弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

社会

2011年12月13日

被爆者医療から見た原発事故

著者   郷地 秀夫 、 出版   かもがわ出版

 この30数年間、被爆者の診療に携わり、2000人もの被爆者の健康管理に関わってきた医師としての体験にもとづく本です。
 著者は、放射線障害は軽微であり、原子力は有用だ、こんな考え方に日本人が気づかないうちに洗脳されてきたことに警鐘を乱打しています。
 1日で3発分の広島型原爆を燃やし、そのエネルギーで電気を起こしているのが原子力発電所なのである。原子炉の建屋内にある核燃料と放射性物質の量は790トンで、広島に落とされた原爆「リトルボーイ」の75キログラムの1万倍以上、とてつもなく多い量なのである。
 そうなんです。あの、すさまじい威力によって何十万人もの人々を一瞬のうちに地球上から消滅させた広島のピカドンよりも福島第一原発によって放出されている放射性物質のほうが、とんでもなく多いのです。信じられないけれど、これが事実です。少ない日本人がそれを早く忘れたがっているように思えるのが残念です。
 日本は原爆を体験していながら、被爆者に学んでいない。多くの日本人にとって、被曝は自らのものになっていない。
 シーベルト(Sv)は放射線の量を表す単位であり、ベクトル(Bq)は放射能を表す単位である。
 国は、内部被曝の影響は無視しえるというのが確立した科学的知見であると裁判で主張している。果たして、そう言い切れるのか?
 内部被曝は外部被曝と違って、同じ場所にとどまり、細胞の遺伝子に放射性を放出し続ける。 内部被曝とは、放射性物質が体内にある限り、ずっと被曝し続けることになる。そして、内部被曝は被曝線量を測定しにくい。
 2009年、長崎の被爆者の臓器標本が60数年たってなお、プルトニウムのα線を出し続けているのが確認された。うへーっ、これって、ものすごく怖いことですよね。プルトニウムにとって、数十年なんて経過はほんの一瞬なんでしょうね。何万年という年月を要して徐々に減っていくものなんですね。とても一個人の人間がどうにか出来るものではありませんよね。
放射線の感受性は、子どもは大人と比べて数倍から10倍以上も高い。そして、数十年後に出してくるであろう放射性障害にめぐりあう確率も高い。
 福島には中年以降、壮年以降ががんばっていくのがいい。子どもに福島に行かせることはない。そして、子どもたちに無理して安全だと言い切れないものを食べさせることはない。
 放射線物質は浴びないほうがいいこと、とりわけ子どもにとっては浴びないようにすべきだと提言されています。まことに、そのとおりだと思います。
 「今すぐ心配はない」というごまかしは許されません。
(2011年10月刊。1000円+税)

2011年12月11日

3.11 メルトダウン

著者   日本ビジュアル・ジャーナリスト協会 、 出版   凱風社

  3月11日の直後からの写真が紹介されている貴重な写真集です。
 3月12日とか14日の写真もありますので、遺体が路上で収容されるのを待っている状況も撮られています。そして吹雪のなかを人々が食料や水を求めて歩いています。ガソリンがないため車が走れないのです。少し落ち着くと、仮埋葬(土葬)され、お寺に真新しい骨壺が並びます。
 全校生徒108人のうち68人が死亡、6人が行方不明になった大川小学校では、児童がつかっていたランドセルやカバンが大量に並べられています。見るだけで涙がにじみ出てくる情景です。
 そして原発事故。4月1日に浪江町で撮られた写真には、1ヵ月近くも捜索されず放置されていた遺体の一部(男性の足)が写っていました。なにしろ、ここは原発から20キロ圏内なのです。無人となった浪江町を牛たち、豚たちの群れが歩いています。牛舎のなかには餓死寸前の牛がいて、モオーッと叫ぶ姿が写し出されて哀れを誘います。
 なにしろ20マイクロシーベルトという高濃度なのです。見えない放射能の恐ろしさが伝わってきます。
 目を背けたくなる、でも、見なければいけない貴重な写真集です。
(2011年7月刊。1800円+税)
同窓会の最後の話です。
 大学2年生のとき、6月が東大闘争が始まりました。クラスのなかにもセクトの対立抗争が持ち込まれました。私のクラスでは全共闘のほうが多かったと思います。メンバーというよりシンパ層が多いということですが、アクティブなメンバーが何人もいました。
 あらかじめ東大闘争のころの写真をメールで送っていたのですが、それに言及する人はほとんどいませんでした。当時の対立抗争を語るのはまだタブーのようで、幹事から、たびたび今日はその話はしないようにと制止の声が飛んでいました。
 それでも、私の本(『清冽の炎』1~5巻。花伝社)をネットで探して1万円で買って読んでいるという人もいました。
 学生時代に何をしていたのか、それがどうつながっているのかは、みんな知りたいことですよね。あの東大闘争を歴史の闇に埋もれさせたくはありません。
 私のブログを見てくれている人もいました。あれだけ大量の本を読んで、本当に理解しているのかと訊かれて、一瞬、答えに詰まりました。まあ、この書評を書けるくらいは理解しているということなんですが・・・。

2011年12月 9日

沖縄と米軍基地

著者    前泊 博盛 、 出版   角川ワンテーマ21

 日本人が全体として真剣に考えるべきテーマだと改めて感じ入りました。沖縄におけるアメリカ軍基地の問題は決して沖縄という一地方のものではなく、日本という国はどういう存在なのかを考え直させるものなのです。本当のことなど知らないほうが良いし知ったところでどうなるものでもない。多くの日本人がそんな気持ちになっているのが「日米安保」と沖縄のアメリカ軍基地問題ではんないか。まことにそのとおりだと私も思います。
 アメリカの国防長官は、普天間にあるアメリカ軍の飛行場を視察したあと「こんなところで事故が起きないほうが不思議だ。ここは世界一危険な飛行場だ」と言った。そうなんですよね。ところが、自民党政権そして今の民主党政権も、そのことを表明しないのです。なんという薄っぺらな「愛国心」でしょうか。日本人の生命・身体そして領土の安全を守る気概がまったく感じられません。
沖縄で起きたアメリカ軍の航空機事故(450件)の19%を「普天間」が占めている。アメリカ軍機の事故発生率は、民間機の80倍となっている。海兵隊の事故発生率は4.55。これは陸軍1.98、空軍1.64、海軍2.55に比べて、ずば抜けて高い。アメリカ軍の基地を移転・建設するために反対運動をしている住民が機動隊などと激突して血を流せば、いったい「日米安保なるものは何らか何を守っているのか」という根本的な疑問に日本政府は答えられなくなる。
アメリカ軍がすすめようとしている再編・変革の狙いの第一は、アメリカの国防予算の削減である。そして、アメリカ軍と自衛隊を融合させ、自衛隊を後方支援部隊として強化、活用する方策を打ち出している。アメリカ軍を沖縄からグアム島に移転する費用のうち日本が負担しようとしている3兆円は、日本側が負担しなければならないという法的な根拠は何もない。
 うへーっ、恐れいりますね。3兆円もの巨額の税金を法的根拠もなく、アメリカ様に差し上げようというのですから、それこそ開いた口がふさがりません。
 東日本大震災で復興資金をどうやって捻出するのかという議論をしているのに、もう一方では気前よく3兆円もアメリカへくれてやるというのです。信じられない野放図さです。こんなことがまかり通るのなら、復興計画なんてやる気があるのか根本的な疑問を感じます。
 いま、日本の軍需産業の規模は2兆円。三菱重工、IHI、東芝、日立などで戦車などの軍事兵器を大量に生産している。
 このあたりがまったく報道されていませんよね。「死の商人」は日本にも存在しているのです。
 沖縄に大量に駐留しているアメリカ軍海兵隊について、アメリカ連邦議会(下院)の歳出委員会は次のように述べた。
 「アメリカが世界の警察だという見解は、冷戦の遺物であり、時代遅れだ。沖縄に海兵隊がいる必要はない」
 シンクタンクの所長も次のように断言する。
 「中国脅威編は、予算が欲しい国防総省のでっちあげ。沖縄に海兵隊は必要ない。アメリカ軍に普天間基地の代替施設なんか不要だ」
 さらに、この所長は日本人に疑問を投げかける。
 「沖縄では少女暴行事件のあともアメリカ兵による犯罪が繰り返されているが、アメリカはこの問題に本気で取り組もうとしていない。日本の政府や国民は、なぜそれを容認し、アメリカに寛大な態度を取り続けているのか。アメリカ軍基地は世界中に存在するが、こういう状況を容認しているのは日本だけなのだが・・・?」
 うむむ、ここまで言われてしまうと、私たち日本人って、いったい恥を知る民族だったはずなのですが、なんと答えたらよいのでしょうか・・・。
 さらに同所長は指摘しています。
 「中国に関するあらゆる情報を分析すると、中国は自ら戦争を起こす意思のないことが明らか。中国の脅威なるものは存在しない。それは、ペンタゴン(国防総省)や軍関係者などが年間1兆ドルにのぼる安全保障関連予算を正当化するために作り出したプロパンガンダにすぎない」
 軍需産業という利権の力に私たち日本人も目をくらまされているわけです。
 ところで、アメリカ軍がいるために沖縄経済は成り立っているという見解に対して鋭く反論しています。
 アメリカ軍基地オアシス論。基地がなくなったら、沖縄はイモとハダシの極貧生活に逆戻りするというものです。アメリカ軍基地は9000人の雇用を提供している。これは県庁職員を上回る。520億円の従業員所得をうみ出す。
 基地内外の4万人の住民は700億円の消費支出をうんでいる。そして、アメリカ軍の400億円もの財・サービスを県内企業が受注している。
 しかし、沖縄県の試算によると、アメリカ軍基地が撤去されると、莫大な経済効果をもたらすというのです。生産誘発額は209倍、雇用誘発者数は252倍。そして、これは、実はフィリピンで既に立証されていることである。
 なんだ、なんだ。アメリカ軍基地って百害あって一利なしという存在なんだ。このことを知って、これまで以上にアメリカ軍は沖縄だけでなく日本全土から出て行けと叫びたいと思いました。ご一読をおすすめします。実に充実したタイムリーな新書です。
(2011年9月刊。724円+税)

2011年12月 8日

隠される原子力、核の真実

著者  小出裕章  、 出版  創史社   

 著者は私と同じ、団塊世代です。高校生のとき、茨城県東海村に商業用原子発電所「東海一号炉」が誕生し、原子力の開発に命をささげようと決意したのでした。
 そして、夢に燃えて東北大学工学部原子核工学科に入学。ところが、原子力を学びはじめてすぐに、その選択が間違っていたことを悟った。
 なぜ、電気を一番使う都会に原子力発電を建てないのか?
この疑問こそ、原発問題の本質を鋭く衝いたものです。京湾の埋立地「お台場」(かつての夢の島)に原発を作れるのに作らないはなぜなのか?
 その答えは、とても単純なもの。原発は都会では引き受けられない危険をかかえたものであるから・・・。
 「原発は安全」。国と原子力産業は、このように言い続けてきた。仮に作業員がどんなにミスをしても、原子力ではフール・プルーフ(誤っても安全性は確保)になっているので、安全だ。しかし、3.11は、そのことがまったくの嘘だということを明らかにした。
 放射線の被曝によるリスクは低線量にいたるまで直線的に存在し続け、しきい値はない。最小限の被曝であっても、人類に対して危険を及ぼす可能性がある。被曝量が少なければ安全だというのは根拠のない妄言である。
 日本がヒロシマ・ナガサキをかかえた被爆国であることは言うまでもない。しかし、アメリカはネバダの核実験場で核実験を繰り返し、周辺住民が被曝した。同じことはマーシャル諸島についても言える。さらに、旧ソ連のセミパラチンスクでも起きた。
 石油がいずれ枯渇するというが、実際には50年はとれる。少なくとも、予想可能な未来において化石燃料が枯渇しない。
 高速増殖炉は、技術的、社会的に抱える困難が多すぎる。一度は手を染めた世界の核開発先進国はすべて撤退してしまった。
 原子炉「もんじゅ」は1994年に始動した。しかし、17年たっても、今もって1キロワット時の発電すらしていない。すでに、この高速増殖炉には、1兆円もの巨額のお金を捨ててしまった。こんなでたらめな計画をつくった歴代の原子力委員会の委員は誰一人として責任をとらなかった。全員を刑務所に入れるべきだ。
「もんじゅ」を開発した技術者はすでに定年でいなくなった。15年も動かなかった機械を動かすなど、普通ではありえない。
 ところが、高速増殖炉を動かすことができれば、そこから核分裂性プルトニウムの割合が98%という超優秀な核兵器の材料が生み出される。政財界の一部が原発にこだわれるのは、核兵器の材料づくりという一面があるからだ。この意味でも原発は本当に怖いものです。
 原子力発電所は都会につくれない。そこで東京電力は自分の給電範囲内に原発をつくることができなかった。原発が絶対に安全だというのなら、大事故のときには国が援助するという原子力損害賠償法は不要だし、原発を都会につくることも出来た。
 標準の100万キロワットの原発は、1年間の運転で1000キロ、広島原爆に比べると  1000倍ものウランを燃やす。当然、燃えた分だけの死の灰ができる。
 原子力発電所は、正しく言うなら海温め装置である。というのも、300万キロワットのエネルギーを出して、200万キロワットは海を暖めている。残りのわずか3分の1を電気にしているだけ。メインの仕事は海温めである。100万キロワットの原発は、1秒間に70トンの海水の温度を7度も上げる。
 うひゃあ、すごい温度上昇です。これって海中の生物にいい影響を与えるはずはありませんよね。
 原発から出る使用済み核燃料は、100万年にわたって人間の生活環境から隔離しなければならない危険物である。しかし、100万年後の社会など、今の私たちに想像すらできない。
いまある国は日本をふくめてすべて消滅しているでしょうし、人類そのものが存在しているかというかだって分からないですよね。このことひとつとっても原発には反対せざるをえません。

(2011年6月刊。1400円+税)
 東京で40年ぶりに大学時代のクラスの同窓会があるというので、参加してきました。当日は20人が参加したのですが、実は顔に見覚えのある人は半分もいませんでした。私は学生時代、セツルメント活動に没頭していて、あまり真面目に授業に出ていませんでしたので、そのせいかと思うと、そうでもないことが分かりました。今は立派に会社社長をしている人が、大学ではほとんど授業に出ていなかったと告白する人が何人かいて、なるほど、それにしても原因なのかと思いました。
 今では、もっとも講義を受けておけば良かったものを反省しきりなのですが、そのころは生意気盛りでしたから、大学の講義なんて本を読めばカバーできるなんて、小馬鹿にしていたのです。いま思うと、顔から汗が吹き出しそうなほどの恥ずかしさを覚えます。
 クラス46人のうち、2人が亡くなっていて(うち1人は大学2年生のとき)、あとは健在なのですが、消息不明と言うか、応答拒否という人も何人かいて、全員の住所・氏名を完成させるのはなかなか困難だと幹事が報告していました。
(続く)

2011年12月 4日

フォー・エベレスト

著者  石川 直樹 、 出版   リトルモア

 8848メートルのエベレストの頂上に2度も登った人の体験記です。すごいですね。シェルパの研修学校訪問記もあります。それにしても、高山病って本当に恐ろしいものですよね。
 5000メートルを超えると、多かれ少なかれ、ほとんどの人に高山病の症状が出る。そして、ゆっくり、その標高に身体が順応していく。人間の体は高所の薄い空気に対応するため呼吸が速くなる。その分、体から水分が失われる。だから、毎日、数リットルの水を飲み、何度もトイレに行くのが順応を助けてくれる。
 高所では1日3リットルの水を飲むのが常識。しかし、それも苦しい試練ではある。スポーツ飲料が一番のみやすい。高山病になると、食欲不振、食欲減退、頭痛、倦怠感、顔がむくむ、嘔吐などの症状が、ひどいときには一度にやってくる。
 昼間、眠ると高山病になるのでパソコンに向かって仕事していた、という記述があります。そうなのでしょうか・・・。
 シェルパは男性ばかりでなく、たまに女性もいる。エベレスト登頂した女性のシェルパもいる。ちなみに女性初のエベレスト登頂者は日本の田部井淳子氏。
 エベレストは英語の名前。チベットではチョモランマ。ネパールでは、サガルマータ。
 ネパール側からエベレストに登るのに1人1万ドル(100万円)がかかる。シェルパやヤクや食費などの費用をふくめると、1人300~600万円が相場。個人ガイドを頼むと1000万円以上にもなる。
 標高5300メートル地点にあるベースキャンプでは、朝7時にシェルパがテントまでおしぼりとミルクティーを持ってきてくれる。
 ベースキャンプでの楽しみは、ぬくぬくすること。ベースキャンプにはトイレがある。それより上のキャンプ地にはトイレがないので持ち帰る。袋に入れて外に置けば一晩で凍ってしまう。小はピーボトルと呼ばれる小便ボトルにする。
 なーるほど、ですね。でも、おしりを出したら寒いことでしょうね。
エベレストの頂上で撮った写真があります。さぞかし気持ちのいい光景だと思いますが、それに至る苦労を思えば、この写真で満足するしかありません。
(2011年10月刊。1200円+税)

2011年12月 2日

日本のソブリンリスク

著者  土屋剛俊・森田長太郎  、 出版 東洋経済新報社   

 なんだか難しいタイトルですし、ハードカバーの本ですから、数字にからっきし弱い私なんかが読んでも分かるものかな、そんな心配をしながら恐る恐る読みはじめましたのでした。すると、案に相違して、すんなり内容が頭に入ってくるのです。いい本でした。ぜひ、あなたもご一読ください。なにより、この本の結論がいいのです。
 日本経済の根幹である「内需」をないがしろにしては、持続的な経済成長を達成することはできない。日本の経済構造は、韓国や中国の輸出比率が40~50%達している状況とは、あまりにも異なる。中国や韓国の経済構造が「資材・部品を輸入・加工して、輸出する」という極端なまでの「輸出国家」であるのに対して、日本はあくまで「国民の消費」によって経済成長を達成してきた「内需」の国なのである。
 これは赤旗新聞によく出てくる日本共産党の主張とまったく共通しています。ところが、著者たちは次のように念のために断っています。
 私たちは、マルクス主義者でも、左翼的思想の持ち主でもない。
そこで、何歳くらいなのか、巻末を見てみると、1985年とか1988年に大学を卒業していますので、せいぜい40代の後半です。大学を出たあと外資系の銀行や証券会社にも勤め、日本を海外から眺めていた経験もありますから、視点はグローバルなので、とても説得的です。
 1980年代、中南米諸国におけるソブリン・デフォルトは、対外、対円をふくめて30件近くもあった。1980年代前半にボリビア、アルゼンチン、そして1980年後半のブラジル、ペルー、アルゼンチンでは、対外デフォルトと同時にインフレを招来した。
 これらの1980年代の中南米危機の根底にあった問題は、ブレトンウッズ体制下の安定的な国際通貨制度が崩壊したことに続けて石油ショックが発生し、グローバルな過剰流動性の発生を招いたことにあった。
 1990年代は、1980年代の51件に対して、ソブリン・デフォルトは19件と、数の上では大幅に減少した。
 1990年代に韓国で起こったことは、他のアジア諸国と同様に、先進諸国から短期資本が流入し、危機の発生とともに資本が急激に逆流するという現象であった。
 ユーロがスタートした当初から指摘されていたユーロの構造的な問題は、異なった生産性、インフレ率、そして財政政策をもつ国々を一つの通貨、一つの金融政策で束ねてしまうことの歪みであった。
 アメリカの住宅バブル崩壊の余波を受けて、2008年以降、東ヨーロッパからバルト海、アイスランド、アイルランド、そしてギリシャ、ポルトガルへと、ヨーロッパの周縁部分において危機は広がっていった。
  高齢化の問題は必ずしも日本のみの特殊事例ではない。先進国の主要民族は、おしなべて民族の最終的な成熟段階、すなわち「高齢化」のフェーズに入りつつある。
  高齢化の最大の問題は、国全体としての社会保障費を劇的に増加させること。
 日本では、「資金不足」がほとんど存在しない特殊な経済環境のなかで、日本の銀行は「金貸し」のビジネスを行わざるをえないという未曽有の事態に直面している。
 日本以外の先進国においても、最近では貸出需要の低速、あるいは「資金不足」あるいは「資金需要」の不足という新たな現象が1990年代以降の日本と同様に顕在化しつつある。
 日本の財政悪化の主たる要因は、行政府のコスト構造に問題があるのではなく、日本の財政問題の本質は、「所得再配分機能の不全」にあるとみる以外にない。
 日本の国民の受益水準は「大きな政府」であるどころか、先進国中で「最小の政府」となっている。「最小の政府」であるにもかかわらず、「最大の財政赤字」を発生させているのが、現在の日本の状況なのである。
 「政府規模の縮小」を目指すことで、国民負担を引き上げずにとどめようという政治的な主張が果てしなく続くことこそが、日本ソブリンにおける最大のリスクなのである。そもそも、削減すべき政府の規模は既にもう十分に小さい。要は、現在、政治が考えて決定しなくてはならないのは、国民間の最適配分の構造なのである。
 政府の投資は、まず何より国民生活の安定と健全な内需の創出を目指して行われるべきである。「健全な内需」なくして、持続的な経済成長と国民生活の向上はありえない。
 今回の原発事故から得られる重要な教訓は、「目先の費用を惜しんで、長期的なリスクを抱え込んではいけない」ということである。
まことに同感です。ちなみにソブリン・リスクとは、国家の信用リスク、つまり、国債の信用リスクを意味するものです。

(2011年9月刊。2800円+税)

2011年12月 1日

就活前に読む

著者   宮里 邦雄・川人 博・井上 幸夫 、 出版   旬報社

 いい本です。でも、読んでいて悲しくなる本でもあります。日本企業のモラルって、ここまで墜ちてしまったのかと思うとやりきれません。橋下大阪府知事(前)の言うような、なんでも競争、強い奴だけが生き残れたらいいという企業ばかりになったら、日本社会も終わりです。TPPにしてもそうですよね。競争力のある者だけが生き残れたらいい、安ければいいんだ、そんな考えで日本の農業がつぶされようとしています。とんでもない話です。弱い人でも、みんなが支えあって生きていく社会にしましょう。だって、みんな、誰だって年老いていくのですよ。あの橋下徹だって、そのうち老化現象が始まります。病気するかもしれませんよ。まあ、彼はお金があるからなんとか出来るとタカをくくっているかもしれませんね。
だけど、お金だけに頼っていると、痛いしっぺ返しをくらう人も少なくありません。お金亡者に取り囲まれて泣いている人は多いのです。弁護士を37年間もしてきましたが、お金ばかりで世の中を渡ってきた人の行く末は悲しく寂しいものがほとんどだと実感しています。
 それはともかくとして、話を戻しましょう。企業に入ることが夢ではなくなってしまいました。まともな企業に入って、まともに、つまり普通に働くというのが難しくなってしまったようですね。残念で悲しい現実です。その意味で若い人はこういう本を読んでおかなければならなくなりました。そして、そのために若者の親も読まなければいけない本なのです。
 内定取消、解雇、過労死など多くの労働紛争の相談を受け、日本の企業の現実に接している弁護士の立場からみると、就活一辺倒の大学の状況には大変な危惧を抱いている。学生が十分な情報を得て就職先を選択しているとは思えない。また、学生が働く者の情報の権利や労働条件に関する法のルール(ワークルール)の基本的な知識をもって就活しているとも思えない。
 社員を過労死させることは企業内犯罪である。
 使用者は、業務の遂行にともなう疲労や心理的員荷等が過度に蓄積して労働者の心身の健康を損なうことがないよう注意する義務を負う。
 当然のことですが、最高裁の判決で明確にされたことに大きな意味があります。
 サービス残業の横行。時間外労働させておきながら、手当を一定額で打ち切る。あらかじめ決めた一定額のみを支払う。これらは、いずれも違法である。
 入社して1年目とか2年目の労災死亡事故が後を絶たない。
 残業時間が毎月80時間をこえる労働者は少なくない。そして、うつ状態に陥る。残業代込みの金額を月給いくらと求人情報で表示している会社もあるので、要注意。ええっ、これっておかしいですよね。本来の基本給が明示されておくべきは当然ですよね。
 これも、就活に困っている、弱い者につけ込んだ悪徳商法の一つです。
 残念なことに、ぜひ、ご一読を強くおすすめします。日本経団連なんて、自らの襟をまずは正してから物をいってほしいなと思います。世の中、お金もうけだけではないでしょ!
(2011年10月刊。940円+税)

2011年11月30日

原子力の社会史

著者  吉岡  斉    、 出版  朝日新聞出版   

 原子力発電所がなぜ日本にこんなにもたくさんあるのか、当局は何を考えてつくったのか、知らなかったことがたくさんあることを認識しました。
 日本は原子力開発利用という民事利用領域においては、軍事利用とは異なって、全面的にアメリカ政府の言いなりできたわけではない。アメリカ政府の干渉が、日本の原子力事業の拡大という基本的路線の障害となるときには、それに頑強に抵抗してきた。つまり、アメリカに対して全面的臣従路線ではなく、限定的臣従路線を歩んできた。
 国際的視点からみた日本の原子力政策の特徴は、民間企業をも束縛する原子力計画が国策として策定されてきたことである。それに関与してきたのが、原子力委員会、電源開発調整審議会、総合エネルギー調査会の三者であった。
原子力開発利用のプロジェクトの原子力開発利用長期計画や、電源開発調整審議会の電源開発基本計画など、ハイレベルの国家計画にもとづいてすすめられてきた。これを根拠として、科学技術庁や通産省は強力な行政的指導を行ってきた。先進国のなかでは日本だけが「社会主義的」体制を現在もなお引きずっている。
 2001年1月の中央省庁再編によって誕生した経産省は、かつての通産省よりも大幅に強い権限を原子力行政において獲得した。従来は文科省との二元体制で両者の権限は拮抗していたが、2001年以降は、経産省の力が圧倒的に優位となった。これによって作り替えられた原子力体制を経産省を盟主とする国策共同体と呼ぶことができる。
 二度にわたる石油危機(1973年の第一次。1979年の第二次)をはじめとする経済情勢やエネルギー情勢の1970年台以降における激変とほとんど無関係に、原発建設は直線的に進められた。原発建設はエネルギー安全保障等の公称上の政策目標にとって不可欠であるから推進されたのではなく、原発建設のための原発建設が、あたかも完璧な社会主義的計画経済におけるノルマ達成のごとく続けられた。
 そして原発事業は数々の困難に直面した。第一に、トラブルの続出。これは軽水炉技術が未完成のものであることによる。設備利用率の低速、修理作業中の労働者の放射線被曝。第二に、原発が生命・健康上のリスクを有する迷惑施設だと国民からみられるようになったこと。第三に、原発について安全性や民主主義などの論争が日常的なものになっていったこと。
 日本が原子力民事利用を包括的に拡大する路線をとってきたことの背景には、核武装の潜在力を不断荷に高めたいという関係者の思惑があった。
 たしかに、いまでも自民党のタカ派議員のなかに原発は日本に核武装能力を高めるために必要なんだと高言している人がいます。恐ろしい発言です。
 1970年代から発電用軽水炉が次々に運転を始めると、現実に大量の廃棄物を生み出すようになり、廃棄物の後始末が検討されるようになった。
 海洋投棄という構想もあったようです。もちろん、南太平洋諸国が猛反対して、これはつぶれてしまいました。
 高速増殖炉では、軽水炉とはまったく事情が異なって欧米からの技術導入が不可能であり、わずかの経験をもとに手振りで開発しなければならない点が多い。模倣したものを徹底して改良していくという日本お得意の技術開発様式が使えないので、信頼の高いハイテク製品をつくるのに困難があった。もんじゅ開発では、コスト低減を重視したため、十分な実証試験をしなかった。
 日本メーカーには原発輸出の実力がない。とくに核燃料サイクル事業の委託サービス(ウラン濃縮、再処理、廃棄物処分)については、ほとんど実績も能力もない。そのため、日本メーカーは契約を履行できない可能性が高い。
それにもかかわらず、ベトナムへ原発を輸出しようとしています。信じられないことです。
 福島第一原発事故は、いくつかの点でチェルノブイリ事故を凌駕している。同時多発的な炉心溶融事故が起き、数万トン以上の放射能汚染水が炉心から漏洩し、広範囲の海洋汚染が起きた。この福島原発事故の歴史的意味は、世界標準炉である軽水炉でも、つまり世界のどこでもチェルノブイリ級事故が起こりうることを実証したことである。
 日本の原子力事業が国民の生活の利便を考えてのものではなく、核武装を狙ったものであったこと、そして、支配層のなかで対立・競争があるなかで原発の安全性が無視されてきたことなど、根本的な問題点をつかむことができました。ノー原発の叫びをあげるためには必読の文献だと思います。1999年版のタイムリーな改訂新版です。
(2011年10月刊。1900円+税)

2011年11月29日

非核兵器地帯

著者  梅林宏道  、 出版 岩波書店   

 世の中には、核兵器を地球上からなくすために毎日こつこつと取り組んでいる真面目な人がいるのですね。安心すると同時に、畏敬の念にかられました。私も少しは見習いたいと思います。核なき世界への道筋というサブ・タイトルのついている本です。オバマ大統領のプラハでの演説によって世界の反核・平和運動が大きく盛り上がり、一気に核兵器廃絶へと突きすすんでいくかと期待していましたが、アメリカでは逆コース現象がひどくなり、ロシアでもかえって核兵器が増えているという報道があります。思うに、軍需産業と結託した政治勢力が巻き返しを図っているのでしょうね。
 原発にしてもそうなんですよね。福島第一原発事故によって、ひとたび原発で事故が起きたら人類は何ものもなしえず、ただ逃げて遠ざかるしかないという恐ろしい事実が判明しました。ところが、今でも電気が停まったら今の快適な生活は保障されないんだぞ、原発事故なんて心配するなと日本経団連会長などは公言しているのですから、恥ずかしい限りです。放射能汚染によって日本に住むところがなくなったら「快適な生活」どころの話ではありません。なにより大切なのは「快適」の前に安全最優先です。
 アメリカは変わらざるをえなくなっている。良質なアメリカは、もはや軍事力の果たす役割に限界があると確実に感じ始めている。他方、あまり質の良くないアメリカは、軍事最強国として軍の世界展開を維持することにこだわっている。心ない日本は、この方向にアメリカの背中を押しそうである。
心ある日本を何とか前に動かしたいというのが著者の願いです。私も、そのお手伝いができたら・・・と思います。
 非核兵器地帯の設立は、理想(核兵器の廃絶)と現実(地域の安全保障)の追求と言う両面を兼ね備えた外交努力である。現在、非核兵器地帯条約は五つに増え、そこに含まれる国は118ヶ国、世界の人口の30%にあたる。
 2007年4月、キッシンジャー元国務長官やシュルツ元国務長官などアメリカの著名な4人の元高官は『ウォール・ストリート・ジャーナル』に共同論文を発表した。
 「冷戦の終焉によって、ソビエト連邦とアメリカ合衆国のあいだの相互抑止という教義は時代遅れのものになった。核兵器に依存することは、ますます危険になっており、その有効性は低減する一方である」
 2009年4月、アメリカのオバマ大統領とロシアのメドベージェフ大統領は共同声明を発表し、冷戦後はじめて両国は核兵器ゼロという目的を共有し、世界に公言した。
 しかし、今、私たちは核兵器世界のなかに住んでいる。核兵器世界のもっとも際立った特徴は、世界の軍事化である。
 1970年に発行した核不拡散条約(NPT)は核軍縮に関しては何の足枷にもならなかった。1970年に世界には3万8千の核弾頭があったが、1986年には6万9千にまで増えた。今なお、地球上には2万以上の核弾頭が存在する。
 現在、アメリカ、ロシア、フランス、イギリスには、あり余る兵器用の濃縮ウランやプルトニウムの在庫がある。現実世界には、核兵器に関して覆うことのできない既得権と物量の格差や不平等が存在し、それらの克服が常に問題となっている。
 アメリカは戦略爆撃機を60機、核弾頭と巡航ミサイルを300発もっている。核任務パトロールはしていない。
 ロシアは75機の戦略爆撃をもっており、それに搭載する8百数十発の核弾頭をもっている。さらに、ロシアは10隻の戦略原子力潜水艦を保有し、160基の水中発射弾道ミサイルを装備し、5百数十発の核弾頭を搭載している。
 フランスは4隻の戦略原潜に64基の弾道ミサイルを装備している。そのための弾道数は240発である。インドは60~80発、パキスタンは90~110発の核弾頭をもつ核保有国である。
 日弁連は2010年10月の宣言で東北アジア核兵器への支持を呼びかけた。
「東北アジア非核兵器地帯」条約が成立する過程が、すなわち北朝鮮が核兵器を放棄する過程にもなる。また、日本も核の傘から脱却する過程になる、という順序で考えるべきなのである。
なかなか貴重な提言が盛りだくさんでした。ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・フクシマを今こそ声を大にして叫びましょう。

(2011年9月刊。1800円+税)

2011年11月28日

自分を育てる読書のために

著者  脇 明子・小幡 章子 、 出版   岩波書店

 とてもいい本です。子どものころから本が大好き人間で、今や完全な活字中毒症の私にとって、読書ってこんなに大切なんだよと分かりやすく語り明かしてくれる、このような本は涙があふれ出てくるくらいに嬉しい本なのです。
 中学校の図書室で司書として子どもたちに、本を読む楽しさを伝える実践に明け暮れていた日々が語られています。子どもたちの反応が面白いのです。司書として著者は、あの手この手を駆使します。それによって一度、いったん目を開けた子どもたちは大作に挑戦していきます。私も上下2巻とか、5巻本というのは怖くありません。600頁もある本だって平気です。
 子どもが本を読んだら、どんないいことがあるか、と問いかける。その答えは・・・。
第一に、想像力が伸びる。第二に、記憶力だって伸びる。そして、第三に、考えるヒントがもらえる。
子どもたちは、大人から本を読みなさいといわれ続けているけれど、なぜ読まなくてはならないのかについて、納得できる説明をもらっていないことが多い。
 読書から得られるアドバイスのありがたさは、それを無視して失敗しても「だから言ったでしょ」とは決して言われないこと。どの物語のどのアドバイスに従おうと従うまいと、本は知らん顔で、何も言いはしない。
 そうなんですよね。でも、ともかく、本は想像力を豊かにしてくれます。映画はビジュアルにしてくれますが、本の想像力にはかないません。なにしろ、頭の中は縦横無尽。なんの制約もないのですから・・・。
 子どもたちが本を読まなくなった。そして、せいぜいケータイ小説に夢中になっている。
 しかし、本来なら、小学生・高校生から大学生にかけての時期こそが本を読むのを大切にしてほしい時期なのだ。思春期にあたるこの時期は、嵐の海を渡るように危なっかしいものであるにもかかわらず、大人からの直接的な手助けが受けにくくなるのが普通だから。
 私は小学生のころは偉人伝を読みふけっていました。リンカーン伝とか野口英世伝です。中学校のときも図書室にはよく行って山岡壮八の「徳川家康」を読了したことを今でも覚えています。高校生になると、図書室に入り浸りで、古典文学体系で日本の古典を原典で読んでいました。もちろん注釈付きの本ですが・・・。世界文学全集にも手を出して、世界を広げました。ヘルマン・ヘッセの「車輪の下」とか、読みましたよ。
今の子どもたちは、お互いに顔色をうかがって言いたいことも言えずにいる。そして、他人(ひと)の気持ちを推し量るのが苦手な子が多い。だから、さんざん気をつかいあう割に、トラブルが絶えない。子どもたちの世界も大変のようです。
司書は一人一人の子どもの特性と好みをつかんだうえで、その子にあった本をすすめる。そのためには前提として本をよく読んでおかなくてはいけない。この本のなかで紹介されている本で、私が最近読んだものに、『トムは真夜中の庭で』というのがありました。不思議な小説で、結末を知りたくて最後まで読みました。『冒険者たち』も近いうちに再読しようと思っている本です。
 司法試験の勉強をしているときには、『天使で大地はいっぱいだ』という本を牛久保秀樹弁護士にすすめられて読みました。とげとげしくなった心がほんわか温まった記憶があります。
いい本は、本当にいいものですよね。こんな司書のいる中学校の生徒たちは幸せです。豊かな人生が楽しめるはずですからね。
(2011年6月刊。1700円+税)

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