弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

社会

2010年6月25日

「沖縄核密約」を背負って

 著者 後藤 乾一 、岩波書店 出版 
 
 私は国際政治学者だった若泉敬(けい)なる人物をはじめて知りました。沖縄返還の日米首脳交渉に首相の特使として深く関与したという人物です。当時は、まだ30代半ばの気鋭の学者でした。佐藤栄作首相の特使として、隠密裡にアメリカ側のキッシンジャー大統領補佐官(のちに国務長官)と交渉していたのでした。
表面に出た日本合意は、実はは裏に密約があり、それを否定しつつ、佐藤首相は「非核三原則」を貫いたとしてノーベル平和賞を受賞したというのです。とんでもないペテンです。でも、考えようによっては、表に出た「非核三原則」がノーベル平和賞をもらったということで、日本政府をしばり、国際平和の維持に結果として多少なりとも貢献したことになるのでしょうね・・・・。
 若泉敬は戦後の東大で新人会に関わったが、これは戦前の同名団体とはまったく関係なく、むしろ反共リベラルの団体だった。沖縄がまだアメリカ軍政下にあり、復帰運動に対して、そんなことは共産主義者に利用されるだけだからやめとけという脅しが公然となされていた時代です。
 佐藤首相は、1965年1月、マクナマラ国防長官との会談のとき、海上の核兵器の持ち込みは容認すると発言した。いやはやひどいものです。二枚舌も、ここまで来ると許せません。といっても、鳩山前首相も同じようなものでしたね。いずれも、アメリカには、ひたすら従順に服従するのみです。菅首相も、就任直前、いのいちばんにアメリカのオバマ大統領に電話して日米合意を守ることを約束しました。国民に対して十分な説明をするより前にですよ・・・・。
 1965年1月、佐藤首相は初めて訪沖し、沖縄の祖国復帰が実現しない限り、日本の戦後は終わっていないという声明を発表した。1969年5月、日本は沖縄にあるアメリカの核兵器の存続を認める秘密合意議事録を作成した。つまり、緊急時にアメリカは核兵器を沖縄に持ち込むことが出来ることを日本は認めたのです。
 表向きは「核抜き全面返還」としつつ、裏では「暗黙の了解」としてアメリカの核持込みを日本政府は許したのでした。これこそ二枚舌の典型です。アメリカは、沖縄に現存する核兵器の貯蔵地、カデナ、ナハ、ヘノコ、・・・・の基地をいつでも使用できる状態としておき、重大な緊急事態が生じたときには、活用できるものとする・・・・。(1969年11月21日)。
 「核密約」なるものは、いくつも存在したようです。今もって、その全貌が明らかになっているとは考えられません。
 また、主人公の晩年が幸福なものだったとは思えない記述もあります。「核密約」の一端を知るうえで、大変貴重な資料となる本でした。

(2010年4月刊。3600円+税)

2010年6月13日

キムラ弁護士、小説と闘う

著者:木村晋介、出版社:本の雑誌社

 私の敬愛するシンスケ先生の最新作です。この本を読んで、私は早速、3冊の本を注文しました。読書中毒症の私は、他人(ひと)が素直に面白いと言ってすすめている本はなるべく読むようにしているのです。
 書評でもない、評論でもない。裁判記録を読むように小説を熟読玩味する、キムラ弁護士ならではの面白小説論。
 オビに書かれた、このキャッチフレーズのとおりの本でした。
 いやはや、よくぞここまで読み尽くし、また書き尽くしてあるかと、ほとほと感嘆・感動、感銘を受けました。
 たくさんの本がとりあげられています。年間500冊以上の読書量を誇る私ですが、その大半は読んでいない本でした。というより、読んだ本は何冊かしかなく、我ながら不思議に思ったほどです。
 シンスケ先生は「月光仮面」にあこがれ、「ペリーメイスン」をみて弁護士を志したということです。「月光仮面」をみたのは私が小学生のころです。まだ我が家にはテレビがなくて、よその家で見せてもらっていたように思います。
 近くの銭湯には、奥の居間にテレビがありました。内風呂はありますが、銭湯を利用しないとテレビをみせてはもらえませんので、銭湯に入ったこともありました。
 紅白歌合戦の何日か前、テレビがついに我が家にもすえつけられて大喜びしたことを思い出します。
 「ペリーメイスン」は、日曜日の午前中に放映されていた記憶があります。私の実家は小売業の酒屋でしたから、毎月1回、掛け売りの集金と空き瓶の回収に社宅をまわりました。そのとき、テレビで「ペリーメイスン」をやっていて、見れないのが残念だと思っていました。
 シンスケ先生、これからも落語とあわせて書評にもぜひ健筆を奮ってください。
(2010年2月刊。1600円+税)

2010年6月12日

生きるって、人とつながることだ!

著者:福島 智、出版社:素朴社

 9歳で失明し、18歳で聴力を失った「全盲ろう者」の著者が東大教授として活躍しています。見えない、聞こえないのに会話は出来るのです。なぜか?指点字という方法があるのです。図解してありますが、両方の手指のうちの両手3本ずつを使います。親指と小指は使いません。これで、五十音だってアルファベットだって数字だってあらわせるのです。しかも、母親が思いついたというのです。すごいです。えらいです。
 ちょっと見ただけでは覚えきれません。必死になれば身につくのでしょうね。同級生がまたたくまに覚えてそうですから、意欲さえあれば覚えて使えるようです。
 盲ろう者にとって、香りあるいは匂いは大切な情報源である。香水やシャンプーの香りだけでなく、さまざまな匂いに敏感になる。
 香りは実生活に役に立つというだけでなく、心に対しても不思議な作用を及ぼすらしい。香りが思い出と結びついているのも、その一つだ。
 私にとって干した稲ワラの匂いは子ども(小学生)のころ、田舎(大川)のおじさん(父の弟)宅の田んぼにあった稲ワラ積みの匂いです。その匂いをかぐと一瞬にして小学生の夏そして冬休みに記憶が戻ります。そして、この匂いは魚(フナ)釣りの思い出に結びついています。おじさん宅の前のクリークで夕方まで魚釣りをしていました。
 盲ろう者にとって大きな楽しみの一つは食べることである。視覚と聴覚を奪われているだけに、味覚と嗅覚は敏感だ。いきおい、食べることへの執着が深まる。といっても、必ずしも一般の人に比べて盲ろう者の鼻がいいとか、舌が肥えていることを意味するわけではない。目と耳から入る情報がないので、いわば「味そのもの」が純粋に感覚の対象になるということ。
 盲ろう者には本好きが多い。後天的に視覚と聴覚を失った人の場合、まず例外なく読書家である。盲ろう者のなかには、毎日、朝から晩まで本ばかり読んでいるという人がいるが、これは誇張ではない、
 盲ろう者はテレビが見えず、ラジオも聞けない。一人で散歩もできないし、電話で気軽におしゃべりを楽しむことも無理だ。一日中、することがない状態に置かれる。こうした状況下では、多くの盲ろう者は本を読まずにはいられない。外界の情報から隔絶された自らの希薄な現実自体を読書によって埋めようとする側面がある。
 ただし、生まれつき、あるいはごく幼い時期に盲ろう者となった人は本に興味の持てない人が少なくない。
 引越のときに苦労したのは点字書。やたらにかさばる。点字書だけでダンボール箱  150個ほどにもなる。うへーっ、そ、そうなんですね・・・。驚きました。
 すごい人です。読んでいるうちに元気が素直にもらえる、いい本です。
(2010年3月刊。1600円+税)

2010年6月10日

名著講義

著者:藤原正彦、出版社:文藝春秋

 中学生のころ、大学入試問題の数学(幾何)をすらすら解けたというのですから、私なんかには想像もできない天才的頭脳をもった数学者です。ところが、父親がかの新田次郎で、その血を受け継いだのでしょうか、文章も見事で、ともかく読ませます。
 東大に入って、3年生になって本郷に行ったとき、それまで自分より優秀な人間がいると感じたことはほとんど無かったけれど、初めて世の中にはずいぶん優秀な人間がいると驚いたというのです。まるでレベルの違う別世界の話ですね。
 著者は、仕事をなしとげるのに大切な三要素があるといいます。
 その一は、野心。身分相応な望みだけでは発展は望めない。野心があってこそ困難な研究に乗り出すことができる。
 その二は執着心。とにかく諦めないこと。執着心がなければ、大きなことを成し遂げることはできない。
 その三は楽観的であること。これがもっとも大切。自分を客観的に見たら人間は生きていけない。おめでたくてよい。主観的でいい。楽観的でないと脳が全開しない。楽観的でなければ、挫折したときに立ち直ることができない。
 いやあ、実にいい指摘ですよね。売れないモノカキである私も、これまで同様、うまずたゆまず、書きすすめていきたいと改めて思いました。
 この本は、著者の勤めるお茶の水女子大学で十数年にわたって読書ゼミを続けてきたものの一端が再現・公開されたものです。
 ゼミ受講生になるには2つの条件がある。その一つは、毎週1冊の文庫を読む根性があること。その二は、毎週1冊の文庫を買う財力があること。
 ゼミを再現するにあたっては、文藝春秋の20代末の女性編集者がジーンズをはいて 10歳も若づくりしてゼミに潜入し、録音テープをまわしたといいます。これまた、すごい取材方法です。
 取り上げられた本は、福沢諭吉、内村鑑三、「きけ、わだつみの声」「逝きし世の面影」「忘れられた日本人」「山びこ学校」などです。
 日本の国の昔の実際の姿に今どきの大学生が接したときの率直な驚きも再現されていて、大変面白い内容となっています。
 江戸時代260年間に切腹や戦争で死んだ人は恐らく合計で1万人以下。そのころ、世界の主要国は、どこも、その間に戦争や革命で数十万人から数百万人も死んでいる。
 武士の支配した江戸時代は、残酷どころか、世界的に輝く平和の時代であった。
 戦後、日本の経済復興がとてもうまくいったのは、理工系の人々が徴兵延期となって戦争にそれほど行かなかったから。学徒出陣したのは、主として法文系の学生だった。
 1820年代に長崎出島にいたオランダ人フィッセルは、専制主義は、この国(日本)では、ただ名目だけであって、実際には存在しないとした。
 大変興味深く読みとおしました。
(2009年12月刊。1500円+税)

2010年6月 6日

もうひとつの剱岳・点の記

著者:山と渓谷社、出版社:山と渓谷社

 明治40年、前人未踏の山・剱岳に挑んだ男たちを描いた映画「剱岳・点の記」の撮影のときの裏話と写真が満載の本です。
 ラストシーンに手旗信号が出てきます。これは、原作にはありません。木村大作監督のアイデアでした。遠くにいる人にも心は通じるという思いを込めたこのシーンは、本当にいちばん最後に撮られた。なーるほど、よく撮られた、感動的なシーンでした。
 映画制作に2年、ロケで200日は山に入った。機材を持って自分の足で歩き、自分の荷物は自分で持つ。山小屋では雑魚寝だし、テントにも泊まる。
 ロケ中は、撮影場所まで行くのが一番大変だった。主人公の柴崎芳太郎が測量した27ヶ所のうち22ヶ所をまわった。片道9時間もかけて現場へ行って、撮影したのは2カットだけということもあった。
 撮影の途中でスタッフがケガをした。これによって、山には危険がつきもの。無理をしてでも行きましょうという案内人・長次郎の台詞が生まれた。
 木村監督はヘリコプターをつかっての空撮はしなかった。ヘリでは風景になる。ドラマは感じない。歩いて、人の目線で撮ると、それだけで、ドラマになるんだ。
 撮影は瞬発力。準備も、技術も、理屈も、考えている時間はない。いきなりトップギヤで突っ走るしかない。自然も待ってはくれない。
 新田次郎について語った娘の話。マスコミによく登場する歴史学者が手に山ほどの本をかかえて、新田次郎にこう行った。
 「いいですねえ、小説家さんは。ペンと原稿用紙さえあれば書けるんですから」
 新田次郎は次のように言い返した。
 「いいですねえ、学者さんは。本さえあれば書けるんですから」
 新田次郎は、歴史学者は史実を正確に把握、読解し、言い表さなければならない。小説家は、その史実と史実の間に埋没している人間の苛烈な深層心理を書くのだと言いたかったのだろう。
 モノカキ志向の私には、この深層心理を書くという点が課題だと痛感しています。
 剱岳の神々しいまでに美しい写真の数々に魅せられてしまいます。でも、寒さに弱い私は、それに勇気もありませんので、写真をじっと眺めるだけで良しとしておきます。
(2009年7月刊。2000円+税)

2010年6月 4日

わが記者会見のノウハウ

佐々 淳行  著 、文芸春秋 出版 
 確かに不祥事は、いかなる団体、組織にもつきものです。それが発覚したとき、トップはいかに対処すべきか、また、部下は上司に対してどう進言したらよいか、日頃から考えておくべきことでしょう。
 私も、前にも書きましたが、弁護士会の役員をしていたとき、2回にわたって苦しい記者会見をさせられました。そのとき、日頃なじみのある記者も、ない記者からも厳しい質問が飛んできました。これは立場の違いから、仕方ありません。もっとも、日頃の飲みにケーションも私は不十分だったのは事実です。なにしろ、当時も今も、二次会には行かない主義ですから。それより私は一人で本を読んでいたいのです。
 そのとき私が心がけたのは、テレビカメラの回っている場なので、第1に自分からは決して席を立たないようにしよう、後ろ姿を撮られて「逃げるのか」という罵声を浴びせかけられるようなことはしないこと、第2に、質問に対しては出来るだけ誠意をもってカメラ目線で正面を向いて答えようということでした。記者会見は2回とも思ったより長く、30分以上もかかってしまいましたが、幹事の記者から、「これでおわります」という言葉が出て、カメラが閉じられるまで席を立ちませんでした。成果の報告、売り込みならニコニコしてやれるわけですが、なにしろ不祥事にともなうものでしたから、笑っているわけにもいかず、苦虫をかみつぶしたような顔で終始していなければならず、それも大変でした。
ちょっとした交通事故を息子が起こしたときに、どうするか?
 しかるべき地位にいて多忙な父親が、多すぎず、少なすぎずの額の現金をもって率直な謝罪に行くことがポイント。金額は、当座の費用として加害者が持ってくるだろうと先方が思っている金額の2倍が目安。本人に命じて、残高ゼロの預金通帳を差し出す。現金は10万円でも30万円でもいい。モノを言うのは、残高ゼロの通帳である。
 なーるほど、こういう手もあったのですね・・・・。
ひとたび問題が起きたときは、最初の動きが非常に重要である。危機管理の記者会見は、最初の一言で勝敗が決する。
 不祥事や失言など、問題の起きたときの「守りの記者会見」こそ、広報担当官の真価が問われる。このときは、すべての記者を敵に回すような、逆境での記者会見になる。
 正しいユーモア感覚の持ち主でないと厳しい攻撃的な記者会見は乗り切れない。隠したがり屋や杓子定規な官僚タイプの人、自分のコントロールができてない人も向かない。
 事前に打ち合わせをして、言ってはいけないことを確認してから発表の場にのぞむ。何でも聞かれたことには答えているかのように見せかけつつ・・・・。なるほど、なるほど、です。
 記者会見は、言葉による危機管理であり、言葉のたたかいである。言葉はたたかいの武器であり、平和を回復させる手段にもなる。単に前例を踏襲すると失敗する。緊急会議に集まった5人なら5人の、人生50年の集大成みたいな一言、これが組織の危機を救う。
 謝るのなら、誰に向かって謝るのか、はっきりさせておく必要がある。
 一語一句に注意を払いながらも、誠意と人間味をもって対応する。
 ネバー・セイ・ネバー。危機管理の鉄則である。「決して」と「決して言うな」。二度と決してこのようなことは起こしませんとは、絶対に記者会見で言ってはいけない。どれだけ最善を尽くしても、また起こってしまうことがある。努力してもゼロには出来ないことがある。
 新聞記者と犬と責任は、逃げると追ってくる。これを肝に銘じる。社会部の記者は猛獣である。それほどでなくても、政治部の記者も半ば猛獣である。手なずけているつもりでも、ガブッとやられる。猛獣然としていないだけに、かえって危険な面がある。
 ただ、「一切しゃべるな」では、口止めにならない。これは話してはいけないという、ネガティブリストの作成なしに「一切言ってはいけない」では、口止めにならない。あの全裸事件を起こした直後の草なぎ剛の謝罪記者会見のとき、最長28秒の沈黙があり、5秒ほどの沈黙は10回もあった。このことについて、ワイドショーは、自分で言葉を選びながら誠実に答えていたと評価した。普通なら、28秒もの沈黙は許されない。
いろいろ大変勉強になる本でした。  
(2010年2月刊。1524円+税

2010年5月29日

宮本常一が撮った昭和の情景(上・下)

著者:宮本常一、出版社:毎日新聞社

 昭和30年(1955年)から昭和55年(1980年)まで、宮本常一が日本全国を駆けめぐって撮った写真の数々です。宮本常一の撮った写真10万枚には、相手を不快にし、怒らせるに違いない、一歩も二歩も踏み込まないと撮れないようなカットは1枚もない。
 旅に出るときの注意4ヶ条。
第1。汽車に乗ったら、窓から外をよく見る。田や畑に何が植えられているか、育ちは良いか。家は大きいか小さいか。瓦屋根か草葺きか。駅に着いたら、人の服装に注意せよ。駅には、どんな荷物が置かれているか。
第2。新しく訪ねた土地では、必ず高い所に上がって、方向を知り、目立つものを見よ。そして、目立つものを見つけたら、そこへ行って見ること。
第3。お金があったら、その土地の名物や料理は食べてみよ。暮らしが分かる。
第4。時間のゆとりがあったら、できるだけ歩いてみること。
これを読んで、私は昨年5月に秋田県能代に行ったことを思い出しました。歩いて海岸近くの林に行き、そこにある散歩コースを歩いてみました。そして、夜は侘びしい町の居酒屋で食事をして、少しだけ能代の町の素顔を知った気分になりました。たしかに自分の足で歩いてみると、車で通過するだけでは見えないものが見えてきます。
不思議な魅力のある写真集だ。ほっとする温かさ。以前に眺めた気のする懐かしさ。この町、この村なら、行ってみたい。住んでみたいと思わせる落ち着き、静けさ、佇まい、このように感じる人が多いだろう。
まことにそのとおりです。昭和30年というと、私が小学校に上がる前のころです。近くに大きな炭鉱社宅がありました。大勢の子どもたちが群れをなしてメンコ(私はパチと呼んでいました)遊びをしていました。
父の郷里の農村地帯(大川市内)にいくと、大きな黒光りのするカマドがあり、混浴の共同浴場がありました。家は、どこもカヤぶきです。父の実家には白亜の土蔵も2つありました。昔は小屋で馬を飼っていたようです。
昔なつかしい写真のオンパレードです。幸いにして、私は父母たちの写真集を引き継いでいますので、少し整理してコンパクトな写真集にまとめてみようという気になりました。
(2009年6月刊。各2800円+税)

2010年5月26日

不幸な国の幸福論

著者:加賀乙彦、出版社:集英社新書

 私よりも20歳も年長ですし、お会いしたこともありませんが、著者に対して私は一方的に親近感を抱いています。というのも、学生時代にセツルメント活動をしていたという共通点があるうえに、40年前の東大闘争について、学生と教官との違いはあっても参画し、その体験をふまえて自伝的小説を書きすすめているところも同じだからです。しかも、フランス語を話せる(私は、ほんの少々でしかありませんが・・・)ことまで似ているからです。
 80歳を過ぎても、こんなに素晴らしい本を書いておられることに対して人生の先達として心から敬意を表します。
 なんと、75歳のとき、韓国語を始めたというのです。
 記憶力が衰えるのは脳をつかっていないからだ。何か新しいことをやれば活性化するのではないかと思い立った。年をとると生命力も枯れていくのか、好奇心や他者に対する関心が薄れ、どうしても自分とその周辺のことだけに心が向きやすくなる。だからこそ、意識して、これまで興味をもったことのないものに挑戦したり、初めてのものを見たり、聞いたり、味わったりしたほうがいい。そうすれば、昨日と同じ今日の繰り返しに慣れてしまっていた脳が大いに刺激され、活性化する。
 とっくに還暦を過ぎてしまいましたが、幸いなことに好奇心だけは薄れることがありません。次からが、この本のメインです。
 現代人は、問題に直面したとき、それをどう解決していくかという内省力、しっかりと悩み抜く力に欠けている。
 真に悩み、悩み抜くということは、自身の苦悩を材料に考え抜くということでもある。ふだんから何か問題が起きたとき、その遠因と近因を多角的、客観的に分析し、今の自分にできる対策は何かと考える習慣のある人は、自己憐憫の罠や自分の不幸を誰かのせいにしたくなる心の動きに、そう簡単に飲み込まれはしない。
 残念ながら、日本人は、概して自分の頭で考え抜くという作業が苦手である。
 しかも、現代社会は私たちから「考える」という習慣を奪いつつある。
 日本とフランスの統合失調症の患者の悩みがまるで正反対というのに驚きました。フランス人は、他人と顔や心が同じになってしまった、みんなと同じになった、自分の独自性がなくなったといって悩む。ところが、日本人は、みんなと違ってしまった、だから嫌われ、仲間はずれにされてしまうといって悩む。たしかに日本人は横並び思想って、根強いですよね。
 親に知られない秘密をもつ権利、つまりプライバシーの権利への要求こそ、最初の他者である親と自分との境界を確立し、自我意識を発達させるためのもっとも重要な要素なのだ。
 秘密をもち、それが保たれることで、母親と一体化していた幼い子どもの内に「自我」が芽生える。自分と親、ひいては自己と他者とのあいだに境界線が引かれ、自分という存在を意識するようになり、一人ひとりの人間を唯一無二の存在たらしめている人格の中枢部分が発達しはじめる。
 だから、子どもが秘密をもったら、親はその子が自立心を養いはじめたあかしとして喜ぶべきなのである。
 なーるほど、そういうことなんですか・・・。
 日本人本来の性向としては集団主義が好きでは決してないのに、日々の生活のなかでは無理をして集団主義的にふるまっている。
 人間にとって、他者に認められることは大きな喜びだ。だからといって、自分の評価を他人だけにゆだねてしまってはいけない。自分を自分で評価できること、自分という人間がこれから変わっていく可能性を秘めていることを忘れてしまったとき、人は自らを不幸へと追いやることになる。
 自殺者は年間3万人をこえる。10年間の累計は36万人に近い。日露戦争のときの戦没者は8万8千人。3年に一度、日露戦争をしているようなもの。日本の自殺率は主要先進国のなかでは突出している。アメリカ、カナダの2倍、イギリスの3倍。そして実は未遂者が10倍はいると推定されている。日本は年に30万人もの人が自殺をはかっている国なのである。
 幸福を定義しようとしてはいけない。幸福について誰かがした定義をそのままうのみにしてもいけない。
 本当によくよく考えさせられる、味わい深い本でした。一読をおすすめします。
(2009年12月刊。720円+税)
 青森県にある三沢基地を小雨の中見てきました。湖に面して巨大な通信傍受施設があります。ゾウのオリと呼ばれていますが、なるほど圧倒されるほどの大きさです。おもいやり予算(年に2千億円)で作られた立派なアパート群も見ました。アメリカの将兵は本当に大切にされています。
 案内してくれたタクシー運転手の男性は私と同世代でしたが、アメリカ軍と三沢氏は共存共栄している、普天間基地の代わりを引き受けてもいいという口振りでした。三沢市長は公式にそのように言っているそうです。三沢市民の5人に1人がアメリカ軍の将兵と家族だそうです。何の産業もないところですので、生活の糧になっているようです。
 それでも私はアメリカ軍の基地が日本にあるのはおかしいし、戦争を招くだけだと思うのです。皆さん、いかがでしょうか。

2010年5月22日

日本のモノづくりイノベーション

著者:山田伸顯、出版社:日刊工業新聞社

 日本は世界に冠たる貿易立国として、国際収支の黒字を続けている。輸出の大きなウェイトを占めるのが製造業で生み出した財で、そのうち機械金属の工業製品が76%を占める。
 そのモノづくりの地位が低下しつつある。さあ、どうするか・・・。
 東京都大田区にある中小零細企業が日本のモノづくりを支えていること、まだまだ日本も捨てたものじゃないことがよく分かり、門外漢が読んでも元気が出てきて、大いに応援したくなってくる本です。
 量産体制を成り立たせるには、それを支える技術(支持産業)が必要である。次々と変化する時代の先端的産業を担う特殊技術や製産分野の中間技術を下支えする底辺の技術で、この基礎的技術が、産業技術全般の発展には不可欠である。これが不十分だと、その国の産業の自立的発展が困難となる。この技術を基盤技術という。
 日本の産業が国際競争において圧倒的に優位だったのは、この基盤技術がしっかりしていたから。ところが、現在、この基盤技術が揺らいでいる。この習得には時間と根気を要する熟練技能そのものであるが、苦労して技能を受け継ごうとする若者が少なくなっていることにもよる。
 大田区の工場は、1983年がピークで、9190、2003年に5040、2005年には4778になった。20年間で4000以上の工場が消滅してしまった。
 海外進出しても、生産技術の生まれる生産拠点を日本国内に温存し、国内を空洞化させないことが日本の企業にとって重要な経営戦略である。
 高校生に工場に入って現場で実戦させる教育がすすんでいることに感嘆しました。そうですよね、これが必要ですよ。
 1年は2週間のインターンシップを年に3回、2年生は2ヶ月の長期就業訓練、3年生も2ヶ月だけど、希望によりさらに2ヶ月の訓練を受けられる。
 職場体験学習が広まることにより、子どもが社会に対する認識をもち、生きることの目的を考えるようになる。受け入れる企業の側では、未熟な若者に教える経験を通して、工程を見直して分かりやすくするなど改善し、社内に新たな刺激をもたらしている。
 そうなんですね。未熟の若者に教えるのは企業にとっても、単なるボランティアだけでなく、それなりのプラス面もあるわけです。
 特許についても、小さな町工場が超大企業と対等の立場で契約したり、見える理論部分だけ特許をとって他の人には分からない電子回路についてはあえて特許を取らないという工夫が紹介されています。町工場が生き抜いていく知恵ですね。
 町工場のいろんな工夫が盛りだくさんに紹介されている面白い本です。
(2009年1月刊。1800円+税)

2010年5月20日

在日米軍最前線

著者  斉藤 光政  、 新人物文庫 
 日本とアメリカによる3年かかりの壮大なガラガラポンの果てに姿を現したのは、アメリカ軍によるさらなる基地強化、つまり日本列島の前線化にほかならなかった。それは、戦略展開拠点ニッポンの現実だった。
 「世界の警察」を自認し、世界中のどこにでも即時に出撃することを前提としているアメリカ軍は150万人の大兵力を世界の5つの地域に分けて展開している。この統合軍で最大規模を誇るのが、ハワイに司令部を置く太平洋軍だ。
 太平洋軍の総兵力は30万人。在日アメリカ軍は、陸軍2千人、海軍5千人、空軍1万4千人、海兵隊1万8千人の計3万9千人。このほか、太平洋艦隊第7艦隊1万2千人がいるので、太平洋軍の6分の1、5万人が日本列島を拠点に活動している。
 私は、近く(5月末に)青森の三沢に出かける予定です。この三沢にはアメリカ軍の第35戦闘航空団が常駐しています。
 三沢基地には、戦闘機F16Cファイティングファルコン40機が配備されている。この航空団は、敵防空網の制圧と制空権の確保が目的であり、全軍の露払いを使命とする。
 三沢基地には、「ゾウのおり」と形容される巨大な円形アンテナと、14基の大型パラボラアンテナが林立するパラボラアンテナのうち4基は秘密通信傍受システム「エシュロン」に使われていて、軍事スパイ網の要となっている。
 アメリカは、青森県を「友好的で、アメリカ軍基地に対する抵抗感が強くなく、機密保持に適した場所」とみている。三沢基地には、アメリカ軍がF16を2個飛行隊かかえ、自衛隊がF2を2個飛行隊かかえる。つまり、80機の攻撃飛行隊が集結する。こんな基地は世界でもまれだ。このように三沢基地は、対地攻撃に特化した一大拠点になろうとしている。
1960年代、三沢のアメリカ軍基地では、1年間に2000発以上の核模擬弾を消費していた。三沢は「核漬け」の状態にあった。1961年9月から1963年8月までの2年間に、6機ものF100戦闘爆撃機が訓練ルートで墜落した。これらの事故の多くは公にされることはなかった。
 核攻撃任務を与えられていたのは三沢基地だけではない。埼玉県の入間、福岡県の板付、愛知県の小牧、沖縄県の嘉手納も同じである。
 嘉手納の核貯蔵庫から、三沢、入間、小牧、板付に核弾頭が搬出されていた。嘉手納には、予備もふくめて最低200個、通常400個ほどの核弾頭が配備されていた。今、これがゼロだとはとうてい思えませんが・・・・それはともかく、日本がアメリカ軍の最前線基地になっているなんて、とんでもないことです。
 ところが、多くの日本人は今なお、アメリカ軍が日本を守るために日本にある基地を構えているかのように錯覚しています。アメリカが日本を守ってくれるなんて、ありえないことです。むしろ、アメリカの戦争に日本が巻き込まれてしまう危険のほうがよほど大きいと思います。
 そんなことを実感させてくれる絶好のレポートです。小さな文庫本ですが、内容はずっくりと重たいものです。どうか、ぜひ読んでみてください。
 
(2010年3月刊。667円+税)

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