弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
社会
2011年10月21日
古文の読解
著者 小西 甚一 、 出版 ちくま学芸文庫
小西甚一というと、私にとっては高校生のころ大学受験のための『古文読解法』で大変お世話になった印象深い先生です。今も、その本は書棚の片隅に眠っています。捨てるのがあまりに忍びがたいのです。
入試で合格点のとれる古文学習法なるものが紹介されていますが、私にとってあまりにも高度すぎて、かつて古文を得意科目としていた私なのですが、すっかり自信喪失させられてしまいました。
著者はおよそ30年間、入試の出題と採点をしてきた罪滅ぼしにこの本を書いたそうです。初版は1981年夏のことだそうですから、今から30年前のことになります。
平安時代の人々が住んでいた家は天井が高く、畳もない。冬の寒さをしのぐよりも夏の暑さのほうが冬よりも辛かったからに違いない。暑さに対抗するには、どうしても風通しのよい構造の家にする必要があった。
徒然草にも「家の造りようは、夏をむねとすべし。冬は、いかなる所にも住まる。暑きころ、わろき住まひは、たへがたきことなり」とある。
そうなんですよね。自宅にエアコンのない私は、夏には休みの日でもクーラーのある事務所に出ていって書面を書いています。汗をだらだらながしながらでは、とても書面書きに集中することができません。冬の寒さなら、何枚も着重ねすればなんとかなるのですが・・・・。
平安時代の人々は、一般に短命だった。40歳になると、四十(よそじ)の賀という祝いをした。現代なら40歳まで生きたのが目出たいなどという感覚はないが、当時は祝宴をするほどのものだった。なーるほど、そうなんですね。信長のころは50歳といってましたよね。
裳は一番上につけるもので、下着ではない。平安時代の女性は帯を使わない。ボタンの代わりの紐で、あちこちを留めているだけ。
女性も男性も、寝室でフトンを使わなかった。褥(しとね)という薄いマットを敷き、着物を脱いで単衣だけになり、今脱いだ着物をかけて寝た。
平安時代の酒は、ドブロク(濁酒)に過ぎなかった。清酒はまだなかった。腕時計なんぞ持っていない平安時代の人たちにとって、むしろ季節によって伸び縮みする時間のほうが自然だった。
掌の大筋が灯火なしに見えてくるときを夜から昼の境、逆に、それが灯火なしでは見えなくなってくるときを昼から夜の境とした。ふむふむ、自分の手で判断するというわけですか。
現在の宮中の婚礼儀式は平安時代のものではなく、明治時代につくられたもので、ずい分新しい。平安時代の貴族の結婚は、次のような手順ですすめられた。
① 仲人が橋わたしをして縁談をまとめる。
② 男から女に申し込む形をとるのが原則。
③ 申し込みは手紙でする。それを省略するのが現代式となっていた。
④ 嫁入りではなく、聟入りの形式を取るのが普通。
⑤ 結婚の第一、第二夜は、当人同士だけで過ごし、親は表面に出ない。
⑥ 第一夜を過ごしたあと、儀礼として男から女に手紙をやる。
⑦ 第三夜になって、はじめて親も顔を出し、親類にも披露する。そのとき、聟が誰であるか、はっきりする。これを、「ところあらわし」という。
こう見ると、本人同士で決めていたようですね。
方違(かたたがえ)とか物忌(ものいみ)は、それを口実として、こっそり息抜きをすることも珍しくはなかった。ふむふむ、なるほど、そういうことだったのですね・・・。
清少納言は『枕草子』のなかで、実にいろんな場合に「をかし」「をかし」と繰り返している。をかしは、人事・主観的・描写的なもの。これに対して紫式部は「あはれ」を好んでつかった。『源氏物語』のなかには、大変な分量の「あはれ」が登場してくる。「をかし」が理性的・観察的というなら、「あはれ」は感情的・主体的である。
「いきいきした、しかも洗練された感じ」が「いき」。「つう」とは「通」で、よくその方面に通じていること、つまり何から何まで知り抜いていることをいう。通人は、どうも小さなことにとらわれがちで、のんびりしたところがなく、消極的になりがちである。
江戸時代の前期を代表する精神が「いき」で、後期の特色を示すのが「つう」である。形容詞「ゆかし」は、もともと「行かし」であって、そこへ行ってみたいという意味だった。「奥ゆかし」といえば、ずっと奥まで見たい、奥まで知りたいという意味。
日本語は、ヨーロッパ語に比べて、主語を示すことが少ないという特徴をもつ。そうなんですよね。私も準備書面は別として、極力、主語抜きの文書を書くようにしています。
英語にだって面倒な敬語がある。英語に敬語がないというのは誤解だ。敬語を正しく使いこなさないと、中流以上の人たちとつきあうとき、とんだ結果が生じかねない。
「枕冊子」には、耳の鋭敏な人について「蚊のまつげの落つるをも聞きつけたまひつべこそありしか」という表現がある。
蚊のまつげの落つる音だってお聞きつけになりそうなほどだった。という意味です。蚊にまつげなんてあるはずもありません(そうですよね?)が、なんとなく、ごくごく微かな音のたとえとしてよく分かる表現です。清少納言にすごい文才があると改めて思い知りました。
日本の和歌に出てくる梅は、みな白梅と考えてよい。中国人は紅梅が好きだけど・・・・。
「放下着(ほうげちゃく)」とは禅僧の口ぐせ。「持っているものを捨てろ!」ということ。普通の人は、いろんなものを背負いこんでいる。カネがほしい、遊びたい。好きな女性に会いたい。明日の試合に勝ちたい。あげれば限りない。しかし禅僧に言わせると、そんなものを背負い込んでいるから、ものごとがうまくいかない。捨てるのがよろしい、「カネがほしい」とい考えを捨てたとき、はじめて思い切った営業活動ができて、カネのほうから進んでころがり込んでくる。重荷は思い切りよく捨てるに限る。
500頁もある部厚い文庫本です。パリまでの13時間という長い飛行機のなかで一心に読みふけっていました。古文も漢文も自由自在に読みこなしてみたいものです。
著者は4年前に亡くなっておられますが、英語・フランス語・中国語もマスターしておられたそうですから、まさに語学の達人ですね。しかも、趣味として、能、狂言さらには俳句までたしなまれていたとのこと。偉大なる先達でした・・・・。
(2011年1月刊。1500円+税)
2011年10月19日
原発のない世界へ
著者 小出 裕章 、 出版 筑摩書房
問題の根本は、国が原子力をやると決めたことにある。
まことにそのとおりだと思います。地震列島・日本に50ヶ所もの原発をはりめぐらすなんて狂気の沙汰ではありませんよね。
国と電力会社をはじめとする巨大産業が住民をブルドーザーで押しつぶすように原子力を進めてきた。
国立大学から原子力工学科がなくなってしまった。しかし、原子力の後始末をつけるうえでは若い専門家がこれからも必要になる。国がきちんと養成していかなければいけない。
使用済み核燃料の再処理は必要ない。手を加えれば加えるだけ、体積としては大きくなり、放射能が減ることもない。
放射線の被曝に関わる限り、大丈夫だとか安全という言葉を使ってはいけない。
普通の人は年1ミリシーベルト、特殊な放射線業務従事者に限って年20ミリシーベルトが許容されている。これは、125人に1人ががんで死ぬという基準値。子どもだったら、30人に1人はがんで死ぬ。
大人は福島のお米を食べる。子どもは九州のお米を食べる。このような区分が必要だ。
なーるほど、それはそうなんでしょうね。
雨には水道水よりも1桁以上高い放射能が入っている。普通の活性化やフィルターでは効果がない。マスクは効果がある。
3月15日、東京の上空にはたくさんの放射能が飛来していた。
福島第一原発から出た放射能の量は「京」の単位だ。何十京ベクレルだ。
兆とか京とか言われても、もう一つぴんと来ませんよね。すごいだろうな、というくらいです。
福島は子どもも大人も避難したほうがいい。東京だって、乳児や妊婦、胎児は、福島にはいないほうがいい。
うへーっ、そ、そうなんですか・・・。恐ろしいことです。
放射能について基準値を決めたとしても、それより下だって危険、上はもっと危険だというだけのこと。
むむむ、なるほど、これは困りましたね。
原子力推進派は、格納容器が破壊されるような事故は決して起こらないとし、そんな事故を「想定不適当事故」と名づけた。しかし、それが今回起きてしまった。
日本人は優秀だ、日本の原子力発電所だけは安全だ、こんな宣伝が、国や電力会社の積極的な宣伝もあって、日本人の心深くに住みついてしまった。しかし、実際には、日本は原子力技術後進国なのである。そこにあるのは日本人の慢心のみ。
ふむふむ、国と電力会社だけでなく、それにうまうま、いや、むざむざ乗せられて、今回、大変な痛い目にあった私たち日本国民は今や大いに反省し、心を入れかえなければいけない。痛切に、そう思います。さっと読める、いい本でした。
(2011年9月刊。1000円+税)
2011年10月16日
下町ロケット
著者 池井戸 潤 、 出版 小学館
直木賞を受賞していますが、なるほど最後まで期待を裏切ることのない、面白い小説です。著者の本としては『鉄の骨』も『空飛ぶタイヤ』も読ませましたね。ロケットを飛ばしているのは日本の大企業だけではない。町工場のような中小企業がしっかり技術力で支えているからだ。こんな日本の本当の現実を痛快小説に見事に仕立て上げています。
日頃、大銀行の愛想のなさ、私も日々実感させられています。そこそこの預金と取引量があると自負しているのですが、有力地方銀行はてんで相手に(あてに)していないといった雰囲気です。この小説にも、企業が困っているときには貸し渋り、ちょっと景気が良くなるとぺこぺこして借りて下さいと頼み込む銀行支店長が登場してきます。こんなんじゃあ相手にしたくありませんよね。上から目線の銀行には、少しばかり反省してほしいものです。でも、それはまだ可愛いのかも・・・・。
東京電力の対応、そして我が九州電力も同じですが、日本のリーディングカンパニーを自称する大企業のトップの無責任さ、いいかげんさは目を覆いたくなってしまいますね。
どちらも最大の実力者である会長は椅子にしがみついて開き直るばかりです。責任とって早く辞めるべきだと思うのですが、社内には直言できる人がいないのでしょうね。残念至極です。
日本が大企業だけ成り立っているかのような錯覚と幻想をみんなで捨て去りたいものです。スーパーにしてもコンビニにしても巨大スーパー、全国チェーン店ばかりになりつつあります。身近なパパママストアーがなくなってしまったら、本当に不便な社会になってしまうのですが・・・・。こればかりは世の中の流れだからといって、手をこまねいているだけというわけにはいきません。
何のために企業はあるのか、社員は社長の「道楽」にどこまでつきあわなければいけないのか・・・・。そんな根本命題まで問いがなげかけられます。
400頁の本ですが、一心不乱、一気呵成に2時間かけて読み切り、気分がスカッとしました。
(2011年6月刊。760円+税)
2011年10月15日
生活保護改革、ここが焦点だ!
著者 尾藤 廣喜 、 小久保 哲郎 、 吉永 純 、 出版 あけび書房
生活保護が増えたら地方自治体の財政が破綻するというのは真っ赤なウソ。
生活保護費のうち給付費を意味する扶助費が93%を占め、福祉事務所の職員の人件費が5%、残りはその他の委託費など。扶助費の4分の3は団体負担金でまかなわれる。
釧路市では自立支援プログラムを実施しているが、この5年間に3180人が参加し、
544人が仕事に就き、151人が保護を抜けた。
釧路市では、保護費が144億円ほどで、一般会計の15%を占める。そして、この保護費は一次産業の111億円を上回っていて、地域経済を下支えしている。
生活保護費のうち99.7%は適正に執行されており、不正受給は全体の0.3%にすぎない。大型公共事業の談合による被害に比べると、ものの数でもないということになります・・・・。
ところが、この生活保護について、3年とか5年という有期保護制度に変えようという提案が指定都市市長会からなされています。とんでもない、時代の流れに逆行した提案です。ゼネコンと暴力団を喜ばせる大型公共事業のムダはそのままにして、貧困の結果である弱者の切り捨てを図るなんて、許せません。まるで、政治は強者のためにある、というのを地でいくような提案です。
そしてまた、生活保護費のほうが年金や最低賃金より高くなっているので、保護費のほうを切り下げようというのです。これまた、とんでもない本末転倒の提案です。
私も生活保護支援九州ネットワークに関わっています(恥ずかしながら、大したことは出来ていません)が、社会のセーフティーネットとしての生活保護制度は、もっと利用しやすく、もっと自立支援に役立つものになるようにしたいものだと考えています。
(2011年7月刊。1600円+税)
2011年10月14日
人間と国家(上)(下)
坂本 義和 岩波新書
私が大学2年生のときに始まった東大闘争のとき、著者は加郎一郎総長代行を補佐して活躍していました。もちろん私は直接には何の関係もなかったわけですが、なんとなく東大当局のメンバーの一人として漠然と著者に対してマイナス・イメージを抱いていました。
ところが、この本を読むと、著者は反核・平和の取り組みも熱心にすすめてこられたことを知り、私の認識不足を恥じいるばかりです。
今はもう取り壊されてしまった駒場寮に、著者も生活していたようです。ただ、「一部屋10人前後」というのは本当でしょうか。私のときには「一部屋6人」でした。10人だといくら何でも詰め込みすぎです。戦前の一高時代、そして住宅難の終戦直後はそうだったのでしょうか・・・。
戦前の一高、そして駒場寮には反軍意識がみなぎっていた。
それはそうでしょうね。だって、勉強をほっぽらかして兵隊にとられて戦場へ死にに行けなんて強制されるって耐えがたいことですからね。
終戦後の駒場寮で、寮のアパート化が進行したと書かれています。
ベットの周囲にシーツをカーテン状につるして、共同の部屋をコンパートメントに分断することがあたりまえになっていった。
ええーっ、これって東大闘争の終わったあとにも見かけた現象なんですよ。それまで、6人で読書会をしたり、みんなで集まって議論していた空間がどんどんなくなっていくのを、私も目のあたりにしたのです。そのころも、同じように「寮のアパート化」と言って問題にしていた気がします。
著者はアメリカに留学し、帰国してからは、アメリカのベトナム侵略戦争へ反対する運動に関わります。さらには、1968年8月のチェコへソ連軍などが侵攻したことへも抗議しています。
我妻栄名誉教授がベトナム戦争に反対していたことも知ることができました。
以上が上巻です。下巻には、いよいよ東大闘争との関わりが登場します。
著者は、さすがに「東大紛争」と呼びます。しかし、私は渦中にいた学生の一人として「紛争」という言葉には抵抗があります。
だって、東大当局が警察機動隊を勝手に入れておいて、きちんと釈明しなかい、騒動の発端となった医学部生の処分に事実誤認があったとの指摘をまともに検討しなかったなど、そのときの東大当局の姿勢に大きな不手際があったことは明らかだからです。
ただ、著者の認識について、「本当かな?」と首をかしげるところもいくつかありました。
東大闘争を暴力化させたのは全共闘なのです。それなのに、「どちらかと言うと、日共系が武装をエスカレートさせました。・・・その日共系の『武力』に対して、全共闘系は恐怖心を持ったようで・・・。全共闘が武装し、安田講堂に『武器』を蓄えはじめるのは、10月頃からだと推測されます」としていますが、これは、明らかな間違いだと私は思います。9月の東大病院封鎖騒動などがすっぽり抜けています。
しかも、「はるかに固い樫の棍棒」が日共系の「精鋭部隊」の持つ武器で、このために全共闘より強かったかのような表現は、とんでもないと私は思います。たしかに「樫の棍棒」は、私も手に持ったことがありますが、警察官の警棒と同じく硬いものでした。しかし、全共闘が持ったものには鉄のパイプもあったのですよ。
「樫の棍棒」は短いので、接近接では役に立つかもしれませんが、衝突する前は長い鉄パイプの方が断然威力があります。脅威でしたよ。これは、中世ヨーロッパで長槍軍が活躍したのと同じことだと思います。
東大全共闘が学内で孤立化していったのは日共系の「あかつき部隊」とか「硬い樫の棍棒」のせいだというのは、一部のジャーナリストが勝手に言っているに過ぎないものです。
少なくとも私の認識はそうです。このあたりは『清冽の炎』(とりわけ第4巻。花伝社)を読んでいただくと、詳しく理解してもらえると思います。
それにしても、全共闘が「あれほどの犠牲を払って、一体何をしたかったのか。あの一連の事件と時代を弁護することは非常に難しいと思います」という著者の指摘はまったく同感です。
さらに、「東大解体」を叫んでいた全共闘の学生が今では東大教授になっているが、「どうして東大教授になれたのか、私には理解できません」という嘆きは、本当にもっともだと思います。学生のとき「東大解体」を叫んでいて、今では東大教授になっている同世代の人が、東大闘争の意義をマスコミや東大新聞で堂々と臆面もなく語っているのを見聞きすると、読んでいる私の方が恥ずかしさを覚えるほどです。
「全共闘は、みな正義に殉じた犠牲者であるかのように描き出され」たが、「あの凄惨なゲバルトの現場を一目でも見たら、そう簡単に全共闘支持とは書けない」のではないかという指摘こそ、まっとうなものだと、私も当時の東大にいた学生の一人として思います。
東大闘争の展開についての貴重な証言の一つでもある本です。
2011年10月13日
「諸君!」「正論」の研究
著者 上丸 洋一 、 出版 岩波新書
戦後の「保守」論壇の主張の変遍をたどり、分析した貴重な労作です。
それにしても「保守」理論家の言説のレベルの低さには呆れます。
渡辺昇一、上智大学名誉教授は次のように語った。
「シナ文明は朝鮮半島まで到達したが、日本には及んでいない」
ええっ、日本に中国文明が入っていないだなんて・・・。そして、また次のようにも言っています。
「日本の皇室は男系で続いてきた」
日本には過去にさかのぼれば、女性天皇が何人もいます。江戸時代まで、皇室の伝統として男性しか天皇にはなれないと言うことはありませんでした。
「サンケイ」を出している産経新聞社には社史がない。また、縮刷版もない。その理由は、社主だった鹿内信隆とそのファミリーの位置づけが難しく、出すに出せないことにある。
憲法改正を叫んでいる「サンケイ」に社史も縮刷版もないというのは、よほど過去の自社の歴史を知られたくない、恥ずかしいということなのでしょうね。
「サンケイ」は自民党の組織をつかって購入を呼びかけてもらった。つまり、「サンケイ」は要するに自民党の準機関誌だというわけです。なーるほど、ですね。
1973年10月、雑誌「正論」が創刊された。鹿内は、毎号のように誌面に登場した。
ところが、鹿内が1990年10月に78歳で亡くなると、1992年7月、サンケイの取締役会は鹿内宏明会長を解任した。
日経連(現在の日本経団連の全身の一つ)は1960年代に「共同調査会」という名前の反共秘密組織をつくっていた。反共産党、反総評、反日教組を目標として、1955年から1968年まで活躍していた。13年間に25億円ほどの大金をつかっている。マスコミ・世論の「偏向」是正対策にも3億円ほど使った。
保守の論者は、ヒロシマ・ナガサキの被爆体験について何も語らない。また、沖縄戦の犠牲者も無視している。
『諸君!』に小田村四郎・日銀監事は次のように書いた。
「開戦の全責任を東条個人に帰して、当時の議会や新聞の論調・世論を無視してはならない。大東亜戦争は、一握りの指導者が独裁的に起こしたのではない。全国民の支援の下にやむなく受けて立った悲劇の戦争である。その責任者が誰かと問われれば、ABCD(米、英、中国、オランダ)包囲陣の各国と答えるしかない」
むしろ、ABCD包囲陣は、日本軍部の膨張主義、植民地拡大路線に対抗して作られたものですよね。白と黒というような言説を真に受けて教科書がつくられたら、それこそ日本の将来はお先まっ暗です。
昭和天皇は戦後、靖国神社への参拝を拒否した。昭和天皇はA級戦犯の合祀、なかでも日独伊三国同盟を推進した松岡洋右(元外相)そして白鳥敏夫(元駐伊大使)の合祀に不快感を表明していた。
天皇のために命を捧げた軍人・軍属らを神と祀る靖国神社は、天皇が参拝することで初めて「完結」する神社だ。それが天皇に嫌われたとあっては、神社の存立を否定されたにもひとしい深刻な状態である。
戦後の天皇制は、天皇制にひたすら忠誠を尽くした東条らA級戦犯を占領軍に差し出して「勝者の裁き」を受け入れ、天皇の地位を統治権の総換者から「象徴」へと大胆に転換することによって初めて存続を許されたのであり、天皇自身もまた、そのことを容認するのとひきかえに「平和主義者」として立つことが可能となった。そうした象徴天皇制の存立の根拠を靖国神社はA級戦犯を合祀することによって否定した。東条英機らを神と祀る靖国神社を天皇が参拝する気になるだろうか。
天皇は、戦後まもない時期に、自身の戦争責任をまるごとA級戦犯に移し替えていた。それは天皇個人の意思でもあったが、マッカーサー司令官との日本政府の意思でもあった。そうすることで、天皇は戦後を「平和主義者」として生き抜くことができた。
彼らが国を握った。私は立憲君主として、憲法に従って行動しただけ。天皇は、おそらくそう信じていた・・・。
これは、なるほどと思わせる見事な分析です。私の長年のもやもやの一つがすっきり解決したような気がします。大変な労作で大いに勉強になりました。
(2011年6月刊。2800円+税)
2011年10月12日
千年震災
著者 都司 嘉宣 、 出版 ダイヤモンド社
この本を読むと、日本は古来、いかにも地震の国だということがつくづくよく分かります。そんな地震の巣の上に危険な原子力発電所を50基以上もつくってきたなんて、歴代自民党・公明党の責任は重大ですよね。民主党のだらしなさを非難する前に、国民の前で真剣な自己批判こそが必要でしょう。反省もせずに依然として原発を推進しようとしてますし、海外へまだ原発を輸出しようとするなんて、まさしく狂気の沙汰ではないでしょうか。
著者は私とほぼ同じ世代の東京大学地震研究所の准教授です。地震学者ですけれど、歴史地震学の権威でもあります。要するに古文書を読めるのです。
平安時代の歴史書『三代実録』に記された貞観(じょうがん)地震は貞観11年(869年)に起きた。陸奥国で大きな地震が起きて、そのあと津波がやって来たと書かれている。今回の東日本大震災とよく似ている。
慶長16年(1611年)の慶長三陸津波でも、伊達・南部の両藩で合計2913人が死亡した。田老地区でも海面から21メートルの高さにあった神社の参道の橋が津波で消失している。
今回の東日本大震災では今のところ前兆が認められていない。しかし、まったく前兆がなかったとしたら、原理的に地震の予知は不可能という結論を出さざるを得なくなる。
本格的な鉄筋コンクリートのビルは津波に強いことが判明した。
田老町の高さ10メートルの防潮堤は、4メートルずつ2段のコンクリート構造物が単に積み木のように重ねておいてあるだけだった。かみあわせのほぞがないし、鉄筋で上と下を一体化するというのもなかった。これでは見かけ倒しだ。
江戸幕府が始まってから、東京には3回の大地震が起きている。元禄6年(1703年)の元禄地震、安政2年(1855年)の安政江戸地震、そして大正12年(1923年)の関東大震災である。安政江戸地震は直下型地震で、あと二つは海溝型の巨大地震だった。
日本人は地震について、文献だけではなく、被害の状況・惨状を絵にも描いて残しているのですね。お城の破損状況を記録した図面まであります。昔から今に至るまで本当に几帳面な国民性なのですね。
寛政4年(1792年)の島原大変・肥後迷惑のときには、地震も起きていて、大津波は熊本県側にまで被害を与えた。
韓国は日本に比べて地震の少ない国だが、それでも16世紀から17世紀にかけての
200年間に、被害の出た地震が18回も起きたという歴史がある。
地震学者って、あのミミズがのたくりまわっているとしか思えない難解な古文書をすらすらと読めることも求められるようです。すごいことです。
(2011年5月刊。1600円+税)
2011年10月 9日
一瞬と永遠と
著者 萩尾 望都 、 出版 幻戯書房
私は著者の漫画を全部読んだわけではありませんが、そのいずれにも驚嘆したことを覚えています。『ポーの一族』『11人いる!』『残酷な神が支配する』は読みました。そのストーリーといい、画(絵)といい、その感嘆は言葉になりませんでした。
本書は著者の長年のエッセーを集めたものです。絵だけでなく、文章も秀逸でなかなかのものです。奈良の復興寺で阿修羅像を見て、そのそばのソファーで著者がぐっすり眠ってしまったという話には笑ってしまいました。意外に図太い神経の持ち主のようですね。
著者は17歳のときに漫画家になる決心をしました。それは手塚治虫の『新選組』を読んだときのこと。うひゃ、すごいですね。17歳にして早くも漫画家を志したとは・・・・。早熟なんでしょうね、きっと。
著者の少女時代(もうちょっと年長かな・・・・)、母親との関係は最悪だったと語られて、います。マンガぐらい黙って描かせてよ。不良になっているわけでもないんだし・・・・。
禁じられているマンガを描くなんて、なんて悪い娘でありましょう、申し訳ございません。怒りと罪悪感とをシーソーしていた。うむむ、今では偉大なマンガもかつては大変だったのですね・・・・。
実は、私は著者の母親については、子どものころ、私の家によく来られているので知っているのです。母は女学校時代の仲良しだったようです。それで、著者の最近の顔写真が新聞に紹介されたとき、思わず、お母さんにそっくりじゃん、とうなってしまったのでした。
子どもって、大きくなると親にますます似てくるものなんですよね。著者もその一人なのでした・・・・。ますますのご活躍を期待しています。
(2011年6月刊。1800円+税)
2011年10月 8日
アイドル進化論
著者 太田 省一 、 出版 筑摩書房
テレビをまったく見ない私にとって、アイドルというのは別世界の存在なのですが、それでも別世界で今何が起きているのかは気になりますので、こうやって本は読むわけです。グラドルという言葉があるのをはじめて知りました。グラビアアイドルのことです。今ではアイドルの中心勢力の一角として、すっかり定着した。うひゃあ、そうなんですか・・・。しかも、グラビアアイドルという呼び名は他人につけられて甘んじて引き受けるレッテルというよりは本人の意思による選択の証なのである。そうなのですね、知りませんでした。
グラドルの台頭は、アイドルと名のつく存在が様々な分野に生まれる日本社会のアイドル化の最終段階を示している。
山口百恵は、その自叙伝のなかで、『スタ誕』をみていて、ある日、そこに13歳の少女が登場した、私と同い年、そう思ったとたん、私にもできるかもしれないという気持ちが芽生ええはじめ、中学2年の夏休み、友人と何人かで応募のハガキを出した、と書いている。森昌子、桜田淳子、山口百恵の花の「中三トリオ」の誕生である。
ピンクレディーの4作目の「渚のシンドバット」(1977年)は、ついにミリオンヒットを達成した。この大ヒットを牽引したのは、当初はターゲットから外されていた子どもたちだった。子どもたちが振り付けを覚えて、こぞって踊り出すという光景が社会現象になった。作詞家(阿久悠)からすると、ある意味で、それは誤算だった。
ピンクレディーは、作り手の意図によって完璧にあやつられる存在。いわば、ピンクレディーという名ひとつの巨大娯楽プロジェクトになっていた。ファンの側が想像をめぐらせ、何かを読み込めるような余白はもはや存在しない。そのとき、ピンクレディーはアイドルではなくなった。
バラドル、つまりバラエティー・アイドル。とんねるずは、お笑い芸人からアイドル歌手へと、その境界を乗り越えていった。バラドルはアイドル歌手から芸人へと、その境界を越えていく。
アイドルファンにとって、アイドルの「失敗」は、楽しみの一つである。アイドルが成功することも重要だが、むしろ、そこに至るまでの「過程」においてアイドルを応援し分析することの方がプライオリティーが高い。その意味で、「失敗」もまた楽しみなのである。
韓国人によると、日本ではアイドルはファンが一緒に育てていく存在だという指摘がなされています。なるほど、そういうことなのでしょうね。
アイドルとは、社会が学校化し「若さ」が義務になってしまうような状況のなかで、「若さ」を権利として再発見させてくれる存在ではないか。うむむ、そんな見方も成り立つのでしょうか。
アイドルとの関係の中で、ファンは義務化された「若さ」から解放され、自由な気分を取り戻す。そこには、大きな「快楽」がともなうだろう。日本人がアイドルによって「若さ」を反復しようとするときに欲しているのは、実はこの「快楽」なのではないか。それは、学校的な空間から「若さ」を解放し、別の可能性を求める心の声なのである。
むむむ、なんだか分かったようで分からない解説というか指摘です。
(2011年11月刊。1700円+税)
2011年10月 7日
権力奪取とPR戦争
著者 大下 英治 、 出版 勉誠出版
電通や博報堂その他の広告代理店が裏から日本の政治を動かしている実情の一端が描かれています。でもよく考えてみると、そこで動いている莫大なお金の大半は政党助成金、つまり私たちの税金なのですよね。税金が広告代理店やPR会社にまわり、そこでつくられた虚構のイメージで日本の政治が左右されているなんて、知れば知るほど腹の立つ話ではありませんか・・・・。
テレビは政治をショー化した。政治家たちが自分たちの姿をそっくりそのまま映してくれると思っていたテレビもまた、政治家の伝えたいことを伝えきらない。
テレビ映りのいい条件は二つある。田舎者と、変わり者の二つだ。
日本の政界でいえば、田舎者の代表は田中角栄。変わり者の代表は小泉純一郎だ。小泉純一郎は、巧みにも、短く的確なフレーズでメッセージを発して国民の心をつかみとった。言葉のもっている魅力といおうか、あやのものをうまくからませる。その言葉をメディアは使う。いわゆるサウンドバイトの手法こそ、小泉首相の真骨頂だった。さらには、、髪を振り乱す感じ、間合いのとり方は天才的としかいいようがない。まさに、テレビ業界でいう「絵になる」男だった。イメージ戦略の申し子というべき存在だった。うーん、そのおかげで日本の政治は狂ってしまったのではありませんか。
支持率と高感度には違いがある。似ているようで、実は違う。実際に支持率を上げたいのなら、その前に数字にはあらわれない好感度を上げる必要がある。支持率は、その好感度についてくる。
たとえば、政治家が「この国」というと、どこか距離を置いた印象を与える。「わたしたちの国」と言ったほうが共感を得られる。
テレビの討論番組の出演者を誰にするかは、最重要の検討事項である。出演者を決めるとき、一番の決め手は、相手が誰かである。いかに相手の弱点を引き出せるか、相手の攻撃をうまくかわせるか。これには、相性の良し悪しもある。
たとえば、民主党が菅直人のときには、自民党は竹中平蔵を出した。竹中は、自民党が擁するオールマイティの武器だった。温和な顔をしているが、政策に強く、弁も立つ。感情的になることもなく、きちんと話ができるため、誰を相手にしても負けない。
アドバイスは番組に出演したあとも行った。ビデオを見せて注意を与えていく。
電通は、別会社という形で民主党にも食い込んでいる。民主党は本来は博報堂であるが・・・・。代理店の色分けが、今ではそのまま政党の違いではなくなった。
いい話し方とは、しばらくひとつところに目線を当てていたかと思うと、今度は右のほうへ視線をゆっくりと移して、その先の相手をしっかりと見つめて話し、今度は左のほうへ視線を移して話す。一点ばかり見つめてはなすのではなく、全体にも目をいきわたらせていることをアピールするようにして話すのが望ましい。ところが安倍首相の場合には、一点を見つめていたかと思うと、視線がさまよってしまい、自信なさそうに見えてしまうという欠点があった。
首相の「ぶらさがり会見」は大きなリスクをはらんでいる。小泉以降の首相は、誰もが失言を連発して、足を引っぱられていった。「ぶらさがり」は、「失言」製造マシーンとなっていった。
本当に政治って、恐ろしいですね。
(2011年8月刊。1600円+税)