書きを、1割りでも2割でも減らしたほうがいい。
明治になる前、日本語には科学も技術も、そんな言葉は存在しなかった。
日本語が正確に使えないことには、日本文化の構成員とはなりえない。だから、英語よりも国語(日本語)教育を充実させることが大切(必須)なのだ。
中身がないのに、英語だけぺらぺらなんていうのは、使いものにならない。
英語がうまく話せない科学者でも、立派な英語の論文を書けるし、ノーベル賞までもらえることを多角的に実証した本です。
ノーベル賞なんかは無縁の私ですが、いつだって、英語で話せなくても世渡りはできると叫んでいます。還暦をとっくに過ぎ、日本語はそれなりに使えるようになったと自負している私の主張を大いに励ましてくれる本でした。
(2015年1月刊。1500円+税)
2015年4月 2日
徹底解剖・国家戦略特区
著者 浜 矩子・郭 洋春 、 出版 コモンズ
安倍政権のやっていることは富めるものはますます豊かにし、貧しい者は生存を保障しないというものでしかありません。すべては国民の自己責任だというのであれば、もはや政治ではありません。単に山賊の親分と同じです。
いま言われている新自由主義は新新自由主義という表現のほうが正確。なぜなら、人々の自由な展開をむしろ阻害する側面をもって広がっているから。
新新自由主義が求めているのは、強き者の自由であり、富む者の自由であり、大なる者の自由である。強いものがより強くなる自由、大きい者がより大きくなる自由、豊かな者がより豊になる自由を徹底的に追及する。
小泉純一郎には何の思想性もないけれど、「時の風」を読んで、新自由主義をもち込んだところ、どんどんウケてしまった。
アベノミクスとは、経済のことが何も分かっていない政策だから、何のミクスでもないというのが、もっとも本質的な評価だ。強兵路線を支える富国を実現するための政策パッケージであるという説明に尽きる。
アベノミクスは「取り戻したがり病」にかかっている。そのためには、弱き者、切り捨てられていく者のことなどに構っている余裕はない。弱者を助けるどころか、弱者がいるという現実そのものを見ない。
国家戦略と名づけられた「特区法」は、法治国家の基本的な手続を形骸化している。特区における減税や免税を法律上の手続を簡略化して容認するならば、日本の統治機構は崩壊する。
規制一般が、政府やマスコミによって悪いものというレッテルが貼られている。しかし、本当にそうなのか・・・。すべてが無駄で不要な規制とは言えない。たとえば、医療規制は適切な負担で安心して医療を受けられる医療保険制度を支え、労働規制は安定した雇用と適正な賃金を守っている。
安倍首相が激しく攻撃してやまない「既得権者」とは、実は大金持ちとか有力者ではなく、ごくごく善良な市民、つまり多くの働く国民なのである。
いま、安倍政権はTPP交渉を妥結させるのに必死になっていますが、これが実現してしまえば、日本の農業が畜産業界は大打撃を受けることが必至です。
マスコミ、とりわけテレビはNHKを先頭として、「与党協議」なるものしか報道せず、集団的自衛権のもつ本質的な怖さについて、ちっとも報道してくれません。
日本社会の現状に激しく警世の音を乱打している本です。
(2014年11月刊。1400円+税)
2015年3月31日
集団的自衛権で日本を滅ぼしていいのか
著者 半田 滋・川口 創 、 出版 合同出版
安倍政権の憲法改正に向けた第一弾は、教育基本法の改正だった。これは2006年12月のことです。子どもたちに「愛国心」を強制して、お国のために命を捧げよというのです。そして、教科書統制を一層強化しました。
第二弾は、防衛庁を防衛省に昇格させたこと。戦前の日本のようなカラ威張りする軍人がふんぞりかえる世の中なんて、サイテーですよね。
そして、第三弾として憲法改正のための国民投票が定められました。
航空自衛隊は、イラクでアメリカ軍の兵員と物資を輸送する活動をしていた。しかも、こっそり隠したというだけでなく、嘘までついて国民を欺した。
航空自衛隊が運んだのは、国連職員が2800人、陸上自衛隊員が1万人。ところが、アメリカ兵は2万人以上だった。そして、アメリカ軍の物資は、ほとんど運んでいない。人道支援と称しながら、人道支援物資は運んでいない。
この実態は、裁判のなかでようやく明らかにされたが、情報公開請求に対して黒塗り文書のみの公開だった。特定秘密保護法が制定された今日、このような事実は公表されないだろう。
安倍政権には、人間の判断は誤ることがあるという事への警戒心や謙虚さがまったくない。日本は、ロシアと北朝鮮・中国の軍事通信はかなり正確に傍受している。北朝鮮の通信を傍受して、ミサイル搭載のやりとりまで把握している。しかし、中東について日本はまったく手がかりすらなく、すべてアメリカから情報をもらうしかない。
官僚とって都合の悪い情報、判断に迷うものは秘密にされる。
秘密保護法は官僚を肥大化させてしまう。
日本の官僚は、能力の高いオレたちが国の舵取りをするので、国民は言うことを聞けばよいと考えている。お上(かみ)意識、命令する立場にいたいという意識でこり固まっている。
安倍首相の元気の源は、フェイスブック。37万人のフォロワー、ネット右翼(ネトウヨ)がほめたたえるので、自分はエライと錯覚し、ますます過激なほうへ行く。
これまで集団的自衛権が行使されてきた例をみると、ベトナムもアフガニスタンも、惨敗している。良いことは何ひとつなかった。
アメリカは、アフガニスタンとイラク侵略作戦のために150~500兆円もつかった。この膨大な軍事費の支出が、もとからあった貿易赤字と財政赤字という双子の赤字に拍車をかけた。その結果、オバマ政権は福祉や教育、医療という国内分野さらに外交政策で有効な手が打てないことにつながった。
アメリカが現在、国際社会でリーダーシップを失いつつあるのは、このアフガニスタン、イラク戦争の負の遺産である。
日本の自衛隊は、攻撃的な分野は弱いけれど、防御的にみると世界一強い。
日本は決して「丸腰」ではない。相手になかなか攻め落とせないという脅威を与えるに足りる軍事力をもっている。
テロとのたたかいは、相手が軍隊ではなく、特定できないために、必然的に無差別殺戮となり、憎しみが憎しみを生み、終わりがない。
際限なき憎悪が生み出され、際限なき戦争になってしまう。そのような泥沼の戦争に日本がまき込まれてしまいそうだ・・・。
もともと、尖閣諸島の上は米軍機や自衛隊機のP-3Cが飛んでおり、今もまったく変わらない。安倍首相の一連の言動こそ、日中韓の関係を悪化させている。
アメリカの戦争戦略は大きく変わっている。かつては若いアメリカ兵を犠牲にしても軍事的介入を優先する方針だった。今や、イギリス、日本そして韓国の衛星国に兵士を出させ、死ぬのは、アメリカ以外の国というシステムに変えようとしている。
日本がアメリカ言いなりに行動していて、何もいいことはない。そのことを実感させる本でもありました。大変歯切れよく、問題の危険な本質を対談のなかで明らかにしてくれる本です。
(2015年2月刊。1600円+税)
2015年3月28日
瞽女 キクイとハル
著者 川野 楠己 、 出版 みやざき文庫(鉱脈社)
なぜか宮崎の出版社から出た本ですが、テーマは新潟県で活動していた盲目の女性芸人集団・瞽女(ごぜ)の生きざまです。
生まれつき、あるいは病気によって失明してしまった女性が何を願ったか・・・。
次の世に生まれ変わるときには、たとえ虫になっても明るい目をもらいたい。虫になってもいいから、明るい眼がほしいと百歳のときに語ったハル。そこには視覚障害者なるが故に体験しなければならなかった苦難の数々が、いかに耐えがたいものとして、ハルにのしかかっていたかを物語っている。
鼓の下に目と女を書いて、瞽女・ごぜと読ませる。これは貴人の御前(ごぜん)で鼓を打って曽我物語を語るなどに携わっていたことからくる。元禄時代に三味線が普及してから、彼女たちも鼓を放して三味線を持った。
旅の途中でも、5月13日の妙音講には必ず出席するために帰宅する。瞽女たちにとっては年に一度の祭典である。髪を整え、似合った着物を着て集まり、仲間と健在をよろこびあう。
農村では、季節ごとに訪ねてくる瞽女を待っていた。ラジオがやっと始まったことのこと。娯楽としては、瞽女や浪曲語りが回ってくるのを待つ以外に、何もなかった。だから、瞽女の来訪は、村にとって「ハレの日」になる。
宿は「瞽女宿」と呼んだ無償で泊めてくれる大きな農家があった。その家では代々瞽女の世話を引き受けていた。
組ごとに決まった旅をもち、一つの村にいくつかの組が時期をずらして訪れていた。高田瞽女は、上越全体に100件もの宿をもっていたようだ。
瞽女の旅は、通常3人か4人が一組になって歩く。一行のなかで、弱いながらも視力のあるものが先頭に立つ。
農家の間口の戸を開けて、「ごめんなんしょ」と奥に声をかけて三味線を弾きだし、3分ほどの「門付け唄(かどつけうた)」をうたう。この門付(かどつけ)は、瞽女の一行がこの村に北ことを知らせる役割がある。
宿の家では、間仕切りの襖を外し、表座敷を開放して臨時の会場をつくる。
瞽女たちは、口説(くどき)、民謡、段物を次々にうたい続ける。終わるのは、夜10時、11時になることがある。演目は、驚くほど広い。
ストーリーのある八百屋お七、佐倉宗五郎、小栗判官(おぐりはんがん)、照手姫(てるてひめ)、葛の葉子別れなどの古浄瑠璃を中心として、段物(だんもの)と呼ばれる「瞽女松坂」地震・災害・心中事件などのニュース性のある話題を歌い込んだ口説(くどき)清元、端唄、新内から、民謡や流行りうたなど、あらゆる分野にまたがっている。
そして、瞽女が途中の村々で仕入れた情報も伝えられる。瞽女は、芸能と情という文化を村人に伝える存在なのだ。
瞽女社会には、男の肌に触れることは、能動的であろうと、受動的であろうと許されないという厳しい掟(おきて)がある。瞽女には、結婚は許されない。結婚すると瞽女仲間から離脱し、二度と戻ることは出来ない。
文字ではなく、すべて聞いた音で覚え、三味線を弾いて語り、うたうという瞽女の声をぜひ聞いてみたいと思い、この本に紹介してあるのを早速注文してみました。なるほど、80歳とか90歳とは思えない張りのある声でした。
(2014年10月刊。2000円+税)
2015年3月27日
「カジノで地域経済再生」の幻想
著者 桜田 照雄 、 出版 自治体研究社
カジノに頼る経済なんて、そもそも発想が間違っています。
そして、この本は、カジノに頼って地域経済が再生するなんて、嘘っぱちだと実証しています。アベとかハシモトのインチキ宣伝に乗せられてはいけません。
「IR型カジノ」の基本的な考え方は、エンターテインメントやショッピングなど、魅力ある「楽しみ」を提供する施設を組み合わせた複合施設を集めることで、観光客の大幅な増加を図ろうとしているもの。そのなかで、カジノ施設が、今までにない「楽しみ」を人々に提供する集客施設として位置づけられている。
コンベンションを誘致する「切り札」としてカジノが考えられている。
九州では、カジノに頼ることを北九州、佐世保(ハウステンボス)、別府、宮崎(シーガイア)、沖縄が名乗りをあげている。
おぞましい、恐るべき事態です。
賭博はコントロールできるか?現実には、人間の脳への刺激に起因する依存症の発症をコントロールすることは出来ない。
カジノは、既存のビジネスを共喰い(カニバライズ)する。大阪のUSJの経済波小効果は5900億円だったが、地元の商店街は潤っていたという事実はない。
カジノのもうけは、「客の負け分」にほかならない。大阪にカジノがオープンしたとしても、すでに飽和状態にある商業施設のなかで、多くの競争相手を向こうにまわしてカジノが生きのびるという保障はまったくない。
かつて30兆円産業といわれた日本のパチンコ産業も、今では20兆円を大きく下まわっている。4割近く落ち込んだ。パチンコへの参加人口も、1790万人(2004年)から970万人(2014年)へと、半減している。
そのなかで、マルハンとダイナムの2社で、半分の売上げを占めている。カジノと両立できるパチンコ店というのは考えられない。
アメリカでは、IR型カジノが次々に閉鎖に追い込まれている。
カジノは、バクチです。人の心を荒廃させ、まわりに不幸を持ち込むものです。そんなものにたよる社会は不健康ですし、長続きするはずもありません。
大阪の橋下市長も、安倍首相も狂っているとしか言いようがありません。ところが、そんな彼らが、子どもに道徳教育を強制しようとするのです。世の中は、本当にわけが分かりませんよね。どうなっているのでしょうか。有権者は、一刻も早く目を覚ますべきだと思います。
(2015年1月刊。1100円+税)
2015年3月23日
うつの医療人類学
著者 北中 淳子 、 出版 日本評論社
過労が続き、心身に過重なストレスがかかって「うつ」になると、自分の責任じゃない、この会社を辞めたらいいと普通に考える余裕を失い、自分が悪いとか、苦しみはずっと続くという心理的な視野狭窄の状態に陥ってしまうことがある。
真面目で、責任感の強い人がうつ病になりやすいという性格論は、日本とドイツの一部を除いてはほとんど聞かれない。しかし、臨床の現場では、圧倒的な説得力をもって長く支持されてきた。
自殺とは、自らの意思にもとづいて死を求め、自己の生命を絶つ目的をもった行動である。精神障害による自殺では「意思」そのものが病に侵され、自分の行為のもたらす結果を十分に理解できないとされるため、厳密な意味では、「病死」(過誤死・疑似自殺)として理解される。
WHO報告は、自殺者の9割は、何らかの精神障害を病んでいるとする。
精神科医が治療対象とみなすのは、自殺一般ではなく、あくまでも「精神障害」による「病的絶望」なのである。
精神科医は、初診患者と会うとき、部屋に入ってくる瞬間から、その姿勢、表情、声のボリューム、挨拶の仕方、椅子の腰かけ方、話し方を仔細に観察し、根底に何らかの病理が潜んでいるのかを読みとろうとする。
睡眠、食欲、体重の変調と気分の変化という、うつ病の主症状に関して質問する。精神科医にもっとも根本的な問題を突きつけるのは、慢性の精神病患者が、みずからの病に絶望しておこなう「覚悟の自殺」である。
「精神療法は」は、15分しても1時間しても、保険診療で支払われる報酬は同額。だから、医師が精神療法的なかかわりに時間をさきたくても、より早くより確実な効果の期待できる薬物治療に専念し、診察できる患者数を増やさないことには、病院の経営が成りたたない困難な状況が続いている。
医師の自殺率は高いが、そのなかでも精神科医の自殺率は圧倒的なトップを占める。実際に起こってしまった患者の自殺ほど、医師に深いダメージを与える経験はない。
現在、世界規模で進行中の、うつの医療化の特徴は、うつ病が仕事や生産性という「公的領域」でとらえ直されている。また、うつ病への懸念が男女平等に向けられている。
うつ病をストレスの病とする考え方が広く流布する契機となったのは、1990年代以降の過労うつ病、過労自殺裁判である。これらの判決によって、うつ病は「誰でもなる病気」だということが立証された。
うつ病について、アメリカでも学んだ著者による日米比較もふくむ、興味深い人類学の学者による本です。
(2014年9月刊。2400円+税)