弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

社会

2010年12月 7日

希望を持もって生きる

 著者 釧路市生活福祉事務所、 筒井書房 出版 
 
 驚きの本です。サブ・タイトルに「生活保護の常識を覆すチャレンジ」とあります。ええっどういうことなの・・・・?
 釧路市の人口は19万人弱。水産、石炭、そして紙パルプの町として栄えてきた。水産は水揚げ日本一を誇っていたのが、いまや最盛時130万トンのわずか1割10数万トンでしかない。石炭は最後まで残った太平洋炭鉱が閉山してしまった。紙パルプ産業も縮小し、失業と人口減に悩む町になった。
 生活保護世帯は5581世帯。保護率は46.1パミール。平成20年度の保護申請は
888件、保護開始が777件、廃止が485件。母子世帯が16.3%いて、これは全国平均8%の2倍。受給世帯の子どもの割は母子世帯の子ども。
 これまではよくある話です。ここからが違います。釧路市の生活福祉事務所はコペルニクス的転回を遂げるのです。
第一に、福祉事務所になじみのある「就労阻害要因」は何かという切り口から受給者の「自立」をとらえるのではなく、「社会資源・社会参加」という切り口から受給する母子世帯の問題を見る。
 第二に、「点検管理」という伝統的なアプローチではなく、「自尊意識の回復と醸減」という当事者のエンパワメントを意図してアプローチする。
 第三に、「就労一筋」に対して、「中間的就労」という造語表現をつかって、ステップをもうけることに意識付けをする。
 第四に子ども支援に取り組む。具体的には、母子受給世帯のなかの子どもたちに呼びかけて「高校行こう会」をスタートさせた。教える側の一員として保護受給中の人にも参加してもらう。
 このほか、病院ボランティア、公園管理ボランティア、廃材分別作業ボランティアなど、いろいろあります。
 受給者には、確かに認められ大切にされていると感じる経験、人に感謝され誰かの役に立っているとい感じる経験が必要だ。そのことから、人間に備わっている自己回復力のようなものが働き、ゆっくりでも着実に、行動するための活力が湧いてきて、自分から「社会に出てみるのも悪くない」「もう一度社会とのかかわりをもってみよう」と徐々に思えるようになっていく。
 参加を迷っている人に対しては、「ためしに参加してみてはどうですか。参加してみて、良かったらずっと参加していくし、合わなかったら、ほかも紹介できますし・・・・」と話す。すると、たいてい「ためしなら・・・・」と言って参加してくれる。「絶対」という言葉で萎縮して一歩踏み出せないよりは、心も軽く外に出てみることのほうが大切なのだ。
無償のボランティアが受け取る対価は「人の役に立っている」という意識と「ありがとう」という言葉だ。「ボランティアができるなら、すぐに働けるだろう」という声があがることもあるが、結果をあせらず、十分な助走が大切である。
 受給者のなかには、人と話す機会もすくなく、ひきこもりがちになっていた人も少なくない。人は決まった時間に出かける場所や仕事、楽しいイベントなどがあると、前もって準備し、身づくろいもする。誰かに「生活をきちんとしなさい」と言われても気乗りしないが、自分の内側から出る意思で行動するぶん、生活リズムが整い、それが習慣となって身についていく。働くということは、「生活のためにお金を稼ぐ」ことだけでなく、自分を生かし、あてにされ、しゃかいとのつながりを通して自分自身を確認することでもある。
 このように釧路市では、いわば市役所が地域に出て行っているのです。驚きましたね、この発想と行動力には・・・・。
 その中心にあるのは、受給者の自尊感情の回復。就職に必要な資格取得であれ、就労体験的なボランティア活動であれ、受給者の自尊感情の回復を抜きにしては前に進むことはできないのだ。
 まさしく、そのとおりですね。「毎日つらかったけれど、今は人間に戻った気がする」というボランティア体験者の声は本当にすばらしいです。
人を支える生活保護。これが地域に生きる福祉事務所の役割なんだ。なんと素晴らしい言葉でしょうか。
今は世迷言と言われそうなフレーズを口にしながら、そのような釧路をつくる道程にこそ私たちの希望が宿るという信念を貫いていきたい。
 これがこの本の結びの言葉です。心から大きな拍手を送ります。多くの人にこの本が読まれることを願います。岐阜で開かれた第30回全国クレサラ被害者交流集会の相談員分科会の会場で、釧路はまなす会の方の紹介で知って、すぐに買い求めた本です。本当に買って良かったと思いました。ご紹介、ありがとうございました。
(2009年10月刊。1600円+税)

2010年12月 1日

日本人の階層意識

 著者 数土 直紀、 講談社選書メチエ 出版 
 
 2000年代になると、男女をふくめて四年制大学への進学率は40%に達し、2009年には50.2%になった。
 高校への進学率は、数十年も前に90%を超えていて、もはや高校への進学は特別なことではなく、まったく普通のことになっている。1985年にもっとも大学への進学率が高かったのは広島県(40.8%)、奈良県(40.5%)、兵庫県(39.6%)と続く。逆に、もっとも低かったのは、青森県(17.8%)、新潟県(19.0%)、岩手県(19.7%)となっている。
 1970年代には学歴には、それほど象徴的価値が見出されていなかった。時代が現代に近づくにつれ、学歴は象徴的価値をますます獲得し、現在は過去数十年間のなかで、もっとも学歴に象徴的な価値が付与されている時代である。
実証的な研究によると、日本人がアメリカ人と比較して、とくに集団主義的であるという証拠が見出されなかったばかりでなく、日本人のほうが個人主義であるとみなしうる研究成果も少なくなかった。つまり、なんとなく、アメリカ人は個人主義的であり、日本人は集団主義的であるというイメージを持っているが、実際には、必ずしもそうとは言いきれない。そして、国民の多くが自分のことを中だと思っていた「総中流」は、なにもとりわけ日本的な現象ではなかった。それは、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、スウェーデンといった先進国にも共通してみられる現象だった・・・・。
 1970年代、1980年代の一億総中流は、人々によって所属階層を判断する基準がバラバラであったことによってもたらされていた現象なのである。
一億総中流と呼ばれた時代の日本人の階層意識が特徴的だったのは、「中」と感じている人々の間に共通する社会的、経済的地位を見出すことが難しく、そのために「中」について明確な階層的輪郭を描き出すことができなかった点にある。
 人は、時間の流れの中にのみ存在する歴史的存在であったように、ある場所の上にのみ存在する空間的存在なのである。だからこそ、人々の参照する情報が空間的に偏って存在しているために、人々の意識も空間的な偏りを持つことになる。
 かつての日本人があたりまえのように考えていた一億総中流論は、今では、はるか昔のことであり、現在は格差社会、富める者はますます富と権力を持ち、貧しき者は家を失い、餓死してしまう存在になっている。
このようなことを少し違った角度で考えさせてくれる本でした。

(2010年7月刊。1600円+税)
 金華山に登ってきました。稲葉山城ともいいます。そうです、岐阜に行ってきたのでした。ロープウェーで頂上近くまで一気に上って、そこから10分ほど石段と急勾配の坂道を登っていくと、コンクリートで再現された岐阜城に辿りつきます。お城からは360度のパノラマ展望です、秋晴れの快晴の日でしたから、遥か遠く名古屋のツインタワーまで眺めることができました。眼下の岐阜市内そしてゆったりと流れている長良川を見おろすと、信長の天下布武の気持ちもちょっぴり実感できます。ふもとの岐阜公園では信長居館の発掘作業がすすんでいました。当時の建物が再建されたら、ぜひ見たいものです。
 見事な紅葉あふれる公園内の喫茶店に腰掛けて、おでん、五平餅、そして甘酒を頂きました。甘いみそだれのおでん、米粒の残る五平餅、昔ながらの素朴な甘酒をいただきながら、秋の柔らかな日差しを浴び、幸せなひとときでした。ただ、左ひざの痛みを覗けば…。
 泊まった都ホテルは、長良川に面していて、部屋からは全山紅葉で映える金華山に屹立する岐阜城の雄姿を眺めることができました。

2010年11月16日

脱・「子どもの貧困」への処方箋

著者:浅井春夫、出版社:新日本出版社

 10月に盛岡で開かれた日弁連の人権擁護大会で素晴らしい劇をみました。東京の若手弁護士たちが関わっていることは分かっていましたが、その迫真の演技に、まさか弁護士が演じているとは思えません。ところが、あとでパンフレットを見てみると、ほとんど弁護士が演じていたのです。すごい、すごいと一人で興奮してしまいました。
 といってもストーリーの内容は悲惨です。離婚した母親。職場や地域でいじめにあって、うつ病。住まいはゴミ屋敷と化します。二人の子どもたちは満足に食事をとらせてもらえなくて心身ともに発育不良。社会に出ても、なかなか落ち着けない。そんな苦労話のなかで、弁護士との接点が少しだけ明るい話として登場してきます。いやあ、本当に、世間の風は冷たいよね。思わず、涙ぐんでしまいました。この劇の骨子を提供しているのが、この本です。日本の悲惨な現実を改めて認識させられました。
 子どもの貧困は、現代日本の政策によって緩和されるどころか、つくり出され深刻化している。子どもを養育する大人が複数から一人親になることで、生活の貧困化が急激にすすむ現実がある。「子どもの貧困」は、個人・家族の責任だけに帰する問題ではなく、社会が生み出す問題として考えなければならない。
 今の日本の現実の一例。
○ 給食がないので、夏休み明けに10キロも痩せてくる中学生がいる。
○ ほとんど給食だけで暮らしている子どもがいる。
○ コンビニ弁当、カップラーメン、冷凍食品、お菓子など、まったく手づくりの食事をとったことのない子どもがいる。
○ カッパや傘がなく、雨が降ったら無断欠席する子どもがいる。
 うへーっ、これが金持ちニッポンで子どもたちの置かれている現実なのですね・・・。
 子どもを虐待する親の特徴。
 第一に、自己評価の低下サイクルに陥っている。 
 第二に、親は自らの行為を虐待であると思わないか、認めようとしない。
 第三に、社会的に孤立している。
 第四に、ストレス解消法を知らない。
 第五に、子育ての間違いに気がついておらず、「体罰」を「しつけ」と考えている。
 そうなんですか・・・。
 1990年から2008年までの18年間で、高校三年生の性交経験率は、5分の1から半数へ急増した。性被害・加害経験の多さも、「生徒の性」を考えるうえで避けて通れない。
 民主党政権の子育て支援政策は、現金給付に力点を置くという特徴がある。しかし、現金給付は、子どものために、そのお金が使われるという保障はない。親の生活費の補填に回る可能性は高い。
 いまの日本の現実に対して、政府は、「子どもの貧困」との戦争について「宣戦布告」する決意が問われている。
 子どもの貧困率14.2%を半分に削減する目標と、達成年度を明確にして提示すべきである。
 食生活の貧困は、食事内容の貧しさとなって現れる。それは子どもに必要な栄養価を満たすことなく、身体的な発達への影響や病気へとつながりやすい。
 食生活の貧困は、家庭だんらんを奪うことと同じである。子ども期には、食べたいものが食べられる権利の保障がなくては、安心・安全の生活とはいえない。
 すべての子どもがおなかを空かして悲しんでいることのない社会を今の日本で実現できないはずはない。すべての子どもたちが腹一杯に食べることができ、きちんと学校で勉強ができて、いじめにもあわない。そんな社会になったら、安全な社会を維持する経費が、今よりもずっとずっと安くなる。
 物事は、すべて視点を変えてみる必要がありますよね。日本の現実を知るうえで、いい本でした。ぜひ、あなたも、ご一読ください。
(2010年8月刊。1700円+税)

2010年11月15日

バカボンのパパよりバカなパパ

 著者 赤塚 りえ子、 徳間書店 出版 
 
 今ではほとんどマンガ本を読むことはない私ですが、大学生のころまでは週刊マンガをよく読んでいました。『おそ松くん』は愛読していましたし、シェーという奇声とパフォーマンスは私も何回もしたことがあります。そんなわけで赤塚不二夫は、とても身近な存在なのです。その愛娘である著者がマンガ家である父親をどう見ていたのか、ぜひ知りたいところなので、早速よんでみました。天才の娘であることは喜びなのか苦痛なのか。どうなんでしょう・・・・?
 この本を読むと、赤塚不二夫が天才的才能を持っていることを改めて確認できると同時に、単なる女好きの凡人ではないのかという気にもさせます。それにしても、娘はいいものですよね。父に可愛がられたあげく、イギリスに渡って自らの芸術的才能を花開かせることができたのです。そして、父母が離婚したあと、なんとか父親と再び折り合いをつけることが出来たのでした・・・・。
 「なんでマンガを描いたの?」
 「マンガはな、お金をかけないで、監督も俳優も美術も全部ひとりで出来るんだ」
 なーるほど、そうも言えるのですね・・・・。赤塚不二夫は、早くから分業システムを導入していた。仕事量が増えるにつれ、さらに合議制をフジオ・プロに取り入れていった。
 ギャグマンガは、毎回新しいネタを一から作らなければならない。赤塚不二夫は一人だけのアイデアでは限界があると早くから悟り、マンガのアイデアを練るために、アシスタントや担当編集者も交えて「アイデア会議」を開いた。それは、初めから雑談から入る。雑談のなかの何かちょっとした事柄からアイデアが飛び出して、どんどん広がっていく。このアイデア会議には3時間かける。絵を描き始めるのが昼からで、終わるのが夜中の3時。12、3頁の作品にかける時間は、アイデアを含めて15、6時間ほど。
 1970年代の前半には、アシスタントだけで、40人を数えた。うへーっ、す、すごい人数ですね・・・・。
 赤塚不二夫は、多いときには週刊・月刊あわせて12本の連載を抱えていた。容赦なく迫る締め切りに向かって、毎日違うマンガを描いていた。平日は週刊誌、週末は月刊誌をやっていた。1日4時間足らずの睡眠時間だった。
 しかし、赤塚不二夫は、どんなに忙しくても、呑みに出かけた。しかし、そこでもアイデアをつかんでいたのだ。
 ハチャメッチャな人生を送った赤塚不二夫ですが、何事にも真剣だったようです。そんな真面目さがなければ、あんなふざけたマンガなんて描けませんよね。
 私も赤塚不二夫には、お世話になりましたという感謝の気持ちで一杯です。
 
(2010年6月刊。1600円+税)

2010年11月14日

ふるさと子供グラフティ

 著者 原賀 隆一、 クリエイト・ノア 出版 
 
 これはこれは、とても懐かしい絵のオンパレードです。思わず見とれてしまいました。手にとってニンマリ。幼かったころの楽しい思い出の数々が脳裏によみがえってきます。著者は私より年下の団塊世代ですから、子ども時代は、お金がなくても豊かな自然があり、同じ年頃の友達がわんさかいて、群れをなして集団遊びに打ち興じていました。もちろん、ボス支配などもあり、いじめもあっていたのですが、なにしろ子どもの数は多いので、たくさんのグループがあり、テレビもゲーム機も何もないような時代ですから、みんなで遊びを作り出しながら楽しんでいました。そういう意味で、現代の子どもたちは不幸ですよね。お金があっても、楽しく遊べる仲間が身近にいないというのですから・・・・。
 著者は高校の同級生と結婚し、奥様がスタッフ兼、経理兼、妻だというのです。うらやましいような・・・・。
50年以上も前の子どもたちの遊びが楽しく図解されています。ああ、なるほど、こんな遊びをしていたよね。生まれ育った地域は少し違うのですが、同じような遊びをしていたことを知って喜びをともにしました。
 ここになかったのは「パチ」の遊び方です。近くの社宅に行くと、子どもたちが、メンコを山のように積み重ねて、ひらりと一番上の一枚を飛ばすと勝ちとなり、全部のメンコをもらえるのです。それこそ神技でした。どさっという音がしたのではダメなのです。まさしくひらりと軽やかな音をたてると一番上のメンコが一枚だけ音もなくすーっと空を飛んでいくのです。すごい、すごいと感嘆していました。
 ラムネん玉(ビー玉)遊びもよくしていました。きらきら輝くビー玉を手に持って遠く離れたビー玉にうまく当てるのです。私はこれは得意でした。
だるまさんがころんだ。六文字。三角ベース(野球)・・・・。いやあ、子どものころの遊びって、たくさんありましたね。なつかしさ一杯の楽しい絵本です。ぜひ、あなたも手にとって眺めてみてください。すっかり気分が若返ること、うけあいです。
(2009年11月刊。2000円+税)

2010年11月12日

日本人のための戦略的思考入門

 著者 孫崎 享、 祥伝社新書 出版 
 
 たとえ争点を抱えていても、隣国と戦争しないことが最大の国益である。
まさしく卓見です。私は、この指摘こそ現代日本のマスコミの多くが忘れ去っている肝心なことだとつくづく思いました。
ところが、国家間は摩擦の中で、国家戦略の中心が広範な利害から離れて、小さい問題に集中しがちだ。その中で、相手より優位に立つ、相手をやっつける、相手にいい思いをさせないという考えにとらわれてしまう。
北朝鮮との関係で、日本にとって何がもっとも大切なことか。よく考えてみると、それは何よりも交戦する可能性を排除することである。
今、北朝鮮は「窮鼠」である。「窮鼠に噛まれない」知恵、これが戦略の要である。
いやあ、まったくそのとおりです。大賛成です。戦争をあおり立てる人たちが現にいますが、戦争になったら両国に住む無数の罪なき人々が殺され、また死なずとも悲惨な境遇に叩き落されてしまうことでしょう。絶対に避けるべきことです。
 いま戦争状態にないことこそ、最大の共通利益である。これを維持し拡大することが最大の戦略である。まったく、そのとおりです。よくぞ言ってくれました。
今、日本の安全保障政策は、アメリカに追随するのみと言ってよい。そのとおりですね。
 今日の日本は、すべてアメリカの許容範囲内で動いている。安全保障に関する論議はほぼすべてアメリカの政府と学者のオウム返しである。独自の思索はまずない。日本人の国際政治の場での発言の知的水準は低い。日本は技術と経済の巨人だが、軍事と政治のピグミーだ(ハーマン・カーン)。
 核兵器の出現によって、各国の戦略は一転した。国際紛争の解決は外交の手段によってのみ為されるという見識である。
日本の防衛大綱には、ミサイル防衛が日本の防衛の柱になっているが、これはアメリカ以上に不可能なものである。
 多くの日本人は、日米安保条約によって日本の領土が守られていると思っている。中国が尖閣諸島を攻撃したときどうなるのか? 多くの日本人は、日米安保条約があるから、アメリカは即、日本と共に戦うだろうと思っている。アメリカ政府の要人は、そんな印象を振りまいてきた。日本の外務省幹部も「アメリカが絶対に守ってくれる」と言ってきた。これって、本当なのか?
 1996年、時の駐日大使モンデールは、アメリカ軍は安保条約によって尖閣諸島をめぐる紛争に介入を義務づけられるものではないと発言した。中国が尖閣諸島を攻撃したと想定したときを考えてみる。中国は、当然に占拠できると見込む戦力でくる。これに自衛隊が対応する。このとき、アメリカ軍は参戦しない。自衛隊が勝てばそれでいいが、負けたとき、管轄権は中国に移る。そのとき、安保条約は適用されない。つまり自衛隊が勝っても負けても、アメリカ軍は出る必要がない。日本人の多くは、日米同盟があるから、アメリカは領土問題で日本の立場を強く支持していると思っている。しかし、実際は違う。竹島では韓国の立場を支持し、尖閣諸島では日中のどちら側にもつかないと述べている。そして、北方領土は安保条約の対象外だ。そうなんですよね。アメリカが日本を無条件で守ってくれるなんて、幻想もいいところでしょう。
 中国の海軍増強は続く。この中、日米同盟の強化を説く人は、だから同盟を強化しなければいけないと主張する。しかし、アメリカはそんな甘い国ではない。自分の国の国益を考える。アメリカは日本要因で米中戦争に突入することを極力避ける。今後ますますこの傾向が強まるだろう。それは、国として当然の選択である。
日本人の多くは、アメリカの核の傘によって日本は守られていると信じている。しかし、論理的に考えて、アメリカが「核の傘」を日本に与える可能性はない。北朝鮮の核兵器に対してはアメリカの抑止が働くが、中国に対してはそうではない。
 1952年、アメリカのダレス長官は、日本がアメリカを守る義務を果たせない以上、アメリカが日本を守る義務は持っていない。間接侵略に対応する権利は持っているが、義務はないと述べた。アメリカの政治家や学者は、ホンネで言えば、日米関係について、従属関係における虚構の同盟とみている。
この本の著者は外務省に長くいて、いくつかの国の日本大使を歴任したあと、防衛大学校の教授もつとめています。ですから、いわゆる革新系の学者ではないのです。そのような経歴の人が言うのですから、説得があります。
この本は日本の安全を考えるうえで必読の基本的な文献だと思いました。一読を強くおすすめします。 
(2010年9月刊。800円+税)

2010年11月 3日

ガサコ伝説

 著者 長田 美穂、 新潮社 出版 
 
 大学生のとき以来テレビを見る習慣のない私は、芸能情報にもまったく疎いのですが、もちろん山口百恵も森昌子も野口五郎も知っています。といって、彼らの歌を聴いたことはありません。私は歌謡曲は好きではないのです。そんな私でも、芸能界の内幕話を本で読むのは好きなのです。つまり、活字を通して何でも知りたいのです。
 『月刊平凡』という雑誌がかつてあった。私は読んだことが在りませんし、興味もありませんでしたが、一世を風靡した雑誌であったことは間違いありません。
 昭和20年代後半の発行部数は100万部。『月刊平凡』は1955年には141万部を記録した。それも常に完売していて、回し読みされていた。ええーっ、驚きますね。そう言えば、私も大学生時代、寮生活のなかでマンガ週刊誌の回し読みの恩恵にあずかっていました。いの一番に読むのをガマンすれば、やがてただで読めるのです。
 『月刊平凡』の編集担当としてガサコこと折笠光子は名を売っていた。そのガサコは、高卒で、アルバイトとして平凡出版に入社してスタートを切った。なんということでしょう・・・・。
 ガサコの父親は、新興宗教の神様だった。愛娘が芸能界に入りたいというのを許さなかった。勘当だと声を張りあげた。それでも粘る娘に負け、ついに二つの条件を出して認めた。
 一つ、女であることに甘えて泣き言をいうな。
 二つ、みんなに可愛がられる女の子になれ。
さすがは神様ですね。ガサコが平凡出版に入社したのは1960年。このころ、白黒テレビの普及率は44.7%だった。
坂本九を連れてきたのはガサコだった。あの九ちゃんもでしたか・・・・。
大スターに時間を割いてもらうためには、編集者もまた自分の時間を割いて、少しでも彼らのそばに身を置き、心を開いてもらう必要がある。スターも人間であり、編集者もまた人間だ。忙しい売れっこになればなるほど、スターの立場が編集者より強くなる。スターを前にすると、編集者は時に芸者になる覚悟を迫られる。
1960年の御三家とは、橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦の三人。そうですね。この三人は輝いていましたね。1968年にGSブームが到来すると、御三家は姿を消した。1971年、野口五郎、南沙織がデビューした。1970年代、『花の中三トリオ』は、森昌子、桜田淳子、山口百恵。『平凡』はガサコ。『明星』は篠山紀信の写真。
 『明星』はGSブームに乗った。逆に、『平凡』は、低速を続けた。
山口百恵は、デビュー前、森昌子の見習いとして、昌子の実家に下宿していた。ええっ、ウソでしょう・・・・。
 山口百恵は、別に正妻を持つ父親の子として生まれ、母の手一つで育てられた。家族を豊かにしたいと芸能界にはいった百恵は、最初からプロ根性の塊だった。なるほど、すごいものですね。そして芸能界から完全に姿を消してしまったのですから、偉いものです。
ガサコは、アイデアの冴えで売るタイプの編集者ではない。時間と体力をかけて相手から信頼を得て、何かと融通を利かせてもらう、人たらしタイプの編集者だった。だから、スケジュールだけおさえて、「どうしよう?」とカメラマンに相談し、撮影プランを決めることになる。
 ガサコは1997年8月、57歳で病死した。『平凡』は今や消え去ってしまった。
 日本の戦後史の一つのエピソードとして、大変面白く読み通しました。
 
(2010年8月刊。1600円+税)

2010年11月 2日

トムラウシ山遭難はなぜ起きたのか

著者:羽根田治ほか、出版社:山と渓谷社

 大雪山系の旭岳からトムラウシ山へと縦走する4泊5日のプラン(15万2000円)は、ツアー登山を扱う会社にとって募集すれば、すぐに定員一杯となってしまう人気商品である。参加者15人だと総売り上げは228万円となる。諸経費を差し引いても利益率は悪くない。
 耐風姿勢は冬山登山に必須の技術であり、体ごと飛ばされそうな風が吹いているときは腰を屈めるようにして姿勢を低くし、踏ん張った両足と雪面に突き刺したピッケルの3点で体を保持するのが基本だ。そのとき、風に背中を向けるのではなく、風上側を向くのが正しいとされている。風の強弱を読みつつ、耐風姿勢と歩行を繰り返しながら前進していくのは、習得すべき冬山登山技術の一つである。
 低体温症の引き金の一つとなる“濡れ”をシャットアウトしたことが、低体温症に陥らずにすんだ大きな一因となった。ただし、参加者の装備に、これといった手落ちは認められない。防寒具にしろ雨具にしろ、誰もがしっかりしたものをひととおりは持っていた。しかし、それを十分に活用していたかどうかは別の話。
 低体温症とは、体温が35度以下に下がった病態。1912年4月に起きたタイタニック号の遭難事件の1500人をこえる死者の死因は、冷たい海水に浸ったための低体温症。このとき氷山の浮いた海水温は2度だった。1902年1月の八甲田山で青森連隊210人のうち199人が死亡したのも低体温症だった。
 人間の熱をつくる場所は、筋肉、とくに骨格筋にある。外気温が下がり続けると、身体の熱産生を増やさなければならないので、全身の筋肉を不随意に急速に収縮させて熱を作り出そうとする。これが、震えである。この筋肉の収縮エネルギーが熱になるが、体温の下降速度が早まれば、震えも大きくなっていく。身体の中心温度を一定に保ちたいから、身体表面温度を犠牲にしても脳や心臓などの内臓の温度は下げないようにする。
 登山行動中に低体温症になったときには、それを回復させる熱をつくるエネルギー(食料補給)が十分でなければ熱をつくることができず、低体温症は進行する。
 登山中の低体温症は、濡れ、低温、強風などを防ぐことが不十分なときには、行動してから5~6時間で発症し、早ければ2時間で死亡する。低体温症の症状が発症し、震えのくる34度の段階で何らかの回復措置をとらないと、この症状は進行して死に至る。34度の段階で震えが激しくなったころには、既に脳における酸素不足で判断能力が鈍くなっている。
 低体温症の症状は、早期から脳障害を発症する。運動機能、言語、精神状態が症状として現れやすいのでその段階で的確な手当てをしないと、以後、急激に症状は悪化する。
 初日から遭難当日までの栄養摂取は決して十分なものではなかった。中高年登山者は若い人より荷物の軽量化のため、持つ食料の量が少ない。
 悪天候時の行動には、多くのエネルギーを消費するため、晴天時よりご飯・パンなどの炭水化物をとる必要がある。軽量化を重視したインスタント食品はカロリーが少なく、強風に耐えるだけの運動エネルギーと低体温に対する熱エネルギーになるだけのものがなかった。防寒・暴風対策の装備以前に、この問題が低体温症の第一の要因になった。
 体温を下げる最大の要素は「風」である。当時、風速25メートルだった。過去の低体温症による遭難例に共通しているのは、強風下での行動である。
 ペットボトルや水筒のお湯で湯たんぽをつくり、脇の下や股間部を温めることが必要である。身体をさすったくらいでは足りない。熱源が必要なのである。体温を上げるには、温風が最適である。
 正しい対処法は、できるだけ着衣を多くしたうえで、じっとしていること。本件では避難小屋へ戻るか、早めにビバークすべきだった。
 ツアー登山の実情、そして低体温症の怖さがよく分かる本でした。私もハイキング程度ではありますが、たまに山に登りますので、関心をもっていた事故でした。大変参考になる本です。
(2010年8月刊。1600円+税)

トムラウシ山遭難はなぜ起きたのか

著者:羽根田治ほか、出版社:山と渓谷社

 大雪山系の旭岳からトムラウシ山へと縦走する4泊5日のプラン(15万2000円)は、ツアー登山を扱う会社にとって募集すれば、すぐに定員一杯となってしまう人気商品である。参加者15人だと総売り上げは228万円となる。諸経費を差し引いても利益率は悪くない。
 耐風姿勢は冬山登山に必須の技術であり、体ごと飛ばされそうな風が吹いているときは腰を屈めるようにして姿勢を低くし、踏ん張った両足と雪面に突き刺したピッケルの3点で体を保持するのが基本だ。そのとき、風に背中を向けるのではなく、風上側を向くのが正しいとされている。風の強弱を読みつつ、耐風姿勢と歩行を繰り返しながら前進していくのは、習得すべき冬山登山技術の一つである。
 低体温症の引き金の一つとなる“濡れ”をシャットアウトしたことが、低体温症に陥らずにすんだ大きな一因となった。ただし、参加者の装備に、これといった手落ちは認められない。防寒具にしろ雨具にしろ、誰もがしっかりしたものをひととおりは持っていた。しかし、それを十分に活用していたかどうかは別の話。
 低体温症とは、体温が35度以下に下がった病態。1912年4月に起きたタイタニック号の遭難事件の1500人をこえる死者の死因は、冷たい海水に浸ったための低体温症。このとき氷山の浮いた海水温は2度だった。1902年1月の八甲田山で青森連隊210人のうち199人が死亡したのも低体温症だった。
 人間の熱をつくる場所は、筋肉、とくに骨格筋にある。外気温が下がり続けると、身体の熱産生を増やさなければならないので、全身の筋肉を不随意に急速に収縮させて熱を作り出そうとする。これが、震えである。この筋肉の収縮エネルギーが熱になるが、体温の下降速度が早まれば、震えも大きくなっていく。身体の中心温度を一定に保ちたいから、身体表面温度を犠牲にしても脳や心臓などの内臓の温度は下げないようにする。
 登山行動中に低体温症になったときには、それを回復させる熱をつくるエネルギー(食料補給)が十分でなければ熱をつくることができず、低体温症は進行する。
 登山中の低体温症は、濡れ、低温、強風などを防ぐことが不十分なときには、行動してから5~6時間で発症し、早ければ2時間で死亡する。低体温症の症状が発症し、震えのくる34度の段階で何らかの回復措置をとらないと、この症状は進行して死に至る。34度の段階で震えが激しくなったころには、既に脳における酸素不足で判断能力が鈍くなっている。
 低体温症の症状は、早期から脳障害を発症する。運動機能、言語、精神状態が症状として現れやすいのでその段階で的確な手当てをしないと、以後、急激に症状は悪化する。
 初日から遭難当日までの栄養摂取は決して十分なものではなかった。中高年登山者は若い人より荷物の軽量化のため、持つ食料の量が少ない。
 悪天候時の行動には、多くのエネルギーを消費するため、晴天時よりご飯・パンなどの炭水化物をとる必要がある。軽量化を重視したインスタント食品はカロリーが少なく、強風に耐えるだけの運動エネルギーと低体温に対する熱エネルギーになるだけのものがなかった。防寒・暴風対策の装備以前に、この問題が低体温症の第一の要因になった。
 体温を下げる最大の要素は「風」である。当時、風速25メートルだった。過去の低体温症による遭難例に共通しているのは、強風下での行動である。
 ペットボトルや水筒のお湯で湯たんぽをつくり、脇の下や股間部を温めることが必要である。身体をさすったくらいでは足りない。熱源が必要なのである。体温を上げるには、温風が最適である。
 正しい対処法は、できるだけ着衣を多くしたうえで、じっとしていること。本件では避難小屋へ戻るか、早めにビバークすべきだった。
 ツアー登山の実情、そして低体温症の怖さがよく分かる本でした。私もハイキング程度ではありますが、たまに山に登りますので、関心をもっていた事故でした。大変参考になる本です。
(2010年8月刊。1600円+税)

2010年10月28日

日米秘密情報機関

 著者 平城 弘通 、 講談社 出版 
 
 自衛隊に秘密情報機関があった(ある)。陸幕第二部別班、通称「別班」を「ムサシ機関」といった。日本共産党が、追及・暴露したことのある組織で、国会でも追及された。
 1973年(昭和48年)に金大中拉致事件が起きたとき、KCIAとともに関わっているとみられた。
 著者は現在90歳で、1964年に「ムサシ機関」の機関長となった。その体験を告白している本です。同じテーマの本として、『自衛隊秘密情報機関。青銅の戦士と呼ばれて』(阿尾博政。講談社)がある。
 著者は、このような「日米秘密情報機関」が、その後、消滅したとは思えない。現在でも、この「影の軍隊」が日本のどこかに存在し、日々、情報の収集にあたっていると確信している、と書いています。これは、今もあるということを言いたいのですよね。
 藤原彰教授(故人。軍事史・現代史)と陸士で同級だったし、阿川弘之(作家)も同じ部隊にいたそうです。
中国大陸で戦車大隊に所属したあと、日本で少年戦車兵学校で教えるうちに終戦を迎えます。やがて、自衛隊の前身の警察予備隊に入り、出世していきます。
 1963年(昭和38年)、陸幕二部情報収集班に所属する。そして、1964年に「ムサシ機関」(正式名はMIST)の機関長となった。 MISTはアメリカ軍が必要性を痛感して出来たもの。その人材養成として、昭和29年9月から翌30年9月にかけて、アメリカ陸軍情報学校に陸幕第二部保全班の山本舜勝三佐を、昭和30年4月から8月にかけて陸幕二部在籍の清野不二雄三佐をアメリカに派遣した。MIST教育は第2段階で実施され、昭和31年からアメリカ軍の支援のもと、実質的な訓練が朝霞のキャンプ・ドレイクにあるMIST・FDD内で始められた。MIST教育は昭和35年に廃止されたが、成績優秀者を選抜して第二部付としてMISTに所属させた。秘密情報工作について、アメリカ軍側は、アドバイザーとしての立場における助言、日米チームによるAH活動、応分の資金援助をした。
「ムサシ機関」の実体は「二部別班」であり、情報員の訓練から情報収集機関に発展した。つまり、この「ムサシ機関」の発足の裏には、在日米軍の兵力削減による情報部内の弱体化を防ぎ、日米の連携強化を狙った、アメリカ軍の要請があった。それに自衛隊が便乗した。アメリカの情報機関は、警察と公安調査庁に別個のルートを持っていたので、ムサシ機関に対して国内情報収集の要望はなかったので、全部、国外情報をターゲットにした。
工作員は私服である。本来は自衛官であって、アメリカ軍と共同作業した。
昭和40年8月1日現在の定員25人に対して現在員は16人いた。
しかし、マスコミや国会で追及されても、そんなものはないと、シラを切っていた。
宮永幸久陸将補がソ連大使館に情報を売っていたことが発覚(1980年)。著者の動向をつかむために警察公安からスパイが送り込まれていた。
 スパイの世界も一筋縄ではいかないようですね。いったい、誰から何を守ろうというのか、いつのまにか鈍磨してしまうのでしょう。こんな機関が今もあって、私たちを日常的に監視しているなんて怖いですよね。
(2009年2月刊。1600円+税)

 松山に一泊してきました。動機の弁護士の中で古稀を迎えた人が出ています。もちろん、みな元気です。でも、夜は皆10時には寝てしまいました。そして、朝は6時に起きだします。
 朝から温泉に入り、英気を養いました。NHKの「坂の上の雲」が放映されていますが、司馬遼太郎の歴史観を手放しで礼賛はできないように思います。昔の日本人が良かったとは単純に言えないと思うからです。なにより、平和な今の日本っていいですよね。朝湯につかりながら思ったことでした。

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