弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

社会

2011年7月14日

戦後日本の防衛と政治

著者    佐道 明広  、 出版   吉川弘文館

 戦後の日本には、自主防衛論対日米安保中心論の対立があった。それは中曽根内閣の成立したあと、安保中心主義で定着した。日本の場合は、政軍関係というより、むしろ政官軍関係と呼ぶべきである。政治家と官僚と制服である。
 航空自衛隊は、過去とのつながりはほとんどなく、防衛政策への影響も少ない。文官優位システムは日本独自のものであり、それが固定化していった。それは、同時に、日米安保中心主義が日本の防衛政策の基本方針となり、制服組の意見も封印されていく過程だった。
岸信介は、他国の軍隊を国内に駐屯せしめて、その力によって独立を維持するというのは真の独立国の姿ではないと言った(1954年)。改進党は、在日米軍を撤退させるためにも自主防衛を主張した。自由党も、在日米軍の撤退を視野に入れた防衛構想をつくらざるをえなかった。
海上保安庁が発足するとき、旧海軍の士官1000人、下士官・兵2000人の計3000人が採用された。海上保安活動には高度の専門知識と技術が必要なため、GHQも旧軍人の採用を許可せざるをえなかった。このときの旧海軍軍人グループが海上自衛隊の創設にあたっても大きな役割をはたした。
 戦後の旧陸軍軍人の動向と比較して、旧海軍軍人グループの顕著な特徴は、野村や保科を中心に非常にまとまりが良かったことにある。彼らは対米関係を非常に重視していた。旧海軍グループは、国会議員となって、自民党組織の内部に勢力を築きあげていった。戦前との連続性の点では、海軍のそれは陸軍に比べて圧倒的に大きい。
陸上自衛隊のなかで、服部グループの影響力はなきに等しかった。警察庁予備隊の創設以来、新組織の中核に座ったのは、旧内務省の警察官僚だった。内局の人事権は、長官官房が握っていて、制服組から内局幹部職員が任用されることはなかった。
 防衛庁長官や国務大臣といえども、専門性の高い防衛問題については内局官僚に全面的に依拠せざるをえない。防衛政策の作成における内局文官の優位性が一層高まった。
 60年安保騒動における自衛隊出動には、3つの重要な問題があった。第一は、政治家の方に出動論が強かった。第二に、これ以降、陸上自衛隊の中心課題に治安維持対処が置かれるようになった。第三に、その一方で、治安対策の中心は警察となった。
 1960年7月、「防衛庁の広報活動に関する訓令」が定められ、これを契機に防衛庁の広報活動が活発に行われるようになっていく。防衛庁の広報活動は、自衛隊に対する管理と並んで重要な仕事になった。このような活動によって、1960年代に自衛隊は国民の間に定着していった。
 1960年代に防衛問題で中心的な存在であった保科善四郎と船田中は、いずれも防衛産業と密接な関係をもっていた。長い議員歴をもち、防衛庁長官にもなった経歴の船田と、元海軍中将という軍事専門家であり国防部会の中心的存在である保科の組み合わせを基軸に、自民党国防族は防衛産業と防衛関係省庁のパイプの役割を果たしていく。自主防衛の内容は、実は防衛装備の国産化を意味していた。防衛装備国産化の推進は、防衛産業の強い要請であり、自民党国防族もこれを熱心に主張していた。
 防衛庁は、二次防策定後、自衛隊に対する管理官庁としての性格を強めていた。それに対して、本来なら財政の面から防衛予算の策定に携わる大蔵省が防衛政策の基本問題を議論するという、防衛庁と大蔵省の逆転現象が起きていた。
 二次防との最大の相違点は、三次防が海上防衛力について大幅な増強を認めているという点であった。日本の防衛力整備は、三次防において、治安・本土防衛中心部隊から日米共同作戦実施の可能性をもつものに変化した。このような防衛力整備方針の変質を象徴する出来事が「海原天皇」とまで言われていた防衛庁きっての実力者であった海原治の失脚だった。海原の国防会議への転出は、防衛庁内局の中心が、旧内務省出身で旧軍勢力の復活を危惧して制服組の権限をなるべく抑制しようとし、結果として防衛庁の管理官庁化をもたらした防衛官僚第一世代というべき存在から、自衛隊の役割を広い視野から考えるとともに主体的に防衛政策を立案しようとする次の世代に移行しつつあることを象徴する出来事であった。
 1960年代は、一貫して陸上自衛隊の基本的方針は間接侵略対処であった。海上防衛論を唱えた者も間接侵略への対処を基本に置いていた。冷戦下で核による恐怖の均衡が成立しており、全面戦争の緊張は緩和されているとみた。この傾向は70年代に入っても変わらなかった。
 中曽根は自衛力整備による在日米軍の撤退を主張した代表的な論者の一人であった。ナショナリズムのシンボルとしての基地問題は、中曽根にとって一貫して重要な問題であった。しかし、結果として中曽根構想は挫折した。
日本全体(ただし、沖縄は除く)で大幅な基地の整理縮小が1970年代末までに実現した。これによって、それまで反米ナショナリズムの象徴となった基地問題は(本土では)ほとんど解消した。このこと意味は大きい。
四次防再検討の主導権を海原治が掌握したことで、「国防の基本方針」にのっとって日米安保制を基軸にしたものとなり、中曽根構想にあった自主性追求の部分は、ほとんど姿を消した。実質的に三次防の延長としての整備計画となった。自主か安保かといった日本の防衛政策の基本方針をめぐる議論は、ここで再度封印されてしまった。
 「防衛計画の大網」(旧大網)の策定にあたって、もっとも大きな役割を果たしたのは久保卓也だった。久保理論においては、基盤的防衛力構想は、きわめて重要な位置を占めている。我が国に対して差し迫った脅威があるとは考えられないが、潜在的な脅威に備える必要があるというものである。基盤的防衛力構想は、「抑制力あるいは規制力」という概念とともに語られる。日本自身の防衛力の前提となる防衛の対象が限定局地戦であった。この限定局地戦に対応した防衛力整備の基本方針が基盤的防衛力構想であった。基盤的防衛力の構想は日米安保体制による抑止が継続するという発想に立っている。田中角栄は防衛力の増強は、四次防で打ち止めにしたいという意向を示した。
 1970年代半ばから、自衛隊OBの対照的発言がさかんになっている。これは坂田防衛庁長官が自衛隊員が積極的に発言することを奨励した結果である。
 ガイドラインの中身を決める作業に制服組が参画した。政治家による防衛論議が極度に減少したのをはじめ、防衛庁のなかでも制服組の立場が上昇した。もはや、1950年代や60年代のように、文官が制服を押さえ込んで文官だけですべてを決めることはできなくなった。
 日本の戦後の防衛政策の変遷を正面から分析した貴重な本だと思い、十分に理解は出来ませんでしたが、ここに紹介します。
(2003年11月刊。9000円+税)

2011年7月 9日

ヒロシマ・ナガサキ 宮崎からの証言

著者    被曝の思いをつなぐ会  、 出版   鉱脈社

 宮崎県内にいるヒロシマとナガサキの被爆者145人の65年間にわたる証言集です。
700頁近い分厚い本となっていますが、内容もとても重たくて、読みすすめるのが大変辛くなります。
 それでも福島第一原発事故という世界最大級の大災害が発生し、今なお放射能が拡散しつつあるなかで、原爆の恐ろしさから目をそらすわけにはいきません。私の住む市議会で、原発を停めて自然再生エネルギーへ転換しようという提案が否決されてしまいました。まだ原発に頼って生きていこう、なんとかなるはずだという甘い幻想に浸ったままの市民がそれだけ多いということを意味しています。でも、本当に原発って大丈夫なんですか?
 メルトダウンした核燃料の後始末はどうするというんですか?
誰かが何とかしてくれるだろうというのでは困るのです。使用済み核燃料を最終的に始末する技術は確立していませんし、地球上のどこにも置ける場所はありません。
トイレのない高層マンションを建てて、安いよ、安いよ、安全だから住んでごらんよと呼び込んでいるようなものです。マンションの外に汚物を捨てればいいでしょと言ったって、どうやって運んでどう始末するんですか。それが分からないのに、このマンションは安いから買おうなんて、気が狂っているとしか言いようがありませんよね。
 ヒロシマもナガサキも被曝によって即死した人たちは不満の声も上げることなく、この地上からいわば抹殺されてしまいました。そして、生き残った人の多くが病気に苦しめられ、子孫への遺伝的悪影響を心配しながら生きてきたのです。
 放射能被害の恐ろしさを実感させられる体験記です。5冊の証言集が集成されていますが、とても読みやすくなっています。現代に必ず伝えたい貴重な記録です。編集委員の一人である内山妙子さんより贈呈を受けました。ありがとうございました。引き続きのご健勝を心より祈念します。
(2010年8月刊。4000円+税)

2011年7月 8日

いま、憲法は「時代遅れ」か

著者  樋口 陽一    、 出版  平凡社

 大日本帝国憲法を制定するための会議のなかで、伊藤博文は次のように言った。
そもそも憲法を設ける趣旨は、第一に君権を制限し、第二に臣民の権利を保全することにある。
驚きましたね。伊藤博文の言うとおりなのです。
 憲法を中心にして世の中を組み立てていく立法主義の考え方の根本は、国民の意思によって権力を縛ることにある。
そうなんです。憲法は一般の法律とは、まったく違うものなのです。自民党も民主党も、発表した改憲案のなかで、憲法とは国民の行動の規範だとしていますが、根本的に間違っています。
アメリカでは、連邦最高裁の9人の裁判官の宗教的分布が絶えず問題になる。かつてはプロテスタントばっかりだったようですが、今ではカトリック6人、ユダヤ教3人になっているとのことです。国民の宗教分布とは明らかに異なっています。
 日本で、15人の最高裁判事がどの宗教を信じているのか、誰も知ろうとも思わない。そこは、日米の大きな違いだ。そうですよね。15人の判事のなかにキリスト教の信者もいるかもしれませんが、おそらく大半はあまり熱心ではない仏教徒ということになるのでしょう。
 いま、アメリカの大統領の候補者が何人も取り沙汰されていますが、有力候補二人がモルモン教徒だというのが話題になっています。日本にも布教のために若者を送り込んでくる、かつては一夫多妻を公認していた宗教です。アメリカも変わりつつあるのでしょうか。
 アメリカのイラク攻撃にいち早く賛同した小泉首相(当時)すら、自衛隊を送るとき、イギリスやイタリア、スペインの首相とは違って、「戦争をしに行く」とは言えなかった。それだけの規制力を憲法9条は今でも持っている。9条の旗はボロボロになってはいるが、日本国民はまだ握って放さない。品川正治氏の指摘するとおりだと思います。
 アメリカの憲法には、今でも日本国憲法の25条とか28条のような社会権を保障する規定がない。アメリカでは国民皆保険を主張する人はアカだと思われるといいます。とんでもない偏見にみちた国です。
リベラルという言葉は、アメリカとヨーロッパでは、意味がまったく違う。アメリカでリベラルというのは通常、進歩的なこと、左派を意味している。ところが、ヨーロッパでは、経済活動領域における自由放任主義を指している。したがって、リベラルとは右派を指す。ええっ、そうなんですか・・・・。  
近ごろ日本の学校では、民主主義とは、他人に迷惑をかけないことと教えているという。これでは世の中の雰囲気に順応する無定見な生き方が結果として奨励されてしまう。そうですよね、民主主義って、そんなものじゃないでしょ。
55年体制にも功があった。自民党による長期政権にもかかわらず、ある種のコンセンサス政治が行われ、特定の政治勢力の一方的な切り捨て、排除という意味の独裁政治ではなかった。というのも、自民党の実態は、複数の中小の政党の連立政権だった。そして、議会外の要素として、労働運動、学生運動、マスメディア、論壇という場面で、野党の勢力と共通の主張がむしろ一貫して影響力を維持し続けてきた。そして、憲法9条をめぐる「偽善の効用」が、歯止めのない軍事化を抑止した。
「霞ヶ関退治」の掛け声が意味しているのは、プロフェッショナル攻撃である。かわりに登場するのが素人支配。経済界のリーダーたちをはじめとする素人が、さまざまの公的あるいは私的の審議会をつくり、そこで決めたことが経済政策以外でも、いわば排他的に政策として貫徹していく。
「官から民へ」という掛け声とともに登場してくるのは、弱者を犠牲にして恥じない大企業なのですよね。
久しぶりにスカッとする思いでした。憲法をめぐる状況を改めて考えさせてくれる本として、一読をおすすめします。
(2011年2月刊。1500円+税)

2011年6月28日

原発事故は、なぜくりかえすのか

著者    高木 仁三郎  、 出版   岩波新書

 ドキッとするタイトルの本です。3.11のあとに出た本ではありません。なんと、初版は今から10年以上も前の2000年12月に出ています。原子力資料情報室の代表として高名だった著者は、惜しくも2000年10月、62歳のとき、大腸がんで亡くなられたのでした。巻末に生前最後のメッセージが紹介されています。
 反原発の市民科学者としての一生を貫徹できた。反原発を生きることは、苦しいこともあったけれど、全国・全世界に真摯に生きる人々とともにあること、歴史の大道の沿って歩んでいることの確信からくる喜びは、小さな困難などはるかに超えるものとして、いつも前に向かって進めてくれた。
 しかしなお、楽観できないのは、この本期症状の中で巨大な事故や不正が原子力の世界を襲う危機だ。原子力末期症状による大事故の危機と、結局のところ放射性廃棄物がたれ流しになっていくのではないかということへの危惧の念は、いま、先に逝ってしまう人間の心をもっとも悩ますものだ。あとに残る人々が、歴史を見通す透徹した知力と、大胆に現実に立ち向かう活発な行動力をもって、一刻も早く原子力の時代にピリオドをつけ、その賢明な終局に英知を結集することを願ってやまない。
 なんとなんと、この最後のメッセージに私たちはこたえることが出来なかったわけです。残念無念と言うしかありません。それにしても福島第一原発の大事故を予見したかのようなメッセージでした・・・。
 政府は、1999年12月の報告書において、「いわゆる原子力の『安全神話』や観念的な『絶対安全』という標語は捨てられなければならない」と強い調子で言い切っていた。
 ええーっ、ウッソー、ウソでしょうと言いたくなりますね。それほど、言行不一致だったというわけです。
 原子力産業の第一の問題点として、議論のないことがあげられる。議論なく、批判なく、思想なしだ。そして、情報が出てこない。それも、商業機密だから・・・だ。
 メルトダウンについては、ある種のタブーになっていて、まともに議論したことがなかった。原子力村というのは、お互いに相手の悪口を言わない仲良しグループで、外部に対する議論には閉鎖的で秘密主義的、しかも独善的という傾向がある。原子力行政を批判すると、原子力を推進するのは国策だから、原子力反対とか脱原発というのは公益性がないとされた。
 うひゃあ、そうなんですよね。国賊とまで言わなくても、せいぜい良くしてドン・キホーテと見られていましたよね、原発の危機性を言いつのる人々は・・・。
原発内の事故は隠されたというわけではなく、一連の虚偽の報告が意図的になされてきた。
 それはそうでしょうね。原発は絶対安全なのだから、事故なんて起きるはずがない。みんなそう思い込み、思い込まされていたわけです。でも、3.11福島原発の大事故によって、電力会社がいかに嘘っぱちの会社であるが、年俸7200万円の超高給とりの取締役たちの厚顔無恥ぶりが白日のもとにあばかれてしまいました。
 今こそ脱原発をみんなで叫んで、安全な自然エネルギーへの転換を急ぎたいものです。ドイツに続いて、イタリアでも国民投票で脱原発が決まりました。本家本元の日本人がまだ事態の深刻さの認識が足りないような気がします。福島原発は放射能を今も空に海に地中にたれ流し続けていて、それが止まる目途は立っていません。恐ろしい現実が進行中です。そこから目を逸らすわけには言いません。そんな深刻な状況が解決されてもいないのに玄海原発をはじめとする全国の原発を操業再開しようなんて、とんでもないことです。
(2011年5月刊。700円+税)

2011年6月24日

都知事

著者    佐々木 信夫  、 出版   中公新書

 普通の知事がやっても東京は繁栄する。石原慎太郎が知事として特に優秀だという話はあまり聞かない。多くの高次中枢機能が集積する東京の立地条件、中央集権という体制が東京繁栄をもたらしている。石原知事が五輪招致で100億円を超えるカネを無駄にしても、銀行税によるカネ集めに失敗しても、東京都は決してつぶれない。都庁官僚に任せておけば、一定の行政水準は保たれる。ヒト、モノ、カネ、情報が集まる大都市東京は、集積が集積を呼ぶメカニズムのなかで栄えている。なーるほど、そういうことなんですね。まあ、首相も同じようなものなんでしょうね。
 現在、47都道府県知事の6割は官僚出身者で占められている。しかも、彼らは、かつてのような次官とか局長という功なり名を逃げた「上がり組」ではない。多くは課長クラスといった中堅官僚からの転身組である。彼らに期待されるのは仕事師としての役割だ。国から自立した政策と自己決定・自己責任による地域経営が求められている。ふむふむ、これは以前とは違いますね。
 都知事は職員17万人、予算12兆円という巨大都庁の経営者である。任期は4年間と安定し、都知事は首相や大臣なみに扱われ、要人警護のSP(2人)も付く。都知事は議会への予算や法案の提出権をもち、議会に対して圧倒的に優位な立場にある。
 都知事は年間2018万円の給与をもらい、1期終了ごとに4700万円の退職金が支給される。ところが、石原慎太郎は週に2、3日しか都庁に出勤していないと言われ、パーティーや宴席にもほとんど出ない。
 都庁職員には、「学歴ではなく学力で」という、脱学歴の伝統がある。誰でも、能力と実績さえあれば管理職になれるのが、都庁の人事政策の特徴と伝統である。
 都庁は、多様な大学の出身者が局長となっている。最近では管理職を志望しない若手職員が増えている。石原慎太郎によるワンマンな管理職の使い方も影響して、論争を好まない組織風土ができあがり、上司の指揮命令に忠実な者のみが出世する人事が管理職志望を下げている。
 一般会計だけでも6兆3千億円というのは、フィンランドやチェコの国家予算規模に相当し、ニューヨークの予算規模とほぼ同じである。
 大統領制の都知事は、実質的に予算編成権と執行権を一手に握っている。しかも、都が国の財源収入の6~7割は固有財源(地方税)である。国の交付税に依存せず、ひもつき補助金も少ない都の場合、ほかの府県知事が1割足らずの裁量しかないのに対して、都知事の財政裁量は3割近い。
 石原慎太郎の政治手法は小泉純一郎に類似している。敵(守旧派)をつくりあげ、敵を倒すものが正義(改革派)であるという論法だ。石原は国の官僚制を目の仇として、「東京が日本を変える」と対決色を強め、独自の政策を展開した。時には思いつき、独善と言われながら有権者の心をつかむのはうまい。
 石原都政は総じて弱肉強食の論理を是とする大都市経営である。福祉・医療の減量化、民営化はその一面だ。老人福祉手当は4分の1近くまで減額。70歳以上の6割が利用していた都営バスの無料パスも全面有料化され、年間7万人も利用者が減った。老人医療費助成も対象者の見直しで4分の1、10万7000人が対象外となった。病院の統廃合で多摩地区には医療不安が広がり、周産期医療の問題や医師不安など、福祉医療分野の不完全さが目立つ。
 総じて福祉、医療、文化、食育など、石原都政の下で生活者に関わりの深い生活都市の面は停滞し、大都市の高層化や経済活性化など経済都市としての基盤整理はすすんだ。
 うへーっ、これってまさに弱者を切り捨て、大企業と大金持ちに奉仕する都政になっているということですよね。そんな政治をしてきた石原慎太郎が先日の選挙では大差で再選されました。信じられませんね。
  (2011年1月刊。780円+税)

2011年6月22日

原発事故、緊急対策マニュアル

著者   日本科学者会議福岡支部   、 出版  合同出版 

 このようなタイトルの本を紹介しなければならないのは、本当に残念です。いえ、もちろん、出版した人を責めているのではありません。「絶対安全」だったはずの福島第一原発事故が起きて、実は原子力発電とは未完成の技術であり、使用済み核燃料を始末する技術もないまま目先の利潤に目のくらんだ政治家と電力会社が次々に立地させていたこと、つまり原発は放射能をたれ流しするだけの危険なものであったことが明らかになってしまったことが残念だと言いたいのです。ドイツやイタリアのように、日本も、もっと早く原発を全停止すべきでした。
 それはともかく、玄海原発のような老朽化した施設、しかも猛毒のプルサーマルを身近にかかえる私たちとしては、この本を読んでおかざるをえません。本当に残念ながら必読の本になっているのです。
 放射能に汚染したときの緊急措置は・・・・。
 まず、多量の水と石けんで洗う、そして、できるだけ早くヨウ素剤を服用すること。
屋内退避のときには・・・・。窓や戸を閉じて外気を入れない。換気扇を止めて、密閉する。できたらコンクリートの建物に避難する。窓ぎわから離れた中心部の部屋にいる。
原子力発電では、原子炉を停止しても、炉心は絶えず冷やし続けなければならず、冷却が十分でないと原子炉の放射能が外部に放出される重大事故に発展する恐れがある。
原子炉の事故として心配なのは、本体より周辺部の配管の破損・損傷である。
 炉心の冷却がうまくいかないと、炉心の温度は燃料の融点2800度に達して、溶けてひとかたまりになる。これをメルトダウンという。炉心全部が溶けると、200トン以上にもなる。配管破断からメルトダウンに至るまではわずか10分から60分と予想される。ひとかたまりとなった炉心は、表面積が小さくなるので、これを冷却することは絶望的だ。
 福島原発事故で現実に起きたメルトダウンは、今では津波によるものではなく、地震によって配管設備の損傷が起き、そのため冷却水がなくなったことによるものだとされています。つまり、津波対策として堤防のかさ上げをしても万全の効果は期待できないわけです。
 福島原発事故によって放射能に汚染された海水などが外部へ出たのは2%でしかないそうです。まだ98%が内部にあって、それが少しずつ外部へ漏れ出ているというのです。放射能もれが3カ月以上たった今でも現在進行形であり、止まっていないというのは、まさに恐るべき事態です。
 にもかかわらず政府は早々と全国の原発の安全が確認されたと宣言し、操業再開を認めようとしています。恐るべき無責任さです。
 読みたくない本です。でも、読まざるをえない本です。矛盾を感じながらも強く一読をおすすめします。知らぬが仏とよく言いますが、知らないうちに死んだり病気になっては困りますよね。わずか80頁たらずの軽くて重い冊子なのです。
(2011年5月刊。571円+税)

2011年6月21日

紛争屋の外交論

著者    伊勢崎 賢治  、 出版   NHK出版新書

 日本は、まだまだ平和だ。しかし、平和は、壊れはじめるときには、なかなか気がつかない。そして、気がついたときには、もう手遅れのことが多い。
尖閣列島のようなことが起きると、メディアがまず熱狂する。中国の脅威を煽る。何にでも一言いわざるをえないコメンテーターが芸能ニュースのノリで吠える。加えて、評論家、軍事専門家、国際政治学者、大学の先生たちが好戦アジテーターと化す。こういうときに、国の民主主義が、民衆の人気とりだけに奔走する衆愚主義に陥ると、増悪の熱狂が戦争という政治決定にたやすく転じてしまう可能性がある。熱狂をあおる人々に対して、尖閣なんてちんけな問題だと言い放ちたい。著者は、このように断言しています。
 そんな領土紛争は昔からどこの国も抱えてきました。それを戦争にまで持っていってしまったら、世界中が戦争だらけになってしまいます。そうならないようにするのが外交であり、政治です。
 戦争がなくならないのは、戦争はもうかるから。戦争が起こると稼げるのは、まず、軍需産業だ。しかし、それだけではない。戦争を伝えるメディアも、破壊された国土を復興する建設業者も、ひいては人道援助NGOにまでお金が入ってくる。このように、戦争は現実の利益をもたらす。しかし、平和はもうからない。貧困だけが戦争の原因ではない。
貧困対策は、紛争を予防できない。むしろ、貧困を拡大してしまう大きな可能性すらある。
 民衆の熱狂は恐ろしい。民衆を熱狂させる煽動行為があると、民衆に襲いかかる。それは、大量破壊兵器以上の殺傷能力がある。このことがルワンダのケースで立証された。
 日本のメディアの特性は、政治的な裏の世界が支配するのではなく、ただ、民衆の怒りや不満を先取りすることにある。どうなんでしょうか。月1億円を自由につかえる内閣官房機密費などによってマスコミのトップが政府に「買収」されてきたというのは日本における歴史的事実なのではないでしょうか。だから、裏の支配者が支配したとまでは言えなくても、強い影響力を行使してきたこと自体は間違いないことだと私は考えています。
 アメリカは、「民主主義と人権の守護者」を標榜しながら、人を殺し続けている、恐らく世界最大の国家の一つである。イラク、アフガン戦でのアメリカの戦死者は、既に6000人をこえている。友人や家族、親戚のなかに、たいてい戦死者が見つかるほど、戦争はアメリカにとって日常的な存在になっている。
 日米同盟についていうと、実は、アメリカのほうが日本以上に日米同盟に依存している。日米同盟が解消されたら、アメリカは世界の覇権国から滑り落ちてしまう。アメリカにとって、日米同盟は不可欠なものである。
 世界各地の危険な紛争地域に出かけていき、身体をはって紛争減らしに尽力してきた実績のある人の発言ですから、重みがまるで違います。とても考えさせられる、コンパクトな良書です。ぜひ、ご一読ください。
(2011年3月刊。780円+税)

2011年6月14日

福島原発事故

著者    安斎 育郎  、 出版   かもがわ出版

 今回の原発事故では「原発村」とも呼ばれる原子力発電にかかわる学者グループの責任が厳しく問われています。この「原発村」の中心にいるのが東大工学部原子力工学科の卒業生たちです。そして、この本の著者は、この原子力工学科の第一期生なのです。ところが、「原発村」に属せず、むしろ叛旗をひるがえした著者は、徹底した迫害を受けるのでした。なにしろ、「敵」は、お金も権力もある有力な集団です。今日まで著者が生きのびたのが不思議なほどでした。
 福島第一原発では、あってはならないメルトダウン(炉心溶融)が地震後まもなく起きていたこと、それは津波による被害の前、地震そのもので格納容器が損傷してしまったことによることなどが地震後3ヵ月もたって明らかされつつあります。なんと恐ろしい情報操作でしょうか・・・。東電も政府も、早くから分かっていたのに、メルトダウンの発生をひたすら国民に対して隠し続けていたというわけです。
 原発は電気を発生させるところ。ところが、その発電所に電気がない事態になった。まさに、皮肉というほかない。原子炉から放射性物質を放出させないためには、何とか冷温停止状態(冷温といっても100度以下ということです。マイナス温度では決してありません。つまるところ、安定した温度状態にあることです)にコントロールすることが不可欠だ。
原子力発電所では、隠すな、嘘つくな、意図的に過小評価するなという原則が守られなければならない。
 福島第一原発事故では、原子炉を冷やすためには注水しなければいけない。注水したら漏れて海中に放射能物質が流れ、世界中に拡散することになるというジレンマを抱えた。
放射線から身を守る基本は、放射能は浴びないにこしたことはないということ。子どもの方が、総じて放射線に対する感受性が高い。生殖可能年齢をすぎた人の場合には、生殖腺に被曝しても遺伝の問題は起こりようがない。
 日本の原発労働者は7万人いる。その9割は下請労働者である。原発労働者の放射線被曝は、年間100シーベルトほど、その95%は下請労働者の被曝である。
原発は、実のところエネルギー効率が悪く、70%は環境に放出し、むだに捨てている。
 原発では、燃料の温度をあまり高くすると損傷を受けて安全性の確保が難しくなるので、ほどほどの温度条件でがまんせざるをえない。
 大事故は、必ず想定外の原因で起こるというのが常識である。
 廃炉は、技術的にも経済的にも、ものすごく大変である。解体撤去に300億円かかるという試算もある。原発は安上がりだというのは、この廃炉コストをわざと計上していないからである。
 とんでもない「原発村」ですし、それを利用してきた歴代の自民党政府は、まったく許せませんよね。その反省もなく民主党政権を批判するなんて、厚顔無恥そのものではないでしょうか。といっても、民主党政権も消費税を10%に上げようとし、ドサクサまぎれに憲法改正までしようというのですから、とんでもありません。
(2011年5月刊。1500円+税)

2011年6月12日

残るは食欲

著者    阿川 佐和子 、 出版   マガジンハウス

 ええっ、こんな刺激的なテーマで芳紀あふれる独身女性が書いていいのかと、小心者の私は正直いって心配しました。もちろん、これって本当ですよ。
まあ、それはともかくとして、著者の美食を描写する技巧は、ますますみがきがかかっていますね。この本を読んでいると、みんなぜひぜひ食べてみたい、それも今すぐに、と思ってしまいます。口の中がよだれであふれ、知らず識らずのうちに喉元にゴクリと音がするのでした。
夜9時すぎ、自宅に戻った。晩ご飯は食べそびれている。どうしよう・・・。翌朝までガマンするか、それとも外食しに出かけるか・・・。夜9時すぎに食べると身体に悪い。では、じっとガマンするしかないか・・・。ガマンしきれずに冷蔵庫を開ける。すると、2日前に町で買った豆腐がある。絹にするか、木綿にするか・・・。迷ったあげく、両方とも買った。それが一つ残っている。それで、その日は、木綿豆腐を湯豆腐で楽しんだのだった。
料理の腕は、自己満足をくり返していても磨かれない。改めて主婦の偉大さを思い知る。プロの料理人の苦悩を偲ぶ。毎日、毎日、他人の評価を前にして料理をつくり続けるバイタリティーと才能が求められる。もはや花嫁修業の必要もない今となっては、自分の料理は自分で食べて、自分で誉める。一人で生きていくんだ。フン。
なかなか著者のおメガネにかなう男はいないようで、男の一人として残念至極ではあります・・・。
そこそこ食べることに興味があり、でも妻のつくる料理に口うるさくない心優しいダーリンが望ましい。そう願って既に四半世紀。今や、一人でつくり、一人で誉め、一人で食べ尽くす。誰に気をつかうことなく、そして今夜も、「私は天才かっ!」と叫んでやる。意地でも。
まあ、そんなに意地なんてはらんでも、そこそこの男性と妥協してくださいな・・・。たとえば、こんな私でも・・・。おっと、冗談(ということにしておきましょう)・・・。
生姜ジュースが登場します。私の朝食はリンゴとニンジンの青汁ジュースのみ、そして、生姜紅茶です。これで健診時の糖尿病疑いは吹き飛んでしまいました。今では生姜を入れない紅茶なんて、気の抜けたビール以上に飲んだ気がしません。
「とりあえずビール」という人は多いのですが、私は3年ほど前からビールは卒業しています。ダイエット志向の強い私としては、腹六分目が理想ですので、腹一杯にふくれてしまうビールは大敵なのです。
フランスのお菓子でカヌレというのがあります。福岡の三越のデパートの地下のパン屋(「ポール」)でも売っています。私の大好物です。これまで、誰一人としてカヌレを差し入れてくれたことがないのが残念でたまりません。食べたことのない人は、ぜひ一度食べてみてください。美味しいですよ。
(2008年9月刊。1400円+税)

2011年6月10日

日本の原発、どこで間違えたのか

著者   内橋  克人    、 出版   朝日新聞出版

 原発一極傾斜体制を推し進めてきた原動力の一つには、あくなき利益追求の経済構造が存在している。原発建設は、重電から造船、エレクトロニクス、鉄鋼、土木建設、セメント・・・・、ありとあらゆる産業にとって、大きなビジネスチャンスだった。
 1980年代後半、日本は国の内外ともに不況は深刻だった。電力9社の発電設備の余剰率(ピーク時電力に対する)は、31%をこえていた。つまり、設備の3分の1近くが既に余剰だった。既に償却ずみの、したがって安いコストで発電できる水力や火力の設備をスクラップしてまで原発建設は進んだ。「安全」を捨て、「危険」を選んだのは、選ばせたのは誰か・・・・。そうなんですよね。目先の利益に走った集団のため日本民族の危機が迫っているわけです。
 電気事業連合会は、その本部を経団連会館のなかに置く。その地から、「安全だから安全だ」「世界の流れだ」と発信し続けた。そのとおりですね。日本経団連会長は福島原発事故が起きて日本中が放射能被害に心配している今でも、やっぱり原発は必要だなんて無責任な発言を続けています。許せません。ながく金もうけのことしか考えないと、そこまで人間が堕落してしまうのでしょうね。もちろん、お金もうけは大切ですけど、何事も生命と健康あってのことなんですよね。そこを忘れては困ります。少なくとも経済界トップとしての自覚がなさすぎですよ。
 本書は、実は今から30年も前に発刊されたものを復刊したものです。それだけに原発をつくるときに、原発の危険性を指摘していた人々がいたこと、それを電力会社や自民党がお金と権力をつかって圧殺してしまったことが生々しく再現されています。
 福島第一原発の地元である大熊町は、町税収入のなかの83%が原発関係の収入だった。まるで、原発丸がかえの町だったのですね・・・・。そして、原発は安全だと強調していた福島県は、実はひそかにヨード剤を27万錠も買って常備していた。ええーっ、そうなんですか。ところで、このヨード剤って今回の震災で活用されたのでしょうか?
 自民党は、日本に原発を100基設置する方針を打ち立て、強力に推進した。そうなんですよね。今、自民党は震災対策で民主党政権を非難していますが、元はといえば自分が強引に推進してきた原発政策が破綻したわけですから、国民に対してまずは自己批判すべきではないでしょうか。他人を批判する前にやるべきは自民党の自己批判ですよね。 
原発技術は、つまるところ溶接技術である。複雑にいりこんだ形状の原子炉格納容器、おびただしい数にのぼる曲がりくねった大小のパイプ、それらは完璧な溶接技術なしには成立しない。
日立製作所やIHIは「世界一」の確信をもっていた。それが、原発の稼動後まもなく、もろくも崩れ去った。まだ実証炉の域を出ていない原発の技術を、すでに実用段階と思い込み、安易に原発に対処したのだ。
その日本側の認識の甘さは大いに責められるべきです。そして、政府、自民党とともにマスコミの責任も重大ですよね。原発の「安全神話」はマスコミの協力なしには普及しなかったわけですから・・・・。
 読んでいると、背筋に寒さを覚える本でした。
 
 
(2011年5月刊。1500円+税)

前の10件 110  111  112  113  114  115  116  117  118  119  120

カテゴリー

Backnumber

最近のエントリー