弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
社会
2011年1月12日
無縁社会
著者 NHK取材班 、 文芸春秋 出版
現代日本社会って、いつのまにか寒々としたものになってしまったんだなあと、つくづく実感させられる本でした。効率とお金万能、持てる者の強者論理が大手を振ってまかり通っていて、弱者を平然と切り捨てても見て見ぬふりをしてしまう社会の冷たさです。私なんて、涙がでるくらい情けない世の中になってしまったものだと思うのですが・・・・。
日本航空が業績回復のために乗務員など170人の解雇を決めました。これを多くの国民が平然と受けとめていますが、実は大変なことなんですよね。ちょっと業績が悪化した企業だったら簡単に労働者を解雇できるという悪しき先例をつくることになります。これって判例の積み重ねを全否定するような暴挙です。ちょっと待ってよ・・・・。明日は我が身なのかもしれませんよ。ともかく、他人は他人と簡単に割り切っていいものでは決してありません。
NHKスペシャルで「無縁社会」を放映したら大反響があったそうです。私はテレビを見ませんので、残念ながらその映像は見ていませんが、この本を読むと現代日本の病弊が赤裸々に浮きぼりになってきます。
行旅病人および行旅死亡人取扱法という法律があることを初めて知りました。行旅死亡人とは、警察でも自治体でも身元のつかめなかった無縁死のこと。住所、居所、もしくは氏名が知れず、かつ遺体の引き取り者なき死亡人は、行旅死亡人とみなす(法第1条第2項)と定められている。
通夜も告別式もない。遺体を火葬するだけで弔う「直葬」が広がっている。儀礼は行わない。自宅や入院先の病院などから直接遺体を火葬場に運んで茶毘に付す弔いのスタイル。これで費用が10~20万円台。東京都内で行われている葬儀のうち30%を直葬が閉めている。
特殊清掃業者とは、自治体の依頼で、家族に代わって遺品を整理する専門業者のこと。数年前に誕生し、今では30社あまり。いずれもインターネット上に自社のホームページをもって、大都市に事務所をかまえている。この業者は故人の部屋に入るときには、異臭が激しく部屋も汚れているため、オゾンを放出する特殊な装置を持ち込む。オゾンには強力な酸化作用があり、殺菌や脱臭、有機物の除去に役立つ。
富山県高岡市のお寺が引き取り手のない遺骨を引き受けているというのにも驚きました。
葛飾区にある都営団地には一人暮らしが団地の全世帯の3割になっている。うむむ、これって多いですよね。多すぎます。一人で生活したほうが気ままでいいと言っても、病気したらどうしますか・・・・。
一人暮らしの高齢者が高額な訪問販売の被害にあうことも多い。これは私も何回も事件として取り扱いました。どうやら、騙し易い人のリストがブラック業者に渡っているようです。
高齢者の単身化がすすみ、25年間に2倍になった。そして、50歳まで一度も結婚したことのない「生涯未婚」率も増えている。
結婚しない、できない大きな理由の一つが、非正規雇用が増えて、低賃金のうえに経済的に不安定なため不安から結婚できないということ。これって、まさに政治の責任で解決すべきものです。これを解決しなければ、少子化対策やっていますなんて言えませんよ。
子どもたちの住む東京など大都会へ呼び寄せられた高齢者の問題も目立ってきた。都会の生活になじめず、孤独を感じながら生活している高齢者が増えている。私の住む団地でも高齢化がすすみ、子どものいる東京や横浜へ転出するお年寄りが続出しています。果たして、周囲に同年輩の知人が一人もいなくて大丈夫やっていけるんだろうかと、いつも心配しています。
この番組を見た30代、40代の人々から大きな反響があったそうです。「俺も仕事がなくなったら無縁死だなあ」とつぶやく34歳の男性など、他人事とは思えないとういう人が圧倒的に多いのです。今ならまだ間にあうような気がします。もっと生活と仕事が安定するような社会環境を早急につくりあげるべきです。弱者、この場合は高齢者と若者にもっと光をあてて、真剣に打開策を考えるべきです。
読んでいくうちに身につまされ、背筋の凍る思いがする本ですが、それでも一読をおすすめします。
(2010年12月刊。1333円+税)
2011年1月 6日
NO LIMIT
著者 栗城 史多、 サンクチュアリ 出版
日本人初、エベレストの単独・無酸素登頂。そして世界初となるエベレスト登頂のインターネット生中継に挑戦。
私はテレビも見なければ、ネットサーフィンをすることもありませんので、著者のネット中継なるものを見たことはありません。でも、恐らく、あまりにも生々しくて、怖さを感じてしまうでしょうね・・・・。
小さな体で一人。ビデオカメラを片手に巨大な山に向かっていく。上がったり、下がったりをくり返しながら、少しずつ、少しずつ頂上を目ざす。
この本には、写真をバックとして、こんな詩のようなフレーズに満ち充ちています。それが心地よく胸に響いてくるのは、やはり山々の写真の素晴らしさが背後にあるからでしょう。
ヒマラヤでの行動には強い意志が不可欠だが、必要な力はそれだけじゃない気がする。
身長162センチ、体重60キロの小柄な登山家です。
22歳のとき、初めての海外旅行で、北米で一番高い山に一人で向かった。これが僕にとって人生初めての挑戦だった。不可能は自分がつくり出しているもの。可能性は自分の考え方次第で、無限に広がっていくことに気がついた。
酸素は地上の3分の1。気温はマイナス40度近くにもなる苛酷な世界がそこにある。一歩を踏み出す勇気は、今、やりたいという自分の気持ちを信じることから生まれる。高い山の世界には、どんなに強いやる気でも、それを奪う寒さと酸素の薄さがある。身体が震えて、震えを止めるだけでも必死。持ち物はすべて、地上の3倍くらいの重さに感じる。なにもかもがすべてが苦痛で、すべてのものが遠くに感じる。
本当に大きなことを成し遂げるためには、自分のこだわりを捨てた方がいい。執着すると、大切なことが見えなくなる。見つけた夢はどこまでも追いたくなるものだが、それはまた危険なものでもある。山登りで一番危険なものは執着心だ。この執着をなくせるかどうかによって、登山の真価が問われる。だから山に入ってからは、絶対に登りたいという思いをなくす努力をする。登りきれば幸せなのは確実だが、頂上にいけるかどうかは、最後は山の神様が決めること。
山を登って帰ってくると、いつも思うことがある。それは地上の温かさだ。仲間がいて、温かいご飯が食べられて、そしてまた明日が迎えられる。その温かさのありがたみを再認識するために僕は山に登っているのかもしれない。
まだ28歳の若々しい登山家の生命力がびんびん伝わってきます。きっとエネルギーをもらえる本です。
(2010年11月刊。1400円+税)
2010年12月30日
ビジネスで一番、大切なこと
著者:ヤンミ・ムン、出版社:ダイヤモンド社
ビジネスの成功の要は、競争力にある。競争力とは、競合他社といかに差別化できるかである。ところが、その差が細かくなりすぎて、多くの消費者がいぶかしく思う段階に達すると、ある日突然、差別化は無意味になる。
無意味な差別化が進めば進むほど、嘲笑指数は上がっていく。
現代社会において、差別化は何を意味するのか考えさせられます。ともかく、同じような中味なのに、店にはいろんな形と色の容器がたくさん並んでいますよね。
ビジネスの世界では、いかなる戦略であれ、永遠を期待することはできない。
激動の中に放り込まれると、人間は安定を求める。生活が単調であふれていると、鈍感になる。慣れすぎると、何も見えなくなる。印象の欠落は、知覚の欠落につながる。
相反する二つのものが結びつくには、バランスがすべてだ。類似性は静止状態であり、違いは活動状態。両者が均衡状態をとりながら存在すれば、すべてはうまくいく。そのとき、人は安定を感じると同時に、刺激も感じる。何の混乱もない毎日が続きすぎると、無関心がひたひたと忍び寄ってくる。ひとは停滞を感じ、不安になる。そして、珍しい果物を渇望している自分に気がつく。
私たちが類似性に圧倒されているとき、判断力に再び火を灯すのは、小さな差ではなく、歴然とした大きな違いである。
差別化は手段ではない。考え方だ。姿勢であり、傾聴や観察、吸収、尊重から生まれる。
かなり難しい表現ではありますが、すごく大切なことが語られている本だと思いました。
(2010年10月刊。1500円+税)
2010年12月24日
日本人が知らない世界のすし
著者 福江 誠、 日経プレミアシリーズ 出版
この夏、フランスに出かけたときパリだけでなくリヨンそしてディジョンにまで回転寿司の店があるのを知って驚きました。寿司のヘルシーさをフランス人が好んでいるようです。
今、アメリカには1万をこえる日本食レストランがある。アメリカは日本を除く世界の日本食の3分の1を占める日本食先進国だ。オーストラリアのシドニーには、市内に1000件もの寿司店がある。フランスも同じく1000店の日本食レストランがあり、パリに700店ある。いま、全世界で寿司を食べることのできるレストランは5万店をこす。回転寿司の先進地は、アメリカではなく、イギリスのロンドンだ。日本の寿司屋ではニンニクは臭いがつくため避けられているが、海外ではそれが必須となっている。海外では、きつい酢の味わいは好まれず、押し寿司のような甘い酢加減の店が多い。
海外では、突飛で派手な外見が「目にも楽しい」と好まれている。日本人の感覚とは違って、シンプルに美しいものよりも、ゴテゴテと華やかに楽しいものが受けている。
フランスの寿司屋の経営は9割以上がベトナム系中国人。
海外で寿司店や日本食レストランを経営するうえでの心構えとして必要なのは、自分の哲学を持っていること。寿司の勉強は誰でも出来る。ただし、なぜその町で寿司を食べさせたいのかという根本が必要だ。店のコンセプトをはっきりさせないと長続きしない。
海外では寿司職人の方がニーズがある。給料も、板前より2倍もいい。カウンターでお客とやりとりしながら仕事をするので、チップもバカにならない。お客は寿司職人に名前を覚えてもらうのがうれしい。海外で寿司職人として成功する秘訣の一つは客の名前を覚えること。海外で生きていくには寿司の技術と知識だけでは足りない。現地の言葉と人々の考え方への理解がないと、店を経営するのは難しい。寿司職人として雇われるのなら、一定の語学があれば足りるが、経営者として人を使う立場になると、スタッフの考え方まで知っていた方がいい。
日本の現状は、回転寿司店が6000店舗で6000億円の市場。テイクアウト寿司店も同程度の市場をもつ。回転寿司専門店(立ち店をふくむ)と三分の一ずつ市場を分けあっている。
東京寿司アカデミーには、2ヶ月間で短期集中して学ぶコースと、1年かけて英語の接客技術や海外での店舗経営まで学べる寿司シェフコースがある。外国人も入学するが、その9割は韓国人である。いい魚を見分ける目利きの力と、包丁の扱いにはある程度の経験が必要だが、繰り返し練習すれば、誰でも必ず上達できる。
寿司はカウンター越しの対面商売という、「行為そのものを消費する」独特の日本文化だ。世界には、こうした食文化・習慣はないので、カウンター商売が非常に新鮮に映る。
世界のなかでの日本の寿司の置かれている状況がよく分かりました。カラー写真で、見た目も楽しいカラフルな巻き寿司がたくさん紹介されていて、つい手が出そうになります。20年ほど前、シカゴの高層ビルにアメリカのローファームを訪問したとき、昼食として出た寿司がびっくりするほど美味しかったことを思い出しました。ああ、寿司が食べたくなりました・・・・。
(2010年8月刊。850円+税)
先日のフランス語検定試験(準1級)の結果が届きました。自己採点とぴったり同じ76点で合格していました。基準点が65点で、合格率26%です。ペーパーテストはこれで6回ほど合格したことになります。問題は面接試験です。時事問題をフランス語で話せなくてはいけません。とても難しいのです。これまで2回しか合格できていません。1月下旬まで、集中的に勉強するつもりです。
チョコさんは長野にある「ちひろ美術館」に行かれたようですね。うらやましい限りです。私は東京の美術館には行ったことがありますが、まだ長野の方には行ったことがありません。ぜひ信州の高原にある美術館めぐりをゆっくりしたいものだと思います。
本年は単行本を560冊読みました。チョコさんのような励ましがあると、書きつづる勇気が湧いてきます。いつも、ありがとうございます。
2010年12月17日
カウントダウン
著者 佐々木 譲、 毎日新聞社 出版
いつも秀逸な警察小説を読ませてくれる著者が、同じ北海道を舞台としながら、赤字まみれの地方自治体の再生を探る社会派小説に挑戦しました。同じような炭鉱閉山の市や町をいくつもかかえる福岡県にとっても他人事(ひとごと)ではない展開ですので、一気に読み上げました。
多選のワンマン市長の愚政と、ほとんど「オール与党」の市議会という構図は、日本全国、どこにいっても同じようなものですよね。野党だった社会党が消え去った今、愚政に異議申立をきちんとしているのは政党としては共産党だけになってしまいました。残念ですね、これって・・・・。
この本には選挙ブローカーが登場してきます。たしかにいるんですね。日本全国の選挙を渡り歩いて職業として食べていけるというのですから、不思議なものです。
選挙は、結局のところ候補だ。タマだ。選挙戦術でどうにかなるのは、全得票のせいぜい10%でしかない。タマ選びからやれるんなら、勝利は確実なんだ。
これは行政広報と選挙のプロの言葉です。
20年間で、18勝3敗。市議会は、きみと共産党市議以外は、全員が市長支持派だ。市役所の幹部も同じ。市の職員組合も、長年、市長に飼い慣らされてしまった。商工会にも、地区労にも、農業団体にも、現職市長に挑む意思のある者なんていない。
こうやって選挙ブローカーは、まだ市議一期目の森下を市長選に出るようけしかけるのでした。
第三セクターへ巨額の出資をしていながら、その第三セクターの経理状況を質問すると、市長は民間会社のような経営状況なんて公開できるはずがないとうそぶいて居直り、開示しない。
森下と共産党市議以外の議員はみな与党であり、現職市長の翼賛団体であるという議会。保守政党はもちろん、現職市長がかつて市職労の委員長であったことから、市職労は一貫して現職市長を組織内候補として応援した。市職が中心となっている地区労も、その上部団体としての連合支部も、現職市長の20年間の市政を貫いて支持した。
この町には現職市長を批判する勢力はなく、市長のもたらすうまみを、有力団体すべてが享受してきた。議会はやるべき市政の監視機関ではなかった。でたらめ機関の追認する機関でしかなかった。
まさに、そのとおりです。だからこそ「オール与党」の一員にとどまりたいのです。
阿久根、名古屋そして大阪の議会を見ていると、「オール与党」である議会の大半は、実質的に何もしていないも同然なので、そこに市民の怒りが殺到しているように思います。「オール与党」の議会構成だったら、市民の怒りは無為無策のより身近な「市議会」に集中します。そこに議員なんて不要だとか、議会の定数を大幅に削減してしまえという意見の生まれる根拠があります。まことに罪深いのは「オール与党」体制です。
森下はついに市長選への立候補を決意します。そのときのメインの政策は福祉でした。福祉と先進医療の町として再生をはかる。お年寄りに優しい町として看板をつくる。
私も、これしかないと、以前から考えてきました。ハコものをつくるのではなく、人間を大切にすること。これこそ地方自治体に求められているものではないでしょうか。地方自治体には乏しいながらも利権があり、それをめぐってたかる人々の群れも活写されています。
来年4月に地方選に立候補を考えている知人にこそこの本を読むようすすめたばかりです。あなたもぜひ、ご一読ください。
(2010年9月刊。1600円+税)
2010年12月14日
自殺社会から生き心地の良い社会へ
著者 清水 康之・上田 紀行、 講談社文庫 出版
日本では毎年3万人をこえる人が自殺で亡くなっています。私も前からこのことは知っていました。しかし、3万人という数が頭にあまり入ってきていませんでした。ところが、清水氏自身が東京マラソンの様子をビルの屋上から撮影した映像を見て、途中から身震いしてしまいました。東京マラソンの出場者も同じ3万人なのです。東京都心の広い道路をマラソン参加者が埋め尽くしています。もちろん、全員が異なったナンバーを表示するゼッケンをつけています。そのあふれるような人々の流れが延々と、なんと20分も続くというのです。すごい映像です。圧倒されました。ゼッケンをつけてひたむきに走っている一人ひとりに、それぞれのナンバーがついているように、自殺して亡くなった3万人一人ひとりにも、その人だけのかけがえのない人生があったはずです・・・・。
清水氏の話を聞きながら東京マラソンで走るランナーを見ていると、なんだか泣けてきました。ああ、今の日本って、本当に生きている人を大切にしないんだなと思ってしまったことでした。
日本に駐留するアメリカ軍への思いやり予算については、民主党政権は自民党と同じく、最優先であり、削減の対象とはしないというのです。そのくせ、中小企業対策費や福祉予算は減る一方です。とんでもない国です。それなのに、今、マスコミは、国も地方も議員を減らせ、公務員を減らせ、高すぎるから給料を引き下げろの大合唱の先頭に立っています。マスコミまで民主党と同じひどさです。もっとお互いに人間に優しくしましょうよ。
日本の自殺者3万人は、交通事故による死者の6倍。日本の自殺率は、アメリカの2倍、イギリスやイタリアの3倍。働き盛りの40~60代の男性の自殺が全体の4割を占める。
20~30代の死因のトップが自殺であり、80歳以上も31.4と、前世代平均の25.3を大きく上回っている。
男女比は7対3で、女性は少ないかと思うと、自殺率は男性で、世界第8位であるのに対して、日本の女性の自殺率は世界第3位と高い。いやはや、そうなんですか・・・・。
現代日本社会において、自殺は「時代を象徴する死」であり、個人的な問題として看過できない「社会構造的な問題」なのである。自殺者3万人に対し、自死遺族は、死者の4~5倍はいる。つまり、毎年12~15万人が自殺によって家族を失い、自死遺族となっている。現在、日本全国の自死遺族は300万人もいる。
札幌の地下鉄のホームに立つと、線路の向こう側に大きな姿鏡がある。電車への飛び込み自殺を防止するためのもの。鏡をつけておく必要がある。発作的に電車に飛び込もうとした人が、その鏡面にうつった自分の姿を見て、はっと我にかえって思いとどまることがある。うへーっ、そうなんですか。よく注意して見てみましょう。
日本の社会は、「負け組」の象徴として自殺を扱っている。日本社会の誤りは、3~40年もの永いあいだ、あまりにも勝ち続けてしまったことにある。
今の若い人は、日本が豊かだった時代を知らずに青春時代を送ってきた。そして、ただひたすらおとなしい学生が増えている。
団塊世代についても世代論が語られていますが、こちらは納得できないと思いました。あまりにも一面的で皮相な見方なので、団塊世代の一人としてとても残念に思いました。世代間の対立をあおってほしくはありません。
それはともかくとして、いろいろ考えさせられる文庫本です。
(2010年3月刊。581円+税)
冬を迎えて庭の手入れに精を出しています。芙蓉とエンゼルストランペットは根元から切り取りました(毎年のことです)。球根類が増えすぎていますので、植え替えてすっきりさせています。残っていたチューリップを植えていると、頭上にメジロの鳴き声がします。なんとハゼの実をメジロたちが群がって食べているのです。ひとしきり食べたあと、やがていなくなりました。ハゼの実をメジロが食べるなんて知りませんでした。このハゼの木は実生で自生したものです。夏前にハゼ負けで皮膚がかゆくなった、あのハゼの木です。根元から切り倒すかどうか少し迷っています。
2010年12月 8日
誰かボクに、食べものちょうだい
著者:赤旗社会部、 出版:新日本出版社
このタイトル、信じられませんよね。これが飽食日本の現実だというのですから・・・・。
10月に盛岡で開かれた日弁連の人権擁護大会のテーマのひとつが「子どもの貧困」でした。その会場で売られていた本です。
日本の子どもの貧困率は14.2%。子どもの虐待の根っこには貧困がある。4人家族で年間所得が254万円以下が貧困ライン。貧困ライン以下の所得で暮らす子どもが
14.2%を占める。子ども7人に1人、30人の学級なら4.5人の子どもが貧困のなかに生活している。
この本は、困難な状態にある人たちに、あなたが大変な状況にあるのは、あなたのせいではない。どうしたら、この状況を変えられるのか、ゆっくりでもいいから一緒に考えようと呼びかけています。助け合いのできる社会をつくっていこうという呼びかけです。
乳児保育のための国からの補助金は、10年前と比べて年間630万円も減っている。
保育料を滞納する家庭が増え、行政の取り立てが厳しくなっている。広島市では、2007年度から滞納している家庭は、市役所の窓口で滞納解消計画を立てないと通園が設けられなくなった。
2008年の夏休み、都内で小学校の男児が買い物袋をさげた通りすがりの人に「食べ物をちょうだい」とねだっていた。この男児の母親は障害をかかえ、自分ひとりの生活もままならない。同居していた祖母が前年春に亡くなってから、男児は給食を食べに学校に来ているような状況だった。夏休みに入って給食がなくなった。プールのために登校してきたときには教職員などがおにぎりをやっていた。カップラーメンを持たせると、「お母さんに持って帰っていい?」と訊く男児。しかし、お盆はプールも休み。ついに通りで食べ物をねだるしかなかった・・・・。
なんということでしょう。これが、今の日本の現実なんですね・・・・。2学期の始まる前、男児は自分から教師に「ぼく、児童相談所に行く」と言い、そのまま施設に入ることになった。
ご飯が食べられない。風呂に入っていない。水道やガスが止められている。夏は臭いがするので、教師が生徒の頭をシャワーで洗ってやることもある。その母親は朝8時から深夜まで働いていて、ローンの支払いに追われ、まったく生活に余裕はない。
まじめな貧困は共感されるが、ふまじめな貧困は共感されず、むしろ攻撃される。
そうなんですよね。生活保護を受けているひとがパチンコしていると、目の仇にされ、廃止しろと市民が文句をつけるという現実があります。お互い心の余裕を喪っているのです。女子の若年出産と性産業とのかかわりの背景に、貧困の問題がある。
OECDの30カ国のうち、高校の授業料が無償化されていないのは、日本のほかは3カ国のみ(イタリア、ポルトガル、韓国)。保育園も、1、2歳児は多くの国で無償としている。
フランスは、所得の再分配によって子どもの貧困率を24%から7%に減らした。日本は逆に増やしている。学校で、1クラスの人数は20人でも多いというのが世界の流れである。ええーっ、日本って、そう考えると、本当に子どもを大切にしない国なんですね・・・・。
子どもが自分に見切りをつける時期が早くなっている。うちは貧乏だから勉強なんかできないよと子どもがいう。貧困と格差の広がりが、今、確実に子どもたちの健やかな成長を脅かしている。
未来は青年のもの。これは、私がまだ青年のころに聞いたなかで一番気に入っていたキャッチフレーズです。子どもは、その青年の卵。まさに国の宝です。その子どもたちを大切にせずして、日本の未来はありません。子どもを飢えさせる政治なんて根本的に間違ってますよ・・・・。プンプンプン、怒りのうちに、この本をおすすめします。
(2010年11月刊。1500円+税)
2010年12月 7日
希望を持もって生きる
著者 釧路市生活福祉事務所、 筒井書房 出版
驚きの本です。サブ・タイトルに「生活保護の常識を覆すチャレンジ」とあります。ええっどういうことなの・・・・?
釧路市の人口は19万人弱。水産、石炭、そして紙パルプの町として栄えてきた。水産は水揚げ日本一を誇っていたのが、いまや最盛時130万トンのわずか1割10数万トンでしかない。石炭は最後まで残った太平洋炭鉱が閉山してしまった。紙パルプ産業も縮小し、失業と人口減に悩む町になった。
生活保護世帯は5581世帯。保護率は46.1パミール。平成20年度の保護申請は
888件、保護開始が777件、廃止が485件。母子世帯が16.3%いて、これは全国平均8%の2倍。受給世帯の子どもの割は母子世帯の子ども。
これまではよくある話です。ここからが違います。釧路市の生活福祉事務所はコペルニクス的転回を遂げるのです。
第一に、福祉事務所になじみのある「就労阻害要因」は何かという切り口から受給者の「自立」をとらえるのではなく、「社会資源・社会参加」という切り口から受給する母子世帯の問題を見る。
第二に、「点検管理」という伝統的なアプローチではなく、「自尊意識の回復と醸減」という当事者のエンパワメントを意図してアプローチする。
第三に、「就労一筋」に対して、「中間的就労」という造語表現をつかって、ステップをもうけることに意識付けをする。
第四に子ども支援に取り組む。具体的には、母子受給世帯のなかの子どもたちに呼びかけて「高校行こう会」をスタートさせた。教える側の一員として保護受給中の人にも参加してもらう。
このほか、病院ボランティア、公園管理ボランティア、廃材分別作業ボランティアなど、いろいろあります。
受給者には、確かに認められ大切にされていると感じる経験、人に感謝され誰かの役に立っているとい感じる経験が必要だ。そのことから、人間に備わっている自己回復力のようなものが働き、ゆっくりでも着実に、行動するための活力が湧いてきて、自分から「社会に出てみるのも悪くない」「もう一度社会とのかかわりをもってみよう」と徐々に思えるようになっていく。
参加を迷っている人に対しては、「ためしに参加してみてはどうですか。参加してみて、良かったらずっと参加していくし、合わなかったら、ほかも紹介できますし・・・・」と話す。すると、たいてい「ためしなら・・・・」と言って参加してくれる。「絶対」という言葉で萎縮して一歩踏み出せないよりは、心も軽く外に出てみることのほうが大切なのだ。
無償のボランティアが受け取る対価は「人の役に立っている」という意識と「ありがとう」という言葉だ。「ボランティアができるなら、すぐに働けるだろう」という声があがることもあるが、結果をあせらず、十分な助走が大切である。
受給者のなかには、人と話す機会もすくなく、ひきこもりがちになっていた人も少なくない。人は決まった時間に出かける場所や仕事、楽しいイベントなどがあると、前もって準備し、身づくろいもする。誰かに「生活をきちんとしなさい」と言われても気乗りしないが、自分の内側から出る意思で行動するぶん、生活リズムが整い、それが習慣となって身についていく。働くということは、「生活のためにお金を稼ぐ」ことだけでなく、自分を生かし、あてにされ、しゃかいとのつながりを通して自分自身を確認することでもある。
このように釧路市では、いわば市役所が地域に出て行っているのです。驚きましたね、この発想と行動力には・・・・。
その中心にあるのは、受給者の自尊感情の回復。就職に必要な資格取得であれ、就労体験的なボランティア活動であれ、受給者の自尊感情の回復を抜きにしては前に進むことはできないのだ。
まさしく、そのとおりですね。「毎日つらかったけれど、今は人間に戻った気がする」というボランティア体験者の声は本当にすばらしいです。
人を支える生活保護。これが地域に生きる福祉事務所の役割なんだ。なんと素晴らしい言葉でしょうか。
今は世迷言と言われそうなフレーズを口にしながら、そのような釧路をつくる道程にこそ私たちの希望が宿るという信念を貫いていきたい。
これがこの本の結びの言葉です。心から大きな拍手を送ります。多くの人にこの本が読まれることを願います。岐阜で開かれた第30回全国クレサラ被害者交流集会の相談員分科会の会場で、釧路はまなす会の方の紹介で知って、すぐに買い求めた本です。本当に買って良かったと思いました。ご紹介、ありがとうございました。
(2009年10月刊。1600円+税)
2010年12月 1日
日本人の階層意識
著者 数土 直紀、 講談社選書メチエ 出版
2000年代になると、男女をふくめて四年制大学への進学率は40%に達し、2009年には50.2%になった。
高校への進学率は、数十年も前に90%を超えていて、もはや高校への進学は特別なことではなく、まったく普通のことになっている。1985年にもっとも大学への進学率が高かったのは広島県(40.8%)、奈良県(40.5%)、兵庫県(39.6%)と続く。逆に、もっとも低かったのは、青森県(17.8%)、新潟県(19.0%)、岩手県(19.7%)となっている。
1970年代には学歴には、それほど象徴的価値が見出されていなかった。時代が現代に近づくにつれ、学歴は象徴的価値をますます獲得し、現在は過去数十年間のなかで、もっとも学歴に象徴的な価値が付与されている時代である。
実証的な研究によると、日本人がアメリカ人と比較して、とくに集団主義的であるという証拠が見出されなかったばかりでなく、日本人のほうが個人主義であるとみなしうる研究成果も少なくなかった。つまり、なんとなく、アメリカ人は個人主義的であり、日本人は集団主義的であるというイメージを持っているが、実際には、必ずしもそうとは言いきれない。そして、国民の多くが自分のことを中だと思っていた「総中流」は、なにもとりわけ日本的な現象ではなかった。それは、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、スウェーデンといった先進国にも共通してみられる現象だった・・・・。
1970年代、1980年代の一億総中流は、人々によって所属階層を判断する基準がバラバラであったことによってもたらされていた現象なのである。
一億総中流と呼ばれた時代の日本人の階層意識が特徴的だったのは、「中」と感じている人々の間に共通する社会的、経済的地位を見出すことが難しく、そのために「中」について明確な階層的輪郭を描き出すことができなかった点にある。
人は、時間の流れの中にのみ存在する歴史的存在であったように、ある場所の上にのみ存在する空間的存在なのである。だからこそ、人々の参照する情報が空間的に偏って存在しているために、人々の意識も空間的な偏りを持つことになる。
かつての日本人があたりまえのように考えていた一億総中流論は、今では、はるか昔のことであり、現在は格差社会、富める者はますます富と権力を持ち、貧しき者は家を失い、餓死してしまう存在になっている。
このようなことを少し違った角度で考えさせてくれる本でした。
(2010年7月刊。1600円+税)
金華山に登ってきました。稲葉山城ともいいます。そうです、岐阜に行ってきたのでした。ロープウェーで頂上近くまで一気に上って、そこから10分ほど石段と急勾配の坂道を登っていくと、コンクリートで再現された岐阜城に辿りつきます。お城からは360度のパノラマ展望です、秋晴れの快晴の日でしたから、遥か遠く名古屋のツインタワーまで眺めることができました。眼下の岐阜市内そしてゆったりと流れている長良川を見おろすと、信長の天下布武の気持ちもちょっぴり実感できます。ふもとの岐阜公園では信長居館の発掘作業がすすんでいました。当時の建物が再建されたら、ぜひ見たいものです。
見事な紅葉あふれる公園内の喫茶店に腰掛けて、おでん、五平餅、そして甘酒を頂きました。甘いみそだれのおでん、米粒の残る五平餅、昔ながらの素朴な甘酒をいただきながら、秋の柔らかな日差しを浴び、幸せなひとときでした。ただ、左ひざの痛みを覗けば…。
泊まった都ホテルは、長良川に面していて、部屋からは全山紅葉で映える金華山に屹立する岐阜城の雄姿を眺めることができました。
2010年11月16日
脱・「子どもの貧困」への処方箋
著者:浅井春夫、出版社:新日本出版社
10月に盛岡で開かれた日弁連の人権擁護大会で素晴らしい劇をみました。東京の若手弁護士たちが関わっていることは分かっていましたが、その迫真の演技に、まさか弁護士が演じているとは思えません。ところが、あとでパンフレットを見てみると、ほとんど弁護士が演じていたのです。すごい、すごいと一人で興奮してしまいました。
といってもストーリーの内容は悲惨です。離婚した母親。職場や地域でいじめにあって、うつ病。住まいはゴミ屋敷と化します。二人の子どもたちは満足に食事をとらせてもらえなくて心身ともに発育不良。社会に出ても、なかなか落ち着けない。そんな苦労話のなかで、弁護士との接点が少しだけ明るい話として登場してきます。いやあ、本当に、世間の風は冷たいよね。思わず、涙ぐんでしまいました。この劇の骨子を提供しているのが、この本です。日本の悲惨な現実を改めて認識させられました。
子どもの貧困は、現代日本の政策によって緩和されるどころか、つくり出され深刻化している。子どもを養育する大人が複数から一人親になることで、生活の貧困化が急激にすすむ現実がある。「子どもの貧困」は、個人・家族の責任だけに帰する問題ではなく、社会が生み出す問題として考えなければならない。
今の日本の現実の一例。
○ 給食がないので、夏休み明けに10キロも痩せてくる中学生がいる。
○ ほとんど給食だけで暮らしている子どもがいる。
○ コンビニ弁当、カップラーメン、冷凍食品、お菓子など、まったく手づくりの食事をとったことのない子どもがいる。
○ カッパや傘がなく、雨が降ったら無断欠席する子どもがいる。
うへーっ、これが金持ちニッポンで子どもたちの置かれている現実なのですね・・・。
子どもを虐待する親の特徴。
第一に、自己評価の低下サイクルに陥っている。
第二に、親は自らの行為を虐待であると思わないか、認めようとしない。
第三に、社会的に孤立している。
第四に、ストレス解消法を知らない。
第五に、子育ての間違いに気がついておらず、「体罰」を「しつけ」と考えている。
そうなんですか・・・。
1990年から2008年までの18年間で、高校三年生の性交経験率は、5分の1から半数へ急増した。性被害・加害経験の多さも、「生徒の性」を考えるうえで避けて通れない。
民主党政権の子育て支援政策は、現金給付に力点を置くという特徴がある。しかし、現金給付は、子どものために、そのお金が使われるという保障はない。親の生活費の補填に回る可能性は高い。
いまの日本の現実に対して、政府は、「子どもの貧困」との戦争について「宣戦布告」する決意が問われている。
子どもの貧困率14.2%を半分に削減する目標と、達成年度を明確にして提示すべきである。
食生活の貧困は、食事内容の貧しさとなって現れる。それは子どもに必要な栄養価を満たすことなく、身体的な発達への影響や病気へとつながりやすい。
食生活の貧困は、家庭だんらんを奪うことと同じである。子ども期には、食べたいものが食べられる権利の保障がなくては、安心・安全の生活とはいえない。
すべての子どもがおなかを空かして悲しんでいることのない社会を今の日本で実現できないはずはない。すべての子どもたちが腹一杯に食べることができ、きちんと学校で勉強ができて、いじめにもあわない。そんな社会になったら、安全な社会を維持する経費が、今よりもずっとずっと安くなる。
物事は、すべて視点を変えてみる必要がありますよね。日本の現実を知るうえで、いい本でした。ぜひ、あなたも、ご一読ください。
(2010年8月刊。1700円+税)