弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

人間

2022年7月18日

旅は終わらない


(霧山昴)
著者 芦原 伸 、 出版 毎日新聞出版

旅は「学び」である。まことにそのとおりです。とはいっても、私はコロナ禍のせいで、2年間も福岡県外に出ることがありませんでした。画期的なことです。もちろん、いい意味で言っているのではありません。本当なら、長野の「無言館」、「ちひろ美術館」に行くはずでしたし、北海道の利尻・礼文島にも行きたいと思っていました。
私の自慢は、日本全国、行っていない県はありませんし、各県どこにも知人の弁護士がいます。日弁連で長く活動してきたことによります。でも、まだ、屋久島には行っていませんし、八丈島にも行っていません。
この本には、日本航空(JAL)で不当な扱いをされた小倉寛太郎さんが登場します。私も一度だけ、大阪の石川元也弁護士の大学時代の友人だということで紹介され、日弁連会館で挨拶したことがあります。
小倉さんは、山崎豊子の『沈まぬ太陽』の主人公、恩地元のモデルになった人で、JALのナイロビ支店長もつとめました。要するに、左遷されたのです。ところが、小倉さんのすごいのは、左遷された先のケニアで大活躍し、またたくまに超有名人になったのでした。初めは、象やライオンをハンティングし、次はカメラをかまえて野生動物保護派に転身したのです。私も小倉さんのすばらしい写真集を何冊かもっています。中曽根政権のとき、JALの会長室部長に復帰しますが、退職後は、またケニアに戻って野生動物研究家になったとのこと。すごい人生です。
この本には、ブルートレイン「みずほ」も登場します。熊本までの17時間もかかる寝台特急です。私は何度も利用しました。食堂車は都ホテルの経営。コック3人、ウエイトレス4人の7人のクルーズ。大変な混雑ぶりだったとのこと。貧乏学生の私は食堂車も利用したとは思いますが、残念ながらあまり記憶がありません。私の大学生のころは、まだ、缶ビールなんて便利なものはなかったように思います。
博多までの特急「あさかぜ」があったことは知っていますが、私は利用したことはないと思います。全盛期、「あさかぜ」は1日3往復したとのこと。信じられません。速さは新幹線、旅情は「あさかぜ」と言われた。松本清張の『点と線』にも「あさかぜ」が登場する。
今、福岡には「あさかぜ」法律事務所があります。
国鉄(JR)の時刻表は、月刊100万部もの発行だったが、今や激減し、4万から5万部ほど。みんなネットですませている。そうなんですよね。アナログ派の私は大いに困っています。
旅情を語る原稿で禁句は、「感動した」、「美しい」、「おいしかった」。どう感動したのか、何が美しいのか、どのようにおいしかったのか、その詳細(ディテール)を言葉にしてあらわすのが紀行文。そこに、独自の視点をもつ、作者の個性と感性、そして教養が求められる。
文章力で読者に感動を体験させないと、プロの書いた原稿とは言えない。干田夏光は、「モノ書きは、読者を泣かさなければいけないよ」と言った。
モノカキを自称する私ですが、まだまだそこまで至っていません。ところが、私の書いた「アイちゃんと前川喜平さん」という文章を読んで、泣けてきたという人がいて、いや、もう少しがんばれば、そこまでいけるかも...、と思うようになりました。人生、何ごとも精進するしかありませんからね...。
(2022年2月刊。税込2090円)

2022年7月16日

音が語る、日本映画の黄金時代


(霧山昴)
著者 紅谷 愃一 、 出版 河出書房新社

私は以前から映画をみるのが大好きで、月に1回はみたい気分です。自宅でDVDでみるのではなく、映画館に行って、大画面でみるのが何よりです。最近は、パソコンのユーチューブで「ローマの休日」の断片を繰り返しみて、オードリー・ヘップバーンの笑顔の輝きに見とれています。
この本を読むと、映画製作にはカメラワークと同じく録音も大切だということがよく分かりました。でも、同時録音するとき、マイクを突き出して、カメラの視野に入ったら台なしですし、周囲が騒々しかったり、時代劇なのに現代音が入って台なしにならないような仕掛けと苦労も必要になります。
著者は映画録音技師として映画の撮影現場に60年いたので、たくさんの映画俳優をみていて、そのコメントも面白いものがあります。
著者は1931年に京都で生まれ、工学学校(洛陽高校)の電気科卒。
戦後まもなくの映画製作の現場では徹夜作業が続き、そんなときには、ヒロポンを注射していた(当時、ヒロポンは合法)。
映画「羅生門」のセリフは、ほとんど後でアフレコ。
戦後まもなくの大映の撮影現場は、ほとんどが軍隊帰りで、完全な軍隊調の縦社会。
溝口健二監督は、近づきがたい威厳を感じた。ある種の威圧感があった。
映画製作の現場は、週替わりで2本ずつ公開していたので、月に8本を製作しなくてはいけなかった。1本を4日でつくる。いやあ、これって、とんだペースですよね。セリフと効果音を別々に撮るようになったのは、かなりあとのこと。
今村昌平監督は、「鬼もイマヘイ」と呼ばれていた。著者も、すぐにそれを実感させられた。
石原裕次郎の出現で、日活撮影所の空気が一変。それまでの2年間、日活は赤字が続いていて、全然ダメだった。
著者は映画「にあんちゃん」も録音技師として担当した。
1970年ころ、日活はロマンポルノへ方向転換した。このとき、日活を支えてきたスターがほとんど辞めた。
沢田研二は、素直に注文を聞くし、わがままも言わない。いい男だった。天狗にもならなかった。高倉健は、本当に礼儀正しい。オーラがある。笠(りゅう)智衆は、テンポがゆったりとしていて、セリフを聞いていて、気持ちがよくなる人。
黒澤明監督は怖い。いきなり金物のバケツをけ飛ばして、いかりや長介を一喝した。
黒澤監督は、役者の段取りをもっとも嫌い、常に新しい芝居を見たがった。
黒澤監督は、ともかく発想がすごい。傑作した天才というほかない。「世界のクロサワ」だけのことはある。
映画「阿弥陀堂だより」(02年)もいい映画でしたね。南木佳士の原作です。長野県の飯山市あたりでロケをしています。もちろん、セットを現場に組み立てたのです。四季を表現するのに、一番目立つのは小鳥の鳴き声。なるほど、録音技師の出番です。北林谷栄は、当時90歳だったそうです。そして、北林谷栄は、セリフをアドリブで言う。直前のリハーサルとは全然違うことをしゃべった...。
まず脚本を読む。そして自分なりのアイデアを考える。しかし、現場へ行くと少し違うこともある。そして、編集の段階で、また考えが変わることがある。作品にとって何がいいのかを考え、どんなに気に行っていても捨てる勇気が必要なことがある。一つのやり方に凝り固まっていてはいけない...。
撮影の木村大作、録音の紅谷と並び称される映画づくりの巨匠の一人について、じっくり学ぶことができました。ああ、また早くいい映画をみたい...。
(2022年2月刊。税込2970円)

2022年7月11日

生きがい


(霧山昴)
著者 茂木 健一郎 、 出版 新潮文庫

なんと、あの茂木センセイが英語で描いた本の翻訳本なのです。おどろきました。
茂木(もてぎ、ではなく、もぎ)センセイは東大の理学部と法学部を卒業したあと、今や脳科学者として有名ですよね。英語で本を書くのは、長年の課題だったそうです。
私もフランス語を長く学んでいて、『悪童日記』(アゴタ・クリストフ)を読み、それに触発されて、フランス語で本を書いてみたいなどと、恥ずかしながら、だいそれたことを夢想したことがありました。でも、それより前に、日本語で本格的な小説を書くのが先決だと思い直して、現在に至っています。
この本は2017年9月にロンドンで出版され、31ヶ国、28言語で出版されたとのこと。ああ、うらやましい...。
「生き甲斐」には、大切な5本柱がある。その一、小さく始める。その二、自分を解放する。その三、持続可能にするために調和する。その四、小さな喜びをもつ。その五、今、ここにいる。
生き甲斐をもつためには、固定観念を捨てて、自分の内なる声に耳を傾ける必要がある。生き甲斐をもつ利点は、強靭(きょうじん)になり、立ち直る力がつくこと。
しあわせになるためには、自分自身を受け入れる必要がある。自分自身を受け入れることは、私たちが人生で直面するなかで、もっとも重要で、難しい課題の一つ。しかし、実は、自分自身を受け入れることは、自分自身のためにやれることのなかでは、もっとも簡単で、単純で、有益なことだ。
生き甲斐とは、生きる喜び、人生の意味を指す日本語。生き方の多様性を賛美している、とても民主的な概念でもある。生き甲斐は健康で、長生きするための精神の持ち主。
「こだわり」とは、自分がやっていることへのプライドの表明だ。「こだわり」の重要なことは、市場原理にもとづいた常識的予測のはるか上を行くところに、自分自身の目標をおくことにある。
はっとする思いで、頁をめくって読みすすめました。
(2022年5月刊。税込572円)

2022年7月 4日

私たちはどこから来て、どこへ行くのか


(霧山昴)
著者 森 達也ほか 、 出版 ちくま文庫

映画監督であり、作家である著者が、各界の理系知識人と対話した本です。
人間の身体は非常によく出来ているように見えるが、実は不合理なものもたくさんある。
クジャクのオスのきらびやかな飾り羽がモテるオスのカギだ。そう思って、その裏付けをとろうとして研究をすすめていった。ところが、鳴き声のほうが正確な指標だということが判明した。うひゃあ、意外でした...。
神経細胞は、増えないまま、少しずつ少なくなっている。少しずつ死んでいって、数が一定数以下になると、神経細胞としての統制が保てなくなる。
深海底にすむチューブワームは3000から4000メートルの海底に生息している。一本のチューブのような身体で海底に根を張っている。でも植物ではない。虫でもない。分類上は動物。ところが、動物なのに口がない。ものを食べない。
チューブワームは、植物のように独立栄養で、デンプンなどをつくる。海底火山から出る硫化水素を使う。酸素と硫化水素からデンプンをつくり、自分たちのエネルギー源としている。
チューブワームの大きさは、最長3メートルもある。硫化水素と酸素の供給が多いところでは、1年で1メートルも大きくなる。極端に少ないところだと、1メートル育つのに1000年かかると推測されている。なので、チューブワームの寿命は数千年という可能性がある。
宇宙の真空とは、文字どおり空っぽで何もないということなのだが、実は、ふつふつとエネルギーが湧いているところでもある。エネルギーがあるというなら、質量もあることになる。この真空のエネルギーが、暗黒エネルギーにつながっていく。暗黒物質(ダーク・マター)は、光学的に観測できる量の400倍もの質量が存在することが判明した。つまり、目には見えないけれど、引っぱっているものがあるはずだ、ということ。
スーパーカミオカンデが1998年に発見したニュートリノ振動現像によって、ニュートリノにも、ごくわずかな重さがあることも判明した。このニュートリノは左巻きに回っていて、反ニュートリノは、右巻きに回っている。
「動画」なんて存在しない。フィルムなら1秒24コマ、ビデオなら1秒30コマの静止画が連続して動くので、これを見た人は「画が動いている」と直感で感知する。
人は自分で思うほど自由に自分の意識をコントロールしていない。人の自由意思は、実のところ、とても脆弱だ。
正解がはっきりしているときには、コンピューターは強い。ところが、囲碁のように、選択肢が無限に近いほど多いので、大きな限界がある。
脳の機能はつぎはぎだらけ。
私たちヒト(人間)が宇宙で宇宙人を見つけたとき、その相手を生物とすら認識できないだろう。宇宙人は、自分たちなりの宇宙の法則をもっていてもおかしくない。
ぐんぐん、私たちの視野を広げていってくれる文庫本でした。
(2020年12月刊。税込1045円)

2022年7月 2日

人類の起源


(霧山昴)
著者 篠田 謙一 、 出版 中公新書

DNA研究がすすみ、今までの通説がひっくり返ってしまったことも珍しくありません。たとえば、ネアンデルタール人は、ホモ・サピエンスと交雑しなかったとされていたのが、今では交雑を繰り返していたことが判明しています(これはDNA研究の成果です。どうして、そう言えるのか門外漢の私には、とんと不明です)。
現生人類(ホモ・サピエンス)がネアンデルタール人の祖先と分岐したのは60万年前のこと。そして、その後も、ネアンデルタールや他の絶滅人類とも交雑していたというのです。DNAを調べたら交雑していることが判明するというのは素人の私にも何となく想像できます。でも、それが何万年前のこと、と時期まで特定できるというのが不思議でなりません。
人類の起源は200万年前。5万年前、ホモ・サピエンス(現代人類)は、いくつかの集団に分かれていた。その一つがネアンデルタール人と交雑し、世界に広がっていった。ところが、現代ヨーロッパ人を形成する集団はネアンデルタール人とほとんど交雑していない。なので、現代ヨーロッパ人は、ネアンデルタール人のもつDNAをわずかしかもっていない。
ネアンデルタール人は、女性が生まれた集団を離れて、異なる集団の中に入っていくという婚姻形態をとっている。これはチンパンジーと同じでしたっけね。ホモ・サピエンスが種として確立したのは、アフリカ。アフリカのどこなのかは、まだ決着ついていない。今のところ、中央アフリカがもっとも可能性が高い。ネアンデルタール人とかクロマニヨン人とか、中学校そして高校でよく学ばされましたよね...。
人類の進化がどんなものだったのか、それを学校でどう子どもたちに教えるのか、教師としての悩みはきっと尽きませんよね。でも、ワクワクする面白さがあります。だって、知らないことを知ることができますからね...。
(2022年3月刊。税込1056円)

2022年6月29日

教育鼎談


(霧山昴)
著者 内田 樹、前川 喜平、寺脇 研 、 出版 ミツイパブリッシング

とても知的刺激に満ちた本です。日本の教育の現状、そしてあるべき姿を深く深く掘り下げていて、大いに考えさせられました。実は、軽く読み飛ばそうと思って車中で読みはじめたのです。ところがどっこいでした。
私が大学に入ったとき(1967年)、授業料は月1000円、寮費(食費は別)も月1000円でした。私は記憶にありませんが、この本によると入学金も4000円だったようです。
教育費用が安いと、子どもたちには進学についての決定権がある。親が子どもの進学にうるさく干渉するのは、教育投資だと思うから。
今の日本の大学生の学力が下がっている最大の理由は、やりたくない勉強をさせられているからだ。それは進学先を自己決定できないから。高校生が自分の貯金をおろせば入学できるほどの学費だったら、子どもたちは自由気ままな進路を選ぶ。
大学教育まで、すべて教育は無償にして、好きな専門を自分で選んでいいよ。たとえ選び間違えても、何度でもやり直しができる。だって、無償なんだから。こんな環境を整えてあげることが大切だ。教育をみんなに受けさせるのは、それが社会のためになるから。
いやあ、まったく同感です。ハコやモノより、大切にすべきなのはヒト、ヒトなんですよね。今の日本の自民・公明政権には、まったく、それがありません。
人殺しをいかに効率よくするか、そんな軍事予算は惜しみなくつぎこんでいるのに、人を助ける方にはまったく目が向いていません。これを逆にすべきです。
教育を投資だと考えている親に対して子どもたちは復讐する。それは、親の期待を裏切ること。それを無意識のうちにやっている。ただし、疚(やま)しさ、罪悪感は心の底にある。
うむむ、これは、なんという鋭い指摘でしょうか...。この指摘を読んだだけでも、本書を読んで良かったと思いました。もちろん、それだけではありません。
教育というのは、学生たちの中で「学び」の意欲が起動すれば、それでいいのだ。
学生たちの「学び」が起動するのを阻害しているのは、実は学生たち自身がもつ知的なこわばり。
自分の能力の限度を勝手に設定して、自分にはそれ以上のことができるはずがないと思い込んでいる。
この自己限定の「ロックを解除する」というのが、教師の仕事だ。何がきっかけになって、学生がその気になるのかは、誰にも予見できない。
この指摘を受けて、私は大学1年生のとき、セツルメントの夏合宿で先輩セツラーが世の中の物の見方を語ったとき、ガーンとしびれたことを思い出しました。ああ、そんな見方をしたら、世の中はもっと見えてくるものがあるんだなと思い至り、必死でノートに先輩のコトバを書きしるしました。
いろいろプログラムを組むのは、そのうちのどれかがヒットするだろうという経験則にもとづく。そして、一時的に集中的にやったら、ゆっくり休む。その繰り返し。
セツルメントの夏合宿は、昼はハイキングをして、草原で男女混合の手つなぎ鬼をして楽しんでいました。夜は、みんなでグループ分けしてじっくり話し込むのです。
教育現場は、もっと「だらだら」したほうがいい。
「ゆとり教育」は失敗だったとさんざん言われたけれど、「失敗」の証拠も論拠も、どこにもない。いやあ、そうなんですね。たしかに、今の教員はペーパーの報告事項が多すぎますよね。
「不登校」は本人にとっても親にとっても困ったこと。社会性の獲得は必要なこと。それができないのは不幸なこと。本当にそう思います。
教員の考え方ややり方がてんでばらばら、できるだけ散らばっているほうがいい。そのほうが、子どもにとって、「取りつく島」があるから。教師にも生徒にも、いろんな人間がいるから学校は面白くなる。
子どもたちにとって、学校に来る動機づけ(インセンティブ)は、できるだけ多種多様であるほうがいい。本当に、そのとおりですよね。
私は市立小・中学校、県立高校、そして国立大学と、公立学校ばかりで、私立学校には行っていません。市立小・中学校には、それこそ多様な生徒がいました。つまり、「不良」もたくさんいたのです。でも、そんな生徒が身近にいたので、「免疫」も多少は身についたような気もします。
今は「大検」(大学入学資格検定)はなく、「高認」(高校卒業程度認定試験)がある。
この本には、22歳で高認に合格し、30歳で司法試験に合格して、弁護士として議員になった女性(五十嵐えり氏)が紹介されています。
大阪の維新(松井―吉村ライン)は、コロナ禍対策でひどい過ち(イソジン・雨ガッパ)をして、全国トップレベルの死亡率でしたが、教育分野でもひどい差別・選別教育をすすめています。かの森友学園も、維新政治の闇にかかわっているとこの本で指摘されています。
にもかかわらず、維新の恐ろしい正体がマスコミによってスルーされ、幻想がふりまかれて参院選を乗り切ろうとしています。日本の将来が心配です。
生きることは働くことと学ぶことだと寺脇研は強調しています。それをみんなが理解して支えあう、心豊かな社会にしたいものです。250頁の本ですが、久しぶりにずっしりと読みごたえの本に出会ったという気がしました。
発行は、旭川市の小さな出版社のようです。引き続きがんばって下さいね。いい本をありがとうございました。
(2022年4月刊。税込1980円)

2022年6月18日

梅は匂ひよ 桜は花よ 人は心よ


(霧山昴)
著者 野村 幻雪 、 出版 藤原書店

私は司法修習生のころ、狂言そして能を一度だけ本格的な能舞台で鑑賞しました。さっぱりコトバが聴きとれず、眠たくて仕方がありませんでした。正直言って、一度でコリゴリしてしまいました。
ところが、この本を読むと、私のこの反応は自然なものではあるが、あまりにも視野が狭かったと思わされ、無知な私を反省するしかありません。
著者は狂言の家に生まれ、能楽に転じたのですが、能の役者として人間国宝に指定されるまでになり、また、かの東京芸大で教授として教えていたこともあります。なので、さすがに本書にある著者のコトバには含蓄深いものがあります。
「能はむずかしい」...たしかに言葉は古典で、動きは何かとゆったりしてるので、想像力が求められる。言葉を聞きとって理解しようとするよりも、お囃子(はやし)のテンポの変化で場面転換を予想したり、役者の身振りや装束から、その役がどんな境遇に置かれているのかを想像したり、耳目に入るまま感じとるのが、能を楽しむ第一歩。
役者は何もない舞台に、演技の力だけで森羅万象を描き出す。
著者は、「いい香りのする役者になること」を目ざしているとのこと。薄暗い橋掛りにあらわれたとき、ふっとお香の匂いを感じさせる役者になりたい...。
年齢(とし)とともに体力は衰えても、経験や知力、好奇心がそれを補ってくれる。いくつになろうとも、常に自問自答し、初心と新しい発想をもって演技にのぞむつもりだ。
公演は一日限り。演者にとって、その役は生涯で今日が最後かもしれないとの思いがある。能の公演って、連日はないようです。
能を演じるときには、神にも女性にもなる。それが能。これに対して、狂言では、実際の出来事を架空の物語に仕立ててみる。このように表現方法が対照的な能と狂言だけど、どちらにも人間の本質を主題とする点では共通している。
能役者の服装は赤系の装束は若い女性、中年以上の女性は赤系の色を使わず、「紅無(いろなし)」とする。
内弟子の大切な仕事の一つに舞台拭きがある。まず舞台のチリを払う。そして、板目にそって固くしぼった雑巾で拭く。新しい舞台には豆乳を使い、表面に油をしみ込ませる。このとき、柱の下部の色にムラができないよう、舞台と柱とが同化して自然に見えるように、柱に接する板を拭いたら、そのまま柱にはわせて、垂直にずり上げる。このとき、いりぬかの袋で研いてつやを出す。
この舞台拭きによって、舞台空間を身につける。三間四方の空間で、どう構えるのか、どの位置に居るのか、常に存在が問われる。これを、舞台を一所懸命に磨くなかで身に着ける。
能舞台で、物言わずまっすぐ立っている四本柱に囲まれると、四人の師匠に厳しいまなざしでにらまれている気分になり、体に緊張感が走る。
能役者は、日常を明るくすることで、舞台では逆に哀しみをただえる表現ができる。チャップリンとは真逆で、なるべく日々を明るく生きることによって、その裏が表現でき、深く演じることができる。
これについては、私も長い弁護士経験をふまえて、ぴったり実感にあいます。
著者は、若いころは芸の「重み」を重視していた。しかし、今では「軽み」を芸の目標としている。
「伝統」には、過去・現在・未来という時系列がある。そこに未来が入っていないときには、重厚ではないけれど、感動的な軽み、何かそこに魅力がある。
重苦しくなく、みている方に負担がなく、感動がある。こんなものが日本式「軽み」。
能についての偏見を改めようと思いました。
(2022年2月刊。税込3520円)

2022年6月17日

失敗から学ぶ登山術


(霧山昴)
著者 大武 仁 、 出版 ヤマケイ新書

私はいわゆる登山とは無縁ですが、年に何回か近くの小山(388メートル)に登ります。自宅を出て1時間半ほどで、見晴らしのいい頂上に着いて、そこでお弁当開きをし、しばしまどろんだりします。上空に鳥が飛び、小鳥がさえずり、蝶が花畑をゆらゆらと飛びまわり、遠くに見える下界で人がせわしなく行きかうのを眺めます。至福のひとときです。
それなりに急峻な斜面を登るのですが、以前のように一気に登ることはできなくなり、何回も小休止します。まあ、それでも、自分の足で登れるだけ、まだ良しとしています。まさしく年齢(とし)を実感させてくれるのが、山登りです。
若いころに日本アルプスの険しいロングコースを難なく縦走したことがあったとしても、それは何十年も前のこと。自分の現在の体力度・技術度をきちんと認識し、そのレベルにあった山選びを計画を立てることが安全につながる。
自分が備える技術力や体力を上回るグレードの登山コースを歩くと、滑落や転倒などのアクシデントにつながりやすい。
登山用具の使い方は、山行前にマスターし、用具に慣れておきたい。
私は、以前、久しぶりに山登りをしたとき、はいている登山靴の底が経年劣化ではがれてしまったことがあります。それからは、もったいないなどと思わずに、何年かおきに買い換えるようにしています。水泳のゴーグルも同じです。用具の経年劣化は人間の身体と同じように確実にやってくるのです。
今はスマホのGPSを利用するのは常識のようですが、スマホのバッテリーが切れてしまったらアウト、そんなことにならないように予備のバッテリーを準備しておく必要もあります。
登山中にエネルギー不足にならないよう、山行前日の食事では、エネルギー源となる糖質を多くふくんだご飯やパン、麺類などの主食をしっかり食べておくように注意されています。私も、ふだんはダイエットのため、糖質制限していますが、山の頂上では、昔ながらの酸っぱい梅干し入りのおにぎりを軽く2個食べます。
登りに1時間半、帰りに同じだけかけて午後3時すぎ、疲労困憊して自宅にたどり着き、さっとシャワーを浴びて、さっぱりします。
大自然の恵みをたっぷり堪能できるのが田舎の良さです。
道に迷ったら、沢にそって下ってはいけない。道を見失ったら、見通しのよい高みや屋根に上がるのが原則。沢へは下らない。高みに登り返す。これが登山道を見失ったときの原則。これを知っただけでも、990円の本書を読んだ甲斐があるというものです。
(2021年11月刊。税込990円)

2022年6月15日

人として教師として


(霧山昴)
著者 湯川 一俊 、 出版 東銀座出版社

団塊世代からのメッセージというのがサブタイトルの本なので、これは読まずばなるまいと思って手にとって読みはじめました。著者は、私とほとんど同じころに北海道で生まれました。最東端の根室市で、屯田兵の末裔(まつえい)とのこと。
小学校は1学年350人、全校2000人というマンモス校。私のほうは炭鉱の町で、小学校は1学年4クラスでした。私の中学校(今はありません。少子化で統合されました)は13クラスあり、運動場の一部を削ってプレハブの急造校舎がつくられました。
高校生のときに教師になることを決意したというから、偉いものです。私は、そのころは自分の将来に何の具体的イメージもありませんでした。
そして、著者は高校は演劇部と新聞局に入って活動しました。私は、高校のころは受験勉強を真面目にやり、生徒会活動にいそしんだほかは、3号で終わった同人誌をみんなで出したくらいです。生徒会に目ざめたのは1学年上の先輩たちにあこがれ、近づきたいと思ったことによります。
北海道学芸大学釧路校に入ってからは児童文学サークル「つくしの会」で活動し、また、自治会の役員にもなっています。私は、ひたすら川崎市古市場での学生セツルメント活動に埋没・没頭しました。
そして、著者は苦労の末に東京で本格的な教員生活をスタートさせます。1970年代の東京の小学校では、児童会の役員選挙のとき、立会演説会をやっていました。選挙公報をつくり、朝の教室まわりもやったのです。いやあ、いいことですよね。こうやってこそ、主権者としての自覚が高まります。
私も高校生のとき、生徒会長に立候補し、タスキをかけて付き添いと2人で全クラスを休み時間に訴えてまわりました。幸い当選しましたが、こうやって選挙を自分の体で実感したことは私の体に今も生きている気がします。
著者は、卒業式が終わったあと、教員で温泉に旅行に行ったというのですが、行った先はなんと奥鬼怒温泉の「八丁の湯」でした。私も川崎セツルメントの夏合宿で行ったことがあります。見晴らしのいい露天風呂がありました。
著者は小学校で理科を教えるとき、子どもたちに体験を通じての学習をすすめたとのこと。本当に大切なことです。たとえば、空気にも重さがあることを子どもたちに実感させるというのです。いやあ、これはすばらしい実験です。
著者は教職員組合の役員を長くつとめていますが、そのなかで大切にしたことは、仲間と会うとほっとする場、職場会を大切にする、心のよりどころをつくるということ。たしかにこれは必要不可欠ですよね。
私と同じ団塊世代が過去をふり返りつつ、今を元気いっぱいに生きている様子を知ると大いに励まされます。久しぶりに空気の入る、いい本でした。
(2022年4月刊。税込1800円)

2022年6月14日

日本の教育、どうしてこうなった?


(霧山昴)
著者 前川 喜平・児美川 孝一郎 、 出版 大月書店

前川喜平さん(文科省の元事務次官)は、経産省なんて日本に不要だ、ヒマなものだから教育分野にまで口を出してきて、日本の教育を歪めていると指摘しています。
うむむ、なーるほど、そういうことだったのかと思いました。アベ内閣では経産省があまりにも幅をきかせすぎていました。自由主義経済で企業が何でもやっているのだから、経産省は、何もやることがなくなっている。存在価値がなくなっているので、専門領域でもない教育の分野にまで口を出してきて、産業に奉仕する「人材」育成なんて間違った観念を押しつけている。まったくひどい話です。
そもそも人間って、目的に養成できるものなのか、前川さんは根本的な疑問を抱いています。
最近、福岡でも夜間中学がはじまりました。全国に夜間中学が36校あって、生徒数は2千人。1割は形ばかりの卒業者、そして8割は外国人。県と政令指定都市に最低1枚は夜間中学をつくろうと文科省は叫びかけている。いやあ、これはいいことだと思います。文科省もたまにはいいことをするのですね...。
不登校その他、中学校でちゃんと学んでいない人に普通教育を学び直す場として、夜間中学は大事なものだと前川さんは強調しています。まったく同感です。
学校を株式会社が設立・運営するなんてことはやめるべきだと前川さんは言います。公益性をもつ学校法人が学校を運営するという制度を崩してはいけない。まったく、そのとおりです。人間をつくるというのは商品生産とは、まったく違うものなんです。
日教組の組織率は下がっているし、文科省とは慣れあっている。まるで牙を抜かれたみたいになっている。残念ながら、これもそのとおりです。
学習指導要領の策定と教科書検定は、独立した機関が担うべき。そのとおりです。
学校現場はもっと自由でなければならない。ところが、文科省にとって日教組の弱体化が至上命題になってきた。これは本当におかしなことです。
教師はやらされる仕事が多すぎる。とくに書類づくり、教育の観点から意味のない文書作成が多うい。日本の教師は、授業をしている時間以外の勤務時間が諸外国に比べて圧倒的に長い。いやあ、気の毒なほどです。もちろん、そのしわよせは子どもたちにいきます。
学校が部活動で名をあげようとするのは、やめるべき。
教員に時間外手当を支払わなくてよいとした給特法は廃止すべきで、労働基準法をそのまま適用すべき。これには、まったく大賛成です。基本給の4%を一律に支給するなんて、そんなゴマカシは許せません。
教員志望者が激減している理由は、学校に自由がないことにある。やらされ仕事を減らすべき。25人学級を目ざして、ゆとりのある少人数学級にしたら、志望者は増えると思います。
日本の教育制度をふり返って、問題点を具体的に指摘している本です。広く読まれるべき本だと私は思いました。
(2021年1月刊。税込1600円)

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