弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

社会

2012年4月27日

子どもと保育が消えてゆく

著者  川口 創  、 出版   かもがわ出版   

 名古屋で活躍している、子育て真最中の弁護士が日本の保育はこれでいいのかと、実体験をもとに鋭く問題提起しているブックレットです。
 わずか60頁ほどの薄いブックレットですが、日本の明日を背負う子どもたちを取り巻く、お寒い保育行政の現実を知ると、背筋がゾクゾクしてしまいます。
 コンクリートより人を、と叫んで誕生した民主政権でしたが、権力を握ったら、自公政権と同じく、コンクリート優先、福祉切り捨て政治を強行しています。悲しい現実です。
 いま政府がすすめている「幼保一体化」の看板の下で実施されるのは、保育所の解体のみ。「こども園」には、待機児童がもっとも深刻な3歳未満児の受け入れ義務を課さない。 それでは、3歳未満児は、どうなるのでしょうか・・・・?
 私の子どもたちがまだ幼いころは、全国各地で「ポストの数ほど保育所を」という合言葉のもとに保育所づくりの運動が広がっていました。
 1970年代には、年に800ヶ所を増設し、9万人の入所児増を実現した。保育所は2万3千ヶ所、在籍児200万人だった。ちころが、その後は自助努力が強調されるなかで保育所は減少していき、2000年には、2万2千ヶ所にまで減らされた。そして、2000年から2008年までの8年間に、全国で1772ヶ所の公立保育園が消えた(13.9%減)。
 厚労省によると、2011年4月の待機児童数は全国で2万5千人を超えている。
 日本の保育を、アメリカと同じように市場化し、「ビジネス・チャンス」にしようという狙いがある。
 女性が経済的に自立できるようにするためにも、公立保育所の拡充こそ必要です。安易に民間委託し、「ビジネス・チャンス」なんかとすべきではありません。
子どもたちにとっても、集団保育はとても有意義です。3歳児までは親の手もとでずっと面倒をみるべきだというのは、現実の日本社会の実情にもあわない主張です。私の3人の子どもたちはみな保育園に出し、そこでのびのび育ちました。社会人になった今でも、保育園当時の仲間とは親しく交流しています。親としても、たいへん喜ばしいことです。子どもにとって親の愛情とともに、友人と親しく交わることができるというのはなにより大切な財産です。
 「幼保一体化」でビジネス・チャンスをつくり出すだなんて、いったい政府は何を考えているのでしょうか。子育てを金もうけの機会にするというのはとんでもない間違いです。
 子育て、がんばってくださいね。大変でしょうが、楽しく充実した日々なのです。としをとって、あとで振り返ってみると、それを実感します。
(2011年10月刊。2800円+税)

2012年4月24日

ホットスポット

著者   NHK・ETV特集取材班 、 出版   講談社

 3.11のあと、福島第一原発事故からどれだけの放射能が日本全国いや世界中に流出していったのか、想像を絶します。この本で紹介されているテレビ番組は日頃テレビを見ない私もビデオにとって、しっかり見ていました。
 放射能汚染というのは、決して単純な同心円状にはならず、とんでもないところに高濃度汚染のホットスポットが生まれるということを、その番組を見て実感しました。
 この本は、番組製作の舞台裏も紹介していて、とても興味深いものがあります。NHK
の上層部から取材そして放映を中止するような圧力がかかったそうです。
ホットスポットとは、局部的に高濃度の放射能に汚染された場所をあらわす言葉。
 同じ双葉町の中で、わずか1キロほど移動しただけで、空間線量率が毎時300マイクロシーベルトから40マイクロシーベルトに変わった。汚染は同じ同心円状に広がったのではなく、斑(まだら)状になって分布していた。
 取材班は、高線量が予測される地帯は50歳以上で担当するというのが暗黙の了解となっていた。取材が終わって宿に着いたら、真っ先に風呂に入る。そして、合羽やゴム長をていねいに水で洗い、大浴場で頭や手足を入念に洗う。内部被曝が恐ろしい。衣服や靴、皮膚に放射性物質が付着し、そのまま屋内にもちこむと、知らず知らずに拡散し、体内に取り込んでしまう恐れがある。
放射能の雲は原発から50キロの、100万人が住む福島県の中通りを襲い、雨や雪とともに大量の放射性物質を地上に沈着させた。そして、そこには今も人々が普通に生活している。
 3月15日。東京で毎時0.809マイクロシーベルトの放射線量が観測されて大騒ぎになった。福島市内は、このとき242マイクロシーベルトまではねあがり、16日まで20前後の高い数字が続いた。事故前の500倍になる。しかし、30万人の住む福島市民への避難指示は出なかった。
本当にこれでいいのでしょうか。学童だけでも疎開させる必要があるのではないでしょうか。人体実験だけはしてほしくありません。
子どもの被曝リスクは大人の3倍高く考える必要があるからです。
 放射能は、沿岸の海底に堆積し、ホットスポットのような放射能のたまりが出現している。そして、それが沿岸流という海流に乗って南下している。
 福島県だけでなく、岩手、宮城、新潟、茨城もふくんで東日本一円に放射能は拡散し、雨や雪によって土壌を汚染し、そこで育つ農産物に入り込み、さらには川を伝って各地の海を汚染し、それが魚介類に入りこんで消費者の食卓を脅かす「魔のサイクル」が現れてきた。
 いやはや、原発の底知れぬ恐ろしさを実感させる映像でしたし、その背景を知ることができました。民主党政権が今なお全国各地の原発を再稼働させようと執念を燃やしていることに心底から怒りがこみあげてきます。どこまで人非人なのでしょうか。目先のお金のためなら人類の生存なんてどうでもいいという無責任さです。私は絶対にそんなことを許すことができません。
(2012年3月刊。1600円+税)

2012年4月22日

兎の眼

著者   灰谷 健次郎 、 出版   理論社

 大阪で橋下流の教育改革がすすんでいます。最低・最悪の「改革」です。ところが、マスコミは、橋下「改革」をもてはやすばかりで、その重大な問題点をまったく明らかにしようとしません、情けない限りです。
いまの教育の現状に満足している日本人は、わたしを含めてほとんどいないと思います。しかし、橋下はさらに悪い方向へ引っぱっていこうとしているのです。とんでもない方向なのに、それに気がつかない人、目をつぶってはやしたてるマスコミの多いのにあきれます。
教育の手が込んだ、面倒なものだというのは当然のことです。だって、人間を扱うのですから。たとえば、人間は誰だって反抗期を経なければいけません。口先だけは反抗していても、本当は甘えたい。そんな矛盾した心理を見抜いてうまく対処するのが大人であり、教師です。
そして、貧乏という問題があります。お金がないと、何かと困ることは多いわけです。お金がないと家庭での親子の会話も乏しくなることが多いのです。そうすると、子どものボキャブラリーは貧しくなり、学業成績にもマイナスに影響します。
この本は1974年に刊行されたものです。今から38年も前の本ですが、いま読んでも古さをまるで感じません。
橋下がしているように教師をいじめたら、結局は子どもたちをいじめるのと同じです。「ダメ教師」を排除するということは、「ダメ生徒」を排除すると同じです。トップのエリートだけを育てればいいというのでは公教育ではありません。
 教育の現場は面倒くさいもの、それにつきあうのは大変だけなもの。それをじっと我慢して見守るのが大切なことなんです。
いい本でした。読んで心が洗われる気がしました。
(1978年3月刊。1200円+税)

2012年4月17日

レベル7

著者    東京新聞原発事故取材班 、 出版   幻冬舎

 すべての危機は警告され、握りつぶされていた。これはオビの文章です。
 まさしくそのとおりなのです。福島原発事故については、私たち国民に隠された真実があまりにも多すぎます。政府が偽りの「収束宣言」をしたことから、原発事故がなんとか「解決」に向かっているかのような幻想に浸っている日本人が多いのが残念でなりません。
 メルトダウンの事態は今でもよく解明されていませんし、放射能物質は空にも海にも、今もって大量に放出されているのが残念ながら現実だと思います。ところが、海の汚染にしても「風評被害」を拡大させないためという口実でほとんど明らかにされていません。とんでもないことです。福島第一原発による汚染程度を正確に知るには、日本のマスコミ報道よりも海外とくにヨーロッパの方が正確で速いとまで言われているのは悲しいことです。
 原発にとって水は、血液のようなものである。その水が地震によって止まってしまったのだから、事態は本当に深刻だった。原子炉に入れた水は、核燃料の熱でどんどん蒸発する。水を入れ続けなければ、やがて核燃料が水面から完全に露出し、空焚きの状態になる。核燃料を覆っているジルコニウム合金の被覆菅が熱で溶けると、水蒸気と反応して水素が発生する。それが原子炉から、さらに格納器の外に漏れ、酸素と反応すると爆発する。おお怖いです。
福島第一原発には6個の原子炉と10個の使用済み核燃料プールがある。20キロ圏内の第二原発までふくめると10個の原発と11個のプール。これを全部立ち入り禁止区域にして一般の人みたいに東電の社員が逃げ出したら、どんどんメルトダウンしていく。撤退なんかありえない。撤退していたら、東京には人っ子一人いなくなってしまう。これは菅首相(当時)の言葉です。
 このままでは、東日本全体がおかしくなる。決死隊をつくろう。日本の国が成り立たなくなる。命をかけてください。逃げても逃げ切れない。
これも菅首相の言葉です。首都圏から3千万人を脱出させる必要があるという想定が立てられたのです。3千万人の緊急脱出なんて不可能ですよね。いったい、どこへどうやって3千万人もの人々が移動できるというのでしょうか。
福島第一原発の吉田所長(当時)は、実は、東電本部にいて津波の影響を低く見積もることにしたつまり、インチキ見積した張本人の一人です。そして、現場で指揮せざるを得なくなったのでした。歴史の皮肉といえるかもしれません。でも、笑っている場合なんかではありません。やはり、東電という組織自体に大きな責任があると思います。原発が安全だなんて幻想をふりまき、現実には十分な安全対策を講じなかったわけですから。
 最後に、政府が昨年暮れに発表した廃炉に向けての工程表を改めて紹介します。
 2013年のうちに、4号機の使用ずみ核燃料プールから核燃料の取り出しを始める。10年以内に1~4号機すべてで使用ずみ核燃料の取り出しを終える。放射能に汚染されたたまり水の処理を終えたあと、溶融した核燃料の取り出しを始める。最終的に原子炉を解体するのは、順調に行っても30~40年後のこと。ええっ、そんなにかかるものなんですか・・・・。団塊世代の大半がそのころは消滅してしまっていますよね。
 事故から核燃料の取り出しまで6年半かかったスリーマイル島原発では処理費用が
750億円かかった。今回は、その比ではなく、廃炉に1兆1500億円は少なくともかかると見込まれる。さらに、そのさきには大量の放射性廃棄物の処分が待っている。現状は、地層処分の技術は確立しておらず、候補地は白紙のまま。
 本当に深刻です。こんなとてつもない危険な原発は、すぐにやめてしまわなければなりません。今すぐに廃炉にむかっても、何十年とかかるというのですからね・・・・。
(2012年3月刊。1600円+税)

 日曜日に福岡で映画「アーティスト」をみました。偶然にも、後ろの席に宮川弁護士がおられました。今どき珍しい白黒のサイレント映画です。ところが、実に表情豊かで、こまやかなので、字幕とあわせてスムースに感情移入できました。さすがはアカデミー賞をいくつもとった作品だけあります。サイレント映画から音の出るトーキー映画へ移行するときの悲哀がテーマとなっています。いつの世にも時代の変化についていけない人、ついてきたくない人はいるものです。もちろん、変化を追いかけるばかりでも困りましょうが・・・。
 最後のペアのタップダンスだけでも十分に見ごたえがあります。さすがは役者です。半年の練習でやりきったそうです。見事でした。

2012年4月12日

60年代のリアル

著者  佐藤 信 、出版 ミネルヴァ書房

 このコーナーで取り上げている本は、わたしが読んで面白かったもので、あなたにも読んでほしいな、ぜひおすすめしたいなというものばかりなのです。でも、この本はちょっと違います。歴史認識としての間違いが定着するのを恐れて、あえて取り上げました。つまり、読んでほしいというのではなく、こうやって誤った歴史認識が定着していくかと思うと悲しいという意味で紹介します。まあ、私がそう言うと、かえって読みたくなる人が出てくるかもしれません。それはそれで、お好きなようにしてくださいとしか言いようがありません。
 この本は『朝日ジャーナル』バックナンバーを読んで東大闘争を語るというものです。ところが、私の学生のとき、『朝日ジャーナル』は、いつも一方的に全共闘の肩を持ち、いかにも偏見に満ちていると感じていました。少なくとも『朝日ジャーナル』だけ読んで東大闘争を分かったつもりで語ってほしくないと心底から思います。
 当時(1968年から1969年ころのことです)、「ジャーナル全共闘」という言葉がありました。大学に出てこなくて下宿や自宅にひきこもっていて、『朝日ジャーナル』を読んで東大闘争の本質をつかんでいる気になった全共闘シンパ層を指した言葉です。彼らは、たまに大学に出てくると、それこそ「革命的」言辞を吐き、「東大解体」そして試験粉砕を叫んでいました。そのくせ、授業粉砕に失敗して再開された授業には乗り遅れないように出席したのです。「東大解体」を叫んでいた東大生が、授業再開後に東大を中退したという話を私は聞いたことがありません。それどころか、全共闘の元活動家で東大教授になった人が何人もいます。
 この本で「『朝ジャ』は、そもそも新左翼に同調的なわけでもなんでもない」と書かれていますが、これは明らかな誤りだと思います。「同調的」どころか、「新左翼」(全共闘)をあおりたてていたと私は理解しています。
 1968年11月12日、東大の総合図書館前にあかつき部隊の黄色いヘルメットをかぶった500人が石段に並ぶ。そこに全共闘が殴りかかっていく。だが、いくら勇ましくとも、最前列の者しか相手を殴ることはできない、やがて殴る手が止まると、あかつき部隊の笛。あかつき部隊というのは、東大民青支援のためにつくられた「外人部隊」、つまり他大生の部隊のことだ。
 これは、まるでマンガです。当時の写真も何も見ないで、見てきたような嘘の典型です。そのとき、その場に居たものとして、本当に残念です。もちろん、この本の著者がこんな場面を想像したのではなく、きちんとした出典があります。宮崎学の『突破者』と島泰三の『安田講堂』です。「あかつき部隊」なるものが存在したことは私も否定しません。しかし、島泰三は、その場にいなくて、写真だけを見て、その場にいた私たち駒場の学生を「あかつき部隊」と、『突破者』をうのみにして見なしているのです。
 当日は「500人が石段に並ぶ」なんていう規模なんていうものではありません。数千人の学生が、院生、教職員ともに現場にいました。石段ではなく、池の周辺の平地です。全共闘も数千人規模、民青・クラ連その他もいて、数千人の壮絶なぶつかりあいがあったのです。素手で殴りあったのでもありません。長い長い木のゲバ棒そして鉄パイプ、さらには薬品まで投げかった凄惨な修羅場だったのです。そんな、あかつき部隊のリーダーの笛一つでどうこうできる状況でもありませんでした。その一端は小熊英二の『1968』は紹介されています。このような現場状況を示した写真も、島泰三の本だけではなく、何枚もあります。
 こんな大嘘が堂々と定着して、それが歴史的事実になるとしたら、その場にいた学生の一人として、本当に耐えられない思いです。ぜひとも『清冽の炎』(花伝社)を読んでください。
(2012年3月刊。1800円+税)

2012年4月 7日

現代美術キュレータという仕事

著者   難波 祐子 、 出版   青弓社

 いま、パリにいる娘がキュレーターを目ざしていますので、親として少しは勉強しておこうと思って読みました。
日本でキュレーターになるのは、なかなか難しいことを再認識させられました。職業として自立できるかどうかはともかくとして、美術館や博物館に足繁く通うことは人生を豊かなものにしてくれることは間違いありません。
 数ヶ月パリに留学しただけで美術館で働くキュレーターになれるほど現実は甘くないのだけは確実だ。
 それはそうだと思います。何事によらず、何年かの下積みの努力が求められるものですよね。
 キュレーターの定義としては、展覧会の企画をおこなう人、そして展覧会を通してなんらかの新しい提案、ものの見方、価値観を創り出していく人。
 1951年に定められた博物館法に学芸員を定義している。学芸員は博物館資料の収集、保管、展示および調査研究その他これと関連する事業についての専門的事項をつかさどる。つまり、学芸員は、展覧会の企画展示や資料調査だけでなく、作品保存、収集保管、さらにはその他の関連事業という、なんとも曖昧な定義の事業も含めた多岐にわたる仕事をこなさなければならない。
 日本の美術館学芸員の守備範囲は、海外のキュレーターよりもかなり幅広い。
現在、日本全国で年間1万人が大学の単位修得によって学芸員の資格を得ている。しかし、すぐに現場で求められる能力をもった学芸員となることは、ほぼ不可能である。
 キュレーターの仕事のイメージがおぼろげながらつかめる本でした。娘よ、がんばれ。初志貫徹を心から望んでいます。
(2011年10月刊。2800円+税)

2012年4月 3日

官邸から見た原発事故の真実

著者   田坂 広志 、 出版   光文社新書

 3.11直後から5ヵ月のあいだ内閣官房参与を務めていた原子力工学の専門家が「緊急事態」において直面したことを率直に語っています。
 著者自身が、「原子力村」にいて原子力の推進に携わってきた。そして、これほどの事故が起こるとは予測していなかった。
 現在の最大のリスクは、根拠のない楽観的空気である。
 「原子炉の冷温停止状態を達成した」という政府の宣言があって以降、あたかも「問題は解決に向かっている」という楽観的な空気が広がっている。しかしながら現状は、決して「冷温停止」と言えるものではない。あくまで、国民を安心させるための政治判断であって、技術的判断ではない。核燃料がメルトダウンを起こし、その形状も状況も分からなくなっている今の状態の原子炉について、「冷温停止」という言葉を使うのは適切ではない。
 最悪の場合には、首都圏3千万人が避難を余儀なくされている可能性があった。アメリカが80キロ圏内のアメリカ人に避難勧告を出し、フランスに至っては飛行機を飛ばして首都圏のフランス人の帰国を支援した。このようなアメリカやフランスの反応は決して過剰反応ではなかった。
 「原発の絶対安全の神話」は、自己睡眠の心理から生まれてきた。「原発は絶対に事故を起こさない施設です」という、技術的には疑問な説明であっても、それを繰り返しているうちに、「原発は絶対安全でなければならない」という責任感が、「原発は絶対安全である」という思い込みになっていた。
放射能は、文字通り「煮ても焼いてもなくならない」ものである。汚染水を浄化装置で処理すると、水の放射能濃度は下がる。しかし、そこで除去された放射能は、浄化装置の「イオン交換樹脂」「スラッジ」「フィルター」などに吸着された状態で残り、結果として、汚染水よりもきわめて放射能濃度の高い「高濃度放射性廃棄物」を大量に発生させてしまう。
 高レベル放射性廃棄物は、10万年以上ものあいだ人間環境から隔離し、その安全を確保しなければならない。ところが「10万年後の安全」を科学と技術で実証することはできない。それは、信じるか、信じないかという世界のレベルになっている。
 四号機の使用済み燃料プールの方が危険だ。それは、何の閉じ込め機能もない、いわば「むき出しの炉心」の状態になってしまうから。そして、燃料プールは、相対的に防御が弱いため、テロリストの標的になりやすい。
 メルトダウン(炉心溶融)を起こした原子炉そのものが、つまり福島原発は「高レベル放射性廃棄物」になってしまっている。その処理には30年以上かかる。
地層処理というのは、この日本が狭い国土であり、人口密度も高く、地震や火山の多い国であることから、きわめて難しい課題である。国内に処分地を選定するのは、ほとんど不可能ではないか。
除染とは、放射能がなくなることではない。除染作業によって膨大な汚染土が発生する。そして、すべての環境を除染できるわけではない。
 これから、将来、被曝によって病気になるのではないかという不安をかかえながら生きていく精神的な健康被害がすでに始まっている。
 自分以外の誰かが、この国を変えてくれるという「依存の病」をこそ克服しなければならない。
 この本はわずか260頁の新書ですが、問いに答えるかたちで物事の本質がズバリ分かりやすく解明されています。全国民必読の書として強く一読をおすすめします。
(2012年2月刊。780円+税)
 日曜日、団地の公園のそばの桜が満々開でした。となりに白いこぶしの花も満開で、ピンク色の桜がぐっとひきたちます。青空をバックとしたソメイヨシノの見事さには感嘆するばかりです。
 わが家のチューリップも一斉に花を咲かせはじめました。今、150本をこえた色とりどりのチューリップが妍を競うように咲いています。
 春らんまんの季節となりました。

2012年4月 2日

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったか

著者   増田 俊也  、 出版  新潮社 

 子どものころテレビでプロレス番組を見慣れていた私にとって、すごく衝撃を受けた本でした。
 なにしろ正義の味方、カッコいいヒーローと思っていた力道山が実はとんでもない悪者だったなんて・・・・。しかも、プロレス試合は真剣勝負なんていうものではなく、あらかじめ筋書きの決まったショー番組でしかなかったというのです。うへーっ、そ、そうなんですか・・・・。ちっとも知りませんでした。
 そして、力道山がプロレス試合で勝った木村政彦なる柔道家は実のところ日本柔道史上、最強の柔術家だったというのです。さらには、ブラジルに渡って、ブラジル人と死闘のあげく勝って現地の日系人の威信を高めたということでした。
 戦後の日本で、まったく私の知らない世界がそこにはありました。上下2段組で、700頁に近い大作ですが、丹念な取材で、迫力もあり、読みやすい本でした。といっても、私は、珍しく何日もかけて楽しみながら我を忘れて読みふけりました。みなさんも、アナザーワールドへどうぞ・・・・。
 柔道史上、最強は間違いなく木村政彦。戦前戦中そして戦後を通じて15年間、不敗のまま引退し、木村の前に木村なく、木村の後に木村なしと謳われた。
 いま、日本の柔道人口は激減して、20万人ほど。世界には2000万人とか3000万人。国際柔道連盟には200カ国が加盟している。
 木村政彦は、1日10時間をこえる驚異的な練習量を続けた、強さを希求する精神性だ。
講道館柔道の歴史で化物のように強い選手が4人いた。木村政彦、ヘーシンク、ルスカそして山下康裕。このなかで、もっとも強かったのは木村政彦だ。スピードと技がずば抜けている。誰がやっても相手にならない。
 試合は、木村相手に何分立っていられるのかのタイムを競うだけのものだった。とにかく技が速い。神技だ。全盛時代の木村先輩には誰もかなわない。ヘーシンクもルスカも
3分ともたなかっただろう。
ところが、この木村は30歳のとき(昭和23年)7段になってからは、昇段していない。昭和25年にプロ柔道家になったからだ。
 昭和29年12月22日、37歳の木村は、プロレス選手権試合で力道山の騙まし討ちにあって、不敗の柔道王が全国民の前で血を吐いてKOされた。木村は大恥をかかされた。
 私は当時6歳ですから、もちろんこのテレビ番組は見ていません。だって、我が家に当時、テレビはありませんでしたから。
 このころ、街頭ののテレビでプロレスが中継されるときには、道路が目もくらむほどの大観衆で埋まっていました。その状況が写真で示されています。
プロレスに勝敗はなく、あるのはリングという舞台の上の演技だけ。その舞台で力道山は台本を投げ捨て、台本どおりに演ずる木村を不意打ちで襲った。
 木村は、力道山の背信行為を許せないと思い、短刀を懐にもち力道山を刺し殺そうと付け狙った。しかし、木村は、その怒りを胸に抱えたまま、苦しみながら後半生を75歳まで生きた。その後半生は、まさに生き地獄だった。力道山のつかった有名な空手チョップに実は破壊力はない。手刀で打つように観客に見せ、当たる寸前に手首を返して手の平ないし手の甲で相手の胸を叩き、大きな音を立てる見せ技だ。
 力道山は、客の気持ちをとらえることに、非常に長けていた。
 力道山の身近にいた者は、みな、その人間性を否定する。人間として何一ついいところのない人だった。力道山に可愛がられていたジャイアント馬場はこう言う。
 レスラーになってからの力道山は、肉食魚のように権力者や金づるに食らいつき、あらゆる欲望を満たしていた。
 力道山は、戦争が終わる十両時代までは素直だった。しかし、終戦(日本敗戦)後、解放の日から力道山は内面で変わった。力道山の戦後は、先輩も師匠もなく、周囲の者を踏み台にして、自分の野心だけを満足させていった。
 空手チョップは力道山がうみ出したものではない。木村の方が先だった。
しかし、力道山は、東声会の町井久之(鄭建永)との強力な絆があったし、山口組の田岡一雄の援助も受けていた。大野伴睦、河野一郎、中川一郎、社会党の浅沼稲次郎も支援していた。右翼の大物・児玉誉士夫のバックもあった。
第二次世界大戦が終わるまで、柔道は講道館の他に二つあった。武徳会は古流柔術各流派の大家が集まり、反講道館で結束していた。
もうひとつは、高専柔道。高とは戦前の旧制高校、専は同じく旧制の専門学校をさす。
したがって、現在の高専とは違う。現在の柔道の寝技技術は、そのほとんどが高専柔道で開発され、後に武徳会や講道館の体力がある柔道家たちが真似して吸収し、現在に至っている。
木村政彦は、1917年(大正6年)に熊本市川尻に生まれた。
全盛期の木村の裸は写真でみて分かるようにゴリラそっくり。肩や胸の筋肉は大きく太く、腰が細く引き締まっている。右肩幅は、左肩よりかなり長い。
 腕立て伏せ1000回を日課としていた。握力を測ろうとすると握力計は壊れた。握力は
200キロをこえていた。
木村は、だます柔道からの脱却に必要なものを考えた。達した結論は、強く柔らかい腰だった。強い腰があれば相手のパワーに崩されない。柔らかな腰があれば、相手の思わぬ動きにバランスを崩されない。
 木村は、乱取りだけで90時間やった。睡眠時間は3時間。戦前の全盛時代の木村は、勝つのに2分を要したことがない。
攻撃だけが木村柔道ではない。木村は勝負にこだわった。勝ちに対する執念があった。
 試合前の調整法は細かい。試合の3日前に爪を切る。短すぎるとそこから力が逃げる。爪に及ぼす力といえどムダにはできない。そして入浴しない。湯冷めして体調を崩す恐れがあるし、体から脂肪分が抜け、筋肉がほぐれすぎて気怠くなるからだ。
木村は戦前の天覧試合で優勝し、戦後はアメリカ軍の将兵に柔道を教えた。
木村は拓大で柔道を教えるようになった。そして、1993年4月18日に亡くなった。
 すごい本です。資料収集を始めて、連載が終わるまで18年。4年間にわたっての長期連載が一冊の部厚い本になったのでした。
 少しでも柔道とプロレスに関心のある人には強く一読をおすすめします。感動の大作です。人間って、ここまで自分を鍛えられるのですね・・・・。

(2012年1月刊。2600円+税)

2012年3月31日

昔のくらし

ポプラディア情報館 ポプラ社 2005年3月


このシリーズは、本来は、小中学生の調べ学習に必要な情報を収録したテーマ別の学習資料集であり、本書のほかにも、「日本の歴史人物」「アジア・太平洋戦争」「伝統工芸」など合計15冊からなる。しかし、このシリーズは、大人が読んでもおもしろいので、私は図書館でよく借りてくる。


本書のテーマは「昔のくらし」であり、冒頭にはこう書いてある。「明治時代からあとの人びとのくらしをくわしく紹介。電気やガスがないくらしはどんなだったか、戦争中・戦後すぐはどうだたかが、豊富な写真とイラストでよくわかります。」


なるほど、本文を読み進むと、あるある、昔のくらしが。朝は、すずしいうちに大工仕事をして、昼は暑いので家に帰って行水と昼寝で一服し、陽射しが弱まる夕方にまた大工仕事をして、夜になると縁側で将棋を指しながら夕涼み、最後に蚊取り線香をたきながら蚊帳の中で眠る。


さらに、読み進むと、あるある、昔の台所が。お櫃に入れたお米をお釜に移し、水ガメのお水を加えて、釜戸で蒸す。「はじめチョロチョロ、中パッパ、ぐつぐついったら火をひいて、赤子が泣いてもふた取るな」というのだそうな。おかずはアジの煮つけ、きんぴらごぼう、アサリの味噌汁の1汁2菜を箱膳で召する。


このような明治から高度成長経済時代の入る手前の昭和40年ごろまでの日本の庶民の暮らしが本書の中によみがえる。そして想うことは、昔の人と今の人とどちらが幸せかということである。本書に郷愁を感じるのは、私自身が今の時代に大きな不満や不安を感じていることの反映なのであろう。社会が高度化し複雑化する中で、何やら不正な出来事が横行し、その不正な出来事が、もはや社会システムの一員として立派に市民権を得ているようだ。昨今のニュースはこのような出来事ばかりを伝えている。現代社会は本当に息苦しい。


また春がめぐり来て、花芽が目を覚ます。裁判所の裏口の鴻臚館に通じる遊歩道に早咲きの桜の枝があり、この辺りでは一番乗りで花を開く。このような変わらぬものに接するとほっとする。この桜も変わりゆく人々の姿を変わらぬ視線で眺めていたのであろう。人々の暮らしはこの先、10年後、20年後、どうなるのであろうか。

2012年3月30日

原発危機と東大話法

著者   安富 歩 、 出版   明石書店

 3.11のあと、原子炉の数十キロ範囲内にいる人々が、大量の放射性物質が降り注いだことが明らかになったあとでも、平然と日常生活を続けていた。これは、テレビに出てくる東大などの学者が、「今すぐには健康に影響はありません」と言い続けていたことと決して無関係ではありません。人は(もちろん私もそうですが)、自分を安心させたいのです。安らかな気持ちで毎日を平穏無事に過ごしたいという根源的欲求をもっています。ですから、多少の放射能物質を浴びても、「すぐには健康への悪影響はない」と学者がもっともらしく言うと、それを根拠に自分を無理にでも納得させてしまいがちです。
 この本は、非科学的なことを、あたかも科学的な根拠のあることのように自信たっぷりに断言する東大教授を、同じ東大教授がバッサリ小気味いいほど切り捨てる本です。
 現実の東大は、非常に見苦しいところだ。どんよりした重苦しい空気が漂っていて、多くの人が自分でもよく分からない理由で苦しんでいる。本当は苦しいのに「東大にいる以上は、幸福なはずだ」と思い込むことによって、さらに苦しんでいる。この東大関係者を呪縛している鉄鎖の正体こそ、東大話法なのだ。
 では、東大話法とは、一体何なのか・・・?
 原子力発電所は、連続して1年以上も発電し続けられるほどのエネルギー源が小さな原子炉に詰まっている。だから、いったん暴走しはじめると止まらない。放っておいても止まらないうえ、止めようと思って近づくと、放射線を浴びる。止めるためには近づかないといけないのに、近づくことができない。
 枝野官房長官は、原子炉建屋が爆発していたのに、爆発とは言わず、「何らかの爆発的事象があった」と言ってごまかした。
 東大の関村教授は、格納容器が破れているのに、「格納容器の安全性は保たれている」とテレビで言い続けた。
原子炉の危険性をストレートに表現せず、言い換えていると、それを聞かされる国民だけでなく、自分自身をも騙していることになる。そうなると、自分がやっていることが、正しいのか、間違っているのかさえ分からなくなる。
 まわりの人がみんな、正しい、と言っているようだから、正しいのだろうという、きわめて無責任な判断停止が広がっていく。
 東大話法とは、どんなにいい加減でも、つじつまの合わないことでも、自信満々に話すことである。原子力発電(原発)の利用拡大をすすめていたのは、決して「世界」ではない。愚かで強欲な政治家、官僚、電力会社と原子力の御用学者、技術者が一致して推進したものである。
 「原子力村」が原発政策を支え、推進してきた有力な集団であったことが、今ではすっかり明らかになっています。東大出身学者でも御用学者と決して呼ばれない人がいたし、今もいることを知っています。ただ、そんな人がだんだん希少価値になりつつあると知ると、焦燥感を感じてしまいます。
(2012年2月刊。1600円+税)

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